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摂津 芥川山城 🏯三好長慶の栄光と暗転、義興の悲劇

摂津 芥川山城 (大阪府高槻市腹・三好山(城山))
<通りすがりの河内・摂津の城めぐり・その④>
三好孫次郎義興の旧蹟・芥川山城を訪ねて-

長かった梅雨もやっと・・、やっと開けて夏本番!・・しかし、
猛暑+コロナです。コロナも注意ですが熱中症も要注意です。
走った後はスポーツドリンクと水道水を1:1で合わせて飲んでいる久太郎です。

さて、通りすがりの河内の城めぐりも今回で通り越し摂津国へ。
三好一族の群像に主眼をおいて歩いてきました。
今回は三好長慶の嫡男・孫次郎義興の横顔を思い訪ねてみました。

atgj (1)
三好山を登山の途中道から望みます。(正面写真撮り忘れまして・・)

atgj (16)
麓の塚脇バス停には各説明版があり、ここから登ってみます。

atgj (17)
三好長慶は芥川山城を拠点として各地に出向いていきました。

atgj (22)城は能勢氏・細川氏時代を経て長慶の下で防御施設を拡張していきました。
(現地のイラスト鳥瞰図を転載させていただきます。)

atgj (15)
三好山まで40分、とありますが、道はなだらかで30分程です。

芥川山城は大きく3つのブロックから構成されています。
東曲輪群​と中央曲輪群、そして主郭のある西曲輪群となります。
時間の許せる限り速足ですが見学してみました。

atgj (2)東曲輪法面には大規模な竪土塁が落とされています。

現場には現在獣除けのフェンスが竪土塁状に設置されてます。
しかし、これがなんとなく当時の柵を思い起こさせます。
これでは斜面の横移動進入、完全にシャットアウトされそう・・。

atgj (3)
中央曲輪に続く堀切と土橋もよく残っています。

atgj (4)
しばらく進むと分岐点に小さな字城址碑が。ここを一旦下に降りてみます。

atgj (13)
横目に石垣が見えてきました。

atgj (21)中央部は崩れていますが大規模な石垣遺構があったようです。

芥川山城の大手通は本来この中央曲輪群の下から通っていたようです。
登城途中にこの石垣を仰ぎ見る者は威圧感を覚えたと思います。
こういった石垣虎口跡の構えは飯盛城の遺構とよく似ているなとも思いました。

中央曲輪群はまとまった広い曲輪と腰曲輪で構成されていました。
写真も幾つか撮ったのですが木々の茂みが邪魔してダメです・・。
あと季節がら蚊の大群に囲まれてあえなく退散してしまいました・・。

ここから最高所の西曲輪群へと向かいます。

atgj (11)こちらはキレイに整備がされている西曲輪群。

陽当たりもよく踏みあとと緑が目に優しかったです。
切岸の遺構が確認できて主郭部の全体像が掴みやすくなっていました。
地元の方々による整備の賜物かと思われます、感謝です。

atgj (12)

atgj (7)
広い頂上の曲輪には主郭御殿が設けられたようです。

本丸跡では高槻市教育委員会によって発掘調査が行われました。
礎石跡が検出され御殿的な施設が建設されていたのが確認できました。
軍事施設と共に住居空間も山頂に建設されていたんですね、進んでますね。

atgj (5)
三好長慶を祀っている頂上の祠。手を合わせ訪問できたことに感謝。

atgj (6)石碑、やっぱイイっすね~( ^ω^ )

atgj (9)
少し北には部分的にL字型に土塁囲みを備えた曲輪も。

atgj (8)北西尾根へと続く尾根にも堀切です。
この辺りの遺構は主郭部と同じように整備されてとても見学しやすかったです。

atgj (10)主郭からは大阪平野方面が見渡せます。

三好義興は父・長慶に劣らず智勇に優れた後継者でした。
将軍地蔵山の戦いでは六角氏との闘いで永原重澄らを討ちとる大勝利を収めます。
また摂津での教興寺の戦いでは戦死した叔父・実休の仇である畠山軍にも大勝します。

松永久秀らとのタッグも冴え渡り、三好政権を支えた諸武将たちにも信頼されました。
また豊かな教養人でもあり、将軍義輝や公家達からの信望も厚かったといいいます。
筑前守に叙任、御供衆となり名実共に長慶の後継者として皆に期待された若者でした。

