近江 坂本城 🏯明智光秀が丹精込めて築いた湖水城

近江 坂本城 (滋賀県大津市下坂本)

元亀元年、比叡山を焼き討ちした織田信長明智光秀に命じて築城させたのが坂本城です。
坂本城は、現在遺構らしきものは殆ど残っていません。
よく夏場の渇水期に琵琶湖底から姿を現す石垣がニュースに取り上げられます。

IMG_8963.jpg 坂本城・本丸の城説明版、発見!V(○`□´○)b

城友・日向守さんと場所確認のため、たまたま停車した路肩に本丸石碑が!
これぞ、光秀殿のお導き!、そして何より城友さんと訪問できたからこそのめぐり逢わせなのでしょう。
はやくも胸がときめいてしまいました。

IMG_8964.jpg 坂本城、新・城址碑。

国道の琵琶湖側に城址公園にあり、この公園に船着き場の石垣の一部が残っています。
公園には坂本城の当時の縄張りを示した説明版と光秀の石像があり、城跡の気分が多少?味わえます。
城址見学者よりもバス・アングラーの恰好の駐車場になっている様ですが・・。

IMG_8969.jpg IMG_8967.jpg

IMG_8968.jpgそれにしても優しい表情をした光秀様ですこと。

IMG_8966.jpg 当時の堀割の名残でしょうか・・。 

↑こちらの歩道を進んでいくと もう一つの碑が東南寺付近にありました。 
城跡の碑は、国道を挟んで2カ所にあります。どちらも坂本城内になります。
街道筋にあたるこちらの城址碑には歴史の風情を感じます。

IMG_8972.jpg こちらが以前からの城址碑のようです。大傘が人目を引きます。

天正11年本能寺の変後、山崎の合戦に敗れた光秀はこの坂本城を目指して敗走する途中で討ち死。 
明智秀満は、光秀の敗死を知るや、安土城から坂本城へ引き返し、城に火を放ち自刃します。

坂本城は当時は実に豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城であった、とルイス・フロイスも記しています。
琵琶湖に張り出した壮麗な巨大水城、だったものと思われます。
坂本城の中核部は今も光秀の夢と琵琶湖の湖底に眠っているんですね・・。

この後、光秀と光秀一族、妻・煕子ら妻木一族の菩提寺、西教寺にも寄ってみます。

西教寺 (滋賀県大津市坂本5丁目13-1)

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深かったようです。
寺の復興にも光秀の援助があったと推定され、光秀が戦死した部下の供養のため、供養米を寄進しました。
また、境内には光秀一族の供養塔が立っています。

IMG_8960.jpg 西教寺山門。

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光秀と一族の供養墓地(写真:左) と 光秀辞世の句碑(写真:右)

順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す

『明智軍記』(江戸時代の書)に記された辞世です。
従順であるのも、反逆するのも、自分の大道に従ったまでの事。
55年の夢は、覚めてしまえば、元の場に戻るのみ・・。

本能寺襲撃の実行、その動機云々を探ったり、語ろうとは思いません。
光秀一行にしてみれば、あのタイミングを逃せば信長を討つ機会は二度とめぐってこなかったということです。
自分の心に立ち返り、逃さず、実行に移したのですね。

IMG_8955.jpg 妻木城主・妻木広忠らを偲ぶ供養塔。

光秀の妻・煕子(ひろこ)妻木広忠の娘だったそうです。
本能寺の変では妻木一族は娘婿・光秀に従い、山崎の戦い、坂本城落城にて、弟・妻木頼知ら多数の戦死者を出します。
広忠はここ西教寺で一族を塚に埋葬た後、自刃して果てたといいます。

地元の身近な戦国武将の最期の地を訪問できてとても感慨深い気持ちになりました。
今回、城友さんと来れたのも共感できて良かったです。
改めて妻木城を訪問してみたいものです。

光秀もまた、やるべきことをやり終えた、人生を燃焼させた、戦国武将だったのですね。

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近江 矢島御所 🏯足利義昭、還俗デビューを果たした城

近江 矢島御所 (滋賀県守山市矢島)

こちらちょっと興味があって寄ってみた史跡です。
正統な血筋による将軍家を再興するため足利義昭が誕生した、記念すべき城館です。
・・その割には静かな集落でして、石碑1つが逆に見つけにくい場所でした。

