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美濃 明知城 🏯例のない横堀と竪堀群の絶妙タッグは見応え充分

美濃 明知城(白鷹城) (岐阜県恵那市明智町明知・城山) <県指定史跡>

ここのところ久し振りに地元・美濃の城をめぐる機会が増えました。
2月は駿河、3月は遠江、4月は志摩、5月は能登、越後、と外征が多かったからです。
マラソン絡みもあったのですが、とても充実し、勉強になった春でした。

しばらくマラソン大会はエントリーしてませんので練習に集中です。
子息たちの用事もここのところめっきり減り、うれしいような寂しいような感じです。
・・寂しいといえば外征続きでお父さんのフトコロは落城寸前!(泣!)

そんな諸事情のなかで本来の地元城めぐりも充実させたい、と思う今日この頃です。
行きたいときにそこでいつでも待っていてくれる・・、地元の城って有難いものですね。
「お金はなくとも、地元の城がそこにある」(泣くのはもうやめ♡)

・・さて、今回は東濃地方における中世山城の傑城、明知城を訪ねます。
明知城といえば城ファンの方なら知らない人はいない、という程、有名な戦国の城です。
明知城が超有名な理由として次の3つが挙げられると思います。

①、織田・武田両氏との間で壮絶な争奪戦が繰り広げられた。
②、明智光秀の出生地として(可児市の明智長山城と並び)最有力視されている。
③、※「遠山七家」の内の一つで、遠山氏の有力一族、明知遠山氏の本城である。

※「遠山七家」(岩村・阿寺・明知・飯羽間・串原・苗木・阿木)の一つです。
その中でも最も有力な岩村・苗木・明知を「遠山三頭」と呼ぶこともあります)

それでは見ていきたいと思います。

aketisirataka (22)明智駅を降り、南東に見える城山が明知城です。(比高80m程度)

別名「白鷹城」、カッコいい名称ですね。幟のアピール度ハンパありません。
こちらでみたらし団子や五平餅等を食べて腹ごしらえするとイイと思います。
明知城に関するパンフなんかも入手できますよ。

自分、そういえば元号が「令和」になって最初の作図調査になるのがここ明知城です。
(強敵なのでしっかりかからねば・・、と気合をいれます)

aketisirataka (34)
城下町は日本大正村としても有名。趣ある路地めぐりも発見がありますよ。

aketisirataka (24)
町がそっくり、大正時代の空気に包まれ、なんだかタイムスリップしたような気分。

aketisirataka (25)
大正のモダンなイメージをした洋風建築、大正ロマン館。

城めぐりもいいのですが、たまにはのんびりと歩き散策もいいものですね。
たたずまいを感じながら歩くと、眼に映るものがとても新鮮に感じます。
「こういう感覚、しばらく味わってなかったな~」って、ときめいたりしました。

aketisirataka (26)
明知城西麓の大手門近くには江戸時代には陣屋が築かれました。

元和元年(1615)遠山方景は旗本として江戸に屋敷が与えられる事になり、城は廃城となりました。
代わりに麗の大手門近くに代官屋敷が設けられ、代官を村上氏に任せて廃藩置県まで存続します。
現在陣屋跡地には村上氏の屋敷と土蔵が残っています。

aketisirataka (30)
遠山家の菩提寺である龍護寺では、遠山家累代の墓所や明智光秀公の供養塔があります。

aketisirataka (29)
少し前置きが長くなりましたが、明知城へと向かいます。

さて、明智駅、並びに日本大正村方面からのアプローチはこんな感じ。
他にも見所は沢山ありますので時間の許す限り、街歩きもいいと思います。
こちら、「城」と「街」、「戦国」と「大正」を同時に味わえるのが特徴です。

