美濃 戸狩城 🏯武田氏勢力の築城と伝わるが・・。

美濃 戸狩城 (岐阜県瑞浪市明世町戸狩・城山)

戸狩城は戸狩砦、とも呼ばれている瑞浪市の城郭です。
信頼に足る文献には記されていない城砦ですが、里伝ではその由来が伝わっています。
実際に遺構はほぼ完存していますので調べに行ってまいりました。

togarijyou (13)戸狩山、城山、とも呼ばれる山上一帯が城址と伝わります。

年号などははっきりしていませんが、武田氏の東濃侵攻の際に築かれた砦とされます。
武田方・秋山虎繁の武将、仁木藤九郎がこの地に攻め入り、民家の戸を刈り集め急造したようです。
そのため、戸狩村の戸狩城、と名付けられた訳です。

togarijyou (1)
一乗院山門から中腹まで車でも登っていけます。

togarijyou (7)
一声お掛けして駐車場をお借りしました。

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主郭から南面に向かって段々に曲輪が配置されています。

togarijyou (8)
東西に50メートルにも及ぶ長い郭もあります。

togarijyou (5)
曲輪間には仕切り土塁とも、スロープとも解釈できる遺構が多々見られます。

togarijyou (12)主郭の北側は土壇状となって高くなっています。

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土壇入口には虎口のような曖昧な遺構も確認できます。

togarijyou (2)
若干の石積の址が見られますが、土留め程度にもなっていないようですね。

togarijyou (11)主郭背後を大きく断ち切る堀切が設けられています。

堀幅も8メートルほどあり深さもある大堀切になります。
堀底から主郭部へはスロープによって連絡できるようです。
また堀切は両端部が竪堀となって東西へと落ちていきます。

togarijyou (10)
主郭西側の大竪堀。

背後に見られる大堀切と竪堀は城郭としての位置づけを確定しているものです。
普請量としてもそれなりの大きさを理解できます。
しかし縄張り自体は単純で切岸と元々の自然地形に頼ったものに感じました。

スキャン_20180225 (2)

曲輪間の仕切り土塁や竪土塁などの多用が意味不明なのですが、
部分的に後世、何かしらの転用や改変を受けているのかもしれません。
少なくとも、遺構から武田氏築城を裏付けする、となると・・ムズカシイ所ではあります。

togarijyou (3)
元々の大手道は高速道路建設によって分断されています。

togarijyou (4)戸狩城・大手からの眺めは瑞浪市内を一望できます。

南正面に小里城がはっきりと確認できます。
織田方による小里城~鶴ヶ城~御嵩・兼山城の防衛ラインの内側に何故、武田方の砦があるのか?
その伝承も確たるものではないので一時的であるにせよ、不思議に感じました。

かといって織田方によって固められたとする痕跡も文献も見当たりません。(う~ん、八方塞がり)
戸狩城は立地的にも距離的にも鶴ヶ城・小里城と連絡できる位置にあります。
今後はその関係性を論じていくのも面白いかもしれませんね。



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美濃 刈安城 🏯権現山山上に築かれた森厳な神社と城郭

美濃 苅安権現山城 (岐阜県瑞浪市釜戸町大久後・権現山)

「美濃の山城よ!私は帰ってきたぁ!」
アナベル・ガトー少佐※の名言が国道19号線に響き渡る時がきました。

※アニメ「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」におけるアナベル・ガトーのセリフ。
「ソロモンよ!私は帰ってきた!」のアレンジ(パクリ)で生還した喜びの余りに出る言葉です。

久々に美濃の山城に帰ってきました。
山城での雪と寒さ、日没の早さを最大の苦手とする自分としてはちょっとした冬眠期でした。
もっぱら尾張地方の平野部城址めぐりも楽しくて止められませんでしたが・・。

山城の遺構は葉っぱの落ちた冬が観察しやすい、と言われます。
充分、理解していますが、それも諸刃の剣。

実際に登ってみると、山頂には残雪、さっきまでの晴れ空が見る見るうちに雪雲に・・。
北風が吹きこみ、雪がちらつき始めた途端、顔面蒼白になって、慌てて山を降る・・。
そんなことはなるべく御免です。(経験あり・・)