しかし永禄6年(1563)6月に病に倒れてしまいます。
曲直瀬道三らの介抱を受けますが病状は悪化しここ芥川山城において死亡しました。
享年22歳で、『足利季世記』では死因を黄疸と伝えています。

長慶の悲しさいかばかりであったでしょう。
悲嘆にくれ心身にも異常をきたすようになったそうです。
翌永禄7年(1564)7月息子の後を追うように長慶も飯盛城で没しました。

長宗我部元親の嫡男・信親、毛利元就の嫡男・隆元・・などなど。
将来を渇望された世継ぎの早逝は大名に限らず痛ましいですね。
時にその無力感は家の運命を大きく狂わす一因にもなっていきます。

器量人だったプリンス義興の死が三好政権の暗転を決定づけた、といえないでしょうか。



ちなみにですが・・。

同じ高槻市殿町周辺にも「芥川城」と呼称された城址があります。

atgj (20) atgj (19)
どこだ?どこなんだ??、うろつき回って探しまわって、やっと見つけました。

atgj (18)わからんかったがや(*`皿´*)ノ、でも嬉しい探索でした(#^.^#)。

芥川城は芥川氏によって築城されたともされています。
しかしいつごろ築城されたのかは明確に解っていません。
芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていた時もあったようです。

しかしながら遺構は殆ど残っておらず石碑と小さな祠が残るのみです。

今回の記事のお・ま・けです・・(*’U`*)。
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河内 飯盛城 🏯三好長慶公の銅像とその居城へ

河内 飯盛城 (大阪府四條畷市南野・大東市北条・飯盛山)
<通りすがりの河内の城めぐり・その③>
三好長慶の旧蹟・飯盛城を訪ねて-

ブログの定期的な更新ってなかなかできないものです(^_^;)。
ブランクが空けば空くほど頭脳と筆(指)が重たくなっていき億劫に・・。
・・といいますか、コロナと長雨で城に行けない日々が続いております。

はっきり言ってこれってかなり憂鬱な生活です。
自分を見失いそうです。(大袈裟ですが)
皆さんはどのようにお過ごしなんでしょうか??

・・さて、

先日NHKの番組「歴史悲話ヒストリア」で三好長慶公が取り上げられました。
なかなか興味深い人物と取り上げるな・・という思いで楽しみに拝見。
「信長より20年早かった男 最初の「天下人」三好長慶」というテーマでした。

ご覧になった方も沢山見えると思います。
ここでいう「天下」とはもちろん「日本全国」ではなく「畿内一円」という意味。
京都や幕府等が影響を及ぼす地帯に一時的にせよ政権を打ち立てました。

折しも丁度この初夏に長慶公の居城であった飯盛城に行ってきました。
「城址に立てば何かが感じ取れる」かな?
三好政権や当時の畿内情勢は不勉強で詳しくありませんけどお許しを・・。

kwtimyj (1)先ずは三好長慶公にご挨拶といきましょう( ̄^ ̄)ゞ。

長慶公の銅像は大東市の市役所の正面玄関脇にお見えです。
手にされているのは馬の鞭でしょうか。
刀や槍、軍配といった武将像が多い中、ちょっと個性的です。

kwtimyj (2)
車で大東市青少年野外研修センターまで行けます。駐車料金は200円でした。

kwtimyj (22)
続日本100名城に選ばれたとあって盛り上がっていました。

kwtimyj (21)
駐車場受付にて各パンフレットや縄張り図面、名城スタンプなどいただけます。

飯盛城はとても範囲が広い城です。
縄張り図面には見所や説明文が詳しく示されていて重宝しました。
特に見落としがちな石垣箇所も網羅されていてテンション上がりました。

kwtimj (31)
桜池からスタートして散策開始です。

高い山上にこれだけ綺麗なため池があることに驚きました。
この他にも大東市内には沢山のため池が存在します。
古くから農業用として恵みを育んでくれる貴重な生態保全資源ともいえましょう。