・・さて、そうは言っても・・。

「明知城だけが見たい」、というせっかちな城最優先さんもいらっしゃると思います。
かくいう自分もその部類の人間です。(最近、少しゆとりを持つよう努めていますが・・)
そんな方には車にて城山裏手から仕寄るといいでしょう。

aketisirataka (1)
城山の東側の道路には駐車場が完備されています。

こちらの駐車場から城内までは僅か5秒!。
早速左側にやや破壊された堀切を見ながら竪堀底を通って登城できます。
せっかちな少年少女さんにはうってつけのコースだと思います。

aketisirataka (18)
一見、城址に至る遊歩道のようですが、既に城内に足を踏み入れています。

傍らや頭上を見上げると、切岸と畝堀を確認できます。
どうやら通路を兼ねた横堀の堀底を通っていることに、ここで気が付きます。
心の準備ができていないと城内に入った感覚すらありません。

aketisirataka (17)
細かい間隔の小さな畝堀もあれば・・。

sirataka (5)身の丈をはるかに超える、土塁+竪堀ともいえる巨大畝堀もあります。

これらの遺構は主郭曲輪群の外側をほぼ全周に渡って設けられています。
一般的に見られる斜面に落とされた竪堀とは一味違う明知城独特の見所です。
こんな狭い一方通路を攻め上がるなんて・・、考えただけで恐ろしい・・(;゚Д゚)。

しかも、このような多数かつ大規模な遺構を複雑に組み合わせています。
自分は作図しながら改めてその連動性に驚嘆せざるを得ませんでした。
おそらく武田氏摂取時の改修遺構なのでしょう、と推察します。

aketisirataka (2)
城内には大きな貯水池があったようです。水の手曲輪ですね。

aketisirataka (15)
南出丸に足を運ぶと門に使用された石垣址が一部残っています。(石垣というか列石・・)

aketisirataka (14)
城内には陣屋として使用された名残も併存しています。

aketisirataka (4)
本丸と南出丸を介する二の丸に向かいます。

曲輪の際を歩くとどこも切り立った絶壁になっていて足がすくみます。
畝堀を経た堀底からこの切岸をよじ登ることは不可能に感じます。
「曲輪は際を歩く」とその特徴がわかりますね。

aketisirataka (5)
プレートには「虎口」と示されるスロープ状の連絡口。

aketisirataka (10)本丸に到着しました。高い所から撮影、広さが伝わるといいのですが(´∀`)。

aketisirataka (8)
説明版と高田徹氏の縄張り図があります。

aketisirataka (6)石碑はありませんが、標柱が立ってます。(細い・・)

aketisirataka (16)
各曲輪間は大きな堀切で断ち切られています。

遊歩道からは主郭部と畝状竪堀・畝土塁などは見学し易いようになっています。
しかし、見上げるほどの堀切、圧巻の切岸などはブッシュによって全貌が掴めません。
踏み込んだ探索を希望する方は作業着での来城をおススメします。

sirataka (2)このようなブイブイいわせるVの字堀切も見所です。

元亀3年(1572)、明知城主・遠山景行と東濃諸氏は上村(恵那市上矢作町付近)に布陣。
武田氏の武将・秋山虎繁ら伊那衆らを迎撃しますが、敗北、景行は戦死します。
嫡男・景玄(※)も戦死したため、家督は孫の一行(かずゆき)が継承します。

遠山景玄は「かげはる」と読むそうです。彼につては詳細不明で一部誤伝もあるようです。

天正2年(1574)には明知城に武田勝頼の軍勢が押し寄せ、城を包囲。
これを知った織田信長は明知城を後詰めすべく、嫡子・信忠と共に岐阜を出陣します。
信長父子は、神箆城(鶴ケ城)に着陣し、進軍を予定しましたが・。

明知城内では飯狭間右衛門が謀反を起こし、織田方の城番・坂井越中守一族を殺害。
城を武田方へ明け渡し、明知城は落城します。後詰めは間に合いませんでした。
信長は、神箆城河尻秀隆小里城池田恒興を配し、岐阜に戻っています。

その後、僧となっていた景行の次男・利景が還俗して城を奪取、一行を猶子とします。
天正11年(1583)、利景は金山城主・森長可の圧迫で明知城を退去、徳川家康に仕えます。
しかし、遠山利景と一行は諦めません!、再興のその日をじっと待ちます。

