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美濃 上飯田城(比久見城) 🏯いつ頃の、誰の、何のための城?

美濃 上飯田城(比久見城) 
(岐阜県加茂郡川辺町比久見、加茂郡八百津町上飯田・鳶巣峰)

市町村境の尾根状に位置する城砦というのは、それぞれから固有の名称で呼ばれたりします。
〇〇村からみると○○城、お隣の△△村から仰ぎ見れば△△砦、というように・・。
そのため、複数の別々の城館なのか、同一の城館なのか、紛らわしい場合もあります。

今回取り上げました上飯田城も、その例に相当します。

川辺町と八百津町にまたがる尾根状に位置しているため公式名?としては「上飯田城」ですが、
北麓の川辺町比久見地区からは「比久見城(ひくみじょう)」 と呼ばれ(しばし当然です)、
南麓の八百津町上飯田地区からは古来より「鳶巣峰城(とびすみねじょう)」と呼ばれています。

しかし・・今となっては、その存在・呼び名は地元民の方々もほぼご存知ないようです。

hikumi1k.jpgお姿全体は比久見地区からのほうが確認しやすいです。

場所は比久見地区からなら妙楽寺の裏山、八百津町地区からなら正宗寺の裏山、となりますが・・。
残念ながら登山道は消え失せ、これといったルートがございません。
米田城と尾根上では繋がっていますが、起伏もブッシュも多く、アプローチには不向きです。
(自分も試しに複数のルートで挑戦してみました)

hikumi (7)個人的に一番とりつきやすいと思われるルートです。
(※ルート線と城名・城域範囲線は加筆しております)

妙楽寺の北谷を流れる寺洞川に沿って寺洞林道を奥まで進み・・、(勿論、徒歩で)
地形を見ながら尾根上に向かってひたすら直登!です。
無事に城跡に着けるかどうか、楽しみでもある最短ルートです。

hikumi (3)わかりずらい遺構ですが、頂部(本丸)の壇の様子です。

若干の石組み崩壊らしいものもみられますが、積極的には判別できません。
全体を切岸と腰曲輪のみで形成した普請量の少ない城です。
一時的に使用されたためでしょうか、堀切が見当たりません。

hikumi (4)西曲輪の中央には尾根に沿って仕切り土塁が東西に延びています。

このような遺構は他ではあまり見られないですが・・。
細尾根を敢えて区分けすることにどんな意味があるのか?
考えると面白い特徴的な遺構といえましょう。図面を下に紹介します 

tonnbi.jpg防御面では特筆する点も見当たらい簡素なつくりです。
(尾根筋の鞍部にも堀切なし)

hikumi (6)
土塁によって中央でそれぞれに分けられた曲輪の様子。

上飯田城は、南北朝に、高師直・師泰兄弟の高師泰によって構えられた砦、と伝わります。
しかし、伝えられる師泰がいつどういった理由でこの地に砦を築いたのかは不明です。
・・要は鵜呑みにできない、信頼性乏しい伝承、ということです。

防御面遺構が弱いのは、そもそも戦いとは別、目的が違うことを示しているようです。
狼煙や旗等の伝えの城、であったとか、単に村の駆け込み非常施設であったものか・・。
いずれにせよ、収容人員も限られ居住スペースも備わっていない規模です。

hikumi (5)
主郭部からの眺めは枝まるけですがなんとか確保。

文字通り「鳶の巣」に相応しい小峰、といった感じの上飯田城。
真南に兼山城が見える、っていうのも気になるんですけど。。
尾根でつながっている最寄りの米田城は目視できない。。(う~ん・・、謎だ!)

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美濃 下麻生城 🏯断崖絶壁!足元注意!

美濃 下麻生城 (岐阜県加茂郡川辺町下川辺・遠見山) <町指定文化財>

うららかな早春、「山城に出掛けたいよ~」、との気持ちを断固阻止する繁忙期・・。
それでも気持ちに嘘はつけず、無理くりにでも時間を作るいとしき我が身・・。
きちんと仕事をして、きちんと家事をこなし、胸を張っての城めぐりです。

今回の訪城は飛騨川沿いにそそり立つ「遠見山」こと下麻生城です。
屏風のような垂直な断崖上に備えられた天険の城砦です。
少々、危険な匂いもしますが、冒険心、好奇心がそれを跳ね除けるのです。

simoasou (8)下麻生城の遠望、決してボルダリングに来わけではありません。

人は勿論、獣さえも寄せつけない絶壁です。
さて・・、どうやって登ったものか・・。
この手の城跡はまずは登り口を探すことから始まるでしょう・・。

simoasou (6)
麓の臨川寺さん墓地駐車場をお借りしました。

お寺の方に線路を渡って川沿いに登っていく道がある、と教えて頂きました。(自己責任で)
早速、装備をして登ります。沢を渡るそうなので長靴に履き替えます。
すでに心が躍っている・・。この感覚、いいな~。

