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美濃 天王山砦 🏯コンパクトながら機能満載の砦

美濃 天王山砦 (岐阜県恵那市武並町藤沢尻・城山)

山城めぐりが好きな人は「幸せ」だと思います。心豊かであろうから。
何故、何もない(実際はあるのだが・・)城址に登るのか??
そこに立つことで語りかけてくる無限の息づかいと想像に向き合えるからでしょうか。

・・長梅雨のせいで前頭葉の働きが低下しているのでしょう。
妙にドン引きな前文になってしまいました(;^_^A)、ゴメンナサイ。
好きなことは好き。ただそれでけですよね。そしてそれが『城』だった、というだけです。

・・結局、自分でも・・『何?ど~した?』・・。

さて今回は恵那市にある天王山砦を紹介したいと思います。
ところで美濃国には現・美濃市に天王山城(大矢田城)という山城もあります。
地域も別なので混同されることはありませんが、「城」と「砦」という呼称の違いだけ。

gozutenn (15)木曽川沿い、笠置ダム湖に面する天王山砦です。

写真は大雨の翌日だったため川面が濁っていますが、いつもはエメラルドグリーンです。
山の頂上を見てください、鍋蓋がちょん、と乗っかっている感じがわかると思います。
東西に延びる笠置峡を見下ろす絶好の位置にあります。

交通アクセスは地図と図面で後示しますが、ちょっとした秘境かもしれません。
付近には駐車できそうなスペースはありませんので城の南東部の林道路肩に停めました。
ほぼ交通量はないのですが、妨げにならないようにだけは気を遣います。

gozutenn (13)
今回は敢えて東側の尾根・大手道(仮想)から登頂します。

大手道を断ち塞ぐ大きな立岩群。
天然の垂直岩壁を前にルートを南に迂回せざるを得ないようになっています。
この時点で早くも仕組まれているような気がしてきます。

期せずして、守備側の思惑通りに進んでいくように・・。

ouzute (2)
主郭南西部の虎口に至ります。

gozutenn (11)
主郭部周囲は岩ごと切り掻いた切岸が鋭い。

gozutenn (10)
虎口の脇には竪堀も見られます。

主郭部の足元周囲には大小何本かの竪堀が見られます。
横堀と連動しており斜面の横移動に制限がかけられています。
下の写真がその横堀の様子ですが、非常によく残っていました。

gozutenn (5)城兵の横移動を兼ねており、土塁が併設してあります。

守備側の横移動を可能としながらの防塁、といったところでしょうか。
麓側から見上げると、土塁は守備側の動きを隠す役割もしています。
比較的緩傾斜となっている部分(弱い箇所)に向かって普請されていますね。

gozutenn (4)
土塁の下には20メートル近くの竪堀3本がセットで落とされます。

3本の竪堀は等間隔で整然と並び落とされています。
写真では木々が立ち並び、検証しずらいと思いますが、圧巻です。
ここ天王山砦の見所は何と言ってもこの虎口・横堀・土塁・竪堀のセットでしょう。

横堀と組み合わさった土塁と竪堀はかなりテクニカルなもの。
また等間隔に並んでいる竪堀も規格性を感じます。
これは東濃進出した際の武田氏遺構の可能性を強く感じるものです。

gozutenn (6)
横堀は南から西方面まで(一部途切れ)主郭を半周しています。

gozut (1)
横堀から竪堀へと連動してます。

gozut (2)
東方面を仕切る堀切はそれほど深くないのが意味ありそう。

gozutenn (8)
虎口近くには自然石を積んだ石積も見られます。

ouzute (1)
石積は虎口からのルートを補強したものでしょう。

gozutenn (7)
頂上の主郭部には名の由来となった牛頭天王が祀られています。

gozutenn (12)
主郭部からの眺望は木々で得られませんが、木曽川沿い奥を垣間見ることができます。

狭い峡谷同士での狼煙連絡も兼ねていたと思われます。
西方面は禰冝田砦(池城)へ、東方面は中尾城(中尾丸)へとつないだのでしょうか。
そういえば以前ですが、中尾城の記事で自分、こんな事を書いていました。

「中尾城の尾根筋には明瞭な筋道が(中略)ある城へとつながっていることがわかりました。」
・・という一文ですね。

思えばかなりもったいぶっていましたね・・(忘れてたのもアリ)。
そうです、その「ある城」というのはここ天王山砦だったのです。
両城との距離は約2000メートル、お互い背を向け合って木曽川を睨んでいます。

中尾城から実際に歩いてみて、途中遠ヶ根山(ここも砦の伝説あり)を経由します。
遠ヶ根山を西に降りて、ここ天王山砦に辿り着いた時はとてもびっくりしました。
高低差こそあれ、山歩きのペース・30分で連絡できるのです。

