紀伊 曽根城 🏯賀田湾を一望できる躑躅が似合う城

紀伊 曽根城 (三重県尾鷲市曽根町杉城・城山) <市指定史跡>

kiisone (36)曽根城は美しい賀田湾を見下ろす城山頂上に築かれています。

kiisone (34) 賀田湾は絵を描きたくなるような美しさ。

kiisone (3) 城山公園に駐車して歩きます。

曽根集落より飛鳥神社を目指し、案内に沿って寺尾林道を登っていきます。
中腹にわりと広い駐車場がありますので下車して散策。
まずはいきなり現れる城郭顔負けの猪垣にびっくり!

kiisone (41)kiisone (40)実に長さ約2kmにも及ぶ猪垣は圧巻です。

説明版にもあるようにまるで曽根城の外郭のように見えたりします。
それにしてもすごい石垣です。
先人たちの村の作物を守る知恵と労力に改めて脱帽します。

kiisone (5)曽根城案内板がある広場に到着。城址まで500mかぁ・・。

kiisone (7) 背後の登山道からいざっ!

kiisone (9)kiisone (8)
登山道の脇は林業用に伐採された山肌があらわになっていました。

kiisone (11)登山道は長い道のりですが整備されていてとても登りやすいです。

kiisone (10)途中、城山夫婦岩で休憩するといいです。仲のいい岩(´∀`*)。

kiisone (13) 背後の尾根に到着、結構やれやれです(汗)。

kiisone (15)大きな堀切にさしかかります。橋が設けてありました。

kiisone (39)深く幅の広い堀切に感動しながら渡るのでした。

kiisone (16)橋架部には石垣の普請址も見られます。

kiisone (20) kiisone (38)
物見岩へと登ってみましょう。なんだか期待に胸が膨らみます。

kiisone (37)うおー!思わず、絶叫!賀田湾と漁港が一望です。(*´∀`人 ♪)

あまりに静かで美しい眺望に時間を忘れ、しばし見とれてしまいます。
折角ですんで、リュックをおろし、コンビニおにぎりを食べながら満喫タイムを取ります。
漁船の出入りを山頂から目で追うのもなかなかオツなものです。

kiisone (25)主郭中心部に木製の碑がたちます。

kiisone (26) 広くはありませんが本丸の様子です。

曽根城は別名を「つつじが城」というように、城内には躑躅がたくさん植えられています。
おそらく4月5月には満開となり、さぞかし美しい光景となるのでしょう。
今回はまだだいぶ早いのでほんのちょっとしか咲いていませんでした。

kiisone (12)ほんの少しだけの開花でしたが、それでも綺麗でした。


曽根城は弘治年間(1555年~1558年)曽根弾正によって築かれたといわれます。
築城の由来が実にユニークというか世相を映する話なのです。

曽根氏は近江国六角氏の一族。
曽根周辺4か村民はたびたび出没する盗賊や海賊から村を守って欲しい、と六角氏に嘆願します。
六角一族である佐々木宇右衛門正吉が一族郎党を率いて城を構築。

周辺八か村を警護・守備します。
なんだか「七人の侍」みたいなエピソードですね。
そして曽根弾正正吉を名乗ります。

曽根氏は当初、伊勢国司北畠氏に属していましたが、北畠氏が信長に滅ぼされると
曽根弾正・孫太郎親子は新宮城の堀内氏善に従うようになりました。

kiisone (33) 曽根氏屋敷址前の飛鳥神社。

現在、飛鳥神社の前には曽根弾正の館の址も伝わっています。
今回は時間の都合で訪問できませんでしたが、屋敷城を呈していたようです。

kiisone (28) 楯石なる岩。

kiisone (29) kiisone (30) 鯨岩。

kiisone (31)全体が岩山の中にも、石垣が見られなかなか堅固な城郭です。

曽根城は見所がたくさんあって見学しがいのある山城です。
ことに物見岩からの賀田湾の素晴らしさは頭から離れません。
できれば躑躅が咲き誇る時期にまた来てみたいものです。




