早朝マラソン大会に向けて

花はす早朝マラソンに向けて

久々のマラソン記事になります。
いよいよ一週間後に迫ってきた南越前町花はす早朝マラソン大会
今年もこの暑い中10kmのレースに出場です。(来る7月23日(日)です!)

早朝マラソン、というだけあって一番早いスタートは2kmファミリーの親子走。
なんと6時30分! 早いです!
自分が走るラストプログラムの10km40歳以上でも7時15分です。

・・その割には参加通知書が届くのは遅いのにも慣れました。(笑)

hanahasutyo (2) 1週間前に届く参加通知葉書。

冒頭でも触れましたが、この暑い時期に敢えて走る意味は何・・?
「気が触れている」、と思われてみえる方々へ説明いたしたいと・・。

〇表側の立派な理由〇

暑い夏でも適度な練習をコツコツと続けること。(継続)
全国でもあまり例のないレースにすすんで挑む気持ちを持つこと。(挑戦)
夏の始まりを体で感じること。(体調管理)

我ながら素晴らしい・・。

●裏側の本当の理由● 

もう、気持ちよく言ってしまえば・・、

越前の城めぐり・ダムめぐりです!(きっぱり!)

まとめて正しく言い換えれば、それぞれの理由でもって相乗効果をもたらし、
よりマニアックに、よりマーベラスに仕上がっていく自分を感じる為でもあるのです!。
どうです?まったく伝わっていかないでしょう?

◎でも・・本当の本当の理由は・・◎

「自分に負けたくない!」
「好きなことに打ち込んでいきたい!」
そして、何より「楽しみたい!」、という気持ちなんです。

・・これなら、多少、伝わっていただけましたでしょうか?

hanahasutyo (1)今日も練習コースに迎えてくれるアゲハチョウ。


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尾張 色金山陣所 🏯長久手に現われた家康の「金扇」の馬印

尾張 色金山陣所 (愛知県愛知郡長久手町岩作色金・色金山) <国指定史跡>

前回の記事、長久手大草城の続編、という内容になりそうです。
色金山は長久手合戦において、徳川家康が最初に陣所としたことで有名です。
現在は「色金山歴史公園」として整備されています。

iroganeyama (8)櫓台風の展望台が戦いの雰囲気をかもしだしています。

実際にはここまでの規模の施設があったわけではありません。
しかし、この場所で最も重要な事は、敵部隊の背後・あるいは側面に鬼没できたこと。
そして岩崎城方面までの眺望ができ、主導権を握れること・・。

それだけでも敵部隊を混乱・驚愕させることができる絶好の位置といえます。

iroganeyama (7)
展望台からの長久手方面の眺望が優れています。

iroganeyama (10)展望台最上階より長久手合戦・主戦場を見渡せます。

写真の左側にあるポッコリした山が御旗山。(小さいですけど)
池田・森隊との激戦に先立って家康が本陣を移した山です。
立地条件的には同じ。詰将棋のように差配していきます。

iroganeyama (3)色金山の説明版。洒落た造りですね。

羽柴方による三河方面への別動隊の動きを察知した家康軍。
榊原康政・大須賀康高ら先遣隊とは別に本体を率いて追尾を開始します。
一旦、小幡城で状況を確認した家康は、あるタイミングを計っていたようです。

それは矢田川を渡り終えた羽柴方主力と総大将・三好秀次を捕捉することです。
徳川方先遣隊らが白山林で戦闘状態になった隙をついて矢田川沿いから南下。
羽柴方の背後ともいえる色金山・大草城方面に出現しました。

この陣取りこそがその後の合戦の趨勢を決定づけた、といってもよいでしょう。

iroganeyama (6)山頂には家康の腰掛石になったとされる床机石があります。

家康がこの山頂で刻一行と移り行く戦況をみていたんだ、と思うと
なんだかゾクゾクしてくる気分になりました。
まだ掴み得ぬ勝利への不安、期待、恐怖・・。入り混じっていたんだろうな・・。