ある同一時期に両城が連設されていたことを示しているのかもしれません。
中尾城・天王山砦、共に城主などの経歴は不明です。
在地勢力ではなしえない、戦略性に富んだ性格も伺われます。

城館の類例と付近の歴史的状況から武田氏系の関与があげられます。
もしそうだとすると・・、どうでしょう。
武田氏は木曽川沿いと中山道、下街道からと多方面から岐阜方面へ迫ります。

適所にまず小規模拠点を確保し、じわりじわりと詰めていくのです。
そして異国の地において驚くほどのスピードで兵站道を確保していきます。
森氏の兼山城はこの時点で攻撃目標内に入っていたことでしょう・・。

ああ、ダメです・・、武田軍の足音を想像しただけでも怖い怖い(´Д`lll)!

gozutenn (14)武田氏系の特長や癖を感じとれる遺構です。
(土塁の向こう側には竪堀が並んでいます)

tennnoutzu1.jpg砦は小規模ながら実に技巧的な縄張りとなっています。

天王山砦の関連個所としてここにも寄ってみました

gozutenn (3) gozutenn (2)
天王山砦の西に鎮座する弥五郎神社と弥五郎滝です。

その昔、敵と間違えられて鉄砲で誤射された堀田弥五郎を祀った神社です。
祀った事により、はやり病が消えたとされる神社です。
砦と直接関係があるものかはわかりません。

神社からは弥五郎滝に近づくことができます(足元注意!)。
汗だくになった体を手拭いで洗いながら見上げる滝(といっても落差はそれほど)。
「・・き、気持ちいい~!」

「弥五郎さは、砦のことなんか知ってるのかな??」


Ⓢは天王山砦をチェックしてます。
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美濃 鶴ヶ城 🏯ハノ字型に展開する鶴翼の城

美濃 鶴ヶ城(神箆城)(岐阜県瑞浪市土岐町鶴城中町・城山)<県指定史跡>

今年の東海地方は「梅雨」と呼ぶに相応しい天候に覆われています。
雨模様なので、普段全くしていない小庭の手入れに勤しんでいる週末。
やり始めるとキレイになっていくのが面白く、キリがありません。

・・ついでに土塁や城柵でも作ってやりたい気分です・・。(何のために?)

さて、今回は瑞浪市の鶴ヶ城へ定期訪問(?)してまいりました。
まだ若かった二十歳の頃、弟クンと特攻服で登った、「ほろ痛い」思い出の城です。
それ以来、折に触れて登ること数知れず、子息らと昆虫採集にも訪れたりしています。

turugakouno (2)丁度JR線を電車が通過中。国道19号、中央高速道も足下を通る街道筋。

今回はまず始めに縄張り図を見て頂きたいと思います。
何故「鶴ヶ城」と呼ばれるようになったのかがよくわかると思うからです。
元々は※「高野城」「神箆城」といった名称ですが、別名のほうが正式名称になった例です。

(※「高野城」「神箆城」は(こうのじょう)と読み、他「土岐城」「国府城」とも呼ばれます)

turugajzu.jpg
本丸から派生する2つの出丸が羽を広げた鶴に似ているために「鶴ヶ城」と呼ばれます。
(上図:A東出丸とB西出丸ですね)

なんとも優雅なその名の由来。
さすが花鳥風月を愛する岐阜県美濃びとの心優しさ(自分除く)。
しかし地元・鶴町の方々からは驚きの表現を拝聴いたしました。

実は遺構の無いもう一つ西の尾根を入れて3本の尾根構えだと仮定。(上図C:古道尾根
3本の尾根で真ん中の尾根が鶴の首頭、その両脇の尾根をそれぞれ翼に見立てます。
するとどうでしょう、対面からみると、見事な「鶴翼の城」に見えるではありませんか!

この説には久太郎も目からウロコ、「な~るほど」と驚嘆したものです。

turugakouno (22)
車でのお越しは城址の東の諏訪神社の駐車場をお借りします。

諏訪神社は城主歴の中の一人、延友三郎兵衛信光の心願により勧請されました。
毎年10月の第2日曜日には秋の諏訪神社例祭が奉納されます。
雨乞い踊りの伝承に従う「鶴城笹踊り」が継承され、披露されています。

turugakouno (4)城跡入口には立派な石碑があります。

turugakouno (5)
QRコード説明付きの案内板、ご時勢ですね。

turugakouno (18)
城址碑から谷筋を登って行きます。

実はこの谷筋大手道、2つの出丸の間を縫って上がる道。
左右の出丸から乱射、乱投されたら、ひとたまりもない恐ろしい一本道です。
そんなお仕置きをくらう、という妙なドキドキプリキュア感もたまりません。

