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小牧長久手の戦い 仏ヶ根の戦い古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その⑥ 仏ヶ根の戦い古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

・・さて・・、いよいよ長久手合戦もこの回に差し掛かりました。
夏の自由研究もすっかり秋になってしまいましたが・・。
でも今日はツクツクボウシの鳴き声を聞きました!(気のせいかも)

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長久手古戦場公園に向かいます。

交差点にある立体的な合戦図屏風のようなオブジェ?は見応えあり!
ただし、ここで写真を撮っていると信号待ちの車から丸見え。
あらゆる視線を跳ね返し、大手を振って公園へと入っていくのです。

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古戦場公園の入口です。

htokegane (1)まさに激戦が繰り広げられた戦場中心地に立つ石碑です。

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車でのお越しは郷土資料室のある入口が便利です。(駐車料金・入場料無料)

古戦場めぐりはここを起点にすると便利だと思います。
岩作方面の史跡(色金山等)はやや距離があるので場所移動したほうがいいでしょう。
檜ヶ根や御旗山は・・ここから頑張って歩いてみましょう!

天正12年(1548)4月9日 午前7時

岩崎城を占領した池田恒興・森長可に三好軍敗走・徳川勢出現の報が伝わります。
苦境を援護せんと両将は岩崎城から北に引き返します。
そのころ、家康は富士ヶ根より南下、前山に陣を構えていました。

前山は羽柴軍の退路にあたり、かつ高台の有利な地形です。
東の仏ヶ根には井伊直政勢と織田信雄勢らが展開。
周辺の有利な地形を織田徳川軍で先に押さえた布陣です。

古戦場公園内には主戦場が「縮景」という手法で表現してあります。

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なんとなくイメージが伝わるフィールドの様子。

一方、引き返して家康勢に対陣した恒興・長可勢。
右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)勢と次男・池田輝政勢。
左翼に森勢、後方に恒興勢が布陣します。

すでに友軍である三好・堀隊は戦場を離脱。
有利な地形は徳川軍に先取りされていました。
それでも池田・森隊は家康との決戦を決意するのです。

天正12年(1548)4月9日 午前10時

戦端が開かれ両軍が激突。戦況は一進一退の攻防が続きます。
そんな中、森長可は家康本陣の前山に向かって正面攻撃を敢行します。
鬼武蔵、一時は徳川勢の前線を押し崩しながらの猛攻でした。

・・が。その猛突の最中。
一発の銃弾が長可の眉間に命中、
狙撃されて絶命しました。享年27歳でした。

武蔵塚 《国指定史跡》

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森長可の戦死地は武蔵塚と呼ばれます。

htokegane (13)戦に明け暮れた武人・長可の最期は彼らしい大音声の突撃最中でした。

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長可らが駆け上がった前山戦場付近。

徳川方の井伊勢との攻防戦を繰り広げていた池田勢。
結束力に不安のある新参美濃衆をよく取りまとめ、応戦していました。
恒興の老練な采配は若き将・井伊直政を押し退かせるほどでした。

しかし長可が討たれ、池田勢に向かって敗走する森勢に雪崩れ込まれます。
事態は一変、これをもって池田勢も大混乱に陥りました。
恒興は自勢の立て直しを図ろうとしますが、敗走兵は続出、戦闘不能となります。

勝入塚 《国指定史跡》

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池田恒興の戦死の地と伝わる勝入塚です。

htokegane (3)信長とは乳兄弟の恒興、信長と同じく享年49歳でした。

一説に恒興は姉川の戦いでの古傷が原因で乗馬が困難だったようです。
自軍が崩れる中、旗本50余騎と戦場に踏みとどまり最期を迎えます。
徳川方の永井直勝の槍を受けて見事に散りました。

庄九郎塚 《国指定史跡》

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恒興の長男・庄九郎元助の戦死と伝わる庄九郎塚です。

htokegane (5)父を案じて駆けつけた庄九郎も討たれました。享年26歳と伝わります。

激戦の中、流れ弾による手傷を負っていた元助は後方に回って指揮していました。
父の本陣が崩れゆくのを確認すると、これを助けんと駆けつけようとします。
しかし、その途中、徳川方の安藤直次に討ち取られました。

恒興の次男・池田輝政も父・兄の安否を案じながら戦っていました。
家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱しました。
そして池田・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わりました。

