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駿河 江尻城(小芝城) 🏯当時は一大拠点の城郭だったようで

駿河 江尻城(小芝城) (静岡県静岡市清水区江尻町・江尻小学校一帯)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書 番外編】

静岡マラソンにて見学してきた駿河の諸城の覚書・今回は番外編です。
前回の泉頭城でこのシリーズもようやく終えることができる、と思いましたが・・。
・・何か忘れた気がしてなりませんでした。そして思い出しました!

駿府城をスタートした今回のマラソン大会、ゴールは清水駅というコースでした。
そのフルマラソンを走り終えた後、フラフラになりながら、どこをどう歩いたのか・・。
足を引きずりながら、気力と執念で辿り着いた地、それが今回の江尻城だったのです。

ejirij (1)清水江尻小学校に立つ江尻城の説明版。

江尻城は永禄13年(1570)、甲斐国の武田氏により築城されました。
縄張りには馬場信春が関与と言われ、城代にも山県昌景を起用するなどの力の入れようです。
後に一族の重鎮・穴山梅雪を城代に充てる等、この城の重要度が窺えます。
(まさにタケダ・オールスターズ動員)

城は巴川を背後に控えた微高地上に本丸を中心とし、三方を巴川引きの水堀で囲う平城でした。
図によれば、甲州流築城術でもある丸馬出しが3箇所に設けられているようです。
武田水軍や水運とも密接に関係し、近世城郭にも匹敵する大規模な構えでした。
(馬場信春らしい諏訪原城の平城版 、といった感じを受けました)

ejirij (3)
清水江尻小学校の東校門は「本丸門」となっています、・・ええやないですか。

山県昌景の死後、江尻城には穴山信君が入城します。
信君は江尻城の改修を行いますが、織田・徳川氏の侵攻の際には内通し城を開城、降伏します。
徳川氏の勢力下になった後は嫡男・穴山勝千代信治が城代となるも、勝千代は若くして病没します。

ejirij (2)駐車場の片隅、小公園の中には「小芝城」の名で石碑が立っています。

この石碑、日曜日だったのが幸いして、運動クラブの父兄さんに教えていただきました。
石碑フェチな自分としてはマラソンの疲れもぶっ飛ぶほど嬉しかった・・、
・・という程ではありませんでしたが、発見できて良かったです\(^o^)/。

ejirij (5)
魚町稲荷神社には少しばかり、城の名残りが感じられました。

梅雪曰く、「一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、(どうして)一城に鎮護の神のなかろうか」
そうして造営された社殿が稲荷神社の由来だそうです。
城代として新たに赴任した穴山梅雪信君の構想意欲が感じられます。

梅雪の構想とは裏腹に徐々に傾きかけていく武田氏の領国経営。
勢いを増す織田・徳川の勢力、やがて敵対勢力として相対する小田原北条氏・・。
武田一族である彼が選んだ道は考え抜いた上での苦渋の選択であったことでしょう。


Ⓢは江尻小学校の「本丸門」。
Ⓖには「小芝城」城址碑があり、駐車場入り口脇には江尻城説明版があります。
小学校への無断立ち入りは厳禁、撮影希望等、許可をいただきましょう。

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駿河 泉頭城 🏯柿田川湧水群に癒される城郭

駿河 泉頭城 (静岡県駿東郡清水町伏見泉頭・柿田川公園)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑧】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・8回目です。
今回は城めぐり、というよりは名水めぐり、といった表現のほうがお似合いです。
静岡県清水町にある自然公園、柿田川湧水公園を散策してみました。

公園内には透明度の高い神秘的な水が湧き溢れて、とても美しいです。
また、富士山周辺に降った雨雪が、溶岩の中を通り、地上に湧き出る地下水が柿田川の源です。
今回の城めぐり、シメの泉頭城はそんな癒しスポットの中にあります。

izumikasiraj (3)湧水第1展望台から見る柿田川の川底。

川底から湧き出る水に、砂が水中でさらさらと絶えず動いています。
まるで生き物のよう見える様子は見ていて飽きることはありません。(上記写真中央部)
城跡に来た、という実感は全くない異世界に足を踏み込んだ感じがしました。

izumikasiraj (4)
自然が織りなす、力みなぎるパワースポットです。

izumikasiraj2 (1)宮崎アニメを思い浮かべますね。

izumikasiraj (5)
湧水第2展望台からの蒼い湧き水。

izumikasiraj2 (2)

