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美濃 大博士城 🏯静寂に包まれた隠れ家的な山塞

美濃 大博士城 (岐阜県中津川市蛭川柏ケ根大博士・城山)

「大博士城」、その名を一度耳にすれば、深く印象に残るネーミングです。
蛭川村の長閑な里山の奥地にひっそりとしている小城址です。
何度か訪問したのでちょっとご紹介してみたいと思います。

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柏ヶ根の美しい石垣棚田もよい景観です。

柏ヶ根川にそって上流部へ向かって農道・林道を進んでいきます。
キャンプ場まで進むと私有地主張の石碑がありますので車は下の退避場に駐車しました。
(私有地を無断で通過することになりますので事前連絡が理想です。)

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ここから先は私有地です、という石碑です。

城址の石碑ではありません!(残念!)
ここから先へは進入しないようにしてその手前から城山へ向かって歩きました。
・・といってもそちらも私有地であろうことに変わりないのですが・・。

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正面の山が城山、進行方向から見て左側の山に向かいます。

無断通過に罪悪感や抵抗がある場合は城址背後の林道からも辿れますが・・
こちらは地形図とスケールの読み込み感覚が必要ですのでレベル高し、です。
辿るべき尾根を間違えるとさまようことになります。

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城址背後の林道からの入口、といってもわかりずらいですけどね・・。

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湿地帯や沢を越えて行きます。(長靴の威力は絶大)

登山道などというものは既に消滅しており、尾根直登に賭けます。
それほどの急勾配でないのが救いでしょうか。
‥本当にこの上に城址が存在するのか?半信半疑、期待と不安の登攀です。

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主郭部に到着、張られたビニールテープは止山主張かもしれません。

主郭頂部はやや曖昧ですが平坦な曲輪が確認されます。
主郭より下部の腰曲輪になるほど削平が不明瞭となり自然地形に近くなっていくようです。
それでも空間的には曲輪として使用されたであろう感を受けます。

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不明瞭ながら腰曲輪と切岸が確認できます。

daihakase (11)尾根背後を堀切で仕切っています。

daihakase (9)堀切の内側(主郭部側)には一部石積遺構が確認されます。

目立たない場所にあるだけに確認できた時は感動しますね!
切面に沿って垂直に積み上げられているのですがこれを「野面積」、と表現するには抵抗が・・。
おそらく土留め用の補強積、といった見方が適当でしょう。

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狭い部分ですが、見方によっては迫力もあり、です。

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石積と見られるものは主郭部南の竪堀状遺構の基部も見られます。

図面にて紹介したいと思います
スキャン_20180429

城は周辺を大きな山々で囲まれており、直接的に支配するような集落とも距離があります。
一種独特で隠れ家的な立地にあるのが特長です。
いざという時の村々の避難施設だったのか、築城由来に興味が湧いてきますね。

daihakase (13)遠目から見てもその位置が確認しずらいのも特徴です。

大博士城の城主として曽我幸慶が伝わっています。

いつの時代のどのような立場の人物なのかはよくわかっておりません。
蛭川村をはじめ恵那郡笠置山一帯には南北朝の親王伝説(尹良親王?)が伝わります。
その親王に供奉した者の中に曽我幸保の名があることも繋がりがあるのかもしれません。

そしてその城名の由来ともなった「大博士」、頭のいい指導者的人物がこの地にいたのでしょうか?
また飛鳥時代の律令制官職に大学博士(だいがくはかせ)の称号が見られ関係しているものか?
城主と伝わる曽我氏が飛鳥時代の蘇我氏から転じているのなら・・とも想像してしまいます。

城山は別名を「曽我城」とも呼ばれるようです。

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静寂に包まれ、全体像をあらわにすることがない隠れ家的な城砦。
昨今ではアプリなどでお城ファンの間で少しだけ知られるようになりました。
・・でも今少しこのままそっとしてあげたい城址、そんな気持ちになった大博士城でした。
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美濃 広恵寺城 🏯飛騨・木曽間の古道を押さえる苗木城前身の姿

