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伊勢 津城 🏯織田信包、藤堂高虎に築き上げられた名城

伊勢 津城 (三重県津市丸之内・お城公園) <県指定史跡>

夏休みもお盆が終わって後半に入りました。
受験生を抱える我が家としては遊んでばかりもいられず、今年の夏は外出ちょっと控えめ・・。
(城遊びしている自分は例外・・。)
しかし、受験祈願に出かけるとなると話は別。

家族を引き連れ、半分思いつきで伊勢神宮まで参拝に出掛けました。
気分的なものではなくこの伊勢神宮一帯にはなにかしらパワーが秘められているのを感じます。
しっかり御祈祷して参りました。

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外宮と内宮、それぞれに参拝いたします。

受験生の長男クンは以前から藤堂高虎のファンなので、帰路で津城に寄ってみることにしました。
よっしゃ、作戦成功です・・。
そういえば彼、以前も読書感想文に「僕の一番尊敬する戦国武将」のノリで書いてたことありましたっけ。
ここは是非高虎様にもあやかってくれたまえ~(祈)。


津城の起源は永禄の頃に、長野氏の一族の細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に安濃津城を構えたことに始まります。

永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により津田一安が入城。翌年には信長の弟・織田信包が入城しました。
信包は城郭を拡大し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備、5重天守と小天守を建てたそうです。

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津城の碑と説明文が彫られた石板。最初は安濃津城(あのつじょう)と呼ばれていました。


tu (22)丑寅櫓は模擬隅櫓ながら存在感のある津市のシンボルです。

後世に津藩が古老の伝え語りや実見をまとめた『累世記事』によると、伊勢情勢に詳しかった滝川一益がこの地に城を建てるよう進言し、一益が縄張りをして信包に渡した、とも。

ここで織田信包についてちょっと・・

信包は母の土田御前妹のお市の方、姪の茶々、初、江を引き取りこの城で養っていたことでも有名です。
苛烈な性格の信長と違って温和で優しい慈愛の武将だったようですね。
そんな自分にない一面を持った実弟・信包を信長は一門として相当信頼していたのでしょう。

「信長公記」において織田一門の名が連なる場合、信包は必ず信雄と信孝の間に入っており、実質的に一門のナンバー3の地位に位置していたものと推測されています。
(信忠、信雄、信包・・の順)

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豊臣家の時代になると、信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、豊臣家家臣の富田一白が入城します 。
一白の子、富田信高は関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃されました。

信高と援軍にきた分部光嘉の連合軍は劣勢であったため苦戦を余儀なくされます。
奮戦の末、木食応其の調停により開城となりました。(安濃津城の戦い)

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じっくり見ると石垣などの遺構も迫力があります。地元民の、のんびりまったりできる憩いの場です。

そして伊予今治より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって津城に入城します。高虎は城の大改修に着手し輪郭式、いわゆる「回」字型の城郭に変貌、城下町を整備します。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となりました。

tu (29)いかにも藤堂高虎らしい普請の高石垣です。見事です。Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

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近くの伊賀上野城ととても似た縄張り。高虎の築城技術に対する一貫性が見られますね。

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本丸に建つ藤堂高虎公銅像(写真:左)と高山神社社務所に飾ってある高虎公肖像画パネル(写真:右)

tu (8)間近で見ると貫禄たっぷり。その人指し指の方向に見えるものは・・

tu (38) 知れば知るほど面白い高虎のお人柄。彼についてもっと勉強したい。

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今回の家族城めぐりで思ったこと・・。
「城」を語るのに「藤堂高虎」、彼なしでは語れないんだな、と改めて思いました。
にも関わらず、自分はまだまだ彼について多くを知りません。=(イコール)「城」についてまだまだ底が浅いな、と痛感しました。

そして、新たな目標ができました。
それは、高虎の築城した城郭をすべてこの目でしっかりと見てみることです。
然してそれは自分にとっても更なる城の勉強になると思うからです。

その時は長男クンに自分なりの「読書感想文」(当ブログ)を読んで欲しいと思っております。
(一緒に行けたらなおいいのですが・・。)

いつか高虎公築城城郭全てを訪ねたいものです。

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遠江 頭陀寺城 🏯若き秀吉、立志伝の始まり

遠江 頭陀寺城 (静岡県浜松市南区頭陀寺町・城屋敷)

夏の城めぐりは早朝がいいですね。まだ涼しいうちに・・ということでやってきました。
頭陀寺城(ずだじじょう)は「松下屋敷」という呼び名のほうが親しまれているようです。
「頭陀寺第一公園」に屋敷址を示す石碑と案内板があります。

