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河内 飯盛城 🏯三好長慶公の銅像とその居城へ

河内 飯盛城 (大阪府四條畷市南野・大東市北条・飯盛山)
<通りすがりの河内の城めぐり・その③>
三好長慶の旧蹟・飯盛城を訪ねて-

ブログの定期的な更新ってなかなかできないものです(^_^;)。
ブランクが空けば空くほど頭脳と筆(指)が重たくなっていき億劫に・・。
・・といいますか、コロナと長雨で城に行けない日々が続いております。

はっきり言ってこれってかなり憂鬱な生活です。
自分を見失いそうです。(大袈裟ですが)
皆さんはどのようにお過ごしなんでしょうか??

・・さて、

先日NHKの番組「歴史悲話ヒストリア」で三好長慶公が取り上げられました。
なかなか興味深い人物と取り上げるな・・という思いで楽しみに拝見。
「信長より20年早かった男 最初の「天下人」三好長慶」というテーマでした。

ご覧になった方も沢山見えると思います。
ここでいう「天下」とはもちろん「日本全国」ではなく「畿内一円」という意味。
京都や幕府等が影響を及ぼす地帯に一時的にせよ政権を打ち立てました。

折しも丁度この初夏に長慶公の居城であった飯盛城に行ってきました。
「城址に立てば何かが感じ取れる」かな?
三好政権や当時の畿内情勢は不勉強で詳しくありませんけどお許しを・・。

kwtimyj (1)先ずは三好長慶公にご挨拶といきましょう( ̄^ ̄)ゞ。

長慶公の銅像は大東市の市役所の正面玄関脇にお見えです。
手にされているのは馬の鞭でしょうか。
刀や槍、軍配といった武将像が多い中、ちょっと個性的です。

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車で大東市青少年野外研修センターまで行けます。駐車料金は200円でした。

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続日本100名城に選ばれたとあって盛り上がっていました。

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駐車場受付にて各パンフレットや縄張り図面、名城スタンプなどいただけます。

飯盛城はとても範囲が広い城です。
縄張り図面には見所や説明文が詳しく示されていて重宝しました。
特に見落としがちな石垣箇所も網羅されていてテンション上がりました。

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桜池からスタートして散策開始です。

高い山上にこれだけ綺麗なため池があることに驚きました。
この他にも大東市内には沢山のため池が存在します。
古くから農業用として恵みを育んでくれる貴重な生態保全資源ともいえましょう。

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立ち去りがたいほど美しい池でした。でも城目当てだから行かないと・・。

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尾根沿いに歩くと南虎口が見えてきました。

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両脇は石垣で固められていたようで堅固そう。

kwtimj (26)
南郭・千畳敷曲輪へと登って行きます。

現在ピーク部にはFM送信塔が立ちますが、城中で最も広い曲輪だと思われます。
恐らくここに居館等の生活施設が設けられていたようです。
宣教師の書簡にある「城内にあったとされる教会」もここにあったのでしょうか。

kwtimj (35)主郭南側のS字状土橋です。

主郭曲輪部と千畳敷曲輪部の間には堀切と土橋で遮断しています。
この土橋はS字型に湾曲させて直通できないような仕組みになっていますね。
またここから主郭部へは急勾配となり防御性がとても高く感じられます。

土橋は幅も狭く曲がっている上に両脇の堀底も深い・・、からの急勾配。
なんともアスレチックな綱渡りのような面白さがありました。
ご一緒になったご年配夫婦が息切らしながら登ってみえたのも印象的でした。

kwtimyj (3)
主郭の高櫓郭へ。ここには楠木正行公の銅像が立ちます。

四條畷の戦いで戦死した楠木正行。まだ22歳だったそうで。
その勇敢な顔立ちを近くで見たくとも台座が高すぎて見上げることしかできません。
ならば遠くから望遠でと思ったら木が茂ってて隠れてしまう・・。諦めも肝心。

kwtimyj (16)飯盛城の石碑はここにありました(^-^)/。

kwtimyj (23)展望台には三好長慶公と飯盛城、「天下人の城」との威容を誇ります。

kwtimj (14)こ、こんなに見えるもの(;゜0゜)?河内平野から京都まで丸見えです。

写真の景色は北の御体塚曲輪からの眺望ですが素晴しいです。
快晴の日には四国や淡路島まで見えるそうでまさに三好王国にふさわしい眺望。
そのパノラマは実に270度、遮るもののない世界が広がっていきます。

長慶が芥川山城からここ飯盛山城に居城を移した理由の一つがわかります。

・・さて、飯盛城の見所の一つは何と言っても部分的に多用された石垣でしょう。
城中の至る場所にしっかりと残っているので発見するのがとても楽しいです。
自分の印象に残った石垣をあげてみたいと思います。