simoasou (7)何年か前には、この様な川辺町の木碑が立っていました。

現在は腐って撤去されたそうです。(なんか最近この手のパターンが多い気がします)
お寺の方も早く立て直して欲しいのですけど・・と仰ってみえましたよ、川辺町さん!
しかし、以前のものですが写真を撮っておいて良かった~(* ´ ▽ ` *)

simoasou (9)
江ノ川沿いを歩いていくと、可愛らしい水仙がお出迎え。

simoasou (10)
砂防ダムの手前で左に降りて沢を渡ります。

simoasou (3)
以外にも登山道にはテープが張ってあり迷わず頂上まで登れます。

simoasou (2)
尾根に到着したようです。

ここから左(南)に進めば断崖上へ、右に進めば(北)主郭部へと続きます。
先ずは怖いもの見たさ、断崖上の物見台へと歩みます。

simoasou (11)
おお~っ!素晴らしい展望です、飛騨川沿いと山塊先端部に米田城が見えます。

simoasou (1)
対岸の下吉田集落と飛騨川上流沿いも視界に収まります。

吾レ高台ニ独歩シテ兮俯シテ万里ノ山河ヲ観ル・・
魏の曹操が詠んだ詩が頭をよぎります。
絶景に心打たれ、しばし腰を下ろしてのコーヒータイム。

simoasou (12)・・ふと、足元を見ると、すくんでしまいます。

simoasou (13)これは落ちたらイッテしまうでしょう。

尾根の両脇は断崖、ちょっとのつまずきさえも命取りになりそうです。
感動と危険が隣り合わせのスリルを味わいながらのロック・クロス・オーバー。
慎重には慎重を重ねての行動です。

岩場歩きは「歩幅を小さく」が重要。小刻みな移動で安全を確保しつつ、移動します。
段差の大きいところは、速やかに腰を下ろして脚を出す。
さらに不安な場所では、身体を岩に向けて移動します。経験がモノを言っています。

simoasou (17)
反転して、主郭部へ。昔は神社が鎮座していたようです。(八幡様、と地元情報)

simoasou (14)驚きました!(;゜0゜)岩山の山頂部にも関わらず、水量豊かな池が。

simoasou (16)尾根筋にある一条の掘切には土橋があります。(主郭側から撮影)

堀切は東側が直竪堀となって落ち、西側が弧を描いて谷に落ちます。

simoasou (15)
尾根筋から見ると堀切を渡るとすぐに急勾配になります。

simoasou (18)最高所には秋葉様が祀られ、台地となっています。

頂部はそれほど広くなく虎口などのはっきりした姿は確認できませんでした。
あとは数段の腰曲輪があったのでしょう、面影がみられます。
先の堀切が唯一はっきりした城郭遺構になるでしょうか。縄張り図を示します

simoasonwbz.jpg「遠見山」と言われるように物見施設の機能を重視したのでしょうか。

頂部から西の下段部に展開する平場は水々しい池があります。
削平の甘さは岩山山中に苦心して平場を造成した、とみるべきかもしれません。
もしかしたら神社建設にあたって改変された、とも考えられます。

下麻生城は稲葉彦六貞通によって築かれたそうです。
天正16年(1588)に郡上八幡城に入城した貞通。
山々に囲まれた郡上から平野部の状況を一早く知るために、
また飛騨川沿いの美濃飛騨の動向を掴むために設置した要所、とも思われます。

なかなか目の付け所がいいですね、
天険を上手く利用し、ほぼ手を加えずとも一城郭として成立しています。

こちら下麻生城に登られる方へ。
くれぐれも岩場から滑落することだけはないよう、慎重な足取りで散策してください。
また急な突風や天候の変化にも充分に注意しながら楽しんでいただければ、と思います。


臨川寺の駐車場から登ります。
八幡神社を示す場所が下麻生城・遠見山です。

美濃 米田城 🏯愛宕山に昇る、反・鬼武蔵への狼煙

美濃 米田城 (岐阜県加茂郡川辺町福島・愛宕山) <町指定史跡>

米田城は木曽川と飛騨川、各々の大河が合流する地点手前に築かれた山城です。
愛宕山山頂に築かれたその秀麗な山容は「米田富士」と呼ばれるに相応しい姿。
川辺ダムによってできた「飛水湖」から見上げる姿が実にシンボリックな存在です。

yonadaj (15)一帯は2つの大河に囲まれた半島状態をして「米田島」とも呼びます。

米田城は在地の有力者、肥田氏によって築かれ米田島一帯を支配していました。
しかし美濃に侵攻した織田信長森可成を兼山城主として送り込んできます。
米田城主・肥田玄蕃允忠政は以降、森氏の与力に付属されたようです。

以降、忠政と森氏との間に生じたわだかまりは後々までのこっていくことになります。
(それは後ほど)

