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美濃 明智中切城 🏯「おしろやま」が伝える存在

美濃 明智中切城 (岐阜県恵那市明智町東方室屋・おしろやま)

今日、中世の城郭は様々な姿を今に伝えています。
使用された時期や勢力背景、立地条件、運用条件や築城目的の違い・・。
そして同じ縄張りは一つとして存在しない・・。

そんな千差万別、一つ一つが個性を持ったところが城址の魅力的な所です。
しかし城址でも現段階で最終的に「城」としては判断されず保留された城もあります。
いわゆる「城郭類似遺構」や「城館参考地」といったグループに入るものです。

もちろん本当は「城」かもしれないし、本当に「城」ではないのかもしれません。
調査した結果、識者の先生方が判断されることなのでとても苦慮する所だと思います。
今回はそんなグループに区分された城館にもスポットを当てたいと思います。

今回は岐阜県明智町に伝承として伝わる「中切のお城」と呼ばれる遺構です。

anakagiri (40)実は麓からはその主郭部が見ることができない奥地にあります。

写真中央のピーク部の尾根をさらに奥に入った頂部が遺構部です。
麓の集落からは山容がわからないのです。
しかし、かつてあった対面山間部の峠道からは見えた、らしいです。

このことは後ほど関係してくるので後述します。

anakagiri (1)
中切城へのアプローチは北の小杉集落側からのほうが簡単です。

「中切のお城」は地元では古くから伝わっています。
「お城」とか「オシロヤマ」と呼ばれているそうです。
かつての街道脇にぽつんと立つ石像が印象的でした。

anakagiri (4)
地形図を頼りに尾根を歩いていくと人工による土盛りが現れます。

自然地形の山中に突如として表れる土木量なのでやはり驚きます。
本来なら堀切があってもよさそうな部分ですがひいき目に見てもありません。
「城館」として扱われなかった理由のひとつかもしれません。

anakagiri (7)
主郭部周囲には腰曲輪が取り巻いています。

anakagiri (14)
一部曖昧な部分が見られますが、それでも段差は確認できる状態。

anakagiri (11)切岸の高さ、角度をとっても充分だといえます。

anakagiri (12)
腰曲輪の端部下も削り落とされ、4メートルほどの高低差がつけられています。

anakagiri (21)東の腰曲輪からみた本丸部に相当する段状部を見ます。

東腰曲輪部分は最も広い空間で東側の谷筋から峠方面を監視しています。
しかしながら堀切や虎口といった防衛施設は見当たらず曲輪のみで構成されています。
防衛施設というより狼煙伝達や中継地としての機能に特化した姿なのかもしれません。

anakagiri (22)
城域ははっきりしており、全周囲に切岸がかけられている。

現場に立って隅々まで歩いた感触では・・、ここは「城郭」だと思いました。
規模こそ小さいですが狼煙伝達施設として見るならむしろ出来過ぎな施設です。
城郭を示す文献の裏付けはありませんが、伝承はずっと語り継がれてきたのです。

そしてこの中切城の地点、なんの特長もない山中に見られがちですが、
地図をよ~く見てみますと、漆原城と明知城の最短距離の中間地点に位置しています。
漆原城から大馬渡峠を越え、ここを通過したものでしょう。

その存在理由は麓の集落を押さえることではなかったと思われます。

anakagiri (27)
本丸相当部の内部もよく削平されている状態。

こういった拠点間の交通網をしっかりと繋ぐことを重視した勢力といえば・・。
可能性の一つとしてやはり武田氏による土木事業部を挙げたいと思いますね。
なぜなら明知遠山氏の構築物なら記録として残ると思うからです。

nakagiriosr.jpg
中切のお城の実測図面スケッチです。

在地勢力でない他勢力によって築かれた・・。
しかも武田氏(と思われる勢力)が明知城を接収していた短い期間のみ・・。
それ故に城主などもわからず今日まで伝承だけが残っている・・。

anakagiri (30)
主郭部の片隅から顔を出している石が、何か語ってくれそうです。

以上はあくまでも自分の推理なのですがそれならそれで貴重な遺構だと思うんです。
「中切のお城」が城郭遺構であるということはほぼ間違いないと確信します。
武田氏独特の選地位置も今後の城郭研究の大きなメッセージになると思います。

