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尾張 品野城 🏯東海環状線の開発からギリ逃れた貴重な山城

尾張 品野城 (愛知県瀬戸市上品野町・秋葉山)

新春を迎えまして、新しい一年が始りました。
皆様におかれましては充実したよき年になることを心からお祈り申し上げます。
自分も今まで通りマイペースを大切にした行動的な年にしたいと思っております。

さて、毎年恒例、初詣での開運おみくじは・・、「!!」。
ついに、ついに、3年連続「末吉」から「大吉」というありがたいお告げを頂きました。
家族から憐みのような視線を受けない素晴らしい幕開けとなりました!

よぉぉ~~しゃぁ!いいことあるぞぉ~!

帰宅後、早速クリアカードスリーブに入れて丁寧に扱いお財布にしのばせます。
おみくじは、神様からのお手紙のようなもの。大切に。謙虚に。ありがたく。
折りに触れておみくじを読み直すと、戒めにもなってとても良いようです。

『旅行』=「城めぐり遠征」だな・・、「益あり、行きて吉」。ウふふ♪、いいじゃない。
『学問』=さしずめ「城郭研究」かな・・、「安心して勉学せよ」。頑張ります、ブログもね。
『病気』=「城のめり込み病」ってところかな・・、「信心せよ、治る」。・・治る?

・・いや、治らないと思います!

という感じでニヤニヤしていたら家族に置いてきぼりされてしまった久太郎でした。
さて、開発工事に置いてきぼりにされてよかったであろう城、という例もあります。
今回訪れたのは愛知県瀬戸市の品野城です。

owrssnj (26)東方面の国道坂より秋葉山・品野城を眺めます。

山の中腹に東海環状道が通っています(標識を意識的に入れてみました)。
当初の計画では城跡の一部が取り壊される予定でしたが免れてほぼ完存しています。
しかし、環状道建設により山頂までの参道がなくなってしまいました。

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品野城下には信州飯田から名古屋までの中馬街道が通っていました。

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品野城の麓の登り口には稲荷神社社が造営されています。

以前はここから山上の稲荷社のある品野城址まで登ることができました。
現在は東海環状自動車道で唯一の尾根参道が分断されてしまいこのルートは使えません。
そのため地元の方々も稲荷社までお参りに行くことはなくなりました。

・・しかし、山頂までいく方法はあります。

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稲荷神社の東から谷へ入る林道を利用します。

このルートから東海環状自動車道の高架下を通過することが条件。
そこから(適当な所から)沢を渡って山頂まで直登する、という方法です。
山はかなりの急斜面ですので注意が必要ですし、降りるときもまた同様です。

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かつての登山ルート尾根まで出てしまえば占めたもの、あとは登るだけです。

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山頂の品野城主郭部の曲輪に到着します。

以前来た時(平成15年)はまだ稲荷社はご健在でしたが、倒壊してしまっていました。
人の世話が入らないとこうもあっけなく朽ちていくものなのか・・。
開発による便利・恩恵と引き換えに失っていく拠り所・風習もあるのですね。

主郭部は東西に長い曲輪です。
麓の稲荷社から延びる北からのルート向きに虎口があります。
その周囲には土塁の形見とみられる遺構が確認できます。

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主郭部から西へ降りると二の丸に相当する広い曲輪が押さえています。

削平具合や周囲の切岸などからして常住施設があったことを想像させる空間です。
本来の大手口はこちらを経由する西口であったかもしれません。
城下の様子や瀬戸市街地もここからはよく俯瞰することができそうです。

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南曲輪との間の大きな堀切には目を奪われる。(;゜0゜)

深さは約4メートル、堀幅も約10メートルという大きな堀切です。
堀底は箱堀状にくり抜かれておりスペースを確保しています。
北尾張の開発エリアでここまで完存している山城遺構は稀少中の稀少。

稲荷神社のご加護でしょうか、その幸い、よくぞ開発から逃れ得たものです。

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南曲輪は少々削平が荒いですが、土塁を備えた曲輪となっています。