しかも途中の小郭には一の木戸、二の木戸なども用意されていたようです。
敢えて敵勢を呼び込みながら応戦する体制も想定されていたのでしょうか。
天然地形の桝形虎口に足を踏み入れた、と解釈すると解りやすいでしょう。

turugakouno (11)
先ずは両翼の一つ、西出丸(実際は本丸から見て南なのだが)を辿ります。

この西出丸の入口にも虎口があります。
到達した途端に御殿曲輪と出丸、上下両面から挟みこまれる仕掛けです。
単純と思いきや、狭い尾根基部を最大に活用しているのが面白いです。

turugakouno (9)
西出丸からの眺望は土岐市方面から屏風山系の山々がよく見えます。

turugakouno (12)
御殿曲輪へ向かう途中には「手洗鉢」なる石があります。

雨上がりしばらくはここに雨水が溜まります。
なかなかきれいな円形にくり抜かれていますね。
礎石として利用した門柱の穴だったのかもしれませんね。

turugakouno (13)
「葵の井戸」と呼ばれる大井戸。

よくある落城にまつわる身投げ井戸伝説もあります。
小心者の自分はおっかなくてあまり近寄れませんでした。
井戸は保水性があり、今日でも水を湛えてます。

turugakouno (20)
続いていま一つの翼、東出丸を辿ります。

写真では、出丸の先が明るくなって何も写っていませんね。
これは中央高速道路建設に伴う工事でかなりの土砂が削られたからです。
これは西出丸も同様ですが、東出丸はかなりの曲輪部分を消失しています。

昭和20年前後の図面ではこの西出丸、もう20メートルほど南東に延びていたようで。
両出丸は本丸から見ると末広がりのハノ字型を鏡に映したように展開していたそうです。
その光景は残念ながら見る事ができませんので、今は想像するばかりです。

turugakouno (14)
主郭部から出丸へと延びる土塁状遺構。

両出丸と主郭部との連結部には長い土塁が掻き残されています。
曲輪の外側に向け普請されており、外側谷筋からの攻撃に備えてあります。
葵の井戸や御殿曲輪を囲い守っているようにも感じます。

いざとなったらお互いの最短移動通路として使用された節も感じられます。

turugakouno (24)
そして「千畳敷」と呼ばれる本丸部に到着しました。

東西45メートル、南北20メートル前後の主郭です。
東側には虎口があり、東西の端部からはそれぞれの出丸へと連絡します。
ここに至るまで細かく折れ部分を通過していくのも見所でしょう。

turugakouno (16)鶴ヶ城は語るに長い歴史を有しています。

鶴ヶ城は 建仁年間(1201~1204)に美濃国守護・土岐光衡による築城とも伝えられます。
しかし確証はないにせよ、土岐氏一族によって築かれた可能性は大きいでしょう。
史実で明らかなのは天正2年(1574)、岩村城を足場に武田勢が東美濃に侵入した時です。

武田軍は岩村城の南西に位置する明知城を包囲します。
織田信長と嫡男・信忠は岐阜から救援に駆けつけ、こちらに着陣します。
しかし前回の記事で述べたように明知城は空しく落城してしまいます。

この頃の鶴ヶ城は城主として延友氏(三郎兵衛信光とその弟・佐渡守)の名がみられます。
信長は明知・岩村両城の押さえ対策として小里城城番の守将に池田恒興を配置。
この鶴ヶ城には黒母衣衆・筆頭の河尻秀隆を配置して備えました。

また、天正10年(1582)、甲斐侵攻作戦の際にも織田信忠は鶴ヶ城に宿泊しました。
東美濃衆を中心とした信忠軍団は補佐役の河尻を中心に形成されたようです。
そういった意味では当城が重要な東美濃軍事拠点であったことを物語っているといえます。

後、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で、鶴ヶ城は岩村城主・田丸直昌の支城にありました。
この時は妻木城主・妻木頼忠らによって攻められ開城しました。
同じ東濃衆の妻木氏や小里氏、遠山氏らの攻撃に遭う、なんとも皮肉な終焉でした。

turugakouno (15)
本丸より岩村方面を見て、対武田への最前線を担った緊張感を感じます。

turugakouno (26)大規模な鶴ヶ城の大堀切は一見の価値あり!(;゜0゜)。

さて、ここ鶴ヶ城の隠れた見所は主郭続きの尾根を大きく断ち切った西の大堀切でしょう。
あまりにも急角度のためこの堀切に降りること叶いません(てか危険極まりない)。
みすみす見学しないであとにする方もたくさんいらっしゃるようです。

