FC2ブログ

伊賀 柏原城 🏯天正伊賀の乱における最後の拠点城

伊賀 柏原城 (三重県名張市赤目町柏原滝野)

今回の伊賀の城めぐりもこの柏原城が締めくくりです。
柏原は 「かしはら」 と読みます。
柏原芳恵さんを知る世代としてはどうしても 「かしわばら」、と読んでしまいがち。

「ハロー・グッバイ」や「春なのに・・」は今でもよく耳にしますが、
フジテレビ系ドラマ、『アリエスの乙女たち』の主題歌 「A・r・i・e・s(アリエス)」 にはグッときます。

独特の演出の大映ドラマは荒唐無稽な展開と、ややこしいキャラの強烈な感情表現が魅力。
その中にも人間味があり最後はハッピーエンドで終わるという点でついつい見てしまう、というパターンです。

そんなことより・・柏原城を語りましょう・・。

igakasiwagara(1).jpg 柏原城にての決戦を伝える石碑。気が引き締まります(*`ㇸ´*)。

天正伊賀の乱のきっかけを作ってしまった城が前々記事の丸山城だったのに対し、
こちら柏原城では織田軍と伊賀土豪衆との最後の激戦が展開された城、といってもいいでしょう。
勝手神社に駐車場ををお借りしました。。(勝手に駐車、じゃないですよ。)

igakasiwagara(2).jpg 勝手神社から東に向かっていくと城址へ。

igakasiwagara(3).jpg東西に延びた尾根丘陵ピークが主郭部です。

igakasiwagara(4).jpg 別名を「滝野城」。城主・滝野十郎吉政にちなんでいます。

伊賀の城には城主や創始者の名前がそのまま城名になる例が多いようです。
先程の百地丹波城、菊永氏城、福地氏城、下山甲斐城、千賀地氏城、・・等々。
地名だと同じ集落に幾つもの城があったので持ち主の名前で呼ぶのも通例となったようです。

igakasiwagara(6).jpg 南に開く大手虎口。

両脇の土塁は主郭四方を囲み、厚みもさることながら、高さも2~3メートルほどの高さです。
写真の虎口右側には門の礎石でしょうか?大きな石が置かれています。

igakasiwagara(7).jpg igakasiwagara(5).jpg
本丸東にある「お滝女郎井戸」に近づく、城友・日向守さん。

うわぁ!!、マムシの危険を告げる看板が設置されていますよ!
冬にヘビなど出てこないとは思いますが、前回、晩秋の蚊にヤラれた例もあります。
ここは伊賀、敵にどこから襲われるか・・、油断は禁物です。

igakasiwagara(8).jpg 石組みの深い井戸址です。

この井戸には身投げした「お滝」という女性の悲しい秘話がございます。

igakasiwagara(13).jpg igakasiwagara(11).jpg
主郭を囲む土塁内部はぐり石で補強された石が散乱しています。

igakasiwagara(9).jpg 櫓台の下の石は特に大きいです。

igakasiwagara(10).jpg 本丸の広さはこんな感じです。

一見、ラジオ体操をしているようにみえる城友さんですが、スケールサンプルとしてご協力いただきました。
右下にも堀底を歩く城友さんの姿があります。
参考になれば、城友さんのご好意も報われるというものです。

igakasiwagara(12).jpg igakasiwagara(14).jpg
主郭の外側を取り囲む堀はなんと二重に巡っており、しかも深いのが特徴です。

堀の無い南大手側は、おそらく人馬も踏み込めない湿地帯になっていたのでしょう、
現在でも田畑として利用されています。
狭い一本のあぜ道だけがこの城の大手道であったことが想像できます。

igakasiwagara(15).jpg深さ5メートルはあろう大空堀は侵入する敵を遮断するのに申し分ない高さです。

柏原城主・滝野吉政は伊賀国の有力豪族で伊賀十二人衆の一人でした。
第二次天正伊賀の乱では総大将として籠城戦を展開し、織田軍に抵抗します。
吉政は織田軍の総攻撃に対し、伊賀土豪衆らを率い、最後の拠点を守るため勇猛果敢に挑みます。
織田軍の背後を農民に撹乱させ、乾坤一擲の勝負を謀りますが丹羽長秀に看過され、ついに開城しました。
伊賀衆の中には織田方の調略を受け、連携を欠き、内応者も少なからずいたようです。