また機会があったら周辺関連史跡も調べてみようかと思いました。

anakagiri (32)付近は珍しい「枝垂れ栗」が自生する区域でもあります。

岐阜県下でも数ヶ所にしか見られない貴重な植生地です。
現在はその保護が進められ、増殖などを行うべく予定だということです。
近くまで行かれたら覗いてみてみるのもいいと思います。

anakagiri (33)
大切にして保護に努めて頂きたいものです。

anakagiri (37)
さて・・もうそろそろ山城散策シーズンは虫よけグッズがないとヤバいです。
これは携帯用の蚊取り線香で山城歩きにはかなり威力を発揮するのですが、
そのまま帰りの車の車内で炊いてしまって大失敗・・。

いやはやこの匂い、しばらくとれそうにありません、トホホ・・。
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美濃 落合砦 🏯明智光秀出生地とも伝わります

美濃 落合砦 (岐阜県恵那市明智町落合・取手山)

小学校6年生の時だったと記憶しています。
「邪馬台国」は一体どこにあったのだろう??・・。
図書館で本を借りまくり研究?していた時期が懐かしく思い出されます。

小学生なりに大真面目に『魏志倭人伝』と西国地図とにらめっこ(笑)。
当時から九州説と畿内説の2大説が大半の意見でした。
でも少年久太郎クンは最終的に「ここだ!」と確信した所に辿り着きました。

なぜこんな出だしになってしまったかと言いますと・・。
ここが(ここも)明智光秀公の出生地と伝わっているからです。

今回の落合砦、別名が多羅砦、とか土岐明智城、とも呼ばれています。
明智光秀公の出身地は岐阜県内にて何ヶ所かあるのですが、
いずれも確証するには至っていません。

otitara (17)2つのピークで成り立つ落合砦。

otitara (1)
すぐ東裾の千畳敷公園の駐車場を利用します。

otitara (9)明智光秀公産湯の井戸が伝わっています。

otitara (10)
石組みのしっかりとした井戸ですこと。

otitara (11)
光秀出生の井戸は美濃エリアには数ヶ所も・・。

出生地を後押しするのに井戸は何故か取り沙汰されますね。
何故「産湯井戸」を口を揃えたかのように挙証するのでしょう?
何か神聖的なものを付与したい、という想いが感じられてなりません。

じゃ、光秀公の出生地、果たしてどこよ?と訊かれましてもそれはわかりません。
・・いえ、自分の中ではもちろん自論はあります。・・がここではちょっと・・。
邪馬台国の位置も光秀公の出生地もミステリーは説き調べ問い続けることが醍醐味かと。

なんだ・・。振っておいてまた逃げるのかよ・・(堪)。

otitara (2)
先ずは主郭部と思われる本丸へ。新緑が清々しい・・。

北側に恵比寿神社が祀られている広大な曲輪。
削平加減は手入れがされたとを差し引いてもかなりしっかりしています。
周囲に腰曲輪を従える本丸に相応しい規模です。

otitara (20)新しく城址説明碑が設置されました。佐伯哲也氏の縄張り図付きです。

天正元年(1573)には串原遠山氏の遠山経景が落合砦に入城したそうです。
明知城が武田氏に奪取されるまでは遠山氏の持ち城だったことが窺えます。
去る上村合戦の敗北以来の武田氏に備えての異動があったのかもしれません。

otitara (3)
木々の間から明智町の街並みと明知城・仲深山砦なども見えます。

otitara (7)
こちらも以前と比べると格段に見学しやすくなりました。

otitara (6)本丸北側に突き出した切岸ラインが切れ味鋭い。

otitara (8)
腰曲輪もよく残っていました。

otitara (12)
鞍部には土橋状の尾根を介して北出丸へと連絡します。

ちなみにこの連絡道は現在車道幅の公園内道路が敷かれ破壊されています。
地形的にはこの鞍部には堀切があったと想定されます。
もちろん現在でははっきりとした痕跡は認められません。

otitara (15)
北出丸の様子です。すっかり公園として整備されてます。

otitara (16)
切岸ラインはしっかり残っており、風通しも良い芝生公園。

otitara (13)
北出丸からの眺望はとても素晴らしい!

