美濃 広恵寺城 🏯飛騨・木曽間の古道を押さえる苗木城前身の姿

美濃 広恵寺城 (岐阜県中津川市福岡町植苗木・城ヶ根山)

ススキに赤トンボ・・。お月様・・。秋ですね。
でも耳を澄ませばほんのかすかにツクツクボウシ(^^♪・・。
また来年まで憶えていますからね。

koeji (34)
以前には見られなかった案内標識です。地元の方々の愛を感じます。

今回は中津川市の北、旧福岡町の広恵寺城の見学をしてまいりました。
麓には調整池の広恵寺堤が満々と水を湛えてとても美しいのです。・・普段は・・。
しかし、今回は堤の工事のため水がすっからかんに抜かれていました・・( ;∀;)

koeji (1)広恵寺城の手前の堤池は水が抜かれていました・・。

まぁ・・、これはこれで滅多に見れない原風景なのだと思います。
工事現場の皆さん、ご苦労様ッス!
ということで登城口に向かいます。

koeji (4)立派な石碑に超感動するのであります。(゚□゚*)

これも以前訪れた時にはなかった石碑です。
祀られている、というイメージの存在にやはり地元の方々の愛着を感じるでしょう。
ご丁寧に、東へ600m、との案内も彫り込まれていますね。

koeji (33)
城ヶ根山は全体が露出した岩に覆われています。

まるで天然の石垣のようです。付近の笠置山山系によくみられる地形です。
もちろん自然地形なのですが存在感のある岩ばかりです。
他の城だったら、物見岩、とか、〇畳岩とか名前がつきそうな露岩があちこちに。

koeji (5)
大手道を見守る祠。出会えたら幸運かも。

koeji (6)
頂上が近くになるにつれ、斜度がきつくなっていきます。

koeji (8)
中央の窪地がなんとなく大手口に感じながら通過していきます。

koeji (20)
連続で現れる虎口状の遺構です。

これはあくまでも目を凝らしての観察ですが・・。
尾根筋と平行に開口している姿、この2つ重ねがおそらく大手虎口なんでしょう。
脇には腰郭も配されています。

koeji (29)二ツ森山山系の素晴らしい眺めが堪能できます。\(^o^)/絶景!

城の南側は一部、採石の削り址が間近まで迫っており、断崖絶壁になっています。
そのため、遮るもののない風景が楽しめます。
現在は消失していますが、かつて「腹切り岩」なる岩がこの先にあったようです。

koeji (10)
ちょっとこれ以上へは足がすくんでしまひまふ・・。(´Д`lll)

koeji (11)
そして、主郭部に到着です。ごついですが結構広~いのです。

主郭部内は地質のせいか傾斜も伴い、削平も落ち着かない様子です。
郭内に明確な段差は見られないので基本的に単郭タイプの城ですね。
唯、東側には少し高台になった一画が見られます。

koeji (16)
主郭部を西から北方面に取り巻く腰郭の切岸。

北尾根筋からの侵入にも備えていたのでしょう。
法面にはしっかりと切岸が全体にかけられています。
それには大切な水の手を守る意図も感じられます。 

koeji (24)
井戸曲輪にある「姫井戸」。

写真の中央の窪みが今でも枯れることがない、という「姫井戸」と呼ばれる井戸址です。
おわかりでしょうか・・。
傍らの樹木が今でも蜘蛛の足のような根で井戸を守っているのです。(ちょっと感動)

koeji (13)そして、城中最大の圧倒遺構、大堀切です。

やや時代が古いせいもあってシャープさに欠けますが幅が広い堀切です。
堀底には土橋が設けられていたであろう址があります。
端部は竪堀となって尾根を遮断しているようです。

koeji (15)
露岩を上手く活用しての堀切は見応えがあります。

こういった地形が防御に活かされた、とは思います。
しかし逆に地形に規制され明確な郭を構成できなかったことも事実でしょう。
戦国期以前の貴重な遠山氏系城郭の姿、なのかもしれません。

koeji (25)
斜面(法面)の露岩は逆茂木の役割も果たせそうです。

koeji (27)
東の尾根には続けて2条の堀切も確認されます。

上の写真は城の東を画す、主郭からの3本目の堀切です。
ちんの峠、木曽方面に対する防備、とも解釈できましょう。
下図に縄張り図を示します。(また余計な彩色ですが・・)

koejinbz01.jpg

広恵寺城は元弘(1331~1333)から建武(1334~1335)年間頃の築城、とされます。
築城者は遠山景長で、或いは彼の父、一雲入道景利とも伝わります。

大永年間(1521~1527)から天文年間(1532~1554)に現在の苗木城に本拠が移されます。
当時の苗木城は「高森城」と呼ばれていました。
遠山直廉は、木曽路の重要性に着目、岩村城との連絡もしやすい苗木城を本拠としたようです。

