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水攻め本陣 太閤山砦

美濃 太閤山砦 (岐阜県羽島市福寿町間島)

竹鼻城を水攻めにかけた際に秀吉が本陣を構えた高台がここと伝えられています。
ちょうど一夜堤の後方に構えた場所にあたります。一夜堤については竹鼻城と一夜堤を参照してください。

IMG_7250.jpg太閤山砦一帯の八幡神社

IMG_7244.jpg太閤山を示す石碑

現在八幡神社一帯の小丘がその名残りを留めているようです。
石碑には太閤山と五輪塔の由来文が書かれていました。

高台に登って竹鼻城方面を覗いてみました。・・が・・見えません(;д;)。
当時は遮るものなく見えたんでしょうね・・。秀吉になったつもりで目を凝らしてみますが・・。
この竹鼻城関連史跡めぐりで想像力がたくましくなった気がしてなりません。

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竹鼻城と一夜堤を巡る

美濃 竹鼻城 (岐阜県羽島市竹鼻町) <羽島市指定史跡>

そもそもの築城は応仁年間、竹腰尚隆によるものとされていますが、その後
土岐氏、斎藤氏、織田氏と時代の権力者に従っていきました。
戦国期は織田信雄の家臣であった不破源六広綱が居城としていました。

IMG_7240.jpg竹鼻城石碑と説明版

この城は小牧・長久手の戦いにおいて尾張へ出陣した羽柴軍によって水攻めに
されたことで有名です。不破源六広綱は20日間余りに及ぶ水攻めに降伏しました。

ちなみに「水攻め」された城の実例はそんなに確認さていません。
一番有名なのはなんといっても織田軍の羽柴秀吉による備中高松城の水攻めでしょうか。
次はどうでしょう、羽柴軍の小田原合戦の際、石田三成が武蔵忍城に寄せた際の水攻めでしょうか。

では、その次は・・地元びいきでここ竹鼻城!としたいところですが・・
なんでも「日本3大水攻め」なるものがございまして(誰が何を基準につけたものか・・)
羽柴軍による紀州太田城の水攻めだそうです(T_T)・・。なんか悔しさが込み上げてきました。

今回の竹鼻城は残念ながら見所がないので、その代わりに秀吉による水攻めがいかなる規模
のものだったのか、その址を追ってみました。
竹鼻城周辺には秀吉によって築かれた「一夜堤」の碑が何ヶ所か見られますね。
(ホント羽島市には敬服いたします)。

IMG_7383.jpg羽島市営斎場西側の一夜堤碑(北端)

IMG_7379.jpg今町交差点西の一夜堤碑

IMG_7238.jpg蒲池交差点南東の一夜堤碑

IMG_7381.jpg羽島郵便局西向かい地の一夜堤碑(南端)

確認できたものは4ケ所ですがこの4ケ所を点と線で結べばぐるっと竹鼻城を包み込むように
半周にかけて取り囲んでいたであろう様子がわかります。その土木量たるや相当なものだった事でしょう。

そして個人的にこの一夜堤を探しめぐるラリーはなかなか楽しいものがありました。

そしてこの城は関ケ原の戦いにも前哨戦の地として再び巻き込まれます。
西軍に呼応した織田秀信(信長嫡孫)の家臣、杉浦重勝が立て籠もりますが
東軍の先鋒、福島正則らに城は落とされます。重勝は自害したようです。

現在城址碑と説明版が羽島市歴史民俗資料館の前に建てられていました。

羽島市の本郷城に寄ってみる

本郷城(羽島市福寿町本郷)<市指定史跡>
須賀城から北に向かって1km、東海道新幹線と県道18号が並走する
羽島大橋手前辺りに本郷城があったとされます。

IMG_7236.jpg本郷城址の神明神社

現在の神明神社一帯が城跡だと伝えられています。
見たところ城址らしき遺構はなさそうですが・・
周囲の地形よりも若干高いのかな・・という程度しかつかめません。

IMG_7233.jpg本郷城址の標柱と石碑

立派な石碑が建てられていますね。羽島市は城址に限らず、文化財や史跡に対して
とても手厚い感じがします。
えぇーと・・このパターンの石碑は裏面にも何か書かれているはず・・。

