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尾張 岩作城 🏯岩崎城攻防戦に散った、郷士今井氏の城

尾張 岩作城 (愛知県長久手市岩作城の内)

檜の露天風呂温泉にゆっくり浸かりたいな・・、などと思う秋になりました。
しかしながらお父さんのお小遣いでは入浴剤でも贅沢といったところです。
真っ暗にした浴室に炭酸入浴剤を投入、虫の音を聴きながら目を閉じれば・・。

もうそこは温泉です。(お疲れなんです)

・・とまぁ、人生とはちょっとした変態行動で結構満喫できるものですね。
城めぐりとマラソン大会の予算を捻出するためには日々の努力は惜しみません!
それどころか逆にそれを愉しめる術を知った昨今の久太郎でございます。

さて、長久手合戦尾の折、岩崎城にて奮戦の末、討ち死にを遂げた200余名の城兵たち。
その中には丹羽氏重ら丹羽一族の他に近隣の城主クラスたちもいました。
前回は長久手城城主の加藤太郎右衛門忠景でしたが、今回は岩作城主の今井氏です。

yazakoj (2)
岩作城は長久手市市役所付近一帯にありました。

長久手の戦いで城主・今井四郎兵衛(伝えに或いは今井五郎太夫)は徳川方に加わります。
長久手城主の加藤氏らと共に岩崎城の攻防戦に駆けつけ参軍。
羽柴方武将・池田恒興の攻城に立ち向かい丹羽氏重らと共に討ち死にを遂げました。

yazakoj (6)市役所の交差点付近にある石碑。

とてもどっしりとした存在感ある石碑です。
以前は交差点南西に城の南面にあたる土塁が20メートルほど残存していたようです。
が、それも消滅してしまいました。

昭和60年・平成10年の発掘調査では城館に伴う堀・土塁・虎口の存在が判明しました。
また、当時の武家に珍重された茶道具の天目茶碗なども多く出土しました。
城主の今井氏は深い文化人であったことも想像されますね。

ここ岩作城は当時の長久手中心部に位置し、家康の陣した色金山の麓にあたります。
長久手の戦い決戦地や白山林、檜ヶ根にも近く、戦火に巻き込まれた可能性はあります。
付近には戦死者を弔った「首塚」もあります。

首塚 (長久手市岩作元門) 《国指定史跡》

岩作村安昌寺の雲山和尚が合戦による戦死者を集めて築いた塚です。
両軍の戦死者の数はおびただしく、惨状は目を覆うものだったそうです。
戦いに勝った徳川勢にもかなりの戦死者があったものと見られます。

yazakotuka (1)毎年、合戦の日には香華が手向けられています。

yazakotuka (3)長久手合戦において敵味方隔てなく弔った塚に瞑目・合掌。

盛夏にも関わらず、新しい献花が捧げられていました。
地元の方たちによりとても大切に供養されています。
自分もこの合戦記事を取り上げる者として両手を合わせ深く合掌いたしました。


レ点は岩作城の城址石碑を示します。
Ⓖは首塚の位置を示します。
首塚は周辺の道幅が狭いので市役所に駐車して徒歩で移動したほうがいいと思います。

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尾張 長久手城 🏯丹羽氏重と運命を共にした忠景

尾張 長久手城 (愛知県長久手市長湫城屋敷) <市指定史跡>

「風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなく」。
中島みゆきさんの『地上の星』が胸にしみる初秋になりました。
城跡や古戦場を訪れると、名もなき戦士たちの働きに想いをよせることがありますね。

長久手合戦尾の折、岩崎城にて奮戦の末、討ち死にを遂げた200余名の城兵たち。
その中には丹羽氏重ら丹羽一族の他に近隣の城主クラスたちもいました。
長久手城城主の加藤太郎右衛門忠景もその中の一人です。

nagakute (1)
徳川方の丹羽氏についた加藤太郎右衛門忠景の館城趾です。

nagakute (2)岩崎城主・丹羽氏次とは婚姻を結んでおり義兄弟の間柄でした。

nagakute (3)
観音堂脇に加藤氏ご子孫の尾張藩士が立てた石碑があります。

nagakute (4)土台の巨石も美しい立派な石碑板です。

表面があまりにもピカピカに磨かれています。
・・なので、撮影する自分の姿が映り込まないようにするのが大変でした(;^ω^)。
このような石碑は裏面にも説明書きが彫られているのが定番ですね。

