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美濃 上村城(前田砦) 🏯重機なしでここまでの土木事業とは・・。

美濃 上村城(前田砦)(岐阜県恵那市上矢作町本郷・城山)

・・たまにふと考えることがあります。
【城】と【砦】の違いってなんか基準はあるんだろうか??・・と。
あと【塞】、とか【塁】、とか言い出したら・・。

「わからないことはググれ!」、という次男の口癖。(はいはい)
時代は変わりました。まずひも解くものが辞書ではなくなったのです。
しかしウェブだろうと広辞林だろうと、「調べる」という率先的な行動は持ち続けたいものです。

・・さて、辞典とかには「本城の外の要所に築く小規模な城。規模の小さな出城」とあります。
当然、この程度の説明では城郭ファンを頷かせること、できようはずもありません。
何故ならこの表現では当てはまらない事例が多すぎるからです。

今回訪れた上村城「前田砦(ぜんだとりで)」と呼ばれるほうが親しまれているようです。
しかし、現地に立つと「砦」という呼称が全く不似合いであることを感じます。
先程の説明での「砦」どころか「大城郭」と呼ぶに相応しいからです。見ていきたいと思います。

zenda (9)かなり離れないと山の全容がつかめないのも大城郭の証です。

前田砦は上村川と飯田洞川が合流する地点の東山上尾根にあり、東へ伸びています。
縄張り図を作図をした限りでは主郭部だけで東西200メートル、南北150メートルの山城です。

zenda (10)
城山の尾根先端部からの登山道があります。

城山の西麓に公民館があるので、車はそこに停めさせていただきました。
共同精米機が設置されてあるので邪魔にならないように駐車します。
この山道は大船寺への参道としても利用されていますね。

zenda (11)
これから登ろう!、という時にこう言い切られては・・。

zenda (12)
ということで今回は熊除け鈴をこれでもか!、とダブルで装着。
(うるさいのですが安全にはかえられません)

zenda (14)
登っていくと道が2つに分かれます。

右は城内に向かう近道で、左は城山稲荷への近道。
どちらを進んでも脇から主郭部へは辿り着きます。
城山の奥には城山稲荷が祭られています。

zenda (13)
気を付けなければならないことが多いのが山城探索だが、頭上まではちょっとね・・。

zenda (3)最奥(東)の大堀切から度肝を抜かれていきます。

傾斜もあり、堀底も見事な薬研ぶりです。
一部登山道で分断されていますが両側面部には大きな竪堀につながっていきます。
この様子では当時の堀底、容易に歩けなかったことでしょう。

zenda (4)
堀底を辿ると気付くのですが主郭部を囲うようにコの字型(弓型)になっています。

zenda (2)
この堀切から登った曲輪には大土塁(櫓台?)まで備えられています。

zenda (16)土塁上に置かれた石塔。何を語っているのか。
(え、何?城址碑?のワケないです・・)

zenda (15)あまりにも美しいので逆方向からも見とれます。二度おいしい。

zenda (17)
最高所の曲輪の北側側面には石積も見られます。土留め用ですね。

zenda (1)
東より2条目の堀切。どれもメイン級の堀切で意識高すぎ・・。

zenda (6)
適度な林業伐採が入り、遺構同士の見通しもよいです。

zenda (5)
東より3条目の堀切。堀底は窪地となっており、むしろ曲輪を兼ねているよう。

zenda (7)城中最大規模の東より4条目の大堀切。

箱堀、というより堀底に居住空間ができるほどの余裕の広さがあります。
いずれも両側面は竪堀へと続く、という一貫性も見られます。
東美濃ではここでしかお目にかかれない超ド級の土木普請量、間違いありません。

ホントとに重機とか、使ってませんよね?(思わず疑いたくなるほど)

zenda (18)
この高切岸も頂部手前は登攀困難でした。

さて、この前田砦ですが。
『恵那郡史』では元亀3年(1572)上村合戦で遠山景行の家臣、門野(かどの)兄弟が千騎で籠もり、武田氏の武将・秋山虎繁軍を待ち受け対峙したそうです。

文面から察するに門野氏はこの地をあくまで陣地として利用したようです。
山上一帯に砦を構え、伊那から侵入する武田軍を待ち受けたのでしょう。
前田砦、という呼称はこの時の陣城を指すものと思われます。

また『丹羽氏聞書』では原弾正を城主としています。
原氏はおそらく武田氏から派遣された人物かと思われます。
伊那と岩村を結ぶ重要地点として前田砦を上村城と称した大城郭へと改修したのでしょう。

