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美濃 門野砦 🏯上村合戦に参戦した門野氏の砦

美濃 門野砦(岐阜県恵那市明智町杉野・城山)

あ~・・。なんだかなぁ・・。(いきなり溜息ですみません)

普段の何気ない生活がいかに特別で素晴らしいものだったのか・・。
自分が行おうとする全ての活動に是か非かの判断力を要する毎日。
果たして家での籠城が正しいのか、人気無い山城攻城もNGなのか・・。

「自分はOKだから」という勝手さでは済まされない感染拡大防止の世の中です。

『毎日がスペシャル』、竹内まりやさんの歌詞が心に沁みる今日この頃。

「目覚めた朝 息をしてるだけで幸せなこと」
「知っているの 人生とは心の持ち方でどうにでもなると」
・・なかなか究極な人生観です。・・けれど何か救われます。

・・さて、ちょっと気持ちが遠くへ行ってしまいました(^_^;)。すみません。
現状の世の中ではブログの更新も思うようにいかなくなるでしょう・・。
でも今回はこの春訪れた門野(かどの)砦をご紹介したいと思います。

kdnt (1)地元では「城山」と呼ばれている門野神社一帯の門野砦。

門野砦は明知遠山氏の郎党、門野氏の砦址だと伝わります。
門野氏の三兄弟、磯之助・角八・高助らは上村合戦に加わり戦いました。
上村合戦では前田砦に陣を構えて秋山勢に備えたと伝わります。

kdnt (2)
砦は門野神社の裏山にあたります。ここから登って行きます。

kdnt (3)
神社によくある急階段の参道をテンポよく登って行きます。
(「何段あるかな?」と段数を数えて登るのは自分だけじゃないハズ)

kdnt (4)
比高20メートル程の丘上奥に鎮座する本殿。

門野砦はこの本殿の東側の丘陵上ピークと伝わります。
本殿の裏から消えかかった道を北東に登って行きます。
すぐにピーク部に達し標柱が立てられていました。

kdnt (5)門野神社東側のピークに立つ標柱碑。根本が折れそうで心配(´・_・`)

僅かな傾斜ぎみの平地があるのみで周囲は自然地形です。
尾根続きの鞍部にも堀切の痕跡は見当たりません。
腰曲輪や切岸といった作事も見られず、実に普通の山といった感じです。

果たしてここが砦なんでしょうか・・。
そこでもう一度神社まで降りてみると神社の西側のピークが目に止まります。
こちらは切岸もつけられ掻きあげられた地形に仕上がっています。

どう見てもこちら西側ピークの方が砦として相応しく映るのであります。

kdnt (12)kdnt (11)
神社西側のピークの様子。2枚の写真をつなげてみました。

kdnt (8)
最も高い段には6つの祠が祀られています。

石垣が組まれ改変されてはいるものの一段の高みがあったようです。
こちらも堀切遺構は見られませんが、神社方面に深く落ち込みが見られます。
南側から神社に向かって延びるルートが確認できます。

kdnt (6)しっかりと削平された神社西側ピーク。

kdnt (7)
内部には高さ2メートル弱の塚址と思われる高みが残っています。

以前は宗教上の施設か祠などが祀られていたのかもしれません。
そうなるとこの削平地もその際に均されたスペースなのかもしれません。
しかし周囲は急斜面となり、杉野地区の集落も足下に直視できる眺望よき場所です。

kdnt (13)散策記録としての門野砦周辺図です。

神社が創設される際に本来の地形が崩されていることも考慮せねばなりません。
しかし自然地形に近い東側ピークよりも西側ピークの方が断然機能的です。
「在地支配」と「集落・街道との結びつき」を考えれば検討の余地はあると思います。

もちろん両遺構で成り立っていたという見方も充分考えられます。

kdnt (10)
砦からは北西に杉野一夜城も見られます。
(杉野一夜城についてはまた後日記載予定です)

kdnt (9)
門野砦の麓の社にも美しい桜が。こんな引き合わせがスペシャルなんですね。


㋹は門野神社を指します。
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美濃 岩井戸砦 🏯上村合戦における総帥・遠山景行公の本営と遠山塚

美濃 岩井戸砦(向井戸砦)(岐阜県恵那市上矢作町本郷向井戸)
遠山塚と遠山一杯清水(岐阜県恵那市上矢作町漆原425番地)

