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美濃 天王山砦 🏯コンパクトながら機能満載の砦

美濃 天王山砦 (岐阜県恵那市武並町藤沢尻・城山)

山城めぐりが好きな人は「幸せ」だと思います。心豊かであろうから。
何故、何もない(実際はあるのだが・・)城址に登るのか??
そこに立つことで語りかけてくる無限の息づかいと想像に向き合えるからでしょうか。

・・長梅雨のせいで前頭葉の働きが低下しているのでしょう。
妙にドン引きな前文になってしまいました(;^_^A)、ゴメンナサイ。
好きなことは好き。ただそれでけですよね。そしてそれが『城』だった、というだけです。

・・結局、自分でも・・『何?ど~した?』・・。

さて今回は恵那市にある天王山砦を紹介したいと思います。
ところで美濃国には現・美濃市に天王山城(大矢田城)という山城もあります。
地域も別なので混同されることはありませんが、「城」と「砦」という呼称の違いだけ。

gozutenn (15)木曽川沿い、笠置ダム湖に面する天王山砦です。

写真は大雨の翌日だったため川面が濁っていますが、いつもはエメラルドグリーンです。
山の頂上を見てください、鍋蓋がちょん、と乗っかっている感じがわかると思います。
東西に延びる笠置峡を見下ろす絶好の位置にあります。

交通アクセスは地図と図面で後示しますが、ちょっとした秘境かもしれません。
付近には駐車できそうなスペースはありませんので城の南東部の林道路肩に停めました。
ほぼ交通量はないのですが、妨げにならないようにだけは気を遣います。

gozutenn (13)
今回は敢えて東側の尾根・大手道(仮想)から登頂します。

大手道を断ち塞ぐ大きな立岩群。
天然の垂直岩壁を前にルートを南に迂回せざるを得ないようになっています。
この時点で早くも仕組まれているような気がしてきます。

期せずして、守備側の思惑通りに進んでいくように・・。

ouzute (2)
主郭南西部の虎口に至ります。

gozutenn (11)
主郭部周囲は岩ごと切り掻いた切岸が鋭い。

gozutenn (10)
虎口の脇には竪堀も見られます。

主郭部の足元周囲には大小何本かの竪堀が見られます。
横堀と連動しており斜面の横移動に制限がかけられています。
下の写真がその横堀の様子ですが、非常によく残っていました。

gozutenn (5)城兵の横移動を兼ねており、土塁が併設してあります。

守備側の横移動を可能としながらの防塁、といったところでしょうか。
麓側から見上げると、土塁は守備側の動きを隠す役割もしています。
比較的緩傾斜となっている部分(弱い箇所)に向かって普請されていますね。

gozutenn (4)
土塁の下には20メートル近くの竪堀3本がセットで落とされます。

3本の竪堀は等間隔で整然と並び落とされています。
写真では木々が立ち並び、検証しずらいと思いますが、圧巻です。
ここ天王山砦の見所は何と言ってもこの虎口・横堀・土塁・竪堀のセットでしょう。

横堀と組み合わさった土塁と竪堀はかなりテクニカルなもの。
また等間隔に並んでいる竪堀も規格性を感じます。
これは東濃進出した際の武田氏遺構の可能性を強く感じるものです。

gozutenn (6)
横堀は南から西方面まで(一部途切れ)主郭を半周しています。

gozut (1)
横堀から竪堀へと連動してます。

gozut (2)
東方面を仕切る堀切はそれほど深くないのが意味ありそう。

gozutenn (8)
虎口近くには自然石を積んだ石積も見られます。

ouzute (1)
石積は虎口からのルートを補強したものでしょう。

gozutenn (7)
頂上の主郭部には名の由来となった牛頭天王が祀られています。

gozutenn (12)
主郭部からの眺望は木々で得られませんが、木曽川沿い奥を垣間見ることができます。

狭い峡谷同士での狼煙連絡も兼ねていたと思われます。
西方面は禰冝田砦(池城)へ、東方面は中尾城(中尾丸)へとつないだのでしょうか。
そういえば以前ですが、中尾城の記事で自分、こんな事を書いていました。

