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三河 田原城(巴江城) 🏯派手さはなくとも落ち着いた佇まい

三河 田原城(巴江城)(愛知県田原町巴江)

早いもので本ブログ開設以来5周年を迎えます。
正直申しますと最初は暇つぶし程度に始めたブログでした(汗)。
それがだんだんとのめり込んでいくようになりました。
立ち寄って目を通してくださる方も増えました。
このブログを通してお友達になれた方もみえます。
実際にお会いして共に城めぐりができるなんて夢のようです。
ありがたいコメントを寄せて頂く方もみえます。
・・自分でもとても驚いております。
おかげさまで飽きっぽい自分のモチベーションが保たれております(笑)。
皆様には「感謝」の言葉以外ないように思います。

本当に「ありがとうございます【感謝】」
そして「今後供よろしくお願いいたします」

しかしながらこの記事を書いている現在の世界はかつてない危機に直面しています。
誰もが想定していなかった悪夢といってもいい新型コロナウイルスの蔓延。
私たちはどうやっても乗り越え、生き抜かなければなりません。

外出自粛の中、今日も城の記事を書き続けます、5年前の気持ちのままで。
もしかしたら「城」があった過去から学ぶとこもあろうかとも思います。
今回はそんな中訪れた三河渥美半島の田原城です。

atmtahara (30)
とても城下の雰囲気のある下見板張塀の通りです。

田原駅からのんびり歩いての散策。
城はやっぱり大手から登城しなくっちゃね。
・・とか言いつついつもショートカットしてる奴はどいつだい?

「・・アタイだよ!」

atmtahara (29)
田原市の報民倉のある「大手公園」から城域に入って行きます。

「報民倉」とは、田原藩が救民のため建設した備蓄倉庫のことです。
天保6年(1835)田原藩は渡辺崋山の指導の下、飢饉に備え備蓄庫の建設をl企画しました。
翌年からの天保の大飢饉では田原藩は一人の餓死者・流亡者をだすことはありませんでした。

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かつてこの場所には田原城の惣門がありました。

当時の石垣が一部残存しています。
市街地化していますが外郭ラインの貴重な遺構となります。
ちなみに現代の「報民倉」は巨大地震などの災害に備えるための資機材が保管されています。

・・さすがです!田原市!

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現代にも残る食違いがかかった大手道です。

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武家屋敷が立ち並んでいたであろう城への直線道「大手通り」。

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藩校・成章館跡のあった前を通り過ぎます。

かつての藩校は現在は田原中部小学校となっています。
「成章館」の名は現在の県立成章高等学校へと受け継がれています。
報民倉といい当時の施設と役割が時を越えてリンクしているのがいいですね。

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いよいよ桜門へといたりますが・・この橋も雰囲気あります。・・現在通れませんが・・。

atmtahara (8)田原城の追手門にあたる桜門(復元)です。

平成6年に左右の土塀と共に復元されました。
古写真を参考にして下板張、左右の土塀は海鼠壁となっています。
なかなか重層感があって惹きつけられるものがあります。

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桜門の東側には「袖池」と呼ばれる水堀となっています。

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桜門の西側には「柝池(ひょうしぎいけ)、これ読めない!」

「柝」という漢字は初めて知りました。そしてすぐ忘れるでしょう(笑)。
丘の上にも関わらずこのような大きな水堀があるのは意外です。
いずれにせよ、充分な威圧感のある門と堀のセットだと思います。

atmtahara (9)復興された三ノ丸土塀と石垣を袖池堀越しに眺めます。

このアングルは桜がとても綺麗でお気に入りです。
手前の堀は袖池で城内では最も石垣が多用されている部分です。
石垣の角部が柔らかく曲線にしているのが印象的で優雅です。

atmtahara (7)そして田原城の城址石碑です。実にいい場所に立ってますね~。

atmtahara (11)桜門を通過すると復興二ノ丸櫓にお目見え。

この櫓は昭和33年(1958)に復興された模擬櫓です。
明治時代の古写真では壁が下見張となっています。
ややずんぐりむっくりなフォルムですが田原城のシンボル的存在ですね。

