遠江 堀川城 🏯家康、鬼の撫で斬り攻め、の城

遠江 堀川城 (静岡県浜松市北区細江町気賀) <市指定史跡>

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これといった遺構はありませんが、説明版と石碑は充実してます。

堀川城は浜名湖を背に都田川の水を引き、満潮時には徒歩での入城ができないようになっていました。
対岸の宇津山城とは船での往来ができた、という記録もあります。
今川方に属していた土豪たちはこの地形を利用し堀川城を築いて徳川に備えます。

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これも大河ドラマ効果でしょうね。案内板が以前よりパワーアップした内容になってます。
この堀川城の戦いでのポイントは徳川家康による苛烈な城攻めが敢行された、ということ。

土豪たちが村人を結集し、連合してこの城に立て籠ったのです。
堀川城の城兵は約二千人とはいえ大半が百姓主体の男女入り混じった村人らでした。
これに対し徳川勢は「撫で斬り」による掃討戦を繰り広げます。

horikawa (5) 城内の塚とみられます。

調略や戦略を駆使して戦いをすすめるイメージの家康ですが、
この戦いでは、見境いなき殲滅戦を実行したようです。
説明版にもこのことは「家康の残虐な戦い」とされ汚点になっているようです。

しかし・・。家康にしてみれば・・。
進めてきた遠江平定が水泡に帰すようなことにもなりかねず、かつ、
三河への退路を絶たれるわけですから必死になるわけですね。

ここでは、家康に心のフォースの乱れを感じます。

horikawa (3)往時の城の姿は想像するに、干潟上に浮かんでいた浮城だったのかも。



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遠江 刑部砦 🏯三方原合戦後の武田氏の陣跡

遠江 刑部砦 (静岡県浜松市北区細江町中川宿名・陣の平)

まず、最初に申しますと、刑部城刑部砦は互いの位置は近いのですが、
築城者や歴代城主も築城目的も異なる、別物同士の遺構、ということになります。
似ているのは名称だけ、といったところでしょうか。

元亀3年(1572)徳川・織田軍と武田軍との大激戦が展開された三方原合戦。
武田軍の大勝利に終わったこの戦い、勝利の勢いで浜松城に押し寄せることも可能でした。
しかし、合戦直後、武田信玄の持病が悪化、信玄はここ刑部砦で自身の身体と兵馬を休ませます。

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刑部砦と武田軍が滞在したであろう一帯です。

okasabe-t (8)県道261号線(姫街道)沿いに『史跡』と刻まれた石碑が建ちます。

あらかじめ下調べしての訪問でしたので砦の山はわかりましたが、
まさかこれが刑部砦の存在を示す石標であるなんて・・。
石碑の前に旧タイプの防火水槽があるのが目印となります。

okasabe-t (6) 奥には集めて並べられた墓石が。

武田軍が滞在した期間は12日前後であったという記録があります。
「砦」というよりも急造の「陣所」に近いものだったのでしょう。
そのためか頂部一帯は「陣の平」(じんのたいら)と呼ばれているようです。

その陣ノ平は、この石碑の位置から300mほど北の台地上あたりだと考えられています。
現在は行き止まりのみかん畑などになっており、遺構はほぼなさそうでした。
・・というか時間的制約もあって、地形を確認するのが関の山でした。

okasabe-t (4) 裏側の碑文です。

「元亀3年、武田信玄が家康と三方原で戦い、大戦して東三河方面への転進のため、この地に兵馬を休養させた」、と意する文面が記されています。

武田軍は信玄の体調とも相談しながら浜松方面よりも東三河方面の攻略へと駒を進めます。
この時点で信玄の病状はかなり悪化していたのでしょう。
残された時間は本人が一番よくわかっていたのかもしれませんね・・。

石碑のある位置がわかりづらいので地図に示しておきます。



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遠江 刑部城 🏯現在でも攻め難い城址・・

遠江 刑部城 (静岡県浜松市北区細江町中川)

