美濃 刈安城 🏯権現山山上に築かれた森厳な神社と城郭

美濃 苅安権現山城 (岐阜県瑞浪市釜戸町大久後・権現山)

「美濃の山城よ!私は帰ってきたぁ!」
アナベル・ガトー少佐※の名言が国道19号線に響き渡る時がきました。

※アニメ「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」におけるアナベル・ガトーのセリフ。
「ソロモンよ!私は帰ってきた!」のアレンジ(パクリ)で生還した喜びの余りに出る言葉です。

久々に美濃の山城に帰ってきました。
山城での雪と寒さ、日没の早さを最大の苦手とする自分としてはちょっとした冬眠期でした。
もっぱら尾張地方の平野部城址めぐりも楽しくて止められませんでしたが・・。

山城の遺構は葉っぱの落ちた冬が観察しやすい、と言われます。
充分、理解していますが、それも諸刃の剣。

実際に登ってみると、山頂には残雪、さっきまでの晴れ空が見る見るうちに雪雲に・・。
北風が吹きこみ、雪がちらつき始めた途端、顔面蒼白になって、慌てて山を降る・・。
そんなことはなるべく御免です。(経験あり・・)

しかしそんな時期ももう過ぎたようです。絶好のシーズンの到来。
今年最初の美濃・山城めぐりはここにしました。
それが苅安権現山城です。

gongen-k (38)シンボルチックな山の山頂部が苅安権現山城です。

地元では「権現山城」というのが一般的な呼び名のようですが、
信仰関連の山名だけに「権現山城」なるもの、全国に点在しています。
岐阜県内(※)だけでも何ヶ所かありますので「苅安権現城」として記していきます。

(※ 御嵩町の御嵩権現山城、岐阜市芥見の長山権現山城、等々・・)

gongen-k (41)
麓から見ると高い山ですが中腹部を通った旧中山道までは車でいけます。(安心してください。)

gongen-k (1) gongen-k (2)
ちょっと歩きますが旧中山道沿いの大久後駐車場に停車、権現坂を登っていきます。

gongen-k (3)登り切った所で苅安神社の参道を登っていきます。

「ちょっと神社があるようだから行ってみよう」、という軽い気持ちは捨ててください。
思いのほかハードな参道です。きつい傾斜もあり15分から20分の登山になります。
ただし、登山道はかなり整備さていますから大丈夫。(安心してください、2回目。)

gonngenn-k2 (1)南に面した登山道は広く木洩れ日が気持ちいいです。

gongen-k (5) gongen-k (7)

gongen-k (6)頂上の苅安神社に到着しました。ほら、やっぱり雪が残っています。

gonngenn-k2 (4) 手洗いしたくともできず・・。

苅安神社は大戦中、多くの出征する方々が麓から戦勝を祈願しに参詣したようです。
現在でも天井や壁や梁など当時の書き込みの跡が見られます。
(生々しいですが、これも過日の貴重なメッセージなのです。)

gongen-k (9)本殿の裏にそびえる大きな岩は「烏帽子岩」と呼ばれています。

この烏帽子岩の西一帯に主な城郭遺構が見られます。
もちろん神社の東側も城の一部であったのでしょうが、
やはり本殿一帯は造成されたスペースのようです。

gongen-k (8) 比較的新しい石垣で拡張されています。

gongen-k (22)烏帽子岩の西側には堀切があります。

gonngenn-k2 (5)堀切の北端は竪堀となって下に延びています。

gongen-k (23)
ちょっと恐れ多いのですが、烏帽子岩に登って見おろしてみます。
おぉ、足元がこぉわぁ~ぃぃ・・でも・・。

gongen-k (27) 正面の恵那山がきれい~。

gongen-k (12)

gongen-k (18)主郭部の法面は切岸がしっかりありますね。

gongen-k (19)腰曲輪の外周には低い土塁が巡っています。

この土塁遺構が西からの尾根筋に備えられていることは理解できます。
しかし堀切を設けていないことから、西尾根伝いからの味方連絡路の確保を重要視した、
とも解釈できます。土塁中央部が途切れ、出入りが容易になっているからです。

gongen-k (26)土塁中央部は開口しており尾根道へとつながっています。

gongen-k (24)主郭北側にはL字型の虎口状遺構も見られます。

gongen-k (25) 主郭の周囲は腰郭がとりまいています。

gonngenn-k2 (7)神社の東側は断崖の岩がとりまき取り付くことができません。

gongen-k (40)東端部の岩からは武並方面・屏風山山系の眺望がすぐれています。

現在は木々が生い茂り眺望は一部しか得られませんが、
本来は周囲の視界は遮るものがなく広い範囲を一望のもとに見渡せる場所です。
城や砦、狼煙台など置かれない理由がないくらいの絶好の山です。

