伊賀 上野城 🏯高虎が築いた見事な高石垣

伊賀 上野城 (三重県上野市丸之内) ≪国指定文化財≫ 【日本100名城】

百地丹波城をあとにして、伊賀上野城へと向かいました。
途中の車窓からみる風景はのどかそのもの。
まさに忍者屋敷のような門・塀・倉をもった古民家があちらこちらに見えます。

さて、今回の伊賀上野城、訪問は3回目となります。
最初は舎弟くんと、2回目は家族みんなで。そして今回、城友・日向守さんとの訪問で3回目。
来るたびに新しい発見・思い出があり、特にこちらの高石垣はまぶたの裏から離れません。

igaueno1 (18)上野城石碑。登って左が天守閣、右には茶店を経て筒井天守へと進めます。

筒井天守、とは、羽柴秀吉の命で伊賀国に移封になった筒井定次によって築かれた時代の城郭址があったところです。
高虎によって拡張された際は新本丸の一部とされ、城代家老の屋敷にあてられました。

igaueno1 (4) igaueno1 (3)
以前より発掘・整備が進められ、見違えるほどきれいになっていました。

igaueno1 (5)こちらの石垣もなかなかの逸品ものです。(o´∀`o)

igaueno1 (7) 石畳みの道、ウツクシイアルヨ。

igaueno1 (2) 最上部の北西隅から登ると・・。

igaueno1 (1)筒井天守のあった天守台に登れます。・・人気ないようですが、要チェックです!(#^ω^)。

ここで筒井定次について、ちょっと・・。

慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれるも、一族で本家筋の筒井順慶に子が無かったため、順慶の養嗣子となりました。
定次は軍学に明るく、築城に際し立地条件や地盤を考慮し、要塞として相応しい場所を選んでいます。
秀吉による紀州征伐では堀秀政などと共に千石堀城を攻め、この城攻めでは二尺七寸の太刀を振りかざし奮戦する定次の勇ましい姿もあります。

関ヶ原の戦いでは東軍につき会津征伐へ向かいましたが、その間に上野城を西軍に奪われてしまします。
・・しかし、ここからです、ここからがスゴイんです。
定次は急遽引き返して伊賀に戻り、いち早く城を奪取!
その後、再び関ヶ原の戦場に駆けつける、という難技をやってのけるのです。

まさに定次の東山道大返し、といってもよいでしょうね。

伊賀の侘しい寒村であった上野は、定次の整備によって大いに発展しました。
そのため今も地元では定次はとても慕われていると聞いております。
重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、信頼を寄せていたと考えることができましょう。

igaueno1 (6) 芝小屋などの城内の管理用務櫓もあったんですね。

それでは、見えてきました、天守に向かっていきます。

igaueno1 (11)模擬天守は三重三階で、小天守と共に高虎天守台に建ちます。

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昭和10年、当時衆議院議員であった川崎克氏の私財により模擬天守が建設されました。

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うずかたく積まれた栗石は築城のために集められたものでしょうね。

igaue2 (29)なんとなく津城の丑寅櫓に似ていますね~。

そして内部に入っていきます。あっ、500円です。

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小天守には城内井戸、から~の~、抜け穴があるそうですよ。

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伊賀上野城のマスコットキャラクター。「た伊賀ーくん」がお出迎えです。

城主であった藤堂高虎のトラ(タイガー)と伊賀によるナイスネーム。
なんと身長は藤堂高虎と同じ、およそ190cm!だそうです。

igaueno1 (15) 藤堂高虎といえばこの兜、まじかで見れますよ。

igaueno1 (16) 木造造りというのはいいものです。

igaueno1 (17) 最上階の天井は寺院の本堂のようです。

igaueno1 (8)再び外にでて別アングルです。いいですね~(`∀´)

igaueno1 (9) igaue2 (27)
高石垣の上から下を見おろします。~ぅううう、足がすくみますぅぅ・・。

igaue2 (26) igaue2 (10)
以前、子供たちを連れて行ったときのショットです。恐る恐るのぞきこんでいます(笑)。

以前はこのように石垣の際まで近寄れたのですが・・。
現在は警告ロープが張られ、なんとなく近寄ってはいけない雰囲気が・・。
・・それでは、下に降りてみたいと思います。

igaueno1 (22)さすが、築城名人、藤堂高虎公築城の高石垣です。屏風折りが美しいです。

津城と同様、両角に櫓台を突き出させた特徴のある縄張りです。

筒井定次時代の上野城は大坂城を守るための城であったのに対し、
藤堂高虎築城の上野城は大坂城からの攻撃に備えるための城に改修されるという、
まったく正反対の築城目的になったのが面白いですね。

igaue2 (34) 算木積による角部が決め手なんですね。 
igaue2 (33) 堀底から上端までの高さは30メートルで日本一!

