FC2ブログ

美濃 篠脇城 🏯全周囲に張り巡らされた圧巻の畝状竪堀

美濃 篠脇城 (岐阜県郡上市大和町牧・篠脇山) <県指定史跡>

ここのところ・・。
越前大野への兄弟遠征に加え、中信濃安曇野マラソン遠征、とイベントが目白押しでした。
バスケ試合の滋賀県守山市、岐阜県大垣市内の館城めぐりもありましたっけ・・。

訪問した城址も全部で30城館を超えてしまいました・・。
ある意味、これはとても幸せな城郭ライフ、ではあります。
どれもゆる~い城めぐりではありましたが、楽しく勉強になり素敵な思い出となりました。

さて・・。そのあとのブログ更新が大変でした・・。
3日に1城の記事更新でも追いつきません。そんな中、置き去りにされた美濃の名城たち。
やっと、ここまで辿り着きました。それが今回の篠脇城です。

sinowaki (12)明建神社前に立つ石碑とその背後の篠脇山。

sinowaki (40)駐車場から東氏館址庭園を見学して登城していきます。

sinowaki (17)
美しい清流、栗巣川を渡っていきます。

付近は「古今伝授の里フィールドミュージアム」となり、和歌文化をテーマとした野外博物館です。
賑やかさはありませんが、雅で静寂な自然あふれる散策コースです。
東氏記念館で和歌や城の資料などにも触れることができます。

sinowaki (20)東氏居館があった庭園風景を眺めます。

とても落ち着いた雰囲気の庭園と広場です。
発掘調査によって整備され、こうして鑑賞できることはとても素敵ですね。
のんびり茶を服し、和歌でも詠みながら、昼寝でも?したい所です。

sinowaki (21)国の指定名勝になっています。

風流な歌人でもあり、知恵武将でもある東常縁(とうのつねより)公がこちらにいらしたのか・・。
なんだか、こちらまで風流な気分になってしまいます。(がらでもないのですが・・)
さすがは、フィールドミュージアム、というだけのことはありますね。

sinowaki (22)
庭園を眺めながら城山に登って行きます。

何度か折れながら登って行くこと約20分。
行く手に巨大な竪堀が大手道にかけられていることに気づきます。↓

sinowaki (23)

sinowaki (36)
頭上を見上げると主郭部の切岸に見下ろされています。

sinowaki (24)
水の手であった「水船」と呼ばれる施設が復元されていました。綺麗な谷水でした。

sinowaki (38)広々とした主郭部に到着しました。

主郭部内部は広く、浅い段で3段に区切られています。
削平状態も良好で、兵員収容スペースとしては大きい郭だと言えます。
背後には土塁と二重堀切が大きく備えられています。

sinowaki (37) 本丸の様子。

sinowaki (26) 東氏の石碑。

sinowaki (28)
本丸背後の土塁。

sinowaki (27)主郭を取り囲むように放射線状に30本余りの竪堀が設けられました。

地元では通称「臼の目堀」と呼ばれる畝状竪堀群です。
遺構をじっくり観察すると「竪堀」と「竪土塁」の連続併用になっている様がわかります。
美濃の城郭でここまで巨大で整然とした竪堀群遺構がみられるのは篠脇城がNO.1だと思います。

sinowaki (34)ややわかりずらいのですが大手付近の竪堀群の様子です。

当時は堀底が切り立ち、土塁も高く、深さもあったことでしょう。
逆茂木でもあろうものなら普通に歩くことさえ、ままならなかったことだと思われます。
一度踏み込んだら、逃げ場のない壁と正面からの攻撃にさらされたことでしょう。

恐ろしいほどの周到な仕掛け、といえるでしょう。

sinowaki (32)
主郭部背後の大堀切。
sinowaki (31)
こちらも竪堀群。

篠脇城は南北朝期に下総から下向した東氏によって築かれたようです。
応仁2年(1468)東氏村が守る篠脇城=応仁の乱・東軍は
美濃守護代の土岐妙椿(ときみょうちん)=応仁の乱・西軍によって落城しました。

氏村の弟・常縁(つねより)は落城を悲しみ、詠んだ和歌が妙椿の心を打ち、
城と領地の返還に至った、といういきさつは有名です。
妙椿と常縁はどちらも室町幕府の奉公衆で旧知の間柄でした。