しかし、どうかこの大堀切を土産に見て下山していただきたいものです。
西出丸へと続く土塁が一旦途切れた箇所から降りる細道があります。
冒頭の図面でもポイントだけマークしてあります。

そしてここでお願いがあります。

是非とも見学をおススメしたい大堀切ですが本丸から直に降りることは絶対避けてください
滑落の危険極まりないですし、主郭端部と切岸の遺構を痛めてしまうからです。
軟質な土壌ですので大切に見学していただきたいと思います。

落ちたらスマホやカメラが壊れるではすみません、本当に怪我をしていまいます。

turugakouno (29)
堀底から見上げる本丸はこんな感じで絶壁状になっています。

しかもここから主郭を北方面に回り込むと西の堀切もおまけで見学できます。
もちろん西の堀切も主郭部から直で降りることはできません。
いかにこの主郭部が孤島状になっているかがわかると思います。

turuhori.jpg
逆(北)方面からみるとこんな感じで、本丸側は垂直状態です。デンジャラス!

鶴ヶ城は石垣や技巧的なパーツを持つ城ではありません。
しかし、鋭い切岸と多彩な折れ導線プラス木戸を多用した「土の城」そのものです。
城内へ深く足を踏み入れるほど、頭上の両出丸からの包囲殲滅攻撃を受けます。

外周は切り立った切岸で仕上げられ、滑りやすい土壌は登攀を困難にしています。
古くからここに城館が構えられたのには理由があるんですね。
戦国末期までこのプランで存続したことにも大きな意味を感じます。

それにしても在りし日の両出丸から延びる鶴の翼・・。
この目で是非とも見てみたかったものです。
・・いや、現地で瞳を閉じたら見えてくるかもしれません。


Ⓢは諏訪神社の駐車スペースを示してあります。
Ⓖは鶴ヶ城の登り口です。大きな石碑が目印です。
ここから眼下の高速道路がよく見えます。足早に往来する車やトラックをぼんやり眺めているのもなんか面白いものでした。
・・そんな変人、自分だけでですかね(笑)。

美濃 明知城 🏯例のない横堀と竪堀群の絶妙タッグは見応え充分

美濃 明知城(白鷹城) (岐阜県恵那市明智町明知・城山) <県指定史跡>

ここのところ久し振りに地元・美濃の城をめぐる機会が増えました。
2月は駿河、3月は遠江、4月は志摩、5月は能登、越後、と外征が多かったからです。
マラソン絡みもあったのですが、とても充実し、勉強になった春でした。

しばらくマラソン大会はエントリーしてませんので練習に集中です。
子息たちの用事もここのところめっきり減り、うれしいような寂しいような感じです。
・・寂しいといえば外征続きでお父さんのフトコロは落城寸前!(泣!)

そんな諸事情のなかで本来の地元城めぐりも充実させたい、と思う今日この頃です。
行きたいときにそこでいつでも待っていてくれる・・、地元の城って有難いものですね。
「お金はなくとも、地元の城がそこにある」(泣くのはもうやめ♡)

・・さて、今回は東濃地方における中世山城の傑城、明知城を訪ねます。
明知城といえば城ファンの方なら知らない人はいない、という程、有名な戦国の城です。
明知城が超有名な理由として次の3つが挙げられると思います。

①、織田・武田両氏との間で壮絶な争奪戦が繰り広げられた。
②、明智光秀の出生地として(可児市の明智長山城と並び)最有力視されている。
③、※「遠山七家」の内の一つで、遠山氏の有力一族、明知遠山氏の本城である。

※「遠山七家」(岩村・阿寺・明知・飯羽間・串原・苗木・阿木)の一つです。
その中でも最も有力な岩村・苗木・明知を「遠山三頭」と呼ぶこともあります)

それでは見ていきたいと思います。

aketisirataka (22)明智駅を降り、南東に見える城山が明知城です。(比高80m程度)

別名「白鷹城」、カッコいい名称ですね。幟のアピール度ハンパありません。
こちらでみたらし団子や五平餅等を食べて腹ごしらえするとイイと思います。
明知城に関するパンフなんかも入手できますよ。

自分、そういえば元号が「令和」になって最初の作図調査になるのがここ明知城です。
(強敵なのでしっかりかからねば・・、と気合をいれます)

aketisirataka (34)
城下町は日本大正村としても有名。趣ある路地めぐりも発見がありますよ。

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町がそっくり、大正時代の空気に包まれ、なんだかタイムスリップしたような気分。

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大正のモダンなイメージをした洋風建築、大正ロマン館。

城めぐりもいいのですが、たまにはのんびりと歩き散策もいいものですね。
たたずまいを感じながら歩くと、眼に映るものがとても新鮮に感じます。
「こういう感覚、しばらく味わってなかったな~」って、ときめいたりしました。

