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美濃 茜部城 🏯名人・堀久太郎秀政の誕生した城

🏯 美濃 茜部城 (岐阜県岐阜市茜部本郷二丁目)

今回は三男が所属するバスケのチームの試合があり、奥方と応援とお手伝いに出陣です。
前年末の地区大会で見事優勝、県大会への切符を手に入れての、大会一日目。
強豪相手にどう戦うか楽しみです。

・・さて、その前に。恒例の近場の城址めぐりです(´∀`*;)ゞえへへ・・。
えっと・・、晴れの舞台に相応しい城址は・・、あります、あります。
自分の習性を熟知している奥方、見学時間も予定の内に入れてくれていました。

・・感謝!(泣)

それが今回の訪城、茜部城(あかなべじょう、別名:上茜部城)です。
しかも、自分のニックネームとしてあやかった堀久太郎秀政の出生城ときたものです。
心して参上させていただきたく思うのであります。

akanabe (2)国道157号線沿いに案内板と石碑があります。見つけやすいです(*≧∪≦)。

遺構は無いのでこれが茜部城の存在を示す唯一の標物となります。
地元の方の想いが伝わってくる案内文がいいです。
手入れされた花壇もとても気持ちがよく冬に咲く花がとても健気でした。

akanabe (3)

堀秀政は信長の代表的近習で、仕事ぶりが素晴らしいですね。
信長の取次、文書副状の発給、伝令使者、外交使者、各種奉行の政務全般をこなしつつ、
戦場での活躍も目覚ましいものがあります。何事もそつなくこなせるエリート将校ですね。

文武両道、まさに「名人」の異名に相応しい武将といえましょう。

自分も久太郎秀政のように万事物事をスマートに恰好よくこなしたい・・、
そう憧れてはいるのですが・・。
・・しょせん、「迷人」は「名人」とほど遠いようです。とほほ。

さて、肝心の息子たちチームもやってくれました!
2日目の準決勝戦へと駒を進めるのです。
明日もさらに気合いをいれて城めぐ・・、じゃない、応援しにいくのです。

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美濃 木越城 🏯奥美濃の驍将・遠藤慶隆、生誕の城

🏯 美濃 木越城 (岐阜県郡上市大和町島場皿) <市指定史跡>

午前中に神路城の見学を終え、対岸の木越城へと向かいます。
この城は縁あって某も何回か登城している城です。
古き郡上郡の中世戦国らしい縄張りが良好な状態で残っています。

kigosij (18) いかにも城山、といった感じ独立峰の木越城です。

kigosij (1) kigosij (15)

県道61号線から料理旅館・金松館さんを目指します。
城址の説明案内板がおかれているあたりに駐車場をお借りしました。
説明版と城址柱の奥に大手口の登山道があります。

kigosij (16)遠藤盛数の居城にして、慶隆と一豊の妻・千代出生の城、で掴みはオッケー。

掴みその1 慶隆誕生の秘話 場皿割れ岩の伝説
遠藤慶隆が生まれた時雷鳴はげしく天地震動して白昼まるで闇夜となり、
大きな岩が谷川に落下して真二つに割れたということです。」

・・すさまじい天変地異です。武将出生によくある風雲児的なエピソード。
まさか、その割れた岩から慶隆が現れた、なんて展開じゃなくてホント良かったです。
・・それじゃまるで「西遊記」ですもんね。

掴みその2 慶隆の妹は土佐藩主の妻!(←「」(笑))
「土佐藩主・山内一豊の妻・千代は、(中略) 最近遠藤慶隆の妹だと言うことがわかり、(中略)
千代の兄が慶隆で、千代もこの木越城で生まれたかもしれません。(以下略)」