矢島館は、元々は在地領主矢島氏の居館でありました。
永禄八年(1565)、将軍足利義輝が暗殺され、興福寺を脱出した弟・覚慶は一旦、甲賀の和田氏を頼ります。
覚慶は矢島で還俗し足利義秋と名乗ります。後の足利義昭、地味ながら雄々しいデビューです。

yajima (1)迷いながら辿り着いた矢島御所址の石碑板。発見に歓喜の声がo(≧▽≦)o

矢島の義秋居館は矢島御所と呼ばれ、矢嶋越中守が警固につきました。
しかし永禄九年(1566)、西近江で三好長逸が乱を起こし、矢島御所にも三好三人衆の兵が攻めます。
そのため義秋は矢嶋御所を去り、若狭武田氏を頼ります。

yajima (6) yajima (2)
矢島御所は、現在の自治会館のあたりにあったとされ、会館前に石碑が建てられています。

隣接する児童公園に当時の堀跡があるとされていましたが、・・ないようです。
さらに東側の民家の傍らに土塁があるとの情報ですが、・・ないようです。
予想はしていましたが、どうやら遺構らしいものは残っていないようです。

少林寺

矢島御所址に隣接するお寺・少林寺にも寄ってきました。
・・「少林寺」といってもあのうなる秘拳、ほとばしる奥義を気合で繰り出す「少林寺」、ではありません。
リー・リンチェイとは無縁の少林寺です。

yajima (3) 門の裏には一休さんのかわいい銅像がありました。

一休(一休さん)禅師の居住地だったようで、他にも文化財がたくさんあるようです。

yajima (4)境内には足利庭園なるお庭が見事です。

遺構はありませんでしたが、こちらのお庭には充分、将軍邸宅としての雰囲気がありました。
矢島御所での滞在期間はわずか1年あまりだったようです。
この地から将軍街道を歩んだ義昭でしたが、前途多難な道が続いていくのですね。

🏯信長による天下布武の集大成、安土城へ登城

近江 安土城 (滋賀県近江八幡市安土町・安土山) <国特別史跡>

今回は地元を同じくする城友・日向守さんとのワクワク城紀行です。
不思議な出会いというものはあるものです。
これも「城の縁」あってのことですね。

azutijyou (29)安土城の百々橋口の城址石碑に到着しました!

久しぶりに来た安土城です。前回は弟くんと来城しました。それも何年も前の事。
前回よりも大手口が整備され、見違えるようにきれいです。
有料駐車場まであります(げっ!)。無料駐車場は早い者勝ち!。

azutijyou (1) 麓からして総石垣です。すごいです!

一番変わったのは、入城料(入山料?)が発生していたことです(これがまた結構なお値段で・・)。
しかも開門は8時30分。朝早く来ても登れませんから注意が必要です(信長公はもっと早起きだったぞ!・・確か)。
・・もちろん勇んで早く来すぎてしまった我々一行。おかげで麓探索ができましたが。

azutijyou (3)通行税を払って大手口より入城。(楽市楽座では免税だったのにな・・(#^ω^)。)

広い大手道で見上げるともう眼前に天主が仰ぎ見えたのでしょう。
これはもう戦う城ではなく、見せる城、魅せられる城です。
おのずと信長公の武威を感じますね。

azutijyou (4) azutijyou (5)

両脇の屋敷に羽柴秀吉前田利家という信頼抜群の家臣を配置してあります。
なにかと秀吉と利家は昔から家族ぐるみですね。
石段の左右に残る側溝も幅があり、水路と防御を兼ね備えた設備なのでしょう。

azutisekibutu2.jpg azutisekibutu1.jpg

登城道石階段があるとはいえ、結構急な勾配があり、これがきつい!
しかも石仏や墓石が転用されており、注意しないと踏みつけそうになるのです。
心理的に嫌なもんです。どうやら、これも敵の目を地面に集中させる手段のようです。

azutijyou (42) 振り返ってみると急な階段だと改めて実感。

azutijyou (7) 信長の右筆、武井夕庵の屋敷址です。

ここで武井夕庵(たけい せきあん)について少々・・。

夕庵は信長の傍らにあって、彼の意を組みながら文章や戦功記録などができる、いわゆる第一秘書のような存在でした。
また各種奉行をこなし、外交、朝廷奏者もこなすという幅広い活躍ができたデキる事務方官僚だったようです。
堀久太郎秀政森乱丸成利万見重元らの若手から見たら大先輩であり、模範となる憧れの人物だったことでしょう。

信長からは相当信頼されていたようで、特別な地位にあったことはここに屋敷が宛がわれたことでも理解できます。
なんでも、その立場、教養から信長に堂々と諫言することができた、ものすごい人物だったようです。
かといって権勢を振るうこともなく、ひたすら信長の統一事業に尽くす姿・・。

・・そしてまるでいなかったように歴史の表舞台から消えていきます。
・・渋すぎます、しびれます、カッコいいです。
・・彼、もっと注目されてもいい人物なんですよ!( ノД`)うぅっ・・(泣)。