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仏ヶ根戦場付近。窪地と丘がおりなす起伏ある戦場跡が体感できます。

実はこの日秀吉は陽動として小牧山へ威力攻撃をしかけていました。
酒井忠次・石川数正ら三河衆の反撃を受け兵を引きました。
まさか家康と信雄が長久手まで押し出していたとは知る由もありませんでした。

午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は自ら救援に向かいます。
戦場近くの竜泉寺城に向けて急行しました。
しかし、すでに織田・徳川勢は小幡城に撤収していたあとでした。

秀吉は家康、小幡城にあり」との報を受け翌朝の決戦を決めます。
「龍泉寺城の一夜堀」とはこの時の突貫普請の跡だと伝わります。・・が、またしても・・。
家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山に帰還、秀吉も空しく楽田に撤退しました。


レ点は古戦場公園を示します。
まず資料室(館)で文化財マップを受け取り時間や体力にあわせて見学ルートを確認すると良いと思います。
周辺には古戦場の他にも様々な史跡もあります。
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小牧長久手の戦い 檜ヶ根の戦い古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その⑤ 檜ヶ根の戦い古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

日中はまだまだ暑いですが、朝夕はずいぶん涼しくなってきましたね。
夕方の5時半くらいから40分程度のジョギングをしています。(相変わらずマイペースに)
出発時は夕暮れですがに帰宅する頃はもうすっかり夕闇です。

そしてかすかに香るキンモクセイ(クンクン)に・・秋の到来を感じます。

「夏の自由研究!」と豪語していた小牧長久手古戦場めぐりもすっかりおざなりに。
なかなか予定通りに行かないのが人生です(言い訳まみれの我が人生)。
そしてこの長久手付近でも予定通りに運ばない事態が発生していました。

今回は白山林の戦に次ぐ檜ヶ根の戦の古戦場めぐりをしてきました。

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現在は長久手市中央図書館と公園になっている桧ヶ根公園。

白山林一帯よりどうにか後退できた三好秀次
軍監・堀秀政は、秀次勢の苦境を知り直ちに北に引き返します。
徳川軍は北に敗走する羽柴軍を無視して、南下を開始しました。

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公園内には堀久太郎本陣跡地があります。

秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根まで押し寄せます。
堀勢は、秀次勢の敗残兵を組み込み、檜ヶ根の丘陵上に陣を構えました。
ここで静かに迫り来る徳川軍を待ち構えます。

hinoki (5)秀政の布陣場所は徳川軍による追撃・逆包囲を妨げる絶好の地でした。

徳川軍が尾根と尾根の間に差し掛かったまさにその時でした。
地の利を得た堀秀政は高ヶ根と檜ヶ根から徳川軍に十字砲火を浴びせます。
ここで大須賀隊らは撃退され、続く榊原隊も敗走せざるを得ませんでした。

hinoki (6)名人・久太郎の冴え渡る采配が下されました。

至近距離からの鉄砲つるべ打ちと弓矢による中距離同時攻撃。
間隙、一同に怯んだ徳川勢に槍隊・抜刀隊による総攻撃を命じます。
この攻撃で徳川軍は多数の死者を出し、大打撃を受けました。

軍監(戦目付)として「為すべきことを為す」。
一矢を報いる、というよりも徳川軍に動揺を与えて作戦阻止に追い込む事、
そして追撃を加えつつ自軍の退路を確保するのが狙いだったのでしょう。

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檜が根から見渡す戦場跡。右方向に御旗山を確認できます。

しかし、秀政はその後ろに現われた家康本隊を富士ヶ根・御旗山に確認するのです。

勝ちに乗じて家康に勝負を挑むのか・・。
池田・森隊と合流して決戦に備えるのか ・・。
自軍の損害状況を解析すれば、それとも・・。

この刹那、名人は迷人、あらゆる選択から即座に決断せねばならね状況にありました。

現在公園は広々として家族連れやスポーツの運動場として賑わっていました。
かつての古戦場の雰囲気は微塵も感じられない憩いの場となっています。
こちらでは秀政のつとめて冷静でかつ果断な采配振りを偲ぶことができそうです。


桧ヶ根公園一帯が戦場跡で、園内には堀秀政本陣跡石碑・説明版が立ちます。

小牧長久手の戦い 白山林の戦い古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その④ 白山林の戦い古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

8月末以来の大雨により全国各地で被害が出ております。
特に九州・西日本を中心に各地で多くの豪雨災害報道には心が傷みます。
被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。