otitara (14)東方面には明知白鷹城と仲深山砦が居並んでいる様子がよくわかります。

そしてここ落合砦を含めて3つの城砦が存在することになります。
城同士の間隔は谷や川を隔てたわずか約400メートル。
およそ800メートル直線上内に3つの城が威容を並べているなんて・・。

城の密状態です。

otitaraz.jpg整備された落合砦を図面に描いてみました。

主郭部周辺部と出丸ともに内部が公園整備の為、山中に遊歩道が造られました。
また北出丸の西には送電線施設が設けられるなど一部改変された形跡もあります。
その影響でどこまでが遺構か不明な点も挙げられます。

本丸と北出丸間の西には光秀出生井戸があり、曲輪とされています。
が、改変甚だしく積極的には曲輪址とは言い難い状況です。
井戸が当時から実在した可能性はあったとして・・。

個人的には「光秀公云々」を抜きにしてこの砦の存在意味を見てみたいです。

堀切や畝竪堀を多用した明知城や仲深山砦といった近隣城砦と比べると・・。
落合砦はほぼ切岸と曲輪群のみで構成されています(一部に竪堀遺構あり)。
が、かといって機能した時期がそれらの城より遡る、という訳ではなさそうです。

軍事的緊張度と重要度の違いから遺構の有無は変わってくるからです。
これは現地踏査でのフィーリング感覚ですが・・。
特に仲深山砦の切岸ラインと曲輪の規格や連動性は似ている所があります。

恐らくですが同じ勢力下による同期の築城姿を今に残してるのでは、と推測します。
例外はありますが敵味方同士でこれだけの至近距離での構築は考えにくいのです。
となると明知城周辺を掌握した武田氏勢力下での改修後の姿との見方もできます。


美濃 鶴岡山砦 🏯織田方によって構築されたと伝わる明知城救援の砦

美濃 鶴岡山砦 (岐阜県恵那市明智町大泉・諏訪ヶ根)
<明知白鷹城をめぐる織田・武田間での攻防戦の趾・織田方編>

・・突然ですが、自分にはちょっとした夢があります。
キャンピングカーで寝泊りしながら全国の城々を東に西に訪れたいな、なんていう。
まぁ、「妄想」に近いあくまで「叶わぬ夢の話」なのですが。

でも今は地元・岐阜県の城々を中心にじっくりと回るのが愉しみです。
相棒・ジムニーで林道を駆け上がり訪れる人も少ない(いない)城で一日を過ごす。
充分すぎるくらいの贅沢なのかもしれません。

aketijinjiro (57)今日も気を付けて行ってきま~す!(待っててね~)

さて、明知白鷹城をめぐる織田・武田間での攻防戦の趾。
前回の武田方・杉野一夜城編に続いて今回は織田方編となります。
明知城救援のために織田方によって築かれたと伝わる鶴岡山砦を訪れました。

aketijinjiro (17)小泉集落からの田んぼ越しに眺める鶴岡山が美しいと思います。

鶴岡山は諏訪ヶ根山とも呼ばれています。
したがって別名で諏訪ヶ根砦、諏訪ヶ峯陣城、等と呼ばれることもあります。
丁度田植えの時期、コンバインと蛙の声があたりを包んでいました。

aketijinjiro (23)
今回は大泉集落から延びる、ふるさと林道野志・吉良見線を利用しました。

aketijinjiro (25)
林道頂上あたり、はためく幟が案内してくれます。

おそらく大河ドラマの『麒麟がくる』、光秀効果だと思われます。
以前来た時とは格段に整備されて案内板も設置されていました。
交通量はほぼゼロなので見通しのよい路肩に駐車していきます。