「令和となって初めての」・・なんていうのも使い古された枕詞のようですが・・。
令和最初の桜はとびっきりいい天気に恵まれ鮮やかに咲き誇っています。
絶好のお花見日和なのですが、世の中は緊急非常事態宣言の中となりました。

惜しいかな・・、実に惜しいと思えてなりません。
・・が仕方がありません。
一人一人が協力して早く平常な生活を取り戻したいものです。

iwidtsaku (3)上矢作町石洞地区の桜に立ち寄ってみました。

上矢作町の桜は「新田の桜」が有名ですがワタクシのお気に入りはこちらの桜。
その「新田の桜」から株分けされたというこの桜は名前もありません。
が、里山に一本だけ艶やかに咲き誇る姿には強く引き付けられるものがあります。

iwdt (4)上村川越しに武田方目線で眺める岩井戸砦。

今回訪れたのは恵那上矢作町の岩井戸砦と上村合戦の周辺史跡です。
織田氏に属する東濃連合軍VS武田氏の配下・伊那郡代の秋山虎繁率いる諸氏との合戦場です。
岩井戸砦は東濃連合軍の総帥・明知城主遠山景行の本陣となった砦です。

iwdt1rd.jpg
砦の内部及び周辺一帯は陸田となっており、著しく様変わりしています。

面影は感じられますが遺構はほぼ全壊状態といっていいでしょう。
明治時代以降に新田開墾が進められ絶好の南向き地形は畑となりました。
基本的な骨格姿は想像できますが細部については不明としか言えません。

iwdt (3)
頂部周囲の法面には切岸の面影がみられます。

iwdt (5)
頂上の広い曲輪址も一面の畑です。

iwdt (2)
西に続く鞍部には農道がつけられました。

かつての鞍部には堀切址と思われる切通しが存在していました。
平成8年の見学ではこの遺構が残存していたことを記録しています。
残念ながら写真が・・どっかへ隠れてしまいまして・・(探しまくったのですが)

その時の作図図面がありますのでご紹介したいと思います。
(作業中の地主さんに許可をいただき立ち入らせていただきました)

iwidtz.jpg平成8年9月当時の岩井戸砦址状況図です。

尾根伝いの鞍部が堀切状になっているのがわかります。
現在は麓から農道が敷かれここも破壊されています。
北側には谷川が廻り急斜面となっているのは現在も同じようです。

iwdt (7)かつての本陣からは上村川沿いの谷筋が一望に見渡せます。

ここからは東に伊那根羽・平谷村方面筋が見渡せます。
南は三河稲武方面からの街道を、北は岩村に直結する街道を押えます。
狭隘な街道筋の監視場としては絶好の位置にあることがわかります。

上村合戦(かんむらかっせん)の経緯を簡単に申しますと・・

元亀元年(1570)12月(元亀3年説もあり)武田氏の軍勢が徳川氏の東三河を攻めようとして進軍。
武田方主将の秋山虎繁は武田軍3000余騎を率いて東美濃の遠山氏の領地に侵入します。
途中、東美濃の遠山氏の上村へ侵入したために遠山氏と徳川氏との連合軍と衝突しました。

当時の遠山氏は織田信長の叔母・おつやの方が岩村城主・遠山景任の夫人となり織田方でした。
遠山氏は明知城の遠山景行を総大将に武田軍を迎え備えます。
景行はそれぞれの進路にある上村の前田砦、漆原の漆原城等に兵を入れ備えました。

そして自身は岩井戸砦で指揮を執り明知・岩村・三河衆との交差点に陣を敷きました。

両軍の主だった参戦武将

武田軍主将・秋山虎繁
望月与三郎信繁
原藤吾昌定
芝山主水且春
松本右京亮長継ら伊那諸士

遠山三河連合軍総帥・遠山景行
遠山景玄(景行嫡子)
門野磯之助氏幸、門野高助繁氏、門野角八氏益ら門野三兄弟
串原遠山右馬助景男、遠山五郎教景
吉村源蔵、小里氏、平井氏ら東濃諸士
奥三河衆山家三方衆らの諸士

戦いは串原遠山氏が秋山軍の望月勢を攻撃し火蓋が切られました。
望月勢が引き下がる様子に乗じ串原勢は敵中深くまで追いたてます。
しかし望月勢は左右両翼に兵を広げ、原・芝山勢が串原勢の両翼を攻撃しこれを崩します。