kwtimyj (19)
立ち去りがたいほど美しい池でした。でも城目当てだから行かないと・・。

kwtimj (30)
尾根沿いに歩くと南虎口が見えてきました。

kwtimj (29)
両脇は石垣で固められていたようで堅固そう。

kwtimj (26)
南郭・千畳敷曲輪へと登って行きます。

現在ピーク部にはFM送信塔が立ちますが、城中で最も広い曲輪だと思われます。
恐らくここに居館等の生活施設が設けられていたようです。
宣教師の書簡にある「城内にあったとされる教会」もここにあったのでしょうか。

kwtimj (35)主郭南側のS字状土橋です。

主郭曲輪部と千畳敷曲輪部の間には堀切と土橋で遮断しています。
この土橋はS字型に湾曲させて直通できないような仕組みになっていますね。
またここから主郭部へは急勾配となり防御性がとても高く感じられます。

土橋は幅も狭く曲がっている上に両脇の堀底も深い・・、からの急勾配。
なんともアスレチックな綱渡りのような面白さがありました。
ご一緒になったご年配夫婦が息切らしながら登ってみえたのも印象的でした。

kwtimyj (3)
主郭の高櫓郭へ。ここには楠木正行公の銅像が立ちます。

四條畷の戦いで戦死した楠木正行。まだ22歳だったそうで。
その勇敢な顔立ちを近くで見たくとも台座が高すぎて見上げることしかできません。
ならば遠くから望遠でと思ったら木が茂ってて隠れてしまう・・。諦めも肝心。

kwtimyj (16)飯盛城の石碑はここにありました(^-^)/。

kwtimyj (23)展望台には三好長慶公と飯盛城、「天下人の城」との威容を誇ります。

kwtimj (14)こ、こんなに見えるもの(;゜0゜)?河内平野から京都まで丸見えです。

写真の景色は北の御体塚曲輪からの眺望ですが素晴しいです。
快晴の日には四国や淡路島まで見えるそうでまさに三好王国にふさわしい眺望。
そのパノラマは実に270度、遮るもののない世界が広がっていきます。

長慶が芥川山城からここ飯盛山城に居城を移した理由の一つがわかります。

・・さて、飯盛城の見所の一つは何と言っても部分的に多用された石垣でしょう。
城中の至る場所にしっかりと残っているので発見するのがとても楽しいです。
自分の印象に残った石垣をあげてみたいと思います。

積み方の手法も様々で興味深いものがあります。

kwtimyj (6)本格東側の石垣です。割石をキレイに並べていて新しめの印象です。

kwtimyj (7)
御体塚曲輪の入口付近の石垣です。

kwtimj (8)角を落とした丸石を多用して積み上げられています。
心もとない中もに絶妙なバランスを感じます。

kwtimj (18)こちらも御体塚曲輪の入口付近の石垣。たぶん・・、興奮しすぎて覚えが曖昧です。

kwtimj (20)
横から見るとほぼ垂直に横長に積み上げられています。

石垣自体は簡単な積み上げ方ですので高石垣は望めません。
4段~6、7段が限界なのでしょう。適度に野暮ったい感じがグッときます。
このあたりに近世石垣城郭への最終過程がみられて面白いです。

他にも随所に見られる石垣ですが、結構険しい場所にあったりもします。
東尾根側面の石垣も凄かったのですが現在立ち入り危険区域となっています。
よってお写真は掲載遠慮してきますね・・。

石垣は大坂平野のある西側ではない反対の東側に多くみられるのも注目です。

kwtimj (23)
御体塚曲輪へと続く尾根曲輪を歩いていきます。

一直線に続く踏みあとがなんとなく城跡に似つかわしくなくていい感じ(笑)。
この日は多くのハイカーの方もお会いしました。
いつも手軽に歩ける山、でもある飯盛山なのでしょう。

kwtimj (11)北側の要的な大堀切。岩盤ごと尾根を断ち切っている様子が圧巻です。

kwtimyj (13)
北方尾根先端部からの眺望も素晴らしい。

こちらには木製のテーブルや丸太椅子などもあります。
麓の景色を楽しみながらお弁当を食べるのにうってつけ。
自分もここでコンビニおにぎりとお茶休憩をとりましたが気分最高でした。

kwtimyj (11)
こちらにも「飯盛山史蹟」の石碑があります。大正時代からのものです。

kwtimyj (18)
今ではなかなか見られなくなった昆虫との出逢いも。

ミドリカミキリ、美しいメタリックグリーンは宝石のよう。
後ろ足がなが~いのも特徴の一つ。
自分が近づいてもとってもリラックスしてました。

kwtimyj (24)
地元ファンは尊敬と親しみを込めて長慶を「ちょうけい」と有職読みで呼ぶとか。

永禄年間初期における長慶の勢力圏は広大でした。
摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨に及んでいました。
そこに河内と大和も領国化して10カ国に増大し更に周辺国にも影響を与えました。