天正12年(1584)、利景は小牧・長久手合戦で森長可の守る明知城を再度攻略します。
しかし、その後羽柴秀吉の命令により明知城は森忠政に返されてしまいます。
しかし、これでもまだまだ諦めないのが利景らのスゴイ所です。

慶長5年(1600)、関ケ原の戦いでは家康の後ろ盾で三度目の明知城奪取に成功します。
外敵の侵攻に立ち向かった景行・景玄ら、不屈の再興を誓った利景・一行ら。
受け継がれた彼ら遠山明知氏の領主としての生き様は東濃戦国史に語り継がれるのです。

aketisiratakan.jpg久太郎も2日間に及ぶ作図調査をしました。(参考にしていただければ嬉しいです)

現地には高田徹氏による縄張り図面が掲載された案内板があります。
折角なので自分の作図図面も公表したいと思います。(一心不乱に取り組みました)
100人書けば、100通りの図面ができるものですが、肝の部分はほぼ同じです。


Ⓢは車にて見学するのに大変便利な専用駐車場を示します。
車の施錠をしたら5秒で城内に入ります。5秒ですよ。
Ⓖは明知城の本丸の位置、城山頂部です。

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美濃 迫間城 🏯山歩きと城歩きで愛されています

美濃 迫間城 (岐阜県関市迫間・迫間山) 

前回の記事で取り上げた、勝山城(猿啄城)への登山者が多いのには理由があります。
もちろん、展望台から雄大な日本ラインを眼下に俯瞰し、絶景が楽しめるのはその一つです。
しかし、登ってきた道をそのまま下山する人はあまり見かけません。

では、どこに行かれるのかというと・・。

山頂に立ったあと下山せずそのまま稜線を歩いて次の山へ向かう方がいらっしゃいます。
それはここが各務山塊の東の入口でが尾根が西方面へ、ずっと延びているからです。
「縦走」と呼ばれたりもする、登山の方法のひとつであり、楽しみ方のひとつです。

今回取り上げる「迫間城」は勝山城から稜線伝いに行ける城跡です。
高低差もあまりなく緩やかな稜線を辿って行くこのコースはとても人気でおススメ。
時に、トレランコースとして紹介され、レースが開催されたりもしていますよ。

saruhazama (23)
陽当たりのよい稜線トレイルが楽しめます。
(自分もトレイルランしたことのある優良コースです)

saruhazama (24) saruhazama (27)
分岐点には迫間城と猿啄城との方向が案内されています。

saruhazama (29)迫間城の東方面の堀切と土橋。
(こういった所に「↓土塁」とか「←堀切」とかの立て看板なんかがあると親切ですが)

東からの尾根から伝ってくると頂上手前に現われるのがこの堀切・土橋です。
・・と言っても、ほとんどの登山者は城の遺構だと気付かずに通り過ぎていくようです。
遺構を見る目が、あるかないか、なんですが、わからないのが普通です。

saruhazama (30)
本丸への上り詰め道と切岸。

もう一条の堀切と土塁を越えると本丸に至ります。
登山道として幾度となく踏み固められたが故に、部分的に崩れています。
よく観察すれば「あ~土塁だ、あ~堀切だ」と見えてきます。

saruhazama (34)新たに立てられた迫間山・迫間城木碑です。

saruhazama (36)
こちらは以前からの看板です。味がありますね。

saruhazama (38)
頂上の本丸は登山者の眺望休憩所としていつも賑わっています。

作図バインダーを片手にせっせと縄張作図をしているといろんな人に声をかけられます。
「さっきから行ったり来たりと、一体何をされているんですか??」・・とか、
「なんかの調査ですか??」・・とか・・。

・・絶対怪しいヒトですからね( ̄▽ ̄;)。
(一応、身の潔白を証明するぐらいの説明はさせていただいてます)