これは後で調べてみましたが結構説得力のある話でした。
NHK大河ドラマ「功名が辻」では全く触れていませんでたが信憑性はありそうです。
千代と慶隆、それぞれにまつわるエピソードでした。

kigositiyo.jpg ←郡上八幡城麓の千代の「すごくおおきい」銅像。

kigosij (2) kigosij (3)
大手道ですね。よく見ると要所要所の両脇には木戸の礎石らしき址が残っていますね。

城山の中腹部にも番所らしき曲輪が点在しており城郭が山全体に及んでいたようです。

kigosij (14)中腹から山麓に向けて巨大な竪堀が延び、敵の横移動を遮断できてますね。

kigosij (10) kigosij (4)
頂上付近の主郭を腰曲輪から見上げます。とりまく切岸が周囲にみられます。

kigosij (5)木越城本丸下の城址柱。いい感じに朽ちてきて城址の雰囲気でてます。

kigosij (13) 本丸頂上は細長く、やや荒れていました。

kigosij (6) 主郭背後にある自然地形を活かした竪堀状遺構。

kigosij (7)主郭東面に連なる石垣。苔むした感じがたまりません。(´∀`)

土留め用の石垣ですが、同時に狭い山頂部の曲輪の面積を確保しています。
高さは1メートル、長さは10メートルほどの規模で、
角石を使用せず、丸石、平石のみで積み上げられた珍しい石垣です。

kigosij (8) kigosij (9)
河原の丸石や平石で積み上げられているようです。結構珍しいですよね。

これだけの量の石を長良川から運び上げたのでしょうか?
いろいろな石垣を見てきましたが、丸石での野面積は美濃国内ではあまり見かけません。
遠江の横須賀城には大規模な丸石による石垣がありましたが。

kigosij (11) kigosij (12)
頂上から対岸の神路城を睨めます。(写真:左) と 長良川沿いの様子も見おろせます。(写真:右)

ひょっとしたら神路城とは連携して街道筋を監視していた、かもしれません。
天文9年(1540)朝倉軍が越前から侵入し、東氏の篠脇城を攻め立てた際、
木越城の遠藤胤縁・遠藤盛数兄弟は朝倉勢の背後をついて1か月後には越前へ敗退させます。


木越城は篠脇城主・東常縁の庶子・遠藤盛胤によって築かれたそうです。
盛胤の孫・遠藤胤縁の頃には主家である東氏を凌ぐ程の勢力となり、
東常慶の子・東常尭は遠藤氏と婚姻を結んで勢力の回復を計ろうとします。

しかし、胤縁は畑佐氏との縁組を選択、面子を潰され失望・憤慨した常尭は、
永禄2年(1559年)赤谷山城で挨拶に登城した胤縁を暗殺してしまします。
常尭は、朝倉来襲時、東家の危機を救った功臣の遠藤家を一転、敵に回してしまいます。

対して胤縁の弟・遠藤盛数は、胤縁の子・胤俊を助けて弔い合戦、とばかりに赤谷山城を攻め落とします。
盛数は郡上八幡城を築きいて自身が郡上郡を支配し、胤俊には木越城(木越遠藤家)が与えられました。

その後、遠藤胤俊の弟・胤基が木越城主となっていましたが、
天正16年(1588年)郡上八幡城主遠藤慶隆とともに織田信孝に与したことで、
羽柴秀吉に所領を没収され加茂郡へ転封させられてしまいます。

遠藤慶隆も加茂郡・小原に転封され苦難の日々を送りますが、苦節を乗り越え
関ケ原の戦いでは東軍に属すことで後日、郡上八幡城主へと返り咲きます。

遠藤慶隆はその出生のエピソードが暗示するかのように、波乱な戦国時代を渡ることになり、
苦難の末、やがて郡上一円を支配する武将へと成長していきます。

恵那峡ハーフマラソンへの決意

第16回 恵那峡ハーフマラソンへエントリー

恒例の恵那峡ハーフに今年もエントリーしました。
・・思い出します。
昨年は「ファントム・アロー」のような打ち付ける雨&風の中でのレースでした。

enahalf2017pf.jpg できれば晴れてくださいまし。

今回、多治見市TYK東濃ロードレース(1月15日)は雪のため中止となりましたので、
こちらが今年最初のレースとなるわけです。

前半の登りと中盤の繰り返されるアップ・ダウンをどうクリアするかが重要なレースです。
自己ベストは1時間45分。
今回で5回連続出場になるのですが、100分(1時間40分)の壁はなかなか切れません。

gongen-k (37)

