尾張 岩崎城 🏯小牧長久手合戦における命運の舞台
尾張 岩崎城 (愛知県日進市岩崎町市場)
次男の学校の用事で久々の名古屋入りをしました。
帰路はちょっと遠回りをして日進市の岩崎城を散策してきました。
・・家族の条件は、おいしいランチをお父さん持ちでご馳走することです。
家族サービスと城址散策、お互いウィンウィン(win-win)で行きましょう!。
模擬天守ですが、やはり迫力ある日進市のシンボルです。
昭和62年(1987)、展望塔として天守閣(模擬天守)が建造されました。
「岩崎城址公園」として整備され、岩崎城歴史記念館が併設されています。
記念館では、岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されていいます。
一時は、遺構の一部を破壊し、史実を無視した天守建築への非難もありました。
賛否はありますが、小牧・長久手の戦いを末永く後世に伝えることも必要です。
沢山の人がこの施設を通じて興味をもっていただければ、大きな意味があるでしょう。
(模擬天守は史跡地を配慮した場所に建てられています)
結構デカい「岩崎城」の石碑と模擬天守。
岩崎城は織田信秀によって築かれ、後に天文7年(1538)丹羽氏清が入城します。
天正12年(1543)小牧長久手合戦では城主・丹羽氏次は家康の本陣である小牧山へ出陣します。
兄・氏次の代わりに岩崎城は弟の傍示本城主・丹羽氏重が守備しました。
小牧・長久手の戦いでは両軍によってたくさんの城砦が築かれました。
広範囲にわたって周辺在地の城も巻き込まれていきます。
睨み合いになり膠着状態になった両軍に大きな動きが訪れます。
秀吉軍の先発・池田恒興が三河・岡崎城を目指す途中の岩崎城を攻めたのです。
これが当初からの作戦だったのか、偶発的な流れだったのか?
丹羽氏重も城兵三百余人で猛守、これを迎え撃ち玉砕するのです。
羽柴別働隊が城の前を通過すると、
「見過ごすは末代までの恥、ご恩を奉ずるのは今日の一戦にあり」
と城兵239人に討死覚悟で一戦を命じます。
氏重らは池田軍の攻城隊を三度に渡り撃退するなど奮戦の後討ち死しました。
お互いに死力を尽くした激しい戦いは3時間程で決着しました。
氏重は享年まだ16歳だったそうです。
城を落とした池田勢の勝利か?羽柴別動隊を足止めをさせた氏重の勝利か?
先発隊の池田勢がここ岩崎城を攻城し、後続対と合流するという意図は定石です。
そして、この後起こる命運を分けた大合戦が長久手で展開されます。
岩崎城の現況と旧状がわかると思い、現地での案内板をお借りします。
公園として模擬天守が建てられる前には遺構が良く残っていたようです。
現在は模擬天守と歴史記念館が建てられ公園となっていますが、遺構も確認できます。
どんな遺構が残っているのかな?・・見ていきたいと思います。
二の丸庭園には水琴窟があります。
「勘助の井」と名がつけられています。「勘助」は、氏次の通称です。
手水鉢(ちょうずばち)近くにつりがね状の甕かめを伏せて地中に埋めたものです。
上部の小さな穴から水を落とす水滴の音が甕かめの内部で反響し、妙音を出す仕掛け。
こちらの水琴窟は2つの常滑焼甕を伏せてあり、2種類の音色を楽しむことができます。
土橋からみた空堀。本丸をぐるっと囲む幅の広い箱堀です。
この堀底には降りることもでき散策もできます。
「古城之碑」と彫られてた岩崎城の石碑。
この石碑付近の様子を「御座の間」(殿様のいた所)とする記述が見られます。
岩崎城で討ち死にした氏重ら戦死達の供養も込めて文字が刻まれました。
落城の日である4月9日には毎年慰霊祭が行わています。
岩崎城ゆるキャラの「にわさきくん」に迎えてもらいました。
歴史記念館内では小牧・長久手の戦いが解りやすく解説されています。
館内には丹羽氏重の騎馬銅像もあります。(写真は掲載しません)
岩崎城は家族で散策するのにも手頃な史跡公園だと思いました。
氏重らの奮戦によって池田・森らの進軍はここで足止めされました。
この報を兄・氏次はどんな思いで伝え聞いたのでしょうか。
氏次は長久手合戦にて活躍、氏重は徳川軍の勝利に貢献した影の功労者でしょう。
Ⓢは岩崎城跡公園の駐車場です。