「中尾城の尾根筋には明瞭な筋道が(中略)ある城へとつながっていることがわかりました。」
・・という一文ですね。

思えばかなりもったいぶっていましたね・・(忘れてたのもアリ)。
そうです、その「ある城」というのはここ天王山砦だったのです。
両城との距離は約2000メートル、お互い背を向け合って木曽川を睨んでいます。

中尾城から実際に歩いてみて、途中遠ヶ根山(ここも砦の伝説あり)を経由します。
遠ヶ根山を西に降りて、ここ天王山砦に辿り着いた時はとてもびっくりしました。
高低差こそあれ、山歩きのペース・30分で連絡できるのです。

ある同一時期に両城が連設されていたことを示しているのかもしれません。
中尾城・天王山砦、共に城主などの経歴は不明です。
在地勢力ではなしえない、戦略性に富んだ性格も伺われます。

城館の類例と付近の歴史的状況から武田氏系の関与があげられます。
もしそうだとすると・・、どうでしょう。
武田氏は木曽川沿いと中山道、下街道からと多方面から岐阜方面へ迫ります。

適所にまず小規模拠点を確保し、じわりじわりと詰めていくのです。
そして異国の地において驚くほどのスピードで兵站道を確保していきます。
森氏の兼山城はこの時点で攻撃目標内に入っていたことでしょう・・。

ああ、ダメです・・、武田軍の足音を想像しただけでも怖い怖い(´Д`lll)!

gozutenn (14)武田氏系の特長や癖を感じとれる遺構です。
(土塁の向こう側には竪堀が並んでいます)

tennnoutzu1.jpg砦は小規模ながら実に技巧的な縄張りとなっています。

天王山砦の関連個所としてここにも寄ってみました

gozutenn (3) gozutenn (2)
天王山砦の西に鎮座する弥五郎神社と弥五郎滝です。

その昔、敵と間違えられて鉄砲で誤射された堀田弥五郎を祀った神社です。
祀った事により、はやり病が消えたとされる神社です。
砦と直接関係があるものかはわかりません。

神社からは弥五郎滝に近づくことができます(足元注意!)。
汗だくになった体を手拭いで洗いながら見上げる滝(といっても落差はそれほど)。
「・・き、気持ちいい~!」

「弥五郎さは、砦のことなんか知ってるのかな??」


Ⓢは天王山砦をチェックしてます。
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美濃 明知城 🏯例のない横堀と竪堀群の絶妙タッグは見応え充分

美濃 明知城(白鷹城) (岐阜県恵那市明智町明知・城山) <県指定史跡>

ここのところ久し振りに地元・美濃の城をめぐる機会が増えました。
2月は駿河、3月は遠江、4月は志摩、5月は能登、越後、と外征が多かったからです。
マラソン絡みもあったのですが、とても充実し、勉強になった春でした。

しばらくマラソン大会はエントリーしてませんので練習に集中です。
子息たちの用事もここのところめっきり減り、うれしいような寂しいような感じです。
・・寂しいといえば外征続きでお父さんのフトコロは落城寸前!(泣!)

そんな諸事情のなかで本来の地元城めぐりも充実させたい、と思う今日この頃です。
行きたいときにそこでいつでも待っていてくれる・・、地元の城って有難いものですね。
「お金はなくとも、地元の城がそこにある」(泣くのはもうやめ♡)

・・さて、今回は東濃地方における中世山城の傑城、明知城を訪ねます。
明知城といえば城ファンの方なら知らない人はいない、という程、有名な戦国の城です。
明知城が超有名な理由として次の3つが挙げられると思います。

①、織田・武田両氏との間で壮絶な争奪戦が繰り広げられた。
②、明智光秀の出生地として(可児市の明智長山城と並び)最有力視されている。
③、※「遠山七家」の内の一つで、遠山氏の有力一族、明知遠山氏の本城である。

※「遠山七家」(岩村・阿寺・明知・飯羽間・串原・苗木・阿木)の一つです。
その中でも最も有力な岩村・苗木・明知を「遠山三頭」と呼ぶこともあります)

それでは見ていきたいと思います。

aketisirataka (22)明智駅を降り、南東に見える城山が明知城です。(比高80m程度)

