FC2ブログ

京都 中尾城 🏯将軍・足利義晴築城の山城

京都山城 中尾城 (京都府京都市左京区浄土寺)

京都にて仏閣めぐりをしつつ、城めぐりもしてしまおう、というのは欲張りでありましょうか。
作麼生(そもさん)「寺と城、どちらが目的か?」と問われれば、
説破(せっぱ)「・・やっぱり、城かな・・」という、どうでもいい禅問答。
空気は読める方ですが、煩悩を断ち切ることはなかなかに難しいことです。

nakaoyama (23) 東山慈照寺「銀閣寺」に行ってまいりました。

nakaoyama (22)「哲学の道」より中尾城を見上げます。銀閣寺の裏山一帯が中尾城城址です。

銀閣寺をゆっくり拝観した後は中尾城へ登ります。
友人Tクンは茶店で休憩待ちしてくれる、というので貴重な時間をいただき中尾城山頂へ。
あまり待たせる訳にはいきませんが、小躍りしながら走ります。

nakao02.jpg本来なら大文字山へ登るのが一般ピープルですが・・。

nakaoyama (4) 大文字山ハイキングコースから左へ行軍です。

山手に向かう観光客や登山者も、ちらほらみえるのですが、目的は隣の大文字山のようです。
彼らの登る方向から一人、コースを外れあさっての山中に入っていくサマがさぞかし不審者に見えたのでしょう。
いかがわしい視線を背中に感じながらも、マイ・ウェイを進みます。

nakaoyama (3)途中、あまり意味のわからない説明版を見つけます。「嗚呼」って・・(*´Д`*)。

nakaoyama (5) 
登城途中にも堀切らしい遺構を見ながら登っていきます。

nakaoyama (19) nakaoyama (16)
山頂付近はさすがに勾配がきついです(写真:左)。
頂上には木の幹に「中尾城址」を示すプレートがあります(写真:右)

尾根から最初のピークを南に向かっていったん降り、もう一山登ったところで主郭に到着です。
この最初のピークも出丸があったようです。

nakaoyama (17)手作りの城址碑プレート。これでも嬉しいものです(´∀`*)。来た感ありありです。

nakaoyama (8) nakaoyama (13)
本丸内はよく整地され、広い削平地があります(写真:左)。 小規模ですが土塁もあります(写真:右)。

nakaoyama (14)尾根筋に備えられた土橋と堀切もはっきり残っていました。

中尾城は天文十八年(1549)、将軍・足利義晴によって築かれましたが義晴は新城に入ることなく、近江朽木で病没してしまいました。
その後、城には新将軍となった足利義輝が入り、三好長慶と対峙します。しかし、長慶の大軍の前に敗北した義輝は中尾城を自焼すると近江に敗走します。
後、中尾城は三好軍によって徹底的に破壊され、わずか一年という儚さで廃城になったようです。

nakaoyama01.jpg中尾城本丸から京都の街を見ます。中央右のこんもり山が船岡山です。

現在、わずかな木々の隙間からしか眺望は得られませんが、隣の大文字山からは京都の街が一望できるようにこの中尾山からも上京区を中心としたパノラマが広がっていたことでしょう。

中尾城址は銀閣寺後方の山麓に居館があり、山腹に出丸、山上に主郭という城構え。
将軍の居城にふさわしい規模を持った城址だといえます。

銀閣寺も良かった・・今度は大文字山にも登りたいものです。

京都 聚楽第 🏯秀吉の栄光と斜陽の豪邸

京都山城 聚楽第 (京都府京都市上京区一条堀川一帯)

京都の知られざる城址をマラソンでめぐっていくこの企画もいよいよラストです。
なんだかんだと10kmくらいは走ったようです。
しかし、アドレナリン出まくりで、疲れは一切ございません。
・・不思議なことがあるものです。

むしろ逆です。まだ見ぬ城址がこの先にあるのですから、どこまででも走れそうです。
そう、城がある限りどこまでも。・・そういう体に産んでもらったのです。
そして、向かうは秀吉の聚楽第址です。

・・ところで、「マラソン的ロングラン」「ピクニック的観光めぐり」を結びつけた走り方。
・・こういうの、マラソンじゃなく、「マラニック」っていうそうです。
自分で言うのも何ですけれども、「マニアック・マラニック」という表現はギャグ抜きでピッタリだと思います。

おしゃべりが過ぎました。

聚楽第は関白に就任し「豊臣」姓を受けた豊臣秀吉が、京都に建てた城郭にも劣らない大規模な豪邸です。
いまや、遺構は残ってはおりませんが、面影が少しでも感じられたら・・と思います。

jyurakudai (5)「この付近」というアバウトさ(^∇^)。この一帯が聚楽第本丸西堀があった所です。

「聚楽」とは「長生不老の楽しみを集める」という「寿楽」にかけた意味の造語、とも言われます。
ルイス・フロイスが『日本史』の中で、聚楽第を絶賛、「屋根から外装・内装・調度品にいたるまでことごとく金が塗られていた」と、記しており驚いています。近年、それを裏付けるように金箔瓦も多数発掘されています。