あくまでも個人的な感想ですが・・
曲輪配置や堀切の規模、舌状台地を利用した縄張り、どっかで見たことがあります・・。
そう、信濃の飯田・駒ヶ根地区の城郭と類似してるな・・という感じです(飯田城・赤須城等)。

縄張りには秋山虎繁麾下の春近衆が関与しているのかもしれません(あくまで楽しい想像)。

zenda (8)
城山から望む飯田洞方面、岩村城への糧道。

上村城から岩村城までは同時に武田氏による糧道も整備されたそうです。
水晶山を通過して岩村城の搦手に直通する、最短かつ安全な道でした。
こういった城と軍事道路をセットで普請するのも武田氏の得意とするところですね。

主郭部の北に位置する城山稲荷も行ってみました。
zenninari (2) zenninari (1)

おそらくここ一帯も当時は城郭の一部であったことでしょう。
広い平場が大きな横堀で守られています。この横堀遺構がこれまた巨大です。
飯田洞川と主郭部と巨大横堀に守られた隠れ曲輪のように感じます。

武田氏と東濃遠山氏、そしてその後の織田氏との戦いの後先を語る前田砦こと上村城。
山の形を変えてしまう程の土木普請量、岩村城では感じ得ない別の意思を感じます。
この地に立てば武田氏の東濃計略裏方としての意気込みが伝わってくるようです。


Ⓢはお借りした公民館の駐車場です。
Ⓖは主郭部の頂部。


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美濃 漆原城 🏯武田氏特有の築城術に魅せられて

美濃 漆原城 (岐阜県恵那市上矢作町漆原越沢・城山)

「よし、今度の休みは山城に行こう!」、固い決意と期待。
仕事を段取りよくこなし、クレーム処理もスマートに解決。準備万端なり。
すると気合を入れすぎたのか、当日は無情の雨・・。なんてよくあることです。

しかしここのところの天気はとても安定しています。
雨が降っても明け方には快晴へと向かいます。
絶好の行楽日和、家族を尻目に今日はどこ(何城)へ行きましょうか?

ということで最近のお気に入りエリア、恵那市の南部まで足を延ばします。
恵那市には五平餅の美味しいお店がたくさんあるのも魅力でして・・。
今回は旧上矢作町の漆原城山城を訪ねてみました。

urusihara (1)漆原大橋から眺める漆原城山城。

城山は上村川に向かって突き出た山です。
山の真下に城山トンネルが通り、国道257線が岩村と稲武を結んでいます。
城山の麓にはコテージが並び、キャンプや研修などに利用されています。

siroyamatonnneru.jpg

城山へはトンネル脇からの道が東と西の両口からあります。
今回は車を近くの三作集会場に停めさせていただき、西口から登城しました。
案内板等はありませんが、なだらかな登山道を10分程で頂上まで行けます。

urusihara (14)
まずは頂上まで。土壇の上に城山稲荷があります。

登城途中には集落の墓地が何段か見られます。
しかし不便なためでしょうか、訪城するごとに墓じまいされているようです。
残された平地は曲輪ではないので注意が必要です。

urusihara (13)
全体的に残存状況がよく見学しやすいです。写真は本丸の様子。

ここを起点に周囲を探索すると遺構同士の連動が確認できます。
こちらには何回も来ていますが、手入れされた山林は見通しが良く、ありがたいです。
伐採された木々が堀底に捨ててある、なんてこともありません。

urusihara (15)本丸より土橋で馬出し曲輪と連絡しています。

本丸に至るルート上に馬出し曲輪を設けて要としたような印象を受けます。
この馬出し曲輪周囲には虎口、腰曲輪、堀切、竪堀・竪土塁を設けています。
無駄がなく各遺構がうまく連動している様子が見所です。

urusihara (3)
馬出し曲輪の南側竪堀は畝状竪堀になっています。

urusihara (5)
主郭と馬出し曲輪を画する竪堀は引き込まれるような鋭さが。

urusihara (9)
南側を取り巻く長い腰曲輪と主郭部の切岸。

urusihara (10)本丸から北西方面に延びる尾根には深い二重堀切で遮断します。

主郭側で5m、土塁側で3mほどの遮断意識ありありの堀切。
端部は竪堀となっていきます。
堀切が間隔を置かず連続で配置されている姿は見応えがあります。

urusihara (11)

urusihara (12)
南側の腰曲輪で主郭部をカバーしています。

漆原城は上村合戦時には苗木城の遠山友忠が城番を務めた、とされています。(詳細は不明)
(上村合戦は遠山氏・東濃衆連合軍vs武田秋山氏・春近衆連合軍との間で繰り広げられました)
しかし、現在見る姿は明らかに武田氏による縄張り特徴がみられます。