また今後の降雨や土砂災害による被害の拡大も懸念されます。
皆様におかれましても今後十分にご注意いただきたいと思います。
山城めぐりの方々も現地はもとより移動経路にもご油断なき計画を立てましょう。

さて今回は小牧長久手における羽柴軍と織田徳川軍との遭遇戦、白山林の戦いです。

天正12年4月9日・未明~早朝
岩崎城で攻城戦が行われているころ、羽柴秀次勢は白山林で休息していました。
(在の名古屋市守山区から尾張旭市南・長久手町北あたり一帯になります)
先発隊の池田隊はほぼ同時刻に岩崎城に攻め寄せていました。

秀次隊の目標は日の出と同時に東方面からの小幡城総攻撃だったと思われます。
ここでは未明の内に戦い前の朝兵糧をとらせていました。
三好隊の意識はほぼ小幡城方面に向けられ、進軍の合図を待つばかりでした。

この砌、背後に徳川軍が迫っている、とは誰も予想だにせず・・。

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白山林南側に位置する本地ヶ原神社は白山林の戦いを伝えています。

社地には「兜神社」が拝殿脇に祀られています。
白山林の戦いで討ち死にした武将や侍、戦いにまきこまれた村人の慰霊を祀ってあります。
当時の白山林はこの地域一帯の広大な山林だったようです。

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鳥居の前の道路沿いに案内板が設置してあります。

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白山林の北、秀次隊から見て林の反対側から移動してきた徳川軍。
秀次隊の北東に回り込み真後ろから奇襲しました。
思ってもいない方面からの奇襲で秀次軍はたちまち大混乱に陥ります。

後方から家康軍の水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢が、
側面からは榊原康政勢による挟撃を受けるのです。
なんとか態勢を立て直そうする秀次でしたがすでに軍は崩壊状態に。

秀次は踏みとどまるどころか、敗走する将兵とも切り離されて右往左往する状況。
自身の馬を失い、供回りの馬で堀秀政の陣に逃げ込みます。
それでも抵抗を試みながらの退却戦を演じ、限界まで踏ん張ったのでしょう。

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長久手町の木下勘解由塚はその時の状況を伝える史跡です。

徒歩にてこの地まで逃げてきた秀次はここで木下勘解由利匡に会います。
利匡は自分の馬を秀次に与えて落とし、自らは留まり敵勢と奮戦して討ち死にします。
兄の木下助左衛門祐久も利匡と共にここで戦死します。

ここでは多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にしました。

hasusannhayasi (2)現在でもたくさんの献花・お供えが手向けられています、合掌。

・・またこんな逸話もございます。

秀次が木下勘解由利匡に助けられる前、家臣の可児才蔵に馬を貸すように頼みました。
才蔵は「戦場での馬は武士にとっては雨降りの傘。お貸しすることはできない」と断ります。
後、才蔵は秀吉から叱責され浪人の身となりましたが・・。

秀次は決して油断していたわけではありません。
実戦経験の不足が彼の指揮判断能力を鈍らせたのだ、と解釈したいです。
一方の徳川軍は皆々歴戦の旗本精鋭部隊、敵うはずがないのです。

軍監の堀秀政は池田・森隊と三好隊との中間点にて遊撃態勢にありました。
事に気付いて檜ヶ根に北上し、秀次と一部の敗残兵を収容します。
秀政はここで陣を立て直し、冷静に状況を判断、次の事態に備えます。

次回は名人・久太郎の采配と決断、檜ヶ根の戦いと関連史跡へと続きます。


白山林の戦いの案内板がある本地ヶ原神社を示します。


木下勘解由塚を示します。

小牧長久手の戦い 両軍、長久手方面への移動

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その③ 両軍の長久手方面へ進軍編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

前回の古戦場めぐりでは両軍の城砦構築地帯をめぐりました。
この合戦場面の光景を時系列で追っていく、という今回のミッション。
夏休みの宿題を追い込まれないとやれなかったあの頃を思い出します(汗)。

・・結構焦っています・・(-_-;)。頼む!、夏よ逃げないでくれ~♪。

両軍お互いに城砦塁を構築し、それ故に身動きがとれなくなった状態に陥ります。
この現状を打破しようとする動きが羽柴軍の中で発案されていました。
それが別動隊による三河侵攻作戦です。