この城はまだ若かった木下藤吉郎秀吉が出仕していた城として有名です。
年頃15歳前後だったようです。
松下嘉兵衛之綱は秀吉が出世した後、家臣としてとりたてられ久野城主1万6千石の大名までになったそうです。

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平成28年3月に置かれたばかりの新しい説明碑台。発掘調査の内容も盛り込まれています(写真:左)。

戦国期は松下氏が今川家より封をうけて、頭陀山の砦を預かっていた様です。
松下氏は曳馬城の飯尾氏の寄子だったともいわれています。

zudaji (9)お寺の名が入っているのは真言宗の古刹・頭陀寺の門前にあったからだそうで。

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屋敷は周囲を土塁と堀をめぐらした、小土豪規模のようでした。若干の盛り土らしい跡が見られます。

近くには(公園より北東200メートル)秀吉由来伝説の鎌研池伝説地もあります。

秀吉鎌研池 (静岡県浜松市南区頭陀寺町)

「頭陀寺第一公園」より北東へ200メートルのガソリンスタンドの裏あたりにありました。
現地の方に案内頂いたのですがちょっとわかりずらい場所です。

zudaji (11)脇の大木が目印。この場所は大切にされてきたのでしょう。

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このあたりで秀吉がうろうろしていたのかと想像してしまいます。

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ちょっと錆で内容が読みにくいのですが、解読してみると・・

鎌研ぎ池
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と言った少年の頃、この地を訪れ頭陀寺城主の松下嘉兵衛之綱に身を寄せ、天文22年3月(1553年)~永禄元年(1558年)の間下僕として奉公をした。
この時、馬草を刈るのに池の端で鎌を研ぎ試し切りのために池に生えた葦の片方へ出ている葉のみを切ったので、それから片葉の葦が生えるようになったという話しが『遠州七不思議』のひとつとして残されています。
また、松葉で手裏剣の練習をしたその松葉がメダカの目に刺さったので、池には片目のメダカが見られるようになったとの言い伝えがあります。    <案内板より>

と伝えられています。

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夢見る幼き頃の秀吉。立志伝の始まりの地ですね(曳馬東照宮内にて)。

遠江 曳馬城  🏯浜松城の前身城

遠江 曳馬城 (静岡県浜松市元城町・元目町)

浜松城以前ははここ曳馬城(引馬城、引間城)が一帯の拠点でした。
築城者については諸説ありますが、今川貞相が初めて築城したという。

その後は今川氏親の配下・飯尾氏がこの地を支配することになり、永正11年(1514年)、飯尾乗連が城主になったともいわれます。桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死すると飯尾氏の当主も乗連から子の連竜へと移り変わります。

hamamatu (31)街中に残っている曳馬城の地。浜松城へ拡張されました。

今川氏の衰退後、城主飯尾連竜今川氏真に反旗の疑惑をもたれ、連竜は殺されてしまいます。
以後の曳馬城は、連竜の家老の江間氏によって守られるも城内は徳川派と武田派に分裂して内紛が起きていたため徳川家康によって攻略された、とのことです。

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曳馬城の北側大手、玄黙口(げんもくぐち)から登城。切通しのような名残りがありますね(写真:右)。

三方ヶ原から命からがら逃げ帰った家康は、この城門へ退却したようです。
当時はまだ曳馬古城が浜松城の主要な郭であったことがわかります。

hamamatu02 (37)曳馬古城址には今も東照宮が祭ってあります。

ここまで来て顔色が変わります・・ォ━━(#゚Д゚#)━━!!。ないのです。城址碑が。
曳馬城の城址碑がぁぁぁ!なくなってるぅぅ!(T_T)
信じられません・・呆然とするより他ありません。

なんでも社務所の建て替えで、撤去されたみたいです。一時的なことならいいのですが・・。残念でした!
・・ということで、またしても20年前のネガ写真を探します。

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あった、ありました。曳馬城の石碑です。写真の色合いが古城感をかえってかもしだしています。
写真は保存しておくもんですね(冷や汗)・・。

hamamatu (38)東照宮には家康と秀吉の銅像がありました(これは逆に知りませんでした)。

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この家康公は壮年期のお姿なのでしょうか?顔の表情にやや腹黒さが出始めています(無礼者!)。
それにしても鎧具足の細かいところまでリアルに造り込まれて・・スゴイ。

家康は三方ヶ原での敗戦から貴重な「学び」を得たようです。
多くの部下を失い、命からがら逃げ帰ったきた家康は、そのときの思い様々を忘れることのなきよう
肖像画に残したと伝わります(あの有名な絵ですね・・)。