今回はラン友のY吉さんも初参加ということでお互い気合が入ります。
まずは距離を踏む練習を怠らないようにしよう、と決意するのであります。

美濃 神路城 🏯山中に完存する技巧的縄張りは語る

🏯 美濃 神路城 (岐阜県郡上市大和町神路口神路・城山)

神路(かんじ)集落は旧・郡上八幡町と旧・大和町の境付近にあります。
国道156号(越前街道)、東海北陸自動車道、長良川鉄道などの主要交通が通っています。
集落は北神路、中神路、口神路に区域が分かれ、口神路の城山頂上が城址となっています。

kanji01.jpg長良川対岸から見た神路の城山。右のピークが城址です。

IMG_9827.jpg 城址へは白山神社から登るのがいいと思います。

kanjiki (2) kanjiki (1) 白山神社の名木2本。

白山神社には神々しい大木が2本ありますので、見学していきます。
参道正面にどど~んとたつのがイチョウの大木です。(写真:左)
晩秋にはとても綺麗に色ずくそうで。見てみたいですね。

そして、社殿脇のヒノキの大木は六本ヒノキ、と呼ばれ、幹から何本も枝分かれしています。
昔は6本でしたが、現在は9本の派生幹があるようです。(写真:右)
ちょっと神秘的な神木ですね。

さて、肝心の城址までの登山道ですが・・、
探してみましたが案内版や、これと決まった登山道はないようですね。
仕方がありません、目星を付けて、直登する選択をします。

・・ということで社殿の谷筋にあるわずかな踏み跡を頼りに登ってみることにしました。
しかし、予想通り途中で道が消えてしまっています。
仕方なく、近くの尾根を目指して慎重にたどっていくのでありました。

kannji (1) 仰ぎ見れば尾根はすぐそこまでなんですが・・。

なんとか尾根に辿り着きます。ここまで来ればあとは伝い歩くだけです。
途中、何ヶ所かに掘り返した円型の穴ぼこ跡が見られますが、これも遺構なのでしょうか?
考えながら歩くうちに、目の前に忽然と切岸と堀切が現れました。

kannji (2) kannji (7)
尾根を遮断する切岸が出現。堀切とセットになっています。

堀切はハの字型に竪堀となっていきます。
この部分は主郭として城域を区切る、「ここまで」といった意識が感じ取れます。
切岸は乗り越えられないので脇から回り込みます。

kannji (4) 主郭部の縁は部分的に土塁が巡っています。

どうやら虎口は北と南に2ヶ所見られるよう。
いずれも直進を避け、土塁で折れを設けてあります。
横矢掛けを構築しており、このあたりに神路城の「技」を感じます。

kannji (3) 観察しやすい主郭部です。

主郭部は両脇を数本の竪堀で固めています。
間隔が均等に配置されており、畝状竪堀ではなく、連続竪堀、といった表現がピッタリです。
図面に落とすと、長さ、深さ、規模の均整がとれており、効果的な防御施設になっています。

kannji (6) kannji (5)
写真ではお伝えし難い竪堀ですが、発見できれば楽しいですよ。

kannji (9)北面の切岸と堀切。規格性のある技巧的城郭です。

kanjidemaru.jpg 北出丸から主郭部を見上げます。

神路城の北直下には出丸を挟み、大きな切通し道がありました。(写真:下)
この道は天保年間に神路村と河辺村(かべむら)を結ぶ峠道として整備されましたが、
それ以前からも欠落する越前街道の予備道として古くから利用されていたようです。

kannji (10) 切通しの廃峠道。

神路城は長良川沿いよりもこの峠方面を意識した痕跡がみられます。
長良川沿いは大雨時は通行困難で、よく欠損したらしく、山麓中腹部の往来にも備えたのでしょう。
現在は廃道となりましたが、それぞれの集落への道が残っていました。

kanji03.jpg 神路城の東は狭隘な長良川沿いの越前街道。

kannji (8) 木々の割れ目より河辺・徳永方面の集落と長良川が見えます。


これだけテクニカルな城郭なのですが、神路城の城歴は不明な点が多いです。
城は別名「一夜城」とも呼ばれているように、使用されたのはごく短い間だったようです。
このことは、さきの登山道さえ、はっきり残っていないことからも推測できるでしょう。