その支配力に相応しい三好長慶公の城郭を噛み締めて歩いてきました。



河内 若江城 🏯戦国河内、幾多の攻防と盛衰物語の舞台

河内 若江城 (大阪府東大阪市若江南町二丁目一帯)
<通りすがりの河内の城めぐり・その②>
三好義継の旧蹟・若江城を訪ねて-

通りすがりの河内の城めぐり第2回目です。
なんせ通りすがりですので内容の薄さは自信あり、です。
それでも記事にしてしまおう、という無理矢理感。

何がそうさせるのか、これはもう悪いクセとしか言えません・・。

さて今回は河内の若江城を通りすがってきました。
若江城も戦国末期には三好氏と縁深い領国経営の要となった城です。
畠山氏と守護代遊佐氏、からの三好長慶、義賢、康長、義継、三好三人衆・・。

そうそうたる歴代城主と関連人物の多さがその重要性を物語っています。
義就と政長による畠山氏の内訌は応仁の乱へと発展し、若江城も争奪の的となります。
若江城と高屋城、これに飯盛城を加えた3城抜きに戦国河内は語れないのです。

kwtwkej (4)若江小学校東側に立つ城址碑には立派な石碑があります。

若江城は現在の若江公民館分館を中心とする一帯に築かれていました。
現在は宅地化のため地表面の遺構は確認できません。
こうなると石碑や案内板などの表示は大変ありがたいものですね。

発掘調査によって三重の外堀や土塁、建物跡、井戸などが検出されました。
また瓦、土器、武器などの生活用品も多数出土したといいます。
勿論これは畠山・三好時代から信長の再整備による遺物も含まれてることでしょう。

kwtwkej (3)
『信長公記』には義継による「天主」存在も表現されていますが果たしてあったのかな?

kwtwkej (5)
道路を挟んだ公民館にも案内板と石碑が見えますよ。

kwtwkej (6)公民館前に案内板、県道南側にも石碑が建てられています。

若江城は川に挟まれたデルタ地帯にあり度々水害に見舞われました。
その度に川浚いや堤防の建造が繰り返し行われたそうです。
発掘調査からも水害によって城下町が押し流されたこともわかってきました。

kwtwkej (1)
老人遺構いの家の横にも石碑があります。

三好長慶の弟、十河一存の嫡男として生まれた義継。
父・実休を13歳で失い、早逝した長慶の嫡男・義興に代わって宗家に入ります。
一存の一人息子であるにも関わらずどうして宗家の養子に迎えられたのか?

どうも単に母の家の出所が関係してるようです。
将軍家と公家同士における対立関係が義継を当主へと押し上げたとみられます。
別段、器量を見込まれた訳ではなさそうです。・・かな?

kwtwkej (2)こちらはひっそりとした「若江城」の石碑。何かしっくり感じる・・。

永禄11年(1568)織田信長により若江城に三好義継、高屋城に畠山昭高が置かれました。
しかし天正元年(1573)三好義継織田信長の怒りをかい、佐久間信盛に攻められます。
追放された足利義昭を若江において庇護したため、というのがその理由です。

でもこれって実際は信長の当初からの計画だったのでしょう。
いずれかのタイミングで難を被る運命にあったと思われます。
若江城は落城し義継は自刃して果てました。

義継にせよ三好長治にせよ従来は「お飾り」から脱却できなかった暗愚なイメージです。
確かに歴史の中では脇役の脇役かもしれません。
しかし偉大な父と比べてしまうと「本当の評価」はできなくなってしまいます。

『信長公記』では義継の最後の戦いぶりを「比類なし」という評価しています。
かつて畿内を制した名門に恥じない戦い振りだったのでしょう。
これまでの凡愚な後継者と伝えられている一面も見直していきたいものです。