別名「白鷹城」、カッコいい名称ですね。幟のアピール度ハンパありません。
こちらでみたらし団子や五平餅等を食べて腹ごしらえするとイイと思います。
明知城に関するパンフなんかも入手できますよ。

自分、そういえば元号が「令和」になって最初の作図調査になるのがここ明知城です。
(強敵なのでしっかりかからねば・・、と気合をいれます)

aketisirataka (34)
城下町は日本大正村としても有名。趣ある路地めぐりも発見がありますよ。

aketisirataka (24)
町がそっくり、大正時代の空気に包まれ、なんだかタイムスリップしたような気分。

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大正のモダンなイメージをした洋風建築、大正ロマン館。

城めぐりもいいのですが、たまにはのんびりと歩き散策もいいものですね。
たたずまいを感じながら歩くと、眼に映るものがとても新鮮に感じます。
「こういう感覚、しばらく味わってなかったな~」って、ときめいたりしました。

aketisirataka (26)
明知城西麓の大手門近くには江戸時代には陣屋が築かれました。

元和元年(1615)遠山方景は旗本として江戸に屋敷が与えられる事になり、城は廃城となりました。
代わりに麗の大手門近くに代官屋敷が設けられ、代官を村上氏に任せて廃藩置県まで存続します。
現在陣屋跡地には村上氏の屋敷と土蔵が残っています。

aketisirataka (30)
遠山家の菩提寺である龍護寺では、遠山家累代の墓所や明智光秀公の供養塔があります。

aketisirataka (29)
少し前置きが長くなりましたが、明知城へと向かいます。

さて、明智駅、並びに日本大正村方面からのアプローチはこんな感じ。
他にも見所は沢山ありますので時間の許す限り、街歩きもいいと思います。
こちら、「城」と「街」、「戦国」と「大正」を同時に味わえるのが特徴です。

・・さて、そうは言っても・・。

「明知城だけが見たい」、というせっかちな城最優先さんもいらっしゃると思います。
かくいう自分もその部類の人間です。(最近、少しゆとりを持つよう努めていますが・・)
そんな方には車にて城山裏手から仕寄るといいでしょう。

aketisirataka (1)
城山の東側の道路には駐車場が完備されています。

こちらの駐車場から城内までは僅か5秒!。
早速左側にやや破壊された堀切を見ながら竪堀底を通って登城できます。
せっかちな少年少女さんにはうってつけのコースだと思います。

aketisirataka (18)
一見、城址に至る遊歩道のようですが、既に城内に足を踏み入れています。

傍らや頭上を見上げると、切岸と畝堀を確認できます。
どうやら通路を兼ねた横堀の堀底を通っていることに、ここで気が付きます。
心の準備ができていないと城内に入った感覚すらありません。

aketisirataka (17)
細かい間隔の小さな畝堀もあれば・・。

sirataka (5)身の丈をはるかに超える、土塁+竪堀ともいえる巨大畝堀もあります。

これらの遺構は主郭曲輪群の外側をほぼ全周に渡って設けられています。
一般的に見られる斜面に落とされた竪堀とは一味違う明知城独特の見所です。
こんな狭い一方通路を攻め上がるなんて・・、考えただけで恐ろしい・・(;゚Д゚)。

しかも、このような多数かつ大規模な遺構を複雑に組み合わせています。
自分は作図しながら改めてその連動性に驚嘆せざるを得ませんでした。
おそらく武田氏摂取時の改修遺構なのでしょう、と推察します。

aketisirataka (2)
城内には大きな貯水池があったようです。水の手曲輪ですね。

aketisirataka (15)
南出丸に足を運ぶと門に使用された石垣址が一部残っています。(石垣というか列石・・)

aketisirataka (14)
城内には陣屋として使用された名残も併存しています。

aketisirataka (4)
本丸と南出丸を介する二の丸に向かいます。

曲輪の際を歩くとどこも切り立った絶壁になっていて足がすくみます。
畝堀を経た堀底からこの切岸をよじ登ることは不可能に感じます。
「曲輪は際を歩く」とその特徴がわかりますね。