岩村城を落とした武田氏は三河方面との連絡路を確保するためにこの城山を重要視したのでしょう。
遺構は上村川側ではなく、三作からの峠越え方面に展開しています。
増水等に影響されない峠越えルートを補給路として、監視も兼ねたようです。

漆原城は東濃地方における岩村と三河方面をつなげる武田氏系城郭として注目されます。
城址碑も説明案内版もありませんが、史跡指定をうけることもないままに眠っています。
願わくは、この状態で末永く遺構を楽しめることを望みたいものです。


Ⓢは駐車場に三作集会場をお借りしました。
Ⓖが主郭部、城山トンネルの上を通り、峠頂部の鞍部を西の山手へと登っていきます。


美濃 下村城 🏯畑となろうとも面影が残る城

美濃 下村城 (岐阜県恵那市上矢作町下増沢・城)

驚いた事がありまして、10月も終わりに近づき、11月になろうとしているこの陽気。
自分の耳を疑いました。確かにツクツクボウシが間近で鳴いているのです。
かつての美声はどこへやら、それでも命消えるその瞬間まで懸命に生きる姿です。

そんな「生きる運命(さだめ)」を感じながらの城めぐり(疲れてんのかな・・)。
今回は前回の小田子城から北上、旧上矢作町、下集落の下村城を訪ねました。
下村城は別名が沢山あります。山室城(やまむろじょう)、小御所城(おごそじょう)、等々です。

simomura (3)新澄ヶ瀬橋近くから眺める下村城。

simomura (2)
「澄ヶ瀬」の名の通り澄み切った美しい清流・上村川。ウグイが泳いでら。

恵那市上矢作町に昔から伝わるお祭り「熊野神社 春の大祭」が面白いです。
大祭では、夜になると熊野神社に地区ごとの神輿が集まり、「けんか神輿」が始まります。
小田子地区と下地区の神輿どうしが境内でぶつかり合う様子は勇壮で迫力あります。

simomura (4)
増沢集会所の空き地に駐車させていただきました。ここのすぐ上が城址です。

主郭部はおおむね畑となっています。
simomura (8)

畑では仕事を一休みされていたおばあちゃんにいろいろ教えて頂きました。
なんでも、お嫁さんにいらしたときから、ここはもう畑になっていたそうです。

城の西を通っている現在の県道はかつて堀になっていたそうで今より細かったんだとか。
そして東の腰曲輪には井戸があったそうです。(現在は確認できませんでした)
また周辺の地名の由来と場所を教えていただきました。

地名には市場、牧場、小御所(おごせ)、堀、射去(やだれ)等、城に関する地名が多く残ります。
また下村城の南は増沢川、東は上村川が流れ、周囲は河川と湿地帯で守られていたようです。
・・おばあちゃんとの談話はとても楽しいひとときでした(^▽^)♪。ありがと!

simomura (7)
曲輪の輪郭もどこまでが往時の姿か見当がつきません。

simomura (5)
かつては大堀切があったという「堀」という屋号も現在は県道となっています。

simomura (6)この傾斜角はおそらく当時の城の面影が残っている部分かと思われます。

simomura (9)下村城から見渡す下地区の城下。

城主の言い伝えも口伝、文献共に一致をみません。
こうした城名が複数伝わるのも、それだけ城主が変わったことも示しているようです。
基本的に恵那郡遠山氏勢力⇒武田方勢力⇒再び遠山氏の遍歴で差し支えないでしょう。

比較的信頼性のある『丹羽氏聞書』によれば戦国末期の城主に遠山市左衛門が伝わります。
また天正期には串原遠山氏の城代として大嶋(大島)兵衛五郎の名も伝わっています。
『美濃諸旧記』に見られる下村丹後守幸近は諱の組み合わせから武田方の関係者とも思われます。

下村城は三河・信濃から岩村へとつながる重要中継地点であったようです。
そして串原、明知方面にも最短距離で連絡できる分岐位置にありました。
豊富な地名や街道のつながりが今でもそれを伝えているようです。



Ⓖは下村城の主郭部。増沢集会場から見学できます。
 当然ですが、畑ですので無断での立ち入りは厳禁。
 城址碑・案内版などはありません。

美濃 小田子城 🏯信濃国境に向けられた城

美濃 小田子城 (岐阜県恵那市上矢作町小田子乙原)