約200年もの間、遠山氏の居城として存在していたのでしょうか、驚きです・・。
遠山氏の恵那郡一円への勢力拡大、この地が起点であったと思うと感慨深いです。
「広恵寺」の名は城の南東麓の寺院の名にちなんだものです。

広恵寺城が築かれた地は、北の飛騨口と木曽への西古道を押さえる要地でした。
実際、何度か飛騨勢との合戦も伝わっており、また信濃の勢力の侵攻も受けたようです。
城には落城の悲話も伝わっており、平穏無事でなかったことを物語っています。

城友・日向さんからの情報によれば・・、
落城の際に川に身投げをした、と伝わる乙姫淵の伝説も残っているそうです。
(悲しい現場には一人では行けません・・)

かつて存在した「腹切り岩」では、実際にそのような伝説もあるのでしょう・・。

城からの眺めは美しくもありながら悲壮な落日の場面も思い起こさせます。
城内に見られる露岩も苗木城の様相と通じる所が見受けられます。
巨石とのつながりは、遠山氏の精神として受け継がれていったのでしょうか。

苗木城へと受け継がれていった精神と姿が見学できる城、
古風な遺構が手付かずで残されている、貴重な広恵寺城でございました。



ここにも寄ってみました

koeji (35)片岡寺址の土塁遺構。

帰り道に片岡寺址(へんこうじあと)に寄ってまりました。
かつては方形の館状となり、土塁と堀に囲まれていたそうです。
広恵寺城とは居館と詰め城、という関係も導きだせる遺構です。
(やや離れている感はありますが)

koeji (38)
高さ4mにも及ぶ大きな土塁です。

土塁の対面にある地は「殿畑」と呼ばれているそうです。
近世遠山氏に関わる寺院でしたが、明治時代の廃仏毀釈によって、廃寺となりました。

koeji (39)広恵寺城と直接、関係があったのかどうか、注目したい遺構ですね。

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美濃 松山城 🏯美濃地方最南端に位置する境目の山城

美濃 松山城 (岐阜県海津市南濃町松山・城山)

豊かに実った稲刈りを待つ候、南濃町へとやってきました。
南濃町は付近で栽培されるミカンが南濃みかんとしても有名な地域です。
西と南は三重県境、東も数kmで長良川と木曽川を挟み、愛知県境と接します。

m-matuyama (8)背後には養老山脈の南端山系が控えています。

美濃最南端の山城・松山城は三国国境という稀な位置にあると言えます。
(三国とは、美濃・伊勢・尾張の三国です)
ところで、・・「松山城」というと皆さんはどの松山城を頭に浮かべますか?

恐らくは国宝になった伊予(愛媛県)の松山城ではないでしょうか。(城ファンですね~。)
次は、恐らく備中(岡山県)の松山城でしょうね。(城フリークですね~。)
いやいや、武蔵(埼玉県)の松山城も代表的な土の城郭ですぞ!(城マニアです!)

・・そんなところでしょうか・・。
しかし岐阜県人なら、美濃国人なら、10万人に一人はこう答えるでしょう、
美濃の松山城である!(*`皿´*)ノ・・と

そしてその一人はこう呼ばれるでしょう、城オタクである、・・と。

m-matuyama (7)

・・そんな変態自慢はこのへんにしときまして美濃松山城に向かいます。
まずは山麓最寄りの松山諏訪神社を訪ね、駐車場をお借りします。
本殿の裏には大きなクスノキが覆い被さるように自生しています。

m-matuyama (9)

地形図で確認すると、ここから尾根を直登すれば城山に登れる・・ハズでした・・。
しかし、ここで予想だにしない驚愕すべき事実を目のあたりにします・・。それは・・。
高さ2mの獣除けスチール製ネットに山麓一帯全てが囲まれて入山できないのです。
(写真の掲載は個人所有の物件というとで控えます)

折角の訪問ですが、諦めざるを得ませんか・・。
それでも諦めきれず途方に暮れていると果樹園の関係者の方が見えました。
ここで思い切って無理は承知、ダメで元々で入山許可を嘆願してみます。

入山の目的と事情を伝え、粘り強く交渉してみました。
「そいや、以前にもそんなご仁が見に来たっけな~」 (出ました、10万人の内の一御方)
猿や猪がおるから危ないき、気いつけてな、と有り難い許可をいただきました。感謝です!