城友・日向守さんと思わず見とれてしまう、高石垣。高虎の城に対する美意識さえ感じ取れます。
ここまで二人で城内くまなく結構な距離を歩いています。
・・というところで城内にある茶店にて一服していきます。

igaueno1 (19) igaueno1 (20)
美しい池を見ながらの、落ち着いた佇まいに、伊賀上野城の感想談義も盛り上がるのです。

igaueno1 (21) 
なんとも美味しい、ぜんざい(おしるこ?)に心も体もあったまるのでありました。

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伊賀 百地丹波城 🏯謎多き伊賀の上忍、百地丹波守の城

伊賀 百地丹波城 (三重県上野市喰代城谷)

年末も押し迫ってきて、忙しい・・、はずなのですが・・。
今回は年末城納め、と題して今年一年の締めくくりのプチ遠征に出かけました。
城友・日向守さんにも無理くり、休みを合わせて頂いての行軍です。

今年の城めぐりでは、なんとなく藤堂高虎公の縁ある城が多かった気がします。
そんなわけで、〆は伊賀上野城方面に行こう!ということにしました(強引に)。
周辺の城址にも時間が許す範囲で寄ってみたいと思います。

まずは百地丹波城を朝一で散策してみました。

momotitannba (14) 車は永保寺の駐車場をお借りしました。

momotitannba (13) どうやら曲輪間の堀底が道になっているよう。

こちらの奥には百地丹波の墓と伝わる墓所があります。

momotitannba (11)  百地丹波が修行したと伝える丸型池。

ここで水蜘蛛の術(水上歩き)、とか水遁(すいとん)の術とかしていたんでしょうか?
シュノーケルの竹筒が出てないか目を凝らして探してしまいました。
・・あるわけないのに。

momotitannba (12)
青雲寺から見上げる主郭部。崩落石を防ぐため、コンクリートで固められているほど急峻な切岸です。

momotitannba (10) 青雲寺から主郭部に入っていきます。

momotitannba (9)落ち葉が似合う、伊賀流上忍・百地丹波守城址の石碑と説明版。

momotitannba (4)

百地丹波城は、百地氏によって防御の固い居城(居館)として築城されました。
百地氏は、戦国時代には有力な土豪で藤林長門守服部半蔵と共に伊賀上忍三家に数えられます。
(最近の研究では百地丹波と藤林長門の同一人物説もあり)

百地丹波守は天正2年の織田信雄の独断による伊賀侵攻時に忍者軍を指揮して山間部の狭隘な地形を巧みに利用。
神出鬼没のゲリラ戦法で信雄軍を見事に撃退したのです。(第一次・天正伊賀の乱)

しかし2年後の天正9年、信長は織田信雄を総大将として再び伊賀に侵攻。
この抵抗戦で、百地城も落城してしまいます。(第二次・天正伊賀の乱) 
百地丹波守のその後の足取りはよくわかっていません。 

momotitannba (8) momotitannba (3)
主郭内の東から北、西方面は土塁で囲われていて、特に東の大土塁には圧倒されます。

momotitannba (1)さらに圧倒されたのは土塁と連動したこの大箱堀です。(゚△゚;ノ)

momotitannba (5) 果敢にも土塁を登ろうとする城友さんだが・・。

この直後、ぬかるんだ土で靴が滑り、堀底まであえなく敗退!
「日向守殿、そのような失態では、百地丹波守に笑われようぞ。」
・・となじりつつ、自分はしっかり遠回りしていくのでした。

momotitannba (6) 二の郭から見下ろす大堀切は幅も広いです。
 
momotitannba (7) 物見櫓でもあった感じの出丸があります。

momotitannba (2)

百地丹波守は戦場ではあまりその姿を見せなかったといいます。
音もなく、においもなく、姿・形まで現さない、まさに影の支配者・百地丹波守
ベールに包まれた伝説の謎の上忍、う~ん、ミステリアスです。

尾張 楽田城 🏯最も古い「殿守(天守)」の記述がある城

尾張 楽田城・楽田小城 (愛知県犬山市楽田本郷・城山)

羽黒城の見学後、その足で寄ったのが楽田城です。
犬山市の城址は南北の街道に沿って配置されているのでとても回りやすいのが特徴。
最寄り駅からも近くにあって訪問しやすいです。

gakuden522.jpg楽田小学校北西部にある城址石碑。

楽田城は現在楽田小学校一帯に築かれていたようです。
かつては土塁や堀が残っていたといいますが、小学校建設によりほぼ消滅しました。
天守台もあったそうですが、これも消滅、現在は北西側の校門付近に石碑と案内板が建っているのみ。

gakuden (10) gakuden (3)