これを契機に遠山方は攻め返され味方は悉く崩れ始めました。
岩井戸砦の景行本陣も前後から挟撃され景行は奮戦するものの及ばず撤退します。
景行らは北東の尾根沿いに血路を開いて落ちるも漆原の山中にて自刃しました。

その場所は遠山塚として今に伝わっています。↓

tymtuka (4)遠山景行がここまで落ちのびこの地にて自刃したと伝わる遠山塚です。

景行が本陣とした岩井戸砦よりかなり奥まっており標高も高い山奥です。
武田軍の追手はかなり広い範囲での山岳戦を展開したと思われます。
高齢でもあり逃げ切れないと悟った景行はこの地にて覚悟を決めたようです。

tymtuka (5)駐車場のある看板から少し下った所に石碑と祀られています。

景行らはこの尾根から明知城方面へ向かおうとしたようです。
武田の侵入を阻止しようと懸命に戦った景行の人柄が偲ばれる思いです。
しかし戦においては統率のとれた秋山繁虎の采配が上回りました。

tymtuka (6)遠山塚より下った所には遠山一杯清水の史跡もあります。

上村合戦で敗退した門野高助、磯之助、覚八、串原右馬助らが再び戦おうとしました。
しかし喉が渇き戦うことができない・・。何処にも水はない・・。
思い余って近くの石に槍を突き刺したら不思議なことに清水が湧き出たそうです。

やけくそだったとしても時として吉となることを教わります。
諦めたらそこで終わりますからね。末期の一杯の清水。
自分も喉がカラカラの時の水は最高に美味しかったですね(中学生部活の思い出)。

tymtuka (7)ここから湧き出た水を飲んで再び戦場へと向かった門野氏らでした。

現在は落ち葉が堆積して水源は確認できませんでした。
雨上がり後の数日は少し掘り起こせば湧き水が確認できるようです。
或いは同じように突き刺したら湧き出てきてくれるのかしら?。

岩井戸砦、遠山塚、遠山一杯清水、ここまで訪問したら喉が渇いてきました。
自分も自宅で用意した自作レモン水を飲み干します。
最後にもう一ヶ所寄りたい場所があります。

iwidtsaku (2)

安住寺(岐阜県恵那市明智町杉野1060)

安住寺には遠山景行夫妻の墓所があります。
山号を久昌山と呼び、光国舜玉和尚(曹洞宗)の初開道場として建立されました。
現在は臨済宗妙心寺派のお寺です。

anjj (1)

anjj (4) anjj (3)

大永5年(1525年)明知城の城主であった遠山景行によって創建されました。
寺の本堂の奥にある墓域には遠山景行とその妻の墓所があります。
ここまで伺うと何かこう気持ちが引き締まる思いです。

anjj (5)
仲睦まじく並んだ遠山夫妻の墓所です。

景行公 乾樹院殿前相州文岳宗叔大居士 元亀三年十二月二十八日没
 室   安住寺殿光林妙珠大姉       永禄四年二月一日没
遠山景行公は永正6年(1509)生で元亀元年(1570)没とされますので・・。

齢60才近くにて戦場に赴いたという事ですね。

anjj (2)
景行が上村合戦に敗れて自害したのち、密かに運ばれた遺体がここに埋葬されたそうです。
お参りすると頭部の疾患(首から上の病)に霊験があるとされますよ。
ところで景行公・・薄毛には効き目ありますか?

一説に明智光秀の叔父である明智光安は景行と同一人物とされます。
その説に従うと景行は明智光継の三男として生まれ、明知遠山氏を継いだ事となります。
景行は入道して宗叔と号しますが明智光安宗宿(または宗寂)と号していて類似しています。

真実のほどはわかりませんが興味のある謎ですね。


㋹は岩井戸砦の高台を指します。
Ⓢは遠山塚を示します。アドニスゴルフ場の入口手前を左折(案内板あり)
  ゴルフ場のコース脇林道を1.8km程走ると遠山塚の駐車場に到着します。
Ⓖは遠山一杯清水の位置を示します。遠山塚から歩いてもすぐです。
  車を移動して石祠のある路肩にも駐車できます。