その方の作業時間内に下山する、という条件で松山城まで登れることになりました。
本日は一転、なんとラッキーなのでしょう。
噛み締めるように登城していくのでありました。

m-matuyama (10)
全体的に崩落が激しい山です。

山自体が手入れがされていないのもありますが、地盤の地層が弱いのでしょう。
あちこちで、地滑りや崩落の箇所がみられ、城の遺構なのか、判断が難しい箇所もあります。
足元ものように瓦礫のような岩の破片まるけで登山もままなりません。

m-matuyama (4)
石垣等の崩れでなく、軟弱な地盤崩落片と思われます。(ブーツは自分のです)

m-matuyama (1)スロープを伴った郭への進入口。

上の写真は城郭遺構と断定できる最初の遺構だと思われます。
尾根に対して周囲に切岸も付けられ上部の遺構へと連動していきます。

m-matuyama (3)
そして進路を塞ぐ土塁が待ち受け・・

m-matuyama (5)
竪堀へと続く堀切が確認できます。

惜しむらくはかなりの崩落をうけているようで本来の姿が失われているであろう点です。
もちろん、築城の際にはこういった地盤の特徴を踏まえて構築されたものなのでしょう。

m-matuyama (2)
こちらは主郭部へ至るルートに設けられた土橋と空堀の様子です。

大小の岩が荒い土に食い込み掘削の困難さが伝わってくる遺構です。

m-matuyama (11)
そして城山頂部の主郭部に到達したようです。

主郭の奥には高さ1m~2mにもなる大土塁が尾根続き側にあります。
ここの軟かい土質を考慮すれば往時はその倍、4mくらいの高さがあったと推察。
築城者は困難を伴うこの土質を承知の上で手掛けたのでしょうね・・。

m-matuyama (6)
大土塁からは背後の養老山脈を間近に感じられます。

さて、時間内に縄張り図の作成を開始します。
途中、お猿さん達の集団に遭遇、身の危険を感じながら書き上げていきます。
帰宅後、清書し、冴えない彩色をした図がです。(いつも失敗する・・)

m-matuyama3 (3)

m-matuyama (12)
山腹からみる濃尾平野がとても見晴らしよかったです(*^_^*)。

こうして俯瞰すると、西美濃・尾張に対して遮るものなく見渡せる位置にあり
三国境目の山城として絶好の選地であるとしかいいようがありません。
あるいは伊勢方面への出撃も即座に対応可能な前線基地でもあるのです。

m-matuyama1.jpg正面から見ると、高い山脈に周囲を守られているような感です。

実はこの松山城に関する城主や来歴は不明な点が多いのです。
一説には、慶長年間に原長頼が秀吉から知行を受け、在城したのが太田山城といわれ、
後年、彼が関ケ原の戦いに西軍として修復したのが、ここ松山城なのでは?とも伝わります。

原長頼は別名が多く、或いは原政茂の名乗りが有名かもしれません。
太田山城の位置が不明な点からしてこの説とは密接な関係にあるようです。
今後の研究成果も待たれますね。

柴田勝家の与力として、府中三人衆にも劣らない活躍をした原長頼
織田軍にあっては遊撃軍として、金森長近らと各地で転戦した活躍の士です。
彼の業績に対して関連史跡が少ないので、なんとかしてあげたいのですが・・。
(北陸在任中は越前・勝山城に赴任していました)

今は静かに野生動物と共にある美濃の松山城でございました。

※松山城訪問並びに山城の入山に関して。

 今回、自分はたまたま果樹園の関係者様にお会いでき、ご好意で入山の許可をいただきました。
 したがいまして、松山城に関しては現在入山禁止の山となっております。ご注意してください。
 また特に秋の個人所有の入山は山菜やキノコ類等の無断採取者と判断されかねません。
 事情を説明してもトラブルに巻き込まれることも多いようです。
 中には万単位の違反金を現場で要求されることもあるようです。(知人の実話です)
 そうならないためにも充分に注意していただきたいものです。
 基本的には登城前に付近のお住まいの方にお声をかけるのも方法かと思われます。
 熱意と誠実さが伝われば皆さん、聞き届けてくださると思います。
 城に関する思わぬ情報を拝聴できる可能性もありますのでお勧めします。
 とにかく無断と無理は禁物、時期をずらすのも方法と考えましょう。