大体はの方は「へぇ~~(奇特な・・)」としか言いようがないのでしょう、
興味なさげに聞き流されます(笑)。
しかし、中には熱心にあれこれと聞いてくださり、しばし城談議に花咲くことも。

saruhazama (33)ここからは関市方面が一望のもと見渡せます。

saruhazama (39)
下段の曲輪を見下ろしますが、「曲輪」って言ってもわかんないだろうな・・。

saruhazama (41)
西方面の虎口遺構です。

登山者の踏み跡が図らずも食違い虎口をわかりやすくしています。
Sの字になった進入経路がはっきりわかりますね。
でも一般の方々はここまで気付かないんだろうな~と。

迫間城は美濃・尾張間を遮る各務山系中央部に位置しています。
お互いの様子をいちはやく伝達する目的のために設けられた伝えの城だったのでしょう。
また尾根稜線でつながる勝山城とは相互補強の関係もあったことも明白です。

でも、実はこの各務山系内にはあと2つの城址が確認されています。
距離は離れていますが山塊の西端には権現山城という城址も控えています。
また南の愛宕山には天野山砦という砦址も確認されています。

スキャン_20190220迫間城は簡素な縄張りでしたが戦国期の伝え城らしさがあります。

あと、迫間城近くには面白い旧蹟もあるので寄ってみました。

saruhazama (54)のぶべり岩と呼ばれる眺望がきく大岩もあります。

それがこの「のぶべり岩」です。
説明版には「尾張の小牧山からの旗信号を中継して美濃・飛騨方面へ伝達した所」とあります。
小牧山城⇒犬山城⇒のぶべり岩⇒迫間城とほぼ一直線に繋がれる眺望に妙に納得。

戦国期は果たして狼煙台として使われたのでしょうか?
江戸期以降は名古屋の米相場を美濃にいち早く伝える旗振り場として活用されたそうです。
迫間城は、確たる城主の伝えが残っていませんが、交替城番が置かれたのかもしれませんね。


Ⓢは広い登山者用駐車場があり利用しやしいです。
 迫間城・のぶべり岩、その他見所ガイドマップ説明版も掲示してあります。
㋹はのぶべり岩の尾根。
Ⓖは迫間山頂上の迫間城です。
 もちろん、勝山城(猿啄城)からの稜線歩きからでもアプローチできます。
 迫間城~勝山城(猿啄城)間の距離は約2.2kmで徒歩で30分くらいでしょうか。

美濃 勝山城 🏯日本ラインを見渡せる濃尾攻防の要城

美濃 勝山城 (猿啄城) (岐阜県加茂郡坂祝町勝山・城山) <町指定史跡>

突然ですが、皆さんは懸賞応募とかされますでしょうか??
スーパーの協賛チラシ、食品のキャンペーン、TV番組の終わりの抽選プレゼント、等々・・。
こまめに見渡せば応募ネタというものは身近にゴロゴロ転がっているものです。

ただ、日々の生活に追われ、応募がめんどくさいですよね・・。(ハガキもないよ・・)
奥方は懸賞応募が好きで内容問わず暇があれば応募に明け暮れる懸賞女子です。
もちろん応募しないと当たらないのですが、これ・・割と小さく当たるもんでして・・。

今回、「日仏ラグビーチャリティマッチ2019〜FOR ALL 復興〜」のペアチケットが当選!
実は生でラグビーの試合を観るのは二人とも初めて。「観に行こうね~o(^▽^)o」
この一瞬、自分の口元が、違う意味でニヤッとしたのを奥方は見逃しませんでした。

奥方:「・・今回どこの城がセット?」
自分:「・・言いずらいです・・。」

gimera.jpg
2月2日に岐阜メモリアルにて開催され、観戦しに行ってまいりました。

saruhazama (1)ということで試合観戦前に登ったのが坂祝町の勝山城(猿啄城)です。
(振っといて岐阜城じゃないんか~い)

saruhazama (2)