織田軍は伊賀を制圧するにあたり、村や寺院を焼き払い、僧侶や住民といった非戦闘員が殺害された地区もありました。
その様はまさに地獄絵図の様であったといいます。
ここ伊賀でも織田軍の「根切にすべし」は実行されたのです。

この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げるのです。

スポンサーサイト

伊賀 名張城 🏯名張藤堂家の陣屋として姿を残す

伊賀 名張陣屋(名張城) (三重県名張市丸之内) 〈県指定文化財〉

名張城は天正13年(1585)伊賀上野城に移封された筒井定次の重臣・松倉勝重が城郭を構えた城です。
勝重の子・松倉重政(後の肥前・島原城主)の縄張りで築いたとされます。
まぁ、親子二代による築城、といってもいいかもしれません。

ところで、松倉重政、といえばピーンとくるのは・・。
キリシタン弾圧や島原城築城をはじめ数々の過役を課した圧政により 「島原の乱」を引き起こした領主です。
それはまだ先の話ですが・・。

さて、当初は名張城の名残りを目当てに城友さんと訪問したのですが・・。
名張陣屋の上に建てられたという名張城の痕跡はほぼ皆無。
城址石碑さえありません。(←これがないとは・・泣!)

nabari (1)名張陣屋として生まれ変わりました。見学していきます。

さすがに名張陣屋の碑はありますので(当たり前!)これをもって名張城を兼ねた見学とします。
しかし、この屋敷内の見学が実に素晴らしく、価値のあるものでした。
やはり現地に行く、というのは予想外の発見があるものです。

nabari (3) nabari (4)
藩主の過ごした部屋や茶室など、屋敷内見学はとても見応えがあります。

nabari (5) nabari (6)
藤堂家に伝わる数々の貴重な文化財も展示してあります。

ここで思わず足を止めたのは、名張城に関する発掘成果のコーナーでした。

nabari (8) nabari (7)
名張城の石垣や堀の一部が発掘によって出現したそうです。

nabari (9) 
発掘調査で出土した、松倉氏時代の名張城の軒丸瓦の一部。

nabari(13).jpg
藤堂家の家紋と言えば「藤堂蔦」ですが、名張藤堂家は「桔梗紋」なんです。

ほんのわずかな遺物の断片ですが名張城を偲ぶことができました。
石垣や堀址・・、できればこちらも見てみたかったものです。

nabari (2) 明るい感じの枯山水の庭園が素晴らしかったです。

武家造り特有の無骨さや幽玄的な雰囲気ではなく、親しみのある庭園。
視界的にも小さくコンパクトにまとめられ、遊び心を感じます。
城友さんと思わず着座し、しばし味わいながらの鑑賞タイム。

nabari (10)入口から入ってすぐの屋敷。本来の門から見て一番奥にあたる部分です。

nabari (11) 屋敷の裏に回ってみます。何の址でしょうか?

nabari (12) こちらが本来の大手にあたる太鼓門。

まるで城門のような立派な長屋門です。
神社の参道に城門があるなんて・・、ちょっと珍しい光景ではないでしょうか。
名張藤堂家の始祖、高吉を祀る寿栄神社へと続きます。

ここで・・、名張藤堂家の初代、藤堂高吉のちょっと数奇な運命を追っていきますと・・。

織田信長の重臣丹羽長秀の三男で、幼名を仙丸と称しました。
羽柴秀吉は長秀と縁を結ぼうとして、仙丸を秀吉の異父弟・羽柴秀長の養子にもらいうけます。
③しかし、秀長の嗣子には甥にあたる秀俊を据えたため、今度は家来であった藤堂高虎の養子となることに。
(↑もちろん、秀吉の意思であって、後継ぎを仙丸に、と決めていた秀長は秀吉に猛反発したそうです。)
 ここで名を藤堂高吉と改めます。
④ところが、藤堂高虎には実子の高次が生まれたため、高吉は高虎に仕える身となるのです。
⑤伊予・今治城の城代とされ、周辺の所領の開発に勤しんでいるところを、高次の命により伊賀名張に移封されます。

高虎は高吉を疎んじて参勤交代に同伴しなかったといいます。
また、名張への移封も高吉に対する冷遇の一環であったといわれています。
名張藤堂家の初代となったものの、高吉はあちこちと翻弄され続けた人生でした。

名張川の治水や城下町の発展に努めた高吉は地元では現在でも名君と慕われています。
享年92歳という長寿。
高吉は名張の地でやっと落ち着いた生活を手に入れることができたのではないでしょうか。