・・泣いたらなんだかすっきりしました・・戻しましょう・・。

azutijyou (9) 摠見寺(そうけんじ)と天主への分岐点に来ました。

azutijyou (8) 嫡男、信忠公の屋敷前でもあります。

この夏、信忠公最期の地、二条御所を訪れている自分としては感極まる思いです。

azutijyou (10) 織田信澄と森蘭丸の屋敷はこちらの奥。

あまり横道にそれるのもなんですが、織田信澄は信長に天誅された弟・信勝(信行)の嫡子です。
「一段逸物也」と評されるほどですから、相当将来を期待された若武者だったと思われます。
四国征伐の折には、丹羽長秀蜂屋頼隆らと副将格に抜擢されています。

森蘭丸(乱丸)については周知の通り、信長の小姓から側近の役割を果たしたイケメン秘書です。
非常に頭の切れる、よく気が付く人物だったようです。鬼武蔵・森長可の弟とは思えませんね。
ルックスも良し、頭も良し、お兄ちゃん強い。非の打ちどころがないです・・(くそぉ・・)

azutijyou (11) 凄い迫力の黒金門跡(江戸期の積み替えだそうですが)。

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二ノ丸の信長廟所。ここで日向守さん、何故か一転ザワつき始めます・・。どうやらこの石垣にツボったようで。

azutijyou (15) 自分はここにツボります。

azuti05.jpg 2人して共通のツボ所がこちらのエッジレスな石垣。


azutijyou (12)思わず惹かれる二の丸外郭石垣です。

azutijyou (19) azutijyou (37) 
いよいよ本丸に入っていきます(石垣に見とれていつの間にか・・)。

azutijyou (20)
azutijyou (21) ドキドキの天主閣址へ入っていきます。

azutijyou (22) azutijyou (23)
天主台の礎石群(写真:左) と 天主台説明版(写真:右)

azutijyou (24)
確かに美濃・小里城の伝・天守台とは似ていますね。・・別物ですが。

azutihonnmaru.jpg天主内側の石垣。何故かここに吸い寄せられました。

azutikeikann (2)azutikeikann (1)
天主台からの眺め。若干の曇りで琵琶湖が遠いですが絵になる景観です。

しばし景色をみながら城友・日向守さんと談笑を楽しみます。
信長一族が、家臣が、招かれた客人全てが、見たであろうこの景観ですから。
天主の雄姿は焼け落ちてしまいましたが・・やっぱり見てみたい、というのがお城ファン共通の本音ではないでしょうか。

帰路は摠見寺跡(そうけんじ)に寄っていきます。

摠見寺跡

azutijyou (40) azutijyou (41)
摠見寺三重塔(写真:左) と 仁王門(写真:右)

摠見寺は安土城内の西の丘に建立された寺です。
帰ってから調べてちょっとびっくりしたのは・・。
住職をあの岩倉織田家の岩倉城主・織田信安王甫という僧籍名で務めていたことです。

かつて尾張統一の壁となって立ちふさがった守護代・織田信安
同族の誼ということで呼び戻したようです。
信長公、いささか寛大過ぎやしませんか?

家督を譲った信忠を手元に置き、誅した弟の甥・信澄を登用したり、かつてのライバル信安を呼び戻したり・・。
信長の思慮、底知れないところがあります。
実は苛烈な姿の中に一族への思いやりがやはり感じられるのです。

信長はヨーロッパの教会と一体化していた城の姿を意識したといわれます。
彼は無神論者だと思われがちですが、やはり宗教性を重んじていたことがよくわかります。
↑この意見は城友・日向守さんから教えて頂いきましたが、全く同感です。

azutijyou (38)本堂址から見る望む西の湖は美しいです。

城友さんにお誘いいただき、摠見寺仮本堂にてお茶を一服頂きました。
こちらは伝・徳川家康の屋敷だと伝わる場所でもあります。

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azutijyou (28) azutijyou (25)
どうやら先客もはけ、貸し切り状態のようです。整ったお庭と雰囲気ある茶室に心が和みます。

造り込まれた室内をまじまじと観察してしまします。
たたずまいに心が落ち着きます。
おそらく単身だったら、見向きもしないで通りすごしたことでしょう。

szutitea.jpg城友さんとの一服。何とも趣のある癒される時間を共に過ごせました。

安土城に足を運ぶたびに信長という人物の魅力とその一貫した心根に惹かれていきます。
今回も自分なりに新たな発見があった城めぐりになりました。

楽しかった分長い記事になってしまいました。同行頂いた日向守さんに感謝です。

第10回とよね・みどり湖マラソンに向けて

とよね・みどり湖マラソンの参加者案内が届きました。

toyone2016.jpg 「紅葉を楽しみながら湖畔の風を感じて!」がキャッチコピー。

愛知県で最も早く紅葉を楽しめるという豊根村でのマラソン大会。
今年は10周年記念として、ゲストランナーにあの、にしおかすみこさんがみえるそうです。
個人的にも昔から?大ファンなのでとても楽しみです(((o(*゚▽゚*)o)))。