山登り、という観点では格好の山ですので登山する方々でいつも賑わっています。
駐車場は山麓に20台くらいは停められますが、それでも土日は満車のときがあります。
少し下ったところに第2駐車場もありますから大丈夫です。

saruhazama (3)
登り口には城主となった河尻肥前守秀隆公を祀った石碑も。
(こちらでの河尻公の活躍は後ほど)

saruhazama (19)
登山道は緩急ありますが、全体的に整備され、いい運動になります。

saruhazama (18)
20分ほどで八合目辺りの大手曲輪に到着します。

この上段に広い曲輪があるのですが、中腹にあるせいで見過ごされる遺構です。
麓から登ってくる侵入者に対しての監視所も兼ねていたようです。
登山道に対して平行しており横矢掛けができる曲輪です。

saruhazama (5)頂上に設けられた展望台に到着です。

saruhazama (7)
展望台からの日本ライン(木曽川)や可児・美濃加茂市の一望風景。

saruhazama (6)
鵜沼城と犬山城は直視できません。間に陰平山があるからです。

天文年間(1532~1555)には多治見修理が猿啄城城主でした。
永禄8年(1565)織田信長の臣・丹羽長秀らによって攻められ、多治見修理亮は城を脱します。
信長は城を勝山城と改称し、一番戦功のあった河尻秀隆を城主としました。
(城主ということになっていますが、ニュアンス的にはおそらく城代でしょう)

saruhazama (4)猿啄城の石碑と木柱碑。・・展望台に比して控えめです。

城名は表題に挙げた「勝山城」よりも「猿啄城」の呼称の方が有名かもしれません。
自分が敢えて「勝山城」と呼んでいるのは、織田信長がそう改名したからです。
この後、この城を信長より預かり受けた城代・河尻秀隆もそう呼んだはずです。

信長が生涯で改名した城はおそらくこの二城だけ
猿啄城⇒勝山城」と「稲葉山城⇒岐阜城」だけではないでしょうか。
(※自分の知る限りですので他に例がございましたらご教示をお願いいたします)

伊木山城と共に東美濃への本格的橋頭保としてこの地を奪取した意味は大きかったのです。
事実、この城を押さえたことで直後の堂洞合戦は信長優勢のもとで展開していきます。
「勝山城」、信長の積年の喜びや意気込みが実に伝わってきます。

saruhazama (8)
本丸に相当する曲輪はいかにも狭小です。

山頂部は岩肌があらわれ、ほぼ自然地形を造成してあります。
北側から西北面にかけて小さな腰曲輪もみられますが、なにせ狭いです。
・・しかし曲輪の側面部をよくよく見てみると・・。

saruhazama (11)この様に立派な石垣も随所に確認できます。

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西方面の石垣。

saruhazama (20)
北方面の石垣。

saruhazama (13)
東方面にも高さこそなかれ、長い石垣も確認できます。

石垣の上にはかつて、より広さを確保するための腰曲輪があったのでしょう。
今日では埋もれ、または崩れて、さほどの広さは保たれてはいません。
しかし、こうした苦労の址を感じる貴重な石垣遺構であるといえましょう。

saruhazama (10)
尾根を堀切で遮断しますが土橋で連絡を確保しています。

saruhazama (14)
背後の山から望む城山山頂です。

城の背後にある「大ぼて山」へ丹羽長秀が攻め登り、水の手を断ちます。
下からは河尻秀隆が勇敢に攻め上がり、上と下から攻め寄せられた城は落城しました。
信長の用兵も見事ですし、それを着実に実行し、戦果を挙げた丹羽・河尻両将の手柄です。

河尻秀隆は信長の信頼がよほど厚かった人物と推定できましょう。
そして、この後、対武田東濃作戦では、重要な神箆城を任され、岩村城主に大抜擢されていきます。
嫡男・信忠の補佐役に抜擢されたのも、その老練な経験が認められた証、といえます。

黒母衣衆筆頭の座はダテではないのです。

また秀隆はここ勝山城でも民政には心血を注いだようです。
登り口の石碑や城山中腹の途中にある白河神社でも「河尻様」として祀られています。
秀隆の愛されぶりが感じられましょう。

saruhazama (15) こうして見ると復興天守にも相当する迫力。・・これでいいんんです。

猿啄城こと勝山城の展望台からの眺望は本当に素晴らしくロマンに満ちています。
(木曽川沿いの河川道は「ロマンチック街道」と呼ばれていますよ)
一見、見るに値する遺構は少なそうですが、石垣遺構を探し当ててたら、気分最高ですよ!