スポンサーサイト

紀伊 鬼ヶ城 🏯世界遺産・鬼ヶ城の城山山上の城

紀伊 鬼ヶ城 (三重県熊野市木本町本城・城山)

鬼ヶ城は2004年(平成16年)「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として
ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
熊野灘の荒波に削られた大小の海蝕洞が約1.2km続く大岸壁の景勝地です。

古くは「鬼岩屋(おにのいわや)」と呼ばれていましたが、
有馬氏が山頂に城を築いたのちに現在の名称である「鬼ヶ城」として親しまれています。

onigajyou (24) onigajyou (25)

そんな名勝地としての「鬼ヶ城」と城址としての「鬼ヶ城本城址」は同じ場所ではあるものの
やはり訪れるお目当ては観光としての鬼ヶ城散策でしょう。
以前は自分も家族連れで遊びに来たものです。

GWoni (2)荒々しい海と切り立つ岩の間を渡り歩くのは迫力満点。

実際、城山頂上まで登られる観光客はほんの一握りの健脚者だけのようです。
古道めぐりや史跡ファン、トレッキングの方が足を運ぶ穴場スポット、とでもいいましょうか。
今回は自分も城めぐりを目的として登ってみました。

onigajyou (27) 獅子岩越しに見る鬼ヶ城の城山。

onigajyou (26)七里御浜からの鬼ヶ城遠望。

onigajyou (2) 鬼ヶ城駐車場に登山道の入口があります。

onigajyou (3) onigajyou (23)
少し登ったところから早くも石垣がみられますが、城の遺構なのでしょうか?判断が分かれます。

onigajyou (4) onigajyou (5)

この駐車場からの登山道は「桜の道」と呼ばれています。
様々な種類の桜や桃の木が植えてあります。
まだ早い時期でしたが、それでも早春の芽吹きが楽しませてくれました。

onigajyou (6)頂上手前より主郭の切岸を見上げます。

20分程の登山で頂上に到着します。さすがに山城なので大変ですが
急坂もなく、遊歩道も砂利が敷かれて整備されています。
熊野灘の風景や草木を観察しながら登ればそれほど苦には感じません。

onigajyou (20)振り返れば素晴らしい絶景が待っています。

onigajyou (16)岩山にしてはよく削平された主郭部です。(南の郭の土塁より撮影)

onigajyou (7) 最頂部本丸への段。

onigajyou (9)道標を兼ねた鬼ヶ城城跡の木碑。

展望台からの太平洋はキラキラ輝いて美しかったです。
松本峠へはちょっと時間を要しますが、道中に堀切を3ヶ所に確認できました。
時間があったら寄ってみて損はないと思います。

onigajyou (12)堀切からの竪堀もよく観察できます。

onigajyou (14) onigajyou (11)

有馬氏は上代より熊野大神に奉仕した熊野別当家の出と言われています。
鬼ヶ城・城主、有馬忠親には子がおらず甥の忠吉を継嗣として迎え、鬼ヶ城本城に隠居しました。
しかしその後、忠親の実子に孫三郎が誕生。
忠吉が邪魔になった忠親は、忠吉を自刃させたため、忠吉親族の怒 りを買いお家騒動に発展します。
結局、忠親も自刃してしまします。

同じ頃、紀伊国新宮の堀内氏虎に攻め込まれ防戦。
有馬氏と堀内氏両家の和解が成立し、氏虎の次男である8歳の楠若(のち堀内氏善)が有馬の養子に入ることになりました。
その後、天正2年(1574年)氏虎が死去すると、早世した実兄・氏高に変わり氏善が堀内に戻り新宮城主となったため、氏善が両家の主となります。

onigajyou (21)主郭部より東方向を見ると七里御浜の松原が続いています。

まことに美しい景観です。
鬼ヶ城は頂上からの眺めが素晴らしい風光明媚な城址です。
桜のシーズンには山肌一面に広がる桜見と岩礁めぐりができそうです。

onigajyou (1)