さて、このような苅安城ですが伝承としては不明点が多いのが事実です。

武並町藤にある洞禅院の沿革によれば、文明年間に尾張大草城主・西尾道永が築城した、
というのが一説としてあります。
そうです、あの尾張・大草城(現・小牧市)の西尾道永さんです。(👈是非、リンクで・・。)

touzenninn2.jpg 藤地区の洞禅院にも訪問です。

大草城での約束を自分、忘れてはいません!。
あれ以来、ずっと引っかかって気になっていたのです。
それゆえ、今回は感激もひとしお、といったところでした。

西尾氏は岩村城の遠山氏の家老であったともいわれていますが、道永の後裔、西尾五郎八
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際は東濃地方で西軍側として家康方東濃諸氏と戦い、
滅亡した、と伝えられています。

また、さること文明5年(1473)の小笠原・木曽氏の南下により落城した東濃地方の「萩之島城」を
この城址と比定している向きもあり、諸説入り乱れてはっきりしていない、というのが実情のようです。

しかし、この苅安城の北の中腹部の尾根先端部にも「五郎塞」という城郭が存在します。
「五郎塞」の城主は先程の西尾五郎八が伝わるので西尾氏と何らかの関係があった、
ということだけは想像できそうです。

次回はその「五郎塞」の内容を記していきたいと思っております。
そこでは思わぬ出会いもありました・・。



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遠江 堀川城 🏯家康、鬼の撫で斬り攻め、の城

遠江 堀川城 (静岡県浜松市北区細江町気賀) <市指定史跡>

horikawa (7)
これといった遺構はありませんが、説明版と石碑は充実してます。

堀川城は浜名湖を背に都田川の水を引き、満潮時には徒歩での入城ができないようになっていました。
対岸の宇津山城とは船での往来ができた、という記録もあります。
今川方に属していた土豪たちはこの地形を利用し堀川城を築いて徳川に備えます。

horikawa (6)

horikawa (1)

これも大河ドラマ効果でしょうね。案内板が以前よりパワーアップした内容になってます。
この堀川城の戦いでのポイントは徳川家康による苛烈な城攻めが敢行された、ということ。

土豪たちが村人を結集し、連合してこの城に立て籠ったのです。
堀川城の城兵は約二千人とはいえ大半が百姓主体の男女入り混じった村人らでした。
これに対し徳川勢は「撫で斬り」による掃討戦を繰り広げます。

horikawa (5) 城内の塚とみられます。

調略や戦略を駆使して戦いをすすめるイメージの家康ですが、
この戦いでは、見境いなき殲滅戦を実行したようです。
説明版にもこのことは「家康の残虐な戦い」とされ汚点になっているようです。

しかし・・。家康にしてみれば・・。
進めてきた遠江平定が水泡に帰すようなことにもなりかねず、かつ、
三河への退路を絶たれるわけですから必死になるわけですね。

ここでは、家康に心のフォースの乱れを感じます。

horikawa (3)往時の城の姿は想像するに、干潟上に浮かんでいた浮城だったのかも。



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遠江 刑部砦 🏯三方原合戦後の武田氏の陣跡

遠江 刑部砦 (静岡県浜松市北区細江町中川宿名・陣の平)

まず、最初に申しますと、刑部城刑部砦は互いの位置は近いのですが、
築城者や歴代城主も築城目的も異なる、別物同士の遺構、ということになります。
似ているのは名称だけ、といったところでしょうか。