 以上です。

美濃 和知城 🏯木曽川に突き出した半島型水運城郭

美濃 和知城 (岐阜県加茂郡八百津町野上作道)

空が澄み切った秋のはじまり、今峰城に続いて和知城を訪問しました。
(一部、春の頃の写真も入ります。)
八百津町で「城」といったらこの和知城が代表格となるでしょう。
地元では「稲葉城」とも呼ばれ、城主・稲葉氏との結びつきが強い城でもあります。

wati (2)

wati (1)稲葉城公園として整備された和知城の石碑。

wati (14)木曽川の対岸から見た和知城の川岸面。

木曽川に面した水運との関りが強い城郭です。
石川が木曽川に流れ込んでいるあたり船付場と呼ばれる施設があったそうです。
ちなみに上の写真、撮影する為にに木曽川を大迂回、やっと探したポイントからの一枚です。

wati (4)
城郭建築風の集会場があります。

イメージはかけ離れていますが、こういった憩いの場はいいですね。
「町内会でちょっと城までいってくる。」・・そんなノリでしょうか?

wati (3)

天正18年(1590)に西濃・西保城(安八郡神戸町)から稲葉方通が転封され築城されました。
方通は稲葉一鉄の4男として生まれ、信長、秀吉、家康へと転仕します。
今日の八百津町の発展の礎を築いた「稲葉の殿様」の事績は大切に受け継がれています。

wati1.jpg
集会所の北側に残った土塁の一部です。

wati (12)幅12~15メートル、深さ7メートルもある巨大な空堀です。

wati (13)
木橋が架けられていた、という想定でしょうか。

wati (18)
堀底にはこのような河原小石がたくさんみられます。

wati (11)広い本丸へと入っていきます。

単郭としては中濃・東濃部城郭の中でも指折りの広さではないでしょうか?
さすがにサッカーはできませんが、フットサルコートなら余裕で確保できそうです。
・・しかし、こんな天気いいのに誰もいないなんて・・勿体なし。

wati (5)
当時からの井戸の場所が復元されています。

wati (6)こちら天守風の望楼式展望台はいかがでしょうか?

もはや遊具ですが、稲葉氏の家紋「隅切り三」の紋が渋すぎる!
大人がはしゃいで登るのは結構勇気が要ります。
周りに誰もいないことを確認して、ニヤニヤしながら登ってみました。

wati (8)おお~!なかなかの景色の木曽川ですね~。

wati (7)
これも渋い!前立て入りの兜様式のジム滑り台です。

さすがにこれで一人遊ぶことはできませんでした。(以前は子供たちと遊びましたねぇ)
この地域ではいかに「稲葉様」が大切に慕われているか思い知らされます。
その思いが具現化したカタチがこういったオリジナルの展望台、遊具となったのでしょう。

wati (10) wati (19)
それが証拠に城内の碑は、「和知城」ではなく、「稲葉城」と表記されていますね。

wati (9)
かつての土塁址の上には和知稲葉氏5代の碑が城を見守るように立っています。

wati (17)
城に西側を流れる石川は天然の堀となり、深い渓谷になっています。

wati2.jpg
城の西を石川が渓流となって木曽川に流れ込んでいます。

wati (16)
木曽川の合流地点辺りは船付場となっていたようです。

案内板にある縄張り図と比べると、

和知城城の北側の遺構はかなり消滅したようです。

東の木曽川沿いに面した断崖沿いにはかつての空堀の址と思われる深みがあります。
あくまで痕跡なのでこれがこのまま遺構の名残り、とは言い切れません。
しかし、痕跡を頼りにかつての姿を想像してみるのも楽しいものです。

wati (15)
おお~! クダマキモドキ発見!(*’U`*)

全身が綺麗な緑色したキリギリス科の虫です。
全体的にエッジの効いたシャープな姿が特徴で、幼いころからのお馴染みです。
最近、見かけなくなったので、会えてうれしいですね。(((o(*゚▽゚*)o)))

虫の音に耳を傾けながらの城めぐり、癒されますね~。(*´~`*)

美濃 今峰城 🏯蘇水峡から見上げる城

美濃 今峰城 (岐阜県加茂郡八百津町八百津丸山)

秋晴れの中、八百津町にやってきました。
以前は可児市方面から遠回りして町内に入るルートが一般的でした。
近年、御嵩と八百津を結ぶ八百津トンネルが開通し、アクセスが格段に良くなりました。