しかしそんな時期ももう過ぎたようです。絶好のシーズンの到来。
今年最初の美濃・山城めぐりはここにしました。
それが苅安権現山城です。

gongen-k (38)シンボルチックな山の山頂部が苅安権現山城です。

地元では「権現山城」というのが一般的な呼び名のようですが、
信仰関連の山名だけに「権現山城」なるもの、全国に点在しています。
岐阜県内(※)だけでも何ヶ所かありますので「苅安権現城」として記していきます。

(※ 御嵩町の御嵩権現山城、岐阜市芥見の長山権現山城、等々・・)

gongen-k (41)
麓から見ると高い山ですが中腹部を通った旧中山道までは車でいけます。(安心してください。)

gongen-k (1) gongen-k (2)
ちょっと歩きますが旧中山道沿いの大久後駐車場に停車、権現坂を登っていきます。

gongen-k (3)登り切った所で苅安神社の参道を登っていきます。

「ちょっと神社があるようだから行ってみよう」、という軽い気持ちは捨ててください。
思いのほかハードな参道です。きつい傾斜もあり15分から20分の登山になります。
ただし、登山道はかなり整備さていますから大丈夫。(安心してください、2回目。)

gonngenn-k2 (1)南に面した登山道は広く木洩れ日が気持ちいいです。

gongen-k (5) gongen-k (7)

gongen-k (6)頂上の苅安神社に到着しました。ほら、やっぱり雪が残っています。

gonngenn-k2 (4) 手洗いしたくともできず・・。

苅安神社は大戦中、多くの出征する方々が麓から戦勝を祈願しに参詣したようです。
現在でも天井や壁や梁など当時の書き込みの跡が見られます。
(生々しいですが、これも過日の貴重なメッセージなのです。)

gongen-k (9)本殿の裏にそびえる大きな岩は「烏帽子岩」と呼ばれています。

この烏帽子岩の西一帯に主な城郭遺構が見られます。
もちろん神社の東側も城の一部であったのでしょうが、
やはり本殿一帯は造成されたスペースのようです。

gongen-k (8) 比較的新しい石垣で拡張されています。

gongen-k (22)烏帽子岩の西側には堀切があります。

gonngenn-k2 (5)堀切の北端は竪堀となって下に延びています。

gongen-k (23)
ちょっと恐れ多いのですが、烏帽子岩に登って見おろしてみます。
おぉ、足元がこぉわぁ~ぃぃ・・でも・・。

gongen-k (27) 正面の恵那山がきれい~。

gongen-k (12)

gongen-k (18)主郭部の法面は切岸がしっかりありますね。

gongen-k (19)腰曲輪の外周には低い土塁が巡っています。

この土塁遺構が西からの尾根筋に備えられていることは理解できます。
しかし堀切を設けていないことから、西尾根伝いからの味方連絡路の確保を重要視した、
とも解釈できます。土塁中央部が途切れ、出入りが容易になっているからです。

gongen-k (26)土塁中央部は開口しており尾根道へとつながっています。

gongen-k (24)主郭北側にはL字型の虎口状遺構も見られます。

gongen-k (25) 主郭の周囲は腰郭がとりまいています。

gonngenn-k2 (7)神社の東側は断崖の岩がとりまき取り付くことができません。

gongen-k (40)東端部の岩からは武並方面・屏風山山系の眺望がすぐれています。

現在は木々が生い茂り眺望は一部しか得られませんが、
本来は周囲の視界は遮るものがなく広い範囲を一望のもとに見渡せる場所です。
城や砦、狼煙台など置かれない理由がないくらいの絶好の山です。