後に常縁は「古今伝授」を受け継いだ人物でした。

歌人としての常縁の一首一首の説得力もすごいのですが
それに応えた相手の心情を察することができる妙椿もまた素晴らしい武人だったと思われます。
「歌も戦いと共にある」、風流の中にも緊張したやりとりを感じます。

sinowaki-zu.png実に素晴しい遺構です。自分も実測調査を兼ねて作図してみました。

天文9年(1540)、篠脇城は越前より朝倉軍による侵入をうけるも、猛攻に耐えます。
家臣の遠藤氏や猪俣氏らの活躍もあり、なんとか撃退するものの甚大な被害を受けました。
東氏は被害の大きさと守備の不安を考慮して、南の赤谷山城へと移っていくのです。

このようにまるで隙のない鉄壁な縄張りが見られる篠脇城ですが・・。
戦いの後、東氏が不安を感じて南に移動した、とはどういうことでしょう?
今日の城の姿は後に他勢力によって改修をうけた姿を残しているという説もあります。

・・だとしたらこれほどの時間と労力と土木普請量をいつ、だれが、施したのでしょう?
朝倉氏は撤退したはずです。
東氏の新城、赤谷山城及び東殿山城には類似遺構は見られません。

sinowaki (39)
三日坂付近。

篠脇城の激戦では双方供、多くの死傷者が出ました。
特に朝倉勢の討たれた兵の数はおびただしかったようです。
その討ち取られた死体で3日間道がふさがれた、ということです。

sinowaki (8)
激戦のすさまじさを物語っています。

一体、この城を巡った戦いには何が隠されていたのでしょう。
朝倉勢の侵入目的は?東氏の撤退真意は?その後の遠藤氏の台頭・・。
城址にて作図をしながらあれこれと考えども、答えは見えてきません・・。

いろいろな推察を残しつつ、一つ一つの断片から読み解いていく。
それは自分なりの考えでも構わない、と思います。
城郭研究の楽しさはまさにそこにある、と思うのです。


古今伝授の里フィールドミュージアムに駐車します。
東氏居館跡の庭園南より登山道あります。徒歩20~30分で主郭部に到着。
水船井戸にも是非寄って見られたらいいと思いますが傾斜が急なので要注意です。

スポンサーサイト

美濃 高冠城 🏯ため息がもれるような美しい堀切

美濃 高冠城 (岐阜県郡上市大和町栗巣・古道・高冠山)

5月も終わるころ、郡上郡では遅めの田植えが始まります。
山間部の谷間集落でも地形を上手に開墾して農耕が営われています。
棚田の水面に映し出される山々の姿はとても美しく感じますね。

takakanmuri (34)

今回訪れたのは郡上の大和町の奥山にそびえる高冠城(たかかぶりじょう)です。
その名の通り、標高811m、比高で310mもある高所に位置する山城。
集落からの登山道は途絶え、かなり奥まった山上にあります。

takakanmuriyama.jpg奥まった山上にある高冠城を上古道集落より眺めてます。

麓からはその全姿が見えないのでかなり離れたところから撮影しています。
このような場所ですので領主支配の城ではないことがわかります。
さて、どんな遺構がまっているのやら・・。

takakanmuri (1)
下栗巣林道を利用してみます。入口に林道の石碑がありますね。

麓から歩くのはちょおっと・・。(根性なし)
少しでも楽な方法を、ということで林道を利用します。
今回もジムニーで恰好つける時がやってまいりましたね。(よろしく)

takakanmuri (4) おあつらえ向きのワクワクダート林道です。

takakanmuri (5) 沢を越え・・。
takakanmuri (15) 岩崩れを越え、
takakanmuri (6) ドン突き駐車。

ここからは尾根筋に歩いていきます。
果たして無事生還できるのでしょうか、ここまでありがとう、ジムニーちゃん。
あとは国土地理院の地形図とコンパスの読みが頼りです。

takakanmuri (13)
途中で出会ったメタリックゴールドのボディを持つイトトンボに癒されます。

さすがに比高300m級です、途中で適度に休憩を入れながらの登山に。
カモシカたちの「何しに来たん?」的な視線に苦笑いもいいとこです。
それども林道で登ってこれたお蔭で20分ぐらいでピークに到達したようでした。

takakanmuri (33)
山頂付近にも関わらず源水地があることに驚嘆!(なるほど、これなら籠城できる!)