この土塁は東西に大きく伸びていますが多分に自然地形に頼った面も見られます。
土塁の南にも自然地形を利用した空堀が見られるからです。
空堀の底から見上げると登攀を遮断するかのような壁の如き塁線となっています。

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自然地形を取り込んで大きな土塁や空堀として仕立てた形跡が見られます。

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南へ続く細尾根脇には畝竪堀状の溝が何条もみられます。

一見すると畝竪堀のようですが、地表の土が流出してできた溝とも思えます。
一帯の山肌は風化に弱いサバ土の土質が見られるからです。
尾張瀬戸から東美濃にかけてはこういった地質特徴も考慮にいれる必要があります。

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人一人がやっと通れるような馬の背道状に続く瘦せ尾根。

しかしこうした細尾根も背後への備えとして利用したことは確かでしょう。
意識的にこの部分一帯は尾根の両脇が削り落とされているように感じます。
品野城ではこうした自然地形を上手く利用し加工を施しているように思えます。

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品野城からの尾張中心部方向の視界もよくききます。

さてこの品野城ですが、歴史は古くから始まります。

建保年間(1213~1219)、山田重忠の家臣・大金重高が秋葉山に城を築いたといいます。
延文3年(1358)には宗良親王の臣・戸田頼房、宗忠父子が信濃・大河原城から移住します。
・・信濃(しなの)から品野(しなの)・・ですか?

その後戸田氏は応永年間に尾張・戸田城へ移り、品野城は廃城となります。
その後、織田信秀の臣・坂井秀忠の居城とります。
享禄2年(1529)松平清康の大軍に攻められ、秀忠は城中で切腹、落城しました。

品野城は清康家臣の松平信定の居城となり、家重、家次へと継がれます。
永禄元年(1558)織田信長の家臣・竹村長方が品野城を包囲攻撃するも家次の逆襲に遭い失敗。
翌永禄2年(1559)の攻防戦もまた敗北に終わったようです。

永禄3年(1560)再度信長は総攻撃をかけ、品野三城(品野、桑下、落合)を落とします。
信長は北尾張の今川勢力を駆逐することに成功した上で桶狭間へ臨むことになります。
歴史上では桶狭間ばかりに目を向けがちですが、この品野城をめぐる前哨戦には注目です。

しかし、城は桶狭間の戦いの後、今川氏の放棄によって落城した、ともいわれています。

またこれにより織田・今川両勢力の戦線が実はかなり広範囲にわたっていたことがわかります。
今川勢力は品野城~鳴海・沓掛両城ラインの各方面から尾張を揺さぶっていたことも理解でき、
その調略範囲も含めれば知多半島にまで及んでいたことも見落とせません。

東美濃への道も開けるこの品野城、争奪戦が繰り広げられたのもの深く頷けましょう。

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今回の現地までの足取りですが、あくまでも我流での直登例、ということです。
東海環状自動車道へは足を踏み入れることはできませんので迂回して登ってみました。
付近には駐車場がありませんので近くの祥雲寺さんに駐車場をお借りいたしました。
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美濃 松尾山城 🏯測らずにいられない美しい縄張り

美濃 松尾山城(長亭軒城) (岐阜県不破郡関ケ原町松尾・松尾山)

お城に行くのも楽しみですが雨の休日はいそいそと映画館に行くのも楽しみッス。
(お城も映画も、基本一人で行きますが、・・何か?)
少し前ですが『アルキメデスの大戦』を鑑賞した時の興奮は忘れられません。

劇中のセリフの中での菅田将暉さんが演じる主人公、櫂直(かい ただし)と
少尉の柄本佑さん演じる田中正二郎の掛け合いは特に印象に残っています。
停泊していた戦艦長門への乗船許可を取り、甲板からメジャーで測っていくのですが・・。

呆然とする田中に櫂が「君はこの船を測りたいと思わないのか?変わってるな!」と。
また戦艦の設計図を見て「実に美しい」と悦に入ったりと・・。
これ、そのまんま城に置き換えることができそうです。