元亀3年(1572)徳川・織田軍と武田軍との大激戦が展開された三方原合戦。
武田軍の大勝利に終わったこの戦い、勝利の勢いで浜松城に押し寄せることも可能でした。
しかし、合戦直後、武田信玄の持病が悪化、信玄はここ刑部砦で自身の身体と兵馬を休ませます。

okasabe-t (1)
刑部砦と武田軍が滞在したであろう一帯です。

okasabe-t (8)県道261号線(姫街道)沿いに『史跡』と刻まれた石碑が建ちます。

あらかじめ下調べしての訪問でしたので砦の山はわかりましたが、
まさかこれが刑部砦の存在を示す石標であるなんて・・。
石碑の前に旧タイプの防火水槽があるのが目印となります。

okasabe-t (6) 奥には集めて並べられた墓石が。

武田軍が滞在した期間は12日前後であったという記録があります。
「砦」というよりも急造の「陣所」に近いものだったのでしょう。
そのためか頂部一帯は「陣の平」(じんのたいら)と呼ばれているようです。

その陣ノ平は、この石碑の位置から300mほど北の台地上あたりだと考えられています。
現在は行き止まりのみかん畑などになっており、遺構はほぼなさそうでした。
・・というか時間的制約もあって、地形を確認するのが関の山でした。

okasabe-t (4) 裏側の碑文です。

「元亀3年、武田信玄が家康と三方原で戦い、大戦して東三河方面への転進のため、この地に兵馬を休養させた」、と意する文面が記されています。

武田軍は信玄の体調とも相談しながら浜松方面よりも東三河方面の攻略へと駒を進めます。
この時点で信玄の病状はかなり悪化していたのでしょう。
残された時間は本人が一番よくわかっていたのかもしれませんね・・。

石碑のある位置がわかりづらいので地図に示しておきます。



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遠江 刑部城 🏯現在でも攻め難い城址・・

遠江 刑部城 (静岡県浜松市北区細江町中川)

今回は息子のバスケ試合がらみでの浜松入りです。
NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』が始まり、俄然盛り上がっている地域です。
時間があれば関連史跡やイベント会場へも足を運びたいのですが・・。

さすがに無理そうです、空き時間に近くの城址に行けるだけでも良し、とします。
そこで最寄りの刑部城(おかさべじょう)に寄ってみることにします。

okasabe (13)東方面の支流・刑部沢から見た刑部城全景です。

okasabe (1) okasabe2.jpg
金山神社の駐車スペースをお借りしました。まずは金山神社から参拝です。

この駐車スペースの右側一帯の広場が居館の跡らしいです。
といっても宅地化された土地のようにしかみえないので、なんとも・・。
その奥の金山神社からは城の遺構が残っているようです。

okasabe (3) okasabe (4)
金山神社の郭の周囲には低い土塁が巡ってあるように見えますが、後世のものでしょうか。

okasabe (2)
一見、堀切のようにも見えますが・・

okasabe (5)
堀切、というよりは丘と丘の間の鞍部、といった感じです。

この堀底から主郭のある丘上を目指して登ります。
たいした標高差もないので、はっきり言って楽勝、と思い登りだしたのですが・・。
これがまた酷い竹藪でしてね・・。

okasabe (6)

行く手をはばむ竹・竹・竹・・。そして倒木・・。
すでに自分の心が倒れそうです。
これはしめてかからないと大変なことになりそうです。

okasabe (7)

「腰郭」に到達です。この先はさらにヤブが酷くなっているようです。
どうやらダウンジャケットで来たのは決定的な選択ミスだったようです。
引っかかって破れてしまうかも・・。

okasabe (8)

なんとか「本郭」に到着しました。「道」というより「踏み跡」、といったヤブ漕ぎ散策です。
奥には「大土塁」の標板も見えますが・・、勇気を奮い起こして足を踏み入れます。
一体、どこまで遺構が確認できるのか・・。(負けないぞ~)

okasabe4.jpg

「大土塁」もこれでは全体像が認識できません。
この荒れ具合、なんとかならないものでしょうか?
バキバキと音をたてながら自身の立ち位置を確保するだけで精一杯です。

okasabe (9) 井戸でしょうか?かなり埋まってます。

しかし、竹藪もここまでくると前に進むことも後戻りもできません。
場所によってはパロ・スペシャルをかけられたように身動きできない所も。
これでは下山もできません。なかなかの堅城、刑部城です。