㋹は安住寺を示します。

美濃 徳山城 🏯今もなお湖底の集落を見守るかのよう

美濃 徳山城 (岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山本郷)

人為的行為で孤児となってしまった城、というはあるものです。
別に破壊を受けたわけではなく、人里から隔離され自然忘れ去られていく城を指します。
ダム建設によって容易に近づけなくなった城もまた然り。

近年では限界集落を飛び越え消滅集落などという様々な問題があります。
その逆に再調査によって新たに発見される城というのもままあります。
今回はダム建設に伴って水没は間一髪免れた孤城、徳山城を取り上げます。

mtokuj (12)対岸の徳山会館から望む徳山城址。

本来なら集落から見上げる形の山容がオープニングを飾る久太郎のブログです。
しかしその集落は今はありません。ダム湖の底に沈んでいるからです。
ダムによってできた人造湖、徳山湖越しに位置確認するより他なし。

mtokuj (25)
本郷カンタク隧道トンネルを出たらすぐに左折します。

mtokuj (24)
その先に本郷望郷広場があります。車はここに駐車できます。

この場所は旧徳山村民が故郷を偲ぶ意味で造られた広場です。
ここからは周辺の山並みや湖の美しさが望めます。
そして徳山の歴史が詰まったような神聖な場所のようにも感じます。

mtokuj (22) mtokuj (21)
左が「集落略史年表」、右が「本郷集落略史」となる石碑板です。

mtokuj (23)徳山ダム建設に伴って466戸・522世帯(約1,500名)が移転を余儀なくされました。
(徳山城の位置は左上。加筆させていただきました。)

ダム建設はすなわち、村の消滅という事態につながりました。
「全村水没」は故郷の消滅。先住の方々のお気持ちいかばかりだったしょう。
人々は沈みゆく徳山村を偲んで最後の別れを告げたのです。

mtokuj (20)
ここから等高線に沿って城址まで遊歩道があります。

mtokuj (19)側面には水没を免れた徳山城主郭部が浮き上がります。
左端には堀切の窪みがはっきり見えます。

mtokuj (16)
先端部にはしらびや杉があり迎えてくます。

mtokuj (15)古来より住民に親しまれ大切にされてきたしらびや杉は徳山村民の願いそのもの。

mtokuj (11)
徳山村の姿を見守ってきた生き証人です。

mtokuj (7)
階段を登ればすぐ上段に本丸があります。

本丸は約50m×約15mの長方形曲輪。
曲輪の奥に高くなった櫓台と土塁を設けたシンプルな縄張りです。
しらびや杉のあった辺りには前衛曲輪があったようです。

mtokuj (14)徳山城の城址石碑土台部は苔に覆われ雰囲気あります。

mtokuj (8)
ふと後ろには湖水水位がそこまできているのがわかります。

こうして主郭部が水没を免れ「ほぼ完存している」ということに大きな救いを感じます。
渇水期になると現れる、という訳でもありません。
満水期でもその姿はギリギリ浸水しない奇跡的な事例です。

mtokuj (2)
本丸奥部の高台は櫓台かと思われます。

mtokuj (3)尾根を分断するひときわ深く大きな薬研堀切です。

この堀切は幅こそ9メートル程ですが北斜面側は深さ約10メートルあります。
豪快で見事なV字を描いたラインには魅了されるものがあります。
ここでは溜息をついてただ見とれ味わっている時間がありました。

けどそんな時間も次の瞬間に困惑・・。
その先に登れないのです・・。
傾斜が高すぎて・・(写真では右側の尾根筋へのルート)。

mtokuj (4)
写真中央、黒い部分が堀切のある部分です。

なんとか登って振り返ってみます。
ご覧の通り尾根がざっくり切り抜かれています。
道理で登れないわけです・・。そして尾根道は・・。

mtokuj (6)
幅1~2メートル弱の細い馬の背道。両脇は湖・・。

足を踏み外したら足下の湖面に向かって転げ落ちてしまう・・。
唯一の弱点背後の尾根筋は一人しか渡り歩けないように施されているのです。
ここではまるで綱渡りをしているような気分。慎重に歩きます。

mtokuj (5)
そして二条目の「念のため堀切」もきちんと用意されています。

tkymjz.jpg
湖の表現はムズカシイ・・、いい方法はないものか(・_・;)