aketisirataka (5)
プレートには「虎口」と示されるスロープ状の連絡口。

aketisirataka (10)本丸に到着しました。高い所から撮影、広さが伝わるといいのですが(´∀`)。

aketisirataka (8)
説明版と高田徹氏の縄張り図があります。

aketisirataka (6)石碑はありませんが、標柱が立ってます。(細い・・)

aketisirataka (16)
各曲輪間は大きな堀切で断ち切られています。

遊歩道からは主郭部と畝状竪堀・畝土塁などは見学し易いようになっています。
しかし、見上げるほどの堀切、圧巻の切岸などはブッシュによって全貌が掴めません。
踏み込んだ探索を希望する方は作業着での来城をおススメします。

sirataka (2)このようなブイブイいわせるVの字堀切も見所です。

元亀3年(1572)、明知城主・遠山景行と東濃諸氏は上村(恵那市上矢作町付近)に布陣。
武田氏の武将・秋山虎繁ら伊那衆らを迎撃しますが、敗北、景行は戦死します。
嫡男・景玄(※)も戦死したため、家督は孫の一行(かずゆき)が継承します。

遠山景玄は「かげはる」と読むそうです。
 景玄については詳細不明で一部誤伝もあるようです。

天正2年(1574)には明知城に武田勝頼の軍勢が押し寄せ、城を包囲。
これを知った織田信長は明知城を後詰めすべく、嫡子・信忠と共に岐阜を出陣します。
信長父子は、神箆城(鶴ケ城)に着陣し、進軍を予定しましたが・・。

明知城内では飯狭間右衛門が謀反を起こし、織田方の城番・坂井越中守一族を殺害。
城を武田方へ明け渡し、明知城は落城します。後詰めは間に合いませんでした。
信長は、神箆城河尻秀隆小里城池田恒興を配し、岐阜に戻っています。

その後、僧となっていた景行の次男・利景が還俗して城を奪取、一行を猶子とします。
天正11年(1583)、利景は金山城主・森長可の圧迫で明知城を退去、徳川家康に仕えます。
しかし、遠山利景と一行は諦めません!、再興のその日をじっと待ちます。

天正12年(1584)、利景は小牧・長久手合戦で森長可の守る明知城を再度攻略します。
しかし、その後羽柴秀吉の命令により明知城は森忠政に返されてしまいます。
しかし、これでもまだまだ諦めないのが利景らのスゴイ所です。

慶長5年(1600)、関ケ原の戦いでは家康の後ろ盾で三度目の明知城奪取に成功します。
外敵の侵攻に立ち向かった景行・景玄ら、不屈の再興を誓った利景・一行ら。
受け継がれた彼ら遠山明知氏の領主としての生き様は東濃戦国史に語り継がれるのです。

aketisiratakan.jpg久太郎も2日間に及ぶ作図調査をしました。(参考にしていただければ嬉しいです)

現地には高田徹氏による縄張り図面が掲載された案内板があります。
折角なので自分の作図図面も公表したいと思います。(一心不乱に取り組みました)
100人書けば、100通りの図面ができるものですが、肝の部分はほぼ同じです。


Ⓢは車にて見学するのに大変便利な専用駐車場を示します。
車の施錠をしたら5秒で城内に入ります。5秒ですよ。
Ⓖは明知城の本丸の位置、城山頂部です。

美濃 上村城(前田砦) 🏯重機なしでここまでの土木事業とは・・。

美濃 上村城(前田砦)(岐阜県恵那市上矢作町本郷・城山)

・・たまにふと考えることがあります。
【城】と【砦】の違いってなんか基準はあるんだろうか??・・と。
あと【塞】、とか【塁】、とか言い出したら・・。

「わからないことはググれ!」、という次男の口癖。(はいはい)
時代は変わりました。まずひも解くものが辞書ではなくなったのです。
しかしウェブだろうと広辞林だろうと、「調べる」という率先的な行動は持ち続けたいものです。

・・さて、辞典とかには「本城の外の要所に築く小規模な城。規模の小さな出城」とあります。
当然、この程度の説明では城郭ファンを頷かせること、できようはずもありません。
何故ならこの表現では当てはまらない事例が多すぎるからです。