伊賀 丸山城 🏯天正伊賀の乱のきっかけになる城

伊賀 丸山城 (三重県伊賀市枡川・丸山)

伊賀上野城から南下。丸山城へと向かいました。
今回、なんの予備知識をなしでの丸山城めぐり。
早速、最初から車の駐車場探しで城山の周りを右往左往してしまいます。

igamaruyama (10)丸山城南側にはどこか懐かしい風景がひろがっております。

城山の南側、お墓参り用の路肩スペースをお借りしました。(ここしかなさそう・・)
お墓のお掃除をしてみえた方に駐車の許可、城址までの道、山道の状況などを伺いまして登城開始。
どうやら、城への案内標識があるとのことですが・・。

igamaruyama (9)んん~・・(*゚ㇸ゚*)。これは・・いままでになくハイ・レベルな案内版(棒?)です。

道に沿っていくと山道になります。
神社の祠を通過しながら、さらに北へのぼっていきます。
頂上近くになるにつれ、斜度がきつくなっていきます。

igamaruyama (4) 主郭部に到達したようです。

あれなるは石碑が建つ丸山城天守台と伝わる高台です。
以前は天守台の周りは石垣で囲まれていたそうですが・・。
伊賀鉄道の架設の際に持ち運ばれたらしいです・・。(な、なんで??)

igamaruyama (2) 立派すぎる城址碑です。周囲に低い土塁を巡らしています。

元々は伊勢の国司・北畠具教が隠居城として築城を決めたのがきっかけ。
同地域の土豪を説得、人夫衆を動員したものの、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げます。

ついで、織田信長の次男・織田信雄は、伊賀国の領国化を狙い、滝川雄利に丸山城の修築を命じます。
これに驚いた伊賀郷士ら、「完成するまでに攻撃すべし」と集議一決。
丸山城に総攻撃を開始し、不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は伊勢国に敗走します。

これに対し織田信雄は伊賀国に侵攻しますが、待っていたのは伊賀郷士衆の徹底抗戦でした。
各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させます。(第一次天正伊賀の乱)
この失敗を受けて信雄は信長に「親子の縁を切る」とまで書状で脅され、叱責されたそうです。

信雄の失態はともかく、これで信長を本気にさせてしまいました。
面子もあったのでしょう。敗戦の報を知った織田信長は再び信雄を総大将として伊賀国に侵攻。
各地での激戦の末、伊賀国を制圧するのでした。(第二次天正伊賀の乱)

igamaruyama (1) 天守台からみる本丸一帯。

igamaruyama (3)
腰曲輪には天正伊賀の乱にて亡くなった、伊賀の国人衆と織田方の兵たちの供養塔が建ちます。

igamaruyama (5) igamaruyama (6)
堀と土塁。山全体がかなりの普請を受けているようです。

igamaruyama (7) igamaruyama (8)
どうやら鳥居が崩れたようで、城門のようにも見えました。

igamaruyama (11)城山が丸い形をしていたことから「丸山城」、と名づけられました。

当時の織田家中では、信雄の失態について「三介殿(信雄)のなさる事よ」と呆れ気味に評されたようです。(この頃の織田軍団は連戦連勝の機運でした。)
兄・信忠や弟・信孝の評価と比べられることもあったのでしょう。

父・信長に無断で始めた伊賀侵攻戦、信雄には焦りやプレッシャーがあったのかも知れません。
父譲りの実績が欲しい信雄、愚息と言われどハクをつけさせたい信長、それぞれの意思が見えます。
信雄は総大将としての実戦経験がなく、決して暗愚な将ではなかったと思うのです。

むしろ、少ない兵力で一致団結した伊賀国人衆たちの戦術が
百戦錬磨の織田軍を翻弄させたことに注目したいものです。

伊賀 上野城 🏯高虎が築いた見事な高石垣

伊賀 上野城 (三重県上野市丸之内) ≪国指定文化財≫ 【日本100名城】

百地丹波城をあとにして、伊賀上野城へと向かいました。
途中の車窓からみる風景はのどかそのもの。
まさに忍者屋敷のような門・塀・倉をもった古民家があちらこちらに見えます。