次男の学校の用事で久々の名古屋入りをしました。
帰路はちょっと遠回りをして日進市の岩崎城を散策してきました。
・・家族の条件は、おいしいランチをお父さん持ちでご馳走することです。
家族サービスと城址散策、お互いウィンウィン(win-win)で行きましょう!。
模擬天守ですが、やはり迫力ある日進市のシンボルです。
昭和62年(1987)、展望塔として天守閣(模擬天守)が建造されました。
「岩崎城址公園」として整備され、岩崎城歴史記念館が併設されています。
記念館では、岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されていいます。
一時は、遺構の一部を破壊し、史実を無視した天守建築への非難もありました。
賛否はありますが、小牧・長久手の戦いを末永く後世に伝えることも必要です。
沢山の人がこの施設を通じて興味をもっていただければ、大きな意味があるでしょう。
(模擬天守は史跡地を配慮した場所に建てられています)
結構デカい「岩崎城」の石碑と模擬天守。
岩崎城は織田信秀によって築かれ、後に天文7年(1538)丹羽氏清が入城します。
天正12年(1543)小牧長久手合戦では城主・丹羽氏次は家康の本陣である小牧山へ出陣します。
兄・氏次の代わりに岩崎城は弟の傍示本城主・丹羽氏重が守備しました。
小牧・長久手の戦いでは両軍によってたくさんの城砦が築かれました。
広範囲にわたって周辺在地の城も巻き込まれていきます。
睨み合いになり膠着状態になった両軍に大きな動きが訪れます。
秀吉軍の先発・池田恒興が三河・岡崎城を目指す途中の岩崎城を攻めたのです。
これが当初からの作戦だったのか、偶発的な流れだったのか?
丹羽氏重も城兵三百余人で猛守、これを迎え撃ち玉砕するのです。
羽柴別働隊が城の前を通過すると、
「見過ごすは末代までの恥、ご恩を奉ずるのは今日の一戦にあり」
と城兵239人に討死覚悟で一戦を命じます。
氏重らは池田軍の攻城隊を三度に渡り撃退するなど奮戦の後討ち死しました。
お互いに死力を尽くした激しい戦いは3時間程で決着しました。
氏重は享年まだ16歳だったそうです。
城を落とした池田勢の勝利か?羽柴別動隊を足止めをさせた氏重の勝利か?
先発隊の池田勢がここ岩崎城を攻城し、後続対と合流するという意図は定石です。
そして、この後起こる命運を分けた大合戦が長久手で展開されます。
岩崎城の現況と旧状がわかると思い、現地での案内板をお借りします。
公園として模擬天守が建てられる前には遺構が良く残っていたようです。
現在は模擬天守と歴史記念館が建てられ公園となっていますが、遺構も確認できます。
どんな遺構が残っているのかな?・・見ていきたいと思います。
二の丸庭園には水琴窟があります。
「勘助の井」と名がつけられています。「勘助」は、氏次の通称です。
手水鉢(ちょうずばち)近くにつりがね状の甕かめを伏せて地中に埋めたものです。
上部の小さな穴から水を落とす水滴の音が甕かめの内部で反響し、妙音を出す仕掛け。
こちらの水琴窟は2つの常滑焼甕を伏せてあり、2種類の音色を楽しむことができます。
土橋からみた空堀。本丸をぐるっと囲む幅の広い箱堀です。
この堀底には降りることもでき散策もできます。
「古城之碑」と彫られてた岩崎城の石碑。
この石碑付近の様子を「御座の間」(殿様のいた所)とする記述が見られます。
岩崎城で討ち死にした氏重ら戦死達の供養も込めて文字が刻まれました。
落城の日である4月9日には毎年慰霊祭が行わています。
岩崎城ゆるキャラの「にわさきくん」に迎えてもらいました。
歴史記念館内では小牧・長久手の戦いが解りやすく解説されています。
館内には丹羽氏重の騎馬銅像もあります。(写真は掲載しません)
岩崎城は家族で散策するのにも手頃な史跡公園だと思いました。
氏重らの奮戦によって池田・森らの進軍はここで足止めされました。
この報を兄・氏次はどんな思いで伝え聞いたのでしょうか。
氏次は長久手合戦にて活躍、氏重は徳川軍の勝利に貢献した影の功労者でしょう。
Ⓢは岩崎城跡公園の駐車場です。
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