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加藤太郎右衛門忠景の宅址の石碑もあります。

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周囲より一段高くなっている様子です。

幅3~6メートル、深さ最大で約7メートルの堀を挟み東と西に曲輪がありました。
2つの曲輪を中心とした連郭式の城郭であったことがわかっています。
周囲を歩くと台地上尾根のピークにあったことが理解できます。

とはいっても周囲は土地改変が著しく、すっかり住宅地となっています。
全く消滅してしまった城址ですが、周囲には合戦にまつわる史跡が多いです。
それらも少し紹介してみたいと思います。

鎧掛けの松

長久手城の近くにはかつて池があったそうです。
この池で刀や槍先を洗った際に小休止をとりました。
その際、兵士らがここに鎧をかけたとされる松があったそうです。

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ちゃんと石碑と説明版も立っていました。

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血の池公園

家康方の武将、渡辺半蔵守綱らは合戦の折、この池で槍先や刀剣を洗ったそうです。
このことから池の名はいつしか「血の池」と呼ばれるようになりました。
ネーミングからして生々しいのですが、意外や明るい雰囲気のきれいな公園でした。

nagakuteti (5)
「ちょっと血の池公園で遊んでくるわ!」・・と近所の住民には親しまれているのでしょう。

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毎年合戦のあった時期になると、池の色が赤く血の色に染まったそうです。

・・怖わ!(゚△゚;ノ)ノ

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かつて池があったような窪地に公園があります。全然怖くない公園でした(;^ω^)。

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今回、徒歩による散策にあたって利用した「せせらぎの径」。

歩行者専用の遊歩道で、脇に水流が流れ、とても気持ちが良かったです。
所々に休憩できるスポットもあり、まったりしながら歩くのもオツなものです。
自分はここ「走りたいな~」なんて思ってしまいました。

nagakute (9)
散策にもってこいの「せせらぎの径」、おススメです!

長久手一帯の城主たちが巻き込まれた長久手合戦。
今回取り上げたのは長久手城主・加藤太郎右衛門忠景でした。
次回はいま一人の岩作城主・今井氏の城址を訪ねます。


レ点は長久手城城址石碑のある長久手観音堂です。
Ⓢは鎧掛け松の位置を、Ⓖは血の池公園の位置を示します。
自分は古戦場公園駐車場からせせらぎの径を通って徒歩散策しました。

尾張 御旗山 🏯頂上に輝く金扇の馬印

尾張 御旗山 (愛知県長久手市富士浦・富士ヶ根) 《国指定史跡》

10月に入ってからも30度越えをしていた我が町にもようやく秋が訪れました。
秋は実りの季節、私たちに豊かな恵みをもたらしてくれます。
そして、なんといっても山城見学到来の季節でもあります。

この時期(10月初旬)に山へ登るとまだまだ夏の名残りを感じます。
越冬の準備をしている虫もいれば、まさに今日限りで命を終えようとする虫も。
私たちもその命の営みの中にいます。愉しまねばなりません。

さて、前回は小牧長久手合戦の一幕、檜ヶ根の戦いに触れてみました。
白山林より南下した徳川先遣隊の追撃を見事に撃退した堀久太郎秀政でした。
しかし、その直後、秀政が見たもの・・。

それは色金山から富士ヶ根に押し出してきた徳川家康の「金扇の馬印」でした。
(色金山陣所へリンクできます)

hinoki (7)
檜ヶ根より見る富士ヶ根こと、御旗山。

檜ヶ根で自軍先遣隊の大須賀・榊原隊が秀吉方の堀秀政に撃退される、
その報告を色金山陣所で知った家康は直ちに救援に向かいます。
岩崎方面の秀吉方池田・森隊を警戒しながらの行軍です。

mihata (5)
現在は富士浅間神社が祀られている富士ヶ根。

mihata (3)
頂上には石碑と説明版があります。

mihata (2)

mihata (1)山頂拝殿の前の御旗山石柱。

眼前に現れた敵の総大将、徳川家康
これを打ち破れば間違いなく武功第一です。
しかし、秀政は秀次を伴い戦場から離脱することを選びます。

檜が根にて乾坤一擲の戦いを経て兵が疲弊している事。
家康本隊以外の後詰め別部隊を警戒した事。
打ち破った大須賀・榊原隊が家康本隊に合流して手の内が読まれている事。
白山林よりの敗走で士気が大いに衰えている三好勢が当てにならない事。
敵が山上の有利な高所を占している事。
そしてなにより、相手がかの徳川家康本人である、という事・・。

mihata (4)
御旗山から望む長久手古戦場方面。

戦いにおいて「士気」が最も大切な事だと理解していた堀秀政は撤退を決断します。
しかし、堀・三好隊がここに踏みとどまらなかった結果、池田・森隊は敵中に孤立。
これを受け、徳川軍は高所群に陣を敷き、北上する池田・森隊を待ち構えました。