河内 高屋城 🏯通りすがりの高屋城めぐり

河内 高屋城 (大阪府羽曳野市古市・城山)
<通りすがりの河内の城めぐり・その①>
三好咲岩康長・畠山昭高の旧蹟を訪ねて-

コロナになっても「お城の趣味」は相変わらずです。
日課のジョギングも雨の止み間を狙って走っています。
ぶれない毎日をいつも通りに送れることは幸せなのでしょう。

しかし生活や仕事はやはり多少どころかだいぶ変化しました。

仕事はコロナの影響を少なからず、・・いえ悲しいほど受けております(ノ_<)。
子息達も学校が一時閉鎖になりオンライン講義になりました。
我が家で言えば長男・次男はパソコンがあれば講義を受けられるのです。

京都にいる長男も下宿先から落ち着くまで我が家に帰ってくることになりました。

長男:「(電話にて)お父さん、俺しばらくそっちに帰るわ」
自分:「そっか、そっか、迎えにいってやろうか?」
長男:「いいよ、高速バスで帰るから」
自分:「そんなこと言わずに迎えにくらいいくぜ!」
長男:「ホントにいいってば、・・あ、どっか行きたい城でもあるんだね?」
自分:「・・君も大人になったようだな」

・・という訳で奥方にも大義名分を得て「翼」となって関西方面へ。
目指すは三好一族の城めぐり、と相成りました。
今年最初の阿波の城めぐりに続く「三好氏」関連の城めぐりです。

まず最初に訪れたのは三好康長らのいた高屋城でした。

kwttkyj (9)
高屋城は安閑天皇陵を本丸とした平山城です。

付近は駐車する場所もなく交通量もかなりある所。
見るからに怪しい動きの岐阜ナンバー車。
県またぎ移動が解除されたといってもやはり視線は気になります。

高屋城は城山と呼ばれる台地の上に築かれていました。
地形や構造はなんとか雰囲気から感じとれるのですが・・。
天皇陵の周囲以外はかなり市街地化してしまいました。

kwttkyj (1)
高屋城の案内板は「城山姥不動明王」に設置されていました。

kwttkyj (2)
安閑天皇陵を本丸として南へ二ノ丸、三ノ丸と連なる広大な城域だったようです。

kwttkyj (3)応仁の乱終結後、畠山義就によって築かれたと言われています。

永禄3年(1560)には三好長慶が飯盛山城、弟の三好実休が高屋城に入りました。
この時点では三好氏の河内統治体制が確立した時期でもありました。
しかし、実休は2年後に和泉久米田の戦いで戦死してしまいます。

跡を継いだ長治はまだ幼少だったため、三好康長ら諸将が集団で統治します。
やがては三好三人衆方の城として機能するようになりました。
それも織田信長の上洛によって没落していきました。

その後、信長に北河内を与えられた畠山昭高が高屋城主となります。
しかし昭高は重臣の遊佐信教によって討たれてしまいます。
遊佐信教三好康長が共同で信長と対抗しましたが天正3年(1575)落城しました。

以上かなり簡略化した説明になります。

kwttkyj (4)ここっ、これはかなり難易度の高い城址碑収めです(゚△゚;ノ)。

石柵ギリギリに立っているので覗き込まないと見えません。
あと、広角レンズじゃないと恐らく収まりきらないでしょう。
明らかな挙動不審の末に収めた一枚です。(この達成感~( ̄▽ ̄);)

kwttkyj (5)
正面から覗くとこうなります。「址」の字がやはり欠ける、う~んダメダメ!

kwttkyj (6)
城山姥不動明王付近は二の丸の北部ということになります。

kwttkyj (8) kwttkyj (7)
安閑天皇陵付近の堀址が残っていて当時を偲べます。

遠い阿波の岩倉城から畿内のこんなところまで出張していた三好咲岩康長
膨れ上がった三好氏所領の重要拠点だった高屋城に要れ置かれました。
三好氏家中において最も存在力のあった一門衆の一人でした。

