美濃 小里城・御殿場(前編・居館部から山頂へ) 🏯山頂の天守台と山麓の居館部が楽しめる城

美濃 小里城・御殿場 (岐阜県瑞浪市稲津町小里・城山) <県指定史跡>

小里新城でも触れましたが「小里城」と言えば、一般的にはこちらの小里城山城のことを指します

私事ですが、まだうら若き二十歳の時、はじめて買ったマイカーとはじめての城めぐりがここ小里城でした。
山頂まで汗だくになって登り、突然現れた天守台石垣に超感動したものです。
ちょっと興奮しすぎて胸がドキドキ、バクバクしてたのが今でも忘れられません。

orisiroyama (37)当時から強烈なイメージとして焼き付いた小里城天守台の残像・・。

それ以来、折に(小里に?)触れて登っています。
近年は県指定史跡としての範囲も広がり知名度も上がりました。遠方のほうからも訪れる人も多いようです。
小里城は自分にとっても大好きな城址の一つであります。

orisiroyama (1)小里城山の全容。いかにも山城のありそうな雰囲気があります(;゜0゜)。

山頂背後がえぐれ、まるで斧の刃のような山容です(大袈裟ですが・・)。
ちょっと高い山ですが、登城意欲が掻き立てらます。
県道20号沿いに駐車場がありますので、そこから登城していきます。

orisiroyama01 (8) 対面に大駐車場完備!

orisiroyama (2) orisiroyama01 (3)
 小里城、小里城、小里城・・と、「これでもか」、というほどののぼりと案内看板。猛アピールです。

orisiroyama01 (7) orisiroyama01 (6)
登城途中にも石垣遺構が目に入ってきます。

orisiroyama (3) orisiroyama01 (4)
小里城説明版の前を通り、山麓居館の大手門が見えてきました。

orisiroyama (6)隅部には整形した石を使いつつ、中は落とし積や野面積で組まれています。

orisiroyama01 (5) なかなかの巨石を使用してあり迫力があります。

「ちょっと積み直しました」感のある、趣ある石垣です。左側と右側の違いも楽しめますよ。
居館部の石垣部分は数段みられ、規模も大きい事から陣屋構造を色濃く残している遺構といえます。
この大手門址は桝形虎口となり、内部の「御殿場」へと進みます。

orisiroyama (8) orisiroyama (40)
御殿場は端から端まであるくと結構な広い面積があります。
歩くたびにバッタが飛んでく・・。うわぁ!へびさんもいるぅ・・~>゜)~~~(写真はやめときます)

orisiroyama (39) orisiroyama (11)
御殿場址の石碑と案内板。礎石や石組み水路などの存在も発掘調査でわかったようです。

orisiroyama (10)熊沢喜三郎氏懇親の出来栄えの縄張り図。小里城の遺構を余すところなく描いてあります。

orisiroyama (12) すぐ脇には満々と水を湛えた井戸址?も発見。

ちょっと寄り道して、東砦の堀切も見学に行ってみました。

orisiroyama (41) orisiroyama (44)
東砦には城山城への尾根筋と御殿場への東からの侵入に対して備えられているようです。

近年、城郭研究家の熊沢氏によって発見されたそうです。
きっと山中をくまなく歩かれての発見だったと思われます。

orisiroyama (42)尾根を分断している様子がわかりますでしょうか?

そしていよいよ御殿場から南へ城山コースへを山頂に向かって登っていきます。
尾根沿いのルートはそんなに険しくはありません。
テンポよく進めばむしろとても整備されていい運動になります。

orisiroyama (13) 途中、見晴らしの良い所で休憩です。

orisiroyama (38) orisiroyama (14)
大手曲輪、二の曲輪と進むにつれ、削平地も大きく整地されていきます。石垣もちらほら見えます。

途中、何人かの見学者ともすれ違います。元気な小学生クンにも会いました。
ご年配のお父さんともしばし談笑。小里城についてのウンチク話に始まり城の話に華がさきます。
お互いの城好きの力量を試し合うかのような応酬にどんどん盛り上がっていきます。

しかし・・なんでしょう・・。
見ず知らずの方と、この一瞬にして打ち解けてしまう不思議さは・・。
こんなパターンは今まででもよくありました。つくづく城の力ってすごいと改めて思います。