「僕は何でも美しいものは測らないと気が済まないたちなのだ。」
・・その気持ちよ~くわかります!(笑)。

素晴らしい城の縄張りを目の当たりにして「測りたい」と思ったり「美しい」と思うこと。
常人から見ると「変態」に見える挙動もむしろ健全な発想だったりします。
そんな「測りたくなるような美しい城」松尾山城を訪ねてきました。

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北の麓から松尾山城を見上げます。(ちょっと標識を利用して入れてみました)

松尾山へは所々に案内標識があってわかりやすいです。
途中に東名高速道路や東海道新幹線の高架下を通過していくでしょう。
山自体はそれほど急峻な山ではありません。

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ウェルカムチックな「違い鎌」幟旗が並べられ、まるで陣を訪れるようです。

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松尾山登山者の駐車場には車8台ほどとサイクル自転車等が停められます。

平日はそうでもありませんが週末は結構混みあうことも・・。
それだけ皆さんの関心が深い史跡、ということになりましょうか。
ここから30分~40分の登山コースを辿ります。

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道はかなり整備され砂利が敷かれていたり、遊歩道もしっかりしています。

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足元ばかりを見ていると気づきませんが、励ましの一言に期待が増します。

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松尾山城の別名は「長亭軒城」ともいいます。

大永年間(1521~1528)に堀氏によって築かれたのが最初らしいです。
その後浅井長政の命で堀次郎樋口直房が入城。
美濃の織田信長に対抗するために境目の城として機能していました。

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山頂部が主郭部の中心地で現在休憩東屋が設けられています。

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土塁にぐるりと囲まれた本丸。本当によく整備されて気持ちがイイ~。

周りを見渡すとずら~と土塁に囲まれていることがわかります。
城は小早川秀秋の陣、としてのほうが有名ですが・・。
一見して「単なる陣城ではないな?」と思わせるような周回土塁です。

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関ケ原の合戦では当初西軍の一翼として小早川秀秋が陣を構えた場所でもあります。

「関ケ原」では「最大の功労者」といえる秀秋様。
その一方で「最大の裏切り者」とされる秀秋様。
彼はここで開戦から約4時間もの間、迷いの中で麓の戦況を見守っていました。

彼を取り巻いていたそれまでの経緯や立場を思えばおおむね同情はできます。
ただ、戦国の世ではどんな形であれ裏切り、寝返りは当たり前の事。
本人は後年、その汚名に対して充分すぎる苦しみを味わい狂死していきました。

もしその「業」を責められなければいけない、とするならば・・。
それは彼をここまで追い詰めた(肉親を含めた)権力者たちにあるのではないでしょうか。
謀略渦巻く関ケ原にて秀秋だけがその汚名を被るのは間違いでしょう。

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雄大な伊吹山も間近に見ています。

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関ケ原の麓方面も一望に見渡せますね。

ここからは決戦が繰り広げられた各陣の位置・様子が完全に把握できるようです。

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頂上に設けれた史跡位置図と照らし合わせてみる。

ここで改めて思うんですが・・、狭いですね、関ケ原。
こんな狭い所で両軍約15万人の総勢がひしめき合って戦ったなんて・・。
そしてわずか半日で決着がついてしまっただなんて・・。

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本丸の周囲には高さ1メートル程の土塁が取り巻いています。

土塁の厚みもありながら、その向こうは急斜面の切岸です。

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幅のある土塁はその上を歩く事も可能です。(史跡につき思いやって歩きます)。

歩きながらその外側、傾斜勾配のきいた切岸を堪能することもできます。

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土塁は主郭南側に通じる枡形虎口へと繋がっています。

土塁の切れ目からL字型に折れて出入りするようになっています。

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直進できないように土塁と櫓台が組まれているのが見所です。

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枡形虎口へと至る南からの坂道は土橋状に加工されています。

道の両脇は堀切となっており一度に通れる人数を制限しています。
そこに上部、櫓台からの横矢掛け、土塁内側からの迎撃も可能としています。
守備側にとってかなり有利なこの遺構、計算しつくされた感があります。

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各曲輪の外周に見られる土塁。

主郭部につながる尾根曲輪には土塁が巡る曲輪が見られます。
やはり曲輪の重要性に応じて設けられたと思われます。
主郭部から遠くても侵入想定経路の曲輪にはキチンと設けられているようです。