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明知城西麓の大手門近くには江戸時代には陣屋が築かれました。

元和元年(1615)遠山方景は旗本として江戸に屋敷が与えられる事になり、城は廃城となりました。
代わりに麗の大手門近くに代官屋敷が設けられ、代官を村上氏に任せて廃藩置県まで存続します。
現在陣屋跡地には村上氏の屋敷と土蔵が残っています。

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遠山家の菩提寺である龍護寺では、遠山家累代の墓所や明智光秀公の供養塔があります。

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少し前置きが長くなりましたが、明知城へと向かいます。

さて、明智駅、並びに日本大正村方面からのアプローチはこんな感じ。
他にも見所は沢山ありますので時間の許す限り、街歩きもいいと思います。
こちら、「城」と「街」、「戦国」と「大正」を同時に味わえるのが特徴です。

・・さて、そうは言っても・・。

「明知城だけが見たい」、というせっかちな城最優先さんもいらっしゃると思います。
かくいう自分もその部類の人間です。(最近、少しゆとりを持つよう努めていますが・・)
そんな方には車にて城山裏手から仕寄るといいでしょう。

aketisirataka (1)
城山の東側の道路には駐車場が完備されています。

こちらの駐車場から城内までは僅か5秒!。
早速左側にやや破壊された堀切を見ながら竪堀底を通って登城できます。
せっかちな少年少女さんにはうってつけのコースだと思います。

aketisirataka (18)
一見、城址に至る遊歩道のようですが、既に城内に足を踏み入れています。

傍らや頭上を見上げると、切岸と畝堀を確認できます。
どうやら通路を兼ねた横堀の堀底を通っていることに、ここで気が付きます。
心の準備ができていないと城内に入った感覚すらありません。

aketisirataka (17)
細かい間隔の小さな畝堀もあれば・・。

sirataka (5)身の丈をはるかに超える、土塁+竪堀ともいえる巨大畝堀もあります。

これらの遺構は主郭曲輪群の外側をほぼ全周に渡って設けられています。
一般的に見られる斜面に落とされた竪堀とは一味違う明知城独特の見所です。
こんな狭い一方通路を攻め上がるなんて・・、考えただけで恐ろしい・・(;゚Д゚)。

しかも、このような多数かつ大規模な遺構を複雑に組み合わせています。
自分は作図しながら改めてその連動性に驚嘆せざるを得ませんでした。
おそらく武田氏摂取時の改修遺構なのでしょう、と推察します。

aketisirataka (2)
城内には大きな貯水池があったようです。水の手曲輪ですね。

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南出丸に足を運ぶと門に使用された石垣址が一部残っています。(石垣というか列石・・)

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城内には陣屋として使用された名残も併存しています。

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本丸と南出丸を介する二の丸に向かいます。

曲輪の際を歩くとどこも切り立った絶壁になっていて足がすくみます。
畝堀を経た堀底からこの切岸をよじ登ることは不可能に感じます。
「曲輪は際を歩く」とその特徴がわかりますね。

aketisirataka (5)
プレートには「虎口」と示されるスロープ状の連絡口。

aketisirataka (10)本丸に到着しました。高い所から撮影、広さが伝わるといいのですが(´∀`)。

aketisirataka (8)
説明版と高田徹氏の縄張り図があります。

aketisirataka (6)石碑はありませんが、標柱が立ってます。(細い・・)

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各曲輪間は大きな堀切で断ち切られています。

遊歩道からは主郭部と畝状竪堀・畝土塁などは見学し易いようになっています。
しかし、見上げるほどの堀切、圧巻の切岸などはブッシュによって全貌が掴めません。
踏み込んだ探索を希望する方は作業着での来城をおススメします。

sirataka (2)このようなブイブイいわせるVの字堀切も見所です。

元亀3年(1572)、明知城主・遠山景行と東濃諸氏は上村(恵那市上矢作町付近)に布陣。
武田氏の武将・秋山虎繁ら伊那衆らを迎撃しますが、敗北、景行は戦死します。
嫡男・景玄(※)も戦死したため、家督は孫の一行(かずゆき)が継承します。

遠山景玄は「かげはる」と読むそうです。
 景玄については詳細不明で一部誤伝もあるようです。

天正2年(1574)には明知城に武田勝頼の軍勢が押し寄せ、城を包囲。
これを知った織田信長は明知城を後詰めすべく、嫡子・信忠と共に岐阜を出陣します。
信長父子は、神箆城(鶴ケ城)に着陣し、進軍を予定しましたが・・。

明知城内では飯狭間右衛門が謀反を起こし、織田方の城番・坂井越中守一族を殺害。
城を武田方へ明け渡し、明知城は落城します。後詰めは間に合いませんでした。
信長は、神箆城河尻秀隆小里城池田恒興を配し、岐阜に戻っています。