紀伊 京城 🏯岩盤を断ち切った見事な堀切は必見

紀伊 京城 (三重県南牟婁郡紀宝町大里羽山・要害山)

新宮城から北上して京城へと向かいます。
この県道はオレンジロードと呼ばれる快適なドライブコースでもあります。
気ままにサイクリングにも気持ちよさそうです、まさに「気まぐれオレンジロード」です。

miyakonojyou (12) 南面の日当たりのよい地域です。

京城は「みやこのじょう」という雅な呼び名で読みます。
大里城、とも呼ばれるようですが、名前の由来を知りたいものです。
・・間違っても「ソウル」ではありません。

miyakonojyou (4)麓の相野谷川からの京城のある要害山を望みます。一見して城っぽい。

miyakonojyou (6) miyakonojyou (5)
県道沿いの案内標示と案内版が目印です。

miyakonojyou (9)城山の南の入口脇には説明版がたちます。

miyakonojyou (14)中腹には東泉寺址があり、石仏や石塔があります。

東泉寺址には若干の駐車スペースがありましたので徒歩でも良し、車でも良し、です。
墓地の手前に左側から登る山道があります。
わかりにくいのですが、イセ愛山会様お手製のプレートが目印になります。

miyakonojyou (17)登山道には黄色のプレートが目立ちます。(それでもわかりにくい)

miyakonojyou (21)草から見え隠れする石垣がいい感じです。

miyakonojyou (24) 主郭部には周辺に石積みが見られます。

草木やブッシュで確認しずらいですが、結構な石垣使用が認められます。

miyakonojyou (22) miyakonojyou (23)
主郭南面に備えられた虎口に続く堀切です。

miyakonojyou (25)北尾根を大きく断ち切る二重堀切、最大の切込。

壁面は岩盤にも関わらず、一直線に貫かれた大堀切に大感動!
しかも高さ(深さ)が6メートルほどもあるの絶壁状です。
これにはさすがに興奮。電流火花が身体(からだ)を走りました。

他にも石垣でできた竪石垣など魅力的な遺構がみられます。
草木ががさがさで写真掲載は諦めますが・・。

京城は天正16年(1588年)、堀内氏善によって築かれたと云われます。
氏善は北山攻略の為、街道沿いにこの城を築いたと考えられています。
羽柴秀長の紀州攻めに呼応した行動ともいわれています。

関ヶ原合戦で西軍に属して改易となった堀内氏善は一時この京城へ移り、後に肥後国へ移りました。

miyakonojyou (2)京城中腹部からの眺めに心が和みます。

山々に囲われた見通しの良い谷平野です。
・・ひょっとしたら氏善さん、ここに小京都、「京」を構想していたのかも、なんて。
「ゴーゴー・キカイダー」を唄いながら次の城へと向かうのであります。
(まだ人造人間状態のままに・・)



紀伊 新宮城 🏯熊野川を堀として、水運筋として活用した城

紀伊 新宮城 (和歌山県新宮市新宮・丹鶴城公園) <市指定史跡>

堀内新宮城に続いて丹鶴城こと新宮城へと向かいました。
さきに対岸から望む城容は要塞そのもの。
はやる気持ちを抑えながらの登城になりました。

新宮城は熊野川に面した丘陵に築かれており、丹鶴城公園として整備されています。
関ヶ原合戦後浅野幸長が和歌山城主となり、紀伊を与えられます。
城は家老の浅野忠吉(浅野長政の従兄弟)によって築かれました。

sinnguu (62)熊野川越しに望む新宮城はさながら軍艦のようにも見えます。

本稿ではグダグダ文章は控え、自分が感じ入った写真掲載にとどめたいと思います。
最初に申しますと、この城は2回目の訪城ですが、何度来てもいいです。
まだ未訪の方は是非とも足を運んでいただきたい、と思うのです。(すでにグダグダですね)

sinnguu (25)今回は南に設けられた城門(大手口)から攻め上がります。

sinnguu (26)駐車場は公園東に10台ほどの見学用スペースがあります。

ほぼ貸し切り状態で見学できるかと思います。
こんな贅沢はございません。(前回も奥方と二人きりの散策でした。)

