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美濃 和泉城 🏯どこにでもありそうな竹藪に城址石碑が

美濃 和泉城 (岐阜県安八郡神戸町和泉中大門) <町指定史跡>

梅雨時期の台風上陸+ゲリラ豪雨に竜巻・・。
こうなるともうレイン・コートだといえど役に立たず・・。
内側からは汗が吹き出し、これではサウナ・スーツと変わりありません。

こんな日はブログ記事を書いたりするのがお利口かもしれません。

前回同様、安八郡神戸町のお城めぐりを振り返ってみます。
神戸町には2つの平城が町史跡として登録してあります。
西保城から南東に約1km歩くと、和泉城があるのですが・・。

大体の位置しかわからず、話し込んでいた近所のマダムさんたちに伺ったところ・・。
「あ?・・なに?・・あの竹藪城を見に来たの?」と笑われる。
すぐそこだと指さされたその場所、まぎれもない竹藪でした。↓

izumik (3)なるほど・・、どこからどう見てもその辺の竹藪です。

しかし、城、という以上、なんらかの遺構が見られるのでは・・。
ドキドキしながら畦道から城址へと近づいていきます。
土塁かなっ?、それとも、横堀かなぁー!

izumikb.jpg
どっからみても竹藪。(北から見たバージョン)

izumik (2)おおっ!結構な石碑がいらっしゃいますね。

少し竹藪の中をのぞいてみましたが・・。
ホント、ただの竹藪のようです。それも間伐されていないので体を入れることもできません。
期待した土塁や堀なんかもあるのかないのか・・。(なさそうでした・・)

ある意味、「竹」、という鉄壁の防御力を誇る不輸・不入の権を主張する城址です。
それに待ち構える不気味な蜘蛛の巣集団・・。そして闇への入口・・。
敢えて足を踏み入れることはしないほうが・・。

このような和泉城ですが、(果たして城なのか?)
『新撰美濃志』には木村常陸介重茲(きむら しげこれ)の居城と伝えています。
木村重茲公をご存知、という方は、拍手を送りたいです。

木村重茲は千利休の弟子で、台子七人衆の1人でもあります。

天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉方として参戦、近江堂木山砦の守将を務めます。
天正13年(1585年)、秀吉より越前国府中(現福井県越前市)に12万石を与えられます。
このあたりの重茲公、新生大物ルーキーの匂いがいたします。

天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の先鋒を務め、武蔵岩槻城攻略で武功を挙げます。
奥州仕置では出羽国の検地を担当、葛西大崎一揆征伐においても活躍するのです。
まさに文武に優れた秀吉子飼いの武将、といってもいいでしょう。

しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことから、連座の罪で自害を命じられます。
秀次に連座して彼のような才能人や忠誠人を排除してしまったつけは大きかった・・。
やがてその豊臣政権の屋台骨を根底からグラグラにしていくのでした。


この地図では竹藪じゃない、城址碑のあるあたりをポイントしております。

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美濃 西保城 🏯西美濃四人衆、といったらこの城の御方が加わる

美濃 西保城 (西保北方城) (岐阜県安八郡神戸町西保・城跡) <町指定史跡>

梅雨も本格的になってきました。
このジメジメ感をぶっ飛ばすには城址めぐりはうってつけ・・でもないです。
集中力がなくなり蜘蛛の巣が顔にかかった瞬間、発狂したくなる時期です。

しかし、相変わらず子息はバスケマンとして、チームメイトと頑張っています。
本日も大垣にて開催された大会2日目に出場しました。
中体連大会を前に弾みをつけたいところです。

nissinohok (1)
大垣女子短期大学が本日の会場です。

いつ雨が降ってきてもおかしくない空模様のなか、城址めぐりに出かけます。
神戸町には2つの平城が存在しています。
いずれも遺構は残っていないようですので、石碑めぐり、という気分です。

nissinohok (5)西保北方城一帯とされる林を眺めます。

城址は町指定史跡となっているものの、個人宅様の敷地となっています。
ですので、外周を取り巻く水路や水田などから城域を把握できるのが関の山です。
畑仕事をしてみえたおばあちゃんに石碑の位置を教えて頂きました。

nissinohok (3)電信柱に隠れていてなかなかみつけられない石碑です。(^-^)/

ぐるぐる歩き回ってようやく発見できた石碑です。↑
、というか最初は視界に入らず、見落としてしましました。
おかげで城域は一周できましたが・・。

nissinohok (4)
このクランク部が城っぽい部分といえばそうでしょうか?

西保城は不破道広によって築かれたといわれます。
3代目城主が不破光治で、土岐氏・斉藤氏・織田信長と仕え、信長の馬廻りとして活躍します。

美濃三人衆、といえば稲葉、氏家、安藤氏、の三氏を指しますが
ままに「西美濃四人衆(四家老)」といった場合には不破氏がこれに加わります。

光治は佐々成政・前田利家と共に府中三人衆と呼ばれ、柴田勝家の与力・目付として抜擢されます。
天正5年(1577年)8月の勝家を総大将とした加賀国平定戦には、三人衆そろって参陣。
天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、「越前衆」の一武将として利家らと共に参加しました。

子の直光も父に従い、その名跡を受け継ぎながら各地で転戦したようです。
親子共に信長お気に入りの部将だったと思われます。
賤ケ岳の戦いでは律義に勝家方に味方するも降伏、表舞台から消えていきます。

城はその後、稲葉方通木村勝正が城主となりまた。

不破親子の出生地、そして飛躍の城、と解釈すればなかなか思い入れのある城址ですね。


城址石碑がなかなか発見しずらいので記憶のあるうちに図示しておきます。
(次、「行け」と言われても自信がないので・・)

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

対馬にプチ出国してきました。
7月7・8日と対馬国境マラソンに出場しました。
かつてないほどの災害になろうことを予測しなかったわけではありません。
災害に遭われた方々や関係者様方の気持ちを想えば不愉快な内容になってしまうことばかりかもしれません。
未だ復旧の道筋が見えない中でも、どうか希望を捨てず一日を積み重ねて行っていただきたい、と思い久太郎も復旧ボランティアに参加する意を決心いたしました。
何ができるかわかりませんが、少しでもお力になりたい、と思います。
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