尾張 守山城 🏯暗雲にまみれた闇の歴史を背負った城

尾張 守山城 (愛知県名古屋市守山区市場・城山)

息子の練習試合もお昼休憩で一休み。
他県のチームとの交流はお互いにいい刺激になっているようですね。
我々も刺激を求め城跡散策の再開です。
(今回も奥方が目付け役として時間制限付き同行です、はい。)

moriyama (4) 名古屋中学校、バスケコートのセンターサークル。

先程の千種区の上野城とは反対方向の守山城に行ってみました。

moriyama (5) 宝勝寺一帯が城址で、駐車場をお借りしました。

moriyama (7) 東側の坂道上に守山城の標板がありました。

moriyama (22) moriyama (15)
標板の奥に見える小高い丘があり、月極駐車場があります。アパート「城跡荘」の裏手になります。

この登り口はアパート「城跡荘」の敷地になっており、ちょっと見つけづらいようです。
実際、この丘の周りをグルグルと徘徊してしまいました。
階段があり、このアングルではまるで山城を登っているかのような画像ですが・・。

moriyama (16) 奥方の足で徒歩1分足らず。頂上に到着です。

moriyama (17)kai守山城城址石碑です。城歴の概要も彫り込まれています。

このわずかに残った平地は本丸の一部なのでしょうが、
宝勝寺の墓地との間には堀が竹林となって残っています。
竹が生えすぎて観察が困難ですがかなりの深さがわかります。

moriyama (13) 深い堀底も竹に阻まれて見学しづらい・・。
 
moriyama (19) moriyama (25) 
城址からの眺め。住宅街の中にも矢田川方面がよく見えます。

守山城の歴史はとても複雑で血生臭く、謎に満ちています。
不可解な事件が多発し、とても信じがたい出来事もおきています。
以下ににかいつまんで列挙していきたい、と思います。

久太郎的・守山城の七不可解(あくまで個人の勝手な検証・呼び名ですので)

●不可解・その1・・築城者・築城目的の不詳。  
大永元年(1521)、今川氏豊が那古野城を築いた際に、小幡城・川村城に対応して松平信定が築城した・・。
系図上、今川義元の弟にあたる氏豊が敵国・尾張の中心地に居城を構える理由が不明。
桜井松平氏(三河安城)に分家した松平信定が尾張の最前線に築城する理由も不明。

現時点では勉強不足でコメントしようがないほど不自然ではあります。謎・・。

●不可解・その2・・いつのまにか織田信光が城主に。
享禄5年(1532)、勝幡城主・織田信秀の奇計によって、那古野城を奪取。
今川氏豊を京に追い落とします。
織田信秀は、弟・信光を守山城主とします。

これは今川氏豊を追い落とした後の処置、と考えれば筋はたちますが・・。
守山城はいかようにして手に入れたのでしょう?氏豊はなぜ母国・駿河ではなく、京に落ちたのか?謎。

●不可解その3・・守山崩れ。
三河をほぼ統一した松平清康は、尾張に進軍。
天文4年(1535)12月、清康は尾張に侵入し織田信光の守る守山城を攻めます。
この守山の陣の最中、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死、
当然、弥七郎もその場で切り伏せられます・・。

清康は攻囲中の守山城内に何故いたのか?(一説に信光が招き入れたそうですが・・。)
松平氏苦難の道はここから始まります。しかし・・総大将が陣中で斬られるとは・・。大きな謎。

●不可解その4・・織田秀孝誤殺事件、織田信次の出奔騒動
弘治元年(1555)、信長・信光連合軍は清洲織田氏の織田信友を滅ぼします。
信光には那古野城が与えられ、守山城には信光の弟の織田信次が入ります。
しかし信次の家臣・洲賀才蔵が信長の弟・織田秀孝を誤って殺害、あろうことか報復を恐れた信次は・・、
なんと、出奔してしまうのです!。

主君の弟を家臣が誤って殺すなんてあるんでしょうか?。
逐電する新城主・信次のほうにも疑問が残ります。怪しい・・謎。
さらに、さらに・・。

●不可解その5・・織田信行(信勝)の城下焼き討ち
この件で大騒動のなか守山城下は、信長の弟で秀孝の兄である織田信勝により焼き払われてしまいます。
城には信次の重臣・角田新五らが立てこもり続けますが佐久間信盛らの働きにより信長の弟・織田信時(秀俊?)を城主とすることで一応の決着をします。
しかも信長、信勝にお咎めなし、逆に秀孝の行動に非があり、とします。?・?・?

謎まるけでなにがどうなってきたのでしょう?
もう、めちゃくちゃな事態になってきましたが、これで終わりません。

●不可解その6・・信時切腹事件に信次の城主復帰
信時(秀俊?)は他の家臣を偏愛・重用したため角田新五により切腹させられ、城には再び角田らが立てこもります。その後、出奔していた織田信次が信長に赦免され再び城主に復帰・・。

城主に詰め腹を迫る家臣に疑問譜。そしてあの信長が逐電するような信次を簡単に許すなんて?
なんだか、わけがわからなくなってきました。謎の極み・・。そして・・。

●不可解その7・・織田信光の突然の死
信長より那古野城を譲られた織田信光でしたが、弘治元年11月に不慮の死を遂げます。
近臣・坂井孫八郎により殺害されたといいいます。

信長の尾張統一に大きな後ろ盾となって貢献した守山の叔父のあっけない最期です。
黒幕がいたのでしょうか・・。いたのでしょうね・・。まさか信・・?。いや、謎・謎・謎・・としときましょう。

このようにあり得ない事態が次々と関連しながらおきていくのです。
ちょっと信じられないような話ばかりです。
これも何がおきるかわからない戦国の世の宿命なんでしょうか?