sinnguu (31)松の丸に待ち構える桝形虎口。

sinnguu (32)鐘の丸の石垣。

寛文年間(1661~1673)の増築後の姿なので切込ハギのきっちり石垣となっております。

sinnguu (4)城郭中央部の鐘の丸から水の手、熊野川を見下ろします。

sinnguu (3)本丸へ向かいます。

sinnguu (20)本丸桝形の入口より本丸へ入ります。

sinnguu (11) sinnguu (18)

sinnguu (43)本丸より出丸を見たところです。これぞ出丸、です。

本丸から北へ付きだした尾根には小さな出丸があります。
写真がブレブレですみませんが・・。

sinnguu (17)これが出丸!、です。

sinnguu (12)・・心の内を見透かされたような警告案内。

sinnguu (16)北桝形虎口。ここから攻め上がるのは勘弁したいです・・。

sinnguu (9) sinnguu (46)
シャープ過ぎる角部にちょっと芸術的な感じを受けました。

sinnguu (47)
sinnguu (8)本丸石垣の上は天守台となっていました。

sinnguu (38)水の手まで降って見学してみました。

sinnguu (37)
sinnguu (35)すぐ直下に熊野川が迫っており、船着き場のイメージが想像できます。

熊野川に面する水ノ手には、舟入り遺構などが整備されています。
水運拠点として、また水軍拠点としても、重要な施設だったことでしょう。
新宮城の特長を示す素晴らしい遺構だと思いました。

sinnguu (49)
sinnguu (51)鐘の丸の長く高い石垣は美しく、力強い威風を感じます。

本丸から眺める熊野川と背後の山並み、そして太平洋はとても絶景です。
鐘の丸からの市街地の風景もいいものです。
ちょっと腰をおろして休憩。景色を眺めます。

ひとしきり見学を終え、鐘の丸にてしばしお菓子休憩してますと・・。バサバサバサ!
すぐ近くにトンビのトビー君(馴れ馴れしく勝手に命名してます)が舞い降りてきました。
マジで相当、びっくりしました(;゜0゜)。お菓子狙いかな?
しかし!残念でした~。全部食べてお菓子はもうないよ・・。

sinnguu (55)まだうら若い様子のトビー君。なんか絵になってます。

得難い出会いに去り難いですが、トビー君と新宮城にさよならです。
まだまだゆっくりと浸りたい城郭でしたが、次の城が待っています。
またいつか登城できる日が楽しみです。



紀伊 堀内新宮城 🏯東紀州の雄、堀内氏善の居館

紀伊 堀内新宮城 (和歌山県新宮市千穂1丁目・全龍寺) <市指定史跡>

堀内新宮城は堀内氏屋敷とも呼ばれています。
その名の通り、東紀伊の戦国領主、堀内氏善の居館でした。
堀内氏善といえば・・。

その昔、某戦国SLGの野望シリーズで紀伊の大名の代表格でした。
里見氏や姉小路氏でのプレイ同様、難易度の高い弱小勢力だったのを思い出します。
チャレンジした諸先輩方もいらっしゃるのではないでしょうか?

苦難を乗り越えて這い上がり、地道に生産高をあげる・・。
外交を駆使し、隙をみて隣国を攻め、綺羅星の如き有能武将を幕下に組み入れる・・。
まずは遠交近攻策で、攻めたい国の隣国の・・・・・・。

話は尽きませんが・・そんな思い出に浸りながらの城めぐりです。

horiutisinnguu (6)全龍寺の一帯がかつての城館址だったようです。

horiutisinnguu (3)

horiutisinnguu (4)山門脇にたつ案内板と城址石碑。

堀内氏善はここ新宮を根拠に古座付近から紀伊長島付近まで
実高 6万石とも言われる東紀伊を支配した戦国大名です。
またたく間に版図を広げた実力者だったことは間違いないようです。