長い戦国時代を終わらせた本当の原動力はこの時、この城で得た貴重な体験があったからなのでしょう。

そう・・負けることから学ぶことは尊いのですね(´∀`*)。
我ながらうまくまとめれました。

次回は秀吉が若い頃いたという松下屋敷こと頭陀寺城にも行ってみたのでご報告いたします。

遠江 浜松城  🏯家康、出世城といえばこの城、天守門が復元。

遠江 浜松城 (静岡県浜松市中区元城町)

唐突ですが・・静岡県というところは誠にのんびりした地域だと思います。
以前より県民性の違いをテレビや雑誌などが取り上げていますが
人も時間の流れもとにかく全体的に穏やか。
食べ物も海の物、川の物、山の物、なんでもあって美味しい。

そんな静岡県遠江からこちら岐阜県美濃に嫁いできた我が奥方。
そのまんまの飾らない、明るくてのんびり、食べること寝ることが大好きな、ゆるキャラ女子です。

子供たちも成長し、以前のように里帰りもなかなかできませんが
毎年8月のお盆だけはちょっとこちらでのんびりさせていただきます。

そんな中、今回訪れたのは若き家康を飛躍に導いた浜松城。
新たに復元された天守門も見てみたかったので久しぶりの登城です。
案外、近いのに、今までじっくりと見学してなかったですね。

hamamatu (11)地階3階の模擬天守。確かに天守台とサイズがあってないような・・。

hamamatu (1) 浜松城公園の駐車場はうれしい無料!結構広い。

hamamatu (2) 天守が見たいばかりに近道から登城します。

hamamatu (21) 天守門を見上げます。

hamamatu (14)浜松城案内説明版。石垣の構造が図入りで説明。

元亀元年(1570年)徳川家康は本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移しました。
岡崎城は嫡男・信康に譲り、曳馬城を西南方向に拡張します。
その際、「曳馬」という名称が「馬を引く」→つまり敗北につながり縁起が悪いということから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めたそうです。

hamamatu (13)浜松城といえばこの見事な野面積(のづらつみ)石垣でしょう。

浜松城の石垣は浜名湖周辺から湖西市にかけての山から切り出された珪岩(けいがん)が使われました。
自然石を上下に組み合わせた野面積の完成形です。

隙間まるけで崩れやすそうですが、奥行きがあって、内側に小石や砂利がたくさん詰めてあります。
水はけもよいため、意外と堅固で丈夫。しかし地震には弱いかもしれませんね。

自分、石垣が結構好きで、特にこのような豪快で荒々しいのが、どストライクです。
”戦国時代の石垣”って感じがして、ずぅーと見てても飽きませんね。

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一つ一つが庭石のような生命感のある石垣。角部は算木積っぽく仕上がってますね。

hamamatu (5)浜松城天守閣。コンクリート造りながら外観板張り。石落としもありますよ。

天守内部からは浜松市内が一望のもとに見渡せます。
写真は掲載できませんが、ヤングマガジン掲載の「センゴク」の作者、宮下英樹氏の力作も見れますよ。
家康が三方ヶ原から鬼の形相で逃げ帰る様子がとてもよく表現されています。

むらがる武田軍、身を呈して主君を守ろうとする家臣たち、半泣きで歯を食いしばり逃げる家康・・。
見たい方は、是非とも浜松城へ行ってその目で見てください(笑)。
(久太郎、「センゴク」、「センゴク天正記」、「センゴク一統記」、「桶狭間戦記」他いろいろ、全巻揃えてます!)

IMG_2060.jpg 最上階より三方ヶ原方面を見ます。

元亀3年(1573年)武田信玄は浜松城を攻める軍事行動を見せながらこれを無視するような形で家康を挑発。
三方ヶ原に誘い込み、反転して家康軍を待ち受けます。
まんまと挑発された家康は三方ヶ原にて武田軍の反撃に遭い大敗北を喫します(三方ヶ原の戦い)。

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ちょっと変わったお土産に馬の蹄鉄はいかがでしょうか。デザインもいろいろでかっこいいですよ。

ちょっとした戦国インテリアにうってつけです。(スタンドは自前モンですので・・)。
1,000円より2,500円ぐらいまでいろいろ。女性向の雅な絵柄のものもありましたよ。
お求めは天守閣内の売店までどうぞ。

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あちこちの石垣も見所があります。角部が弧を描いたところも石垣ファンならチェックです(写真:右)。

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以前より木々が切り払われてます。全体像をみるにはいいのですが、リスたちはどこへ行った??

