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尾張 御供所城 🏯「仏の茂助」、堀尾吉晴の出生した屋敷城

尾張 御供所城 (愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1丁目) <町指定史跡>

堀尾吉晴の出生地を訪ねてきました。「ごごしょ」と読む地名だそうです。
城名の読み方が難しいだけあって、この名前、今一つ浸透してません。
「堀尾屋敷」と呼ぶのが一般的でしょう。

horiotei (7) 八剣神社を中心とした一帯が屋敷址です。

吉晴は堀尾泰晴の長男として生まれました。
父・泰晴は尾張上四郡の守護代・岩倉織田氏の織田信安に仕えており
山内盛豊山内一豊の父)とともに重職にあったようです。

horiotei (23)吉晴は出雲・隠岐24万石を領し、松江城とその城下町を築きました。

早くから秀吉に従って各地を転戦し、特に永禄10年(1567)の稲葉山城攻めでは
織田軍を稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたといわれて有名です。
もちろん、それだけではありませんが秀吉に従い、各地に転戦しまくります。

horiotei (8)館の名残りを感じる佇まいが見られます。堀の址でしょうね。
「堀尾」だけに・・(←いりませんね・・)

天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍し、秀次の下で山中城攻めに参加します。
ここでは共にに出陣した嫡子・金助が戦死しています。
まだ18歳だったそうです・・。

horiotei (12)地元に伝わる「裁断橋物語」に登場する堀尾金助と母の銅像です。

この金助は吉晴の実子である、とも従兄弟、とも養子、とも言われています。
いずれにせよ、正室の嫡子ではなさそうです。

horiotei (1)こんな力作も発見しました。・・センスが光ってます。

horiotei (3)horiotei (4)

horiotei (5)

吉晴は温和な性格だったようでで「仏の茂助」と称されていたようです。
秀吉の家臣団の中でも早くから仕えていた最古参の重臣でもあるため人望もあったようです。
秀吉の晩年には生駒親正・中村一氏と共に※「三中老」の一人に抜擢されました。

※「三中老」なる役職制度が実際に存在していたかどうかは疑問視もされています。
豊臣政事に参与し、五大老と五奉行との意見を取り持つ仲裁役であった、
という三位一体の連帯組織として取り上げました。

家康と三成の対立を仲介したこともあったというのも
その温厚な性格と一目置かれた立場あってのことでしょう。
しかし秀長、利家亡きあとの、御意見番としては少々力不足感は否めませんね・・。

horiotei (19) 吉晴らの供養塔がある桂林寺にも寄ってみます。

horiotei (21)正面右側が金助とその母の、左側が吉晴の供養塔です。

周辺は堀尾氏ゆかりの地として吉晴公をしのび、歴史に触れられる場所です。
ゆっくり散策ができ公園もきれいですので、お気に入りです。
国宝に指定された松江城天守にもまた行きたいものです。



尾張 前野氏屋敷 🏯『武功夜話』の発見で一躍脚光を浴びる

尾張 前野氏屋敷 (愛知県江南市前野町西・八屋敷)

宮後城と五丁堀砦のすぐ近くに前野氏の屋敷址があります。
県道沿い脇に案内看板とひょうたんをレリーフにした石碑があり目に止まります。
黒板張りの土蔵も目を引きますね。

maeno (1)
前野長康は「将右衛門」長康として名が親しまれています。

秀吉が信長に仕えていた頃からの最古参の家臣の一人で蜂須賀小六とは義兄弟の関係にありました。
当然、秀吉の墨俣一夜城築城にも協力したといわれ、以後も秀吉の重要な合戦に参加します。
秀吉の弟・羽柴秀長蜂須賀小六と並ぶといっても過言ではない働きぶりで秀吉政権を支えます。