・・それはそうと、城は?どうなったのでしょう・・。
綺麗な水面を見ていると、心も綺麗になっていく・・、
あたかもそんな気持ちに包まれてしまい・・。

城跡散策はすっかり後回しになってしまいました。(てへぺろ)

izumikasiraj (2)柿田川湧水公園内での唯一の城しるべとなる案内板。

ここに城があったなんて、誰も見向きもしていないのでは・・、
・・と思いきや、説明版を熟読している同じ年頃のオッサンを発見。
二人でカメラアングルにこだわり、場所交替しながら連写している姿はいと怪し・・。

泉頭城は、北条氏康が武田勢に備えるために築城されたといわれています。
後、大坂の陣を経て、江戸での政権を磐石にした徳川家康は、この地を隠居所と決定しました。
この城の要害性と交通要衝としての利点を重視したのもあります。

しかし、なんといってもこの美しい水と自然に囲まれた生活環境をとても気に入ったようです。
家康は縄張り検分のためにこの地を訪問する予定でしたが翌年、急遽中止となります。
結局、隠居城は駿府城(静岡市)へと変更されました。

izumikasiraj (1)柿田川公園内にはにいくつか遺構が残されています。

柿田川名所湧水の道と駐車場は、泉頭城の本曲輪(本丸)に位置しています。
しかし、縄張り図と照らし合わして見学しても城郭としての部分はさほど感じられませんでした。
公園内ですので他の観光客の方々の手前、あまり変な所へは踏み込めませんでしたし・・。

やはり公園化によって城郭としての部分はかなり影を潜めてしまっているようでした。
今回は公園散策を愉しみ、明日のマラソン大会に向けて心の浄化をはかりましょう!
・・ということで城見学は控えめでスミマセン。

izumikasiraj2 (3)

それにしても家康公も人の子ですね。
残された余生をこの神聖な土地に求め、憧れたのでしょうね。
しかし、周囲は、天下は、それを許さなかったのかもしれません。


Ⓖは柿田川湧水公園の駐車場です。
国道からの入口は見落としがちですので手前の信号を過ぎたら徐行してサクッと左折、入場したいものです。
ここから歩いてゆっくり散策することになります。季節によっていろいろな自然との出会いがあることでしょう。
因みに若干の駐車場料金が発生します。

駿河 戸倉城 🏯狩野川に囲まれた境目の城

駿河 戸倉城 (静岡県駿東郡清水町徳倉和田・本城山公園)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑦】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・7回目です。
いくら好きな事とはいえ、7つ目の城ともなるとさすがに疲れがでてきますね・・。
どこをどうドライブしてきたのか、意識朦朧ながら到着したのが今回の戸倉城です。

tokuraj (1)西方面から見た戸倉城・本城山

・・とはいうものの、現地に到着するとワクワク気分が湧き上がってきます!
これは城めぐりでしか味わえない独特の非日常テンションですね。
「疲れた」などと言ってられません。自分にベホイミの呪文をかけて、いざ散策。

tokuraj (2)現地駐車場にある案内板より

天文年間(1532~54)以降、伊豆国と駿河国の境目の城として重要視されたようです。
狩野川をはさんで沼津・三枚橋城とは相対しており、両城間での抗争の地となりました。
永禄12年(1569)、今川氏滅亡後は北条氏尭が入城しました。

tokuraj (4)
主郭部には昭和の匂いがプンプンする展望台が。

現在城跡周辺は本城山公園となり麓から遊歩道が整備されています。
山城ですが、さほどの坂でもないので程なく頂上まで行けました。
登山道はいくつかあるようなのですが、今回は西口から登ってみました。

tokuraj (5)
内部は螺旋階段になっており、やはり懐かしい雰囲気です。

tokuraj (6)
展望台からはぐるっと周囲の景色が楽しめます。

tokuraj (7)お天気ならこの位置に富士山が拝めるようですが・・、今日は残念です!