秀政の頭の中では様々な思考が分析されていたと想像します。

この状況下で池田・森隊の合流要請を受けたらどうなるか?
かといって戦場の隅で牽制する消極的行動に意味はあるのか?
木下一族が命を賭して守った総大将・秀次を無事に楽田まで返すのも役目・・。

総大将が機能していない状況下での判断は各将に任せられることになります。
軍監としての立場の堀秀政、先駆けとしての立場の池田恒興・森長可
それぞれに為すべき役割があり、それぞれに果たすべき行動があったまでのこと。

この後、予測もつかない展開になろうとは両軍に当てはまっていたはずです。


レ点は御旗山がある富士浅間神社です。付近に駐車場がないです。
基本的に長久手古戦場公園を起点に徒歩かサイクル散策が最もおススメです。
いろいろゆっくり見学できて見所満載です。

小牧長久手の戦い 檜ヶ根の戦い古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その⑤ 檜ヶ根の戦い古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

日中はまだまだ暑いですが、朝夕はずいぶん涼しくなってきましたね。
夕方の5時半くらいから40分程度のジョギングをしています。(相変わらずマイペースに)
出発時は夕暮れですがに帰宅する頃はもうすっかり夕闇です。

そしてかすかに香るキンモクセイ(クンクン)に・・秋の到来を感じます。

「夏の自由研究!」と豪語していた小牧長久手古戦場めぐりもすっかりおざなりに。
なかなか予定通りに行かないのが人生です(言い訳まみれの我が人生)。
そしてこの長久手付近でも予定通りに運ばない事態が発生していました。

今回は白山林の戦に次ぐ檜ヶ根の戦の古戦場めぐりをしてきました。

hinoki (2)
現在は長久手市中央図書館と公園になっている桧ヶ根公園。

白山林一帯よりどうにか後退できた三好秀次
軍監・堀秀政は、秀次勢の苦境を知り直ちに北に引き返します。
徳川軍は北に敗走する羽柴軍を無視して、南下を開始しました。

hinikigane.jpg
公園内には堀久太郎本陣跡地があります。

秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根まで押し寄せます。
堀勢は、秀次勢の敗残兵を組み込み、檜ヶ根の丘陵上に陣を構えました。
ここで静かに迫り来る徳川軍を待ち構えます。

hinoki (5)秀政の布陣場所は徳川軍による追撃・逆包囲を妨げる絶好の地でした。

徳川軍が尾根と尾根の間に差し掛かったまさにその時でした。
地の利を得た堀秀政は高ヶ根と檜ヶ根から徳川軍に十字砲火を浴びせます。
ここで大須賀隊らは撃退され、続く榊原隊も敗走せざるを得ませんでした。

hinoki (6)名人・久太郎の冴え渡る采配が下されました。

至近距離からの鉄砲つるべ打ちと弓矢による中距離同時攻撃。
間隙、一同に怯んだ徳川勢に槍隊・抜刀隊による総攻撃を命じます。
この攻撃で徳川軍は多数の死者を出し、大打撃を受けました。

軍監(戦目付)として「為すべきことを為す」。
一矢を報いる、というよりも徳川軍に動揺を与えて作戦阻止に追い込む事、
そして追撃を加えつつ自軍の退路を確保するのが狙いだったのでしょう。

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檜が根から見渡す戦場跡。右方向に御旗山を確認できます。

しかし、秀政はその後ろに現われた家康本隊を富士ヶ根・御旗山に確認するのです。

勝ちに乗じて家康に勝負を挑むのか・・。
池田・森隊と合流して決戦に備えるのか ・・。
自軍の損害状況を解析すれば、それとも・・。

この刹那、名人は迷人、あらゆる選択から即座に決断せねばならね状況にありました。

現在公園は広々として家族連れやスポーツの運動場として賑わっていました。
かつての古戦場の雰囲気は微塵も感じられない憩いの場となっています。
こちらでは秀政のつとめて冷静でかつ果断な采配振りを偲ぶことができそうです。