しかし、豊臣秀次の後見役となっており、秀次の謀反の嫌疑をかけられた際に罪を問われ
連座して切腹を命じられました。・・正直、ひどい話だと思います。
秀吉の天下取りを支えた大人物ですぞ!(*`皿´*)ノ

maeno (4)ひょうたんをあしらった石碑が面白いですね。

長康の存在が見直されるようになったのは※『武功夜話』が発見されてからのようです。
しかし、どうしたことかその功績を大きく取り上げられることはありません・・。
さる大河ドラマ『利家とまつ』や『秀吉』でも登場はするもののその存在は薄かった・・。

※『武功夜話』は「前野家文書」と呼ばれ、前野氏の歴史をまとめた書物として伝わっています。
昭和34年の伊勢湾台風で蔵中に入水、破損した蔵内を整理中に発見されたそうです。

maeno (5)

聞ク所ニヨルト・・、『武功夜話』は、長康と蜂須賀小六の活躍が軸として記録で
『信長公記』等にはないリアルで貴重な場面も書かれているようです。
信長の室、吉乃との仲睦まじい様子も見られますね。

ただどうしても細かい部分での記述内容で誇張されていたり
史料的価値としての是非は現在でも論争があったりします。
しかし信長や秀吉らの若い時代の生々しい行動が綴られた貴重な史料に変わりはありません。

前野長康が見直されつつも今一つメジャーになれないのもそういった諸事情があるようです・・。
その反面、歴史小説などには使い勝手がいいのでしょうか?
かなりの出番がみられるようです。目立ってます、セリフも多いです(笑)。

1ファンとして前野長康さんをこれからも応援していく所存であります。




尾張 小口城 🏯城址公園として整備され憩いの場に

尾張 小口城 (愛知県丹羽郡大口町小口字城屋敷) <町指定史跡>

小牧合戦城砦めぐり、の続きです。
今回は大口町の小口城にやってきました。

「おおぐちちょう」の「おぐちじょう」、
というややこやしい呼び名をいまさらどうと言う人もいないでしょうが
ビッグマウス コンテスト ~大口町の中心で大口を叩く~、という企画もありましたね。

oguti (21) 城址公園の南に駐車場があります。

oguti (24)

城址公園として整備されてから、初めての訪問になります。
この城は以前から堀跡と本丸高台が残り、高台の中央部に城址碑が建っていたのを
はっきり覚えています。

kyuu-oguti.jpg
平成3年の頃の様子の一枚です。

見違えるほどきれいに整備されていてびっくりしました。
昔日の草地面がうそのようです。
物見櫓もあるやないですか。登れるみたいやし。(早速、登りたいo(^▽^)o)

oguti (1)ちょっと近世っぽくみえますが、公園として生まれ変わったのですね。

oguti (5)
なにより嬉しかったのは、あの時と同じ城址碑が今も堂々と迎えてくれていることでした。

oguti (23)
別名、「箭筈城」(やはずじょう)とも呼ばれている小口城。

oguti (8) oguti (11)
土塁や切岸などの当時からの遺構も随所に残してありますね。

oguti (22) oguti (10)
いよいよ物見高櫓に登ってみます。黒色でかっこいいですね。

oguti (12) 登っていきます。

oguti (14)犬山方面と展示資料館を俯瞰します。

oguti (13)小牧山城は・・、あちゃ、鉄塔が被っちゃてます。

小口城は長禄3年(1459)、織田広近によって築城されました。
本曲輪に二重の堀と土塁が廻らされた形状であったとされます。

小口城は木ノ下城や犬山城の支城として残されました。
永禄年間(1558年-1569年)に織田信長の軍勢に攻め落とされて廃城となった後、
小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉方の稲葉良通(一鉄)が布陣したそうです。

oguti (17) 小口城資料館より一鉄さんです。

稲葉は南の岩崎山砦も守備しておりこのエリア一帯を秀吉に任されていたようです。
秀吉の信頼度が窺えると同時にこの地域の重要性を理解できます。

oguti (15) oguti (18)

資料館は無料で開放されていますのでじっくり見て回れました。
資料館では戦国初期の尾張上四郡の歴史や守護・守護代の関係も学べます。
小口城は遺構の重要な部分は残しつつ、気軽に城址に親しめるような場所・・。
・・になっていました。



尾張 余語氏館 🏯高台は館址の一部でしょうか?