ピークより南に向かっていくと源水地があります。結構大きくてびっくりしました。
獣たちも飲みにくるのでしょう、なんか、見たことない足跡が・・。こわ・・。
そしてほぼフラットな稜線を南に歩いていくと・・。

takakanmuri (32)
現われました、堀切です。 o(≧▽≦)o

、というか、ドでかい堀切です。(しかも、いきなり)
こんな山中にこれだけの規模の堀切・・、しばし信じられませんでした。

takakanmuri (19)素晴しい堀切を横から見てみます。

・・美しい・・。ため息が出るほどに・・。
こんな堀切を探していました。勾配、幅、深さ、堀底具合、そして見易さ、これぞ「堀切」です。
ここまで魅せられる堀切はなかなかお目にかかれません。しばし目を奪われます。
(↑こうなるとかなり重症な例かもしれません・・)

takakanmuri (22)
堀切を上部に登って俯瞰します。両端は竪堀となって落ちています。

これだけの規模の堀切です。
曲輪も大きいのでしょうか・・。期待をして主郭に向かいますが・・。
意外と細長いあまい削平地が続いています。(へぇ~以外だな・・)

takakanmuri (12)
80m程に及ぶほぼ尾根道に近い曲輪が続いています。

曲輪両側の下には腰曲輪も確認できますので、間違いなく曲輪なんでしょうが・・。
内部が緩やかな傾斜を伴っていることも気になります。
未整形空間、っていう感じです。

takakanmuri (24)堀切がもう一条あります。

先程のものより規模は小さいのですが堀切が現れます。
どうやらこの先が頂上の本丸に値する曲輪のようです。

takakanmuri (28)本丸に相当すると思われる空間です。

郭の平地が丸く見えるのは広角レンズを使った錯覚ではありません。
実際に削平があいまいで、自然地形の姿を若干、残しているようなのです。
これは一体、どういうことでしょう?

takakanmuri (10)
主郭の西側の切岸と腰曲輪の状態です。

takakanmuri (26)
同じく、主郭の南から東にかけての切岸の様子です。

主郭の削平はあいまいですが、切岸だけはしっかり付けられています。
これは、防御施設だけは優先的に普請した名残り、ともうけとれます。
或いは、築城途中で放棄されたのかもしれませんね。

高冠城に関する史料は城主などほぼ不明です。
口伝では、平家の落ち武者によって築城されたのが最初らしいです。

後、戦国期になると越前朝倉軍によって攻められた、といいます。
朝倉軍は城兵が白米で馬を洗っているのを遠くから見て、(白米伝説)
「あれだけの水があっては攻めるのは難しい」みたいな感じで篠脇城に向かったそうです。

なかなか信憑性のないどこにでもあるよくある話しです。
しかし、朝倉来襲時に手を加えられたこと、は検討に値する傍証かもしれませんね。
しかも、軍事目的だけのごく短期間の間、ということも考えられます。

未整形の郭がその一部を物語っているとも思われます。

takakanmuri (7)
岩にあけられたピット穴もみられます。

なんのためにあけられたのでしょうか、細い柱ならはまりそうです。
岩の向かう方向には篠脇城があります・・。
空想が膨らみますね。

takakanmuri (8)
岩陰から、ヌリカベがのぞいていました(笑)。

高冠城はちょっとミステリアスに包まれた山城でした。
こんな高い山にいつ、誰が、何の目的で築城したのか?
篠脇城の外郭城郭、では済まされない何かがありそうです。

※ 登城を計画されてみえる方は以下の事項、充分に安全に配慮してください。
 1、地形図とコンパス(方位磁石)は必須。
 2、林道利用は状況によっては通行に支障があります。(4WD必須)
 3、熊よけ道具を持参されたし。(います・・)
 4、できれば2人以上が望ましいです。(さびしいし、危険)
   以上。




美濃 木越城 🏯奥美濃の驍将・遠藤慶隆、生誕の城

🏯 美濃 木越城 (岐阜県郡上市大和町島場皿) <市指定史跡>

午前中に神路城の見学を終え、対岸の木越城へと向かいます。
この城は縁あって某も何回か登城している城です。
古き郡上郡の中世戦国らしい縄張りが良好な状態で残っています。

kigosij (18) いかにも城山、といった感じ独立峰の木越城です。

kigosij (1) kigosij (15)