今回もY吉さんとの駆け合いで、おまけに新豊根ダムも見学できるなんて・・。
これはもう気合入りまくりです。

大会情報を教えて頂いたY吉さんに感謝です。
ちなみにY吉さん、先月、共にあれだけの豪雨の飛騨御嶽ハーフを走り切った後も地道な練習量をこなしているとか・・。
・・どうやら完全に目覚めてしまったようです。覚醒です。

大会はみどり湖の湖畔道路を会場にして行われるハーフマラソンがメインですが今回は10kmにてエントリーです。
・・というのは、みどり湖の湖畔道路はほぼ平坦、高低差は少ないコースなんです。
普段、アップダウンのあるコースばかりでの大会出場が多いので、ノーマルコースでどれだけの記録が出せるのか?

これは自分にとってもある意味、挑戦でもあります。
もちろん、今回は自己ベストを狙っていきたい、という意欲は隠せません!
マラソン大会の規模としては決して大きくありませんが、地方のマラソン大会はアット・ホームな感じがいいのです。

大会本番まで、うまく調整して、ベストコンディションで臨みたいと思います。
はやくも胸の内の小宇宙(コスモ)が燃えあがります。

美濃 石徹白城 🏯奥美濃のさらなる奥の城址

美濃 石徹白城 (岐阜県郡上市白鳥町石徹白下在所・城山)

富士山、立山と並び日本三名山に数えられる白山
石徹白(いとしろ)はその周辺に広がる白山国立公園の南山麓に位置する小さな集落です。

石徹白は古くから白山信仰が盛んで、「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど修験者の出入りで栄えた土地であり、近世(明治)まで神に仕える人が住む村としてどの藩にも属さず、年貢免除・名字帯刀が許されたところでした。
越前国・大野郡でありながら郡上藩領であるという独立色のある地域でもあったようです。

itosiro (1) 白鳥方面から桧峠を越えて行きます。

白鳥中心街からもかなりの時間と距離がかかります。
まさに山に抱かれたのどかな盆地で、周辺は良質な雪のスキー場で有名ですね。

懐かしい吉幾三さんの『俺ら東京さ行ぐだ』(^^♪)を唄いながら石徹白城を目指します。

itosiro (2)ピーンと伸びた大木が目印の石徹白城址。

集落に入ってすぐの地域の道沿いですので、比較的わかりやすいと思います。

itosiro (3) itosiro (22)
「城山」と呼ばれており、標柱も立っています。周囲より小高い丘になっています。

itosiro (5)石徹白城石碑。出ました、白鳥町御用達のタイプです(見慣れてきた(^∀^*))。

itosiro (7) いきなりの主郭到着になります(徒歩30秒)。

itosiro (12) itosiro (11)
主郭の西側切岸の様子。若干の整地改変の跡もみられます。

itosiro (8)むむ(’0’)!北の丘陵地に続く所に堀切が見られます。

itosiro (13) 幅はそこそこありますが、深さはさほどありません。 

南から東にかけて少し腰曲輪が残るだけの単郭の城のようです。
東側は切り立った谷となって川に面しており、この点は要害かなと思います。
主郭内もそれほどの広さがなく、番所や関所に相当する規模だったように見えます。

戦国期には石徹白源三郎種吉が城主として伝わっており、大柄で力があった人物だったようです。
越前より朝倉勢が侵入した際、美濃への案内役を避けて、東氏に身を寄せました。
捕らえられた母に代わって一乗谷へ行き、牢屋に入るも脱獄、逃れた故郷にて村人に討ち取られるというお話しがあります。

城址の北西に石徹白源三郎を弔ったといわれる「首無しボテン」がありますので
後ほどちょっと寄らせていただきます。(名前が怖いのですが・・。)

源三郎の養子石徹白長澄(いとしろ ながずみ)は越前・大野郡司の朝倉景鏡に属しますが、その後羽柴秀吉のもとで活躍する金森長近の飛騨平定に協力、小田原北条攻めでも大功を立て、後、長近により家老にまで抜擢されます。


首なしボテン (石徹白城より北西へ100メートル程の丘)

itosiro (20) 古墳のような丘上に「首無しボテン」があります。

村人達は、朝倉氏に、「源三郎を捕まえたら、褒美をやる。」と言われていたので
源三郎が酒で酔いつぶれ寝ている時に源三郎の刀を、仏壇の裏に隠しました。
源三郎が起きると、横にあった刀がなかったので、外に出てみると、村人達が家の周りを囲んでいたそうです。
源三郎は馬の馬せん棒で村人達と戦ったけれど、追いつめられて庭の池を飛びこせれずに、池に落ちてしまい、はしごで押さえられて、首を切られました。