saruhami.jpg翌日にもう一度登って改めて作図してみました。

saruhazama (17)
・・さてこの後、こちらは懸賞で当たったラグビー観戦に行ってまいりました。

細かいルールも何人制競技なのかさえもわからないままの現地入り。
ドラマ・『スクールウォーズ』世代なので、ある程度の予備知識がありましたが・・。
しかし、いざ試合が始まるとものすごい迫力、体と体がぶつかり合う音が聞こえてきます。
(頭の中は麻倉未稀さんの『ヒーロー - Holding Out For a Hero- 』が・・)

どのポジションのメンバーが欠けても勝利にたどり着くことはできないでしょう。
勝利の喜びを、負ける悔しさを、より強く感じることができるスポーツだと思いました。
共に分かち合う・・これもラグビーの素晴らしさの一つだと思いました。

One for all, All for one、・・胸に響く忘れたくない言葉です。

いつも恩恵に預かりっぱなしで、キツイ山城にも付き合ってくれる奥方には感謝です。
自分のためだけではなく常に家族のために無心で家事をしながらの仕事、そして懸賞応募(笑)。
その気持ちや前向きな姿勢が家族の心をいつも明るくしてくれます。


Ⓢは登山者用駐車場です。
Ⓖは展望台のある主郭。ゆっくり登っても30分ほどで到着です。
眼下に広がる眺望は本当に素晴らしいです。

美濃 天王山城 🏯霊山・天王山山上の絶景城郭

美濃 天王山城 (岐阜県美濃市大矢田・天王山)

年末から遠征が重なり、薄い内容ながらも律義に記事にしてしまいました。
どの城も印象深く、また一緒に同行していただいた城友さんとの楽しい思い出・・。
成人を迎えた長男の晴れ姿・・、流し目して先には進めなかったからです。

その間、地元周辺の山城にも足を運んでみました。
広大な城でなくとも、感じる心さえあればどんな小さな城でも感動があります。
今回は久しぶりに地元・美濃からの愛すべき山城レポートを発信したいと思っております。

その名も名称がカッコいい「天王山城」です。

tennou (1)大矢田神社背後の天王山頂上一帯が城址です。

秋になると大矢田神社の紅葉はその美しさでとても賑わいます。
自分も家族を連れて、もみじ鑑賞と名物の田楽を食べに来たこともありました。
また室町時代から伝わるという大矢田神社のひんここ祭りも有名です。

tennou (2)
大矢田神社の楼門を見学していきます。

tennou (3)
神社の中にも仏教式の素晴しい門が残っています。

tennou (4)
山を登る前に長~い階段にて本殿まで歩みます。

創建は養老2年(716)、天王山禅定寺として泰澄大師がこの地に開基しました。
祠はその一部となり、牛頭天王として習合されます。
天王山の名も、大矢田神社の祭神、牛頭天王に由来しています。

tennou (5)
大矢田だけに、弓矢です。・・か?(無知です)

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拝殿の前を抜け、本殿の東側脇から山頂に向かいます。

tennou (8)
楓の滝に到着。

「楓の滝」あり、「どんびき岩」なる奇岩あり、大モミジあり、と飽きることないトレッキング。
欲を言えば、本当は紅葉全盛の時に来れたら絵的に良かったのですが・・。
縄張り図作成をするには人の気が少ない真冬の時期の方が落ち着きますので・・。

tennou (12)
山頂手前の尾根に到着。

ここで天王山方面と誕生山方面へと分岐します。
先ずは天王山頂上に向かいます。
・・ここでネタばらししちゃいますが、実は主郭部は山頂にはありません。

tennou (20)
山頂部手前の土橋っぽい横には・・。

tennou (17)片堀切ですがざっくりとえぐれています。

tennou (18)天王山頂上です。

山頂部は平地は残るものの、岩盤があちこちで露出しています。
明瞭な切岸も認められず、堀切を除けばあまり手を加えられた様子がありません。
しかしながら、ここ頂上からの眺望は本当に見事でした。