hamamatu (25)平成26年3月に復元された天守門。櫓門で内部にも入れます。

よく見ると石垣一つ一つの色が違って鮮やか。大小も様々でホント面白いです。

hamamatu (27)若き日の徳川家康公銅像。・・?・・すでにおっさんではないですか?(°_°)

家康公の右手には兜印の羊歯印(しだじるし)が掲げられています。
よくある武将の銅像は兜着用が多くて、なるほどかっこいいのですが、写真を撮ると陰で顔が真っ黒に・・。
そこへいくとこの家康公は顔がよく見えていいですね。

hamamatu (28)浜松城(本丸)址の石碑。意外なところに隠れてますよ((^∀^*))。

さて、お次は浜松城の前身だった曳馬城の探検に出発です。すぐ近くです。

三河 西尾城 🏯歴史公園として甦った復元丑寅櫓と鍮石門

三河 西尾城 (愛知県西尾市錦城町) <市指定史跡>

三河の城めぐり、本日のメイン・イベントはここ西尾城。

東条城に対して西条城、と呼ばれていたのが西尾城です。
戦国時代には牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主が変わり、そのたびに城域も拡大しました。
”南三河”という区域でみれば最大の城郭といえます。

20数年ぶりに訪問したのですが、その変貌にまず驚きました。
復元された櫓と門、天守台もあるではありませんか(本やネットで知ってはいましたが)。
これには弟くんも父上さんもいい意味で期待以上だったようです。

nisio (23)真っ先に目に入ってくる本丸丑寅櫓。・・かっこいい(*≧∪≦)

nisio (20)二ノ丸表門の鍮石門(ちゅうじゃくもん)。間口が広いです。篝火台がいい!

まだ新しいので当たり前ですが、きれいです。
特に瓦はさすが三州瓦の本瓦葺、青光りしています。

天正13年(1585)に家康は三河諸将に命じて西尾城の大改修を行わせます。
家康はわざわざ浜松から来て落成を祝い、この城を「鶴城」と命名しました。
隣の刈谷城を「亀城」とし、めでたい名前を並べて付けました。

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二ノ丸天守台は多門櫓が2つ付いていたため立派な天守だったようです。

天守は普通、本丸に築かれるものですが、二ノ丸に築かれていたのが西尾城の特徴です。
予算が組めれば天守の再建も予定だそうです。
・・なかなか資金集めが大変そうですが、いつかここに天守があがる日が来るかもしれませんね。

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土塁や野面積石垣もきちんと整備され見応えがあります。

城内には他にも旧近衛邸が移築されており、江戸末期の数寄屋造りの書院と茶室などが見学できます。
一人だったらゆっくり見学したいところですが、父上と弟くん、はや本丸に突入しておりますがな・・。

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内堀には水が引かれ、城の周辺に水路としての名残りがあります。

nisio (25)櫓内部に入っていきます。近くで見ると結構迫力あります。

nisio (2) お昼ご飯を食べて復活した父上。真っ先に登ってく。

nisio (7) 狙撃手になったつもりで狭間からのぞき込む。

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櫓内部も忠実に復元されており、丈夫な梁の様子がわかります。遠くの景色も見通しがよい。

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上部の漆喰塗籠と下見板張の黒色がとてもマッチしていて締まった感じです。

nisio (9)西尾城石碑。この景色は昔から変わらないなぁ。なんか懐かしいです(*´v`)。

資料館に寄ってみたところ、館長さんにいろいろな補足説明もしていただきました。
西尾城の復元天守モデルを前にして目を輝かしてお話ししてみえたのが印象的でした。
天守復興計画、かなうといいですね。

館長さんに勧められて、ちょっと足を延ばして尚古荘にも寄ってみました。

尚古荘 (愛知県西尾氏錦城町176番地)

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尚古荘は昭和初期、米穀商の大黒屋、岩崎明三郎氏によって作られた日本庭園です。
西尾城への入口にあたり、城の石垣や遺構、歴史遺産を活用した庭園設計がされています。
しばし、ゆっくり散策してみます。

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東の丸、丑寅櫓跡に建てられた東屋。ここからの眺望が格別でした。お茶の一杯が美味しい。

nisio (18)石に染み入る蝉の声・・。しばし暑さを忘れさせてくれた素晴らしい日本庭園。

隠れスポット発見じゃ!。

今回は久しぶりに父と弟での城めぐりができて楽しかったです。
他にも何ヶ所かの城址に付き合ってもらい、引きずり回してしまいました。
親兄弟、男同士の三河城めぐり、今回はここまで。また付き合って欲しいものです。