東氏の家臣遠藤新兵衛盛胤が築城し、後、臼田氏が居城した、と伝わります。
長良川対岸にある木越城は盛胤が築いた城なので、この伝承はほぼ確かだと思われます。
臼田氏は在地領主だと思われますが、後に豊後に移ったといわれています。

kigosi00.jpg 対岸にある遠藤氏の木越城。

豊後に移った、という臼井氏に関しては、察するに遠藤氏が秀吉により一時加茂郡に追いやられた際、
代わりに郡上に入国した稲葉氏に従ったもの、とも解釈できます。
稲葉氏は関ケ原の戦いの功で豊後臼杵に移封されているからです。

とすれば、神路城が戦国末期に稲葉氏によって改修をうけた・・。
そのために、現在見ることができる技巧的な縄張りになった、という推理はしてもよさそうです。
ごく短期間の城郭機能、というのも納得できましょう。

少しお堅い内容になってしまいましたが、戦国末期の貴重な遺構の姿がそこにあります。
この神路城からは郡上の城郭と歴史の多くを読み取ることができそうです。

次回、木越城での記事に続けたい、と思っております。

尾張 吉田城 🏯城址石碑と3つの大石がその存在を示す城

🏯 尾張 吉田城 (愛知県春日井市下条町3丁目)

柏井城、下条城とも表記されることもある吉田城です。
織田敏定の家臣・小坂吉政が築城したといわれています。
吉政が吉田吉政と改名したので吉田城と呼ばれるようになったそうです。

owariyosida (1)現在は本丸があった下条公園に立派な城址石碑が建てられています。

公園を整備している時に3つの大きな石がでてきたそうで。
現在は小野小学校の正門脇、下条八幡社の一角、泰岳寺の忠魂碑にとそれぞれに置かれています。
興味のある方は是非めぐってみてください。

小牧・長久手の戦いの際には羽柴秀吉方の砦の一つとして機能、柏井の渡しを龍泉寺方面へ手引きします。
前野長康の兄で秀吉も知りたる城主・小坂雄吉は身長が180cmもある大漢であったらしいです。

その以前、雄吉は信長の命令により、母の生家である吉田城主である小坂氏の跡を継ぎ、
織田信雄の傅役を務め、信雄より「雄」の1字を拝命し、小坂孫九郎尉雄吉と改名しました。
秀吉方か、信雄方か、雄吉にも迷いがあったのではないでしょうか?

owariyosida (2) 王子製紙のモクモクが見える公園になっています。

春日井市に長年住んでみえる歴史好きな方もこの城址の存在を知る方は少ないようです。
「吉田城?!、春日井に?、・・ああ、それ豊橋でしょ!」
ですから、違うんですってばぁ・・。(それ、三河吉田城ですって・・(=_=;))

尾張 上末城 🏯三河急襲隊の先導役を果たした落合氏の居城

🏯 尾張 上末城 (愛知県小牧市上末) <市埋蔵文化財>

上末城は落合将監勝正によって築城されたとされています。
勝正の子息・落合安親は織田氏に仕え、小牧・長久手の戦いでは、子の庄九郎とともに羽柴方にて参戦。
池田・森ら三河急襲隊の道中案内役を務める、という大役を果たします。

kamizue (3) kamizue (2)
国道155号線、上末交差点南東から見える城址です。

運良く赤信号で止まれば車内からも城址碑と案内板が確認できます。
国道側から中の様子をうかがうのはよいのですが、内側は個人宅の敷地となっております。
無断での散策はNG です。(城の周囲の地域には、現在もご子孫「落合姓」の方々が住まわれます。)