tennou (9)どこまでも重なり合う美濃の山並みです。

冬の澄んだ空気に折り重なる山々は何ともいいものです。
この地が『美濃』の表記されるようになった理由がおのずととわかる気がします。
城址に来ているのに、散策そっちのけで景色を楽しんでしまいます(笑)。

tennou (16)美しい野です、美濃・・ですねぇ∠( ^ o ^ ┐)┐。

tennou (19)
遠くに木曽の御嶽山もよく見えました。

・・そろそろ主郭部の遺構へ行ってみましょうか。
先程の尾根分岐点から誕生山方面へと向かいます。
頂上からみて東側の尾根に展開しています。

tennou (14)
櫓台のような土壇があります。

tennou (15)主郭部の曲輪の様子。一部石垣も見られます。

石垣は或いは石積み、と表現したほうが適切かもしれません。
いわゆる土留め用程度のもので、個々の石の大きさも小さいチャート状のものです。
東西に細長い曲輪ですが東側端部には土塁も見られ、その先には大堀切へと連なります。

tennou (13)深さ5m程の大堀切が遮断します。見た目薬研堀ですね。

天王山城は頂上部を含み、3つの山頂部を利用して構築されています。
主郭部が、一番眺望が優れ要害性のあるはずの頂上(鞍部に堀があるのみ)ではなく、
東尾根先端部に主郭部が置かれたワケとはなんでしょう??・・。

いろいろな理由が考えられます。

①、頂上一帯が岩盤地面で作事普請しずらかった・・。
②、山頂部は神宿る霊山の聖域として最小限の普請に留めた・・。
③、大桑城から見た東の出城として東方面の連絡重視をした・・。
④、飛騨方面・或いは郡上郡方面からの攻撃に備えた・・。

・・などでしょうか?
今回は作製した図面を掲載したいと思います。

tennousai.jpg3つのピークからなる天王山城です。

天王山城の城主としては後藤正元・正長(正元の次男)の名があがっています。
正長は天文11年(1542)大桑城にて土岐頼芸斎藤道三が戦った際、土岐方に属したようです。
大桑城とは位置関係的にも本城・支城関係にあったのかもしれません。

山頂からの景色が素晴らしいので眺望写真ばかりになってしまいました。
登山途中にも何人かのハイキングの方ともすれ違いましたし、やはり人気スポットのようです。
頂上でお話しさせていただいた方の中には、なんと毎日!登られているという方も。・・尊敬。

城址見学だけでなく縦走ハイキングも楽しめそうな天王山城でした。


Ⓢは大矢田神社の登山者用駐車場をお借りしました。
Ⓖは山頂東尾根にある天王山城の主郭部。登山時間は登り50分ぐらいみます。
結構ハードですが、モミジや滝を鑑賞しながらゆっくり登れば亦楽しからずや。
頂上からの絶景が疲れを吹き飛ばします。

美濃 片知城 🏯渓谷間を立ち塞ぐ身元不明の山城

美濃 片知城 (岐阜県美濃市片知谷戸・城山)

暖冬といわれるこの冬もさすがに冷え込んでまいりました。
受験生を持つ親としても健康には充分気をつけたい今日この頃です。
さて、自分の体調管理の秘訣は「よく走り、よく食べ、よく眠ること」、です。

そして、「よく城に行くこと」、これです!

結局これが言いたいんじゃないの?と突っ込まれそうですが・・。
自分の好きなことに没頭できる時間というのは大切にしたいものです。
でも何事も程々に、という言葉もございまして、腹八分目がよろしいかと。

「腹八分目」、これも体調管理の秘訣かもしれませんね。

そんな折、出かけたのは美濃国のど真ん中、美濃市にある片知城です。
地図でみると丁度美濃地方の中心地にあるようですよ。(岐阜城は意外と西濃寄りなのです)
かなり高い山の上にある遺構なので先ずは登ることから始まります。

Mkataji (2)聳え立つ城山を板取川対岸から仰ぎ見ます。

標高約400m、比高340mの山城としては比較的高所の城山。
片知川と板取川の合流する地点に城は築かれました。
小野城、鉈尾山城、天王山城、等‥、美濃市の山城はどれも標高が高いのです。

Mkataji0.jpg
城山は国道沿いの「自由の女神」が目印!