単純で基本的な縄張りながらキチンと押さえるべき所は押えます。
その一つ一つの遺構が顕著に残っている所が見所だといえそうです。
尾根筋まで来たら戻るのも大変なんです(^_^;)💦。

徳山氏の祖は坂上田村麻呂の子孫の貞守で貞観年間に美濃権守に補せられました。
そして徳山郷を拝領し徳山氏を名乗ったのが始まりとされます。
南北朝期の徳山貞信は延元二年(1337)に徳山城を築き南朝方として呼応。
越前の新田義貞側につき西濃地方の南朝側勢力の一角を形成しました。

戦国時代には徳山則秀が領主で織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となります。
一向一揆など北陸地方の平定に尽力、加賀国松任城4万石の主となります。
佐々、前田、不破ら府中三人衆に次ぐ地位にいたと思われます。

則秀もまた勝家の人柄に引き付けられ頼みとされた武将だったのでしょう。

信長死後も勝家に従い天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では佐久間盛政隊の先鋒として奮戦。
戦後、羽柴秀吉に赦され、丹羽長秀に仕えます。
早くから徳川家康に通じの関ヶ原の戦いでは家康に仕えて5千石を領します。

徳山郷と現在の各務原市に更木陣屋を構え旗本として明治まで存続しました。

なおこの「徳山」は「とくのやま」と読むとの説もあり。

mtokuj (10)樹齢600年の一本杉・しろびや杉が語るものを感じたい。

ダムが完成すると水位がその根元近くまで達するので枯れてしまうのでは・・?
そう心配がされましたが、現在でもこうして力強く生きています。
この木を見上げていると何か心が浄化されていくような・・そんな気がしてきました。

mtokuj (13)総貯水量はダントツ日本一という徳山ダム。

多目的ダムとしては日本一の規模である一方で総工費3,500億円も日本最大です。
巨大ダム建設に対するその是非は今後も検討を要されています。
完成後もなおダム必要性について全国的な論争が起きているのも事実です。

mtokuj (18)
あ、こんなところに葡萄が落ちてる?、いえいえ、獣の美しい糞ですね。

この貴重な自然の中には野生動物たちがいることも忘れてはならない。
治水事業と環境保護、そして史跡保護。
ここ徳山城から見る湖面からは様々な問題も付きつけられる思いです。

徳山城としらびや杉は今もなお湖底の村を見守っているようでした。

mtokuj (26)
※徳山ダムより奥の国道417号線は冬季は封鎖されますのでご注意を!
(12月中旬~3月上旬まで冬季封鎖、根尾方面からは12月上旬より)
(福井方面よりの冠山峠道路、高倉峠塚峠も冬期は閉鎖されます)

実は自分、封鎖されるまさにその日に訪問してしまいました(知らずに・・)。
調査見学を終えいい気分で帰路、すると国道がゲート封鎖されているではありませんか!
事態が飲み込めません・・。朝は普通に通れたのに・・(汗)。
すぐ土木事業所に電話連絡とり、施錠解除していただき無事脱出できたという顛末でした。
大変ご迷惑をお掛けしました。ここで改めて謝意と御礼を申し上げます。
・・スミマセン(-_-;)、ホントに。きっとこれも徳山城のご加護だわ・・。


Ⓖは徳山城の位置を示します。
Ⓢは徳山城への遊歩道がある本郷望郷広場です。

美濃 仲深山砦 🏯「砦」とは名ばかり双頭の名城

美濃 仲深山砦 (岐阜県恵那市明智町和合万ヶ洞)

新型コロナウィルスの猛威と情報錯綜が吹き荒れる世界です。
誰にも遭わず風が通る山城はいつも変わらず。
季節を感じる空気と陽の光、草木や春昆虫との出会いもまた然り。

nakanaka (9)
如何な世の中でも花は変わらず咲くものですね。

あまり大っぴらには言えないところですが変わらない城ライフがそこにあります。
とは言ってもやはり未経験の世界的危機に面しているのは間違いありません。
今はただ長いトンネルの出口の先まで粛々と待とうと思っております。

nakanakayama.jpg仲深山砦を南方面から眺望します。二つのコブ山で成り立っています。

今回は有名な明知城のすぐお隣さんにある仲深山砦を訪れました。
仲深山砦は「なかのみやまとりで」と「の」を入れて読むようです。
その一方で「なか・みやまとりで」と区切って読む地元民の方もみえるようです。

nakanaka (3)
砦には南西の麓から案内板が出ています。

和合集落の街道沿いから案内標示がでています。
そこから少し登って公民館の上に写真のような矢印案内標識があります。
でも、ここからは思い思いに感覚で登って行くことになります。