時間は尽きませんが、お互いの安全無事と、いい城めぐりを言ってお別れします。

そしていよいよ頂上はすぐ頭の上にあります。 (後編・山頂部に続く)

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秋雨の中、飛騨御嶽ハーフマラソン大会に出場

第2回 飛騨御嶽ハーフマラソン大会
(会場:飛騨御嶽高原高地トレーニングエリア)
平成28年9月22日(祝日・木) AM10:00スタート

前日までに台風は通過、影響はあるものの、台風一過での素晴らしい晴天!・・。
そんな淡い期待は無残にも打ち砕かれました。
雨です。しかも結構な、どしゃ降りで。

名峰・御嶽山はもちろん、周囲の風景すらガスって何にも見えません・・ぐすん(T_T)。
呆然といった感じで過ごす車内の自分とY吉さん。
止んでくれないかな・・そんな願いも空しいばかり。

しかし、天気だけはどうにもなりません。
今回が初ハーフのY吉さん、いきなりの悪条件にも意気込みを感じます。
意を決して打って出るのみです。

「是非もなし・・」

ですので、今回のレポート報告、写真はなし。カットです。
イメージ画像としてパンフレットからお借りしします。
(カメラもスマホも濡れたら一発で壊れそうなくらいに降ってましたので・・)

スキャン_20160923 (3)「重要事項」の内容には「警告」ともとれるこのマラソンの特徴が。

雨のためアップもせず、ほぼストレッチのみでスタートラインに立ちます。
こんな雨なのに、ランナーのみなさん、それを楽しんでいる表情ばかり。
なんだか気が楽になっていきます。

そしてスタートです。

<序盤>
序盤から上りなのでここはゆっくりとペースを掴みながら。
3km地点から7km地点までは長い下りが中心。勝手に脚が前へ進むのをコントロールします。
多分・・晴天なら大パノラマが広がっているであろう爽快な下りでしょうが、何も見えず・・。

ここで、ふと不安がよぎります。
スタートとゴールは同じ地点、すなわちこの下り、今は気持ちよく走ってますが、やがて終盤になれば
地獄の上りとなり、くたくたになった折り返し走者に容赦なく襲いかかってくるのでしょう。

・・考えない、・・考えない。

<中盤>
第1折り返し地点へ向かいます。
すでにアップダウンが始まっており、上りを歩いている走者もちらほら目に入ってきます。
序盤から飛ばすととツケが来る地点です。

第2折り返し地点へ向かいます。
御嶽パノラマグラウンドを一周する形です。くどいようですが、パノラマといっても何も見えないのであります。
ここでは給水所にチョコレートがあり、大変助かりました。

スキャン_20160923 (4) 第2折り返し地点は晴れていればこんな感じ。

<終盤>
予想通り、ひたすら、ひたすらの5kmにおよぶ上り坂。その高低差200メートル以上。
持てる力と気力を使ってじっくり、ただひたすら自分との戦いです。
自分より前を走っていた走者もあちこちで歩いたり、止まったりしています。

スキャン_20160923 (3) - コピークロスカントリー、トレイルランなみの高低差に翻弄されます。

練習量の差がここで出てきます。
足を止めることなく頂上までたどり着けばあとはゴールまで1kmの降り坂。
最後の力を振り絞って全力スパートをかけ、無事にゴールできました。

高地(低酸素)、山岳、豪雨、低気温、景色なし、・・。走るにつけ、雨は勢いを増すばかり。
「過酷」、まさにその一語に尽きるようなレースでした。
しかし裏を返せば戦略性の高いとても醍醐味あるコースなのです。

スキャン_20160923 2時間以内に走れたことには大満足です。

初のハーフマラソンを無事完走できたY吉さんもゴールです。
レース後、「悔しい!」というY吉さん。それはどうやらタイムのことではなさそうです。
このキツくも素晴らしいコースの絶景パノラマを見れなかった事に対しての残念さの表れでした。

・・ということで、どうやらまた来年もチャレンジするような雰囲気です。
もちろん受けて立つつもりで。
次は是非ともいい天気の下で走りたいな、と願うばかりです。

今日の悪天候、きっと「次回、また来いよ、」という思し召しなんでしょうね。
また鍛えて直して来ましょう。

hidaonnT.jpg 
P.S:参加賞のTシャツ、かっこいいデザインです。(帰宅後・・速攻、奥方にねだられて、プレゼント行き。)