後日、村人たちは源三郎の首を朝倉氏に持っていったが褒美をもらえるどころか逆に叱責されたようです。
源三郎を「捕らえて連れて来い」と言ったのであって、殺せと命じたわけではなく、優秀な武将なので、家来にしたかったようでした。
「自分たちの城主を殺すなんて、とんでもない!」と源三郎の首を持ってきた村人を追い返してしまったそうです。

それで、石徹白の人たちは源三郎の首を持ち帰って、首のない源三郎の体と一緒に首なしボテンに葬ったということなんです。

itosiro (19) itosiro (21)
ちょっと哀れなお話しなんですが、日本昔話のようで味のあるエピソードです。

石徹白古城? (岐阜県郡上市白鳥町石徹白下在所・大向山)

実は石徹白にはもう一つ「古城」と称する山城が西の峰・山中の尾根上に存在するようです。
登攀は困難を極め、獣類も多く、それなりのクライム装備が必要です。
「城」という確証や記録なども残っていないようですが、またいつか機会があれば登ってみたいものです。

itosiro (18)「石徹白古城」があったといわれる大向山が果たして城址なのか(^-^)?

阿多岐ダム見学

阿多岐ダム (岐阜県郡上市白鳥町中西) <長良川水系阿多岐川>

ちょくちょく挟んでくるダムめぐりです。
六ツ城の北、中西城の東、間近に阿多岐ダムがあります。
ちょっと寄ってってみましょう。

atagi (2)県道脇からの眺めた阿多岐ダム。いいわぁ(*´▽`*)。

ここからの眺めは最高です。
吐水口から流れ出る二本の白線がとても綺麗でした。

atagi (3) atagi (1)

阿多岐ダムは岐阜県が県営として初めて建設した長良川水系に位置するダムです。
放流水を利用した水力発電所が稼働。
再生可能エネルギー活用の一環としての取り組みがなされています。

atagi (4) atagi (5)
ダム湖名は「阿多岐紅葉湖(あたぎくれはこ)」。ひっそりとした感じで静か・・。ススキがなおのこと・・。

atagidamcard.jpg わーい!ダムカードです。

ダムを見ながらおにぎりを食べる。・・至福です。
そして城とダムのコラボは言いようのないプレミアムな時間でした。

美濃 鷲見城 🏯鷲見氏代々の居城

美濃 鷲見城 (岐阜県郡上市高鷲町大鷲・向鷲見山) <市指定史跡>

郡上郡、旧・高鷲村の秀一点の城郭といえばここ鷲見城です。
ここより先は蛭ヶ野高原を越えて飛騨へとつながる、まさに奥美濃最北端部になります。
さすがに中秋ともなると、肌寒い、といった標高の高い地域です。

sumi (42)鷲見城は三方は谷、東方へは飛騨の山々に連なる天険の城です。

鷲見氏は藤原北家房前の家系より出た頼保を祖とするそうです。
伝承によると、藤原頼保は人々に危害を及ぼす大鷲2羽を郡上郡雲ヶ嶽(現鷲ヶ嶽)で退治して、朝廷から鷲見姓を許され(鷲狩り伝説)、同地に向鷲見城を築いたそうです。
以来、鷲見氏14代426年間の居城として戦国期を迎えます。

近くまで行くと鷲見氏の館跡があります。
こちらでは鷲見城の見取り図と鷲見氏の系図や歴史が記されています。
こちらに駐車させていただき、徒歩で山城へ向かうこととします。

sumi (1) sumi (40)
この案内図で見る限りでは実に広大な城郭であることがわかります。

sumi (2)礎石や庭が復元してあります。防御的な遺構は見当たりません。

sumi (3) sumi (4)
登り口には案内板もあり、三の木戸址が現れます。ここで登山コースを選ぶことができます。

今回は城の木戸址や出丸址をめぐるコースをとるため左の道から登っていきます。
ちなみに、右の最短コースは直接大手門まで行ける直結コースとなります。
生きと帰りを別々に楽しむこともできますよ。

sumi (37) sumi (36)
二の木戸、一の木戸、と突破していきます。城門破りのようで気分は城攻め♪

ふと思ったのですが、この「木戸」がここにあったというのは事実なんでしょうか・・。
絵図とかに残っているものなのか?、口伝で伝わっているものなのか?
まぁ、難しいことは考えず、『聖闘士星矢』なみにどんどん先へ駆け上がってゆくのです。

sumi02 (1) sumi02 (2)
卯の井(ブッシュで見学できず)、柳出丸を確認、突破!

sumi02 (3) sumi02 (4)
中山出丸、中乃丸(名前の違いがよくわからない)、突破!!

途中に見られる出丸址も軽く見学していきますが・・実際は山の平場、といった感じで遺構という程のものではありません。
どんどん駆け上がり、突破していきます!