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曲輪同士を連絡する堀切には土橋が通っています。

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主郭部の切岸を側面から。

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主郭部から北に派生した尾根は主に切岸に依存した曲輪群となっています。

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主郭部から西、西南に展開する曲輪群は収容力重視といった感じでしょうか。

主郭部以上の広さがある西曲輪群。
築かれた時代の時期に差があるのか、技巧的な遺構は見られません。
しかしその収容力と丁寧に切岸が周囲にかけられた様は見劣りするものではありません。

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大きな穴凹は何のため?狼煙焚き用なん??

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堀切の上にあたる端部には土塁が設けられているパターンが見られます。

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大規模な曲輪が重なり合う箇所も見応えがあります。

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西曲輪の端部、食い違うように土橋と堀切を交互に設けます。

二重堀切、といってしまえばそうなのですが・・、
堀切の位置を左右少しずらしているのがわかります。
こういった外部からの侵入に対する細かい遺構も感じ入りますね。

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主郭部と西曲輪の間、谷部にも遺構が展開しています。

谷部からの直進を抑える土塁を設けています。
これも通行ルートに制限を加える導線への備えだと思われます。
松尾山城はその谷部を巨大な横堀として利用している様子がみられ、面白いです。

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谷鞍部を巨大な横堀に見立てて普請した苦労が感じ取れます。

本来は自然谷としてあったものを駐屯地仕様とするためか
城内に取り込み挟撃可能ルートとして手を加え、活用しているようです。
まるで一つの城内に本城(主郭部)、支城(西曲輪)を併せ持たせたような相関でしょうか。

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谷部遺構の先には水の手かと思われる湧き水も確認できます。(個人的意見ですが)

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東西南北に展開する美しく惚れ惚れするような縄張りだと思います。

松尾山城が最終的に改修された時期は石垣も多用された時期のはずです。
しかし石垣は見られず土での普請と発達した虎口を備えた長塁型城郭に仕上げられました。
この点では中世戦国の土造り城、最終型の好例といっていいかと思われます。

なかなか写真表現できないので割愛しましたが、長大な竪堀などもとても見応えありでした。
降って、また登っての繰り返し、測って、見比べて繋げてみて、の繰り返し・・。
そんな五感フル活動の松尾山調査・散策となりました。

織田・浅井・竹中氏間での松尾山、関ケ原合戦直前の毛利氏入城予定地としての松尾山、
それまでの預かり城主、伊藤長門守盛正が守備した松尾山。
その松尾山から盛正を追い払って占拠した小早川秀秋勢の暴挙。

本当は触れなけらばならない重要事項も多々あるのですが、ここでは省略、(∀`*ゞ)エヘヘ。

歴史的背景や城史・研究成果等は書籍や各HPの松尾山城の項で詳しく知ることができます。
ここでは現地で歩き回っていくほどに、ここが単に「小早川秀秋の陣」としてではない、
もっと以前からの軍事重要拠点として、政治・政略の力が働いた場としての念を感じ書き留めてみました。

そうした現地で体感し、考察した自分なりの味わいこそが自分の城めぐスタイルであります。
2021年も間もなく暮れようとしていますが来年もいろいろな城に行きたいな~と思います。
皆様のご多幸、ご多城をお祈りしております。


本ブログに目を通してくださったすべての同朋の方々におかれましては心より感謝申し上げます。

どうか2022年が良い年になりますように・・。

美濃 垂井城 🏯透き通る垂井の泉に引き込まれ

美濃 垂井城 (岐阜県不破郡垂井町垂井)

「お城跡めぐり」が休日の楽しみ方の一つ、の自分です。
お城が好きになって以来この生活スタイルを今さら変えることができません。
またそんな城好きな方が世の中にはたくさんいらっしゃることも知りました。

長~く深~くマイペースで楽しく続けていける充実感溢れる趣味だと思っています。

時に「今度はどこの城に行こうか」と沢山の(贅沢な)選択肢に悩まされ
未踏の地を思い心ときめかす気持ちは少年・少女のようでもあります。
今回はそんな純真な心のように湧きいでる泉・垂井と垂井城を訪れてみました。