horiutisinnguu (7)全龍寺の巨大な古木が印象的です。

この巨木のように地に根を張り、北方へと勢力を延ばしていきます。
氏善の最大版図はまさに一国の支配者に匹敵するものでした。
熊野水軍と熊野別当の地位を駆使して周辺を制圧していきます。

horiutisinnguu (10)石垣や土塀、部分的に城郭の面影が残るお寺です。

horiutisinnguu (12) horiutisinnguu (13)
お寺の北西角部から西面には堀の名残りが見られてイメージが湧きます。

あまり遺構は見られませんが、館址全体から湧き出でる雰囲気は楽しめました。
ぐるりと一周のんびりと見学できます。



紀伊 鵜殿城 🏯展望台からの日の出が誠に美しい城

紀伊 鵜殿城 (三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿矢渕) <町指定史跡>

udono-n (21)鵜殿城を東から眺めてみます。

東紀州の城めぐり、一番手に選んだのは鵜殿城でした。
こちらの城には訳あって前日の夜に麓に到着、周囲は真っ暗・・。
次の日に備えて車中泊で睡眠をとりました。その訳とは・・。

udono-n (20)
城山の東、鳥止野神社のある紀宝町ふるさと歴史館の駐車場をお借りしました。

熊野灘から昇る日の出を城の本丸から見てみたい!と思ったからです。
ここから昇る朝日は天気が良ければ最高のスポットになるであろう、と。
この賭け、どうでるでしょう?ドキドキしてなかなか寝付けないですね。

しかしさすがに国道のみで長駆運転してきたせいか、速攻爆睡です。
5時30分に起きておにぎりを喰らい、まだ暗がりの鵜殿城に登城します。
遊歩道は広くて標高もさほど高くなく日の出5分前程度の登山でも十分間に合います。

udono-n (18) 展望台を中腹から見上げます。

udono-n (1)本丸の展望台にて午前6:05分、いよいよご来光です。

浮かび上がるお日様、とても美しく、とても神々しいです。
・・狙い通りです。はるばる車を走らせてきたかいがありました。
城址からみる海上のライジング・サン、それはもう贅沢なひととき。

udono-n (2) しばし見とれてしまいます。

udono-n (17) udono-n (15)
最初に現われる南の堀切です。

udono-n (16)堀底には土橋が付けられています。

udono-n (4)本丸は周囲を土塁によって囲われています。

udono-n (14) udono-n (10)
朝日を受ける土塁、光の明暗がその存在を主張してくれてます。

udono-n (7)本丸中央に案内板が設置してあります。説明分と縄張り図と鳥の糞!

なんと三河の鵜殿氏がこちらの発祥だったとは露しらず・・。

udono-n (9) 北にも大きな堀切がありました。

遺構をなるべく保護しようと木製の階段を備えてあるのが優しいですね。
遺構もまた見学しやすいです。

鵜殿村はかつて日本一小さな村として有名でした。(大きさは皇居が2つ分くらい。)
村内の紀州製紙のお蔭でかなり村が潤っていたためです。
そんな村も2006年に紀宝町に吸収されて新しく生まれ変わりました。

udono-n (11) 工場は城址からもよく見えます。

udono-n1.jpg 熊野川の対岸には新宮城がすぐそこに。

udono-n (12)鵜殿城に春を告げる・・何の木だろう(笑)、でも綺麗でした。

東紀伊の城めぐり、幕開けとしてこの上もない神秘的な光景と目を見張る遺構でした。

(ちなみに、本丸の細い北尾根を登っていくと飯盛城、という小さな砦もあるそうです。
時間の都合で登ってませんが、もし次回があったら、またチャレンジしたいですね。)



紀伊 虎城山城(古城山城) 🏯紀伊半島南端部の山城

紀伊 虎城山城 (和歌山県東牟婁郡串本町古座・古城山) <町指定史跡>

久しぶりに南紀へ遠征してきました。
自分の自宅からは一大発奮しないとなかなか行けない地域です。
今回は3連休の内、1日半(中途半端!)を奥方に許しいただきましての弾丸城めぐりです。