美濃 広恵寺城 (岐阜県中津川市福岡町植苗木・城ヶ根山)

ススキに赤トンボ・・。お月様・・。秋ですね。
でも耳を澄ませばほんのかすかにツクツクボウシ(^^♪・・。
また来年まで憶えていますからね。

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以前には見られなかった案内標識です。地元の方々の愛を感じます。

今回は中津川市の北、旧福岡町の広恵寺城の見学をしてまいりました。
麓には調整池の広恵寺堤が満々と水を湛えてとても美しいのです。・・普段は・・。
しかし、今回は堤の工事のため水がすっからかんに抜かれていました・・( ;∀;)

koeji (1)広恵寺城の手前の堤池は水が抜かれていました・・。

まぁ・・、これはこれで滅多に見れない原風景なのだと思います。
工事現場の皆さん、ご苦労様ッス!
ということで登城口に向かいます。

koeji (4)立派な石碑に超感動するのであります。(゚□゚*)

これも以前訪れた時にはなかった石碑です。
祀られている、というイメージの存在にやはり地元の方々の愛着を感じるでしょう。
ご丁寧に、東へ600m、との案内も彫り込まれていますね。

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城ヶ根山は全体が露出した岩に覆われています。

まるで天然の石垣のようです。付近の笠置山山系によくみられる地形です。
もちろん自然地形なのですが存在感のある岩ばかりです。
他の城だったら、物見岩、とか、〇畳岩とか名前がつきそうな露岩があちこちに。

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大手道を見守る祠。出会えたら幸運かも。

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頂上が近くになるにつれ、斜度がきつくなっていきます。

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中央の窪地がなんとなく大手口に感じながら通過していきます。

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連続で現れる虎口状の遺構です。

これはあくまでも目を凝らしての観察ですが・・。
尾根筋と平行に開口している姿、この2つ重ねがおそらく大手虎口なんでしょう。
脇には腰郭も配されています。

koeji (29)二ツ森山山系の素晴らしい眺めが堪能できます。\(^o^)/絶景!

城の南側は一部、採石の削り址が間近まで迫っており、断崖絶壁になっています。
そのため、遮るもののない風景が楽しめます。
現在は消失していますが、かつて「腹切り岩」なる岩がこの先にあったようです。

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ちょっとこれ以上へは足がすくんでしまひまふ・・。(´Д`lll)

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そして、主郭部に到着です。ごついですが結構広~いのです。

主郭部内は地質のせいか傾斜も伴い、削平も落ち着かない様子です。
郭内に明確な段差は見られないので基本的に単郭タイプの城ですね。
唯、東側には少し高台になった一画が見られます。

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主郭部を西から北方面に取り巻く腰郭の切岸。

北尾根筋からの侵入にも備えていたのでしょう。
法面にはしっかりと切岸が全体にかけられています。
それには大切な水の手を守る意図も感じられます。 

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井戸曲輪にある「姫井戸」。

写真の中央の窪みが今でも枯れることがない、という「姫井戸」と呼ばれる井戸址です。
おわかりでしょうか・・。
傍らの樹木が今でも蜘蛛の足のような根で井戸を守っているのです。(ちょっと感動)

koeji (13)そして、城中最大の圧倒遺構、大堀切です。

やや時代が古いせいもあってシャープさに欠けますが幅が広い堀切です。
堀底には土橋が設けられていたであろう址があります。
端部は竪堀となって尾根を遮断しているようです。

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露岩を上手く活用しての堀切は見応えがあります。

こういった地形が防御に活かされた、とは思います。
しかし逆に地形に規制され明確な郭を構成できなかったことも事実でしょう。
戦国期以前の貴重な遠山氏系城郭の姿、なのかもしれません。