積み方の手法も様々で興味深いものがあります。

kwtimyj (6)本格東側の石垣です。割石をキレイに並べていて新しめの印象です。

kwtimyj (7)
御体塚曲輪の入口付近の石垣です。

kwtimj (8)角を落とした丸石を多用して積み上げられています。
心もとない中もに絶妙なバランスを感じます。

kwtimj (18)こちらも御体塚曲輪の入口付近の石垣。たぶん・・、興奮しすぎて覚えが曖昧です。

kwtimj (20)
横から見るとほぼ垂直に横長に積み上げられています。

石垣自体は簡単な積み上げ方ですので高石垣は望めません。
4段~6、7段が限界なのでしょう。適度に野暮ったい感じがグッときます。
このあたりに近世石垣城郭への最終過程がみられて面白いです。

他にも随所に見られる石垣ですが、結構険しい場所にあったりもします。
東尾根側面の石垣も凄かったのですが現在立ち入り危険区域となっています。
よってお写真は掲載遠慮してきますね・・。

石垣は大坂平野のある西側ではない反対の東側に多くみられるのも注目です。

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御体塚曲輪へと続く尾根曲輪を歩いていきます。

一直線に続く踏みあとがなんとなく城跡に似つかわしくなくていい感じ(笑)。
この日は多くのハイカーの方もお会いしました。
いつも手軽に歩ける山、でもある飯盛山なのでしょう。

kwtimj (11)北側の要的な大堀切。岩盤ごと尾根を断ち切っている様子が圧巻です。

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北方尾根先端部からの眺望も素晴らしい。

こちらには木製のテーブルや丸太椅子などもあります。
麓の景色を楽しみながらお弁当を食べるのにうってつけ。
自分もここでコンビニおにぎりとお茶休憩をとりましたが気分最高でした。

kwtimyj (11)
こちらにも「飯盛山史蹟」の石碑があります。大正時代からのものです。

kwtimyj (18)
今ではなかなか見られなくなった昆虫との出逢いも。

ミドリカミキリ、美しいメタリックグリーンは宝石のよう。
後ろ足がなが~いのも特徴の一つ。
自分が近づいてもとってもリラックスしてました。

kwtimyj (24)
地元ファンは尊敬と親しみを込めて長慶を「ちょうけい」と有職読みで呼ぶとか。

永禄年間初期における長慶の勢力圏は広大でした。
摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨に及んでいました。
そこに河内と大和も領国化して10カ国に増大し更に周辺国にも影響を与えました。

その支配力に相応しい三好長慶公の城郭を噛み締めて歩いてきました。



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河内 若江城 🏯戦国河内、幾多の攻防と盛衰物語の舞台

河内 若江城 (大阪府東大阪市若江南町二丁目一帯)
<通りすがりの河内の城めぐり・その②>
三好義継の旧蹟・若江城を訪ねて-

通りすがりの河内の城めぐり第2回目です。
なんせ通りすがりですので内容の薄さは自信あり、です。
それでも記事にしてしまおう、という無理矢理感。

何がそうさせるのか、これはもう悪いクセとしか言えません・・。

さて今回は河内の若江城を通りすがってきました。
若江城も戦国末期には三好氏と縁深い領国経営の要となった城です。
畠山氏と守護代遊佐氏、からの三好長慶、義賢、康長、義継、三好三人衆・・。

そうそうたる歴代城主と関連人物の多さがその重要性を物語っています。
義就と政長による畠山氏の内訌は応仁の乱へと発展し、若江城も争奪の的となります。
若江城と高屋城、これに飯盛城を加えた3城抜きに戦国河内は語れないのです。

kwtwkej (4)若江小学校東側に立つ城址碑には立派な石碑があります。

若江城は現在の若江公民館分館を中心とする一帯に築かれていました。
現在は宅地化のため地表面の遺構は確認できません。
こうなると石碑や案内板などの表示は大変ありがたいものですね。

発掘調査によって三重の外堀や土塁、建物跡、井戸などが検出されました。
また瓦、土器、武器などの生活用品も多数出土したといいます。
勿論これは畠山・三好時代から信長の再整備による遺物も含まれてることでしょう。

kwtwkej (3)
『信長公記』には義継による「天主」存在も表現されていますが果たしてあったのかな?

kwtwkej (5)
道路を挟んだ公民館にも案内板と石碑が見えますよ。

kwtwkej (6)公民館前に案内板、県道南側にも石碑が建てられています。

若江城は川に挟まれたデルタ地帯にあり度々水害に見舞われました。
その度に川浚いや堤防の建造が繰り返し行われたそうです。
発掘調査からも水害によって城下町が押し流されたこともわかってきました。

kwtwkej (1)
老人遺構いの家の横にも石碑があります。

三好長慶の弟、十河一存の嫡男として生まれた義継。
父・実休を13歳で失い、早逝した長慶の嫡男・義興に代わって宗家に入ります。
一存の一人息子であるにも関わらずどうして宗家の養子に迎えられたのか?