gakuden (9)史蹟城山の石碑と楽田城石碑の小山(天守台ではありません)。

楽田城は永正元年(1504年)頃に 大赤見城主の織田久長によって築かれたと云われ、居城を移したようです。

永禄5年(1562年)犬山城主織田信清によって攻め落とされますが信清は織田信長に追われ、甲斐に逃亡。
楽田城には信長の家臣坂井政尚が守将として入城します。

どうやらすでに信長の頭の中では東美濃攻略への布石が始まっていたようです。

元亀元年(1570年)坂井政尚が近江国堅田で討死、長男の久蔵尚恒も元亀元年(1570年)7月の姉川の戦いで討死しており、奥城主梶川高盛が城主となります。

その後、小牧長久手合戦では秀吉の部将堀秀政が在陣し、さらに羽柴秀吉自身も犬山城から楽田城へ本陣を移します。

gakuden (7) 小学校の敷地は周囲よりも一段高くなっています。

小瀬甫庵が記した「遺老物語」によると楽田城中には高さ5m程の壇を築いて、その上に二重の櫓を建てていたと記され、それを「殿守(でんしゅ、天守に音が通じる)」と呼んだといいいます。

これが今日の天守に通じる最も古い記録とされています。

起伏の少ない濃尾平野では、山城を築くことが困難であったためでしょう。
遠方を監視するための物見櫓が発達し、高層建築施設が天守への発生へとつながったと思われます。

gakuden (11) 須賀神社も楽田城の一部だそうで・・

これだけかな・・。と、学校外周を歩いていたところでした・・。
ご近所のおばちゃまに「楽田小城」なる場所を教示していただきました。
見た目一発で城見学に来たと見抜くその洞察力、おばちゃま、ただ者に非ず・・。

gakuden (12) 城址の雰囲気のある神社です。

楽田小城は出丸か、本城の北に連なる郭の一部だと思われますが、一段高くなっています。
むしろ、こちらのほうが城址の面影が残っているように思われ、ちょっと興奮してしまいました。
「おばちゃま、ありがとうごぜいやす!」、です!

gakuden (13) 楽田小城の立派な石碑。( ̄。 ̄ノ)ノ

なんだか得した気分です。
今回もちょいといい旅気分での城めぐりができました。

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尾張 羽黒城 🏯小牧・長久手の戦いで再構築された城

尾張 羽黒城 (愛知県犬山市羽黒・城屋敷)

犬山城を見学した後、市内の城館を訪ねて回ることにしました。
その中の一つ、羽黒城のご紹介です。

以前、まだ小さかった子供たちを連れて遊びにきたことがありまして。
懐かしい思い出の城址でもあります。
今回はその時の写真と出来事もおりまぜながらの回顧録でもあります。

城跡は羽黒の興禅寺一帯あたりから北東に築かれました。
羽黒の交差点を西に100メートルほどで興禅寺に到着です。
結構、狭い道なのでちょっと気を付けないといけません。

haguro (1) まずは興禅寺を目指します。

羽黒城は建仁年間(1201年~1204年)に梶原景親によって築かれたといわれます。
景親は源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣梶原景時の次男・景高の子であります。
梶原氏一族は正治2年(1200年)鎌倉を追われ駿河国清見関での戦いに敗れて一族の多くが討死しました。

そのうち景高の子豊丸が乳母・お隅の方に連れられて羽黒へ落ちのび、長じて梶原景親と名乗り現在の興禅寺に館を構えたようです。

haguro (3) haguro (2)

梶原景時夫妻の供養塔と梶原一族の五輪塔があります(写真:左) 
山内一豊の母・法秀院の出生地でもあるそうです。(写真:右)

haguro (18) 境内の裏には羽黒城の土塁が残ります。

haguro (17)羽黒城の主郭部の高台です。

haguro (4) haguro (19)

以来、梶原氏は羽黒一帯に勢力を持ち、信長に仕えた梶原景久(景義とも)は羽黒三千石を領した有力領主でした。
信長の長子・織田信忠の与力となり、共に各地を転戦します。
しかし、天正10年(1582年)、景久は本能寺の変で信長父子に殉じ討ち死したようです。
(↑『信長公記』などでは戦死者の名簿で確認が取れていません。口伝です。)

haguro (21)羽黒城址石碑。前方後円墳の墳丘を利用したようで、その最高所に城址碑が。

小牧・長久手合戦では羽柴秀吉方の砦として梶原館が再修築され、山内一豊、堀尾茂助が守将となりました。
当時は対織田・徳川連合軍に対する最前線の城砦群の一つとして重要視されたのです。

haguro (5) 竹林が手入れされて観察しやすいです。

haguro (6)切岸下を横堀がめぐっています。

当時、この斜面を見た子供たち、うずうずしたのか制止も聞かず、城攻めを始めました。

haguro (13) まず次男くんが一目散に攻め上がります。

haguro (14) 続けて三男くんが取り付きます。

haguro (15) どうやら、羽黒城を陥落させたようです。

頂上の城址碑あたりから勝ち鬨が聞こえてきます。・・親の顔が見てみたい・・。
まぁ、どんな形にせよ一緒に城めぐりを楽しんでくれて、うれしいものでして・・。
ただし、ここは貴重な歴史遺構であることも忘れてはいけません。
斜面の駆け上がりは最小限避けたいものです。・・ちと反省。

haguro (12) 竹の伐採材を利用した城柵もこしらえてありました。

haguro (16) haguro (24)
クランクのきいた堀が一部残存しています。おぉ!木橋がナイス・イメージです。

haguro (20) 所々に土塁の址も見られます。

竹林が整っている分、城内の見通しが効きます。
しかし、遺構が断片的に存在しているので全体像がつかみにくい城です。
ここは想像力でいろいろ思い描いてもよろしいのではないでしょうか?