美濃 小里新城 🏯小里氏発祥の城

美濃 小里新城 (岐阜県瑞浪市稲津町小里諏訪)

久しぶりに地元での城めぐりです。
「暑さ寒さも彼岸まで」、とはいうもののまだまだ暑い今日このごろ。
なんとなく瑞浪市に来てみました。

瑞浪市の稲津地区には、中世から近世にかけて領主・小里氏の居城とされる城址が3ヶ所あります。
小里古城、小里新城、小里城山城と時代ごとに3つの城址が伝えられる中、遺構が残るのはここ小里新城と小里城山城です。
「新城」と言っても古く、一般的に「小里城」といえば、小里城山城のことを指します。

そんな「新しい城」、というイメージの割に知名度のない小里新城。
尾里(小里)太郎国定の居城といわれ。、尾里国定は正中元年(1324年)の正中の変で、京で戦死したといいます。
南北朝期かそれ以前の鎌倉後期からの城ということになります。

・・ということで、城の歴史はとても古いことになりますが・・。いかがなものなのでしょう。
見学に行ってまいりました。

orisinnjyou (16)小里新城は興徳寺の南西の山上一帯にあったようです。

orisinnjyou (13)
県道20号線沿いに興徳寺への道標があり小里川をわたると興徳寺山門に到着。軽く寄ってみます。

orisinnjyou (14) 「臥薪嘗胆」という故事に気が引き締まる一方で・・。

orisinnjyou (15) このユルさ。

興徳寺前の道を登ると墓地があり、その脇から山に入る案内板があります。
以前は見当たらかったので、思わず感動!
ここからは小里城山城の山容がよく見えます。

orisinnjyou (1) orisinnjyou (2)
墓地から山への入口にも案内板がありますが、道は草ぼうぼう。まぁ、よくあることで。

orisinnjyou (4) orisinnjyou (6)
大規模な土塁遺構もあれば(写真:左)、堀切の址もみられます(写真:右)。

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横堀遺構も確認できます(写真:左)。塁線もはっきりしていますが切岸は全体的に低いようです(写真:右)。

orisinnjyou (11) 櫓台と思われる最高所の遺構。

遺構自体は鎌倉後期のものとは思えないほどの残存ぶり。
曲輪も曖昧な輪郭を残すものの一定の空間は形成しています。
しかし、よく観察すると土塁で囲う意図がよくわからない箇所があったり、主郭への導線が意味不明だったりします。
堀や横堀も存在すれど、連動している遺構がありません。

個々の遺構のパーツ自体は城郭規模のものとみて相当です。
・・なんですが、縄張り全体のバランス面からみると不自然な印象をうけます。

orisinnjyou (9)「○○城」ではなく、「鎌倉後期城砦跡」という城石碑も珍しいです。

結構なブッシュに覆われ、非常に観察しずらい城なんです。
当時からの城砦の姿をどこまでとどめているのか判別しにくいですね。
想像の域を出ませんが、植林整地や畑耕作、境界線、寺社の移築、といった後世の遺構も含まれているようです。

・・といっても城の存在自体を疑うものではありません。

近年、県指定史跡となった天守台のある小里城山ばかりが注目されがちですが、信長の命で池田恒興が小里城に派遣され、城番を務める間、この小里新城も同時期に小里氏の持城として並存していた可能性もあります。
ともあれ、鎌倉期の城、というより、時代が下るごとに改修されて戦国期まで至った、とするほうが自然ではないでしょうか。

この後小里城山城へ登り、小里古城と小里国定屋敷、とまわっていきます。(続)

京都 船岡山城 🏯応仁の乱にて西軍の拠点となった城

京都山城 船岡山城 (京都府京都市北区紫野北船岡町) <国指定史跡(船岡山)>

今回、市バスでの訪問ですのでやや緊張しました。どこのバス停で降りたらよいのやら・・?
友人Tクンのの勘が頼り。まぁ・・慣れないなりに何とかなるものですが。
大徳寺にて下車します。徒歩ですぐでした。