さて、このような苅安城ですが伝承としては不明点が多いのが事実です。

武並町藤にある洞禅院の沿革によれば、文明年間に尾張大草城主・西尾道永が築城した、
というのが一説としてあります。
そうです、あの尾張・大草城(現・小牧市)の西尾道永さんです。(👈是非、リンクで・・。)

touzenninn2.jpg 藤地区の洞禅院にも訪問です。

大草城での約束を自分、忘れてはいません!。
あれ以来、ずっと引っかかって気になっていたのです。
それゆえ、今回は感激もひとしお、といったところでした。

西尾氏は岩村城の遠山氏の家老であったともいわれていますが、道永の後裔、西尾五郎八
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際は東濃地方で西軍側として家康方東濃諸氏と戦い、
滅亡した、と伝えられています。

また、さること文明5年(1473)の小笠原・木曽氏の南下により落城した東濃地方の「萩之島城」を
この城址と比定している向きもあり、諸説入り乱れてはっきりしていない、というのが実情のようです。

しかし、この苅安城の北の中腹部の尾根先端部にも「五郎塞」という城郭が存在します。
「五郎塞」の城主は先程の西尾五郎八が伝わるので西尾氏と何らかの関係があった、
ということだけは想像できそうです。

次回はその「五郎塞」の内容を記していきたいと思っております。
そこでは思わぬ出会いもありました・・。



小里国定屋敷 🏯 小里氏の館址

美濃 小里国定屋敷 (岐阜県瑞浪市稲津小里・城屋敷)

県道20号線から「うどんの屏風山」さんのお店の脇道へはいると、道路端に石碑があります。
こちらに小里国定の屋敷があったとされています。
小里新城にも近く、関連もあったものと。

oriyasiki (2)堂々たる石碑です。石碑の後ろの土地一帯が屋敷と伝えられています。

小里川が北と南、それぞれで大きく湾曲している間の右岸段丘に構えられたようです。
こちらの土地の方のお話しを伺いましたところ、今でも土中から陶片が出てくることがあるそうです。
裏には沢が流れ、堀として利用していたようです。
ご丁寧にも案内していただきました。

oriyasiki (3)
なるほど、背後は沢によってほぼ垂直に深くえぐれています。まるで滝のある渓谷です。

この光景のギャップには非常に驚きました。
同じ場所とは思えない程、景色が一変します。
この沢はすぐ下の小里川に合流しています。

ふと、美濃守護の土岐氏系の館には少なからず共通点があるのかな、とも思いました。
それは、割と平城で、街道と河川の近くにある、ということです。

瑞浪市の一日市場館(神戸城)、小里国定屋敷・・
土岐氏の大富館や浅野館、高山館・・
多治見市の多治見国長館・・など、・・そういえば、という感じです。

oriyasiki (1) 対岸からの屋敷址の様子。手前が小里川です。

こちらの場所を教えていただいた土地のお方に感謝です。
この場所に屋敷が構えられた理由も理解できました。
ちょっとまとめて、年代別に自分なりの推測なんかしてみたいと思います。

小里古城・・・伝説はあるものの、遺構はありません。少なくとも小里氏の城郭はなかったものと思われます。
小里国定屋敷・・・小里氏は最初はこちらに土着して・・
小里新城・・・小里氏の実質的な居城はこの城から始まり・・
小里城山城・・・戦国期に相応しい山城として築城、信長にあてにされ、対武田軍への向城として再普請へ。

・・と勝手にあれこれと想像してしまいますが、いかがなもんでしょう?
今回、小里城を新城➡城山城➡古城➡屋敷、と順番に回ってみましたが、実に楽しかったです。
小里川ダムもおりまぜて、やっぱり言わしていただきます、小里(折)に触れてまた来たい!と。

失礼いたしました~(〃▽〃)。

美濃 小里古城 🏯城としての遺構、見当たらず・・。

美濃 小里古城 (岐阜県瑞浪市稲津町小里馬場)