今回は息子のバスケ試合がらみでの浜松入りです。
NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』が始まり、俄然盛り上がっている地域です。
時間があれば関連史跡やイベント会場へも足を運びたいのですが・・。

さすがに無理そうです、空き時間に近くの城址に行けるだけでも良し、とします。
そこで最寄りの刑部城(おかさべじょう)に寄ってみることにします。

okasabe (13)東方面の支流・刑部沢から見た刑部城全景です。

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金山神社の駐車スペースをお借りしました。まずは金山神社から参拝です。

この駐車スペースの右側一帯の広場が居館の跡らしいです。
といっても宅地化された土地のようにしかみえないので、なんとも・・。
その奥の金山神社からは城の遺構が残っているようです。

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金山神社の郭の周囲には低い土塁が巡ってあるように見えますが、後世のものでしょうか。

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一見、堀切のようにも見えますが・・

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堀切、というよりは丘と丘の間の鞍部、といった感じです。

この堀底から主郭のある丘上を目指して登ります。
たいした標高差もないので、はっきり言って楽勝、と思い登りだしたのですが・・。
これがまた酷い竹藪でしてね・・。

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行く手をはばむ竹・竹・竹・・。そして倒木・・。
すでに自分の心が倒れそうです。
これはしめてかからないと大変なことになりそうです。

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「腰郭」に到達です。この先はさらにヤブが酷くなっているようです。
どうやらダウンジャケットで来たのは決定的な選択ミスだったようです。
引っかかって破れてしまうかも・・。

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なんとか「本郭」に到着しました。「道」というより「踏み跡」、といったヤブ漕ぎ散策です。
奥には「大土塁」の標板も見えますが・・、勇気を奮い起こして足を踏み入れます。
一体、どこまで遺構が確認できるのか・・。(負けないぞ~)

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「大土塁」もこれでは全体像が認識できません。
この荒れ具合、なんとかならないものでしょうか?
バキバキと音をたてながら自身の立ち位置を確保するだけで精一杯です。

okasabe (9) 井戸でしょうか?かなり埋まってます。

しかし、竹藪もここまでくると前に進むことも後戻りもできません。
場所によってはパロ・スペシャルをかけられたように身動きできない所も。
これでは下山もできません。なかなかの堅城、刑部城です。

なんとかダウンジャケットも破らずに無事に麓にたどり着きました。
奥方に叱られずに済みそうです。

okasabe (10) 金山神社を北側から見ると古墳っぽいです。

刑部城は今川義元の時代は新田美作入道の居城であったようです。
その後、永禄11年(1568)、徳川家康は遠江侵攻の際、三河国野田の菅沼定盈井伊谷三人衆(近藤康用・菅沼定久・鈴木重時)の道案内で遠州へ侵攻します。
庵原忠良・長谷川秀匡が守る刑部城は菅沼定盈らに攻められて落城します。

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落城の際には姫君の悲しい言い伝えも残っております。

okasabe (11)城址案内板が西側の県道261号交差点脇に立っています。

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この案内板は歩道側を向いて立っているため、車を走らせながらではわかりません。
ここからは刑部城の周囲が意外と切り立った山であることも確認できます。
ここから少し都田川に向かって歩いてみました。

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刑部城は井伊谷川(左側)と都田川(右側)の合流地点の南に築かれたようですね。

ここでふと、息子の試合予定表を見てみます。
やば(汗)、もう始まりそうです。急いで引き返さないと・・。

次回は、刑部城とは別に刑部砦にも寄ってきたので、そちらの紹介もさせてください。

※パロ・スペシャルとは・・
漫画『キン肉マン』に登場する超人、ウォーズマンの必殺技。
相手の背後から両足を内側から引っ掛け、両手をチキンウイングで絞り上げる関節技。
(相手の顔面をマットに叩きつける「パロスペシャル ジ・エンド」という派生技もあります。)