「燃えろ、俺の小宇宙(コスモ)!」 
・・時々感じます、これが本来の自分なのではないか・・と。
そう、解き放たれたように燃える瞬間があるのです。今がまさにその・・。

・・続けます。

sumi (6) 東丸には若干の削平地が見られます。

本格的な城郭遺構はこのあたりから確認できるようになります。

sumi (5)尾根の狭地に本丸大手門が出現。

風化による基部の腐敗が気になる冠木門です。イメージとしてはピッタリ。
ですが・・、これはそろそろ建て直しの時期ですね・・。
・・倒れてくるんじゃないか・・と思いながら恐る恐る門をくぐります。

sumi02 (5)東の大堀切。堀底を通って主郭内部に入ります。

sumi (11) sumi (10)
本丸に到着しました。広い削平空間です。

sumi (12)鷲見城の城址石碑。毛筆感あふれる文字の石碑です( ̄。 ̄ノ)。

sumi (31) sumi (27)
城址碑の前には礫石が散乱しています。もしかしたら投石用でしょうか?(写真:左)
主郭北側には土塁が備えられています。(写真:右)

sumi (24)桝形門址。石組みで固められていました。

本来の虎口はこの内桝形を通過するようになっていたようです。
戦国期に改修をした可能性があるのかも。

sumi (14) sumi (20)
主郭西の土塁を越えると西の大堀切があり西の丸へと続きます。

sumi (19) sumi (16)
西の丸には鷲見神社があり、初代・鷲見頼保が祀られています(現在修復中)。

sumi (17) sumi (18)
西の丸の先にはV字型の深い堀切が存在。西尾根筋からの侵入に対する遮断線です。

文明10年(1478年)、鷲見保重は鷲見城を弟の大学助保兼にゆずり、新たに北野城(岐阜市北野)を築き自ら城主となります。
保重の系統は北野城主となって存続する一方、鷲見城主としての鷲見氏の勢力は次第に衰えていきます。
東氏と争いに破れ、その旗下となって、阿千葉城を居城とします。
天文10年(1541年)、東常慶が阿千葉城の鷲見貞保を攻め、貞保は自刃、鷲見郷領主としての鷲見氏はここに滅亡しました。

しかし貞保の遺児千代丸は老臣・餌取広綱と武儀郡西牧谷に逃げ落ち、永禄2年(1559年)ごろ織田信長に再興を願い出たのが聞き入れられ、信長の要請を受けた八幡城主遠藤盛数に大嶋村を与えられて鷲見正保と名乗り、大嶋鷲見氏の祖となったといいいます。

弘治2年(1556年)の長良川の戦いで鷲見保光は義龍側で参加し、義龍の死後龍興に仕えます。

永禄10年(1567年)に信長が稲葉山城を攻めて龍興が敗走すると、保光は子の定重と共に郡上に帰り、元鷲見城主の叔父・保兼の養子となり、遠藤慶隆(盛数の子)に仕えます。鷲見氏は遠藤氏の家臣として八幡城下に屋敷を構え、鷲見城は松下五左衛門が在城しています。

天正13年(1585年)に金森長近による飛騨征伐で、遠藤慶隆も従軍。この際に保光は、三木氏(姉小路氏)の軍勢と飛騨国白川郷で交戦し討死を遂げます。

城跡には歴代城主・鷲見氏の積み重ねてきた最後の姿がよく残っていると思います。
もう一度冠木門の下をくぐり、修復を祈りながら下山しました。

美濃 六ツ城 🏯実戦配備色の強い見応えある戦国の山城

美濃 六ツ城 (岐阜県郡上市白鳥町野添日向) <町指定史跡>

真夏を避けていた美濃の山城めぐりもやっと再開できるシーズンとなりました。
平野部より一足早い初秋を感じる白鳥町です。
前回、原口城から南の真下に見えた六ツ城(むつじょう)を訪ねてみます。

同城は近くの六ツ橋の名をとって六ツ城(むつじょう)と呼ばれるようになったようです。

mutu (1)尾根先の六ツ城と、その背後にそびえる原口城の位置はまさに指呼の距離。

原口城からは城内が丸見え、直線距離にしてほぼ900メートルに相対しています。
麓間だけなら200メートルしかはなれていません。
この位置関係、敵対関係なのか?、それとも頼りになる支城関係なのか?気になりますね。

mutu (43) mutu (30)
六ツ城の山城を正面から見ます。刈り入れ前の稲穂が黄金色に輝いていました。(写真:左)
9月下旬といってもまだまだ蒸し暑いです。可愛いヒマワリが健気です。