どうも単に母の家の出所が関係してるようです。
将軍家と公家同士における対立関係が義継を当主へと押し上げたとみられます。
別段、器量を見込まれた訳ではなさそうです。・・かな?

kwtwkej (2)こちらはひっそりとした「若江城」の石碑。何かしっくり感じる・・。

永禄11年(1568)織田信長により若江城に三好義継、高屋城に畠山昭高が置かれました。
しかし天正元年(1573)三好義継織田信長の怒りをかい、佐久間信盛に攻められます。
追放された足利義昭を若江において庇護したため、というのがその理由です。

でもこれって実際は信長の当初からの計画だったのでしょう。
いずれかのタイミングで難を被る運命にあったと思われます。
若江城は落城し義継は自刃して果てました。

義継にせよ三好長治にせよ従来は「お飾り」から脱却できなかった暗愚なイメージです。
確かに歴史の中では脇役の脇役かもしれません。
しかし偉大な父と比べてしまうと「本当の評価」はできなくなってしまいます。

『信長公記』では義継の最後の戦いぶりを「比類なし」という評価しています。
かつて畿内を制した名門に恥じない戦い振りだったのでしょう。
これまでの凡愚な後継者と伝えられている一面も見直していきたいものです。


河内 高屋城 🏯通りすがりの高屋城めぐり

河内 高屋城 (大阪府羽曳野市古市・城山)
<通りすがりの河内の城めぐり・その①>
三好咲岩康長・畠山昭高の旧蹟を訪ねて-

コロナになっても「お城の趣味」は相変わらずです。
日課のジョギングも雨の止み間を狙って走っています。
ぶれない毎日をいつも通りに送れることは幸せなのでしょう。

しかし生活や仕事はやはり多少どころかだいぶ変化しました。

仕事はコロナの影響を少なからず、・・いえ悲しいほど受けております(ノ_<)。
子息達も学校が一時閉鎖になりオンライン講義になりました。
我が家で言えば長男・次男はパソコンがあれば講義を受けられるのです。

京都にいる長男も下宿先から落ち着くまで我が家に帰ってくることになりました。

長男:「(電話にて)お父さん、俺しばらくそっちに帰るわ」
自分:「そっか、そっか、迎えにいってやろうか?」
長男:「いいよ、高速バスで帰るから」
自分:「そんなこと言わずに迎えにくらいいくぜ!」
長男:「ホントにいいってば、・・あ、どっか行きたい城でもあるんだね?」
自分:「・・君も大人になったようだな」

・・という訳で奥方にも大義名分を得て「翼」となって関西方面へ。
目指すは三好一族の城めぐり、と相成りました。
今年最初の阿波の城めぐりに続く「三好氏」関連の城めぐりです。

まず最初に訪れたのは三好康長らのいた高屋城でした。

kwttkyj (9)
高屋城は安閑天皇陵を本丸とした平山城です。

付近は駐車する場所もなく交通量もかなりある所。
見るからに怪しい動きの岐阜ナンバー車。
県またぎ移動が解除されたといってもやはり視線は気になります。

高屋城は城山と呼ばれる台地の上に築かれていました。
地形や構造はなんとか雰囲気から感じとれるのですが・・。
天皇陵の周囲以外はかなり市街地化してしまいました。

kwttkyj (1)
高屋城の案内板は「城山姥不動明王」に設置されていました。

kwttkyj (2)
安閑天皇陵を本丸として南へ二ノ丸、三ノ丸と連なる広大な城域だったようです。

kwttkyj (3)応仁の乱終結後、畠山義就によって築かれたと言われています。

永禄3年(1560)には三好長慶が飯盛山城、弟の三好実休が高屋城に入りました。
この時点では三好氏の河内統治体制が確立した時期でもありました。
しかし、実休は2年後に和泉久米田の戦いで戦死してしまいます。

跡を継いだ長治はまだ幼少だったため、三好康長ら諸将が集団で統治します。
やがては三好三人衆方の城として機能するようになりました。
それも織田信長の上洛によって没落していきました。

その後、信長に北河内を与えられた畠山昭高が高屋城主となります。
しかし昭高は重臣の遊佐信教によって討たれてしまいます。
遊佐信教三好康長が共同で信長と対抗しましたが天正3年(1575)落城しました。

以上かなり簡略化した説明になります。

kwttkyj (4)ここっ、これはかなり難易度の高い城址碑収めです(゚△゚;ノ)。

石柵ギリギリに立っているので覗き込まないと見えません。
あと、広角レンズじゃないと恐らく収まりきらないでしょう。
明らかな挙動不審の末に収めた一枚です。(この達成感~( ̄▽ ̄);)

kwttkyj (5)
正面から覗くとこうなります。「址」の字がやはり欠ける、う~んダメダメ!

kwttkyj (6)
城山姥不動明王付近は二の丸の北部ということになります。

kwttkyj (8) kwttkyj (7)
安閑天皇陵付近の堀址が残っていて当時を偲べます。

遠い阿波の岩倉城から畿内のこんなところまで出張していた三好咲岩康長
膨れ上がった三好氏所領の重要拠点だった高屋城に要れ置かれました。
三好氏家中において最も存在力のあった一門衆の一人でした。

その中にあって台頭する信長・秀吉ともパイプを築き徐々に「三好離れ」していく姿。
咲岩公、静かな頭角を隠し持った人物ではなかったか、自分にはそう感じます。


プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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