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二の丸櫓の内部は考古資料を主とした展示室となっています。入場無料です。

atmtahara (5)展示されている模型がとても解りやすく当時の様子が掴めます。

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三の丸は護国神社の境内地となっています。

渡辺崋山の碑や田原市ゆかりの偉人たちの記念碑が建立されています。
上の写真は渡辺崋山の顕彰碑。神々しい日差しが指していました。
三ノ丸からは城の内側から水堀を見下ろすことのできる隠れポイントでもあります。

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三ノ丸から見上げる木々の間の二ノ丸櫓もよろしいかと。

atmtahara (19)本丸には巴江神社が建立されています。

巴江神社は田原藩主三宅氏の遠祖・児島高徳徳川家康に仕えた三宅康貞を祀ります。
本丸の周囲は土塁で囲まれていて特に南東と西側の土塁は高くなっています。
これはおそらく海風からの強風を防ぐ役割もあったと思われます。

atmtahara (17)かつては湾内となり海水が入り込んでいたという城下を見下ろします。

新田開発(江戸前期以前)によって干拓される以前は海水が湾入していました。
その様が「巴文」状であったために別名:巴江城と呼ばれる由縁です。
巴文様とはC字形をした勾玉に形が似ているイメージですね。

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触ると幸福を招くと伝えられる「招福の石」で思いを念じてみましょう(^^♪

ここ本丸に至る土橋の両脇には深い空堀も見られます。
中世以降の田原城の骨格ベースがこの本丸周囲に見られます。
近世になってもその姿は引き続かれ現在に至っていることが実感できます。

atmtahara (38)
本丸の高まりを東側から確認してみます。桜も綺麗ですよね(*’U`*)。

atmtahara (39)本丸と二ノ丸間の深い空堀は遊歩道となっています。

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田原城古井戸が本丸と二の丸の空堀間にあります。

atmtahara (20) 本丸・二ノ丸間の石垣は一部組み直されたものですが壮観。

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二の丸から続く出丸には現在崋山神社が祀られています。

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崋山会館前の「憂国の先覚者」渡辺崋山のレリーフ。

田原藩の家老・渡辺崋山は一流の画家でもありました。
藩政改革に取り組み殖産興業策を推進して財政再建を図っています。
蛮社の獄では幕府の対外政策を非難し連座、失脚して自刃します。

自分は崋山に事績に関してはほとんど無知でした。
でも崋山の領民救済の優先を徹底させる行いは立派だと思いました。
・・もっと勉強しなくちゃいけません。

田原城の創築は文明十二年(1480)頃で戸田宗光が初代城主と伝わります。
宗光は守護代の一色七郎政照を隠居に追い込み渥美半島を統一したといわれます。
以降天文年間までは戸田氏による支配が続きます。

戸田氏に関しては天文16年の松平竹千代強奪事件、三河での勢力拡大と没落・・。
今川・徳川・織田勢力圏間でいろいろと話題の多い強大な勢力を築いた一族です。
それらをここでは取り上げることはできませんが三河海洋勢力の影響は多大でした。

田原城にはいわゆる天守に相当する建築物は築かれませんでした。
しかし、復興桜門と水堀、二ノ丸櫓と石垣、空堀と本丸土塁、等々・・。
戦国期の基本構造と近世の曲輪配置、周囲の歴史景観が楽しめました。

春の風に吹かれての佇まいある田原城址。いつもより静かに桜が咲き誇っていました。



Ⓢは田原城惣門址、Ⓖは巴江神社が鎮座する田原城本丸部。
車の駐車場は本丸西側の田原市博物館に無料で広い駐車場があります。


atmtahara (1)
広い駐車場がある田原市博物館はかつての蓮池堀の跡地でもあります。
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三河 波入江城 🏯かつては海に面した丘城だったとか

三河 波入江城 (愛知県豊橋市老津町波入江)

お盆休みにちょいちょい奥方実家の付近の城を徘徊しておりまして・・。
そういえばあんな城址やこんな城址もあったな、という回想録です。
(暑い中を走り回ったので所々で記憶が飛んでいるかも・・)