その中にあって台頭する信長・秀吉ともパイプを築き徐々に「三好離れ」していく姿。
咲岩公、静かな頭角を隠し持った人物ではなかったか、自分にはそう感じます。


美濃 明智陣屋敷 🏯城郭類似遺構との判断の分かれ目とは

美濃 明智陣屋敷 (岐阜県恵那市明智町野志・陣屋敷)

ここ何年?「梅雨」のイメージは毎年ごとに変わっています。
集中豪雨に長雨、そして「防災」という心構えが必要になってきました。
かつて「災害は忘れた頃にやってくる」、といったものでしたが・・。

「止まない雨はない」、「日はまた昇る」・・。
それが一体いつのことになるのかとしても、
いつかは降り止むその雨がやがて「恵み」となってくれる、そう祈るばかりです。

さて、明智町の陣屋敷を見学させていただきました。
「陣屋敷」といっても平地に構えられた遺構ではありません。
野志集落に向かってV字型に分かれた2本の尾根上にあります。

ajin (23)陣屋敷を東から眺めます。尾根が2本突き出しています。

前回の中切のお城と同様、県の調査書では「城郭類似遺構」に挙げられています。
『明智町誌』には城郭関連地名として「陣屋敷」の記載があります。
しかし、城主や来歴など伝わる口伝もほとんどない、ちょっと謎めいた遺構といえます。

ajin (3)
先ずは①の尾根から。背後は切通し林道が通っています。

もしこの切通しに堀切があったものなら城郭としてみてもよさそうです。
しかし道路に面した法面自体も削られているようですので何とも判断できません。
ただ、見学するにはとても便利な道なので道路脇に路駐して散策できます。

ajin (15)
長い曲輪から北虎口へと至ります。

写真ではよくわからないのですが、中央部から斜上にスロープ状の坂虎口となります。
明智町付近の城砦陣は全体的にこのスロープ状の坂虎口が多用されています。
築城に際しての一つの共通点があるようにも見受けられます。

もちろん、後世、利用道として改変された可能性もあげられます。
スロープは意図的に屈折させているようです。(下に図面を掲載しました)
こうしたちょっとした小技に小さいながらも規模相当の仕掛けを感じます。

ajin (7)
尾根最頂部の主郭部もよく整地されています。

ajin (4)イベントの名残りかと思われますが標柱も立っていました。

これは仲深山砦にもあったものと同様の立て看板なので、
なにかラリー形式のオリエンテーリングなどの催事があったのでしょうね。
皆さんに広く認知されたイベントとなったならば良かったと思います。

ajin (16)
周囲には腰曲輪が設けられています。結構明確です。

ajin (13)尾根の南には堀切と土橋からの坂虎口が確認できます。

撮影している足元は若干の土塁状になっており、
ここが遮断線であることが理解できます。
堀切は両袖に落ち竪堀となっています。

続いて②の尾根に向かいました。
こちらは細尾根上に土塁と武者走りを設けたごく簡単な縄張りです。
①の尾根の北側を守るような土塁主体の防塁曲輪のようにも感じました。

ajin (18)
②の尾根は南端部の長さ10メートル以上の土橋が見所です。

幅が1メートルに満たない人一人が通れる馬の背土橋です。
当時からの遺構なのか後世ものかは不明です。
しかし尾根の通行に規制をかけるのであれば堀切よりも有効かもしれません。

目隠して渡り切る自信はありません。(-_-;)

ajin (20)
②の尾根からは明知城に延びる街道が見えました。

陣屋敷は明知城から見て北に2500メートルに位置しています。
また鶴岡山砦とは東西に1500メートル、釜屋城からは南北に1000メートル、
また山岡城砦群を経て岩村城にも至る主要道を押さえています。

aktjiysk.jpg

陣屋敷は主要城砦間の中継地点にあたる絶好の位置にあたります。
特に北の釜屋城とはお互いの後背を補い合うような存在と思われ、
現在でも山中に両城砦間での連絡道が確認できます。

現時点では「城郭類似遺構」として振り分けられた陣屋敷。
遺構の連動性やその立地条件を検討する限りでは城郭遺構かと思われます。
周辺地域への通行監視と中継を重視した番所的な存在だったかと想像できましょう。

しかし、大軍を置くには狭小過ぎます。
「陣屋敷」の地名はその名が示す通り、
永続的な施設ではない一時的な陣営地だったのかもしれません。


プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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