船岡山が史跡扱いされているのは城としてではなく、山全体が京都市内の貴重な自然林であることと、京都の都の成り立ちからその後の歴史にも密接な関係があり、親しまれてきていることからです。

funaokayama (14) funaokayama (12)

史跡船岡山公園は、「城跡」としての碑はありませんが、同じ山にある織田信長を奉った建勳神社の入り口付近に「船岡山」の石碑と、公園内に「応仁永正戦跡」としての石碑があります。

funaokayama (2)船岡山公園にある石碑。植え込みの中にあるので見つけた時はニンマリ(*'v`*)。

funaokayama (3) 解説板もあります。

1467年(応仁元年)に始まり10年にも渡って京都を中心に起きた「応仁の乱」。
戦国時代は、まさにこの時から始まったと言われております。
船岡山には西軍の山名教之一色義直が立てこもり陣所となったため、「西陣」とも。

船岡山城は東軍の細川勝元軍によって三方から攻められ落城。
その後、東西両軍に利用されることもなく、そのまま廃城へ向かったそうです。
その後、1511年には細川氏同士の争いともなった船岡山合戦でも(細川高国・大内義興と、細川澄元らの争い)この城は戦場と化したそうです。

実際、歩いてみましたが、遺構らしいものが発見できませんでした。
・・これがそうなのかなぁ・・?という堀址らしきものはありましたが判別がつきませんでした。
公園化されてもいるんで、正直よくわかりません。

まぁ、史跡公園ですので、戦国幕開けの城、として歴史背景、雰囲気を楽しめれば十分。
Tクンと散策をしながら船岡山・建勲神社へと足を運びます。

建勲神社

正式には「たけいさおじんじゃ」といいますが、一般には「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」として親しまれています。

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建勲神社は明治天皇の御下命により創建された織田信長公をお祀りする神社です。

明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ、京都の船岡山に社地移します。
明治13年(1880)には新たに社殿を造営し、織田信忠卿を配祀し
明治43年(1910)に山麓から山頂へ社殿を移建し現在に至っています。

funaokayama (7)祝詞舎から参拝。

桶狭間の戦いで今川義元から戦利品として得た信長愛刀「宗三左文字」(重要文化財)も同神社の所有。
近年の刀剣ブームのせいでしょうか、歴女の皆さんのお姿が結構お見えです。
社務所にも行列ができています。・・すごい人気です。

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信長が好んだ幸若舞「敦盛」の一説が彫られています(写真:左) 手水場にも織田の五つ木瓜(織田木瓜)が(写真:右)

信長、信忠ファンなら一度は足を運んでおきたい聖地ですね。

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拝殿には信長の三十六功臣のうち十八功臣の額が飾られています。

永禄11(1568)年上洛を果たし、朝廷より官位を勧められたとき、信長は生死をともにした功臣の賞を第一に願い出たそうです。
信長公のご意思に基づき、神社創建の折、功臣36名を選び、時代考証の元に描写し製額して拝殿に掲げることとなりました。
三十六功臣の一人池田信輝の末裔、旧因州公の家臣、森本後彫氏が筆をとり、三十六雄の精神が爽然と描出されました。

・・実は恥ずかしながら自分、織田三十六功臣なるものを知らず大変感慨深かったのです。
それもゲームや雑誌に取り上げられるお馴染みの武将ばかりではなく、本当に信長と苦労を共にしてきた人物ばかりです。
名前だけ列挙してみたいと思います。
 
三十六功臣

池田信輝(恒興)、稲葉一鉄、猪子兵助、氏家卜全、織田信業、織田信光
蒲生教秀、河尻重能、木下秀吉、斎藤新五、坂井久蔵、坂井政尚
佐久間信盛、佐久間盛政、佐々成政、柴田勝家、菅谷長頼、滝川一益
武井夕庵、道家尾張守、長岡(細川)藤孝、丹羽長秀、原田直政、平手汎秀
平手政秀、福富貞次、不破河内守、堀秀政、前田利家、村井貞勝
毛利秀高、森長定(蘭丸)、森可成、簗田出羽守、山内一豊、湯浅甚助

どの武将も「忠臣」と呼ぶのにふさわしい顔ぶれです。・・渋いです。

秀吉を「木下」としたり、小豆坂七本槍も入れてあります。
西美濃三人衆から安藤さんは外れ、桶狭間、美濃攻め功労者が目につきます。
斎藤新五郎・・「クゥぅー!」・・。美濃の城郭ファンなら泣けてしまいますね。