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遠江 宇津山城 🏯浜名湖に突き出した岬の湖城

遠江 宇津山城 (静岡県湖西市入出・城山) <市指定文化財>

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします

ちょっと遅い年賀挨拶ですが今年最初の城めぐりの記事となりますので
「いまごろ?」、と思われつつも、お許しいただければ幸いな幕開けでございます。

本年も城を愛し、城に愛されるよう、謳歌して参りたいと思います。
そして自分以上に城を愛して見える同朋の皆様と、
それほどでもない、というごく一般良識の方々を含め、皆様のご多幸をお祈りしております。

uzuyama1 (45) 宇津山城山麓の浜より望む富士山。

さて・・何故、年明け最初が宇津山城なのか、というと・・。
奥方の実家から一番近い城なのです、というだけのこと。
しかし、この城址からの浜名湖や富士山(↑見えるんです!)、湖西連峰の眺望は実に明媚なのです。

uzuyama1 (42)浜名湖に槍先のごとく突き出した岬の頂上から先端部までが城址。

uzuyama1 (1) 正太寺に車を駐車して、登っていきます。

車で頂上の墓地まで登れる舗装道もあります。(狭いのでお彼岸前後は特に要注意です)
お寺から徒歩でゆっくり登るコースがおススメです。
それは宇津山城の歴代城主の供養碑が見学できるからです。

uzuyama1 (2) 宇津山城主の供養碑と供養塔。城址散策コースの案内もあります。

uzuyama1 (40) 登る途中で振り返ると、もう絶景です。

uzuyama1 (5)晴れていれば城址からも、ご覧のように富士山を拝見できます。

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墓地の北側にある城址を示す案内板(写真:左) と その脇には大きな土塁があります。(写真:右)

uzuyama1 (11) 土塁の内側は土留め用の石垣でびっしり固められていて、圧巻です。(;゜0゜)!

uzuyama1 (10) 曲輪をぐるっと一周取り囲んでいます。

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下の段の石垣も相当あり、角部のもろそうな普請は石垣遺構初期の技術不足を感じます。

それにしても北側の腰曲輪にも相当な石垣(石積?)がありますので、
こちら側が大手だったことは想像できます。

uzuyama1 (21) 崩落とは思えない大きな竪堀遺構。

さて、宇津山城ですが、やや異なる時期に2つの城郭が築かれたようです。
先程までの城址は宇津山古城の散策内容になります。

城山のピーク「高山」に築かれたのが宇津山古城(先程までの城)で
岬先端の「正太寺鼻」に築かれたのが宇津山新城です。
これらを総称して宇津山城、と呼ばれています。

二つの城址をつなぐ直接のルートは現在消滅しています。
よって、一旦、古城から出て、坂道を下った途中から新城に向かいます。
岬先端部へ向かう感じです。

uzuyama1 (24) 宇津山新城へのルートの切岸と土塁。

uzuyama1 (25) 堀の様子です。

宇津山新城はブッシュがひどく、以前は畑があった本丸主郭部も荒地となっています。
余程の興味がなければ見学は控えたほうが良いかと思われます。
(※私有地のため、地主さんの許可をいただき見学させていただきました。)

uzuyama1 (26) 本丸北側の土塁上には隠れるように立つ石碑が。(´ω`)

自称、城址石碑マニアとしてはこの出会いはとても嬉しいものでした。
おそらく人目につくことはないようです。ヤブ漕ぎの果ての先に立っています。
しかし、見るに値する大土塁や主郭部があるのに残念でなりません。

uzuyama1 (32)「船隠し」といわれる遺構です。

「船隠し」には船着き場として、早船を何艘か停泊できることができ、
浜名湖に面しており、いざというときの連絡船、出撃船を廻送、待機できたようです。
山国の城ではお目にかかれない遺構で、感嘆しました。

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宇津山新城は三方が湖(海)に囲まれ、築城当時は海からの出入りが可能でした。