羽柴軍の三河方面別動隊編成

天正12年4月4日
池田恒興は秀吉の本陣を訪れて三河方面への後方攪乱を献策します。
兵を三河方面に出せば織田徳川は小牧山城だけにしがみつくことができなくなるであろう・・と。
しかし秀吉は即答を避け、許可を渋ったという話もよく聞く話ですね。

天正12年4月5日
翌日、恒興は秀吉のもとを再度訪れ、舅・森長可とともに羽黒の雪辱を果たしたいと訴えます。
秀吉はついにこれを許可し、池田・森らを主とした三河西部へ向けた軍勢の編成を決断します。
この点では秀吉自身も同じ考えを抱き、池田・森らの打開的熱意を試したのでしょうか?

最終的には秀吉自身による発案を池田・森らの隊が実行するという形になります。

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三河別動隊、敵から直視されない楽田城裏門から出発。
(この石碑の存在価値は大きいですね)

三河方面別動隊の長久手方面侵攻

天正12年4月6日・夜半(・・お、城の日か・・)
三河方面別動隊は三河中入り隊として3つの隊に分かれ、楽田城裏門より出発します。
僅かな日数での軍事決定に情報収集や準備調達は非常に拙速したものだったでしょう。
各隊の主な編組は以下の通りに構成されました。

第一隊:池田恒興(実質的総大将) - 兵6,000人
第二隊:森長可 - 兵3,000人
第三隊:堀秀政(軍監) - 兵3,000人
第四隊:三好信吉(秀次)(形式上総大将)- 兵8,000人

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楽田城から物狂坂(ものぐるいざか)を越して池之内・上末方面へ行軍。
(大県神社参道途中から小牧池之内へ抜ける峠道)

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先導役を請け負ったのが主に上末城の落合氏ら。

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別動隊の集結・編成が主に行われた柏井周辺の吉田城。

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庄内川手前にて駐留所を提供した上条城・吉田城らの諸氏。

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三河方面への渡河案内には大留城の村瀬氏らが相談に乗ります。

天正12年4月7日
羽柴勢先行隊は吉田城・上条城の周辺に到着します。
しかし池田・森隊はここで2日間もこの地に逗留します。
これは一体どういうことでしょうか?、・・例えば。

狭い夜道を2万5千人に近い兵が一通行軍するとどうなるでしょう?。
2列縦列だったとしても、その隊列だけで行軍距離は数十kmになるそうです。
ここで2泊もしている羽柴軍はおそらく後続隊の集結を待ってのことでしょうか。

マラソンスタートで最後尾のランナーがずっと遅れてスタート門を過ぎる感じです。
しかし、このような遅々とした行動は著しく秘匿性を欠いてしまったようです。
隠密行動であったはずの羽柴軍の動きは付近の住民によって家康方に通報されます。

・・当たり前ですよね。

羽柴軍の前進再会と織田徳川軍の行動開始

天正12年4月8日・午後~深夜
羽柴軍は3つのルートに分かれて渡河前進を再開しました。
3分割されたことでそれまでの移動速度は格段に速まりました。
池田・森隊は長久手方面へ、三好・堀隊は白山林方面へ展開します。

🏳羽柴軍の行軍と庄内川の渡河ルート🏳 (リンクできます)

三河方面先導役・落合氏:上末城⇒篠木・柏井方面へ案内

池田・森隊:大留城周辺⇒大日の渡し
堀隊:上条城周辺⇒野田の渡し
三好隊:吉田城周辺松河戸の渡し⇒龍泉寺城城下
※吉田城の記事、更新しました!

nodawatasi.jpg
羽柴軍軍監・堀久太郎秀政らが渡河したと伝わる庄内川・野田の渡し。
(現在の春日井市熊野町~名古屋市守山区吉根の吉根橋南あたり)

🏴織田徳川軍の小幡入城と羽柴軍追尾🏴 (リンクできます)

小牧山城⇒勝川の渡し⇒小幡城

徳川先行隊:丹羽氏次・水野忠重・榊原康政・大須賀康高ら-兵4,500人
織田徳川本隊:徳川家康・井伊直政らと信雄の主力-兵9,300人

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家康らが急行した小牧山~小幡城間の勝川の渡し。

「この渡しはなんという渡し名か?」

「かちがわにござります」
家康軍の道案内をした庄屋・長谷川甚助が家康の問いに答えます。
家康は「勝ち川」とは縁起がいい、と言って兜の緒を締め直したという逸話があります。