tokuraj (8)
本丸周囲は絶壁になった所もある天然の要害です。

尾根伝いを散策して堀切等の遺構を確認したかったのですが・・。
周囲は雑草が茂って突入に躊躇してしまいました。危険回避モードです。
ま、マラソン前に無理はいかんですね。(無茶はしてますけどね)

tokuraj (3)説明版での遺構確認と城郭史をお勉強です。

豊臣秀吉の小田原征伐の際は、北条氏は戸倉城を放棄し韮山城へと退きました。
確かに大軍を前に機能できる城郭には感じられません。
そもそも元々は狩野川の河川交通を見張る機能を担っていたものと思われます。

境目の城の運命、緊張は突然訪れるもの、なのでしょう。


Ⓢは本城山公園の西口の駐車場です。東口、南口にも登山道があります。
Ⓖは戸倉城の本丸です。どこから登っても10分とかからずに到着できそうです。

駿河 三枚橋城(沼津城) 🏯石碑・石垣はあれど城の雰囲気が掴めず

駿河 三枚橋城(沼津城) (静岡県沼津市大手町)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑥】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・6回目です。
余りの矢継ぎ早な更新に自分自身もついていけない時もございます。
ですが、静岡の余韻、未だ脳裏に鮮明でして寸暇をみては記事にしていきたいと思います。

興国寺城をあとにして向かったのは沼津城
気が付けばお昼ご飯を忘れるほどお城巡りをしています。
ちょうどいいので沼津市で城跡散策しながらのお昼休憩とします。

numazuj (4)先ずは本丸があった沼津市中央公園の城址碑を見学。

沼津城には慶長以前の古城(三枚橋城)と、安永以後の新城(沼津城)があります。
三枚橋城は、天正7年(1579)、武田勝頼が小田原北条氏に対抗して築城したとされています。
(但し、築城当時は「沼津城」と呼ばれていた可能性もあるそう)
その後、安永6年(1777)に、後に老中となる水野忠友が同じ地に沼津城を築城します。

numazuj (3)150年以上のブランクを経て再び城郭として甦ります。

その後兵学校として使われ、廃校後、明治5年(1872)に城の建物を競売に付し解体されました。
明治22年(1889)には東海道線開通に伴い、城内を南北に縦貫道路が設けられます。
その後の2回の大火に遭遇、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはほぼできなくなった次第。

ちなみに城址碑の台座を囲む石は石垣に使われていたものだそうです。
他にも所々に僅かですが復元石垣の一部がみられる程度。
市街地でその断片を尋ね歩くという、ちょっと変わった城めぐりになりました。

numazuj (1)
狩野川堤防近くで発見した組み直しされた石垣。

numazuj (5)
アゴラ沼津前の石垣。・・う~む・・、微妙・・。

numazuj (6)
もう少しリアルに復元していただけないものかと・・。

numazuj (8)沼津リバーサイドホテル前の石垣。・・もはやエクステリア・・。

numazuj (9)
おおっ!外堀なのに立派な石碑が。

numazuj (10)
道路側に向かう石碑もありました。

このようにちょっと歩いただけであちこちに沼津城の関連石垣も見学できます。
しかし、これらの点同士をつないでもかつての城郭のイメージを想像することは困難。
あまり実感の湧かないまま、近くの食堂にてランチにありつきます。

numazuj (2)
外堀として利用されたであろう春めく狩野川。

今や美しい市街地として整備がすすんだ三枚橋・沼津城。
まだまだ見落としている面影もあるかもしれません。
やはり石碑の存在は大きいな、と思った次第であります。

numazuj (7)石碑のアップでお別れです。


Ⓖは沼津城の石碑がある本丸周辺の中央公園です。

駿河 興国寺城 🏯早雲旗挙げの城

駿河 興国寺城 (静岡県沼津市根古屋赤池・篠山)<国指定史跡 >【続日本百名城】
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑤】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・5回目です。
今回は長年の憧れだった北条早雲旗挙げの城、興国寺城への念願の訪問です。
ブロ友のしんこうさんが先だって興国寺城を見学されていましたので想いは募るばかり。

『しんこうさんの趣味のブログ』も是非ご覧になって頂ければと思います。
しんこうさんの記事は感性が豊かで、とても旅情に溢れた内容です。
お城はもちろん、城をとりまく街の風景や風物、城下の雰囲気も伝わってきます。
自分がブログを立ち上げるにあたって、今でもモデル構成を参考にさせていただいてます。

koukokujij (1)南向きに展開する興国寺城本丸の様子。

koukokujij (3)