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あくまで推定地、とうことで石碑が立っている垂井城。

実は垂井城は明確な遺構が残っていないため、正確な位置は不明です。
現在、文献や地形などから専精寺境内がその所在地に比定されています。
やや高台地になった地形に築かれた丘城だったと推測されています。

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慶長5年(1600)に平塚為広が垂井領1万2千石で入封、所領を与えられ垂井城主となります。
為広は垂井城を居城として整備拡張したと思われますが同年の関ヶ原の戦いで討死したため廃城。
垂井町では、竹中半兵衛と共に為広を郷土ゆかりの武将として顕彰しています。

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こちらは専精寺の本堂。

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やや高台になった地形一帯が城址だったと思われます。

西軍挙兵後、伏見城攻略戦、大谷吉継に属し東軍の前田利長に備えるために北庄城に入ります。
それ以前、家康に対して挙兵しようとする三成を吉継と同席し共に思いとどまるよう諫言しています。
しかし三成の固い決意を知り熱意にうたれた吉継と行動を共にする事を決意します。

決戦前、吉継と共に関ヶ原の西南の山中村に着陣。
本戦では、吉継に属して前備えを率い裏切った小早川勢を相手に数回押し戻します。
しかし脇坂安治らの裏切りや藤堂隊・京極隊の攻撃に持ちこたえることはできませんでした。

討ち死直前に吉継とお互いに辞世の歌を詠みあったといわれています。

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玉泉寺の袂には「垂井の泉」が湧き出ています。

泉は玉泉寺の門前南側、県天然記念物「垂井の大ケヤキ」の根本から湧き出ていています。
「垂井」の地名の起源ともされます。(専精寺さんと玉泉寺さんはお隣同士です)
井口は約2m四方で周囲に石玉垣をめぐらしています。

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結構なサイズの鯉が沢山いて居心地よさそうです。

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東山道・中山道を旅した人々の休憩の場所でもあったそうで。
多くの歌人がその美しさに惹かれ歌に詠まれた名高い泉です。
ずーと見ていられるような気がしてきます。

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引き込まれるような清らかさに心が穏やかになっていきました。

この水面には湧き水からのかすかな波動が感じられます。
そのごく小さな波と水面に映し出された陽の光が漂うように美しいのです。
吉継・為広の決断が「死」という逆光に照射された「生」を映し出しているように感じました。

美濃 浅野幸長陣 🏯かつての戦友との対峙

美濃 浅野幸長陣 (岐阜県不破郡垂井町垂井日守・垂井一里塚)

関ケ原の戦いの陣巡りは東軍・西軍諸将の陣が近距離でひしめき合っています。
なにしろ当時の戦国武将オールスターがここに一堂に集結したわけですから。
それに加えて古戦場記念館やウォーランドなども華やか、ヤバいくらい興奮してしまいます。

反面、南宮山麓の陣地跡は決戦地から距離もありなかなか訪れる人も少なめです。
そんな中、ここ南宮山の情勢を体感してこそ真の関ケ原合戦の理解が深まる、と確信します。
何故ならそれは家康の背中をずっと油汗で濡らした不安要素がここにあったからです。

今回もそんな緊張高まる南宮山の麓、浅野幸長陣を訪問してみました。

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垂井一里塚周辺を陣とした浅野幸長陣跡。

慶長5年(1600年)、家康の会津征伐へは長政・幸長親子で従軍。
下野国・小山会議では軍議の席で幸長は進み出て、先鋒に名乗りをあげました。
家康が赤坂の岡山に着陣すると、池田照政と共に南宮山の毛利軍勢に備えます。

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幸長は池田恒興の娘を正室としていたので池田照政とは義兄弟。
義兄弟同士での後備え、運命共同体という立場でみるとその緊張感も伝わってきます。
しかし決戦当日は南宮山勢力とは対峙したままで終わり、本戦にも加わることはありませんでした。

