城友さんとさすらう信濃城郭漂流記 午後の部

城友・日向さんとさすらう信濃城郭漂流記も午後の部へと入ります。
上原城桑原城はほとんどの山城ファンの方々ならセットの見学が定番ですが
ここ諏訪湖周辺には他にも魅力的な山城が多く点在しています。

岡谷市を代表する花岡城小坂城・・・、下諏訪町といったら山吹城桜城・・。
諏訪市が誇る有賀城武居城・・、茅野市には個人的に大好きな鬼場城朝倉山城
コンパクトにまとまった多彩な遺構に出会うことができる名城ばかりです。

諏訪 上原城 (長野県茅野市上原・金比羅山) <県指定史跡>

今回はやはり日向さんが上原城をチョイスしてくれました。

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林道で背後の大堀切近くまで車で行けちゃうのは楽ちんですね

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思わず歓声をあげずにいられない大堀切でした。((((;゚Д゚)))))))

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眼下に広がる茅野・諏訪の街並みにここでも歓声が止まりません。

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見事な腰のスロー・ツイストでパノラマ写真に挑戦中、日向さんです。
(その動きができるなら、もうぎっくり腰は大丈夫そうですな)

この夏、腰に「魔女の一撃(しかも会心の)」を食らった日向さん。
こうして共に山城へも来れるようになってホントに良かったです。

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二の郭に鎮座する物見岩は上原城の象徴的シンボルです。

上原城には「板垣平」と呼ばれる広い館址と見られる台平地が形成されています。
甲斐~信濃各郡間における街道の集まる最重要拠点でありました。
信玄、勝頼もこの上原城を何度となく拠点として利用しているのもそのためです。

山城の教科書のような遺構が楽しめます。
一度「ゆっくり縄張り図を描いてみたい」、そんな惚れ込める山城の一つであります。


さぁ、我々の初期目標も達成できました。
とりあえず腹が減ったので、「信州といったら蕎麦。」
富士見町まで降って、道の駅・蔦木宿で八ヶ岳丸抜きそばをいただきました。
(蔦木は「つたき」と読みます。もう山梨県とは目と鼻の先です)

mitiekikai.jpg 上品な色白細麺ですが、腰があって美味しかったです!ごちで~す。

さぁ、腹も膨れて、次はどの城にいきましょうか、日向殿・・。
・・日向殿?

・・まずいです、日向さんの目が遠くを見つめる、野望モードになっている・・。
いや(汗)、あの・・次、ジムニーでどこまで・・
「‥次は海ノ口城まで行きましょうか」(サラッと)

(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)!!、・・さ、佐久ぅぅ!?

い、いけない・・、目を合わせるのは危険すぎる!
日向必殺「野望モード」は距離感をチャラにした別名「無謀モード」でもあるのです。
しかし、諫言もできず、そのまま熱意?に持っていかれるのでありました・・。


佐久 龍岡城五稜郭 (長野県佐久市田口) <国指定史跡>

・・一体、自分はどこに連れていかれるのでしょう・・?
しかし、ここは乗りかかった同舟、どうせなら初めての佐久入りを共に愉しもう!
切り替えだけは得意です、むしろワクワクしてきました。

・・ところが海ノ口城というのは車での登坂ルートはなく、結構な登山だとか。
陽も短くなってきていることから、ここで予定変更。
ちょっと足を延ばして、龍岡城五稜郭へと向かうことになりました。

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五稜郭から少し離れた所にある大手門桝形虎口。

予備知識がなかったので偶然出会えたこの遺構に感動!
やはりこれぞ冒険の醍醐味です。

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龍岡城五稜郭は、函館五稜郭とともに日本に二つしかない星型稜堡をもつ洋式城郭です。
龍岡城は戸時代末期に田野口藩主・松平乗謨が元治元年(1864)に田野口藩新陣屋として着工。
慶應3年(1867)に竣工しました。(時代的にもはや「築城」、と言わないのですね・・)

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フランスのボーヴァン将軍が考案したといわれる稜堡式築城法によるものです。
突角部に砲座を設け各稜堡から十字砲火をもって攻防することを目的としています。

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明治5年(1872)城は取り壊されますが、堀と土塁、建物の一部「お台所」が残されています。

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この距離では独特の外観を把握するのは無理ですが、角部はよく見学できます。