なんとかダウンジャケットも破らずに無事に麓にたどり着きました。
奥方に叱られずに済みそうです。

okasabe (10) 金山神社を北側から見ると古墳っぽいです。

刑部城は今川義元の時代は新田美作入道の居城であったようです。
その後、永禄11年(1568)、徳川家康は遠江侵攻の際、三河国野田の菅沼定盈井伊谷三人衆(近藤康用・菅沼定久・鈴木重時)の道案内で遠州へ侵攻します。
庵原忠良・長谷川秀匡が守る刑部城は菅沼定盈らに攻められて落城します。

okasabe (14)
落城の際には姫君の悲しい言い伝えも残っております。

okasabe (11)城址案内板が西側の県道261号交差点脇に立っています。

okasabe (12)

この案内板は歩道側を向いて立っているため、車を走らせながらではわかりません。
ここからは刑部城の周囲が意外と切り立った山であることも確認できます。
ここから少し都田川に向かって歩いてみました。

okasabe3 (2)
刑部城は井伊谷川(左側)と都田川(右側)の合流地点の南に築かれたようですね。

ここでふと、息子の試合予定表を見てみます。
やば(汗)、もう始まりそうです。急いで引き返さないと・・。

次回は、刑部城とは別に刑部砦にも寄ってきたので、そちらの紹介もさせてください。

※パロ・スペシャルとは・・
漫画『キン肉マン』に登場する超人、ウォーズマンの必殺技。
相手の背後から両足を内側から引っ掛け、両手をチキンウイングで絞り上げる関節技。
(相手の顔面をマットに叩きつける「パロスペシャル ジ・エンド」という派生技もあります。)



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尾張 北外山城 🏯小牧合戦では本多忠勝も拠った城砦

尾張 北外山城 (愛知県小牧市北外山・城島)

現在、再びマイ・ブームになっている小牧・長久手合戦城砦めぐり。
今までは羽柴軍によって利用された城砦をじっくりと歩いてきました。
今回からは転じて、織田・徳川軍の城砦に目を向けていきたいと思います。

その前に・・懺悔させてください。・・自分がまだ若かりし頃の話です。
ここ北外山城の城址碑がまだ民家のお庭の敷地中にあった頃、写真を撮りたいがため、
自分、あろうことか不法侵入!してしまったのです。

若気の至り、とはいえ、人として、城ファンとして、あるまじき行動をしてしまったのです。
後で思い直し、家主さんへ事後報告へ赴いた苦い思い出がございます。
(家主さんがサバサバした感じで寛容していただいたのが救いでした・・。)

20170215.jpg
その時のショットがこちら。少し土塁状になった感じの面影がありました。

あれからどうやら城址碑が移されたようで再訪問してみました。
問屋スーパーサントさんの裏(北)の道沿いの城嶋稲荷の一角がそのようです。
なんだかいろんな意味で懐かしく、感涙が隠せません。

kitatoyama (1)

kitatoyama (2)

北外山城は尾張北部に勢力をもった織田伊勢守系、織田与四郎信安の居城だったようです。
小牧・長久手合戦時には徳川・織田連合軍によって修復され、砦として復活しました。
北外山城の守将は、本多忠勝、松平家忠、奥平信昌、本多広孝らが交番で務めたようです。

いずれも名うての名将揃いですね。(;゜0゜)

家康がここを最重要地点と見ていたことがわかりますね。
しかも交代制、気が緩まず、かつストレスを感じ続ける訳でもないシステムです。
それは同時に家康がこの戦、長期戦に成り得ることを見越したからではないでしょうか。

kitatoyama (5)おおっ!、モールドだけだった碑文字に墨入れがされてリニューアル!

kitatoyama (7)
とても気持ち良く整備された城嶋神社です。家内安全、です。

なんだか嬉しいですね。(^ω^ )
城址碑が大切にされている、というのは。
自分もあの頃の非礼を反省しつつ、苦笑いをしながらの城めぐり、となりました。



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尾張 田中砦 🏯小牧合戦で秀吉方の砦に利用された方形墳

尾張 田中砦 (愛知県小牧市東田中・三ツ山古墳)