県道61号線から料理旅館・金松館さんを目指します。
城址の説明案内板がおかれているあたりに駐車場をお借りしました。
説明版と城址柱の奥に大手口の登山道があります。

kigosij (16)遠藤盛数の居城にして、慶隆と一豊の妻・千代出生の城、で掴みはオッケー。

掴みその1 慶隆誕生の秘話 場皿割れ岩の伝説
遠藤慶隆が生まれた時雷鳴はげしく天地震動して白昼まるで闇夜となり、
大きな岩が谷川に落下して真二つに割れたということです。」

・・すさまじい天変地異です。武将出生によくある風雲児的なエピソード。
まさか、その割れた岩から慶隆が現れた、なんて展開じゃなくてホント良かったです。
・・それじゃまるで「西遊記」ですもんね。

掴みその2 慶隆の妹は土佐藩主の妻!(←「」(笑))
「土佐藩主・山内一豊の妻・千代は、(中略) 最近遠藤慶隆の妹だと言うことがわかり、(中略)
千代の兄が慶隆で、千代もこの木越城で生まれたかもしれません。(以下略)」

これは後で調べてみましたが結構説得力のある話でした。
NHK大河ドラマ「功名が辻」では全く触れていませんでたが信憑性はありそうです。
千代と慶隆、それぞれにまつわるエピソードでした。

kigositiyo.jpg ←郡上八幡城麓の千代の「すごくおおきい」銅像。

kigosij (2) kigosij (3)
大手道ですね。よく見ると要所要所の両脇には木戸の礎石らしき址が残っていますね。

城山の中腹部にも番所らしき曲輪が点在しており城郭が山全体に及んでいたようです。

kigosij (14)中腹から山麓に向けて巨大な竪堀が延び、敵の横移動を遮断できてますね。

kigosij (10) kigosij (4)
頂上付近の主郭を腰曲輪から見上げます。とりまく切岸が周囲にみられます。

kigosij (5)木越城本丸下の城址柱。いい感じに朽ちてきて城址の雰囲気でてます。

kigosij (13) 本丸頂上は細長く、やや荒れていました。

kigosij (6) 主郭背後にある自然地形を活かした竪堀状遺構。

kigosij (7)主郭東面に連なる石垣。苔むした感じがたまりません。(´∀`)

土留め用の石垣ですが、同時に狭い山頂部の曲輪の面積を確保しています。
高さは1メートル、長さは10メートルほどの規模で、
角石を使用せず、丸石、平石のみで積み上げられた珍しい石垣です。

kigosij (8) kigosij (9)
河原の丸石や平石で積み上げられているようです。結構珍しいですよね。

これだけの量の石を長良川から運び上げたのでしょうか?
いろいろな石垣を見てきましたが、丸石での野面積は美濃国内ではあまり見かけません。
遠江の横須賀城には大規模な丸石による石垣がありましたが。

kigosij (11) kigosij (12)
頂上から対岸の神路城を睨めます。(写真:左) と 長良川沿いの様子も見おろせます。(写真:右)

ひょっとしたら神路城とは連携して街道筋を監視していた、かもしれません。
天文9年(1540)朝倉軍が越前から侵入し、東氏の篠脇城を攻め立てた際、
木越城の遠藤胤縁・遠藤盛数兄弟は朝倉勢の背後をついて1か月後には越前へ敗退させます。


木越城は篠脇城主・東常縁の庶子・遠藤盛胤によって築かれたそうです。
盛胤の孫・遠藤胤縁の頃には主家である東氏を凌ぐ程の勢力となり、
東常慶の子・東常尭は遠藤氏と婚姻を結んで勢力の回復を計ろうとします。

しかし、胤縁は畑佐氏との縁組を選択、面子を潰され失望・憤慨した常尭は、
永禄2年(1559年)赤谷山城で挨拶に登城した胤縁を暗殺してしまします。
常尭は、朝倉来襲時、東家の危機を救った功臣の遠藤家を一転、敵に回してしまいます。

対して胤縁の弟・遠藤盛数は、胤縁の子・胤俊を助けて弔い合戦、とばかりに赤谷山城を攻め落とします。
盛数は郡上八幡城を築きいて自身が郡上郡を支配し、胤俊には木越城(木越遠藤家)が与えられました。

その後、遠藤胤俊の弟・胤基が木越城主となっていましたが、
天正16年(1588年)郡上八幡城主遠藤慶隆とともに織田信孝に与したことで、
羽柴秀吉に所領を没収され加茂郡へ転封させられてしまいます。