その後、僧となっていた景行の次男・利景が還俗して城を奪取、一行を猶子とします。
天正11年(1583)、利景は金山城主・森長可の圧迫で明知城を退去、徳川家康に仕えます。
しかし、遠山利景と一行は諦めません!、再興のその日をじっと待ちます。

天正12年(1584)、利景は小牧・長久手合戦で森長可の守る明知城を再度攻略します。
しかし、その後羽柴秀吉の命令により明知城は森忠政に返されてしまいます。
しかし、これでもまだまだ諦めないのが利景らのスゴイ所です。

慶長5年(1600)、関ケ原の戦いでは家康の後ろ盾で三度目の明知城奪取に成功します。
外敵の侵攻に立ち向かった景行・景玄ら、不屈の再興を誓った利景・一行ら。
受け継がれた彼ら遠山明知氏の領主としての生き様は東濃戦国史に語り継がれるのです。

aketisiratakan.jpg久太郎も2日間に及ぶ作図調査をしました。(参考にしていただければ嬉しいです)

現地には高田徹氏による縄張り図面が掲載された案内板があります。
折角なので自分の作図図面も公表したいと思います。(一心不乱に取り組みました)
100人書けば、100通りの図面ができるものですが、肝の部分はほぼ同じです。


Ⓢは車にて見学するのに大変便利な専用駐車場を示します。
車の施錠をしたら5秒で城内に入ります。5秒ですよ。
Ⓖは明知城の本丸の位置、城山頂部です。

美濃 迫間城 🏯山歩きと城歩きで愛されています

美濃 迫間城 (岐阜県関市迫間・迫間山) 

前回の記事で取り上げた、勝山城(猿啄城)への登山者が多いのには理由があります。
もちろん、展望台から雄大な日本ラインを眼下に俯瞰し、絶景が楽しめるのはその一つです。
しかし、登ってきた道をそのまま下山する人はあまり見かけません。

では、どこに行かれるのかというと・・。

山頂に立ったあと下山せずそのまま稜線を歩いて次の山へ向かう方がいらっしゃいます。
それはここが各務山塊の東の入口でが尾根が西方面へ、ずっと延びているからです。
「縦走」と呼ばれたりもする、登山の方法のひとつであり、楽しみ方のひとつです。

今回取り上げる「迫間城」は勝山城から稜線伝いに行ける城跡です。
高低差もあまりなく緩やかな稜線を辿って行くこのコースはとても人気でおススメ。
時に、トレランコースとして紹介され、レースが開催されたりもしていますよ。

saruhazama (23)
陽当たりのよい稜線トレイルが楽しめます。
(自分もトレイルランしたことのある優良コースです)

saruhazama (24) saruhazama (27)
分岐点には迫間城と猿啄城との方向が案内されています。

saruhazama (29)迫間城の東方面の堀切と土橋。
(こういった所に「↓土塁」とか「←堀切」とかの立て看板なんかがあると親切ですが)

東からの尾根から伝ってくると頂上手前に現われるのがこの堀切・土橋です。
・・と言っても、ほとんどの登山者は城の遺構だと気付かずに通り過ぎていくようです。
遺構を見る目が、あるかないか、なんですが、わからないのが普通です。

saruhazama (30)
本丸への上り詰め道と切岸。

もう一条の堀切と土塁を越えると本丸に至ります。
登山道として幾度となく踏み固められたが故に、部分的に崩れています。
よく観察すれば「あ~土塁だ、あ~堀切だ」と見えてきます。

saruhazama (34)新たに立てられた迫間山・迫間城木碑です。

saruhazama (36)
こちらは以前からの看板です。味がありますね。

saruhazama (38)
頂上の本丸は登山者の眺望休憩所としていつも賑わっています。

作図バインダーを片手にせっせと縄張作図をしているといろんな人に声をかけられます。
「さっきから行ったり来たりと、一体何をされているんですか??」・・とか、
「なんかの調査ですか??」・・とか・・。

・・絶対怪しいヒトですからね( ̄▽ ̄;)。
(一応、身の潔白を証明するぐらいの説明はさせていただいてます)

大体はの方は「へぇ~~(奇特な・・)」としか言いようがないのでしょう、
興味なさげに聞き流されます(笑)。
しかし、中には熱心にあれこれと聞いてくださり、しばし城談議に花咲くことも。

saruhazama (33)ここからは関市方面が一望のもと見渡せます。

saruhazama (39)
下段の曲輪を見下ろしますが、「曲輪」って言ってもわかんないだろうな・・。

saruhazama (41)
西方面の虎口遺構です。

登山者の踏み跡が図らずも食違い虎口をわかりやすくしています。
Sの字になった進入経路がはっきりわかりますね。
でも一般の方々はここまで気付かないんだろうな~と。

迫間城は美濃・尾張間を遮る各務山系中央部に位置しています。
お互いの様子をいちはやく伝達する目的のために設けられた伝えの城だったのでしょう。
また尾根稜線でつながる勝山城とは相互補強の関係もあったことも明白です。