三河 東条城と小牧砦 🏯三河吉良氏の本城と家康本陣を訪ねる

三河 東条城 (愛知県西尾市吉良町駮馬城山)

安祥城をあとにした我々が次に向かったのは吉良町の東条城。
本日のセミ・ファイナルの城です。

吉良氏代々の居城としての歴史はとても古く、承久の乱あたり(1221年)までさかのぼります。

toujyou (3)模擬櫓門、模擬櫓が再建されています。いい感じで戦国チックだな(*´~`*)。

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戦国期の建築様式がよく研究されて再建されているようです。門番がいそうですね。

toujyou06.jpg シンボル的存在な模擬櫓。

桶狭間の戦い後、三河統一に乗り出した松平元康(徳川家康)によって攻略され城主・吉良義昭は降伏。三河一向一揆で再び家康に背いて抗戦するも和議の後、城を追われます。

城址の周辺には東条城をめぐる合戦の史跡が多く見られました。
暑さと時間の都合でゆっくりと回れなかったのが残念。
次回またじっくり見学したいものです。

toujyou (4)東条城城址石碑。

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城内にある説明版には東条城に関する解説が詳しく書かれています。

ろくすっぽ城に関する予習をしてこなかったので説明版の内容を熟読させていただきました。
家康にとって三河を統一するにあたり今川氏・吉良氏との衝突は避けることができない難関でした。
松平一族の旗頭として吉良氏を降したことで三河は平定されていきました。

toujyou (7)東条城。気に入ったのでいつもより写真多めになってしまいました(#^.^#)。

三河 小牧砦(愛知県西尾市吉良町小牧郷中)

家康が東条城を攻める際、本陣を置いたところが小牧砦です。
合戦後、功績があった本多広孝の所領となり、砦跡に邸宅を構えたそうです。

IMG_9693.jpgさりげなく花が植えられていてきれいなお庭の様。
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遺構はありませんが、一画に整備された陣屋址と説明書き付の石碑が置かれていました。

三河 安祥城と安城古城 🏯三河松平家の礎となった城

三河 安祥城 (愛知県安城市安城町赤塚) <市指定史跡>

今年から国民の祝日「山の日」が増えました。
この日からお盆休みを取られるところもチラホラ見受けられます。

誠に勝手ながら久太郎としては、「山に親しむ、山の恩恵に感謝する」の意を
「山城に親しむ、山城の恩恵に感謝する」と付題。
これより毎年8月11日を4月6日に準ずるマイ「山城の日」に制定いたしました。

・・といっても・・この猛暑。さすがに山城は体にこたえます。
そんなに肩を張らず、広い意味で気楽に「お城巡り」でよろしいいんじゃございません?
・・ということで今回は三河方面に出かけてみました。

声をかけたら意外にも父と弟が付き合ってくれるとのこと。
これでかえって無理(無茶?)のない城めぐりができそうです。

まずは本日のセミセミ・ファイナル安祥城(あんじょうじょう)からです。
安祥城は城址公園として整備され、大乗寺了雲院がある小山一帯にあります。

ansyou (2)安祥城址公園内の立体案内板。当時の遺構と現在の様子が絶妙にシンクロ。

複雑な三河戦国史ではありますがこの城のポイントは2つ。

1つには、三河武士団の中枢を作り上げた城だということ。

岡崎城に本拠が移る前まで松平家代々の居城となり、徳川最古参の三河安祥七御譜代の発祥の地となったことです。
三河安祥の七御譜代とは・・酒井(左衛門尉)、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村らです。
またはこれに大須賀、榊原、平岩などらも指すこともあるようです。

2つには、織田家と松平・今川家との激しい争奪戦が何度も繰り広げられた城だとういこと。

一時は織田信秀の領有となり、信長の庶兄・織田信広が城主として置かれました。

織田信広は安祥城を持ちこたえられずに今川方に捕縛されてしまいますが、ちょうど織田方に人質としてあった松平竹千代(のちの徳川家康)と交換されて、なんとか尾張に帰ることができました。
その後、織田家を継いだ信長に仕えていましたが、美濃の斎藤義龍とつるんで、清州城を奪おうとしたことがあったようです。
これは、もちろん失敗に終わりましたが、以後は信長のもとで忠実に働きます。
信長にとっても「兄」という肩書きは大いに利用価値があったものと思われます。意外と従順な態度に信用がおけたのかもしれませんね。
なんせ(今度)刃向かったりしたら弟・信勝(信行)のように殺されかねませんから・・。(おお、こわ・・)。