まさに天下人としての名を知らしめた 「黄金の居城」 だったに違いありません。

jyurakudai (7)こちらの石碑には聚楽第本丸東堀があったようです。

jyurakudai (8) やはり「此付近」としかいいようがないのですね。

つまり、先程の石碑とこちらの石碑の間に本丸があった、とみてよいようです。広いですね。
御所にも近く平安京の大内裏跡地を選んだだけあって、秀吉の権力を象徴する意図もあったのでしょう。

・・ところで「じゅらくだい」と読むのか、「じゅらくてい」と読むのか???
迷うことはありませんか?
これ実は専門家の間でも意見が分かれるようなんです。

しかし、当時の公家の日記には「聚楽亭」、すなわち「じゅらくてい」と書き記されている事が多いようです。
よって 「じゅらくてい」 が正しい読み方である、と言われます。

さらに言えば、公家達との社交場に「聚楽城」という名称は武家のイメージが強く、ふさわしくなかったようです。
朝廷は古今伝授を重んじる世界。「聚楽城」という名称では「城への行幸は前例がない」ことを口実にされ、お互い何かと不都合だったようで。

しかし、「亭」や「邸」と呼ぶには規模が巨大すぎて、字の意味と合致しないというジレンマです。
「第」と「亭」なら、共に「やしき」という意味があります。

それで「聚楽城」ではなくて 「聚楽第」 になったという訳なんですね・・。
(めんどく・・いやいや、よく考えられていますねー。)

jyurakudai (1) jyurakudai (9)
上杉景勝・直江兼続の屋敷址(写真:左) と 千利休の屋敷址(現:晴明神社付近)(写真:右) の石碑

聚楽第の周辺には、秀吉の一族や家臣、諸大名の屋敷も造られたようです。
途中、偶然発見しただけでも上写真に示したようにあちこちに由来碑があるようです。
時間的都合もあり、すべての由来地は回れそうにありません。

しかし、その中でも羽柴秀勝邸の跡地には説明版もあり、聚楽第の様子がわかりやすく図示してありました。

jyurakudai (2)丹波少将、羽柴秀勝の邸址。ここでは「聚楽城」って書いてあります。

jyurakudai (3) 秀勝は織田信長の子で養子なんですよね。

そんな聚楽第もわずか9年で破却されます。

聚楽第は関白職とともに甥・羽柴秀次に譲られますが、秀次は謀反の疑いをかけられて、高野山に追放後、切腹させられます。
秀次と妻子の居城であった聚楽第は破却され、何もなかったの如くこの世から姿を消してしまったそうです。
秀次一族の根絶と聚楽第破壊は徹底的に行われました。

秀吉の、豊臣家の、悲劇はここから始まったのだといっても過言ではないようです。
栄光と斜陽の狭間で幻のように現れて消えた城、「聚楽第」でした。

京都 妙顕寺城 🏯秀吉の造営した二条城

京都山城 妙顕寺城 (京都府京都市中京区古城町一帯)

二条御新造から西へ走ります。
意識してなければ見落としそうな場所に石碑があります。
ここが「秀吉の築いた二条城」こと、妙顕寺城です。

妙顕寺城は、天下人・豊臣秀吉によって聚楽第が完成するまでの京の宿城として築かれたました。
二条油小路にあった妙顕寺を移転させ、跡地を接収して築かれたため妙顕寺城と呼ばれました。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となったということです。
さすれば城代・前田玄以といったところでしょうか。

IMG_2199.jpg朝もやの中の妙顕寺城址。西福寺の門前に建つ城址碑がぽつ~ん( ´_`)。

すぐ近くの東に信長の二条御新造がありました。
秀吉も信長に真似て意識し立地を選んだのでしょう。
ただ、同じ地に建てなかったことは、やはり信長父子をはばかってのことなのかな?・・と。    

IMG_2206.jpg意外と知名度がなく、京都の方々でさえ、「知らなんだわ。」ということも。

西に家康の二条城、ここ秀吉の妙顕寺城、そして東に信長の二条御新造、3つの二条城はほぼ東西横一直線でつながります。
天下を受け渡したあった三英傑、二条城もまた京都の統括地としてそれぞれに受け継がれいったと思うと面白いです。
徳川二条城をまた違った目で見学ができるかもしれませんね。

妙顕寺城は秀吉により聚楽第ができるまで京都支配の政庁として使用され、役目を終えたようです。
なんだかもったいないですね(´・_・`)(庶民派意見丸出し)。
それでじゃ、せっかくですので聚楽第址も寄っていきます。(続)

京都 二条御所 🏯信長、在京中の宿所にして、信忠、御自害の城

京都山城 織田信長二条城 (京都府京都市中京区二条殿町・金吹町一帯)