写真では丁度、女神の掲げた松明(トーチ)の先っちょになるように撮影しました。
そう、右手に掲げているのは松明なんです。
ちなみに左手に持っているのは「アメリカ合衆国独立宣言」です。‥豆知識!

個人的にはこの地、かつて子供たちが所属していたミニバスケチームの合宿でよく来ました。
この先を右に入った片知渓谷で毎年のように川遊びを楽しみました。
懐かしさが込み上げ、しばし思い出にふけりながらの城めぐりです。

・・と、その前に、愛車と林道遊び・・。
Mkataji (1)
板取川沿いの岩盤切通し道。

この辺りは高い山々と深い谷が織りなす岩盤地形となっています。
岩から染み出た川の水は透明度が高く、非常にきれいなんです。
付近には見事な鹿垣もみられ、昔からの、石との関わり合いが感じられます。

Mkataji (3) 付近には落石防止処置があちこちに。

Mkataji (4)
林業仕事に使われるレール沿いに登って行きます。

途中までですがこのレールに沿って登って行けます。(あくまで途中まで・・)
先程の美濃市の山城たちの中ではここ片知城だけが登山道整備されていません。
したがって尾根道直登が一番の安全かつ最短コースになります。

ヤブ漕ぎですが・・。

Mkataji (5)
麓からゆっくり登って40分ほどで尾根の堀切が現れます。(汗ダックダク!)

中央に土橋がつき、両端は竪堀となっています。
主郭部とはやや離れた所に備えてあります。
主郭部へはさらに標高40mほど登ります。

Mkataji (8)本丸は楕円形の形で20m×30m程。

南側は端部が崩れてはいるものの、頂部はよく削平されています。

Mkataji (9)
城址碑かと思いきや、基本測量柱と掘り返されたような謎の石碑。

Mkataji (10)
本丸東から北、西の面にかけては鋭い切岸がかかっています。

本丸の下は周囲を腰曲輪と犬走りで囲ってあり、1周できるようになっています。
北へ延びる尾根には70m程もある直線の平場が見られ、その先を堀切で画しています。
また、西側尾根には3段の明瞭な曲輪が確認できます。

Mkataji (16)山頂からの眺望。

木々の枝に阻まれて隙間からチラチラとみえる麓の様子です。
写真の左側に見える高い山が鉈尾山城で、右側の木と被っている低山が小倉山城です。
眺望は阻まれますがやや西へ同じくらいの距離の所に天王山城も見えるハズ・・。
(しかし、思えば高い所に来たもんだ・・)

Mkataji (15)
主郭部周囲には一部石垣か??

自然石の重なりか、石積か、微妙なジャッジです・・。
上の写真は自然石の重なりに若干、人力による手を加えた形跡を感じました。
必要最低限の労力で、「石垣」に見立てたような・・。

Mkataji (14)何となく崩れた石垣のようにも見えてしまいますが・・。

矢穴とかが確認できませんし、乱雑なので、おそらく自然石なのでしょう。
しかし、普請中に出土した石を積み重ねたようにも見えなくもありませんでした。
それは石が折り重なった場所が集中しているからです。

こういった例はお隣の鉈尾山城にも見られました。(出来栄えは鉈尾山城に軍配)

片知城は築城年代や城主の伝承など不明な点が多い山城です。
しかし、鉈尾山城とよく似た縄張り遺構がみられることから、
何かしらの関係性はあったことは推測できそうです。

鉈尾山城のみならず、天王山城、小野城、加治田城・・。
遺構パーツごとに少しづつ似た遺構が見られるのも見学すると感じます。
大桑城(山県郡美山町・高富町)から東に展開する山城ネットワークにも注目したいところです。



Ⓢには渓流釣りシーズン用の駐車スペースがありお借りしました。
Ⓖが主郭部。Ⓢから尾根沿いにゆっくり休憩付きで50分ぐらいでしょうか。


プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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