秋の深まりと共に城めぐりも趣あるシーズンを迎えております。
訪れる城址へ向かう途中でも、また現地の城址でも見事な色付きに癒されます。
紅葉も楽しみながらの城めぐりはなんだか気分もゆったりしています。

さて・・少し前に旧串原村の福原城を記事で紹介させていただきました。
福原城の北には福原山が控えており、福原城の後備えの役割があったそうです。
(福原山はまだ未踏なので、今度また調査に登ってみようかと思っております)

その福原山からの支峰尾根上にはもう一つの城が存在します。
福原城が主に三河国境に向けられているとしたらこちらは信濃国境に向けられている城でしょうか。
それが今回のご紹介の小田子城(こだこじょう)です。見ていきたいと思います。

kodako (10)対岸の三河押山集落(豊田市稲武町)から見た小田子城。

小田子城は上村川と矢作川の合流地点右岸に構えられた城。
ここから矢作川沿いに東へ10kmほどで信濃の根羽村へと繋がります。
福原城同様、三河と信濃の国境に位置しますが、主に信濃方面を意識しているようです。

kodako (4)
小田子橋の脇には根羽方面を示す古い道標があります。

小田子橋は渡河地点として古い時代からこの位置に架かっていたようです。
小田子の郷土史にお詳しい方からいろいろ教えていただきました。
城址への登り口(大手道)もこの橋上にあったようです。

現在の登城口は消滅してしまいましたので乙原集落の東口から登ります。
※個人宅の敷地をまたぐので注意が必要です。
先ずは中部電力さんの送電鉄塔を目指して登ります。

tettousinnro.jpg
こちらは近年置き換えられた新しい送電鉄塔です。

鉄塔に出たら尾根沿いを西方面に伝います。
しばらくすると急斜面になって山腹に土橋が現れます。
ブッシュでこの土橋を見落とすかもしれませんんが・・。

kodako2 (1)
かわいい土橋で見落としそう・・。両脇はしっかり堀切になっています。

kodako (5)
南に回り込むと大手腰曲輪を分断する大きな竪堀があります。

大手の腰曲輪は南尾根からの備えを担っています。
kodako (2)

ブッシュで写真では示せませんが虎口は主郭部の東側。
受け曲輪を設けて喰違い虎口の様相をしています。
わかりづらいので今回は下に縄張り図を図示してあります。

kodako (1)
主郭部にはかつての送電塔の基礎が4支点残っています。

以前、自分がこの城を2回訪問した時はここに送電塔が立っていました。
・・なにかえらく時間が経過したような気になって、
「オレ山城歴何年なんだ??」と誰もいない山の中でニヤニヤしてしまいました。

kodako (6)
主郭部本丸部の様子。奥には低い土塁があります。

土塁の上をよく見てみると・・
kodako (7)
投石用でしょうか?礫石が沢山固めて置いてあります。

kodako (9)
主郭部周囲の切岸は高く腰曲輪からはうんと見上げるかたちになります。

kodako (8)尾根続きを堀切で遮断し、堀底に土橋を設けています。

kodakosuke.jpg小田子城のスケッチ縄張り図。

小田子城は元々は福原城同様、恵那郡の遠山氏によって築かれたのでしょう。
しかし岩村城が落とされて後、この地域一帯の城は武田方勢力による改修を受けたのでしょう。
小田子城も城の東側にその改修痕跡が見られます。

元々は曲輪として繋がっていたであろう大手腰曲輪や喰い違い虎口はその可能性があります。
特に堀切と竪堀との連動手法には、武田氏方の特徴がみられます。
・・しかし主郭部西側にはかつての遠山氏時代の面影が残っているようです。

kodako (3)両河川の合流点を見下ろす位置にある小田子城。

小田子城が聳える山のその先の向こう、信濃へはもう間近。
遠山氏時代にあっては国境監視城として、武田氏時代にあっては重要中継城として。
その歴史が詰まった遺構、山容、美しい自然をいつまでも大切に残していきたいですね。



Ⓢの小田子橋の安全帯に駐車しました。
Ⓖが小田子城の主郭部、中電鉄塔を目指して登りました。

美濃 野原城 🏯飛騨・美濃間に屏風の如く立ちはだかる城

美濃 野原城 (岐阜県加茂郡白川町河東野原)

よく「秋の日は釣瓶落とし」と言います。
日が急に沈む様を井戸に落とす釣瓶に例えていう言葉です。
ゆっくり仕事をしているとたちまち暗くなってしまい、ちょっと慌ててしまう・・。

絶好の山城見学シーズン到来ですが、この日照時間の短さとの闘いでもあります。
一日で回れる城が限られてしまう、なんとも憎らしい季節、でもあります。
そんな中、今回は白川町の野原城を見学しました。