今回からぼちぼち簡単にゆるい内容で記事を書いていきたいと思います。
この地方には以前にも一度、家族と観光を兼ね城めぐりに来ています。
よって奥方や子息らと訪問した城なども交えての回顧録にもなります。

そんな回顧録としての城が、ここ虎城山城です。
「こじょうざんじょう」と読み、古城山城、とも表記されます。
また別称として、古座浦城(こざうらじょう)、とも呼ばれています。

kojyouyamasiro55 (4)登城口の麓にある案内板があります。

案内板の後ろの階段を登ると青原寺に着きます。
そこから右手の奥にある稲荷神社から山道ほと続きます。
それほど高い山ではないので5分足らずで頂上に到着です。

kojyouyamasiro55 (1)本丸の様子です。正面に一段高い櫓台址と石碑がありました。
(どうやら石碑は城址を示す石碑ではなさそうでした)

本来、ここから望めるであろう、熊野灘の絶景を期待していたのですが
今回は茂った樹木に阻まれて何も見えませんでした。・・残念でした。
本丸以外は全体的にブッシュ状態でしたので遺構確認はできませんでした。(・・さぼりです)

虎城山城は高川原貞盛によって築かれたといわれています。
貞盛は新宮城の堀内氏義の南下進行を阻止すべくここに城を築いた、とされます。
虎城山城、守り難い強そうな城名ですが、果たしてどんなもんだったのでしょう・・。

遺構がよく確認できなかったので罪滅ぼしに・・周辺の観光地でのスポットを少々・・。
(本来は観光目的でしたので・・)

kojyouyamasiro55 (6)名勝・橋杭岩です。

虎城山城より南へ5kmほどにあります。
ここは家族で遊びに来て引き潮の時には岩の間近まで歩いて行けます。
子供たちは大喜びで遊んでいましたが、見ているこっちはハラハラしてました。

kojyouyamasiro55 (5) こりゃ、絶対面白いわな。

kojyouyamasiro55 (7)
古座川の一枚岩公園です。

周辺にはとてつもない巨大な岩壁がそそりたっています。
写真には納まらないほどです。ここでは子供たちと河原で石遊びです。
怪我しないように見ているのもハラハラです・・。(またか・・)

kojyouyamasiro55 (9)こちらも名物の虫喰岩です。

虫に食われたような(そのまんま)岩がたくさん見られます。
子供たちはいよいよ興味深々。「上まで登る!」と登る気満々。(実際はダメです。)
適当なところで降りてきてくれないかな・・ハラハラです・・。(ハラハラしまくり)

kojyouyamasiro55 (11) kojyouyamasiro55 (12)

以上、古座町の城めぐりならぬ、奇岩めぐりになってしまいました。
あれ?城の写真より岩の写真のほうが多くなってしまいました。
ついつい、懐かしさもありまして、ご容赦くださいませ。

それでは順次、東紀伊の城めぐり、はじまりです。



美濃 五郎塞 🏯苅安権現山の支峰に築かれた謎深い城

美濃 五郎塞 (岐阜県恵那市武並町藤相戸・五郎小屋)

前回、苅安権現山城から足を延ばして立ち入ったのが五郎塞と呼ばれる城です。
この五郎塞は城主や築城年代などが不明で遺構だけが静かに眠っている城、といったところです。

ただ城名から推測して「五郎」なる人物が大きく関わっていることだけは推測できそうです。
尾張大草城主から東濃に移住したという西尾道永の後裔、西尾五郎八に由来するのではないか?
とする説は的を得ているようにも思えます。

また「塞」とは山の中に作った砦、という意味なので概して城、砦、塁・・。
そういった表現から画すものではありませんが
暗に「山賊や野武士の築いた砦」、という意味合いを含んでいるように感じます。

gorousai2 (1)左の頂部が苅安権現山城で、右のピークが五郎塞の城山です。
(相戸集落より西側の山を仰ぎみた写真です。)

さて、五郎塞を登山口から案内したいところなのですが・・。
今や麓からの道は消え失せ非常にわかりにくいです。そこで・・。
地形図が読め、コンパスをある程度使える方なら権現山から尾根沿いに下り降りる、というのも
苅安権現山城も見学でき、かつ確実な方法としておすすめしたいです。