aketijinjiro (58)すわがね登山道マップを参考に周辺の見所もチェック。

自然と歴史が体感できる山、とあります。
満喫するには麓から登るのが正道かもしれません。
なだらかな山なのでのんびりトレッキングするのにもってこいな山かと。

aketijinjiro (27)散策道を上り詰めると砦の主郭部に到達します。

織田家の家紋入り幟がたくさんはためいていて壮観でした(バタバタ)。
本当に戦場の砦に来たような臨場感。
幟はまだ設置して間もない新しい印象をうけました。

aketijinjiro (41)適度な整備で全体的に見学しやすい様子です。

主郭曲輪内部は若干傾斜になっているもののほぼ平らです。
頂上の地形が元々ある程度の広がりをもっていたと考えられましょう。
この点は杉野一夜城と比較すると陣城としての広大さを感じます。

aketijinjiro (29)鶴岡山から明知城方面は切り開かれ視界が効きます。

これは嬉しい( ^)o(^ )!(杉野一夜城は眺望が得られませんでしたので)

砦の東端部に足を進めると明智町の街と城砦群がちゃんと見えます。
期待を裏切らない整備に感謝です。双眼鏡を持参すると便利ですね。
明知城、仲深山砦、落合砦の位置関係がよく把握できますよ。

明知城を南東方向に俯瞰できる位置にあります。
距離は約3kmで杉野一夜城のそれと比べるとほぼ同じ距離感に感じます。
が、明知城救援の織田軍が消極的であった、ということにはなりません。

これ以上の前進は危険だと判断した上での慎重な陣取り位置だと思われます。
明知城と武田方の一夜城、両方に睨みを効かせる事ができ、なおかつ
仮に有事には神箆城、或いは小里城方面に撤退することができる地となります。

aketijinjiro (46) aketijinjiro (45)
頂上付近には諏訪大明神(写真左)と諏訪明神(写真右)が鎮座しています。

aketijinjiro (31)
主郭部東端部の切岸の様子。

主郭部の切岸ラインは南側がまったくの手付かず状態です。
しかし東~北~西の北半周ラインは明瞭な切岸ラインが付けられています。
全体的に明知城方面に関しては手薄、といった縄張りです。

aketijinjiro (32)
主郭部周囲を取り巻いている犬走り。

幅約2メートル弱の犬走りが主郭部の下を等高線に沿ってあります。
途中から腰曲輪程度の広さになったりする連絡道とみられます。
この点は杉野一夜城と共通するようで面白い。

aketijinjiro (34)
北西部の切岸と犬走り曲輪の様子。

このラインは高さが3メートル以上に揃えられた切岸。
谷に沿って美しい曲線を描いています。
明知城とは反対側になる方向だけにその意図がカギを握っているよう・・。

aketijinjiro (35)
西尾根を分断する堀。

この堀は堀底で上記の犬走り曲輪に続いていきます。
堀底にはある程度の空間があり、尾根を絶つという程のものではなさそう。
南側は斜面が崩落していますが恐らく竪堀へと繋がったと考えられます。

aketijinjiro (37)
西端の虎口。

切岸途中からからスロープを開け虎口としています。
主郭部への虎口は他にも2カ所ほど確認できます。
どの虎口もスロープ状になっているのが共通していて興味深い。

aketijinjiro (47)
こちらは北の谷にある水源池(小泉川源流地)。

aketijinjiro (48)
切り立った断崖上の北側切岸。

鶴岡山砦にて最も顕著に作事をされた部分です。
上段の曲輪内には若干の土塁址のような土盛りが確認できます。
本命虎口はこの場所であった可能性を示しています。

turuokaz.jpg短期間の普請にしてはかなりしっかりした縄張りの鶴岡山砦。

天正2年正月下旬、東美濃の明知城が武田氏に囲まれました(前記事参照)。
信長は2月5日に自身が岐阜を出立、明知城の北西約20kmの神箆城に着陣します。
この後詰め出陣は迅速な対応だったと思われます。

しかしここからが問題でした・・。

時節は厳寒の山地。その上道は険しく軍勢の動きがままなりません。
進みあぐねている間に明知城では守将の一人・遠山友信が武田軍に通じてしまいます。
城代として信長から派遣されていた坂井一族も明知城内で悉く誅殺されたようです。