haguro (22) 城内には五輪塔が大切に祀られています。

haguro (8) haguro (7)
羽黒城址北には磨墨塚(するすみづか)と公園があります。

磨墨は源頼朝から梶原景時に与えられた名馬。
この地で死没した名馬・磨墨の死を惜しみこの塚が祀られたようです。
・・磨墨塚、全国各所にもあるようですね・・。

haguro (23) 案内板がリニューアルしてました。

haguro (11) haguro (10)
名馬・磨墨をイメージしたなかなかエグイ遊具にお子様、大喜び、尻尾が滑り台になっております。

結果的にこの公園があったこともあり、子供たちも楽しい城めぐりになったようでした。
実は、自分も一緒になって大はしゃぎしていたことも事実でして・・。
まぁ、どちらが子供かよくわからない状況でしたね・・。

・・という楽しかった思い出の城址のお話しでした。

また付き合ってもらえるかな???(ノ´▽`*)b

尾張 犬山城 🏯木曽川河畔にそびえる崇高な天守閣

尾張 犬山城 (愛知県犬山市犬山北古券・城山) 〖  国 宝  〗 【日本100名城】

最初に申し上げると、自分、犬山城が大好きです。

自宅からも近く、以前は仕事のルートでも日常的にあった身近な城です。
何度見ても、その美しい姿に見とれてしまいます。
近くを通る時はわざわざ遠回りしてでも寄ってみたりして・・。

inuyama (3)木曽川にその姿を映す「白帝城」こと、犬山城天守閣。(*´~`*)

やはり木曽川方面から眺める景観が絵になりますね。
木曽川を背にもつ、いわゆる兵法にいう、「後堅固(うしろけんご)」の城です。

inuyama (1)見る方角によって異なる顔を持つ天守。お気に入りのマイ・アングル(´∀`*;)ゞ

inuyama (17) 石碑も国宝にふさわしい感じです。(この石碑マニアめ!(//>ω<))

inuyama (14) inuyama (15)
主郭を囲むように横堀が巡っています(本当は堀底に降りてみたいのですが・・)。

inuyama (5) 七曲門付近の石垣と少し見頃を過ぎた紅葉。

inuyama (7) 天守台には様々な色の石がカラフルです。

inuyama (4)お馴染みの切妻付櫓がある南面からの雄姿。♪O(≧∇≦)O♪

inuyama (13) inuyama (12)
外観は3層ですが、内部4階、地下が天守台内に2階もあり、6階構造になっています。

inuyama (8) 階段は頭上注意!油断するとゴツンといきます。

inuyama (11) 3階の破風の間が妙に落ち着きます。

inuyama (9) inuyama (10)
最上階の望楼から見渡す美濃の対岸と城砦群。

四方に設けられた廻り縁からは雄大な木曽川沿い、日本ラインが絶景です。
対して、南側も尾張平野が一望のもとに見渡せて見晴らし良すぎです。

inuyamaminami.jpg 南方面の眺望。

inuyamamokei.jpg在りし日の犬山城の全貌模型図です。素晴らしい出来栄えですね。

ここで犬山城の歴史について、ちょっと・・。 inuyama (2)

犬山城は天文6年(1537年)織田信康によって築かれました。
信康は織田信秀の弟で木之下城を居城としていましたが、犬山城を築いて移りました。
信秀の弟たち、信光、信康らは、いずれも武将として出来人だったようです。

織田信康は兄・織田信秀に従って美濃の斎藤道三と戦い、加納口の戦いで戦死します。
信康のあとは子の織田信清が跡を継ぎます(信長の従兄弟にあたります)。

織田信清は領地を巡る争いで信長と対立します。
しかし、信長の反撃によって永禄7年(1564年)には犬山城も陥落し、信清は甲斐国へと逃れるのです。
信長は信清を降した時点で尾張の統一をほぼ手中に収めました。

その後犬山城は小牧山城と共に対東美濃攻略の拠点として重要視されていきます。

inuyamakofuu.jpg

そして時代は下り、再び犬山城が注目されるのが、小牧長久手の戦いです。

天正12年(1584年)小牧長久手合戦の時は織田信雄の家臣中川定成が城主でした。
合戦の緒戦で、大垣城主池田恒興は秀吉方に味方すると、かつての居城であった犬山城を急襲して攻め落としたのです。(中川は伊勢方面に出陣中で、留守中でした)
これは、家康・信雄側にとって、全くの誤算だったようで、その後の戦局を大きく左右する出来事になりました。