信長・信忠親子の御霊に参拝できたこと、三十六功臣を教えていただいたこと
なんだかとても晴れやかな気持ちになりました。
歴女さんたちに並び、「天下布武」の御朱印をいただき、下山しました。

飛騨御嶽ハーフマラソンの案内状が来ました。

飛騨御嶽ハーフマラソン参加通知書、来たる

いよいよあと一週間後と迫ったハーフマラソン。

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つい最近まで まだ先だからいいや、とのんびり構えていましたが
月日の流れはホントに早い・・。

ここまで暑い日中を避けて夕方にジョグを続けてきました(ぼちぼちと・・)。
・・といってもホントに暑くて、雨は降るわ、ジメジメするわで、練習も予定どうりに進みません・・。
サボローのささやきを振り切り、家から出て走り出すまでが大変なエネルギーを使う日々でした。

onntake2016_20160915221537bb3.jpg パンフの写真は爽やかさを絵に描いたようなショットだが・・

飛騨御嶽ハーフの最大の特徴・魅力は標高1800メートルの高地を秋の絶景を見ながら走るとこですが
その実、酸素濃度が平地の80%しかないことも体にはかなりの負担となります。
それに加えて、山地特有のアップ・ダウンの繰り返しがあります。

充分なトレーニングは不可欠なんです。
果たして生きて帰ってこれるのでしょうか?

・・そこで対策として
今回のトレーニングではマスク装着などというビジュアル的に想像できないことはやめて
ある方法を試してきました。

それは鼻呼吸でのランニングです。・・きっついです。きぃぃぃっついです!

ご褒美として口で息できるのは1キロ地点につき大きく3回できるのみ。
後方から迫る異様な鼻息は夜道を帰宅途中のOLさん達をものすごい勢いでのけぞらせております。

・・すみません、許していただきたいものです。ごめんなさい。

onntake20169.jpgonntake2016 (2)
今回、一緒の走る友人 Y吉さん が心の支えです。まずは完走ですね。

このマラソン、先の御嶽山噴火の復興チャリティーも兼ねたものですので、今回が2回目。
現地のためにも大いに走ってみたい、と思っています。

さぁ、どんな答え合わせが待っているのでしょう、楽しみですo(^▽^)o。

京都 中尾城 🏯将軍・足利義晴築城の山城

京都山城 中尾城 (京都府京都市左京区浄土寺)

京都にて仏閣めぐりをしつつ、城めぐりもしてしまおう、というのは欲張りでありましょうか。
作麼生(そもさん)「寺と城、どちらが目的か?」と問われれば、
説破(せっぱ)「・・やっぱり、城かな・・」という、どうでもいい禅問答。
空気は読める方ですが、煩悩を断ち切ることはなかなかに難しいことです。

nakaoyama (23) 東山慈照寺「銀閣寺」に行ってまいりました。

nakaoyama (22)「哲学の道」より中尾城を見上げます。銀閣寺の裏山一帯が中尾城城址です。

銀閣寺をゆっくり拝観した後は中尾城へ登ります。
友人Tクンは茶店で休憩待ちしてくれる、というので貴重な時間をいただき中尾城山頂へ。
あまり待たせる訳にはいきませんが、小躍りしながら走ります。

nakao02.jpg本来なら大文字山へ登るのが一般ピープルですが・・。

nakaoyama (4) 大文字山ハイキングコースから左へ行軍です。

山手に向かう観光客や登山者も、ちらほらみえるのですが、目的は隣の大文字山のようです。
彼らの登る方向から一人、コースを外れあさっての山中に入っていくサマがさぞかし不審者に見えたのでしょう。
いかがわしい視線を背中に感じながらも、マイ・ウェイを進みます。

nakaoyama (3)途中、あまり意味のわからない説明版を見つけます。「嗚呼」って・・(*´Д`*)。

nakaoyama (5) 
登城途中にも堀切らしい遺構を見ながら登っていきます。

nakaoyama (19) nakaoyama (16)
山頂付近はさすがに勾配がきついです(写真:左)。
頂上には木の幹に「中尾城址」を示すプレートがあります(写真:右)