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斜面(法面)の露岩は逆茂木の役割も果たせそうです。

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東の尾根には続けて2条の堀切も確認されます。

上の写真は城の東を画す、主郭からの3本目の堀切です。
ちんの峠、木曽方面に対する防備、とも解釈できましょう。
下図に縄張り図を示します。(また余計な彩色ですが・・)

koejinbz01.jpg

広恵寺城は元弘(1331~1333)から建武(1334~1335)年間頃の築城、とされます。
築城者は遠山景長で、或いは彼の父、一雲入道景利とも伝わります。

大永年間(1521~1527)から天文年間(1532~1554)に現在の苗木城に本拠が移されます。
当時の苗木城は「高森城」と呼ばれていました。
遠山直廉は、木曽路の重要性に着目、岩村城との連絡もしやすい苗木城を本拠としたようです。

約200年もの間、遠山氏の居城として存在していたのでしょうか、驚きです・・。
遠山氏の恵那郡一円への勢力拡大、この地が起点であったと思うと感慨深いです。
「広恵寺」の名は城の南東麓の寺院の名にちなんだものです。

広恵寺城が築かれた地は、北の飛騨口と木曽への西古道を押さえる要地でした。
実際、何度か飛騨勢との合戦も伝わっており、また信濃の勢力の侵攻も受けたようです。
城には落城の悲話も伝わっており、平穏無事でなかったことを物語っています。

城友・日向さんからの情報によれば・・、
落城の際に川に身投げをした、と伝わる乙姫淵の伝説も残っているそうです。
(悲しい現場には一人では行けません・・)

かつて存在した「腹切り岩」では、実際にそのような伝説もあるのでしょう・・。

城からの眺めは美しくもありながら悲壮な落日の場面も思い起こさせます。
城内に見られる露岩も苗木城の様相と通じる所が見受けられます。
巨石とのつながりは、遠山氏の精神として受け継がれていったのでしょうか。

苗木城へと受け継がれていった精神と姿が見学できる城、
古風な遺構が手付かずで残されている、貴重な広恵寺城でございました。



ここにも寄ってみました

koeji (35)片岡寺址の土塁遺構。

帰り道に片岡寺址(へんこうじあと)に寄ってまりました。
かつては方形の館状となり、土塁と堀に囲まれていたそうです。
広恵寺城とは居館と詰め城、という関係も導きだせる遺構です。
(やや離れている感はありますが)

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高さ4mにも及ぶ大きな土塁です。

土塁の対面にある地は「殿畑」と呼ばれているそうです。
近世遠山氏に関わる寺院でしたが、明治時代の廃仏毀釈によって、廃寺となりました。

koeji (39)広恵寺城と直接、関係があったのかどうか、注目したい遺構ですね。

よく整備された山城 阿木城

阿木城(岐阜県中津川市阿木大門前・城ケ峰)<市指定史跡>▲541m
阿木川ダムからちょっと足をのばして阿木城に行ってみました。
こちらの城址には15年前ほど前に一度作図調査に訪れたことがありましたが
つい先日新聞にて地元の保存会の方々によるPR記事が掲載されていたので
久しぶりに行ってみようと思います。

阿木集落に入ると忘れもしない山容が目に入ってきました。懐かしいです。
この阿木集落も田畑と山林に囲まれたとてものどかな感じの里山です。

IMG_7829.jpgいかにも城址っぽい山容の阿木城を西南から見る

城主は元々は遠山氏勢力の一族かとも言われていますが、文献には戸田甚左衛門、大藤権允、堀田氏らが
記録されています。勢力の入れ替わりに伴い城主も変わっていったものとも見られます。

IMG_7869.jpg水田に映る阿木城址・城ケ峰を東南から眺める

久しぶりに来てみて阿木駅からどうやっていったか忘れてしまってましたが・・
城址までの案内板が用意されていて迷うことなく駐車場のある登城口まで来れました。
こういった案内がしっかりされているのも整備されている目安ですね。

IMG_7831.jpg  IMG_7833.jpg
要所要所にある手作り案内板

登り口には阿木城の概要や遺構図が書かれたチラシやなんと!カラー印刷されたリーフレット
まで用意されています。しかもスタンプに来城記録簿まであるではないですか!
さすがにこれにはびっくりしましたw(゚o゚)w。
ここまでやられるとは・・ただならぬ気合いの入れようを感じました。