桧ヶ根公園一帯が戦場跡で、園内には堀秀政本陣跡石碑・説明版が立ちます。

摂津 有岡城(伊丹城) 🏯荒木村重の摂津経営拠点

摂津 有岡城(伊丹城) (兵庫県伊丹市伊丹2) 《国指定史跡》

摂津の城めぐり、切り上げ所がつかめず、ズルズルとここまできてしまいました。
どの城址もその面影や残し方に特徴があり、訪問先での発見が楽しいです。
今回は荒木村重黒田官兵衛にゆかりのある有岡城を散歩してきました。

今回の摂津の城、先に滝山城、花隈城、兵庫城、尼崎城等を紹介しております。
どの城址もほぼ駅から近い位置にあるので鉄道周りでも面白そうです。
有岡城も伊丹駅の真正面ですのでアクセスはとても便利です。

駅の構内の観光案内所には無料でパンフレットも配布されています。
ちょっと足を延ばして手に取ってみられることをおススメします。

arioka (9) arioka (8)
駅前から先ず目につくのはこんな城の石垣っぽい景観です。城の予感がする・・。

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駅前の陸橋をわたると石碑・その①が置かれていました。

arioka (11)

ここでは主郭部に登城するのに自動階段(エスカレーター)も使っても良しです。
(階段の横に併設されています)
都会の繁華街に何気なく溶け込んでいて明るい雰囲気があります。

arioka (13)城址公園の高台に上がってみると説明版がありました。

小高い台地一帯に有岡城の主郭部の一部が残されています。
有岡城は城下町を城内に取り込んだ惣構えの構造だったようです。
絵図で見ると、かなり広大な城で北・西・南にも砦が構えられていました。

こうなると城郭内の跡をくまなく見学することは・・。
時間の都合上、主郭部周辺しか見学できそうもありません。
今日の所は主郭部周辺だけになりそうです。

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傍らには伊丹之親の歌碑があります。

arioka (14)
土塁の塁線が延びています。

arioka (15)
堀と土塁の様子です。ここはちょっと想像力が要りますが・・その一方で・・。

arioka (1)
南に向かうほど傾斜が増し、堀底が深くなっていく様子もわかります。

空堀が主郭部を半周している様子が掴めます。
市街地化するなかでその様子が公園といて残っているのがいいです。
商店街へと続く通り沿いからも見学することができます。

arioka (2)模擬石垣ですが、迫力に満ちた虎口設計に感動しちゃってます。

arioka (16)
上から見るとこんな感じですね。・・あ、石碑があんな所にも!

arioka (3)階段を登り切ると、荒木村重の人物像が見えてきます。

天正2年(1574)織田信長は茨木城主・荒木村重に命じ伊丹城主・伊丹氏を攻め滅ぼしました。
村重は摂津国守護として伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行いました。
信長の被官として国持ち大名に大抜擢されたのです。

天正6年(1578)播磨国・三木城主の別所長治が信長に叛くと、村重も有岡城に籠城します。
村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。
しかし、一度は明智光秀らの説得され翻意し、釈明のため安土城に向かおうとします。

その途中に寄った茨木城にて、家臣の中川清秀からの一言に気持ちが揺らいだそうです。
「信長に一度疑いをかけられた者はいつか必ず滅ぼされる」(かもしれない)的な。
思い当たることがあったのでしょうか、その進言を噛み締め村重は有岡城に戻っています。

後、黒田官兵衛孝高が村重を説得するために有岡城に赴きます。
しかし、官兵衛はそのまま捕えられて幽閉されてしまう破目に。大河ドラマでもご存知ですね。
信長は有岡城を包囲、長期戦に入った天正7年(1579)村重父子は夜陰に紛れて尼崎城へ逃れます。

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本丸内では礎石跡や井戸跡など発掘調査で見つかった遺構が分かるようになっています。

arioka (5)主郭北西部には土塁と復元された石垣があります。

arioka (6)

arioka (7)・・お、忘れることろでした、有岡城の石碑・その②です。凛としてます。

・・そういえばここにきて気付いたんですが・・。
今回の城めぐりの順番、村重父子の逃避行を逆に回っていることに気が付きました(今頃・・)
果てしない逃避行になるのを覚悟で彼は何に手を延ばそうとしていたのでしょう。

有岡城の落城後、信長は池田恒興親子にこの地を与えます。
長子・池田之助が城主となりました。
有岡城はいつしか再び「伊丹城」という名で呼ばれるようになりました。


プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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