織田信長は1576年4月に上洛します。
その際、二条家の邸宅の庭の眺望を大変気に入り、二条家に別の屋敷を提供したうえで、邸を譲り受けます。
信長は村井貞勝に二条邸を城郭として改修させ、その後2年間はここを京の宿所としました。

nijyougosyo (1)「二条御新造」とも呼ばれる織田信長の二条城は二条関白邸の址でもあります。

本能寺での変があった時、妙覚寺に滞在していた織田信忠は本能寺に救援に向かおうとしますが、既に信長の横死が伝えられ、逃走するよう側近に諭されます。
しかし信忠は、防備の弱い妙覚寺を出て、村井貞勝らとともに城構えのよいここ二条御新造に移ります。

信忠は、誠仁親王が退去するまで攻撃しないよう光秀に申し入れ、親王を脱出させると、少人数ながら頑強に抵抗しました。
近くから次々と加勢する家臣たちと奮戦、明智軍を三度も撃退させます。
明智軍は最後の手段として、隣接する近衛前久邸の屋根から銃矢を放ち、側近のほとんどを討ち果たします。

nijyougosyo (3)信忠が死場所として籠城し、戦った二条御新造址。

自ら刀を持ち奮闘する信忠でしたが衆寡敵せず、最期は鎌田新介の介錯で自害しました。
早めに逃げようと思えば、逃げれたようです。現に織田長益などは巧妙に脱出しているのです。

父の仇を討つこともなく逃走すれば後世に恥を残すと考えたのでしょうか。
偉大な父・信長のいない天下を一人で背負いきれないと考えたのでしょうか。
いずれにせよ、織田家嫡男として父を追い続け、死出の世までついて逝ってしまいました。

nijyougosyo (4)
現在、周囲には京都国際マンガミュージアムが建ち、烏丸御池は賑わいのある街角です。

本能寺の変・・。
明智光秀がどうして信長に対して謀反を起こしたのか?
日本史上、皆が関心を持つ一大ミステリーです。

しかし自分にとっては織田信忠がどうして逃げなかったのか?
そちらも大いに興味のあるテーマです。
信忠にしても下天は、夢、幻、まやかしだったのでしょうか。

真実は誰にもわからないような焼け跡の下、深くに埋められているのでしょう。
いくら掘っても掘り返されないような所に埋められているだとしたら・・。

自分なりに感じた痕跡を見つけていくのも城めぐりの楽しみです∠( ^ o ^ )。
そんな感じで、ちょっとしんみりとしながらここ信長親子の二条城をあとにしました。

京都 足利義昭二条城 🏯信長が将軍・足利義昭にプレゼントした城

京都山城 足利義昭二条城 (京都府京都市上京区武衛陣町・五町目町一帯)

いくつかあった「旧・二条城」の中でも一般的にその名が使われているのがここです。
「二条御所」とも呼ばれますが、別の地にあった信長在京中の宿所もそう呼ばれるため混同されることもあるようです。

兄である義輝が斃れた後、信長の後援あって無事に第十五代征夷大将軍の座に就いた足利義昭
当初、幕府を本圀寺に置いていましたが、またしても三好三人衆らの襲撃を受けてしまします(本圀寺の変)。
このことから信長は義昭のためにより堅固な城を築きます。

kyuunijyou (2)信長パパに建ててもらった義昭の二条城址。今や石碑のみ(´・_・`)。

二重の堀に吊り上げ橋、三重天守、石垣も備えたなかなかの構えだったようです。
庭園には名石・名木が運ばれ泉水・築山をこしらえました。豪華ですね。これはもう宮殿ですね。
義輝二条城とほぼ同じ位置に築かれたので石碑の位置も100メートルと離れていません。

kyuunijyou (4) 平安女学院大学敷地の隅に石碑があります。

将軍・義昭の権威を示す、というよりもその背後にいる信長の威光や実力を示した城、だったのでしょう。

ちょっと東の京都御苑に足をのばすと当時の二条城の石垣が復元されていますよ。

kyuunijyou (1)京都御苑の下立売御門付近にある二条城石垣復元地。

kyuunijyou (5) kyuunijyou (7)
地下鉄烏丸線工事建設の際に発掘されたものを展示してあります。

よくみると石仏や墓石っぽいのも混じってますね。
急造だったことがわかります。まぁ信長にしてみれば普通の事ですかね・・。

しかしこれだけではいかに素晴らしかった城であっても、伝わってくるものは・・(-_-。)・・ない事もない、ですね(汗)。

・・そう、義昭にしてみればここまで手厚くしてもらい感謝感激したことでしょう。
義昭はお蔭で兄・義輝の二の舞に遭うことも避けられました。

ありがたや、「御父 織田弾正忠殿」。その時は素直にそう思っていたはずなのに・・。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

最新登城記事
カレンダー
06 | 2020/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新コメント
検索フォーム
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
リンク
来城者数