そして方や・・。
この山の上に家康の馬印、「金扇」を確認した羽柴軍の反転隊諸氏の反応は・・?
次回はこれに先立って発生した「白山林の戦い」と小幡城の動きを予定してます。


東に1kmほどに長久手大草城があります。

尾張 長久手大草城 🏯長久手の辻を押さえる城

尾張 長久手大草城 (愛知県愛知郡長久手町熊張溝之杁・郷前)

尾張の大草城が3つ存在することは以前、小牧大草城の記事でふれました。
長久手大草城は瀬戸市と長久手町の境あたりに位置しています。
この間の街道を押さえるのに適した場所だと言えます。

n-ookusa (1)大草城の城山を東から眺めます。

15世紀後期から存在し、当地の土豪・福岡新助の居城とされます。
1579年以降、領主である森武蔵守長可によって改修され
天正12年(1584)、小牧、長久手の戦いで長可没後、廃城になったと伝わります。

美濃・兼山城の森長可の勢力がこの地まで及んでいたのか?、という疑問があります。
これがもし事実なら、三河への中入り作戦の主張、大いに筋が通るというもの。
しかし、実際にはあり得ない話だと思えます。

恐らくは、作戦に先立って、池田・森氏らの根回しに協力姿勢を示していた・・
・・そう、考えた方が自然だと思います。
またそこで反抗的態度を示したのが岩崎城の丹羽氏らだったのではないでしょうか。

n-ookusa (6)
主郭につながる鍵手状の道。

山は近年の造成や開墾などで形が変わっているようです。
どこからどこまでが遺構と見るかはなかなか判別しずらい所があります。
また、個人所有地の区画もありますので見学には注意が必要です。

n-ookusa (5)
頂上の熊野神社手前入口に置かれた城址石碑。

晴天の日中にも関わらず、結構暗い所にあります。
また夏はヤブ蚊がすぐ寄ってきますので、虫よけ対策は必要。
おかげで石碑の裏面をチェックし忘れましたわ・・。(今でも気になる・・)

n-ookusa (4)

n-ookusa (3)

神社周辺には明らかに堀の址や切岸の址も確認できます。
しかし明瞭な遺構はないようです。
城址碑のある西側の丘陵にかなり城址らしい遺構が見られる、との事ですが・・。

n-ookusa (2)
大草児童公園から登ったあたりの切岸と堀切の一部の様子。

やはり宅地造成などの影響を受け、遺構だと言い切れない感じはありますね。
面影を追う分には発想の自由でお任せしたい部分です。
くれぐれも許可なき宅地侵入だけはお控えください。

大草城は小牧・長久手合戦の際にどのような意思表明をしたのか・・。
羽柴方の池田・森らに従い、城と道を素通りさせたのか・・、
或いは彼らをあえて呼び込んだ後に家康に通報したものか・・、

徳川家康公が陣取った色金山は目と鼻の先にあります・・。
しかも大草城の正面に堂々と・・。
なんか匂いますね。(匂うんだよな~)

次回はその色金山をちょっと見学した様子を・・と、思っております。


見つけずらい場所ですので城址碑のある場所をポイントしておきます。

尾張 阿弥陀ヶ峯城 🏯小高き山の上で城址を偲ぶ

尾張 阿弥陀ヶ峰城 (愛知県瀬戸市志品野町2丁目)

今回は瀬戸市の阿弥陀ヶ峰城にやってまいりました。
梅雨も明けたのでしょうか・・。セミの声と共に夏の日差しがやってまいりました。
急激な気温の変化に体というものは即、対応できないものですね。

s-amidagane (1)
城址とされる金宝寺です。

双頭の鳳凰の壁画がお出迎え。
映画『火の鳥』を思い起こさせるのは私だけでしょうか?
♪You Carry Us On Your Silver WingsTo The Far Reaches Of The Universe(^^♪)
(歌ってたな~)

s-amidagane (5)
お堂のあるあたりが一段高く、本丸に相当したのでしょうか?