今回は尾根先端部の西郭から見学しに行こうと思います。

nakanaka (12)まずぶち当たる南尾根を完全シャットアウトする堀切。

深さ約5メートルの堀切ですが尾根を根こそぎ掻きだしています。
その傾斜角度は今でも登頂者を簡単には寄せ付けません。
特に注意を払った尾根であることを感じさせます。

nakanaka (11)
上部の曲輪から見下ろすと凄まじい傾斜度。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ」って見上げたりしました。
傾斜度もそうですが、なんかこう「堀切の美しさ」っていう感じからです。
しかもこの堀切の両サイドには竪堀と自然谷が・・万事休す、です。

nakanaka (4)東郭の頂部に到着、楕円形の広い郭になります。

なんかオリエンテーリングラリーに使用されたのでしょうか?
城址石碑などはありません、原風景のまま最低限の手入れがされています。
周囲は腰曲輪に囲われていて東郭へと連絡しています。

この西郭の頂部は腰曲輪から見上げるとかなり高く切岸も付けられています。
これといった連絡道や虎口ルートがないので急斜面の踏み跡を登ります。
未整備の山城の面白さはこういった所で感じますね。

nakanaka (10)西郭の西には北側にかけて横堀が廻っています。

横堀外周には土塁を配し等間隔で4本の竪堀が落とされています。
その内の一本は約50メートルにも及ぶ大竪堀となっており長大。
比較的防備の薄い東側斜面への侵入を防ぐものと思われます。

nakanaka (1)
北麓に向かって50メートルほぼ一直線の大竪堀。

確認のため行って戻ってくると100メートル(当たり前か)。
キツイ確認作業ですが不思議と竪堀往復は楽しい!
登れないような所には竪堀は造らない(不必要だから)ことがわかります。

nakanaka (7)
ここからは隣山の明智白鷹城の南側山容が眺めれます。

続いて東郭に行ってみます。

西郭と東郭の間は堀切で分けられています。
しかし両曲輪間との連絡を重視するため導線がはっきりしています。
堀底には土橋も確認できそこから腰曲輪を介して東郭主郭へと至ります。

nakanaka (5)東郭主郭部への登城ルートには石段でしょうか。

nakanaka (2)
東郭頂部の様子。

東郭の主郭部は東西に長く60メートル程の曲輪となります。
西郭に比べると削平度が荒い感を受けますので、後に追普請されたのかもしれません。
曲輪の東端部にL字型に土塁が配されています。

東側を大きな堀切を二重にして備えてあります。
いずれも両袖を竪堀として伸ばし遮断性を大きくしています。
深い堀切が連続で続くので向こう側が確認できないという効果もありそうです。

nakanaka (6)
二重大堀切の主郭側。

nakanaka (13)
二重大堀切の尾根続き側。両堀切供、瓜二つでほぼ同規模です。

西郭同様、周囲には横堀・土塁・竪堀群をセットで巡らしてあります。
東郭の麓には湧き水が出ており、水の手がここでは、と想像できます。
その湿地谷の水の手に向かって竪堀群が落とされている感じです。

この一連の遺構群は明知城のそれと酷似していることが理解できましょう。
このことからお互いが姉妹城として機能していた時期があったと思われます。
伝承では具体的な城主や来歴が伝わっていません。

nakanakz.jpg恒例の自作縄張り図になります。下手な彩色してあります。

見所が詰まった戦国の城砦です。
作図していて時の経つのを忘れるほど。
ここに連れてきてあげたい方々が沢山います、そんな名城かと思います。

明知白鷹城と違って登山道などは未整備な点が多いですが、そこがいい所。
堀切の間に身を置き、竪堀の底に自信を埋めてみる・・。
仲深山砦はそんな城郭探求心を満たしてくれることと思います。