それでは愛宕富士、米田城に登っていきます。

yonadaj (1)
愛宕山へは加茂神社が登り口となります。(駐車場はわかりませんでした)

yonadaj (14)おっと・・、城址碑が早くも現れます。 (* ´ ▽ ` *)

山麓のこのあたりも城館があったようです。
言うなれば愛宕山は山上の詰め城、という解釈でよいと思います。
ここからは背後の愛宕山もセットで拝め、関係性が理解できます。

yonadaj (2)
絵に描いたような神社の階段はまさに※「男坂」・・。

※『男坂』(おとこざか)は、車田正美さんによるジャンプ漫画。
  現代に生きる最後の硬派、菊川仁義の生き様を描いた車田氏渾身のストーリー。
  ・・本編の内容とは一切関係ありません。

yonadaj (3)
「米田富士」のハイキングコース案内板はとってもシンプル。迷うべくもありません。

yonadaj (4)
加茂神社の右脇を迂回して山頂へと向かいます。

yonadaj (5)
山頂に近づくと苔むした石段が現れてきます。

yonadaj (6)
石段の左右には食い違うかにように腰曲輪が配置されています。

南から攻め登ってくる敵に対して頭上から攻撃を加えることも出来れば、
側面攻撃にも転換できる構え、となっています。
東西からの備えは急峻な地形を頼っているようです。

yonadaj (8)
登り切ると本丸に到着します。(当たり前か・・)

山頂には愛宕神社が祀られ、楕円形の本丸はよく削平されています。
図面では表現できませんが、かつては全周を低い土塁が巡っていたのかもしれません。
かすかですが微高状の塁線が見て取れます。

yonadaj (7)本丸からの眺望は素晴らしいです。

登った日は若干かすんでいたのですが、美濃加茂市から富加・関方面まで見渡せます。
眼下の飛騨川流域もはるか川上まで確認できます。
反対側には森氏の居城・兼山城も確認できます。

木曽川沿いを直下に抑えることができるのが兼山城、だとしたら、
ここ米田城は飛騨川を直下に抑えることができる要地です。
・・ジャイアン武蔵こと森長可がこの地を欲する訳です・・。

yonadaj (9) 山頂にある城址案内板。

yonadaj (10)遺構はご自分でご確認してください、ということです。
(「言われなくたって!」byアムロ・レイ)

yonadaj (12)
本丸を取り巻く切岸、切り立っています。

yonadaj (11)本丸の北側直下は横堀状となり、土塁が北側に備えられています。

yonadaj (13)
さらにその北には急勾配を経て堀切が城域を区切ります。

作図した図面を紹介したいと思います。

nonesukyan.jpg

縄張りは実にシンプルで地方有力土豪の居城の姿を伝えています。
単純ですが、大手道沿いに食い違うように敷かれた腰曲輪はそれなりに厳重です。
頂上に向かいながら要所要所でクランクさせる導線も地味ながら注目です。

肥田忠政は元亀元年(1570)森可成織田信治と供に近江・宇佐山城を守備します。
浅井・朝倉軍の攻撃を受け、両者が戦死する中、武藤五郎右衛門らと共に宇佐山城を死守します。
南方出陣で忙殺されていた信長軍の隙をついた浅井・朝倉軍を苦戦の末、撃退します。

天正10年(1582)、森長可は米田城の支城・馬串山譲渡を要望するも、忠政はこれを拒否。
ここに両者の間の埋まらない溝がさらに広がりました。
そんな中本能寺の変で織田信長と共に長可の弟・森成利ら三人が横死してしまいます。

忠政もこの事件を好機、と捉えた戦国武将の一人でした。
木曽福島城主・木曽義昌と苗木城主・遠山友忠と共謀して長可らに対し迎撃態勢を整えます。
もし撃ち漏らしても忠政や千旦林城主・吉村源斎らがその先の恵那口で討ち取る、という策でした。

しかし、逆に義昌の子を人質としてされてしまい、あっけなく失敗。
長可の兼山城への帰城を許してしまいます。
長可の方が一枚も二枚も上手、鬼の中の鬼だったようです。

長可は22日に弟三人の葬儀と称して出陣し、米田城を急襲、勢いで東濃全土を掌握していきます。

愛宕山米田城からのぼった反・鬼武蔵への狼煙ははかなくも消えてしまいました。



プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

対馬にプチ出国してきました。
7月7・8日と対馬国境マラソンに出場しました。
かつてないほどの災害になろうことを予測しなかったわけではありません。
災害に遭われた方々や関係者様方の気持ちを想えば不愉快な内容になってしまうことばかりかもしれません。
未だ復旧の道筋が見えない中でも、どうか希望を捨てず一日を積み重ねて行っていただきたい、と思い久太郎も復旧ボランティアに参加する意を決心いたしました。
何ができるかわかりませんが、少しでもお力になりたい、と思います。
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