遺構は残っていませんが面影だけはとどめている感じです。
駐車場が二ノ丸みたいな感じです。
城址を示す説明版が設置されていました。

s-amidagane (3)城址の由来は説明版にお任せいたします。

永禄元年(1558)の織田信長による品野城攻めの付城、というのに注目です。
当時、今川方にあった品野城攻めに信長は竹村長方を大将として包囲攻撃させます。
信長は永禄3年(1561)に品野城を落としますので、その間付城として機能したと言えましょう。

s-amidagane (4)

本丸からは意外と眺望がききます。
尾張地方のランドマークが認識できることがわかります。
涼しい風が吹き抜け、汗が引いていく、手軽な城址体感でした。


金宝寺一帯が城址と伝わっています。案内看板があります。

美濃 和泉城 🏯どこにでもありそうな竹藪に城址石碑が

美濃 和泉城 (岐阜県安八郡神戸町和泉中大門) <町指定史跡>

梅雨時期の台風上陸+ゲリラ豪雨に竜巻・・。
こうなるともうレイン・コートだといえど役に立たず・・。
内側からは汗が吹き出し、これではサウナ・スーツと変わりありません。

こんな日はブログ記事を書いたりするのがお利口かもしれません。

前回同様、安八郡神戸町のお城めぐりを振り返ってみます。
神戸町には2つの平城が町史跡として登録してあります。
西保城から南東に約1km歩くと、和泉城があるのですが・・。

大体の位置しかわからず、話し込んでいた近所のマダムさんたちに伺ったところ・・。
「あ?・・なに?・・あの竹藪城を見に来たの?」と笑われる。
すぐそこだと指さされたその場所、まぎれもない竹藪でした。↓

izumik (3)なるほど・・、どこからどう見てもその辺の竹藪です。

しかし、城、という以上、なんらかの遺構が見られるのでは・・。
ドキドキしながら畦道から城址へと近づいていきます。
土塁かなっ?、それとも、横堀かなぁー!

izumikb.jpg
どっからみても竹藪。(北から見たバージョン)

izumik (2)おおっ!結構な石碑がいらっしゃいますね。

少し竹藪の中をのぞいてみましたが・・。
ホント、ただの竹藪のようです。それも間伐されていないので体を入れることもできません。
期待した土塁や堀なんかもあるのかないのか・・。(なさそうでした・・)

ある意味、「竹」、という鉄壁の防御力を誇る不輸・不入の権を主張する城址です。
それに待ち構える不気味な蜘蛛の巣集団・・。そして闇への入口・・。
敢えて足を踏み入れることはしないほうが・・。

このような和泉城ですが、(果たして城なのか?)
『新撰美濃志』には木村常陸介重茲(きむら しげこれ)の居城と伝えています。
木村重茲公をご存知、という方は、拍手を送りたいです。

木村重茲は千利休の弟子で、台子七人衆の1人でもあります。

天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉方として参戦、近江堂木山砦の守将を務めます。
天正13年(1585年)、秀吉より越前国府中(現福井県越前市)に12万石を与えられます。
このあたりの重茲公、新生大物ルーキーの匂いがいたします。

天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の先鋒を務め、武蔵岩槻城攻略で武功を挙げます。
奥州仕置では出羽国の検地を担当、葛西大崎一揆征伐においても活躍するのです。
まさに文武に優れた秀吉子飼いの武将、といってもいいでしょう。

しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことから、連座の罪で自害を命じられます。
秀次に連座して彼のような才能人や忠誠人を排除してしまったつけは大きかった・・。
やがてその豊臣政権の屋台骨を根底からグラグラにしていくのでした。


この地図では竹藪じゃない、城址碑のあるあたりをポイントしております。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、昨年4月6日に開設して以来、一年を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

夏の音
風鈴の音・・
花火の音・・
セミの声・・
雷鳴の音・・
蛙の鳴声・・
蚊の羽音・・(これは嫌)
氷の響音・・

どれもいとおしい夏の音。
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