尾張 余語氏館 (愛知県小牧市林北)

尾張信貴山の麓に伝わる余語氏館址を訪問です。
小高い丘城、との情報のみを頼りに現地捜索にかかりました。
「行けばわかるだろう」、という勝手な決め込みに反し、以外とわかりませんでした。

yogoyakata (3)墓石かと思いきや、余語右近将監之碑、発見できました。

この林集落にはそれらしい神社や寺が多く点在し、どれも一見城址に見える小丘が多いです。
片っ端からそれらを回って、やっとたどり着きました。
まだまだ修行が足りないようです・・。

yogoyakata (5)まるで土塁か櫓台の一部分のようですね。

応仁、文明の乱の際、尾張国守護・斯波義敏を擁立し東軍側に付いた岩倉城主・織田敏定
敏定のもとに駆けつけた地侍に余語蔵人盛政がいました。

yogoyakata (8) この石垣は後世のものですね、きっと。

余語氏はその後、春日井郡に土着したようですね。
周辺の家の表札も余語さんが多いように感じました。

yogoyakata (7)現在周辺は民家、田畑に変わり遺構らしいのはこの高台だけのようです。

同じ小牧市でも中心街の喧騒を感じない、のどかな集落でした。
何年かしてまた行くことになったら忘れてしまいそう・・。
自信がないので地図を示しておきます。



尾張 五丁堀砦 🏯小牧合戦における織田・徳川軍、最北端の砦???

尾張 五丁堀砦 (愛知県江南市前野町新田北)

以前、訪れた小牧合戦での城砦めぐりが自分の中で熱いです。
今回も記憶をたどっての城址碑めぐりです。

五丁堀砦に行ってきました。
砦址であることを唯一示す「城址碑を探す」、というのが最大のポイント。
およそ城址とは思えない場所にあり、全く姿をとどめていません。

gotyouhori (2)
城址碑を発見できたことに喜びを味わえる城址です。

それでも見つけた時は感動して思わず笑ってしまいます。
「なんだ、こんなところにいたのかい。」

しかもブルーの網ネットが横たわっています。
よもや、ゴミの集積場?ですかね・・。おいたわしや・・。

gotyouhori (8)城址碑だけなので思いっきり寄ってみました。

五丁、という長さは尺貫法の単位によれば500メートル以上にもなります。
(1丁=109メートル)
これほどの長さのバリケート的直線堀が掘られたのか?
或いは一辺が100メートル超の城郭だったのか?
どちらも可能性はありますが、だとしたら大規模な砦、ということになります。

果たして、どんな姿だったのでしょう・・。

gotyouhori (5)石碑の裏面には説明書きがありました。

小牧・長久手の戦いでは織田・徳川連合軍の砦として築かれ、
前野喜左衛門義康の手勢300余騎が砦の守備におかれたそうです。
義康はおそらく前野将右衛門長康の一族かと思われます。
(誤字でなければ・・)

しかし、このエリアは当時羽柴方勢力圏の真っただ中。
織田・徳川方の砦があった、というのはちょっと考えづらいです。

第一、前野家は秀吉の最古参の家臣の一族で一貫して秀吉に協力してきました。
しかも、この前野には前野氏館もあるお膝元。
現に前野長康は羽柴方で参戦しています。

さらにさらに・・
西にある宮後城は蜂須賀氏の居城、東にある小口城は羽柴方の砦として利用されています。
いかな家康とて両城に挟まれた突出した地に砦を築ける訳がありません。
小競り合いを含めた局地戦が発生した記録もありません。

よって、推測なりますがこの五丁堀砦、羽柴方の砦として機能していたのではないでしょうか?
・・というのが自分の推測です。
みなさんはどう思われますか?

箸休め程度の内容にしようかと思いましたが、
熱くなるあまり、ついつい語ってしましました。



テーマ : 城郭
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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