美濃 五郎塞 🏯苅安権現山の支峰に築かれた謎深い城

美濃 五郎塞 (岐阜県恵那市武並町藤相戸・五郎小屋)

前回、苅安権現山城から足を延ばして立ち入ったのが五郎塞と呼ばれる城です。
この五郎塞は城主や築城年代などが不明で遺構だけが静かに眠っている城、といったところです。

ただ城名から推測して「五郎」なる人物が大きく関わっていることだけは推測できそうです。
尾張大草城主から東濃に移住したという西尾道永の後裔、西尾五郎八に由来するのではないか?
とする説は的を得ているようにも思えます。

また「塞」とは山の中に作った砦、という意味なので概して城、砦、塁・・。
そういった表現から画すものではありませんが
暗に「山賊や野武士の築いた砦」、という意味合いを含んでいるように感じます。

gorousai2 (1)左の頂部が苅安権現山城で、右のピークが五郎塞の城山です。
(相戸集落より西側の山を仰ぎみた写真です。)

さて、五郎塞を登山口から案内したいところなのですが・・。
今や麓からの道は消え失せ非常にわかりにくいです。そこで・・。
地形図が読め、コンパスをある程度使える方なら権現山から尾根沿いに下り降りる、というのも
苅安権現山城も見学でき、かつ確実な方法としておすすめしたいです。

俗にいう、「鵯越の逆落とし作戦」と申しましょうか。
自分はこの城の見学に関しては毎度この方法をとっています。
気分は一の谷の源義経です。(一人二役で弁慶役もこなします!)

gorousai (1)

道中は大きな岩壁が立ち塞がり、足元の状況も岩肌や岩が散乱する箇所もあります。
いずれにせよ、山城に慣れていない方が入り込むにはやや難易度が高い場所です。
、とだけはいっておきましょう。

gorousai (8)尾根を断ち切る幅6~7メートルの堀切が魅力。

gorousai (22)主郭部は御覧のとおり荒れています。

gorousai (21)物見岩と思われる崖岩が東部にあります。
gorousai (4) よき眺めにござる。

gorousai (19) gorousai (14)
南腰曲輪に通じる虎口(写真:左) と北側の外部からの虎口(写真:右)が確認できます。

gorousai (12)東側端部から北側には直角に近い切岸がみられます。

敵の侵入を想定した東から北には回り込む敵に横矢を効かせられるよう工夫を感じます。
周囲を岩や崖を上手く利用して取り付きづらくしてあるのは権現山城と同様です。

gorousai (23)腰曲郭は堀切までつながっています。

苅安権現山城と五郎塞は尾根続きで連絡でき、お互いの姿も確認しあえる位置にあります。
もっとも、距離は離れているので、それぞれが別個の城砦と考えるべきでしょうが
築城時期は違えども、相互機能した時期もあったのではないか、と思います。


ひとしきり、見学を終えて、権現山苅安神社まで帰ってきました。
すると、なにやら人の気配がします。
こんな山中で人に会うこと自体珍しいのでびっくりしてしまいました。

イノシシやカモシカに合うことはあっても人間とは・・。
お互い挨拶をして人間同士?であることの確認をしたらそれぞれの興味は一つ。
「こんな山中で何やってるんですか?」

聞けばそのN氏さんは旧中山道をはじめ街道の歩きめぐりをライフワークとしてみえる方。
なんとなく同じ匂いのする者同士、しばし腰を下ろしてのおしゃべりです。
話しぶりから相当の手練れ者と推察いたします。

短い時間でしたが、いろいろと感じ入る、とてもためになるお話をしてくださいました。
連絡先を交換し、お互いの無事と安全、さらなる精進を祈って下山しました。
これも苅安権現様の思し召し。よき巡りあわせなのでしょう。

すがすがしい気持ちで満たされた苅安権現山城と五郎塞の城めぐりでした。



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美濃 釜屋城 🏯山岡町最大規模の城郭

美濃 釜屋城(岐阜県恵那市山岡町釜屋)