今回は11月に開催される「やおつ人道の丘・ジョギング大会」の申し込みも兼ねての訪城です。
今年はゲストランナーに瀬古利彦さんが来ていただけるとあって、とても楽しみなのです。
丸山ダムや蘇水峡、杉原千畝記念館など、見所もたくさんある自然豊かな町です。

imamine (10)丸山発電所の背後の山が今峰城で「丸山城」とも呼ばれます。

木曽川に食い込むような山容は深い峡谷を形成しています。
丸山ダムの水路から送られる水が落差を得て、されに発電するシステムです。
・・おっと、ダムの話にそれるところでした。

imamine (5)
山頂近くまで車で行けます。登り口には「今峰城址登り口」の碑が立っています。

駐車場は近所の方に一言かけて消防倉庫の空きスペースを勧められました。
近所の方曰はく、「昔は行けたけど、今は手入れされてないから行けないよ・・」
「ありがとうございます!、でも慣れていますから大丈夫です!」

きっと、聞き分けの悪い変わり者に見えたでしょうね・・。

imamine (4)
登城途中には五輪塔がポツン・・と。

うわ‥しかしホントです・・。
途中から道も途絶え、腰をかがめながら登ります。
なんとかデンプシー・ロールをしながらのヤブ漕ぎで頂上へ。

imamine (2)
ひどすぎるヤブになってますね、・・うん?向こうに何か見えます!

imamine (3)今峰城の案内板を発見しました。\(^o^)/

imamine (1)

「新撰美濃志」によれば南北朝期に今峰又太郎氏光の居城であったと伝わります。
系図から土岐氏の支族であるようです。

imamine (6)
唯一、防御遺構?と思われる竪堀?(多分、崩落・・。)

全体にブッシュ状態なので遺構が掴みにくい城ですが・・。
どうやら切岸も緩く曖昧、本来あるべきところに堀切もありません・・(消滅?)。
後世の貯水施設も南北に2ヶ所みられます。(これは興ざめでした)

果たして城かどうか、ちょっと怪しい感じですね。

かつて草が刈られていた時は遠くに八百津の町や眼下の木曽川筋、人道の丘
そして八百津の奥深い山々がここから見渡せたそうです。
戦国時代には兼山城の狼煙台として機能していた、という言い伝えもあるほどです。

imamine (7)今峰塚にも寄ってみました。

八百津中学校の下の県道沿いには今峰塚がありました。
城主に関連した史跡なので寄ってみることに。
こちらは帰り道に車を走らせながら偶然発見したものであります。

imamine (8)

今峰又太郎氏光の句碑と、今峰夫人の辞世の句が詠まれています。
すみません、勉強不足でこのいわれがわかりません・・
まだまだ八百津町の城址を回るのでまた調べてみようと思っています。

城とみるのは無理がありそうなうえに、見学不能な状態の今峰城。
しかし、「伝承地」としてでも、展望台として再整備してしていただければいいのに・・。
木曽川筋を監視できる狼煙施設としての場所としては確かに適地かと思われました。

美濃 御嵩小原城 🏯山中に完在する最前線の城の姿

美濃 御嵩小原城 (岐阜県可児郡御嵩町小原・西山)

今記事では前回の公約どおり、御嵩町の小原城を取り上げていきます。
お隣の加茂郡にも小原城(白川町)が存在しましすので御嵩小原城、と表題しました。

「かくも素晴らしい遺構が残っていたのか・・。」
それがこの小原城に抱いた第一印象でした。

前回の御嵩城は可児川沿いの街道筋に備えられた場所に築城されました。
対して、ここ小原城は旧中山道に近い山中に構えられています。
静かな里山といったやや奥まった集落に位置しています。

minoobara1.jpgなだらかな山容は、城の存在雰囲気を感じ取れない山容です。

御嵩町の観光パンフなどには簡単な説明と位置案内はあるものの・・。
現地へ行ってみても案内標識などは一切ありません。
まずは目印となる白山神社からの登頂を試みます。

minoobara (34)
いきなりの石階段(汗)。白山神社参道を登っていきます( ̄^ ̄)ゞ。

minoobara (33) 
どこか懐かしい匂いと風景だったりします。(*´∀`人 ♪

minoobara (31)
白山神社本殿に到着しました。

中南米の遺跡のような石組み様式にも感じられる見事な祭壇です。
神を崇めるそのルーツにはやはり共通点が感じられるものですね。
ちょっとおススメできませんが左脇からかすかな道を辿ってヤブ漕ぎ登っていきます。
(道はなくなる寸前状態・・)