IMG_3037.jpg
日本大正村観光案内書では御城朱印が発行されています。
(あと一つ千畳敷砦(落合山砦)のもありますが、また訪れたいと思っています)

nakanaka (8)
お城を味わった後は五平餅も味わう、これ最高のご褒美。


Ⓖは仲深山砦を指します。
 南西麓に登り口の表示案内があります。
 日本大正村の無料駐車場から歩いて5分程の所から登ります。
 登山時間は10分程ですが未整備なうえ険しい城ですので登山装備が必要かと。
Ⓢは明知白鷹城の位置を指します。

美濃 大富館 🏯こちらも美濃土岐源氏発祥の地

美濃 大富館 (岐阜県土岐市泉大島町4丁目1番・伍所公園) <市指定史跡>

現在、コロナウイルスの影響でご旅行や城めぐりを控えられている方も多いと思います。
不要不急の外出を控えねばならない地区にお住いの方々も多く見えることと思います。
そんな時は今後の旅行やお城巡りの計画をじっくり練ってみるのは如何でしょうか?

終息がみえるその日まで皆で協力してできる範囲で備えたいものです。
いち早くコロナウイルスが落ち着き、平常な日々が戻ってくることを願っています。
城は必ず待っていてくれますから・・。

ということで今回は地元周辺、明智光秀絡みの土岐氏に関する館めぐりをしております。
一日市場館、浅野館、大富館、多治見館・・等々の諸館です。あと・・。
地元近くで催されている特別展 『光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏』 展に行きました。

tootomi (1)
土岐市美濃陶磁歴史館で開催されています。

会場は土岐市美濃陶磁歴史館です。
土岐明智氏と妻木氏の菩提寺・崇禅寺に伝わる位牌、
発掘調査によって明らかになった土岐明智氏の居館推定出土品など、

光秀のルーツといえる土岐明智氏と妻木氏の歴史が集まっています。

開催期間は2月29日(土)~5月31日(日)までです。
・・こんな時期です。ゆっくりと見学できると思います。
特別展 『光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏』 http://www.toki-bunka.or.jp/history

tootomi (4)個人的には土岐家文書の数々と妻木家頼所用具足が印象的でした。

家頼所用の紺糸威五枚胴具足は鉄砲の試し痕も残り生々しくもカッコイイのです!
またいわく付きの銘刀・「朝霧」のいわれに身の毛もよだちます・・。
お時間がある方は是非行ってご自分の目で見て頂きたいと思います。

tikb.jpg
カッコよすぎて買ってしまった缶バッジがお気に入りです。

さて、少し脱線しましが、特別展拝観後に大富館へと行ってきました。

tootomi (2)伍所公園には「美濃国土岐源氏発祥の地」の碑が立ちます。

手前の石版には大富館の解説分が書かれています。
(文字が小さいですし、腰を屈めないと読めないのですが)
「美濃国土岐源氏発祥の地」の左横にちょろっと「大富館跡」と彫られています。

tootomi (3)
室町初代守護土岐頼貞が拠点としたと伝わります。

現在遺構は何ら残っていません。
地籍図には伍所という地名が残り館址とみられる一画が確認できます。
館の中心部は今はうららかな公園と住宅地になっています。

tootomi (5)
土岐市美濃陶磁歴史館受付では「大富館跡」の史跡カードがいただけます。
(これ結構レア度高いです、多分・・)

tokibunnkazai.jpg全部コンプリートするとこうなります!!(台紙は各配布所で貰えます)
土岐氏の妻木城や高山城にいらしたら是非とも集めて楽しんでください!

鎮守府将軍源頼光の子頼国が天喜5年(1057)大富の里に住してよりこの地が284年の長い間土岐氏の拠点となった。頼国の五世孫光衡は、文治5年(1189)源頼朝より当国の守護職に任ぜられ、土岐郡家の地(瑞浪)に移りて、土岐氏を号した。光衡の子光行、その子光定の二代は、大富館の対岸浅野に館を構えて移り住んだ。ついで光定の子頼貞は当国の守護職となり、高田勅旨田(明世泉)の地頭を兼ねて、再び大富館に住んだ。正中の変の時、後醍醐天皇の密旨をおびた日野資朝卿がこの館で頼貞と共に、夜を通して討幕の密計をたてた所でもある。しかし頼貞の子頼遠は長森城(岐阜市)に移り、土岐氏の本拠はこれより岐阜地方へ移っていった。
(以上現地説明碑より)


㋹は美濃国土岐源氏発祥の地・大富館の石碑がある伍所公園です。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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