前回の高縄城からすぐ近くの波入江城を訪問しました。
波入江城はその名の通りかつては三河湾に面していた入江に面した城であったようです。
戸田氏の支城のひとつであったようですが、具体的な城主や機能した年代などは不明です。

namiiei (6)祥雲寺一帯がかつての主郭部。

そう言われると周囲は湿地帯となっていてかつての入江を想像できそうです。
たくましい想像力を働かせれば参道が土橋、その周囲は波が打ち寄せる堀・・。
・・って、いくらなんでも妄想の世界ですかね。

namiiei (5)

namiiei (3)
温暖な気候である渥美半島ならではの風景です。

namiiei (1)波入江城、毛筆手書の城址板を発見いたしましたv(o゚∀゚o)v

恐らく住職様のお計らいでしょうが、山門の扉の裏側にあります。
普通に見学していたら見落とすこと間違いありません・・。
しかも消えかかっていくのも時間の問題かと。

他にも手書きによる有難いお説教がいろいろと掲げられてございました。
namiiei (4)
文字を解読しながら、なんとか解釈したいのですが一部無理でした・・。

立地状況からみると三河湾を押さえ、田原城、高縄城への繋ぎの城とも解釈できます。
高縄城からは1500m、距離的には出城であったとの見方もできましょう。



Ⓢは祥雲寺参拝者用駐車場です。
Ⓖは祥雲寺山門と本堂。山門の扉裏に毛筆手書きの城址板?あり・・です。


三河 高縄城(大津城) 🏯戸田氏との関連深い城

三河 高縄城(大津城) (愛知県豊橋市老津町西高縄)

「不要不急の外出を控える夏」、・・・。
かつてそんな夏はなかったように記憶しております。
もちろん、久太郎にとっては城巡りを控える夏はございません。

皆様におかれましては残暑の候、心からお見舞い申し上げます。

三河の畔田城に続いて訪れた城、高縄城を訪問しました。
高縄城は現在市立家政高等専修学校の敷地となっています。
夏休みに訪れたため学校はお休み、西側の麓から見学しました。

tnwj (5)高縄城全体フォルムは南側から確認できます。

takanawa (1)高縄城は渥美の雄・戸田宗光の田原城を築いて移るまでの居城でした。
その後戸田忠次が徳川家康の旗下として緒戦で活躍、大津城と付近に2,300石を与えられました。

当初、三河一向一揆では一揆衆としてこれに応じた忠次でありましたが・・。
戸田氏は元々徳川氏とは縁戚関係があったため、内通を疑う者もありました。
この風潮に対し、忠次は徳川方に転じ、徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わわりました。

その後は家康の下で主だった戦いにて戦功を重ねていきます。
「徳川二十将」の一人として挙げられていますが何故か十六神将からは外れていますね。
(徳川二十八神将にもその名は見えず・・??・・)

そして徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜ります。
文禄・慶長の役の折には、忠次は老齢の身ながら家康に「朝鮮出陣あらば推して従軍せん」と懇願。
これを聞いた豊臣秀吉は、忠次をして「壮者の亀鑑」と称賛したといいいます。

takanawa (3)
現在、高縄城は大部分が学校や畑地に変わり、堀と土塁の一部が残っています。

tnwj (2)畑になり削り残された土塁址が周囲に断片ですが確認できます。

tnwj (4)

tnwj (3)
東西に延びた台地上に構えられたかなり広大な城であったようです。

tnwj (1)ブッシュとなっていますがかなり大きな堀切の端部も確認できました。

地形的に尾根の南北を大きく遮断する堀切が存在していたと思われます。
堀切写真の右側の上には土塁痕がありますが高さから櫓台であったのかもしれません。
周囲が切り崩された現在はどうにも確認のしようがありませんでした。

吉田城と田原の城のほぼ中間点に当たる重要な城であったと思われます。



Ⓢには城址碑があります。
Ⓖ周辺一帯が高縄城の主郭部だと思われます。周囲には土塁痕が見られます。

三河 畔田城 🏯畔田氏の太平洋に面した断崖上の城

三河 畔田城 (愛知県豊橋市城下町)

お盆帰省、奥方の実家でのんびりしてりゃいいものを・・。
体が欲する城めぐり、抑えきれないこの衝動は制御不可能です。
今回は三河最南端部での遺構が残る城、畔田城(くろだじょう)を見学しました。

ところで自分、小学生時代の夏休みといえば・・。
早朝にラジオ体操、午前中はプール、お昼からは昆虫採集、
ちょいと昼寝をしたら、夕方からは自由研究、プラモ作成!・・でしたでしょうか(^_^;)。