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城址公園として遺構もよく残り、イメージも大きく崩していないので、憩いの場としてもいい感じです。

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当時はあたかも”浮城”のような感があったそうで、そのイメージが大切にされ見学しやすいです。

ansyou (6)まるで望楼型天守最上階を思わせるような立派な門と石碑。

安城には安城古城なるものもあるようです。

三河 安城古城 (愛知県安城市安城町社口堂) <市指定史跡>

安城古城は安祥城より西へ800メートルほどの高台にあります。
若干の土塁が残っているようですが、一帯は畑や住宅地になっています。

ちなみに「あんじょう」地名の読みは安城も安祥も同じ。他、安静、安詳、などの表記もあるようです。
・・ちょっと紛らわしい・・。ここは安城の字ですね・・。
それほど歴史が古い、という証でもあります。

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以前に撮ったネガ写真なので古いですが・・。安城古城の説明版があります(見つけた時はうれしかったです( ^ω^ ))。

鎌倉から室町時代の居館だったようで、安祥城の築城に伴って徐々に機能を失い廃城になったようです。
それにしても派生した「○○松平家」の多い事、多い事・・。
えぇ~と・・どの松平がどの城に入って、どことどこに分家して・・。
・・ムリ・・覚えられない(T_T)

越前 金ヶ崎城と手筒山城  🏯朝倉景恒の籠城と織田氏撤退戦の舞台

越前 金ヶ崎城 (福井県敦賀市金ヶ崎町・金ヶ崎山)<国指定史跡>

敦賀城より西の山に目を向けると金ヶ崎城と尾根沿いに連なる手筒山城があります。
敦賀湾に突き出した小高い丘に築かれた山城が金ヶ崎城。
源平合戦の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられます。

kanegasaki (1)手筒山頂上から金ヶ崎城主郭部を見下ろします。

南北朝時代には、新田義貞が入城。
足利方と激しい籠城戦が繰り広げられ、現在の遺構はこの時のものが元になっている模様。
現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残っています。

kanegasaki (10)金ヶ崎城の石碑。あまりに有名な歴史上のターニングポイント。

そして元亀元年(1570)四月。朝倉義景討伐のため織田信長は越前に攻め入ろうとしてこの地に襲来。
朝倉氏一族の敦賀郡司で城主朝倉景恒は善戦するも援軍が間に合わず開城。

大軍を前に持ちこたえようと選択した景恒だが、支城・手筒山城を落とされ、降伏勧告を受け入れ開城します。
そのため他の一門衆から「不甲斐無し」と非難され、失意のうちに亡くなってしまうのであります。
・・しかしです、この朝倉景恒、朝倉家中では景鏡と並ぶ実力者なんです。

そのうえ、義景の命により若狭に侵攻した際には、小浜まで侵攻。
武田氏の跡継である武田元明を捕縛し一乗谷へ連行するという大戦果をあげています。
「どこが不甲斐ないんじゃー(*`皿´*)ノ!!」と声を大にして叫びたいのです。
さすがは朝倉宗滴系列の武将ではありませんか。
信長軍と槍を交えたこと、きっと宗滴じいちゃんに褒めてもらっていることと思います。

・・話を戻します。

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金ヶ崎合戦の碑。南北朝期の旧跡として見学するほうが正道かもしれません。

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目玉はやはりここ月見御殿址からの敦賀湾の絶景でしょうか(右手の工場もそれなりに絶景)。

浅井長政の謀反によって挟撃される形になり窮地に陥った織田軍。
殿軍を努めた木下秀吉の「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる活躍はあまりにも有名です。
ただ、この殿軍は秀吉だけでなく明智光秀、池田勝正ら金ヶ崎城に配置された諸将の働きあってのこと。
なによりも信長の強運があってのことでしょう。

kanegasaki (9)金ヶ崎の撤退戦にて秀吉家康の功績が大きく取り上げられた説明版。

続いて背後の支城、天筒山城へ向かいます。

越前 天筒山城 (福井県敦賀市天筒町・泉・天筒山)