小里城は古城、新城、城山城と別々の場所に3つの城址が存在することは、すでに述べてきました。
今回お訪ねしたのは最も古い、小里古城です。

oriko (11)のっぺりとした丘上にあったという小里古城を見ます。

oriko (1) 東側のお寺の下に駐車場をお借りします。

少し登った所に小里古城の進行方向を示す案内板があります。
小里新城で見られた同様の案内板ですね。
山頂までは緩やかな坂道をゆっくり登っていきます。

oriko (2) 墓地に出た、と思ったら小里古城を示す城址板に遭遇。

墓地ということで、写真が撮りずらいのですが、様子だけお伝えします。

 oriko (5)
墓地の奥に祠が祀られていますが、城に関係するものかどうかはわかりません。

oriko (8) oriko (9)
若干の段差が認められますが、城の郭ではなさそうです。

山頂付近も整形されたような形跡はありませんでしたし、堀などの跡もありません。
ほぼ全くの地山、といった感じでした。
山上に豪族の館か、物見台でもあったのでしょうか?

小里古城は源三位頼政の城である、という伝説がありますが・・にわかには、信じられませんね。
どうも美濃守護の土岐頼明と混同されたものではないか、と『瑞浪市史』にはあります。
いずれにせよ、城の遺構もありませんし、それほどの要害でも要衝でもありません。

oriko (10) 老人保健施設側からの登り口。

なんとなくこちらのほうが城の登り口っぽい(大手口)ような気がします。

小里氏との歴史が不明なことや、独立丘にしては無防備すぎる山。
ちょっとロマンにも限界がありそうです。
しかし、相当古い城址、ということで当時の地方城館とは、かくも簡素な普請だった、のかもしれませんね。

美濃 小里城・城山城(後編・山頂部) 🏯山頂の天守台と山麓の居館部が楽しめる城

美濃 小里城・城山城 (岐阜県瑞浪市稲津町小里・城山) <県指定史跡>

小里城山城の築城期は定かでないにせよ、天文3年(1534年)頃に小里光忠による築城とされます。
小里新城から城山城へ移ったということですが、なんらかの軍事緊張があってのことでしょうか。
以前からあった簡単な砦施設を本格的に城郭として増強したのかもしれませんね。

orisiroyama01 (9)意外な所に立派な石碑があります。ヒントは・・矢印&道路!(○`□´○)

天正2年(1574年)にはすでに落とした岩村城を足場に武田勝頼勢が東美濃南部に侵入。
武田軍は岩村城の南西に位置する明知城を包囲します。
織田信長自身が岐阜から救援に駆けつけ、神箆城(瑞浪市・別名鶴ヶ城)に着陣しますが、明知城は空しく落城してしまいます。

kouno01.jpg 信長が救援本陣とした神箆城遠景。

信長は対策として明知・岩村両城の押さえに小里城を普請し、城番には守将として、信頼できる池田恒興を入れ置きました。
恐らく小里氏には信長・恒興からの協力依頼があったものとされ、与力として城を預ける形をとったものと思われます。

なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止されました。

天正11年(1583年)、小里光明織田信孝に仕えますが、賤ヶ岳の戦い後、羽柴秀吉に敗れて信孝が自害した後は、森長可に逆らい小里城を離れ徳川家康に仕えたそうです。

その後、関ヶ原の戦いの功によって光明の孫・小里光親は慶長5年(1600年)に土岐、恵那郡の旧領を再び与えられ、小里城に帰還します。しかし光親の子・小里光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶してしまいます。居城・小里城も廃城になったということです。

以上、ざっと小里城と小里一族波乱の歴史を追ってみました。



麓から頂上を目指して登ること30分、途中休憩や城同志さんとの談話しながらの気ままな登城です。
山頂部に近くなると周囲に大岩や足元に石が多くなってくるのがわかります。
故に足元に注意して下を見ながら登っていきます。

山頂から光が差し、周囲が明るくなってきます。そろそろです。
・・ふと、顔をあげてみます。
逆光の中にお出迎えしてくれるのがこの天守台です。

orisiroyama (17)伝・小里城天守台。「桝形」とも呼ばれています。このごつい石組みがなんとも・・( ^o^)

ゴツゴツとした法則性のない荒石垣といったイメージです。
もともと山頂にあった岩や石を利用して普請したようで、台場周辺には加工途中の石もみられます。
ちょっと一周してみたいと思います。

orisiroyama (24) orisiroyama (18)