kamizue (1)城址碑の裏には部分的に遺構が残っています。

kamizue (5) kamizue (4)
堀と土塁の角部が竹藪となって良好に残っていました。

以前はもう少し手入れされていた気がしますが、竹はあっという間に伸びてしまいますもんね。
都市部の平山居館にしてはよくぞ残ってくださいました、と言いたいです。
地元の方の話では、この部分が山続きの先端部になっていた、そうです。

kamizue (6) tousyouji.jpg
上末交差点から見た城址遺構部分(写真:左) と 南に位置する陶昌院(写真:右)

陶昌院には城主・落合氏の墓もあり、この地一帯も周囲より高くなっています。
切岸の址とわかり、おそらく城域の範囲であったと思われます。
どうかこの一帯の遺構だけでも後世に残るよう保護していただきたいものです。

尾張 小牧大草城 🏯三尾濃、三国を渡り治めた西尾氏の居城

尾張 小牧大草城 (愛知県小牧市大草中西洞・城山) <市埋蔵文化財>

自分が知っているだけでも、という範囲ですが、
愛知県の尾張地方だけでも「大草城」が3つも存在してますね。
長久手大草城、知多大草城、そしてここ小牧大草城です。

komakiookusa (3)小牧の大草城、城山を望みます。

混同を避けるために別名「西尾城」とも呼ばれますが、断然、三河の西尾城と混同されます。
「城山城」ともよばれますが、これもまた特定できない呼称でして。
結局、「小牧の大草城」、と呼ぶのが定着しているようです。

komakiookusa (4) 城の南側、白山神社への参詣道からが手軽です。

komakiookusa (5) komakiookusa (7)
白山神社の境内一帯が城址で石碑と案内板が設置されています。(昼でも薄暗い感じです・・)

komakiookusa (6)大草城の城址石碑です。小牧市はこの規格での石碑率、多いです。

komakiookusa8.jpg
大草城は北側が団地の開発によって大きく改変しており、背後にあったという大堀切などは消滅しています。

komakiookusa (1)主郭南東下の空堀がまずまず残っているようですが、遺構は見ずらいです。

komakiookusa (2) これは気を付けないと・・。

竹藪・雑木林となっておりますので夏・秋の見学はやめておいたほうがよさそうです。
最近の城址には蛇や蜂、獣に対する注意がよく払われているように感じます。
それにしてもイラストが見逃せないほど上手。

大草城は定かではないのですが文安年間(1444年~1449年)に西尾道永によって築かれたといわれます。

元々、三河の西尾が出身の名族だったともいわれております。
その後西尾氏は尾張岩倉城主・織田信安に属していましたが、
天文17年(1548年)頃に岩倉織田家の家督相続争いを機に美濃へ移り住んだようです。

岐阜県瑞浪市に存在する苅安城は西尾道永が文明年間(1469~1486)が築城したと伝わる山城です。
道永が約35年の間に北尾張と美濃に城郭を構えた理由はよくわかっていません。
ただ、誰かの軍事的命令での赴任、ということは推理してもよさそうです。

三河から尾張、美濃と三国を越境しその名を遺す西尾氏。
良質な史料での確認がとれないため、不明な点も多いです。

いよいよ美濃・苅安城の調査へと向かう意欲が湧いてくるのであります。
(そろそろ地元の山城もアップしないとな~(´∀`*;)ゞ)