二重堀砦に次に田中砦をめぐりました。
この砦も岩崎山二重堀を結ぶ最前線の砦の一つでした。
現在は東田中三ツ山会館ができ、古墳と公園一帯が砦址であったと伝わります。

tanaka-t (3) tanaka-t (1)
平野部の三ツ山古墳群が砦に利用されました。

田中砦の主な守将は、蒲生氏郷、堀秀政、細川忠興、長谷川秀一、加藤光泰
いずれも秀吉政権下で将来が期待されるインテリ派の面々らです。
ほぼ同世代が協力しあって守備にあたった、そんな感じですね。

tanaka-t (4)小牧合戦の砦の中では最も大きい城址碑ではないでしょうか。(^-^)

tanaka-t (5) tanaka-t (6)
3基あった古墳群も残るのは1基。国道155号線の拡幅に伴って調査後、消滅しました。

tanaka-t (10)公園側からは円墳のように見えますが、方墳の角部が崩れたようです。

tanaka-t (12) tanaka-t (13)
なんとなく土塁のように見える生垣、発掘調査で実際、この方面に堀豪のあとが検出されました。

古墳の頂部にも何ら城の遺構はありませんが、ここから小牧山を睨んでいたんですね。

・・そういえば一緒になる前の奥方、ここの公園でスナック菓子をバリボリ食べてた記憶が。
帰宅後・・、こたつに入りながら、せんべいをバリボリやってる変わらぬ姿。
相変わらず、平和だな・・。



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尾張 二重堀砦 🏯岩崎山砦と最前線を担った秀吉方の砦

尾張 二重堀砦 (愛知県小牧市二重堀)

前回の岩崎山砦に続き、やってきました二重堀砦(ふたえぼりとりで)。
名古屋在学以来、ひっさしぶりすぎて、「場所がわからな~い」、という事態に・・。
・・というか周りの変貌が激しく、イメージが違っているのです。

元・カノさん(現・奥方殿)としらみつぶしに訪ね歩いた周辺ですが、・・忘れるもんですね・・。
昔の勘を頼りにあてずっぽの城址碑探しに奔走します。
それはまるで故郷の川を遡上するサーモンのような気持ちです。

そして・・ありました!。意外と城勘だけはさえていたのです。

futaebori (2) ここだけは変わらぬ姿、二重堀砦を標す城址碑。

小牧・長久手合戦時には岩崎山砦との間に土塁が築かれ最前線の砦となりました。
平城だったことから、その名前の通り二重の堀が巡らされていたようです。
家康方の小牧山からは最も近く、しばしば夜襲や小競り合いがあった城のようです。

futaebori (3) 守将は日根野兄弟、美濃屈指の武辺者です。

日根野弘就日根野盛就( ひねのひろなり と もりなり )兄弟について・・。

斎藤義龍の代に重用され、西美濃三人衆に並ぶほどの実力者です。
義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎、喜平次兄弟を稲葉山城内で斬殺したのは弘就のようです。
義龍の懐刀、といったところでしょうか。

日根野氏は斎藤家滅亡後は浪人として一時、近江・平松城に在城していたようです。
信長に属してからは馬廻りとなり遠藤慶隆佐藤秀方ら美濃衆と行動を供にして活躍します。
まぁ、それ以前と以後・・ここでは語れない程の波乱なプロフィールの兄弟です。

futaebori (1)日根野弘就が死守した二重堀砦。任務にかける必死さを感じ取ります。

岩崎山の一鉄にせよ、二重堀の弘就らにせよ、この戦で名を挙げる踏ん張り所だったのでしょう。
死地に生を置いていた状況だったのではないでしょうか・・。
状況次第では、長久手で討ち死にした池田・森らと同じ運命を辿ることにもなり得たのです。

遺構は残らずともその意気込みや思いは感じ取ることができそうです。

是非、探し当てて頂きたい二重堀砦址。
場所は二重堀北交差点を東に200メートルの交差点を北へ。
50メートル程北上したら右手のみずの薬局さんの細い路地を東に入った奥の左手にあります。
(その奥はほぼ行き止まり。現在車では通り抜けできません、注意してくだい。)