さて、今回の伊賀上野城、訪問は3回目となります。
最初は舎弟くんと、2回目は家族みんなで。そして今回、城友・日向守さんとの訪問で3回目。
来るたびに新しい発見・思い出があり、特にこちらの高石垣はまぶたの裏から離れません。

igaueno1 (18)上野城石碑。登って左が天守閣、右には茶店を経て筒井天守へと進めます。

筒井天守、とは、羽柴秀吉の命で伊賀国に移封になった筒井定次によって築かれた時代の城郭址があったところです。
高虎によって拡張された際は新本丸の一部とされ、城代家老の屋敷にあてられました。

igaueno1 (4) igaueno1 (3)
以前より発掘・整備が進められ、見違えるほどきれいになっていました。

igaueno1 (5)こちらの石垣もなかなかの逸品ものです。(o´∀`o)

igaueno1 (7) 石畳みの道、ウツクシイアルヨ。

igaueno1 (2) 最上部の北西隅から登ると・・。

igaueno1 (1)筒井天守のあった天守台に登れます。・・人気ないようですが、要チェックです!(#^ω^)。

ここで筒井定次について、ちょっと・・。

慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれるも、一族で本家筋の筒井順慶に子が無かったため、順慶の養嗣子となりました。
定次は軍学に明るく、築城に際し立地条件や地盤を考慮し、要塞として相応しい場所を選んでいます。
秀吉による紀州征伐では堀秀政などと共に千石堀城を攻め、この城攻めでは二尺七寸の太刀を振りかざし奮戦する定次の勇ましい姿もあります。

関ヶ原の戦いでは東軍につき会津征伐へ向かいましたが、その間に上野城を西軍に奪われてしまします。
・・しかし、ここからです、ここからがスゴイんです。
定次は急遽引き返して伊賀に戻り、いち早く城を奪取!
その後、再び関ヶ原の戦場に駆けつける、という難技をやってのけるのです。

まさに定次の東山道大返し、といってもよいでしょうね。

伊賀の侘しい寒村であった上野は、定次の整備によって大いに発展しました。
そのため今も地元では定次はとても慕われていると聞いております。
重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、信頼を寄せていたと考えることができましょう。

igaueno1 (6) 芝小屋などの城内の管理用務櫓もあったんですね。

それでは、見えてきました、天守に向かっていきます。

igaueno1 (11)模擬天守は三重三階で、小天守と共に高虎天守台に建ちます。

igaueno1 (10)
昭和10年、当時衆議院議員であった川崎克氏の私財により模擬天守が建設されました。

igaue2 (8)
うずかたく積まれた栗石は築城のために集められたものでしょうね。

igaue2 (29)なんとなく津城の丑寅櫓に似ていますね~。

そして内部に入っていきます。あっ、500円です。

igaueno1 (12) igaueno1 (13)
小天守には城内井戸、から~の~、抜け穴があるそうですよ。

igaueno1 (14)
伊賀上野城のマスコットキャラクター。「た伊賀ーくん」がお出迎えです。

城主であった藤堂高虎のトラ(タイガー)と伊賀によるナイスネーム。
なんと身長は藤堂高虎と同じ、およそ190cm!だそうです。

igaueno1 (15) 藤堂高虎といえばこの兜、まじかで見れますよ。

igaueno1 (16) 木造造りというのはいいものです。

igaueno1 (17) 最上階の天井は寺院の本堂のようです。

igaueno1 (8)再び外にでて別アングルです。いいですね~(`∀´)

igaueno1 (9) igaue2 (27)
高石垣の上から下を見おろします。~ぅううう、足がすくみますぅぅ・・。

igaue2 (26) igaue2 (10)
以前、子供たちを連れて行ったときのショットです。恐る恐るのぞきこんでいます(笑)。

以前はこのように石垣の際まで近寄れたのですが・・。
現在は警告ロープが張られ、なんとなく近寄ってはいけない雰囲気が・・。
・・それでは、下に降りてみたいと思います。

igaueno1 (22)さすが、築城名人、藤堂高虎公築城の高石垣です。屏風折りが美しいです。

津城と同様、両角に櫓台を突き出させた特徴のある縄張りです。

筒井定次時代の上野城は大坂城を守るための城であったのに対し、
藤堂高虎築城の上野城は大坂城からの攻撃に備えるための城に改修されるという、
まったく正反対の築城目的になったのが面白いですね。

igaue2 (34) 算木積による角部が決め手なんですね。 
igaue2 (33) 堀底から上端までの高さは30メートルで日本一!