遠藤慶隆も加茂郡・小原に転封され苦難の日々を送りますが、苦節を乗り越え
関ケ原の戦いでは東軍に属すことで後日、郡上八幡城主へと返り咲きます。

遠藤慶隆はその出生のエピソードが暗示するかのように、波乱な戦国時代を渡ることになり、
苦難の末、やがて郡上一円を支配する武将へと成長していきます。

美濃 神路城 🏯山中に完存する技巧的縄張りは語る

🏯 美濃 神路城 (岐阜県郡上市大和町神路口神路・城山)

神路(かんじ)集落は旧・郡上八幡町と旧・大和町の境付近にあります。
国道156号(越前街道)、東海北陸自動車道、長良川鉄道などの主要交通が通っています。
集落は北神路、中神路、口神路に区域が分かれ、口神路の城山頂上が城址となっています。

kanji01.jpg長良川対岸から見た神路の城山。右のピークが城址です。

IMG_9827.jpg 城址へは白山神社から登るのがいいと思います。

kanjiki (2) kanjiki (1) 白山神社の名木2本。

白山神社には神々しい大木が2本ありますので、見学していきます。
参道正面にどど~んとたつのがイチョウの大木です。(写真:左)
晩秋にはとても綺麗に色ずくそうで。見てみたいですね。

そして、社殿脇のヒノキの大木は六本ヒノキ、と呼ばれ、幹から何本も枝分かれしています。
昔は6本でしたが、現在は9本の派生幹があるようです。(写真:右)
ちょっと神秘的な神木ですね。

さて、肝心の城址までの登山道ですが・・、
探してみましたが案内版や、これと決まった登山道はないようですね。
仕方がありません、目星を付けて、直登する選択をします。

・・ということで社殿の谷筋にあるわずかな踏み跡を頼りに登ってみることにしました。
しかし、予想通り途中で道が消えてしまっています。
仕方なく、近くの尾根を目指して慎重にたどっていくのでありました。

kannji (1) 仰ぎ見れば尾根はすぐそこまでなんですが・・。

なんとか尾根に辿り着きます。ここまで来ればあとは伝い歩くだけです。
途中、何ヶ所かに掘り返した円型の穴ぼこ跡が見られますが、これも遺構なのでしょうか?
考えながら歩くうちに、目の前に忽然と切岸と堀切が現れました。

kannji (2) kannji (7)
尾根を遮断する切岸が出現。堀切とセットになっています。

堀切はハの字型に竪堀となっていきます。
この部分は主郭として城域を区切る、「ここまで」といった意識が感じ取れます。
切岸は乗り越えられないので脇から回り込みます。

kannji (4) 主郭部の縁は部分的に土塁が巡っています。

どうやら虎口は北と南に2ヶ所見られるよう。
いずれも直進を避け、土塁で折れを設けてあります。
横矢掛けを構築しており、このあたりに神路城の「技」を感じます。

kannji (3) 観察しやすい主郭部です。

主郭部は両脇を数本の竪堀で固めています。
間隔が均等に配置されており、畝状竪堀ではなく、連続竪堀、といった表現がピッタリです。
図面に落とすと、長さ、深さ、規模の均整がとれており、効果的な防御施設になっています。

kannji (6) kannji (5)
写真ではお伝えし難い竪堀ですが、発見できれば楽しいですよ。

kannji (9)北面の切岸と堀切。規格性のある技巧的城郭です。

kanjidemaru.jpg 北出丸から主郭部を見上げます。

神路城の北直下には出丸を挟み、大きな切通し道がありました。(写真:下)
この道は天保年間に神路村と河辺村(かべむら)を結ぶ峠道として整備されましたが、
それ以前からも欠落する越前街道の予備道として古くから利用されていたようです。

kannji (10) 切通しの廃峠道。

神路城は長良川沿いよりもこの峠方面を意識した痕跡がみられます。
長良川沿いは大雨時は通行困難で、よく欠損したらしく、山麓中腹部の往来にも備えたのでしょう。
現在は廃道となりましたが、それぞれの集落への道が残っていました。

kanji03.jpg 神路城の東は狭隘な長良川沿いの越前街道。

kannji (8) 木々の割れ目より河辺・徳永方面の集落と長良川が見えます。


これだけテクニカルな城郭なのですが、神路城の城歴は不明な点が多いです。
城は別名「一夜城」とも呼ばれているように、使用されたのはごく短い間だったようです。
このことは、さきの登山道さえ、はっきり残っていないことからも推測できるでしょう。