1617年(元和3年)、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、以後江戸時代を通じて成瀬家9代の居城となりました。
近年まで日本で唯一の個人所有の城であったことで有名でしたが・・。
個人所有では維持に非常に困難が伴うことから、財団法人犬山城白帝文庫に移管されることになり、現在に至っています。

inuyama (6) どことなく「戦国の城」を色濃く残す天守は小さくとも迫力に満ちています。

全国各地の中でも旧現存天守を有するのはわずかに12天守のみ。
そのなかにあって犬山城天守は、丸岡城天守と並んで最も古く、最も戦国を生き抜いてきた城、といえます。

そして、個人的にも最も美しい、と思える城です。
いつまでもそこにあって、みんなに愛される城であって欲しいと思います。


武蔵 江戸城 🏯徳川幕府による天下普請の名城を短縮見学

武蔵 江戸城 (東京都千代田区千代田) 《特別指定史跡》 【日本100名城】

思わぬラッキーなこともあることです。
奥方にプロテニスの観戦招待チケットが舞い込んできたのです。
東京・有明コロシアムのペアチケット、・・ま、眩しすぎます!

・・で、「誰と行くのかなぁぁあ?」
・・え?「僕でいいの?、よろしいんでございますか!?」
・・やった!、やりました!城に行け・・、いや、プロテニス観戦ができるなんて!♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪

・・とまぁ、腹の底は完全に見透かれつつも、お互いが魅力的な話には間違いありません。
久々にデートに出かけるような妙なウキウキ気分です。
「姫!、運転はそれがしにお任せあれ!!」( ̄^ ̄)ゞ

午前中が江戸城見学、正午から試合観戦、というスペシャル・ツアー決定です。

深夜0:00出発し、5:00前に江戸城北の丸駐車場に到着です。
・・といっても8:30の開場ですんで、ゲート前に並んで仮眠をとります。
ちなみに、江戸城は9:00からの開門です。

見所がたくさんあってとても半日では回り切れそうもありません。
よって、見所を絞っての超特急見物になりそうです。

天気もいいです。ちょっと寒いですが、さぁ、散策です。

edo (1) 平川門平川橋を通過。

平川濠の水堀は朝日を浴びてとても澄んできれいでした。
大手門を一旦通過し、名城スタンプ設置場所の一つ、和田倉噴水公園を目指します。

edo (4)桔梗濠から見る、巽櫓(中央の櫓)と、桔梗門(左奥の門)

公園の館内レストラン前にて無事に江戸城の100名城スタンプを押せました。
時間があればモーニングでもしたいところですが、今回はあまり余裕もないので、先へ急ぎます。
・・というか目の前にある巽櫓見たさに足が勝手に・・。

edo (6) edo (7)
大手濠では朝っぱらから何か言い合っているご様子です(城も鳥もでかい!)。

edo (5) edo (10)
大手高麗門大手門から入城します。巨大な桝形門で、おったまげます。

edo (11) 旧大手門渡櫓の鯱がお迎えです。

edo (18) 美しい紅葉を見ながら中之門に到着です。

この中之門の石垣は江戸城の中でも最大級となる巨石で築かれているそうで。
巨大な石垣は目地も美しく、丁寧に加工された見事な「切込接ぎ・布積み」の技法です。
もうキッチキチで、隙間なく積まれています。

edo (19) edo (20)
百人番所(写真:左) と 大番所(写真:右)をぐるっと見ていきます。

ビルとの景観がなんとも不思議な対照感をだしています。

edojyou.jpg実質の天守、富士見櫓を見上げます。

富士見櫓は明暦の大火(1659年)で天守が焼失した後に、天守の代わりとして使用された三重櫓です。
現存する櫓の中では最も大きい櫓です。(写真はお借りしたものを掲載しました。)
今回は富士見多聞と共に公開されていてとてもラッキーでした!

なお、皇居にはもう一つの伏見櫓があるのですが・・。
伏見櫓を間近で写真を撮るにはですね・・、
正月や天皇誕生日など一般参賀で皇居の中に入れる日を選んで訪問しないといけません。

edo (21) edo (22)
松の廊下址(写真:左) と 石室(写真:右)なんかもありましたね。

お馴染みの松の廊下です。「ここでか・・」という感じです。
石室は江戸城の抜け穴とか、金蔵という説もあるそうです。
実際は非常時に調度品や文書類など、貴重品を納めた御宝蔵の跡と考えられています。

edo (23)巨大な天守台と石垣技巧に圧倒されます。(;゜0゜)

江戸城の天守台は高さ11mで、東西約41m、南北約45mの大きさを誇り、御影石が使用されています。
この天守台は明暦の大火(1657年)によって寛永天守が焼失後、加賀藩主・前田綱紀によって築かれました。
3度の天守が再建され、石垣の一部には焼けた跡も見られました。

edo (27) edo (26)

edo (29)どれだけ美しく巨大な天守閣が聳えていたのでしょう?