明知城救援は完全に失敗、城は武田方に奪われてしまいました。
信長は明知・岩村両城を押さえるため神箆城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を入れます。
自身は次の手を打つため岐阜に引き上げるより他ありませんでした。

aketijinjiro (50)
現地で考えたメモを記したいと思います。

武田氏と織田氏、それぞれの勢力によって構築されたとされる陣城を見ていきました。
両陣城ともに伝承や後世文献が元となってるので推定で考察する部分があります。
その中でも共通する遺構があることは注目すべきだと思いました。即ち。

①両陣城供、主郭内部はほぼ手を加えず傾斜を留めている。
②主郭部下の周囲に犬走り状の連絡ルートが取り巻いている。
③それぞれの勢力の進軍ルート元方向に堀切を設けている。
④曲輪同士の連絡虎口がスロープ状に施されている。
⑤当然ながら明知城に向けられた高い山上の位置にある。
⑥これは偶然か?両陣の標高が全く同じ!
  (杉野一夜城は△733m、鶴岡山砦は△732m、まさかの1m差)
⑦集落とはかけ離れた位置に構えられている。
⑧明知城までの距離が3km前後という間隔も同じ。

別々の勢力によって構築された割には共通点が多いように思います。

当時の「陣城」というスペックが詰まった姿を現在に残しているといえましょう。
しかしながら両陣城供に決定的な特徴の違いも見いだせないのも確かです。
不自然だと思う点を挙げるならば・・。

織田方によって作事されたという鶴岡山砦はあまりにも短期間で出来過ぎています。
行軍もままならなかったのに果たして可能だったのか・・。
万の軍勢をもってすればこの程度の急造砦が普請できる、ということでしょうか?

鶴岡山砦の切岸ラインは杉野一夜城のそれと比べてもしっかりしたものです。

一方その前に武田氏が構築したとされる杉野一夜城は時間があった割に粗雑です。
場合によっては織田方と決戦になることも想定される重要拠点になったハズです。
明知方に脅威的圧力を与えられればそれで良かったのでしょうか?

武田・織田間にて明知城を巡って睨み合った攻防戦の址。
現地で考察してみるともっと複雑ないきさつがあうように感じました。
ま、しかしそこはロマンはロマンとし当時に想いを寄せてみたい場所です。


㋹は鶴岡山砦、Ⓢは明知白鷹城、Ⓖは杉野一夜城の三角位置関係を指し示します。
杉野一夜城と鶴岡山砦との距離は4km弱(一里)といったところでしょうか。

美濃 杉野一夜城 🏯白鷹城に向けられた武田氏による白刃の砦

美濃 杉野一夜城 (岐阜県恵那市明智町杉野・大平山)
<明知白鷹城をめぐる織田・武田間での攻防戦の趾・武田方編>

久し振りの記事更新になります。
久し振りすぎて何を書いていいものか思い浮かんでまいりません。
コロナウィルスの影響で城めぐりを一切断念しておりました・・。

・・と言わなければいけないところですが・・。
実を申しますと、国の解除対策状況を見ながら隣の郡に出掛け城探索しました。
しかしながらバツの悪さはありません。

世界中の専門家と言われる人や政治家が様々な意見を述べています。
でもその第一人者と呼ばれる方の意見がいつも正しい訳ではなさそうです。
いや、むしろ間違った意見を述べることも普通にあるでしょう。

何を信じ、何を鵜呑みにしないか・・。
多くの意見を聞いたうえで物事を判断していかなくてはいけません。
それができなければ今後の世界、上手く生きていけそうにありません。

・・さてかなり前置きが長くなりました。
今回は明知白鷹城をめぐる織田・武田間での攻防戦のあとを巡りました。
両軍によって築かれたといわれる各々の陣城砦です。

まずは明知白鷹城攻めにあたって武田軍が陣を構えたとされる杉野一夜城です。

aketijinjiro (19)杉野地区から見上げた一夜城のある大平山。

大平山という名の通り、麓からみても山頂付近は平らになっていそうです。
大軍の駐屯地とするのであればこのような山容で眺望が得られればよいのでしょう。
大平山は明知白鷹城を南西約2.5km先に見据えています。