今回訪れた上村城「前田砦(ぜんだとりで)」と呼ばれるほうが親しまれているようです。
しかし、現地に立つと「砦」という呼称が全く不似合いであることを感じます。
先程の説明での「砦」どころか「大城郭」と呼ぶに相応しいからです。見ていきたいと思います。

zenda (9)かなり離れないと山の全容がつかめないのも大城郭の証です。

前田砦は上村川と飯田洞川が合流する地点の東山上尾根にあり、東へ伸びています。
縄張り図を作図をした限りでは主郭部だけで東西200メートル、南北150メートルの山城です。

zenda (10)
城山の尾根先端部からの登山道があります。

城山の西麓に公民館があるので、車はそこに停めさせていただきました。
共同精米機が設置されてあるので邪魔にならないように駐車します。
この山道は大船寺への参道としても利用されていますね。

zenda (11)
これから登ろう!、という時にこう言い切られては・・。

zenda (12)
ということで今回は熊除け鈴をこれでもか!、とダブルで装着。
(うるさいのですが安全にはかえられません)

zenda (14)
登っていくと道が2つに分かれます。

右は城内に向かう近道で、左は城山稲荷への近道。
どちらを進んでも脇から主郭部へは辿り着きます。
城山の奥には城山稲荷が祭られています。

zenda (13)
気を付けなければならないことが多いのが山城探索だが、頭上まではちょっとね・・。

zenda (3)最奥(東)の大堀切から度肝を抜かれていきます。

傾斜もあり、堀底も見事な薬研ぶりです。
一部登山道で分断されていますが両側面部には大きな竪堀につながっていきます。
この様子では当時の堀底、容易に歩けなかったことでしょう。

zenda (4)
堀底を辿ると気付くのですが主郭部を囲うようにコの字型(弓型)になっています。

zenda (2)
この堀切から登った曲輪には大土塁(櫓台?)まで備えられています。

zenda (16)土塁上に置かれた石塔。何を語っているのか。
(え、何?城址碑?のワケないです・・)

zenda (15)あまりにも美しいので逆方向からも見とれます。二度おいしい。

zenda (17)
最高所の曲輪の北側側面には石積も見られます。土留め用ですね。

zenda (1)
東より2条目の堀切。どれもメイン級の堀切で意識高すぎ・・。

zenda (6)
適度な林業伐採が入り、遺構同士の見通しもよいです。

zenda (5)
東より3条目の堀切。堀底は窪地となっており、むしろ曲輪を兼ねているよう。

zenda (7)城中最大規模の東より4条目の大堀切。

箱堀、というより堀底に居住空間ができるほどの余裕の広さがあります。
いずれも両側面は竪堀へと続く、という一貫性も見られます。
東美濃ではここでしかお目にかかれない超ド級の土木普請量、間違いありません。

ホントに重機とか、使ってませんよね?(思わず疑いたくなるほど)

zenda (18)
この高切岸も頂部手前は登攀困難でした。

さて、この前田砦ですが。
『恵那郡史』では元亀3年(1572)上村合戦で遠山景行の家臣、門野(かどの)兄弟が千騎で籠もり、武田氏の武将・秋山虎繁軍を待ち受け対峙したそうです。

文面から察するに門野氏はこの地をあくまで陣地として利用したようです。
山上一帯に砦を構え、伊那から侵入する武田軍を待ち受けたのでしょう。
「前田砦」、とう呼称はこの時の陣城を指すものと思われます。

また『丹羽氏聞書』では原弾正を城主としています。
原氏はおそらく武田氏から派遣された人物かと思われます。
伊那と岩村を結ぶ重要地点として前田砦を「上村城」と称した大城郭へと改修したのでしょう。

あくまでも個人的な感想ですが・・
曲輪配置や堀切の規模、舌状台地を利用した縄張り、どっかで見たことがあります・・。
そう、信濃の飯田・駒ヶ根地区の城郭と類似してるな・・という感じです(飯田城・赤須城等)。

スキャン_20190630 (3)縄張りには秋山虎繁麾下の春近衆が関与しているのかもしれません。
(あくまで楽しい想像の範囲内で(´∀`*))。

zenda (8)
城山から望む飯田洞方面、岩村城への糧道。

上村城から岩村城までは同時に武田氏による糧道も整備されたそうです。
水晶山を通過して岩村城の搦手に直通する、最短かつ安全な道でした。
こういった城と軍事道路をセットで普請するのも武田氏の得意とするところですね。