edo (30) edo02.jpg
帰りは北詰橋門(きたはねばしもん)から退城します。

北詰橋門は江戸時代は平川堀に跳ね橋がかけられていた門です。
堀からの石垣もかなりの高いです。(写真:左) 乾濠の堀幅もとても広く曲線が見事です。(写真:右)

・・とここまで回って時間的にもそろそろです。
とてもじゃないですが、半日かけてもまだまだ回り切れない江戸城です。
これでも短い時間で効率よく見学できたのかもしれません。

とにかく圧倒的に広大すぎて、常識はずれのスケールの連続でした。
一緒に歩いてくれた奥方の「う~ん・・城、という感じがしない・・」という一言には妙に同感。
江戸城内には、もう「戦国の匂い」はあまり感じられません。

太田道灌の築城から江戸幕府の府城として明治まで機能。
また皇居として今日まで、そしてこれからも日本の象徴として受け継がれていくのでしょう。
城が平和の象徴として役割を果たしていく・・、その姿の断片でもこの目で見られたことは感慨深いものがありました。

今回、奥方には実に5キロ近くを歩き付き合ってもらいました。感謝!
お互いいい運動になったところで、次の真の目的である、有明コロシアムに向かうのでありました。

「・・次、一般参賀、狙ってるんでしょ?」(ギクッ・・!( ̄д ̄;))

伊勢 松ヶ島城 🏯城下町ごと廃された、いにしえの要衝

伊勢 松ヶ島城 (三重県松阪市松ヶ島町城の腰) 〈県指定史跡〉

目の前に見えているのになかなかたどり着けない・・、
場所は特定できても、車が停められない・・、
気付いたら、個人の敷地に入っている・・。

そんな、違った意味で難攻の城。
それがここ、松ヶ島城址です。

matugasima (2)田畑の中にポツンと残る土盛りがありここに石碑と案内板があります。

松ヶ島城は永禄10年(1567年)頃、北畠具教織田信長の侵攻に備えて築城したのが始まりです。
その頃は「細首城」、と呼ばれていました。

その後信長の次男・織田信雄が北畠氏の養子になり家督を継ぎ信雄は田丸城を本拠とします。
しかし田丸城が焼失すると細首城を改修し松ヶ島城と改名しました。

matugasima (3) matugasima (4)

なんと五層の天守があがっていたそうです・・。(写真:左上の案内板より)
遠目からみると、どっから見ても円墳墓に見えてしまいます。(写真:右上)

matugasima (1) 頂部の様子。 

城のどの部分なのでしょう・・? イメージが湧きません・・。(一説にここが天守台だそうです。)
ベンチで城址気分を味わう・・。 ほどでもありません・・。(ベンチには悪いですが。)
かつての一大城郭の面影は気持ちいいほどありません・・。(表現がおかしいですが・・。)

matugasima (6) おやっ?城石碑もあるではないですか(*´∇`)!

matugasima (5)これは城址碑マニアとしては嬉しいです。(* ´ ▽ ` *)

本能寺の変の後、蒲生氏郷が入城し、松ヶ島城を伊勢国南部の統治拠点と定めました。
しかし城下町の発展性が望めず、当城下の町人はすべて松坂城下へ強制的に移住されたそうです。
ここに松ヶ島城と城下町は、はかなくも廃城を迎えました。

松阪城を、蒲生氏郷を、伊勢の戦国を、語るのにこの城の存在なくして語れません。
規模も歴史も比べ物にならない僅かな遺構の城址ですが、そうなった理由があるのですね。
松阪の成り立ちに関わる明と暗、といったところでしょうか。

往時の城下の人々の気持ちを考えたりしますと・・。さぞ、迷惑な話だったのでは、と思います。
町は一瞬にして元の漁村に戻ったそうですから。
それにしても、もう少し城址と周辺の案内、2,3台の駐車場があったりすると、ありがたいのですが。

心なしか、僅かに射す低い西日が松ヶ島城の雰囲気と似合っていました。

伊勢 松阪城 🏯芸術的な桝形と高石垣の外郭ライン

伊勢 松阪城 (三重県松阪市殿町) 《国指定史跡》 〈県指定史跡〉 【日本100名城】

現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている松阪城。
100名城のスタンプ集めに走り出した自分、是が非でも寄りたい城の一つでした。
城友さんとの、のんびり訪問です。

matusaka (1)表門址正面にある城址碑。・・いいですね。(^ω^ )

近江日野城の蒲生氏郷は小牧・長久手の戦い後、伊勢国12万3千石を与えられると最初は近くの松ヶ島城に入城しました。
しかし、氏郷は松ヶ島城が伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考えたのです。
そこで、現在の城地である四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始したのが松阪城の始まりです。

matusaka (3) 武家長屋の御城番屋敷へ。

matusaka (4)