でも、実はこの各務山系内にはあと2つの城址が確認されています。
距離は離れていますが山塊の西端には権現山城という城址も控えています。
また南の愛宕山には天野山砦という砦址も確認されています。

スキャン_20190220迫間城は簡素な縄張りでしたが戦国期の伝え城らしさがあります。

あと、迫間城近くには面白い旧蹟もあるので寄ってみました。

saruhazama (54)のぶべり岩と呼ばれる眺望がきく大岩もあります。

それがこの「のぶべり岩」です。
説明版には「尾張の小牧山からの旗信号を中継して美濃・飛騨方面へ伝達した所」とあります。
小牧山城⇒犬山城⇒のぶべり岩⇒迫間城とほぼ一直線に繋がれる眺望に妙に納得。

戦国期は果たして狼煙台として使われたのでしょうか?
江戸期以降は名古屋の米相場を美濃にいち早く伝える旗振り場として活用されたそうです。
迫間城は、確たる城主の伝えが残っていませんが、交替城番が置かれたのかもしれませんね。


Ⓢは広い登山者用駐車場があり利用しやしいです。
 迫間城・のぶべり岩、その他見所ガイドマップ説明版も掲示してあります。
㋹はのぶべり岩の尾根。
Ⓖは迫間山頂上の迫間城です。
 もちろん、勝山城(猿啄城)からの稜線歩きからでもアプローチできます。
 迫間城~勝山城(猿啄城)間の距離は約2.2kmで徒歩で30分くらいでしょうか。

美濃 勝山城 🏯日本ラインを見渡せる濃尾攻防の要城

美濃 勝山城 (猿啄城) (岐阜県加茂郡坂祝町勝山・城山) <町指定史跡>

突然ですが、皆さんは懸賞応募とかされますでしょうか??
スーパーの協賛チラシ、食品のキャンペーン、TV番組の終わりの抽選プレゼント、等々・・。
こまめに見渡せば応募ネタというものは身近にゴロゴロ転がっているものです。

ただ、日々の生活に追われ、応募がめんどくさいですよね・・。(ハガキもないよ・・)
奥方は懸賞応募が好きで内容問わず暇があれば応募に明け暮れる懸賞女子です。
もちろん応募しないと当たらないのですが、これ・・割と小さく当たるもんでして・・。

今回、「日仏ラグビーチャリティマッチ2019〜FOR ALL 復興〜」のペアチケットが当選!
実は生でラグビーの試合を観るのは二人とも初めて。「観に行こうね~o(^▽^)o」
この一瞬、自分の口元が、違う意味でニヤッとしたのを奥方は見逃しませんでした。

奥方:「・・今回どこの城がセット?」
自分:「・・言いずらいです・・。」

gimera.jpg
2月2日に岐阜メモリアルにて開催され、観戦しに行ってまいりました。

saruhazama (1)ということで試合観戦前に登ったのが坂祝町の勝山城(猿啄城)です。
(振っといて岐阜城じゃないんか~い)

saruhazama (2)

山登り、という観点では格好の山ですので登山する方々でいつも賑わっています。
駐車場は山麓に20台くらいは停められますが、それでも土日は満車のときがあります。
少し下ったところに第2駐車場もありますから大丈夫です。

saruhazama (3)
登り口には城主となった河尻肥前守秀隆公を祀った石碑も。
(こちらでの河尻公の活躍は後ほど)

saruhazama (19)
登山道は緩急ありますが、全体的に整備され、いい運動になります。

saruhazama (18)
20分ほどで八合目辺りの大手曲輪に到着します。

この上段に広い曲輪があるのですが、中腹にあるせいで見過ごされる遺構です。
麓から登ってくる侵入者に対しての監視所も兼ねていたようです。
登山道に対して平行しており横矢掛けができる曲輪です。

saruhazama (5)頂上に設けられた展望台に到着です。

saruhazama (7)
展望台からの日本ライン(木曽川)や可児・美濃加茂市の一望風景。

saruhazama (6)
鵜沼城と犬山城は直視できません。間に陰平山があるからです。

天文年間(1532~1555)には多治見修理が猿啄城城主でした。
永禄8年(1565)織田信長の臣・丹羽長秀らによって攻められ、多治見修理亮は城を脱します。
信長は城を勝山城と改称し、一番戦功のあった河尻秀隆を城主としました。
(城主ということになっていますが、ニュアンス的にはおそらく城代でしょう)

saruhazama (4)猿啄城の石碑と木柱碑。・・展望台に比して控えめです。

城名は表題に挙げた「勝山城」よりも「猿啄城」の呼称の方が有名かもしれません。
自分が敢えて「勝山城」と呼んでいるのは、織田信長がそう改名したからです。
この後、この城を信長より預かり受けた城代・河尻秀隆もそう呼んだはずです。