山岡町の釜屋にも勝氏の持ち城であったとされる山城があります。
位置的には明知城に近い域に入りますので明知遠山氏とは密接な関係にあったことが想像されます。

kamaya (11)釜屋集落を見渡せる山頂部全体に縄張りをもつ釜屋城です。

kamaya (10)
城址への登山は北東の山麓から入り更に尾根を北東へと歩みます。

kamaya (9)
尾根を進むと片堀切と思われる遺構が目に入ってきました。

kamaya (8) kamaya (3)
城内の曲輪間の斜面はいずれも削り込みがかけてあり、直登は困難な様子。

kamaya (1)曲輪群を見上げます。山岡町の山林は手入れが行き届いており遺構が把握しやすくグッド。

kamaya (2) kamaya (7)
よく見ると所々に石積みの跡も見られ、一部石垣もあった痕跡も見られます。

kamaya (4)主郭の段とその下の広い曲輪。ここから西と北に曲輪群が展開していきます。

kamaya (5) kamaya (6)
主郭の切岸のシャープな姿(写真:左)と尾根筋の堀切(写真:右)

尾根続きには堀切が見られますが、それほど深さはありません。
これは南が明知城との連絡道にあたるため、あえて浅い堀切にしたものと思われます。
むしろ連絡重視のため土橋がしっかりと付けられている感じがします。

全体的に切岸をキレキレに仕上げた感がありますが、主郭から西側下には長い土塁や横堀も
確認でき、その様は下手向城の手法と酷似しています。
おそらく同じ集団による同じ時期の築城であると推測できます。

・・となると、この城もあるいは武田氏の指示のもとに下手向城と連携した縄張りに
改築されたのかもしれませんね。

上手向城 🏯一城別郭?詰め城・館城関係?それとも?

上手向城(岐阜県恵那市山岡町上手向城ヶ峯)

下手向城とセットでこちら上手向城も登ってみます。
下手向城同様、こちらも城山自体は「どれが?」「どこが?」と言いたいほど目立たない山です。
およそ要害とは言えない地形ですが・・。

kamitouge (17)こうして見ても周囲とほぼ同じ高さの平凡な丘陵地です。

上手向城は二つの同規模の城郭が確認でき、お互いの距離はわずか40メートル程。
一方を城ヶ峯、もう一方が隠居ヶ峯(隠居峯)と呼ばれ、いってみれば2つで一つの・・
「バロム・クロス式城郭」です。
・・すみません・・そんな城郭用語はありませんので・・。
ただ言ってみたかっただけですので・・ご容赦を願います(でも、結構気に入ってます)。

kamitouge (19) kamitouge (1)
国道沿いにそびえ立つ一本杉が城址入口の目印です。馬頭観音の碑がある小山の奥の坂道を上がります。

kamitouge (20)
この小山からの岩村方面は街道を見おろす恰好の山ですので、城とも関係ありそうです。

坂道を上り詰めたところに民家があって個人宅の敷地に入ってしまいます。
ここは当然、一声かけて見学したい旨をお伝えします。
こちらのお宅はやはり城主の後裔の方であるとのことですね。

kamitouge (11)
個人宅の裏山にお邪魔する形になります。絶対に無断では入山しないようにしてください。

kamitouge (15)畑の奥の山が城ヶ峯にあたります。まずはこちらから見学を。

kamitouge (2) kamitouge (3)
郭内は下草もなく、木々も手入れされとても見学しやすいです。

kamitouge (4) kamitouge (5)
切岸がしっかり施され、全体的にメリハリのある段差が見られます。

kamitouge (7)頂部の櫓台風の段。周囲には武者走りがとりまいています。

kamitouge (6)
内部も主郭にふさわしく真平らに成型されています。

kamitouge (9)
西に連なる鞍部には土橋を設けて堀切状のようになっています。東に連なる尾根は無防備ですね。

続けて隠居峯にも行ってみます。

kamitouge (10)城ヶ峯からみた隠居峯、ホント目と鼻の先とはこのことです。

kamitouge (14) kamitouge (12)
こちらの遺構はややブッシュ藪ですが、それでも土塁と堀切のセット遺構がよく残っています。(写真右:土塁)

kamitouge (13)尾根を深く遮断する堀切にたまげます(;゜0゜)。

kamitouge (16)
氏神様が祭ってあり大切に守られてきた地であることがわかります。

『丹羽氏覚書』や「大井武並神社再建棟札」の写しによれば、永禄年間の城主は勝氏で
勝内蔵助義重、子の亦右衛門義氏親子の名が見られ、遠山氏の家臣として在城していたようです。
遠山氏とのつながりが強かった在地領主であったようです。