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慶長の役にて幸長は毛利秀元と共に蔚山城の築城を行っています。
築城が終わったばかりの蔚山城が明・朝鮮の連合軍に襲われ籠城戦へ。
加藤清正や幸長らが大量の戦死者を出して激戦を展開することに。

激しい攻撃に耐えながらも。兵糧のない状態が続いたため玉砕の覚悟を決めていました。
しかしそこへ毛利秀元らの救援があって城を持ちこたえることができました。
秀元と幸長、戦国の倣いとはいえ対峙している時の両者の気持ち、いかばかりであったでしょう。

共に異国で地獄を生き抜いた戦友同士、戦闘行為がなかったのは幸いだったといえます。

そして、恥ずかしながら・・自分、「幸長」をずぅ~とずぅ~と「ゆきなが」と読んでいました。
違ってました・・。今回初めて知りました。幸長は「よしなが」と読むんですね(・_・;)
幸長さんに怒られそうです・・心なしかカードのイラスト、機嫌悪そう・・、あっ!謝ります!。

美濃 池田照政陣 🏯西軍南宮山部隊に睨みを効かす

美濃 池田照政陣 (岐阜県不破郡垂井町宮代)

またまた自分の思い出話になってしまうのですが・・。
中学生の頃、ウォーゲームというのが大変流行していました(一部のマニアの間で)。
まだ初代ファミコン(これも知ってる?)が発売される以前のボードゲームの世界です。

友達の家でバンダイさんから発売されていた「IFシリーズ 関ヶ原」でよく遊んだものです。
基本、東軍・西軍を2人でプレイするのですが、3人目が入った場合は内応軍をプレイする、
という画期的で自由で「粋な」ゲームでした。

あるターンから確率で松尾山の小早川と南宮山の毛利が東軍の(或いは西軍の)横っ腹に出撃します。
そのため3人目プレイヤーは遅れて途中から参加してもいい、という訳なんです。自由でしょ?
そしてワクワクしながらダイスを振る!

松尾山の小早川隊がようやく乱戦の横っ腹に突撃!それに呼応する脇坂、朽木ら諸将、
南宮山の吉川隊もいよいよ池田隊に向かって突撃!・・という感じで盛り上がったものです。
思い出話は尽きませんのでこのくらいに・・今回は池田照政の陣を訪れます。

因みに・・名前は「輝政」で知られていますがこれは晩年になって改名した名前です。
それまでは「照政」だったらしいのでリアル感を出すがためにこちらでいこうと思います。
弟の長吉・長政も岐阜城攻めから本戦へと共に在陣して活躍しました。

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国道沿いに建つ案内板。ここから南に50メートルほどの墓地へ入ります。

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木立の中に立つ池田隊の陣跡。

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現地は春王(当時13才)・安王(当時11才)兄弟の墓の地でもあります。

鎌倉公方足利持氏の子、春王・安王は下総の結城氏朝に迎えられます。
永享12年(1440)3月、結城城に籠りますが幕府の攻撃で落城。
春王・安王は捕らえられ、京都への護送中、垂井の金蓮寺において斬首され同寺に埋葬されました。

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関ヶ原の戦いでは岐阜城攻略に参加して本丸一番乗りを果たします。
攻城前、照政は同じ東軍の福島正則と激しい口論と先陣争いをしております。
結局、両将前後同時入城、ということで江戸の家康に報じられます。

手柄を正則に譲った形ともいえますが、この点、短気な正則と比べ、配慮ができる人物です。

関ケ原の本戦では浅野幸長・山内一豊らと共に家康の後方にあり
南宮山の西軍勢力、吉川広家・毛利秀元らの抑えを務めました。
直接の戦闘行為はほとんどなかったようですが、極めて重要な位置を任されます。

いかに吉川広家が毛利勢の動きを抑える内応軍だとしても絶対ではないからです。
仮に西軍・南宮山勢力がなだれ込めば東軍は狭い盆地に挟まれ窮地にたたされます。
これは家康にとっての賭け、でもありましたが絶対に避けなければいけない最悪の事態でした。

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家康本陣の後方を任されたのも信頼あってのことかと。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来6年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)
(2021年4月6日現在)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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