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尾張 岩崎山砦 🏯小牧・長久手城砦群、最前線の羽柴方砦

尾張 岩崎山砦 (愛知県小牧市岩崎・岩崎山)

前回から訪れている小牧・長久手合戦の城砦シリーズの続きです。
羽柴方・三山砦の3つめの砦・岩崎山砦の紹介です。
岩崎山は「砦」、というより「城」といっても差し支えないでしょう。

しかしながら、日進市にも長久手合戦の舞台、「岩崎」があるため、
混同を避ける意味でこちら小牧市のほうは「岩崎山」と呼ぶのがよいでしょう。

m-iwasaki (1) m-iwasaki (9)
小牧山と相対している岩崎山は熊野神社が祀られています。大きい鳥居が目印ですね。

m-iwasaki (3)「砦」といっても城郭規模の「平山城」といっていいでしょう。

岩崎山砦は他の久保山砦小松寺砦の山砦よりも小牧山の前線にあり、
規模が大きく指令塔的存在の砦でした。守将もそれなりの人物でないと務まりません。
この重要な砦を任されたのがあの、稲葉一鉄でした。・・頼もしいですよね。

m-iwasaki (30) m-iwasaki (8)

m-iwasaki (7)久保山砦の石碑同様、小牧山に向かって構える、城址石碑がいいです。(*`ェ´*)

m-iwasaki (12)岩崎山名物、五枚岩がちょっとすごいです。

花崗岩が突出して、さらに五枚に分かれたという神った岩です。
山のあちこちに岩が露出している様子は、小牧山からも見えたのではないでしょうか。

m-iwasaki (15) この舞台、上がらしていただきますと・・。

m-iwasaki (16)なるほど・・。小牧山への最前線というのがよくわかります。

m-iwasaki (18)結構近いですね・・。これは気が抜けない位置関係ですね。

m-iwasaki (25) m-iwasaki (24)
山頂部の背後には土塁や堀の確認もできます。もちろん岩の崖も巧く利用されています。

秀吉は家康・信雄連合軍との睨み合いにあたり、約2.2キロメートルに渡り
岩崎山麓から二重堀砦まで土塁を築き、敵襲に備えたそうです。

小牧山の様子が手に取るように見える反面、常に敵襲に備えなければならない緊張感があります。
いやぁ、一鉄さんじゃないと、任せられないわ・・というのも納得。
彼なら何があってもこの要所、死守してもらえそうです。

次回はその土塁つながりの二重堀砦に行ったお話しになると思います。懲りずにどうぞ・・。



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尾張 守山城 🏯暗雲にまみれた闇の歴史を背負った城

尾張 守山城 (愛知県名古屋市守山区市場・城山)

息子の練習試合もお昼休憩で一休み。
他県のチームとの交流はお互いにいい刺激になっているようですね。
我々も刺激を求め城跡散策の再開です。
(今回も奥方が目付け役として時間制限付き同行です、はい。)

moriyama (4) 名古屋中学校、バスケコートのセンターサークル。

先程の千種区の上野城とは反対方向の守山城に行ってみました。

moriyama (5) 宝勝寺一帯が城址で、駐車場をお借りしました。

moriyama (7) 東側の坂道上に守山城の標板がありました。

moriyama (22) moriyama (15)
標板の奥に見える小高い丘があり、月極駐車場があります。アパート「城跡荘」の裏手になります。

この登り口はアパート「城跡荘」の敷地になっており、ちょっと見つけづらいようです。
実際、この丘の周りをグルグルと徘徊してしまいました。
階段があり、このアングルではまるで山城を登っているかのような画像ですが・・。

moriyama (16) 奥方の足で徒歩1分足らず。頂上に到着です。

moriyama (17)kai守山城城址石碑です。城歴の概要も彫り込まれています。

このわずかに残った平地は本丸の一部なのでしょうが、
宝勝寺の墓地との間には堀が竹林となって残っています。
竹が生えすぎて観察が困難ですがかなりの深さがわかります。

moriyama (13) 深い堀底も竹に阻まれて見学しづらい・・。
 
moriyama (19) moriyama (25) 
城址からの眺め。住宅街の中にも矢田川方面がよく見えます。

守山城の歴史はとても複雑で血生臭く、謎に満ちています。
不可解な事件が多発し、とても信じがたい出来事もおきています。
以下ににかいつまんで列挙していきたい、と思います。