因みに同じ岐阜県白川でも合掌村で有名なのは飛騨の「白川村」のほう。
こちらは東濃ヒノキや白川茶の生産が有名な美濃の「白川町」、です。
また「野原」は「のはら」ではなく「のわら」と読みます。

nowarakt (1)
お天道様の登る方角には段々のお茶畑が心和む風景です。

nowarakt (8)野原城を対岸国道から眺めます。

直下に飛騨川が流れ、周囲は高い山々に囲まれています。
野原城はその飛騨川に食い込むような500mもの細尾根上に築かれています。
そしてその三方は断崖絶壁となった要害です、・・では、見ていきましょう!

nowarakt (9)
舗装林道から簡単にアクセスできるのが嬉しい~( ^ω^ )。(車は路駐でOK!)

nowarakt (12)
こういう石碑はなぜかワクワクしてしまいます。

観音様に一礼して・・。(城址とのなんの関係かは解りません・・)
nowarakt (10)

nowarakt (16)
幅が3m程の長い土橋のような連絡郭?です。

nowarakt (13)
野原城の主郭部を見上げます。(入口からわずか1分!)

nowarakt (14)主郭本丸(おそらく)に建つ石碑に到着です。

狭い曲輪なのにこんな大きな石碑・・。
バランスが必要だな、というのが率直の感想ですが、ま、立派なのでいいでしょう!
ここからの景色はなかなか絶景です。

nowarakt (3)
飛騨川と高山本線、集落と山々、風光明媚。

nowarakt (2)
2、30分おきに列車が麓を通って行きます。

静まり返った中を電車の音が「ゴトン、ゴトン、ダ、ダ、ダダン」と通り過ぎていきます。
山々にこだまするその音がなんとも耳にやさしくて、眼下を見渡しながらのコーヒータイム。
ここに城を築く理由がわかってきます・・。さて、遺構は残っているのかな??

nowarakt (5)
岩山の細尾根という限られたスペース。(せま・・)

これでは掻き揚げすることもできそうにありません・・。
天険の岩山をそのまま利用するしかなさそうですね。
当時は柵や木戸を厳重にすることで一城郭として成立していたのかも。

nowarakt (11)
(;゚Д゚)なんせ、周囲の岩壁ときたら、これもんですから・・。

しかし天然の絶壁ばかりに頼り切った訳でもなさそうです。
本丸の周囲を注意深く観察してみると・・
なんと石垣があります!

nowarakt (4)本丸下に積み上げられた石積。

おそらく土留め用程度のものでしょうが、結構迫力あってドキドキします。
果たして当時のものなのでしょうか?そうだといいロマンなのですが・・。
この石垣の見学はちょっと危険を冒して下に降りないと拝見できません。
(見学をされる方は充分注意してください)

nowarakt (6)野原城の西を仕切る岩を利用した堀切、いや、彫切と書くべき?

nowarakt (7)
連絡道は堀切脇の細い道のみ!(右下には竪堀があります)。

この堀切は本当に「堀切」なのかどうか、見方によって意見が分かれるでしょう。
単なる岩の切れ目、自然のものである、とも見れます。
しかし、防御施設の一環として利用された、という点で遺構と捉えても差し支えないでしょう。
(現に南には若干ですが竪堀へと続きます)

図面スケッチを・・。
nowarazu.jpg


nowarakt (15)野原城は承久の乱(1221)に京都軍に味方した野原三郎義政が築城。

応仁元年(1467)に安江光庵基政がこの地に砦を築き、兼山の森氏、苗木の遠山氏と対抗。
・・若干、時代が合いませんが。(諸説ありってことですね)

天正元年(1573)、基政の孫・正常(政常)の時、苗木遠山氏の軍勢により野原城は落城。
その後成山に逃れた一族により、野原城は奪回されます。
しかし天正10年(1582)には、森武蔵長可の軍勢に瞬く間に落とされました。
(例によって恫喝でもされたのでしょうか?)

遠山氏、森氏と対抗した、というくらいなら、当時としたら相当の勢力です。
飛騨の三木氏らとは良好な関係を保っていたようです。
でないと周囲は敵だらけですよね・・。

野原城は飛騨・美濃間に敷かれた、立ちはだかる屏風のような要害でした。
それぞれの方向から屏風の向こう景色は見えないのです。
城は人工的な手を加えられずとも、天険に頼りながら在地支配に適した城でした。


Ⓖは路肩駐車スペースがあります。交通量はありません。
  野原城入口の石碑が建っています。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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