江戸時代の武士の組屋敷が、ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されていいます。
玄関には現在でも住んでみえる方々の表札があがっていて、大変驚きました。
上の写真は一般公開されている復元家屋の内部の様子です。

matusaka (5) 石畳の美しい景観があります。

路地の向こうには松阪城の櫓や壁、天守も見えたのでしょうか?
電柱やアンテナなどが撤去してあるため、なんだかタイムスリップしたような気分です・・。
氏郷の城下町を意識した築城由来、わかるような気がするのです。

この後、松阪神社に寄ってお参り。
城内に入っていきます。

matusaka (6) 美しい勾配に足が止まります。

野面積みが主体なんですが、隅部は切り込みはぎ&算木積みという精巧な工法が使われています。
これらの工法は「穴太衆」と呼ばれる近江国の石工集団によるものとされます。
なんとなく、安土城石垣に似ていますね~。

matusaka (2)複雑に重ね合った桝形虎口は城門がなくとも脅威です(;゜0゜)

matusaka (7) 芸術的ともいえる折れ具合。

matusaka (8) matusaka (9)
石垣は高いのですが、フェンスは一切ありません。景色に見とれて落ちないように。

matusaka (10) 本丸より見下ろす表門址。たっか・・。

上から下を見下ろすと足がすくむほど高い石垣です。
そのためいろいろなことが頭をよぎります。
特に攻め手の立場になると、こんな堅城に挑むのは、ちょっとイヤかも。

守り手の立場から見ると、城内の部所と部所の移動がしやすく、攻め手の数に応じて素早い対応ができそう。
横矢がけの箇所も多く、弓・鉄砲による敵兵の狙撃もしやいでしょう。

matusaka (13) 本丸上段への石階段。

matusaka (12) matusaka (11)

本丸上段部は広く、周囲を石垣で囲ってあります。(写真:左上)
天守址に連なる「敵見櫓址」。なんか、ネーミングがいいんで・・。(写真:右上)

matusaka (14)松阪城天守台は意外にちょっと低めのどっしりとした石垣です。

ちょっとコメントの少な目の内容文ですが、松阪城、語るよりも見る、に限ります。
今回もお付き合いいただいた城友・日向守さんとも結構歩きました。
城内が広く、折れが多いのも理由ですが、なにより意欲的な散策になってしまいまして。

朝からの城めぐり、さすがにお腹も減ってきました。

では、せっかく松阪まで来たのです。ここは奮発して松阪牛でも・・。
って・・、日向守さん?・・、今回はジャムマーガリンパン1っこっすか・・?。
・・車も本人もなんて低燃費な方なんでしょう・・。

首をかしげながら次の城へと移動するのでありました・・。
次は冒頭で紹介した松ヶ島城への訪問です。

伊勢 木造城 🏯田畑の中にわずかに残った土盛りの址が・・

伊勢 木造城 (三重県津市木造町・城) <市指定史跡>

kozukuri (5)木造城址の土盛りは遺構の一部なのか?不明です(´・_・`)。

伊勢国司・北畠晴具の三男、具政が木造氏の養子となり、木造具政を名乗り城主となります。
具政は永禄12年(1569)、信長の伊勢侵攻の際、織田氏に従い南伊勢侵攻の案内役を務めることに。
これに対して実兄である国司・北畠具教は出兵して木造城を包囲するのですが・・。

具政が城を固く守り続ける間に、織田信長率いる十万の援兵が伊勢に到着、北畠具教は兵を退いて大河内城に撤退を余儀なくされます。
そして信長を木造城に迎えた具政は織田勢の先鋒となって大河内城攻めにとりかかるのです。

信長方の調略があったとはいえ、どうやら兄弟仲はよろしくなかったようですね・・。

kozukuri (7) kozukuri (4)
木造城説明版で当時を偲ぶ。(写真:左) そして 見渡すと周りは一面の畑・畑・畑・・。(写真:右)

kozukuri (03) まさに陸の孤島状態。ぽっつ~ん、です・・。

kozukuri (2)それでも城址碑は威厳に満ちています。(;゚Д゚)おぉ・・!

結果、北畠具教織田信雄を養子とすることで信長に降伏。具政、具康父子は信雄の臣下となり、具政は木造城の北西6kmの戸木に城を築いて戸木御所と呼ばれます。

天正十二年(1584)蒲生氏郷が松ヶ島城に入城すると木造具康は氏郷への臣従を拒み、木造城で抵抗します。
氏郷は軍勢を発して木造城を囲みますが、城側は果敢に蒲生勢に打ち掛かり激しい抗戦が展開されました。
しかし孤軍の具康は城を明け渡して尾張へ落ち延び、ここに木造城の歴史は幕を閉じます。

このようないくつかの歴史背景を知るとこの木造城、平城にしては、なかなかの要害だったことがわかります。
今の姿からは想像もできないような堅城であったのでしょう。
城址碑を見つめ、周囲を見渡し、当時の木造城に想いを馳せてみました。