久太郎的・守山城の七不可解(あくまで個人の勝手な検証・呼び名ですので)

●不可解・その1・・築城者・築城目的の不詳。  
大永元年(1521)、今川氏豊が那古野城を築いた際に、小幡城・川村城に対応して松平信定が築城した・・。
系図上、今川義元の弟にあたる氏豊が敵国・尾張の中心地に居城を構える理由が不明。
桜井松平氏(三河安城)に分家した松平信定が尾張の最前線に築城する理由も不明。

現時点では勉強不足でコメントしようがないほど不自然ではあります。謎・・。

●不可解・その2・・いつのまにか織田信光が城主に。
享禄5年(1532)、勝幡城主・織田信秀の奇計によって、那古野城を奪取。
今川氏豊を京に追い落とします。
織田信秀は、弟・信光を守山城主とします。

これは今川氏豊を追い落とした後の処置、と考えれば筋はたちますが・・。
守山城はいかようにして手に入れたのでしょう?氏豊はなぜ母国・駿河ではなく、京に落ちたのか?謎。

●不可解その3・・守山崩れ。
三河をほぼ統一した松平清康は、尾張に進軍。
天文4年(1535)12月、清康は尾張に侵入し織田信光の守る守山城を攻めます。
この守山の陣の最中、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死、
当然、弥七郎もその場で切り伏せられます・・。

清康は攻囲中の守山城内に何故いたのか?(一説に信光が招き入れたそうですが・・。)
松平氏苦難の道はここから始まります。しかし・・総大将が陣中で斬られるとは・・。大きな謎。

●不可解その4・・織田秀孝誤殺事件、織田信次の出奔騒動
弘治元年(1555)、信長・信光連合軍は清洲織田氏の織田信友を滅ぼします。
信光には那古野城が与えられ、守山城には信光の弟の織田信次が入ります。
しかし信次の家臣・洲賀才蔵が信長の弟・織田秀孝を誤って殺害、あろうことか報復を恐れた信次は・・、
なんと、出奔してしまうのです!。

主君の弟を家臣が誤って殺すなんてあるんでしょうか?。
逐電する新城主・信次のほうにも疑問が残ります。怪しい・・謎。
さらに、さらに・・。

●不可解その5・・織田信行(信勝)の城下焼き討ち
この件で大騒動のなか守山城下は、信長の弟で秀孝の兄である織田信勝により焼き払われてしまいます。
城には信次の重臣・角田新五らが立てこもり続けますが佐久間信盛らの働きにより信長の弟・織田信時(秀俊?)を城主とすることで一応の決着をします。
しかも信長、信勝にお咎めなし、逆に秀孝の行動に非があり、とします。?・?・?

謎まるけでなにがどうなってきたのでしょう?
もう、めちゃくちゃな事態になってきましたが、これで終わりません。

●不可解その6・・信時切腹事件に信次の城主復帰
信時(秀俊?)は他の家臣を偏愛・重用したため角田新五により切腹させられ、城には再び角田らが立てこもります。その後、出奔していた織田信次が信長に赦免され再び城主に復帰・・。

城主に詰め腹を迫る家臣に疑問譜。そしてあの信長が逐電するような信次を簡単に許すなんて?
なんだか、わけがわからなくなってきました。謎の極み・・。そして・・。

●不可解その7・・織田信光の突然の死
信長より那古野城を譲られた織田信光でしたが、弘治元年11月に不慮の死を遂げます。
近臣・坂井孫八郎により殺害されたといいいます。

信長の尾張統一に大きな後ろ盾となって貢献した守山の叔父のあっけない最期です。
黒幕がいたのでしょうか・・。いたのでしょうね・・。まさか信・・?。いや、謎・謎・謎・・としときましょう。

このようにあり得ない事態が次々と関連しながらおきていくのです。
ちょっと信じられないような話ばかりです。
これも何がおきるかわからない戦国の世の宿命なんでしょうか?