主郭部の北に位置する城山稲荷も行ってみました。
zenninari (2) zenninari (1)

おそらくここ一帯も当時は城郭の一部であったことでしょう。
広い平場が大きな横堀で守られています。この横堀遺構がこれまた巨大です。
飯田洞川と主郭部と巨大横堀によって北・西・南を守られた隠れ曲輪のように感じます。

武田氏と東濃遠山氏、そしてその後の織田氏との戦いの後先を語る前田砦こと上村城。
山の形を変えてしまう程の土木普請量、岩村城では感じ得ない別の意思を感じます。
この地に立てば武田氏の東濃計略裏方としての意気込みが伝わってくるようです。


Ⓢはお借りした公民館の駐車場です。
Ⓖは主郭部の頂部。

美濃 漆原城 🏯武田氏特有の築城術に魅せられて

美濃 漆原城 (岐阜県恵那市上矢作町漆原越沢・城山)

「よし、今度の休みは山城に行こう!」、固い決意と期待。
仕事を段取りよくこなし、クレーム処理もスマートに解決。準備万端なり。
すると気合を入れすぎたのか、当日は無情の雨・・。なんてよくあることです。

しかしここのところの天気はとても安定しています。
雨が降っても明け方には快晴へと向かいます。
絶好の行楽日和、家族を尻目に今日はどこ(何城)へ行きましょうか?

ということで最近のお気に入りエリア、恵那市の南部まで足を延ばします。
恵那市には五平餅の美味しいお店がたくさんあるのも魅力でして・・。
今回は旧上矢作町の漆原城山城を訪ねてみました。

urusihara (1)漆原大橋から眺める漆原城山城。

城山は上村川に向かって突き出た山です。
山の真下に城山トンネルが通り、国道257線が岩村と稲武を結んでいます。
城山の麓にはコテージが並び、キャンプや研修などに利用されています。

siroyamatonnneru.jpg

城山へはトンネル脇からの道が東と西の両口からあります。
今回は車を近くの三作集会場に停めさせていただき、西口から登城しました。
案内板等はありませんが、なだらかな登山道を10分程で頂上まで行けます。

urusihara (14)
まずは頂上まで。土壇の上に城山稲荷があります。

登城途中には集落の墓地が何段か見られます。
しかし不便なためでしょうか、訪城するごとに墓じまいされているようです。
残された平地は曲輪ではないので注意が必要です。

urusihara (13)
全体的に残存状況がよく見学しやすいです。写真は本丸の様子。

ここを起点に周囲を探索すると遺構同士の連動が確認できます。
こちらには何回も来ていますが、手入れされた山林は見通しが良く、ありがたいです。
伐採された木々が堀底に捨ててある、なんてこともありません。

urusihara (15)本丸より土橋で馬出し曲輪と連絡しています。

本丸に至るルート上に馬出し曲輪を設けて要としたような印象を受けます。
この馬出し曲輪周囲には虎口、腰曲輪、堀切、竪堀・竪土塁を設けています。
無駄がなく各遺構がうまく連動している様子が見所です。

urusihara (3)
馬出し曲輪の南側竪堀は畝状竪堀になっています。

urusihara (5)
主郭と馬出し曲輪を画する竪堀は引き込まれるような鋭さが。

urusihara (9)
南側を取り巻く長い腰曲輪と主郭部の切岸。

urusihara (10)本丸から北西方面に延びる尾根には深い二重堀切で遮断します。

主郭側で5m、土塁側で3mほどの遮断意識ありありの堀切。
端部は竪堀となっていきます。
堀切が間隔を置かず連続で配置されている姿は見応えがあります。

urusihara (11)

urusihara (12)
南側の腰曲輪で主郭部をカバーしています。

漆原城は上村合戦時には苗木城の遠山友忠が城番を務めた、とされています。(詳細は不明)
(上村合戦は遠山氏・東濃衆連合軍vs武田秋山氏・春近衆連合軍との間で繰り広げられました)
しかし、現在見る姿は明らかに武田氏による縄張り特徴がみられます。