地主さんから城についてのいろいろな案内をいただきまして感謝です。


宇津山城は永正3年(1506年)頃、遠州進出を図った今川氏親が浜名湖西岸に築いた城といわれ、
城主には長池親能、次に小原親高が入り享禄年間以降は朝比奈氏泰、泰充親子が入りました。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、徳川方に誼を通じる土豪が多くなる中、
掛川朝比奈氏の分流であった朝比奈泰充は、惣領家と同様に今川氏への忠誠を貫こうとしました。

今川方は、南方に境目城を築き、宇津山城とともに徳川家康の来攻に備えますが、
永禄11年(1568年)12月、徳川方の酒井忠次らによって落城。
家康は松平家忠を城番として城郭を拡張させたようです。


新年のスタートを飾った宇津山城訪問。
美しい浜名湖、神々しい富士山、素朴な石垣、巨大な土塁、そして石碑の確認。
全てが新鮮で、一年のスタートをきるに相応しい、いい城めぐりができました。

遠江 頭陀寺城 🏯若き秀吉、立志伝の始まり

遠江 頭陀寺城 (静岡県浜松市南区頭陀寺町・城屋敷)

夏の城めぐりは早朝がいいですね。まだ涼しいうちに・・ということでやってきました。
頭陀寺城(ずだじじょう)は「松下屋敷」という呼び名のほうが親しまれているようです。
「頭陀寺第一公園」に屋敷址を示す石碑と案内板があります。

この城はまだ若かった木下藤吉郎秀吉が出仕していた城として有名です。
年頃15歳前後だったようです。
松下嘉兵衛之綱は秀吉が出世した後、家臣としてとりたてられ久野城主1万6千石の大名までになったそうです。

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平成28年3月に置かれたばかりの新しい説明碑台。発掘調査の内容も盛り込まれています(写真:左)。

戦国期は松下氏が今川家より封をうけて、頭陀山の砦を預かっていた様です。
松下氏は曳馬城の飯尾氏の寄子だったともいわれています。

zudaji (9)お寺の名が入っているのは真言宗の古刹・頭陀寺の門前にあったからだそうで。

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屋敷は周囲を土塁と堀をめぐらした、小土豪規模のようでした。若干の盛り土らしい跡が見られます。

近くには(公園より北東200メートル)秀吉由来伝説の鎌研池伝説地もあります。

秀吉鎌研池 (静岡県浜松市南区頭陀寺町)

「頭陀寺第一公園」より北東へ200メートルのガソリンスタンドの裏あたりにありました。
現地の方に案内頂いたのですがちょっとわかりずらい場所です。

zudaji (11)脇の大木が目印。この場所は大切にされてきたのでしょう。

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このあたりで秀吉がうろうろしていたのかと想像してしまいます。

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ちょっと錆で内容が読みにくいのですが、解読してみると・・

鎌研ぎ池
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と言った少年の頃、この地を訪れ頭陀寺城主の松下嘉兵衛之綱に身を寄せ、天文22年3月(1553年)~永禄元年(1558年)の間下僕として奉公をした。
この時、馬草を刈るのに池の端で鎌を研ぎ試し切りのために池に生えた葦の片方へ出ている葉のみを切ったので、それから片葉の葦が生えるようになったという話しが『遠州七不思議』のひとつとして残されています。
また、松葉で手裏剣の練習をしたその松葉がメダカの目に刺さったので、池には片目のメダカが見られるようになったとの言い伝えがあります。    <案内板より>

と伝えられています。

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夢見る幼き頃の秀吉。立志伝の始まりの地ですね(曳馬東照宮内にて)。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、開設以来、3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

24時間戦えますよ
今年のゴールデンウィークはなんとか2日のお休みが取れました!
一日は久しぶりに家族全員にて本格アスレチックとテニスで汗を流しました。
もう一日は弟クンと丹波地方へ城めぐりに行けました。
渋滞を避けるため前日の夜から出発し、現地では早朝から山城を立て続けで攻め登ります。
4つの山城と2つの平城の見学をして帰宅したのは深夜12時。
次の日はいたる所が2日分の筋肉痛・・。
24時間戦えますか?と聞かれたら・・。
城のためなら(なんとか)戦える久太郎でありました。
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