俗にいう、「鵯越の逆落とし作戦」と申しましょうか。
自分はこの城の見学に関しては毎度この方法をとっています。
気分は一の谷の源義経です。(一人二役で弁慶役もこなします!)

gorousai (1)

道中は大きな岩壁が立ち塞がり、足元の状況も岩肌や岩が散乱する箇所もあります。
いずれにせよ、山城に慣れていない方が入り込むにはやや難易度が高い場所です。
、とだけはいっておきましょう。

gorousai (8)尾根を断ち切る幅6~7メートルの堀切が魅力。

gorousai (22)主郭部は御覧のとおり荒れています。

gorousai (21)物見岩と思われる崖岩が東部にあります。
gorousai (4) よき眺めにござる。

gorousai (19) gorousai (14)
南腰曲輪に通じる虎口(写真:左) と北側の外部からの虎口(写真:右)が確認できます。

gorousai (12)東側端部から北側には直角に近い切岸がみられます。

敵の侵入を想定した東から北には回り込む敵に横矢を効かせられるよう工夫を感じます。
周囲を岩や崖を上手く利用して取り付きづらくしてあるのは権現山城と同様です。

gorousai (23)腰曲郭は堀切までつながっています。

苅安権現山城と五郎塞は尾根続きで連絡でき、お互いの姿も確認しあえる位置にあります。
もっとも、距離は離れているので、それぞれが別個の城砦と考えるべきでしょうが
築城時期は違えども、相互機能した時期もあったのではないか、と思います。


ひとしきり、見学を終えて、権現山苅安神社まで帰ってきました。
すると、なにやら人の気配がします。
こんな山中で人に会うこと自体珍しいのでびっくりしてしまいました。

イノシシやカモシカに合うことはあっても人間とは・・。
お互い挨拶をして人間同士?であることの確認をしたらそれぞれの興味は一つ。
「こんな山中で何やってるんですか?」

聞けばそのN氏さんは旧中山道をはじめ街道の歩きめぐりをライフワークとしてみえる方。
なんとなく同じ匂いのする者同士、しばし腰を下ろしてのおしゃべりです。
話しぶりから相当の手練れ者と推察いたします。

短い時間でしたが、いろいろと感じ入る、とてもためになるお話をしてくださいました。
連絡先を交換し、お互いの無事と安全、さらなる精進を祈って下山しました。
これも苅安権現様の思し召し。よき巡りあわせなのでしょう。

すがすがしい気持ちで満たされた苅安権現山城と五郎塞の城めぐりでした。



尾張 小折城 🏯信長と類、小六・将右衛門と藤吉郎の出会い

尾張 小折城(生駒氏屋敷) (愛知県江南市小折町八反畑)

いよいよ春らしくなってまいりました。
花粉にも負けずに城めぐりです。
江南市の南端、生駒氏屋敷へと行ってまいりました。

まずは碑があるという布袋東保育園を目指します。
・・実は学校・保育園などに城址碑がある場所は正直、苦手なんです。

自分でいうのもなんですけれど、平日に一眼レフをかけ、周囲をうろつくサマは
明らかに不審人物でしょう。チラ見されてる視線がイタいじゃありませんか。
こころなしか子供の手を引っ張る保護者の歩みが早いように感じますが・・(汗)。

koori (3)

koori (1)邸址(城址)を示す石碑と説明版が保育園の門脇にあります。

馬借を生業として財を成した生駒氏は、織田氏と関わり勢力を拡大するようになりました。
生駒家宗の娘、※吉乃は織田信長の側室となり長男・信忠、次男・信雄、五徳を産みます。