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できたばかりのリーフレット(左)とお手製案内図!、特製スタンプ!に城ボルテージがあがります(右)

登山道もとても整備されており、登りやすいです。
登り始めて程なく大手門にあたる虎口に入ります。
なんとなく堀底を通過するような感じ・・。

IMG_7834.jpg阿木城虎口

見学していると「こんにちわ!」と元気な挨拶が聞こえてきました。
声の方を見上げると気さくそうなおとうさんが見えるではありませんか。
・・ちょっとびっくり・・こんなところで人に会うことはあまりないですから・・

新聞をみて城の見学に伺ったことをお話ししたところ
お父さんはなんと阿木城保存会会長のNさんでした。またまたびっくりです・・。
新聞の写真に出て見えた方だ・・と瞬間的に思い出しました。

N会長さんは地元の方々と少しずつこの阿木城を整備されてみえます。
とても精力的なお方で保存や周知に情熱を注いでいる様子が伝わってきました。
苦労話もとても楽しそうに語ってみえました。
おまけに城のあちこちを説明しながら案内していただきました。本当にありがたいことです。

IMG_7861.jpg保存会会長さんと城めぐりに

見上げると曲輪が2段、3段とあるのが明確にわかります。
ここから土塁をめぐらした腰曲輪をに入ります。
それにしても見やすい遺構です。曲輪や土塁の規模もつかみやすいです。

IMG_7837.jpg  IMG_7838.jpg
とても手入れが行き届いていますので遺構の状態が見学しやすいです

本丸には真新しい城址碑と縄張り図も別々に設けてあります。
本丸はほぼ円を描いたようなサークル状のとても広いスペースがあります。
「千畳敷」と呼ばれており居住性が感じられ周囲は鋭い切岸がかかっています。

IMG_7840.jpg阿木城本丸に立つ城址碑と測量図案内板

IMG_7842.jpgわかりやすいコンタ測量図 

IMG_7846.jpg本丸にて野外説明会も計画中とのこと。オツですね

IMG_7847.jpg程よく残された伐採で保存にも気配りが感じられる

IMG_7848.jpg会長さん曰く「石つぶてでは?」と展示

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5メートルはあろう本丸と帯曲輪間との段差(左) 容易には取り付きできない切岸の様子(右)

背後の北東尾根続きには大堀切があります。この堀切はL字型に谷に向かって竪堀となっています。
おおきな遮断遺構ですね。幅は10メートル、深さも6~5メートルあります。

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IMG_7860.jpg本丸より西に続く尾根にも左写真の堀切があります

会長さんとのお話しの中でも話題となりましたがこれだけの規模の城はとても一在地勢力だけの手では
築城できないとみられます。
こちらの地方でも戦国期は織田・武田・遠山氏らの攻防の影響下にあったにあったことでしょう。
現在の姿はいずれかの外部大名級の指示のもとに一気に普請された城だとみられています。

会長さんには城内の意味ありげな石や岩も案内していただきました。

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割ったゆで卵の黄身だけ残した感じにみえます(左) ここにだけ存在する意味ありげな岩(右)

さらに江戸期の野外舞台の址地や八幡神社の成り立ち、奈良・平安時代からのものとされる阿弥陀座像の
案内もしていただきました。
時代は前後しますがこういった周辺文化財との関連性も面白い発見がありそうです。

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野外舞台には舞台袖や花道の址まで残っているとのこと(左)阿弥陀座像が収められているお堂(右)

今回の訪城では幸運にも保存会会長様にお会いできて阿木城の事以外でもいろいろなお話しを
していただきました。本当に感謝しています。とても楽しく盛りだくさんの内容でした。

阿木城を単なる城ブームではなく城址を通じて地域の歴史とのつながりをもてるような場所にしたいという
願いが感じられました。今後の活動も一層盛り上がっていくものと思い見逃せないものがあります。
お別れに特製ポスターもいただいき超感激してしまいました♪───O(≧∇≦)O────♪。

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プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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