aketijinjiro (60)
一夜城へは安住寺の裏山の林道を利用しました。

遠山景行公の墓所がある安住寺の裏山からも直登できそうです。
が、自分は林道から地形図を頼りに適当な所から尾根を目指しました。
このあたりは勘によるところが大きいのですが、たいがいドンピシャです。

aketijinjiro (66)尾根沿いピーク手前に現われる堀切が城域への目印です。

堀切、といっても規模的には浅く遮断性を重視したものではなさそうです。
内部の遺構とは近いながらも連動性がなく単独仕様となっています。
これは遮断よりも城域を画す一線的な意味あいがあるのではないでしょうか。

aketijinjiro (68)
主郭部の周囲には狭いながらも曲輪が確認できます。

aketijinjiro (5)
曲輪からは主郭部周囲を武者走りが延びています。

後ほどの散策で解ったのですが・・。
この犬走りは主郭下部をほぼ一周しています。
手元のウォッチ機能では一周約370メートルもありました。

aketijinjiro (61)主郭部の東側の切岸を観察します。

上の写真でみるとかなり掻き揚げられた切岸に感じられます。
しかし全周囲がこの様になっている訳ではありません。
東端部と西端部の一部のみでみられる以外は実に曖昧なラインになっていきます。

aketijinjiro (63)
主郭部から見下ろす腰曲輪と堀切方面は確かに急峻になっています。

aketijinjiro (62)
主郭部内部は軟傾斜となって端部も曖昧ですが広さは充分。

「一夜城」というように視覚的に城郭に見たてることが最優先です。
内部は将兵同士が移動連絡でき、万が一の反撃に備えれば充分でしたでしょう。
城方に圧力を加えていく拠点となるのが役割でした。

aketijinjiro (70)最高所には「永久穂神社」が祀られています。

aketijinjiro (8)
明知城方面には3~4段ほどの平坦地を連続させています。

曲輪自体も粗雑で曲輪化されていない箇所も見られます。
ただ所々に見られる曲輪同士の連絡口(虎口か?)付近は比較的はっきりします。
陣城というのは端から端までを整地する必要はない、ということが理解できます。

aketijinjiro (4)
竪堀の起点のようにも見えますが連絡虎口と思われる掘り込みです。

aketijinjiro (11)南東尾根からは足下に杉野地区と門野地区が望めます。

残念ながら木々が濃く明知白鷹城が鮮明に見えるポイントはありませんでした。
しかし木々の間から僅かながら明知城の位置ががチラチラと確認できました。
城址でのチラリズム。興奮してどうする・・。

sugiiti.jpg

天正2年正月、明知城を巡っての争奪戦が繰り広げられました。
武田家を継いだ若き当主・武田勝頼と迎え撃つ遠山氏と織田信長
先年の上村合戦での勝利と岩村城の奪取の成功で意気揚がる武田軍。

杉野一夜城は岩村城から派兵した武田方による築城かと考えられています。
武田方の将・秋山伯耆守虎繁がここで戸障子をたて廻し、
一見して白壁のように見せかけた、といわれるのが一夜城の由縁です。

視覚的効果はこの上ない影響を与えたことでしょう。

或いはこの地に武田勝頼自身が出張った、とも伝わります。
当時遠山方の城砦群を文字通り「風林火山」の勢いで落としていった勝頼。
ここから睨み付けられた明知城方はすくみ上っていたのではないでしょうか・・。

この状況に対し織田方も翌月2月1日に先遣隊を明知城救援に派兵します。
信長は嫡子・信重(信忠)と共に岐阜を出立します。
風前の灯となった明知城にとって織田の援軍こそが唯の頼みとなりました。

次回は織田方が陣したといわれる鶴岡山砦を訪れます。

aketijinjiro (14)
南東尾根をさらに進むと石仏と石祠があります。

慶長8年に遠山氏はこの一夜城の跡に愛宕神社を勧請し、鬼門除けとして建立しました。
当時の名残りが今でもこうして語り継げられているのでしょう。
縄張り図面、自分には明知城に突き付けられた大きなナタの刃のように映りました。


㋹は遠山景行公夫婦の墓地がある安住寺です。
Ⓢは最寄りの林道からのルートを示しました。ここから尾根を西に辿ります。
Ⓖは杉野一夜城の主郭部です。永久穂神社が祀られています。