尾根から最初のピークを南に向かっていったん降り、もう一山登ったところで主郭に到着です。
この最初のピークも出丸があったようです。

nakaoyama (17)手作りの城址碑プレート。これでも嬉しいものです(´∀`*)。来た感ありありです。

nakaoyama (8) nakaoyama (13)
本丸内はよく整地され、広い削平地があります(写真:左)。 小規模ですが土塁もあります(写真:右)。

nakaoyama (14)尾根筋に備えられた土橋と堀切もはっきり残っていました。

中尾城は天文十八年(1549)、将軍・足利義晴によって築かれましたが義晴は新城に入ることなく、近江朽木で病没してしまいました。
その後、城には新将軍となった足利義輝が入り、三好長慶と対峙します。しかし、長慶の大軍の前に敗北した義輝は中尾城を自焼すると近江に敗走します。
後、中尾城は三好軍によって徹底的に破壊され、わずか一年という儚さで廃城になったようです。

nakaoyama01.jpg中尾城本丸から京都の街を見ます。中央右のこんもり山が船岡山です。

現在、わずかな木々の隙間からしか眺望は得られませんが、隣の大文字山からは京都の街が一望できるようにこの中尾山からも上京区を中心としたパノラマが広がっていたことでしょう。

中尾城址は銀閣寺後方の山麓に居館があり、山腹に出丸、山上に主郭という城構え。
将軍の居城にふさわしい規模を持った城址だといえます。

銀閣寺も良かった・・今度は大文字山にも登りたいものです。

京都 聚楽第 🏯秀吉の栄光と斜陽の豪邸

京都山城 聚楽第 (京都府京都市上京区一条堀川一帯)

京都の知られざる城址をマラソンでめぐっていくこの企画もいよいよラストです。
なんだかんだと10kmくらいは走ったようです。
しかし、アドレナリン出まくりで、疲れは一切ございません。
・・不思議なことがあるものです。

むしろ逆です。まだ見ぬ城址がこの先にあるのですから、どこまででも走れそうです。
そう、城がある限りどこまでも。・・そういう体に産んでもらったのです。
そして、向かうは秀吉の聚楽第址です。

・・ところで、「マラソン的ロングラン」「ピクニック的観光めぐり」を結びつけた走り方。
・・こういうの、マラソンじゃなく、「マラニック」っていうそうです。
自分で言うのも何ですけれども、「マニアック・マラニック」という表現はギャグ抜きでピッタリだと思います。

おしゃべりが過ぎました。

聚楽第は関白に就任し「豊臣」姓を受けた豊臣秀吉が、京都に建てた城郭にも劣らない大規模な豪邸です。
いまや、遺構は残ってはおりませんが、面影が少しでも感じられたら・・と思います。

jyurakudai (5)「この付近」というアバウトさ(^∇^)。この一帯が聚楽第本丸西堀があった所です。

「聚楽」とは「長生不老の楽しみを集める」という「寿楽」にかけた意味の造語、とも言われます。
ルイス・フロイスが『日本史』の中で、聚楽第を絶賛、「屋根から外装・内装・調度品にいたるまでことごとく金が塗られていた」と、記しており驚いています。近年、それを裏付けるように金箔瓦も多数発掘されています。

まさに天下人としての名を知らしめた 「黄金の居城」 だったに違いありません。

jyurakudai (7)こちらの石碑には聚楽第本丸東堀があったようです。

jyurakudai (8) やはり「此付近」としかいいようがないのですね。

つまり、先程の石碑とこちらの石碑の間に本丸があった、とみてよいようです。広いですね。
御所にも近く平安京の大内裏跡地を選んだだけあって、秀吉の権力を象徴する意図もあったのでしょう。

・・ところで「じゅらくだい」と読むのか、「じゅらくてい」と読むのか???
迷うことはありませんか?
これ実は専門家の間でも意見が分かれるようなんです。

しかし、当時の公家の日記には「聚楽亭」、すなわち「じゅらくてい」と書き記されている事が多いようです。
よって 「じゅらくてい」 が正しい読み方である、と言われます。

さらに言えば、公家達との社交場に「聚楽城」という名称は武家のイメージが強く、ふさわしくなかったようです。
朝廷は古今伝授を重んじる世界。「聚楽城」という名称では「城への行幸は前例がない」ことを口実にされ、お互い何かと不都合だったようで。