城友・日向守さんと思わず見とれてしまう、高石垣。高虎の城に対する美意識さえ感じ取れます。
ここまで二人で城内くまなく結構な距離を歩いています。
・・というところで城内にある茶店にて一服していきます。

igaueno1 (19) igaueno1 (20)
美しい池を見ながらの、落ち着いた佇まいに、伊賀上野城の感想談義も盛り上がるのです。

igaueno1 (21) 
なんとも美味しい、ぜんざい(おしるこ?)に心も体もあったまるのでありました。

伊賀 百地丹波城 🏯謎多き伊賀の上忍、百地丹波守の城

伊賀 百地丹波城 (三重県上野市喰代城谷)

年末も押し迫ってきて、忙しい・・、はずなのですが・・。
今回は年末城納め、と題して今年一年の締めくくりのプチ遠征に出かけました。
城友・日向守さんにも無理くり、休みを合わせて頂いての行軍です。

今年の城めぐりでは、なんとなく藤堂高虎公の縁ある城が多かった気がします。
そんなわけで、〆は伊賀上野城方面に行こう!ということにしました(強引に)。
周辺の城址にも時間が許す範囲で寄ってみたいと思います。

まずは百地丹波城を朝一で散策してみました。

momotitannba (14) 車は永保寺の駐車場をお借りしました。

momotitannba (13) どうやら曲輪間の堀底が道になっているよう。

こちらの奥には百地丹波の墓と伝わる墓所があります。

momotitannba (11)  百地丹波が修行したと伝える丸型池。

ここで水蜘蛛の術(水上歩き)、とか水遁(すいとん)の術とかしていたんでしょうか?
シュノーケルの竹筒が出てないか目を凝らして探してしまいました。
・・あるわけないのに。

momotitannba (12)
青雲寺から見上げる主郭部。崩落石を防ぐため、コンクリートで固められているほど急峻な切岸です。

momotitannba (10) 青雲寺から主郭部に入っていきます。

momotitannba (9)落ち葉が似合う、伊賀流上忍・百地丹波守城址の石碑と説明版。

momotitannba (4)

百地丹波城は、百地氏によって防御の固い居城(居館)として築城されました。
百地氏は、戦国時代には有力な土豪で藤林長門守服部半蔵と共に伊賀上忍三家に数えられます。
(最近の研究では百地丹波と藤林長門の同一人物説もあり)

百地丹波守は天正2年の織田信雄の独断による伊賀侵攻時に忍者軍を指揮して山間部の狭隘な地形を巧みに利用。
神出鬼没のゲリラ戦法で信雄軍を見事に撃退したのです。(第一次・天正伊賀の乱)

しかし2年後の天正9年、信長は織田信雄を総大将として再び伊賀に侵攻。
この抵抗戦で、百地城も落城してしまいます。(第二次・天正伊賀の乱) 
百地丹波守のその後の足取りはよくわかっていません。 

momotitannba (8) momotitannba (3)
主郭内の東から北、西方面は土塁で囲われていて、特に東の大土塁には圧倒されます。

momotitannba (1)さらに圧倒されたのは土塁と連動したこの大箱堀です。(゚△゚;ノ)

momotitannba (5) 果敢にも土塁を登ろうとする城友さんだが・・。

この直後、ぬかるんだ土で靴が滑り、堀底まであえなく敗退!
「日向守殿、そのような失態では、百地丹波守に笑われようぞ。」
・・となじりつつ、自分はしっかり遠回りしていくのでした。

momotitannba (6) 二の郭から見下ろす大堀切は幅も広いです。
 
momotitannba (7) 物見櫓でもあった感じの出丸があります。

momotitannba (2)

百地丹波守は戦場ではあまりその姿を見せなかったといいます。
音もなく、においもなく、姿・形まで現さない、まさに影の支配者・百地丹波守
ベールに包まれた伝説の謎の上忍、う~ん、ミステリアスです。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

対馬にプチ出国してきました。
7月7・8日と対馬国境マラソンに出場しました。
かつてないほどの災害になろうことを予測しなかったわけではありません。
災害に遭われた方々や関係者様方の気持ちを想えば不愉快な内容になってしまうことばかりかもしれません。
未だ復旧の道筋が見えない中でも、どうか希望を捨てず一日を積み重ねて行っていただきたい、と思い久太郎も復旧ボランティアに参加する意を決心いたしました。
何ができるかわかりませんが、少しでもお力になりたい、と思います。
最新登城記事
カレンダー
07 | 2018/08 | 09
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新コメント
検索フォーム
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
リンク
来城者数