興国寺城の構造は本丸より南に二ノ丸、三の丸と続く連郭式城郭です。
さらに本丸北には北曲輪、その東側には清水曲輪が配置されています。
当時の絵図と見比べると本丸以外はほぼ削られ、或いは埋められ旧状は損なわれている様です。

koukokujij (2)
主な城主としての天野康景(左)北条早雲(右)の石碑。

北条早雲(当時は伊勢宗瑞)は、妹婿・今川義忠が文明8年(1476)に戦死した後、
今川氏親の家督相続争いをまとめた功にて興国寺城主となりました。
早雲は後に伊豆国に韮山城を築いて居城を移しました。

その後、今川義元によって、興国寺城は本格的な城郭へと改修されます。
今川義元織田信長に討たれると武田氏と北条氏が駿河国に侵攻し興国寺城を落とします。
元亀2年(1571)、武田氏と北条氏は和議を結び、武田氏の穴山梅雪の家臣が城主となります。

koukokujij (4)
今川・北条・武田・徳川の間でめまぐるしく城主が変わっていきます。

武田氏が織田氏に滅ぼされると徳川家康の所領となります。
牧野康成、松平清宗、そして豊臣家での中村一氏の臣・河毛重次と変わります。
関ヶ原合戦後、天野康景が藩主となりましたが・・。

康景は百姓を殺害した家臣の引渡しを拒み、その裁定に不満を募らせて出奔しました。
康景は家康の三河時代からの譜代の忠臣で、本多重次、高力清長と共に三河三奉行と称されます。
「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」と評価されてます。
(清長は寛大、重次は剛毅、康景は慎重)

「直きをまげて曲れるに随はん事、素懐にあらず」
(正しきを曲げて間違った事に従うのは、自分の常の心掛けと異なる)
この事件には色々ないきさつがありますが、康景の信念だけは偽りない真実なのでしょう。

koukokujij (7)本丸の三方(西・北・東)を取り囲む高土塁にあがります。

koukokujij (6) koukokujij (11)
伝・天守台から稜線が如く延びる高土塁。

「土塁」というより山尾根の稜線をそのまま削り残したようです。
登り上がるのにも一苦労、これを「土塁」と言い片づけていいものでしょうか?
自分には巨大な「山塁」として映りました。天然の侵食谷を利用したものでしょう。

koukokujij (9)土塁の中央に据えられた本丸の伝・天守台。

koukokujij (5)伝・天守台には南面に存在感ある石垣が組まれています。

koukokujij (8)
伝・天守内部には礎石群も確認できます。

koukokuhori.jpg
伝・天守台から見下ろす背後の大堀切。

北側直下の背後は大空堀で遮断されています。
この伝・天守台は大空堀に対して張り出した形になり、堀底に対して横矢掛けが効いています。
かなりの土木普請量が感じられる見所の一つでしょう。

・・余りの開放感に少し遊んでみたくなりました。

koukokujij (10)
ちょっとやってみたかったので・・。

koukokujij (13)
駆け上がったり・・。

koukokujij (12)
飛び跳ねたり、と羞恥心無きセルフショットがエスカレートしていきます(;^ω^)

いい大人がバカげたなマネをしてゴメンナサイ。
夢にまでみた興国寺城での土塁上トレランやるのが念願でして・・。
但し、遺構を痛めることだけはしていませんので片眼をつむって頂ければ幸いです。

・・さて、それでは堀底に行ってみたいと思います。

koukokujij (14)伝・天守台を弧状に取り囲む様に掘り込まれた素晴らしい大堀切。

koukokujij (15)
堀底にある3つの穴は・・?、・・何でしょう、不思議です。

koukokujij (16)
ローム地層を切通した深い~い堀底でした。

koukokujij (17)最後は石碑でお別れです。

以上、超特急でしたが、城内をあちこちを走り回ってみました。
走り回った割には肝心なところをかなり見落としているかもしれません。
でも憧れていた城で、マラソン大会前日のいい調整ジョグもできました。

このはしゃぎざま、城好きの皆さんならおわかりいただけますよね??


Ⓢの三の丸跡には広い駐車場が用意されています。
Ⓖは本丸の伝・天守台付近です。
城内はむやみに走ったりせず、ゆっくり散策してみましょう。(お前な)

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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