まるで今川、松平、織田一族の闇の歴史を一手に引きうけてているかのようです。
家臣の仕業にして事の真実を闇に葬ったかのような数々の事件。
そう、どれも裏に何かが隠されている気がしてなりません。

以上、久太郎的・守山城の七不可解、でした。
最後まで目を通していただいた方、まさかいないと思いますが・・、
みえましたら、心よりお礼を申し上げます、ありがとうございました。

追記・・。

ちなみに・・織田信光さんの個人的な印象。
さるNHK大河ドラマ『信長』では頼れる叔父、ではあるものの自尊心が強く高圧的、
形式・慣習を重んじる御意見番、といった役どころで登場シーンが多かったです。
(信光がここまで取り上げられたのは過去にも先にもないのでは?)

腹に一物をもちつつもおくびにも出さず、さかしい知恵も持ち合わせている、ちょいワル漢。
信長を織田家棟梁と認めつつも、内心では隙をうかがっている危険人物でした。
あのイメージは案外、当たっているのかも知れませんね・・。

・・ということで、もう一回DVDでも観てみましょうかね。





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尾張 上野城 🏯かわいい六地蔵めぐりが楽しい城

尾張 上野城 (愛知県名古屋市千種区上野町1丁目4-18・永弘院) 

今回も例によって息子の練習試合見学です。
こたびの城跡めぐりは尾張のほうの上野城。
合間時間に寄る城址めぐり、なかな病みつきになってます。
(奥方の了解をいただいたうえで、城めぐりしてます、はい。)

o-ueno3 (2) o-ueno3 (1)
東区にある名古屋中学校が会場。施設がすばらしい学校。

o-ueno2 (2) o-ueno2 (5)
すぐ近くの千種区永弘院(ようこういん)を訪ねます。

街中にあるとは思えない程の静かな寺院です。
手入れも行き届いており、散策するにもとてもいいです。

o-ueno2 (4)境内の一角にたつ上野城城址碑。

石碑の横側には「下方左近将監源貞清居城」との銘が彫られていますね。
下方貞清織田信秀・信長親子に属し、槍術の腕前が抜群に優れていた武辺者だったようです。
貞清は小豆坂の合戦における「小豆坂七本槍」の勇者の一人として一躍名を上げます。

各戦いでは信長の馬廻りとして母衣衆にも劣らない働きを発揮します。

o-ueno1 (1)名古屋市製の石碑の裏には古城石碑もありました。w( ̄o ̄)w

この石碑は明治時代のものらしく、古風な感じがまたノスタルジックです。
・・危うく見落とすところでした。
まさか城址碑が背中を向き合って2つあろうとは夢にも思いませんので。

自分がうれしい発見をしているころ、わが奥方もなにやら発見したようです。
「いろんな、可愛いお地蔵さんがいるよ」、とのこと、どれどれ・・。
見に行くと、思わず微笑んでしまいました。

o-ueno1 (7)o-ueno1 (6)
叫んだり、ふてくされていたり?、かわいいです!

o-ueno1 (4)o-ueno1 (8)
あらら、泣いてら(笑)、と思ったら、おすまし顔、うふふ。

o-ueno1 (3)o-ueno1 (5)
この笑顔にはやられましたね~。可愛すぎます。

わらべ六地蔵、というそうです。
見る人によって表情の読み方が変わるのもアリです。
ここだったら家族づれでの寄り道もできそうです。

o-ueno1 (10) お庭「弁天池」もきれいでした。

城址の遺構はありませんが、お寺散策としても手軽に楽しめます。
城址碑探し、そしてわらべ六地蔵探し、面白かったです。
・・さぁ、息子の試合に戻るとします。



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尾張 古渡城 🏯織田信長・元服の城

尾張 古渡城 (愛知県名古屋市中区橘二丁目)

久々に奥方と名古屋の街に繰り出してみました。
本日は楽しみにしていたライブの日。
開場前に時間もあるので近くの城址探索です(こんな時にまで・・)。

furuwatari (5)
東別院一帯が古渡城址といわれていますんで、散歩気分での散策です。

furuwatari (2)真宗大谷派名古屋別院敷地内にある古渡城跡碑

古渡城は天文3年(1534年)、織田信秀が東南方に備えるために築城した城です。
信秀は今川氏豊から奪った那古野城を、嫡男吉法師(織田信長)に譲り、この城を拠点としました。
信長はここ古渡城にて13歳で元服をします。

furuwatari (4) 城の雰囲気があります。

東西140m、南北100mの平城で、四方を二重の堀で囲まれていたそうです。
その後信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか14年で廃城となってしまいました。
信秀も結構、居城を変える方だったんですね。

furuwatari (1)本堂、大きくて立派です。

名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失しましたが、戦後再建されました。
大きい道路に面していますが、街中とは思えない程、静かで、きれいなお寺です。
子供たちが楽しそうに遊び、笑い声を聞きながらの散策。城址碑のみですが、楽しい気分を味わえました。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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