何故それほど要害性のないこの場所に2つの城郭遺構が存在すのか?
いろいろ考察しみるのも面白いものです。例えば・・。

・単純に詰め城と居館の関係で済まされるのか?
 (それにしてはお互いが近すぎます・・。)
・時代違いの遺構でしょうか?
 (遺構自体に新旧を見分けるほどの違いは見当たりません・・。)
・勝氏と外部勢力の別々の持城でしょうか?
 (これはアリですが・・一城別郭ともとれます・・。)

いずれにしてもお互いが補い合いながら併存していたように見られます。
逆に言えば築城の狙いも天険に頼るというより何か違う目的があったようです。

自分としては・・この2つの城の間を通らないといけない道があったとしたら(実際あるんですが)
・・通り抜けるのに怖いですね。

等々‥あれこれ想像できる玄人向け、城通(しろつう)好みの城郭訪問でした。

下手向城 🏯技巧的な縄張りが完存

下手向城(岐阜県恵那市山岡町下手向繁広)

小里川沿いの下手向集落を見おろす山頂にある城址です。
・・といっても特別目立つ山容でもないため、城山を見つけるのは結構大変かもしれません。
下手向簡易郵便局の後ろの山(北西方面)にあたります。

simotouge (1)比較的なだらかな山で登りやすそう。

simotouge (11)
蔵のあるお宅を沢沿いに入ると砂防ダムを経て城の西側にとりつけます。

simotouge (5) simotouge (3)
山頂にはよく整地された広い郭があり、主郭をなしてます。奥には土塁があります。

昔からある程度の山の管理がされているのでしょう。手入れされている山は遺構も見やすいです。
そして尾根側の巨大な土塁が目にはいってきます。まさしくこれぞ「土塁」という代物です!

simotouge (2)高さもさることながら長さも厚みもある土塁にしばし見とれてしまいます。

simotouge (4)背後の堀切も大きく遮断性が非常に強い感じがします。

simotouge (6) simotouge (8)
主郭の周囲、南から西へかけて横堀をめぐらしてあります。竪堀、竪土塁も併用してるんですね。

simotouge (7)主郭周囲の切岸の様子です。これでは登れそうもありません・・。

『丹羽氏覚書』にみられる石垣というのはこの斜面に残る自然石の固まりかもしれません。
同書によると下手向城は遠山馬之助の御内衆、渡辺氏の屋敷城との記述があります。
しかし、遺構の普請量や発達した縄張り技術を観察してみると、外部勢力による改築があったのでしょう。

simotouge (9)
城山中腹からの眺めですが、視界はそれほど効くようには感じません。

最近では武田氏による改築が指摘され、可能性としてその見方が高いようです。
岩村周辺の拠点として小里城方面(織田氏勢力圏)への備えとしていじられたのでしょうか?

下手向城のある地名は”繁広”とよばれ別名「繁広城(重弘城)」ともよばれています。
西を流れる沢も繁広川と呼ばれています。
これは「しげひろ」という人の名前が地名に残ったとされる考えもあるようで(山岡町史より)
城主の名前であった可能性もあるようです。

岩村城を摂取した秋山虎繁の”繁”の一字を拝領した部将、ナニナニ繁広なる人物がこの城の
城代として改変に携わった、なんていう推理もしたりして。

釜井館 🏯珍しい構造の屋敷城

釜井館(山田城)(岐阜県恵那市山岡町馬場山田釜井)<市指定史跡>

小里川をはさんで和田城のすぐお向かいに釜井館はあります。
どれくらい近いかというと‥。

kamaiyakata (3)これくらい近いんです!(^∇^)

kamaiyakata (5)
居館部に相当するスペースは非常にひろく、館城の様相が色濃く見られます。

kamaiyakata (1)
本丸の東西には高い土塁と横堀で仕切られています。

kamaiyakata9.jpg
”武家屋敷跡”として標柱が建っていますが・・”釜井館跡”ではダメですかね?

kamaiyakata (6) kamaiyakata (7)
屋敷にしては異常なまでの高土塁で櫓台と思われる箇所もみられます(写真:左)。
東側の堀は特に深く土塁と平行に伸びています(写真:右)。

東濃地方では珍しいタイプの遺構配置ですので、どのような領主によって築かれたのか興味深々です。
在地勢力の遠山氏なのか、岩村に乗り込んだ武田勢力によるものなのか・・。
いずれにしてもかなりの勢力をもった者による作事量ですね。

kamaiyakata (2)岩村、明知、小里方面の主要道が交差する要衝に位置しています。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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