minoobara (19)
尾根を進むと堀切がお出迎えです。

堀切は両端が竪堀となって尾根を分断しています。
城域に入ったな、と感じられるわかりやすい遺構です。
しかし、その奥にはさらに大きな堀切が待ち構えていました。

minoobara (18)どうやら二重堀切となって行く手を遮っているようです。(゚△゚;ノ)ノ

山頂方面側の切岸も鋭く、容易な登攀はできません。
後で歩き回って気付いたのですが、ほぼすべての尾根筋には堀切がありまして。
そして、それに連動するような曲輪、武者走りなどが確認できます。

minoobara (12)
途中で見られる腰曲輪、直下には竪堀もみられます。

さすがに手付かずのガサ山だけに撮った写真も訳わからず(笑)。
比較的わかりやすいかな、と思われる写真だけを掲載したいと思います。
まぁ、それが遺構を今現代まで残し伝えてきた理由ともいえますから。

むしろ感謝したいくらいです。
(正直、山中での竪堀群の写真は特にムズいです・・、自分の目で見るのが一番!)

minoobara (4)
主郭の本丸部と思われるピークに到達。

若干、手入れがされているようです。他所と比べると見通しがききます。
後世のと思われる石柱が2本立ち、ここが本丸部と思われます。

minoobara (27)
神武天皇遥拝所です。

1940年(昭和15年)は神武天皇が即位した皇紀2600年にあたる年でした。
日本国内で様々行事が行われ、11月10日には国をあげての大式典が執り行われました。
全国の神社はそれにあわせて神武天皇の陵墓である橿原神宮に向けて遥拝所を作りました。
これらが現在でも全国の多くの神社に残っていたりします。

・・豆知識でございます。( ^ω^ )

minoobara (24)
こちらの無銘の石碑は何を意味しているのでしょう?

・・城址を示す石標なんでしょうか(でた、危険な思い込み)
いずれにせよ、城山が戦前までは人々の出入りがあったことを示しています。

minoobara (7)
主郭南端部には櫓台と思われる一段高い空間があり・・、

minoobara (8)
さらに幅の広い土塁状の高まりで仕切られています。

この主郭部は見学しやすく、見下ろす形で全体の構造を把握できます。
派生した尾根や連絡する曲輪などをじっくりと調べていきます。
残念ながら眺望は木々で得られません、地形図で想像するしかないか・・。

minoobara (15)主郭部と腰曲輪を分かつ、高くはっきりした切岸の様子です。

minoobara (16)
主郭部と尾根筋の間に備えた大竪堀。

本来、断ち切るべき尾根を掘り切らず、側斜面に竪堀を備えます。
広場を設け、明かに城の尾根筋との連絡を容易にする意図がみられます。
それはこの城が背後からの攻撃を想定していない縄張りである、ともいえます。

図面の方がわかりやすいと思いまして掲載します。

m-obaranbz.jpg

攻撃が想定される南西筋と南東筋には周到なハノ字形竪堀と曲輪の連動配置がみられます。
図面に落とすと実に規格的な配置であるように思えます。
こういった近隣には見られない遺構は外部の勢力による築城を想像させます。

では具体的にはどの勢力なのか?興味深々です。
地元の伝えや近年の研究からは甲斐武田氏系の前線城砦ではないか、とみられています。
岩村や苗木を手中にした武田軍が織田軍の備えに対して仕寄った城、という見方です。

城主には小倉織部の名が伝わっています。

小規模ながら張り巡らされた防御遺構が武田氏系と類似している点。
御嵩城方面には特に周到なのに対し、兵站確保口(木曽川方面)にはそれが見当たらない。
小倉織部なる人物が在地性不詳であること。

こういった理由も武田氏築城説を後押しするものです。

もしそれが事実だとしたなら・・。
武田氏先遣隊は織田氏の部将、森氏の兼山城のすぐ間近にまで迫っていたことになります。
・・となると東美濃は、岩村城方面からとの2方面からの侵攻を受けていた可能性も・・。

なんだか信長公の背中がゾクゾクしていた様子が伝わってきます。
この城が武田軍の東濃侵攻の足取り・作戦目標を明らかににする貴重な遺構なのか?
そう考えると皆さんもゾクゾクしてくるのではないでしょうか。

minoobara (35)小原城を御嵩方面の南西側から見ますと・・。

冒頭の写真、のどかな集落の里山姿とは違います。

最前線の城砦としての重々しい雰囲気をまとった山容に見えてきます。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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