しかし、「亭」や「邸」と呼ぶには規模が巨大すぎて、字の意味と合致しないというジレンマです。
「第」と「亭」なら、共に「やしき」という意味があります。

それで「聚楽城」ではなくて 「聚楽第」 になったという訳なんですね・・。
(めんどく・・いやいや、よく考えられていますねー。)

jyurakudai (1) jyurakudai (9)
上杉景勝・直江兼続の屋敷址(写真:左) と 千利休の屋敷址(現:晴明神社付近)(写真:右) の石碑

聚楽第の周辺には、秀吉の一族や家臣、諸大名の屋敷も造られたようです。
途中、偶然発見しただけでも上写真に示したようにあちこちに由来碑があるようです。
時間的都合もあり、すべての由来地は回れそうにありません。

しかし、その中でも羽柴秀勝邸の跡地には説明版もあり、聚楽第の様子がわかりやすく図示してありました。

jyurakudai (2)丹波少将、羽柴秀勝の邸址。ここでは「聚楽城」って書いてあります。

jyurakudai (3) 秀勝は織田信長の子で養子なんですよね。

そんな聚楽第もわずか9年で破却されます。

聚楽第は関白職とともに甥・羽柴秀次に譲られますが、秀次は謀反の疑いをかけられて、高野山に追放後、切腹させられます。
秀次と妻子の居城であった聚楽第は破却され、何もなかったの如くこの世から姿を消してしまったそうです。
秀次一族の根絶と聚楽第破壊は徹底的に行われました。

秀吉の、豊臣家の、悲劇はここから始まったのだといっても過言ではないようです。
栄光と斜陽の狭間で幻のように現れて消えた城、「聚楽第」でした。

京都 妙顕寺城 🏯秀吉の造営した二条城

京都山城 妙顕寺城 (京都府京都市中京区古城町一帯)

二条御新造から西へ走ります。
意識してなければ見落としそうな場所に石碑があります。
ここが「秀吉の築いた二条城」こと、妙顕寺城です。

妙顕寺城は、天下人・豊臣秀吉によって聚楽第が完成するまでの京の宿城として築かれたました。
二条油小路にあった妙顕寺を移転させ、跡地を接収して築かれたため妙顕寺城と呼ばれました。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となったということです。
さすれば城代・前田玄以といったところでしょうか。

IMG_2199.jpg朝もやの中の妙顕寺城址。西福寺の門前に建つ城址碑がぽつ~ん( ´_`)。

すぐ近くの東に信長の二条御新造がありました。
秀吉も信長に真似て意識し立地を選んだのでしょう。
ただ、同じ地に建てなかったことは、やはり信長父子をはばかってのことなのかな?・・と。    

IMG_2206.jpg意外と知名度がなく、京都の方々でさえ、「知らなんだわ。」ということも。

西に家康の二条城、ここ秀吉の妙顕寺城、そして東に信長の二条御新造、3つの二条城はほぼ東西横一直線でつながります。
天下を受け渡したあった三英傑、二条城もまた京都の統括地としてそれぞれに受け継がれいったと思うと面白いです。
徳川二条城をまた違った目で見学ができるかもしれませんね。

妙顕寺城は秀吉により聚楽第ができるまで京都支配の政庁として使用され、役目を終えたようです。
なんだかもったいないですね(´・_・`)(庶民派意見丸出し)。
それでじゃ、せっかくですので聚楽第址も寄っていきます。(続)

京都 二条御所 🏯信長、在京中の宿所にして、信忠、御自害の城

京都山城 織田信長二条城 (京都府京都市中京区二条殿町・金吹町一帯)

織田信長は1576年4月に上洛します。
その際、二条家の邸宅の庭の眺望を大変気に入り、二条家に別の屋敷を提供したうえで、邸を譲り受けます。
信長は村井貞勝に二条邸を城郭として改修させ、その後2年間はここを京の宿所としました。

nijyougosyo (1)「二条御新造」とも呼ばれる織田信長の二条城は二条関白邸の址でもあります。

本能寺での変があった時、妙覚寺に滞在していた織田信忠は本能寺に救援に向かおうとしますが、既に信長の横死が伝えられ、逃走するよう側近に諭されます。
しかし信忠は、防備の弱い妙覚寺を出て、村井貞勝らとともに城構えのよいここ二条御新造に移ります。