金ヶ崎城から尾根沿いに登れば天筒山城まで到着します。
時間に余裕があれば登りたいところですが、以前来城したときに登っているので今回はパス。
結構キツかったことは覚えていますので・・。
車で移動して天筒山登山口まで移動します。

kanegasaki (18)金ヶ崎城から見る天筒山城。あそこを取られたら来れる援軍も来れない。

朝倉景恒は金ヶ崎城に立て篭もり、隣接するここ天筒山城には寺田采女正を守備にあたらせていました。
朝倉義景は自ら一万四千の兵にて敦賀に向かうもその歩みは遅かったようです。
十万を越える織田軍は一斉に天筒山城を総攻撃。
要害である天筒山城での攻防は大激戦となり、信長軍は樫曲に回り込み湿地帯から攻め上がります。
双方多大な犠牲をだしながら、信長軍はようやくこれを落とすことに成功します。
しかしこの戦いで森可成の嫡男森可隆(長可、蘭丸らの兄)は、一番乗りを目指し深入りしすぎたため討ち死にしてしまいます。初陣で十九歳であったと言われます。

弟の長可が「鬼武蔵」と呼ばれる同様、兄・可隆もきっと勇猛な前途ある武将だったと思われます。
ちょっと武功を焦りすぎたかもしれませんね・・。

kanegasaki (5) kanegasaki (2)
山頂には展望台が建っていて、周囲の眺めがとてもよく見えました。

この展望台、中が螺旋階段になっているのですが、昇りながらクルクル目が回りそうになりました。
しかしその分眺望は素晴らしいものとなっております。

kanegasaki (3)
公園に改変されてはいるものの、城址の面影はよく残っています。

真夏でなければ堀切などの探索をしたいところでしたが、雑草や茂った木々に阻まれて断念。
端から端まで歩くと意外と広大な規模である城だとわかります。

kanegasaki (4)んんっ?・・「見張台」?・・。れっきとした一大城郭なんだけどな・・(´・_・`)

kanegasaki (6) kanegasaki (8)
展望台からは樫曲の中池見湿地が見おろせます。平野部にこれほどの湿地帯があることは貴重ですね。

城とは別にまたいつかあの湿原に行ってみたいものよ。

越前 敦賀城 🏯智将・大谷吉継の居城で有名だが、あの武将も・・。

越前 敦賀城 (福井県敦賀市結城町)

無事に南越前マラソンを走り終え、充実した気分。
疲れはしましたが、気分は爽快。
せっかく福井県まできたのですから、寄り道ならぬ、寄り城へ・・。

・・ということで敦賀市までやってきました。
お目当ては敦賀城とその周辺の城です。
いつ来ても敦賀湾は穏やかな海です。

turuga (4)西小学校前の城址石碑。まるで屏風のようでかっこいいです!

以前、足を運んだ真願寺へ行ってみると現在山門を修復中とのこと。
城址碑も一時的に撤去されていました。
20年前のネガ写真を探って掲載することとします。

turuga (3)
真願寺山門前の城址碑(1995年5月撮影)。雨がパラついてました。

ootani.png turuga02 (1)
町を挙げての大谷吉継アピールがうかがえます。史跡めぐりが徹底的です。

大谷吉継はドラマや映画、ゲームや小説などでも人気のある武将です。
個人的にも彼のような武将としての人生には大いに共感しています。

・・しかしこの敦賀城、忘れて欲しくない人物が築城主の蜂屋頼隆です。

織田信長政権下では黒母衣衆として名を連ね、地味ですが数々の戦いに参加。
本能寺の変前には和泉岸和田城主として国持ちにまで出世します。
まさに”ひたむきな努力”でのし上がった我が地元の誇るべき武将なのであります。

彼の事績を追っていくと随分と涙ぐましい努力がみられます。
同僚がどんどん地位と勢力を伸ばしていく中、あくまでマイペースを維持。
四国方面軍の副将に抜擢されたのもそれまでの功績を買われたものかと思われます。

turuga (2) turuga (5)
写真:左は敦賀城の説明版(劣化が激しいが味があり)  写真:右が周囲の掘割の名残り。


本能寺の変直後、織田信孝・丹羽長秀は共謀して、同じ副将で光秀の女婿・津田信澄を誅殺しましたが
頼隆は思うところがあったのでしょう、これに関与しなかったと聞いています。

蜂屋頼隆の信長への思い、大谷吉継の三成への思い、どことなく共通するところがあるように感じます。

越前 杣山城 🏯崖山上に敷かれた難攻の山城

越前 杣山城 (福井県南条郡南越前町阿久和周辺・杣山) <国指定文化財>

いよいよ南越前の最要衝、杣山城(そまやまじょう)に到着。
集落の様子がどことなく一乗谷の城下町の雰囲気に似ています。
とりあえず二の城戸付近を散策します。

IMG_9511.jpg二の城戸にある杣山城城址碑。国指定文化財らしい趣を感じます。

杣山城は戦国時代より前、南北朝時代の南朝方の拠点として新田義貞らが籠城したことで有名です。
戦国期には朝倉氏の持城として家臣河合安芸守宗清を城主としました。
天正元年(1573年)刀根坂の合戦で河合安芸守は討死にしてしまいます。
天正2年(1574年)一向一揆勢が織田勢と戦った時は一向一揆衆が杣山城に籠りますが織田勢に敗れ廃城に。