皆さんの夏休みはいかがでしたでしょうか?
(小学生からの生活スタイルにあまり変化がない自分です・・)

mikakuroda (8)
かつては城址入り口にこのような標柱が建てられていましたが・・。

久しぶりに行ってみたら無くなってました・・。
あれだけ「防腐剤を塗っておいてね」、と思っていたのに・・。(思っていただけです)
国道42号線の城下交差点の信号を南に入るとスグの場所です。
(文末に地図をお付けします)

mikakuroda (6)手作り感ある木橋?をニンマリしながら渡ってみます(* ´ = ` *)。

城跡として地元の方々による整備がなされていました。
木橋の強度はやや不安な面もありますが(笑)、なかなかの出来栄えだと思います。
逆にここが見所、となりましょうか。

また国道42号沿いの「城下老人憩の家」にも是非寄ってみるとよいです。
公民館風の玄関口では畔田城の写真や縄張り図、年表等が無料で見学できます。
出入り自由なので気楽に予習復習ができますよ。
(個人所有?かもしれないので写真のアップは控えさせていただきます)

mikakuroda (3)
本丸部分は円形状の平坦地となっています。

本丸からは木々に阻まれて見えませんが・・。
直下には広大な太平洋遠州灘が広がる、崖の上のポニョ、・・じゃない、シロなんです。
「ポニョ、城、好きー」

・・ごめんなさい。

mikakuroda (5)
一刻も早い防腐剤対策を・・。すでに根の部分が・・(笑)。

東観音寺(豊橋市小松原町)の古記録によれば・・。
この寺の寛正二年(1461)の棟札には畔田遠江守とその弟・畔田修理亮の名が記されています。
畔田氏という豪族が周辺一帯を保持していたようです。

他にも畔田氏に関連する城址が市内周辺に三ヵ所ほど伝えられています。
草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(豊橋市畑ヶ田町)、中瀬古館(豊橋市野依町)です。
畔田氏は後に、今川氏、或いは田原城の戸田氏の支配下に属したと思われます。

mikakuroda (10)折角のカッコいい城址碑、ぼ、防腐剤を~!(;д;)

ところで・・とても信じ難い話なのですが・・。
昔は村の集落が城の南側、つまり太平洋側にあった、と伝わります。
しかし、津波による被害、その後の波による浸食などで、平地部は消滅の危機へ。

村人たちは次第に高台へ移り住み、今では城址本丸が最も海に近くなったのだそうです。
「城下」の地名はここからきているそうで、現在は一面の砂浜となり、面影はありません・・。
ホントに信じられないのですが・。

奥方のご両親らも口を揃えて言います。
「浜が年々だんだん狭くなり、海が近づいてきている」・・と。
異常気象による海面上昇に南海トラフ巨大地震の予感・・。

畔田城はその危機を伝え続けている貴重な城址なのかもしれません。

本丸からは周囲の雑木林に阻まれて太平洋が見えませんが、海岸に下りることができます。
ちょっと趣向をこらして夕日なんぞを見に行ってみました。
かつての城下町はこの砂浜の下、だなんて・・。

mikakuroda (2)
美しい夕陽です。夕陽ははいつまでも変わらないといいです・・。

何かを伝えているような夕陽に思えて仕方がない、夕映えの畔田城にて。



Ⓢ付近に駐車場と城址碑あり
Ⓖが畔田城主郭部


三河 石橋城 🏯屋敷の様子がよく残る館城址

三河 石橋城 (愛知県新城市作手清岳寺屋敷・慈昌院)

石橋城は道の駅「つくで手作り村」のすぐ対面にあります。
亀山城からも歩いても、すぐ近くの所ですので一緒に回れるスポットです。
道の駅を拠点に周辺の城めぐりもいいですね。

isibasi (1)
石橋城址の慈昌院山門。

isibasi (6)

isibasi (3)境内の奥には案内板が設置されています。

isibasi (4)
北側から西側にかけて土塁がめぐっていて見学できます。

isibasi (2)

isibasi (5)
西方土塁の腰部には石祠が供養されていました。

石橋城は「石橋館」,「弾正屋敷」、とも呼ばれ、中世方形館城の様子をよく残しています。
じっくり見学しても、ササっと見学してもそんなに時間はかかりません。
古宮城や亀山城、川尻城などとコースに入れて見学すると良いと思います。



プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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