信忠は、誠仁親王が退去するまで攻撃しないよう光秀に申し入れ、親王を脱出させると、少人数ながら頑強に抵抗しました。
近くから次々と加勢する家臣たちと奮戦、明智軍を三度も撃退させます。
明智軍は最後の手段として、隣接する近衛前久邸の屋根から銃矢を放ち、側近のほとんどを討ち果たします。

nijyougosyo (3)信忠が死場所として籠城し、戦った二条御新造址。

自ら刀を持ち奮闘する信忠でしたが衆寡敵せず、最期は鎌田新介の介錯で自害しました。
早めに逃げようと思えば、逃げれたようです。現に織田長益などは巧妙に脱出しているのです。

父の仇を討つこともなく逃走すれば後世に恥を残すと考えたのでしょうか。
偉大な父・信長のいない天下を一人で背負いきれないと考えたのでしょうか。
いずれにせよ、織田家嫡男として父を追い続け、死出の世までついて逝ってしまいました。

nijyougosyo (4)
現在、周囲には京都国際マンガミュージアムが建ち、烏丸御池は賑わいのある街角です。

本能寺の変・・。
明智光秀がどうして信長に対して謀反を起こしたのか?
日本史上、皆が関心を持つ一大ミステリーです。

しかし自分にとっては織田信忠がどうして逃げなかったのか?
そちらも大いに興味のあるテーマです。
信忠にしても下天は、夢、幻、まやかしだったのでしょうか。

真実は誰にもわからないような焼け跡の下、深くに埋められているのでしょう。
いくら掘っても掘り返されないような所に埋められているだとしたら・・。

自分なりに感じた痕跡を見つけていくのも城めぐりの楽しみです∠( ^ o ^ )。
そんな感じで、ちょっとしんみりとしながらここ信長親子の二条城をあとにしました。

京都 足利義昭二条城 🏯信長が将軍・足利義昭にプレゼントした城

京都山城 足利義昭二条城 (京都府京都市上京区武衛陣町・五町目町一帯)

いくつかあった「旧・二条城」の中でも一般的にその名が使われているのがここです。
「二条御所」とも呼ばれますが、別の地にあった信長在京中の宿所もそう呼ばれるため混同されることもあるようです。

兄である義輝が斃れた後、信長の後援あって無事に第十五代征夷大将軍の座に就いた足利義昭
当初、幕府を本圀寺に置いていましたが、またしても三好三人衆らの襲撃を受けてしまします(本圀寺の変)。
このことから信長は義昭のためにより堅固な城を築きます。

kyuunijyou (2)信長パパに建ててもらった義昭の二条城址。今や石碑のみ(´・_・`)。

二重の堀に吊り上げ橋、三重天守、石垣も備えたなかなかの構えだったようです。
庭園には名石・名木が運ばれ泉水・築山をこしらえました。豪華ですね。これはもう宮殿ですね。
義輝二条城とほぼ同じ位置に築かれたので石碑の位置も100メートルと離れていません。

kyuunijyou (4) 平安女学院大学敷地の隅に石碑があります。

将軍・義昭の権威を示す、というよりもその背後にいる信長の威光や実力を示した城、だったのでしょう。

ちょっと東の京都御苑に足をのばすと当時の二条城の石垣が復元されていますよ。

kyuunijyou (1)京都御苑の下立売御門付近にある二条城石垣復元地。

kyuunijyou (5) kyuunijyou (7)
地下鉄烏丸線工事建設の際に発掘されたものを展示してあります。

よくみると石仏や墓石っぽいのも混じってますね。
急造だったことがわかります。まぁ信長にしてみれば普通の事ですかね・・。

しかしこれだけではいかに素晴らしかった城であっても、伝わってくるものは・・(-_-。)・・ない事もない、ですね(汗)。

・・そう、義昭にしてみればここまで手厚くしてもらい感謝感激したことでしょう。
義昭はお蔭で兄・義輝の二の舞に遭うことも避けられました。

ありがたや、「御父 織田弾正忠殿」。その時は素直にそう思っていたはずなのに・・。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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