歩いて渡れる事から「徒歩(かち)川」と呼んでるだけなんですが・・、
とはさすがに長谷川さんも言えなかったでしょう・・。
それにしても家康公、合戦前にわざとらしい験担ぎをするものですね。
(関ケ原では「勝山」もありまっせ)

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駆けつけ会議が行われた小幡城。

夕方に小牧山を出発し、夜半小幡城に着陣。到着後、直ちに小幡城で軍議を行います。
軍議では兵力を二分して各個に敵を撃破することに決しました。
家康は自身の旗本と直属部隊だけを率いて戦場に急行しました。

天正12年4月9日・未明~早朝
徳川先行隊は敵将・三好信吉勢を背後から攻撃せんと小幡城を出発します。
次々ともたらされる羽柴軍の状況を分析しいよいよ徳川本隊も動きます。
羽柴方最先頭の池田隊はこのとき岩崎城外にさしかかろうとしていました。

いよいよ先端の火蓋は切られようとしています。

各城砦・庄内川渡し場は記事内のリンク先を参考にしてください。

次回は白山林の戦いへと続けたいと思います。

小牧・犬山周辺の両軍による構築砦を散策

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その② 両軍の砦構築地帯めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

前回の記事では森長可が家康軍に惨敗した羽黒八幡林古戦場を訪ねました。
この合戦場面の光景を時系列で追っていく、という今回のミッション。
自ら課した宿題とはいえ、本当にこの夏の内に終わるのでしょうか?

・・とても不安です(-_-;)。しかし掲げた以上やりきるしかないですね。

羽柴秀吉の楽田到着

天正12年3月27日~29日
秀吉は3月21日におよそ3万の兵を率いて大坂城を出発します。
3月25日に岐阜に進み、3月27日日に犬山に着陣、4月には楽田城に入ります。
すでに池田・森軍の敗報は秀吉の耳に届いていました。

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秀吉到着まで堀久太郎秀政が預かってた楽田城。

両軍による城砦の構築・修復

家康が小牧山城に入り、秀吉の楽田到着までの間、両軍による砦の修築が活発化します。
既に廃城になった城館や、小高い丘や古墳などが自然その対象に選ばれました。
双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態となりました。

この回では両軍によって急きょ構築された砦をまとめて紹介してみます。
城砦の配置は細かく見れば北尾張一帯、非常に広範囲にわたるものです。
そのため先ずは犬山城~小牧山城周辺の城砦に絞って以下にあげてみます。

🏳主な羽柴軍城砦🏳(いずれもリンクできます)

楽田城
岩崎山砦  
久保山砦  
小松寺山砦 
田中砦   
二重堀砦  
小口砦

羽柴方の砦構築にあたって注目したいのはその守将の顔ぶれです。

稲葉一鉄父子、蜂屋頼隆、金森長近、堀秀政、長谷川秀一、日根野弘就兄弟ら。
みな名だたる美濃衆の有力者ばかり。ここに恒興と長可が加わるとどうなるか?
森長可によって制された東美濃衆も一堂に与同することになります。(せざる負えない)

一早く秀吉方に旗幟を示した美濃衆の背景には恒興・長可の強力な影響力がありました。
そしてかつての西美濃三人衆の筆頭・稲葉一鉄の参戦、これも多大な影響があります。
秀吉が大阪から美濃経由ですんなりと尾張に移動できた背景がここにあるといえます。
   
🏴主な織田・徳川軍城砦🏴(こちらもリンクできます)

小牧山城
蟹清水砦
北外山砦
宇田津砦
田楽砦

北伊勢の状況下動きがとれない織田信雄に代わって迅速に対応した家康軍。
各砦の守将には家康の旗本衆や信雄付の在地領主らとあたりました。
こちらも出来得る限りの最大限の突貫作業で対抗します。

両軍は小牧付近にて対陣状態になりました。
お互いが相手の出方をうかがう形となり、いずれも至近距離での睨み合いです。
史上稀に見る一触即発の緊張状態となりました。

今まさに両軍合わせて10万もの軍が横並びに居向かい合っています。

その打開策として秀吉軍はついに行動を起こします。
次回は長久手方面に向かう両軍の足取りを追っていきたいと思います。
・・この「夏の自由研究」、結構大変な作業になってきました・・(汗)。

でも、なんか楽しい!
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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