ここで河合安芸守について・・
戦国SLGなどに朝倉氏傘下武将としてたびたび登場する河合安芸守吉統(かわい よしむね)
おそらく同一人物か近い縁者かと思われます。
内政手腕に優れ、当初は朝倉義景の奏者として活動、天文19年(1550年)には奉行衆に任命され、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)頃まで、朝倉家家臣団最高位にあり、「一乗谷奉行人」と称され行政全般に関与しました。
また武将として弘治元年(1566年)には 大野郡や加賀への出陣記録が残り、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも2000余騎を率いて先鋒として参陣しています。
以後も度々出陣記録が残り、天正元年(1573年)織田軍との刀禰坂の戦いで戦死するまで朝倉家の重鎮だったようです。

凡庸な朝倉義景の見た目のため家臣まで地味になってしまいがちですが、真柄直隆河合吉統などの
バリバリの勇将・智将がいたことをもっと知って欲しいと思います。

IMG_9509.jpg 城戸の堀にはハスの葉が寄り添い合ってます。

杣山周辺にはハスの花や葉が所々にみられ、幾分涼し気に感じるのです。

さて、山腹までの林道と駐車場があるとの前情報でしたが・・。
ま、まさかの通行止め!(こ、これは・・やばい・・)。
さすがに麓からの登城は危機的。

・・それにしても、山頂がはるか遠くに感じます。
・・この猛暑真っ盛りの午後にホントに登り切れるか?
・・登った以上、下山しなきゃならんぞ!

IMG_9533.jpg視線を山頂にロックオンしながらも正直・・登城を躊躇してしまいそうになる|ω・`)。

「なんのためにここまで支城を落としながら来たのか!」、という心の中の武断派意見。
対して・・。
「明日はマラソン大会ですぞ!体を休ませるためにはここは撤退を!」、という心の中の文理派意見。
「各々の意見、もっとも」、といいながら思案にふけります(この時点で少し頭もやられているようです)。

IMG_9502.jpg 案内版でも尻込みモンのコースばかり。

すると・・目の前に・・つがいのサギが舞い降りるではありませんか。
「これぞ、吉相!」
よって全軍(全体力)をもって総攻撃の決定と相成りました。

IMG_9504.jpg

IMG_9516.jpg
今回の攻城口は居館址から。この敷地もとても広く真正面に本丸を見上げます。

登山道は思っていた以上に険しかったです。
特に崖を回り込んでの荒道はとても難所できつかった。
高い湿度と目の前をブンブン飛び回る虫との闘いも。まさに「蒸し虫(ムシムシ)攻撃」です。

IMG_9517.jpg 遺構が目に入ってきました。櫓台址かな?

IMG_9519.jpg IMG_9520.jpg
大きな土橋と堀切が現れました。土橋はスロープ状になっており高低差があって登りにくくなっています。

IMG_9526.jpg IMG_9523.jpg
なんとか主郭のある頂上に到着!1時間近くかかりましたね。・・ん?、どれが、なんの石碑だ?

IMG_9525.jpg杣山城頂上碑です。杣山合戦についての様子が綴ってあります。
読みながら休憩(´ω`人)。


生い茂る木々で周囲の見晴らしはそこそこですが、360度のパノラマが広がっていたことでしょう。
蒼い山々に包まれているのが体感できて登ってきた喜びがあります。
以前、弟と一乗谷山城にへたれながら登り切ったのを思い出します。

IMG_9527.jpg 腰郭から見上げる本丸段。

IMG_9518.jpg IMG_9528.jpg
主郭周辺には城にまつわるスポットも多い。想いをよせての探索は暑さを忘れるほど楽しい。

しかし、体は正直。帰り道の降り道は足がガクガク。
再び待ち構えていたように「蒸し・虫(ムシムシ)攻撃」にさらされます。
払いのけながら麓までおりると愛車のそばに宝石のごとしカミキリムシが!

IMG_1854.jpgわぁ、きれいなルリボシカミキリ、初採集!興奮して手が震えます。
子供のころからの憧れだったんです(((o(*゚▽゚*)o)))


今でも変わりない子供なんですが・・。これはうれしかった!
ありがとう、杣山城!楽しかったぜ、杣山城!!
いずれまた来ようぞ!

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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