たじみ健康マラソンに出場しました

第56回 たじみ健康マラソン大会
(会場:岐阜県多治見市星ケ台競技場及び周辺道路)
平成28年12月4日(日) 10km:AM10:30スタート

毎年恒例参加の多治見マラソンに参加です。
「一年」というのは本当に早いような気がします。
今年も健康に一年を過ごすことができました。

自分のマラソンの原点ともいえるこの大会。
子供たちやパパ友さんたちと一緒に参加したのがきっかけでした。
以来、毎年欠かさず出場しています。

tajimimara2016 (4)

ですので・・これを走らない事には年は越せません、そして年を取れません。

tajimimara2016 (1)

天気予報では雨だったはずですが、風もなく暖かくこれ以上ないマラソン日和です。

tajimimara2016 (2)

パパ友でもありラン友でもあるY吉さん、蝶のように舞う軽やかなステップでアップです。
Y吉さんには今年いろいろなマラソン大会にお誘いいただきました。
自分がコンスタントに練習を重ねてこれたのも彼の励みに支えられてのことです。

tajimimarasonn2016 (2)多治見市は今年、気合で競技場を大幅に整備、リニューアルしました。

トラックはもちろん、内部の芝生や、観覧席も養生、リペイントされ、とてもきれいになってました。
多治見市が陸上競技にとても力を注いでいる様子が伝わってきます。

そんな生まれ変わった競技場にてスタートラインに並びます。
日差しも空気も柔らかい中、徐々にランナーたちの表情のみ険しくなります。
「スタート何秒前」、というカウントもなく静かな中、一発の号砲のみでレースが始まりました。

序盤(~3km)

グランドの外周を走りながら、その日の調子を確認します。
そして、多治見マラソンの名物、いきなりの「星ヶ坂」を駆け上がっていきます。
ここでは、はやり過ぎず、かといって緩めることもしないペースで登り切ることが大切な区間です。

登り切るとしばらく続く平地でペースを取り戻して快走できます。

登りながら、気持ちも上げていくことが求められる登竜門、とでもいいましょうか。
ここを登り切り、ダメージが最小限に抑えられたかで、その後のレース展開に影響がでます。
というのは中盤手前で待ち受ける緩やかでも長い「滝呂坂」が控えているからです。

中盤(~6km)

「滝呂坂」は緩やかなのですが、徐々にその勾配があがっていくきついポイント。
知らず知らずのうちにペースを落としていきます。
ここをじっくりリズムよく、一歩一歩を確実に刻んでいくことが前半の勝負が分かれ目。

そして、第一折り返し地点の名古屋モザイク工業様の敷地を抜けると強烈な「向島坂」です。
ここではどのレベルのランナーでも著しくペースが落ちます。
ここはじっくりと「虚無の精神」で登り切ります。

正直、何度走ってもこの坂は好きになれません。
しかし、ここで元職場の同僚さんが応援してくれたおかげで奮起できました(ありがたし!)。
先程の「滝呂坂」を今度は下っていきます。

終盤(~9km)

終盤は第2折り返し地点へ向けて林道コースに入っていきます。
入りは緩い下りなのでペースが上げられますが、折り返した時点で戻りは長い上りへと変貌。
呼吸を整えながら抜けていきます。

ここでY吉さんとすれ違い、励ましをいただきます。
今回、苦しい所で、声援や励ましをいただいたことが大変「力」となりました。
Y吉さんに、返事するのが精一杯でしたが・・。

さて、序盤の「星ヶ坂」を今度は駆け下りていきます。
競技場に戻る所までストライドを広げて、蹴り足に引力と慣性力を織り交ぜてベスト・ペースを作ります。
さぁ、いよいよゴールの会場に戻ってきました。

ラスト・スパート(ラスト1km)

いつもでしたら子供達から大声援をもらえるところも今回は誰もいません。
しかし、心の中にはその映像が残っています。
競技場のトラック手前に帰ったところで徐々にラスト・スパートのギアを上げていきます。

エンジンは?・・まだ大丈夫です。
脚は?・・用意できてます。
それでは行きましょうか!     加速装置・・、点火です。

追撃に気付いた前方のランナー、時すでに遅し、です。
もはやスプリンターと化した弾丸は止められません。
二人を追い抜き、その勢いのままゴールです。

tajimimara2016 (5) わずかに自己ベストを更新です\(^o^)/。

まだまだお恥ずかしいタイムですが、自分ではまずまずのタイムがだせました。
ラスト1kmは3分40秒台で走れたことにも満足です。
どうやら、Y吉さんも自己ベスト更新!二人供心地よい自信に満ちた表情です。

tajimimara2016 (3) かわいいうながっぱとの記念ショット。楽しかったです!

Y吉さんも自分もこの一年はコツコツと練習を積み重ねただけあっていい結果を出せました。
個人的にはちょっと城遊びが過ぎて(笑)、練習不足は否めない感があったのが反省点です・・。

また来年も更なる練習を重ねて出場したい!と思っております。

 
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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