岩村城を落とした武田氏は三河方面との連絡路を確保するためにこの城山を重要視したのでしょう。
遺構は上村川側ではなく、三作からの峠越え方面に展開しています。
増水等に影響されない峠越えルートを補給路として、監視も兼ねたようです。

漆原城は東濃地方における岩村と三河方面をつなげる武田氏系城郭として注目されます。
城址碑も説明案内版もありませんが、史跡指定をうけることもないままに眠っています。
願わくは、この状態で末永く遺構を楽しめることを望みたいものです。


Ⓢは駐車場に三作集会場をお借りしました。
Ⓖが主郭部、城山トンネルの上を通り、峠頂部の鞍部を西の山手へと登っていきます。


美濃 下村城 🏯畑となろうとも面影が残る城

美濃 下村城 (岐阜県恵那市上矢作町下増沢・城)

驚いた事がありまして、10月も終わりに近づき、11月になろうとしているこの陽気。
自分の耳を疑いました。確かにツクツクボウシが間近で鳴いているのです。
かつての美声はどこへやら、それでも命消えるその瞬間まで懸命に生きる姿です。

そんな「生きる運命(さだめ)」を感じながらの城めぐり(疲れてんのかな・・)。
今回は前回の小田子城から北上、旧上矢作町、下集落の下村城を訪ねました。
下村城は別名が沢山あります。山室城(やまむろじょう)、小御所城(おごそじょう)、等々です。

simomura (3)新澄ヶ瀬橋近くから眺める下村城。

simomura (2)
「澄ヶ瀬」の名の通り澄み切った美しい清流・上村川。ウグイが泳いでら。

恵那市上矢作町に昔から伝わるお祭り「熊野神社 春の大祭」が面白いです。
大祭では、夜になると熊野神社に地区ごとの神輿が集まり、「けんか神輿」が始まります。
小田子地区と下地区の神輿どうしが境内でぶつかり合う様子は勇壮で迫力あります。

simomura (4)
増沢集会所の空き地に駐車させていただきました。ここのすぐ上が城址です。

主郭部はおおむね畑となっています。
simomura (8)

畑では仕事を一休みされていたおばあちゃんにいろいろ教えて頂きました。
なんでも、お嫁さんにいらしたときから、ここはもう畑になっていたそうです。

城の西を通っている現在の県道はかつて堀になっていたそうで今より細かったんだとか。
そして東の腰曲輪には井戸があったそうです。(現在は確認できませんでした)
また周辺の地名の由来と場所を教えていただきました。

地名には市場、牧場、小御所(おごせ)、堀、射去(やだれ)等、城に関する地名が多く残ります。
また下村城の南は増沢川、東は上村川が流れ、周囲は河川と湿地帯で守られていたようです。
・・おばあちゃんとの談話はとても楽しいひとときでした(^▽^)♪。ありがと!

simomura (7)
曲輪の輪郭もどこまでが往時の姿か見当がつきません。

simomura (5)
かつては大堀切があったという「堀」という屋号も現在は県道となっています。

simomura (6)この傾斜角はおそらく当時の城の面影が残っている部分かと思われます。

simomura (9)下村城から見渡す下地区の城下。

城主の言い伝えも口伝、文献共に一致をみません。
こうした城名が複数伝わるのも、それだけ城主が変わったことも示しているようです。
基本的に恵那郡遠山氏勢力⇒武田方勢力⇒再び遠山氏の遍歴で差し支えないでしょう。

比較的信頼性のある『丹羽氏聞書』によれば戦国末期の城主に遠山市左衛門が伝わります。
また天正期には串原遠山氏の城代として大嶋(大島)兵衛五郎の名も伝わっています。
『美濃諸旧記』に見られる下村丹後守幸近は諱の組み合わせから武田方の関係者とも思われます。

下村城は三河・信濃から岩村へとつながる重要中継地点であったようです。
そして串原、明知方面にも最短距離で連絡できる分岐位置にありました。
豊富な地名や街道のつながりが今でもそれを伝えているようです。



Ⓖは下村城の主郭部。増沢集会場から見学できます。
 当然ですが、畑ですので無断での立ち入りは厳禁。
 城址碑・案内版などはありません。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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