車は城山直下の公民館に駐車場をお借りしました。
城址石碑と縄張り図つきの案内板がありますので、こちらから登っていきます。

mutu (5)旧白鳥町の城址石碑は規格が揃っているようです。

六ツ城は猪俣氏によって築城され、代々居城としていたようです。
天文9年(1540)朝倉軍が越前から侵入し、東氏の篠脇城を攻め立てた際、家臣で六ツ城主・猪俣五平次義綱は、木越城の遠藤胤縁・遠藤盛数兄弟と共に朝倉勢の背後をついて1か月後には越前へ敗退させます。
地の利を得た地元武士団の結束の勝利だったといえます。

mutu (4) mutu (7)
案内板には城主・猪俣氏について城の遺構の様子が詳しくあります。予習していけます。(写真:左)
お墓の右奥にある石階段から登っていく登山道があります。(写真:右)

mutu (8) おっと!、登り口に立ちふさがるカマキリが。

mutu (9) mutu (29)
登城途中に見られる石積群。

麓近くの登城道周辺には、石積が見られますが、城のものではないでしょう。
後世の産物かと思われ、祠や神社を祀ったスペースが見られるのでその関係遺構かと思われます。
しかし、これはこれで庶民的な労力を感じる面白い遺構です。しばし凝視・・。

mutu (10) 登山道は登りやすく整備されています。

mutu (11) 大手道に沿って登ると「かくれ岩」にたどり着きます。

「かくれ岩」には岩と岩の間にに人が隠れることができる程の空間がありました。
これも守り仕掛けの一つだったのでしょうか?
事実、この城の防御遺構はこのあたりから展開していきます。

mutu (28) mutu (17)
桝形っぽい虎口を通ると大手曲輪に到着。広いスペースがあり削平もしっかりされています。(写真:左)
本丸へ至る奥には土塁と堀切がセットで設けられています。(写真:右)

そして、曲輪の周囲、外郭を注意深くみてみると、部分的に石垣が使われていた形跡もあります。

mutu (15)大手曲輪北側に見られる石垣。よく残っています(^-^)。

mutu (14) mutu (16)
ちょっと別アングルからも観察してみると、崩れてはいますが、しっかり石垣です。

石垣を確認できてちょっと興奮気味です。
本丸へ向かいますが、こちらの一の堀切もなかなかのものです。

mutu (18) 土橋つながりで、堀切の両側は竪堀となっています。

mutu (19) 一の堀切を越えると本丸に至ります。

mutu (44) mutu (45)
本丸内には、曲輪周囲に礫石がゴロゴロしています。(写真:右)

恐らく、実戦にそなえて投石用として城中に用意されたものが残っているものと思われます。
投石が有効な迎撃手段であったことを物語っています。
結構生々しく、リアルですね。

mutu (20)本丸の奥にも大きな土塁が残っていました。

この土塁、よく観察すると、周囲を石垣で囲まれていて、それが崩れたような印象を受けます。
当時は内側を頑丈な石塁で固めていたものと思われます。
もちろん、有事には、石つぶてとして使うことも想定していたのでしょう。

mutu (21)本丸直下には深い二の堀切が待ち受けます。

mutu (22) mutu (23)
高さも幅もある大堀切です。尾根の脇、両側は勾配が急で岩山のため回り込みも不可能です。

mutu (27) しかも長い竪堀で遮断しています。

この堀切にはとても強い防御意識が働いているように感じます。
尾根伝いからの攻撃を充分に意識していた備えがしてあります。

そして、今回自分が最も感じ入ったのはこの「狼火台」遺構でした。

mutu (24)細尾根の緩斜面を利用して造られている連絡用狼煙穴。

粗雑ですがここまでしっかりとした状態で残存しているのはなかなかありません。
どうやって伝達していたのか、どこからの意をどこへ伝えていたのでしょう?
穴に目をやりつつ、あごに手を添えながらあれこれ想像してみます。

mutu (46) mutu (13)
「念のため」か、搦手筋にも、小さな堀切がありました。

六ツ城は登りやすい上に、全体的に遺構がとても見やすく、残存状況が良いです。
頂上からの眺望は現在では望めませんが、その分遺構見学は充実しています。
奥美濃を代表する中世戦国山城だと思いました。

mutu (40)南の麓には道路脇に立派すぎる石碑も立ってました。

天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで猪俣五平次義綱は、遠藤氏に属して秀吉方として出陣。
美濃の旗頭、池田恒興の軍に従って奮戦しましたが、乱戦の中で討ち死にしてしまいました。

地元の方に猪俣氏の菩提寺を教えて頂いたのでちょっと寄ってきました。

光雲寺 (岐阜県郡上市白鳥町六ノ里橋詰)

mutu (34) 真宗大谷派の光雲寺は猪俣氏の創建と伝わります。

mutu (31) mutu (33)
寺は里山の静かな地区にあり、古めかしくも凝った造りの鐘楼に引き付けられます。

mutu (32)鐘楼の柱の四隅にはこんな可愛い瞳の狛犬?が・・獅子丸か?