信長が生涯で改名した城はおそらくこの二城だけ
猿啄城⇒勝山城」と「稲葉山城⇒岐阜城」だけではないでしょうか。
(※自分の知る限りですので他に例がございましたらご教示をお願いいたします)

伊木山城と共に東美濃への本格的橋頭保としてこの地を奪取した意味は大きかったのです。
事実、この城を押さえたことで直後の堂洞合戦は信長優勢のもとで展開していきます。
「勝山城」、信長の積年の喜びや意気込みが実に伝わってきます。

saruhazama (8)
本丸に相当する曲輪はいかにも狭小です。

山頂部は岩肌があらわれ、ほぼ自然地形を造成してあります。
北側から西北面にかけて小さな腰曲輪もみられますが、なにせ狭いです。
・・しかし曲輪の側面部をよくよく見てみると・・。

saruhazama (11)この様に立派な石垣も随所に確認できます。

saruhazama (9)
西方面の石垣。

saruhazama (20)
北方面の石垣。

saruhazama (13)
東方面にも高さこそなかれ、長い石垣も確認できます。

石垣の上にはかつて、より広さを確保するための腰曲輪があったのでしょう。
今日では埋もれ、または崩れて、さほどの広さは保たれてはいません。
しかし、こうした苦労の址を感じる貴重な石垣遺構であるといえましょう。

saruhazama (10)
尾根を堀切で遮断しますが土橋で連絡を確保しています。

saruhazama (14)
背後の山から望む城山山頂です。

城の背後にある「大ぼて山」へ丹羽長秀が攻め登り、水の手を断ちます。
下からは河尻秀隆が勇敢に攻め上がり、上と下から攻め寄せられた城は落城しました。
信長の用兵も見事ですし、それを着実に実行し、戦果を挙げた丹羽・河尻両将の手柄です。

河尻秀隆は信長の信頼がよほど厚かった人物と推定できましょう。
そして、この後、対武田東濃作戦では、重要な神箆城を任され、岩村城主に大抜擢されていきます。
嫡男・信忠の補佐役に抜擢されたのも、その老練な経験が認められた証、といえます。

黒母衣衆筆頭の座はダテではないのです。

また秀隆はここ勝山城でも民政には心血を注いだようです。
登り口の石碑や城山中腹の途中にある白河神社でも「河尻様」として祀られています。
秀隆の愛されぶりが感じられましょう。

saruhazama (15) こうして見ると復興天守にも相当する迫力。・・これでいいんんです。

猿啄城こと勝山城の展望台からの眺望は本当に素晴らしくロマンに満ちています。
(木曽川沿いの河川道は「ロマンチック街道」と呼ばれていますよ)
一見、見るに値する遺構は少なそうですが、石垣遺構を探し当ててたら、気分最高ですよ!

saruhami.jpg翌日にもう一度登って改めて作図してみました。

saruhazama (17)
・・さてこの後、こちらは懸賞で当たったラグビー観戦に行ってまいりました。

細かいルールも何人制競技なのかさえもわからないままの現地入り。
ドラマ・『スクールウォーズ』世代なので、ある程度の予備知識がありましたが・・。
しかし、いざ試合が始まるとものすごい迫力、体と体がぶつかり合う音が聞こえてきます。
(頭の中は麻倉未稀さんの『ヒーロー - Holding Out For a Hero- 』が・・)

どのポジションのメンバーが欠けても勝利にたどり着くことはできないでしょう。
勝利の喜びを、負ける悔しさを、より強く感じることができるスポーツだと思いました。
共に分かち合う・・これもラグビーの素晴らしさの一つだと思いました。

One for all, All for one、・・胸に響く忘れたくない言葉です。

いつも恩恵に預かりっぱなしで、キツイ山城にも付き合ってくれる奥方には感謝です。
自分のためだけではなく常に家族のために無心で家事をしながらの仕事、そして懸賞応募(笑)。
その気持ちや前向きな姿勢が家族の心をいつも明るくしてくれます。


Ⓢは登山者用駐車場です。
Ⓖは展望台のある主郭。ゆっくり登っても30分ほどで到着です。
眼下に広がる眺望は本当に素晴らしいです。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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