尾張 久保山砦 🏯小牧山を睨む秀吉方の砦

尾張 久保山砦 (愛知県小牧市久保一色・太閤山) <市埋蔵文化財>

utikubo (10)久保山砦を俯瞰します。犬山市と小牧市の境あたりに位置します。

久保山砦は天正12年(1584年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として築かれました。
砦には蜂屋頼隆、金森長近らが守将に入ったといいます。

utikubo (9) utikubo (1)
山腹に熊野神社が鎮座しており、ここから登城。案内板が設置されています。

羽柴秀吉はこの砦で合戦の指揮をした、とも伝えられ、「太閤山」とも呼ばれています。
小牧山前線に近すぎるため本陣・楽田城から視察に足をはこんでいた、という見方があるようです。

utikubo (2) utikubo (3)
神社の西の脇から山上に通じる道があり、山頂部分に石碑が建っている広い削平地があります。

utikubo (4)小牧山城に向かって睨みつけるように立つ砦址石碑は健気。( ̄ε ̄;)

utikubo (5) utikubo (7)
小牧山方面の斜面には竪堀らしき址(写真:左) と 崩れた石積の址があります(写真:右)。

utikubo (6)掘削や崩落の址とは思われない竪土塁状の遺構も見られます。

遺構はない・・。というふうに聞いておったのですが・・。
いかがなものでしょうか。
秀吉が自ら出向くほどの砦なら、それなりの防備の址はあったと思いたいのですが。

utikubo (8)冬の寒空の中、熊野神社より小牧山を望眺します。やっぱ、近いですね。

小牧合戦・城砦シリーズは今後も折に触れて訪問していくつもりです。

尾張 小松寺山砦 🏯小牧合戦・羽柴方の砦にして秀次の陣所

尾張 小松寺山砦 (愛知県小牧市小松寺・小松寺山) <市埋蔵文化財>

komatuji (9)住宅街の中に小松寺山砦を望みます。ピークが二つあります。

komatuji (1) 久保山砦とは至近距離で連携しています。

komatuji (7) komatuji (6)
小松寺とその東隣に鎮座する八所神社一帯が砦址だったようです。

小松寺山砦は天正12年(1584年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として築かれました。
守将は丹羽長重三好秀次(羽柴秀次)で、東西二つの砦があったようです。
一方が丹羽方、もう一方が秀次方、だったのでしょうか。

komatuji (2) 八所神社内に石碑と案内板が立ちます。

komatuji 02小松寺山砦石碑。遺構はほぼなくなっていますが、石碑はあります。

komatuji (5) komatuji (4)
周辺一帯は宅地・墓地などになっており、 わずかな土塁らしい址を残すのみです。

komatuji (8)かすんではいますが、小牧山城がよく見えたようですね。

なお、場所は特定できませんが、小松寺山砦の南麓には文津砦も構えられていたようです。
小牧山を遠巻きするように位置していたのがよくわかります。
三河への別動隊・大将として秀次はこの砦から出立したのでしょうか。

遠江 宇津山城 🏯浜名湖に突き出した岬の湖城

遠江 宇津山城 (静岡県湖西市入出・城山) <市指定文化財>

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします

ちょっと遅い年賀挨拶ですが今年最初の城めぐりの記事となりますので
「いまごろ?」、と思われつつも、お許しいただければ幸いな幕開けでございます。

本年も城を愛し、城に愛されるよう、謳歌して参りたいと思います。
そして自分以上に城を愛して見える同朋の皆様と、
それほどでもない、というごく一般良識の方々を含め、皆様のご多幸をお祈りしております。

uzuyama1 (45) 宇津山城山麓の浜より望む富士山。

さて・・何故、年明け最初が宇津山城なのか、というと・・。
奥方の実家から一番近い城なのです、というだけのこと。
しかし、この城址からの浜名湖や富士山(↑見えるんです!)、湖西連峰の眺望は実に明媚なのです。

uzuyama1 (42)浜名湖に槍先のごとく突き出した岬の頂上から先端部までが城址。

uzuyama1 (1) 正太寺に車を駐車して、登っていきます。

車で頂上の墓地まで登れる舗装道もあります。(狭いのでお彼岸前後は特に要注意です)
お寺から徒歩でゆっくり登るコースがおススメです。
それは宇津山城の歴代城主の供養碑が見学できるからです。

uzuyama1 (2) 宇津山城主の供養碑と供養塔。城址散策コースの案内もあります。

uzuyama1 (40) 登る途中で振り返ると、もう絶景です。

uzuyama1 (5)晴れていれば城址からも、ご覧のように富士山を拝見できます。

uzuyama1 (38) uzuyama1 (8) 
墓地の北側にある城址を示す案内板(写真:左) と その脇には大きな土塁があります。(写真:右)

uzuyama1 (11) 土塁の内側は土留め用の石垣でびっしり固められていて、圧巻です。(;゜0゜)!