元々あった巨石を隅石に利用しているようです(写真:左・案内看板の真後ろ)。
天守台へは弧状になったスロープ石段がついています(写真:右)。

orisiroyama (19)南東から見た天守台。・・さらにごついです。(*´~`*)

厚みの薄い石を算木積することで見た目と構造のバランスをとっているようです。
ほとんど自然石のままで積み上げられている感じですが、一応収まっているのがスゴイんです。

orisiroyama (20) 天守台を南西から見てみます。

天守台裏側にあたりますが、なんだかちょっと手抜き感のある、隙間だらけの石組みです。
石材の大きさも、もうバラバラ、「積まれている」だけです。
目の届きにくい部分を強引につじつま合わせをした、ともいいましょうか。

現代でもこの手のあからさまな手抜き?工事は存在しますね。
このように見る角度によって石垣の積まれ方が異なっている、ということがよくわかります。
そしてこの天守台が不等辺ながら六角形になっていることも同時に観察でわかります。

orisiroyama (36) ちょっと上から見た感じ。

orisiroyama (30) orisiroyama01 (1)
天守台への入口(写真:左) と 説明版(写真:右)

orisiroyama (34)城山神社が祀られ、内部が五角形になっている穴蔵式の内部。

説明版にも書かれていますが、この天守台、かつてはその多角形という類似点がゆえに
織田信長の安土城石垣の縮小試作普請であったとも言われていたそうです。
しかし全くの別物でないにせよ、構造プランは安土城のほうが断然規模も上です。

まぁ、後世に石垣の積み直しがあったという記録もあるので(いかにもらしい・・)
どこからどこまでなのか不明な点もあるようです。
真相はわかりませんが、安土城への試み、そんなロマンがあってもいいかな、と思います。

・・でも手抜きは信長さん大嫌いでしょうから、これだと怒られちゃうと思うんですが・・。

orisiroyama (25) orisiroyama (26)
天守台付近と主郭内部にはいたるところに普請途中のものとみられる石が点在していました。

未完成ながら曲輪や帯曲輪が東方面に展開しているのは、岩村城方面の武田軍に対する構えの名残りと考えられます。

orisiroyama (27) 芋虫のような岩も溶け込んでいます。

orisiroyama (22)本丸に用意されている休憩小屋で一休み。

orisiroyama (21)稲津集落をはじめ瑞浪市を見渡せます。

遠くに鶴ヶ城(瑞浪市・神箆城)や戸狩城(瑞浪市)も確認できます。
対武田防衛最前線におかれた小里城と鶴ヶ城の位置関係が把握でき、緊張感が伝わってきます。
ここを抜かれたらもう兼山城どころか、一気に尾張までなだれ込まれてしまうでしょう。

小里城は信長が自ら再普請の縄張りを差配した、という伝えもあるそうです。
信長としてはなんとしてでも「ここより先は絶対に通せない」という思いもあったのでしょう。
そんな「意気込み」というよりは「緊迫感・危機感」が先にある様子が曲輪や石垣の乱雑さに表れているような気がしてなりません。

すぐ足下まで武田軍が迫っていたという事実を思うと、この城に込められた重要性が伝わってきます。
ともあれ、自分にとっては思い入れのある城址です。
整備もよくされており、手軽に登れるので、くどいようですが折(小里)にふれ、また登ってみたいと思います。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、開設以来、3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

24時間戦えますよ
今年のゴールデンウィークはなんとか2日のお休みが取れました!
一日は久しぶりに家族全員にて本格アスレチックとテニスで汗を流しました。
もう一日は弟クンと丹波地方へ城めぐりに行けました。
渋滞を避けるため前日の夜から出発し、現地では早朝から山城を立て続けで攻め登ります。
4つの山城と2つの平城の見学をして帰宅したのは深夜12時。
次の日はいたる所が2日分の筋肉痛・・。
24時間戦えますか?と聞かれたら・・。
城のためなら(なんとか)戦える久太郎でありました。
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