mutu (37) mutu (38)
本堂です。屋根を見ると冬は雪深い地区であることがわかります。(写真:左)
そしてどうしてもこういう所に目がいってしまいます。さりげなく彫り込まれた力作ですね。(写真:右)

mutu (36)猪俣氏の墓は同寺の東の山肌にひっそりとありました。

mutu (35)

伝来の地を命がけで守ろうと勇戦・奮闘した猪俣一族を偲んで訪問させていただきました。

小里国定屋敷 🏯 小里氏の館址

美濃 小里国定屋敷 (岐阜県瑞浪市稲津小里・城屋敷)

県道20号線から「うどんの屏風山」さんのお店の脇道へはいると、道路端に石碑があります。
こちらに小里国定の屋敷があったとされています。
小里新城にも近く、関連もあったものと。

oriyasiki (2)堂々たる石碑です。石碑の後ろの土地一帯が屋敷と伝えられています。

小里川が北と南、それぞれで大きく湾曲している間の右岸段丘に構えられたようです。
こちらの土地の方のお話しを伺いましたところ、今でも土中から陶片が出てくることがあるそうです。
裏には沢が流れ、堀として利用していたようです。
ご丁寧にも案内していただきました。

oriyasiki (3)
なるほど、背後は沢によってほぼ垂直に深くえぐれています。まるで滝のある渓谷です。

この光景のギャップには非常に驚きました。
同じ場所とは思えない程、景色が一変します。
この沢はすぐ下の小里川に合流しています。

ふと、美濃守護の土岐氏系の館には少なからず共通点があるのかな、とも思いました。
それは、割と平城で、街道と河川の近くにある、ということです。

瑞浪市の一日市場館(神戸城)、小里国定屋敷・・
土岐氏の大富館や浅野館、高山館・・
多治見市の多治見国長館・・など、・・そういえば、という感じです。

oriyasiki (1) 対岸からの屋敷址の様子。手前が小里川です。

こちらの場所を教えていただいた土地のお方に感謝です。
この場所に屋敷が構えられた理由も理解できました。
ちょっとまとめて、年代別に自分なりの推測なんかしてみたいと思います。

小里古城・・・伝説はあるものの、遺構はありません。少なくとも小里氏の城郭はなかったものと思われます。
小里国定屋敷・・・小里氏は最初はこちらに土着して・・
小里新城・・・小里氏の実質的な居城はこの城から始まり・・
小里城山城・・・戦国期に相応しい山城として築城、信長にあてにされ、対武田軍への向城として再普請へ。

・・と勝手にあれこれと想像してしまいますが、いかがなもんでしょう?
今回、小里城を新城➡城山城➡古城➡屋敷、と順番に回ってみましたが、実に楽しかったです。
小里川ダムもおりまぜて、やっぱり言わしていただきます、小里(折)に触れてまた来たい!と。

失礼いたしました~(〃▽〃)。

美濃 小里古城 🏯城としての遺構、見当たらず・・。

美濃 小里古城 (岐阜県瑞浪市稲津町小里馬場)

小里城は古城、新城、城山城と別々の場所に3つの城址が存在することは、すでに述べてきました。
今回お訪ねしたのは最も古い、小里古城です。

oriko (11)のっぺりとした丘上にあったという小里古城を見ます。

oriko (1) 東側のお寺の下に駐車場をお借りします。

少し登った所に小里古城の進行方向を示す案内板があります。
小里新城で見られた同様の案内板ですね。
山頂までは緩やかな坂道をゆっくり登っていきます。

oriko (2) 墓地に出た、と思ったら小里古城を示す城址板に遭遇。

墓地ということで、写真が撮りずらいのですが、様子だけお伝えします。

 oriko (5)
墓地の奥に祠が祀られていますが、城に関係するものかどうかはわかりません。

oriko (8) oriko (9)
若干の段差が認められますが、城の郭ではなさそうです。

山頂付近も整形されたような形跡はありませんでしたし、堀などの跡もありません。
ほぼ全くの地山、といった感じでした。
山上に豪族の館か、物見台でもあったのでしょうか?

小里古城は源三位頼政の城である、という伝説がありますが・・にわかには、信じられませんね。
どうも美濃守護の土岐頼明と混同されたものではないか、と『瑞浪市史』にはあります。
いずれにせよ、城の遺構もありませんし、それほどの要害でも要衝でもありません。

oriko (10) 老人保健施設側からの登り口。

なんとなくこちらのほうが城の登り口っぽい(大手口)ような気がします。

小里氏との歴史が不明なことや、独立丘にしては無防備すぎる山。
ちょっとロマンにも限界がありそうです。
しかし、相当古い城址、ということで当時の地方城館とは、かくも簡素な普請だった、のかもしれませんね。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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