美濃 門野砦 🏯上村合戦に参戦した門野氏の砦

美濃 門野砦(岐阜県恵那市明智町杉野・城山)

あ~・・。なんだかなぁ・・。(いきなり溜息ですみません)

普段の何気ない生活がいかに特別で素晴らしいものだったのか・・。
自分が行おうとする全ての活動に是か非かの判断力を要する毎日。
果たして家での籠城が正しいのか、人気無い山城攻城もNGなのか・・。

「自分はOKだから」という勝手さでは済まされない感染拡大防止の世の中です。

『毎日がスペシャル』、竹内まりやさんの歌詞が心に沁みる今日この頃。

「目覚めた朝 息をしてるだけで幸せなこと」
「知っているの 人生とは心の持ち方でどうにでもなると」
・・なかなか究極な人生観です。・・けれど何か救われます。

・・さて、ちょっと気持ちが遠くへ行ってしまいました(^_^;)。すみません。
現状の世の中ではブログの更新も思うようにいかなくなるでしょう・・。
でも今回はこの春訪れた門野(かどの)砦をご紹介したいと思います。

kdnt (1)地元では「城山」と呼ばれている門野神社一帯の門野砦。

門野砦は明知遠山氏の郎党、門野氏の砦址だと伝わります。
門野氏の三兄弟、磯之助・角八・高助らは上村合戦に加わり戦いました。
上村合戦では前田砦に陣を構えて秋山勢に備えたと伝わります。

kdnt (2)
砦は門野神社の裏山にあたります。ここから登って行きます。

kdnt (3)
神社によくある急階段の参道をテンポよく登って行きます。
(「何段あるかな?」と段数を数えて登るのは自分だけじゃないハズ)

kdnt (4)
比高20メートル程の丘上奥に鎮座する本殿。

門野砦はこの本殿の東側の丘陵上ピークと伝わります。
本殿の裏から消えかかった道を北東に登って行きます。
すぐにピーク部に達し標柱が立てられていました。

kdnt (5)門野神社東側のピークに立つ標柱碑。根本が折れそうで心配(´・_・`)

僅かな傾斜ぎみの平地があるのみで周囲は自然地形です。
尾根続きの鞍部にも堀切の痕跡は見当たりません。
腰曲輪や切岸といった作事も見られず、実に普通の山といった感じです。

果たしてここが砦なんでしょうか・・。
そこでもう一度神社まで降りてみると神社の西側のピークが目に止まります。
こちらは切岸もつけられ掻きあげられた地形に仕上がっています。

どう見てもこちら西側ピークの方が砦として相応しく映るのであります。

kdnt (12)kdnt (11)
神社西側のピークの様子。2枚の写真をつなげてみました。

kdnt (8)
最も高い段には6つの祠が祀られています。

石垣が組まれ改変されてはいるものの一段の高みがあったようです。
こちらも堀切遺構は見られませんが、神社方面に深く落ち込みが見られます。
南側から神社に向かって延びるルートが確認できます。

kdnt (6)しっかりと削平された神社西側ピーク。

kdnt (7)
内部には高さ2メートル弱の塚址と思われる高みが残っています。

以前は宗教上の施設か祠などが祀られていたのかもしれません。
そうなるとこの削平地もその際に均されたスペースなのかもしれません。
しかし周囲は急斜面となり、杉野地区の集落も足下に直視できる眺望よき場所です。

kdnt (13)散策記録としての門野砦周辺図です。

神社が創設される際に本来の地形が崩されていることも考慮せねばなりません。
しかし自然地形に近い東側ピークよりも西側ピークの方が断然機能的です。
「在地支配」と「集落・街道との結びつき」を考えれば検討の余地はあると思います。

もちろん両遺構で成り立っていたという見方も充分考えられます。

kdnt (10)
砦からは北西に杉野一夜城も見られます。
(杉野一夜城についてはまた後日記載予定です)

kdnt (9)
門野砦の麓の社にも美しい桜が。こんな引き合わせがスペシャルなんですね。


㋹は門野神社を指します。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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