uzuyama1 (10) 曲輪をぐるっと一周取り囲んでいます。

uzuyama1 (16) uzuyama1 (17)
下の段の石垣も相当あり、角部のもろそうな普請は石垣遺構初期の技術不足を感じます。

それにしても北側の腰曲輪にも相当な石垣(石積?)がありますので、
こちら側が大手だったことは想像できます。

uzuyama1 (21) 崩落とは思えない大きな竪堀遺構。

さて、宇津山城ですが、やや異なる時期に2つの城郭が築かれたようです。
先程までの城址は宇津山古城の散策内容になります。

城山のピーク「高山」に築かれたのが宇津山古城(先程までの城)で
岬先端の「正太寺鼻」に築かれたのが宇津山新城です。
これらを総称して宇津山城、と呼ばれています。

二つの城址をつなぐ直接のルートは現在消滅しています。
よって、一旦、古城から出て、坂道を下った途中から新城に向かいます。
岬先端部へ向かう感じです。

uzuyama1 (24) 宇津山新城へのルートの切岸と土塁。

uzuyama1 (25) 堀の様子です。

宇津山新城はブッシュがひどく、以前は畑があった本丸主郭部も荒地となっています。
余程の興味がなければ見学は控えたほうが良いかと思われます。
(※私有地のため、地主さんの許可をいただき見学させていただきました。)

uzuyama1 (26) 本丸北側の土塁上には隠れるように立つ石碑が。(´ω`)

自称、城址石碑マニアとしてはこの出会いはとても嬉しいものでした。
おそらく人目につくことはないようです。ヤブ漕ぎの果ての先に立っています。
しかし、見るに値する大土塁や主郭部があるのに残念でなりません。

uzuyama1 (32)「船隠し」といわれる遺構です。

「船隠し」には船着き場として、早船を何艘か停泊できることができ、
浜名湖に面しており、いざというときの連絡船、出撃船を廻送、待機できたようです。
山国の城ではお目にかかれない遺構で、感嘆しました。

uzuyama1 (35)
宇津山新城は三方が湖(海)に囲まれ、築城当時は海からの出入りが可能でした。

地主さんから城についてのいろいろな案内をいただきまして感謝です。


宇津山城は永正3年(1506年)頃、遠州進出を図った今川氏親が浜名湖西岸に築いた城といわれ、
城主には長池親能、次に小原親高が入り享禄年間以降は朝比奈氏泰、泰充親子が入りました。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、徳川方に誼を通じる土豪が多くなる中、
掛川朝比奈氏の分流であった朝比奈泰充は、惣領家と同様に今川氏への忠誠を貫こうとしました。

今川方は、南方に境目城を築き、宇津山城とともに徳川家康の来攻に備えますが、
永禄11年(1568年)12月、徳川方の酒井忠次らによって落城。
家康は松平家忠を城番として城郭を拡張させたようです。


新年のスタートを飾った宇津山城訪問。
美しい浜名湖、神々しい富士山、素朴な石垣、巨大な土塁、そして石碑の確認。
全てが新鮮で、一年のスタートをきるに相応しい、いい城めぐりができました。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

対馬にプチ出国してきました。
7月7・8日と対馬国境マラソンに出場しました。
かつてないほどの災害になろうことを予測しなかったわけではありません。
災害に遭われた方々や関係者様方の気持ちを想えば不愉快な内容になってしまうことばかりかもしれません。
未だ復旧の道筋が見えない中でも、どうか希望を捨てず一日を積み重ねて行っていただきたい、と思い久太郎も復旧ボランティアに参加する意を決心いたしました。
何ができるかわかりませんが、少しでもお力になりたい、と思います。
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