東氏の家臣遠藤新兵衛盛胤が築城し、後、臼田氏が居城した、と伝わります。
長良川対岸にある木越城は盛胤が築いた城なので、この伝承はほぼ確かだと思われます。
臼田氏は在地領主だと思われますが、後に豊後に移ったといわれています。

kigosi00.jpg 対岸にある遠藤氏の木越城。

豊後に移った、という臼井氏に関しては、察するに遠藤氏が秀吉により一時加茂郡に追いやられた際、
代わりに郡上に入国した稲葉氏に従ったもの、とも解釈できます。
稲葉氏は関ケ原の戦いの功で豊後臼杵に移封されているからです。

とすれば、神路城が戦国末期に稲葉氏によって改修をうけた・・。
そのために、現在見ることができる技巧的な縄張りになった、という推理はしてもよさそうです。
ごく短期間の城郭機能、というのも納得できましょう。

少しお堅い内容になってしまいましたが、戦国末期の貴重な遺構の姿がそこにあります。
この神路城からは郡上の城郭と歴史の多くを読み取ることができそうです。

次回、木越城での記事に続けたい、と思っております。

美濃 阿千葉城 🏯郡上東氏、発祥の城

美濃 阿千葉城 (岐阜県郡上市大和町剣) <市指定文化財>

朝晩が冷え込んできました。
まだまだですが郡上郡は一足早めの紅葉が始まっていました。
空気もなんだかピーンと張り詰めています。

atiba (1) atiba (3)

今回は白鳥町と大和町境にある、阿千葉城を訪れてみました。
国道156号線沿い、城山の麓にに宝暦義民傘連判状の石碑があり、案内板や城址碑が立っています。
そこが城山への入口ですが、スピードを出していると、見落とします(笑)。

atiba (19)長良川対岸から見た城山。長い尾根の先端部が主郭です。

atiba (17)
登ってみた後でわかりますが、縄張り図に見られるようなここまで広範囲の城でもなさそうです。

atiba (5) atiba (8) 
登城して最初にたどり着く二ノ丸曲輪には義民石碑が。

atiba (6)内側を石で組まれた巨大な池があります。

尾根尻には排水用と思われる溝状遺構が尾根尻に向かって伸びています。
この尾根尻には浅くなってしまいましたが堀切も確認されます。
水源確保のための施設址でしょうか。

atiba (9) 広く整備された本丸は見学しやすいです。

atiba (14) atiba (20)
小屋風の休憩場?がありますが、この状態だと物置きです。天井には傘連判状が・・。

東氏は下総国千葉氏の支族で、承久の乱の後、戦功で郡上郡山田荘の地頭職を得て東胤行が下向.。
阿千葉城はその後を継いだ東行氏によって築かれました。
「阿千葉」の名前の由来は「上総千葉のあぜち(分地)」という意味からだそうで、あぜち千葉→阿千葉と親しみを込められて呼ばれたようです。

atiba (22)本丸へのスロープには土留め用と思われる石垣があります。

atiba (25) 本丸と二ノ丸との明瞭な切岸。

atiba (21)一段高い土塁上に鎮座する石碑が紅葉とマッチ!

atiba (13)
城址に残る2本の古木。何かを語り合っているように見えました。

城山へは麓からの登山道も広く整備され、なだらかで登りやすいです。
15分程度の時間で到着です。
主郭周辺は気を付けて観察すると、竪堀も確認できますよ。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

対馬にプチ出国してきました。
7月7・8日と対馬国境マラソンに出場しました。
かつてないほどの災害になろうことを予測しなかったわけではありません。
災害に遭われた方々や関係者様方の気持ちを想えば不愉快な内容になってしまうことばかりかもしれません。
未だ復旧の道筋が見えない中でも、どうか希望を捨てず一日を積み重ねて行っていただきたい、と思い久太郎も復旧ボランティアに参加する意を決心いたしました。
何ができるかわかりませんが、少しでもお力になりたい、と思います。
最新登城記事
カレンダー
07 | 2018/08 | 09
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新コメント
検索フォーム
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
リンク
来城者数