まるで今川、松平、織田一族の闇の歴史を一手に引きうけてているかのようです。
家臣の仕業にして事の真実を闇に葬ったかのような数々の事件。
そう、どれも裏に何かが隠されている気がしてなりません。

以上、久太郎的・守山城の七不可解、でした。
最後まで目を通していただいた方、まさかいないと思いますが・・、
みえましたら、心よりお礼を申し上げます、ありがとうございました。

追記・・。

ちなみに・・織田信光さんの個人的な印象。
さるNHK大河ドラマ『信長』では頼れる叔父、ではあるものの自尊心が強く高圧的、
形式・慣習を重んじる御意見番、といった役どころで登場シーンが多かったです。
(信光がここまで取り上げられたのは過去にも先にもないのでは?)

腹に一物をもちつつもおくびにも出さず、さかしい知恵も持ち合わせている、ちょいワル漢。
信長を織田家棟梁と認めつつも、内心では隙をうかがっている危険人物でした。
あのイメージは案外、当たっているのかも知れませんね・・。

・・ということで、もう一回DVDでも観てみましょうかね。





テーマ : 城郭
ジャンル : 学問・文化・芸術

尾張 上野城 🏯かわいい六地蔵めぐりが楽しい城

尾張 上野城 (愛知県名古屋市千種区上野町1丁目4-18・永弘院) 

今回も例によって息子の練習試合見学です。
こたびの城跡めぐりは尾張のほうの上野城。
合間時間に寄る城址めぐり、なかな病みつきになってます。
(奥方の了解をいただいたうえで、城めぐりしてます、はい。)

o-ueno3 (2) o-ueno3 (1)
東区にある名古屋中学校が会場。施設がすばらしい学校。

o-ueno2 (2) o-ueno2 (5)
すぐ近くの千種区永弘院(ようこういん)を訪ねます。

街中にあるとは思えない程の静かな寺院です。
手入れも行き届いており、散策するにもとてもいいです。

o-ueno2 (4)境内の一角にたつ上野城城址碑。

石碑の横側には「下方左近将監源貞清居城」との銘が彫られていますね。
下方貞清織田信秀・信長親子に属し、槍術の腕前が抜群に優れていた武辺者だったようです。
貞清は小豆坂の合戦における「小豆坂七本槍」の勇者の一人として一躍名を上げます。

各戦いでは信長の馬廻りとして母衣衆にも劣らない働きを発揮します。

o-ueno1 (1)名古屋市製の石碑の裏には古城石碑もありました。w( ̄o ̄)w

この石碑は明治時代のものらしく、古風な感じがまたノスタルジックです。
・・危うく見落とすところでした。
まさか城址碑が背中を向き合って2つあろうとは夢にも思いませんので。

自分がうれしい発見をしているころ、わが奥方もなにやら発見したようです。
「いろんな、可愛いお地蔵さんがいるよ」、とのこと、どれどれ・・。
見に行くと、思わず微笑んでしまいました。

o-ueno1 (7)o-ueno1 (6)
叫んだり、ふてくされていたり?、かわいいです!

o-ueno1 (4)o-ueno1 (8)
あらら、泣いてら(笑)、と思ったら、おすまし顔、うふふ。

o-ueno1 (3)o-ueno1 (5)
この笑顔にはやられましたね~。可愛すぎます。

わらべ六地蔵、というそうです。
見る人によって表情の読み方が変わるのもアリです。
ここだったら家族づれでの寄り道もできそうです。

o-ueno1 (10) お庭「弁天池」もきれいでした。

城址の遺構はありませんが、お寺散策としても手軽に楽しめます。
城址碑探し、そしてわらべ六地蔵探し、面白かったです。
・・さぁ、息子の試合に戻るとします。



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プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、開設以来、3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

24時間戦えますよ
今年のゴールデンウィークはなんとか2日のお休みが取れました!
一日は久しぶりに家族全員にて本格アスレチックとテニスで汗を流しました。
もう一日は弟クンと丹波地方へ城めぐりに行けました。
渋滞を避けるため前日の夜から出発し、現地では早朝から山城を立て続けで攻め登ります。
4つの山城と2つの平城の見学をして帰宅したのは深夜12時。
次の日はいたる所が2日分の筋肉痛・・。
24時間戦えますか?と聞かれたら・・。
城のためなら(なんとか)戦える久太郎でありました。
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