※、生駒家に吉乃の名は伝わっておらず、「武功夜話」の作者が「吉乃(吉野)」としています。
生駒家には「類(るい)」という名が伝承され、そちらが正式名であると推察されています。
個人的にも「」のほうが自然で親しみを感じます。

koori (7)
左上に図示されている「桜雲砦(さくもとりで」)も気になります。

城としての遺構は残っていませんが、実に広い城館だったことが推測できます。
蜂須賀小六正勝前野将右衛門長康らも頻繁に出入りしていたようです。
小者の秀吉が織田氏に仕えたのもはこちらで縁のあった類(吉乃)の推薦によるものとされます。

koori (19)久昌寺には生駒氏一族と吉乃のお墓もあります。

koori (10)右端(一番奥)の墓が吉乃の墓になります。

周辺には関連史跡も多いので歩いての散策ができます。

koori (15) koori (12)
竜神社(写真:左) と 埴原塚(写真:右)

koori (14)吉乃が住んでいた御殿の址といわれる地です。

yogoyakata (10)

それぞれが運命的な出会いをした場所、ということになりますね。
戦場ではなく普段の生活の場として、それぞれのスタート地点だったといえましょう。
あの信長が足しげく通った地だと思うと・・なんだかロマンチックな感じがしました。



尾張 宮後城 🏯川並衆の指導者・蜂須賀正勝の移住した城

尾張 宮後城 (愛知県江南市宮後八幡)

蜂須賀小六の邸、宮後城を訪問しました。
小六の子息、家政の出生の地、でもあるようです。
現在は城址中心部を県道が通り、県道両脇にそれぞれの碑がたっております。

miyausiro (11)県道脇南側には「宮後城」の城址碑がたっております。

miyausiro (9)県道脇北側には「蜂須賀家政公誕生之地」の碑がたっております。

蜂須賀正利・正勝(小六)親子は織田信秀により居城の蜂須賀城と土地を奪われたため
妻の実家である安井氏の居城、ここ宮後城へ移り住んだとのことです。
正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)も、この地で生まれたようです。

miyausiro (6)城址碑から南には説明版もあり、蜂須賀桜が植えてあります。

miyausiro (5)当時の様子をイメージしたイラストではなかなかの構えです。

その後、小牧・長久手の戦いでは秀吉方の砦として修築されました。
『武功夜話』では宮後城は織田・徳川方の砦に利用された、とありますが・・。
この件は五丁堀砦の記事でも触れましたが、状況的にどうも秀吉方テリトリーとみてよさそうです。

miyausiro (14)宮後八幡神社は出城的役割を果たしていた砦址があった場所だそうです。

コの字型に石塁と土塁らしい址が残りますが、当時のままの遺構ではないでしょう。
しかし河原石による低い野面積は近くでは上奈良城(一宮市)にも見られます。
一部積み直しによるもの、という可能性はあるのでしょう。

miyausiro (15)miyausiro (2)

miyausiro (13)この長塁、とっても素敵なので思わず見とれてしまいました。

蜂須賀小六、というと野武士の首領、というイメージのためか
大半の人が描く風貌イメージはほぼ定着しているように思えます。
中にはプロレスラーのような容姿を想像してみえる方も多いと思います。
(実際、ドラマなどでは、まんま決定番を出してまった作品もありましたが・・。)

彼の魅力はその腕っぷしの良さに付け加え、面倒見がよく人から慕われ
人脈を大切にした誠実な性格であったからではないでしょうか。
「人たらし」、と呼ばれる秀吉も惚れ込むような筋が一本通った漢だったのでしょう。



プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、開設以来、3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

24時間戦えますよ
今年のゴールデンウィークはなんとか2日のお休みが取れました!
一日は久しぶりに家族全員にて本格アスレチックとテニスで汗を流しました。
もう一日は弟クンと丹波地方へ城めぐりに行けました。
渋滞を避けるため前日の夜から出発し、現地では早朝から山城を立て続けで攻め登ります。
4つの山城と2つの平城の見学をして帰宅したのは深夜12時。
次の日はいたる所が2日分の筋肉痛・・。
24時間戦えますか?と聞かれたら・・。
城のためなら(なんとか)戦える久太郎でありました。
最新登城記事
カレンダー
02 | 2017/03 | 04
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新コメント
検索フォーム
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
リンク
来城者数