IMG_7234.jpg石碑裏面の由来説明

ですよね。裏面には本郷城の由来文が詳しく書かれています。
以下説明文より抜粋すると・・

本郷城は、神明神社の西に広がる水田2ヘクタール程であり、明治14年以前には城の内と
呼ばれていた。城の内とは、慶長6年(1601)より元和9年(1622)まで稲葉内匠正成(妻は将軍
徳川家光の乳母となる春日局)が、葉栗郡内と中島郡内を合わせてほぼ一万石を領して居城
を構えた本郷城の址であり、この神明神社も城の鎮守神との伝承がある。

との事です。

開発山になった須賀城へ

須賀城(羽島市堀津町横手)
次に訪問したのは現在の桑原川と長良川にとの間にあったとされる須賀城です。

それにしても河川敷の満開桜はどれも見事です。桜を尻目に無名の城を訪ねる・・
まさに「花より城址」です。

IMG_7226.jpg須賀城址の丘

須賀城は名神高速道路沿い北側の横手東公園一帯にあったとされています。
近くまで来ると周囲より明らかに小高い丘のある公園が見えてきます。
この周辺は字を「定城(さだしろ)」と呼び、この山は「開発山」と呼ばれています。

IMG_7221.jpg頂上の開発山記念碑

頂上の記念碑にはよく読むと城址を示す一文があるではないですか!・・城址碑としましょう\(^o^)/。
城主や由来はよくわかっていませんが、織田信雄分限帳によると、堀津・西加賀野井の地が不破勝兵衛に
宛がわれていたとのことで、竹鼻城・不破氏一族の持城だったのでしょうか。

IMG_7223.jpg城址を示す一文

IMG_7228.jpg開発山由来説明版


この開発山の頂上には須賀城の天守閣があった所と伝わっています。・・と説明版にありますがそこは
想像にお任せします的な感じでいいでしょうか?・・別に疑っている訳ではありませんが・・(´∀`*)

それよりもこの説明版によると開発山の付近にはこのような砂山が二十もあったといいます。
洪水のたびに流れ込んできた土砂を先人たちが苦労して積み上げ水田開発に着手したそうです。

水害と戦いながら村々で協力したできた結晶の址の一部と見れば、城址でなくとも貴重な
遺構であるといえますね。

羽島市の石田城の近辺を歩く

石田城(羽島市下中町石田・市之枝)
次は八神城から北上して桑原川沿いにあったといわれる石田城に行ってみました。
八神城主の毛利氏は元々この石田城を居城としていたそうです。

IMG_7385.jpg石田城址周辺

この地にはかつての城の遺構もなければ城址を示す標柱もありません。
しかし城址と伝えられている南の地に三七松の遺跡という関連史跡がありましたので
紹介してみたいと思います。

IMG_7220.jpg三七松遺跡

説明版の文章より
 伝説によると、天正12年5月竹鼻城が秀吉に水攻めされたとき、城主の不破源六は妻の実父である
八神城主毛利掃部介に援軍を求められたが断られたので、武士の意地から妻を離縁した。
 妻は家来の三七に送られ、実家に帰る途中石田と八神の境で「他家へいったん嫁したからには、どう
して帰れよう」と自害した。三七は遺体をその地に埋葬し、一本の松を植え墓標とした。
これが「三七松」であった。

IMG_7218.jpg三七松説明版

三七松は、大人六人が手をつないでやっと抱えられるほどの大木にまで成長しましたが、大正8年に枯死
してしまったようです。この小丘には三七松に関わる石碑も建てられています。

調べたところ、その後三七自らも切腹したといいます。松は後年、枝を折ると血がにじみ出ると村人に恐れられ
「石田の三七松は天に怖れて地で茂る」と馬子にも歌われたそうです。

ちょっぴりはかなく悲しい話ですが、地元ではこの地を大切に保存している様子が窺えます。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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