近くの山の展望台からはよくその形がわかるようです。
時間の都合、パスコースにしましたが、次回機会があったら迷わず行きたいな~。
「日本に二つ」という貴重な幕末城郭、周囲を2人で散策するのでありました。


さて、そろそろ日も傾いて参りました。
楽しい時間はあっという間に終わってしまいます。

「日向殿、今日はホントに楽し・・」
「帰りはついでに小諸城に寄ってみましょう!」
・・骨までしゃぶろうとする気ですな・・。

しかし、小諸城に到着したのは懐古園閉館の午後5時・・。チ~~ン。・・でした。
「そ、それでは、日向殿、和田峠を抜けそろそろ・・」
「真田本城なら車で行けますから、どうですか?」

(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)!!、・・う、上田ぁぁ!?
「ご一緒します!」(T_T)


上田 真田本城 (長野県上田市真田町長字小別堂) <市指定史跡>

ということで、夕暮れの真田本城に到着です。
それにしても日向さん自身の電池パックは長持ち充電です。
朝5時から運転しっぱなし、ここにきてもまだまだ元気。

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主郭のすぐ近くまで車で登ることができる有り難い城です。

真田氏の拠点があった城で、規模や構造が真田氏の本城に相応しいとの理由で真田本城と呼ばれます。

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主郭背後に高土塁がめぐり見事です。

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石垣も若干、確認されます。

遠くに見える上田の街並みにも電灯が灯りはじめました。
全く先の見えない信濃城郭見学、プレゼンby日向さんのツアーでしたが、目にしたことのない信州の様々な風土を肌で感じることができて、とても楽しかったです。
なにより疲れたはずの日向さんが最後までぴんぴんしており、「野望モード」全開だったのには脱帽しました。
長距離の長時間、運転していただき本当に日向さんには感謝です。

「お城が好きだから行く」漂流記はまだまだこれからも続きそうです。

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城友さんとさすらう信濃城郭漂流記 午前の部

夏休み最後の思い出を・・ということで信州まで城めぐりへと出かけました。
今回は城友・日向さんが愛鉄馬、JB32ジムニーに乗せて頂きの、のんびりドライブ!
・・になる予定でした。

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城友・日向殿の愛鉄馬の助手席に搭乗させていただきました。(桑原城・ダート駐車場にて)
写真提供:日向さん

当初の予定は下伊那郡大鹿村にて「天空の池」を見学後、高遠城を経て諏訪へ。
諏訪氏の城砦を一通り見学後、時間が余ったら最寄りの城まで足を延ばす、というプラン。
無理のない正道といえば正道のお利口さんコースだと思われました。

しかし、ここのところの大雨災害のため、「天空の池」までの林道が崩壊・・。
初っ端から計画をくじかれ、直前での予定変更を余儀なくされました。
・・この件が運命の歯車を狂わせ、先のみえないドリフターズと化していくのでした・・。

さて、・・絵日記感覚でいこうと思います。

都合上、1つの城につき3~5枚までの写真枚数とストイックにさせていただきます。
途中飛ばし見、大歓迎の記事です。
なんなら、御覧にならなくても結構です。(おいっ!)


伊那 高遠城 (長野県伊那市高遠町東高遠) 《日本100名城》

最初に到着したのは伊那の高遠城です。

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諏訪惣領職を狙って一族間での抗争があり、武田信玄の介入・侵攻を受けました。
秋山虎繁・軍団長化の基となりし城で、武田(諏訪)勝頼を当主に押し上げた城です。
そして、仁科盛信以下三千の兵が織田信忠からの降伏勧告にも応ぜず徹底抗戦した城です。
その壮絶な戦い振り、散り様は、後世まで讃えられ、そして哀悼されていきます。

この記事ではとても思いが伝えられません、後日改めてまた戻ってきたいと思います。
次の時期は・・やはり高遠桜満開前後でしょうか?
でも・・日の出前からスタンばらないといけないとか・・。どしよかな・・。
五郎山にもきちんとご挨拶伺いしたいですしね。

高遠の見事な桜、一度この目で見てみたいものです。


諏訪 高島城 (長野県諏訪市高島) <市指定史跡>

高遠から諏訪まで杖突峠を降りてきました。

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お決まりのスナップ構図ですが、いいですね~高島城!

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天守内はバリバリの鉄筋コンクリート製ですが、資料館内の展示内容はなかなか。
かつては諏訪湖に面した浮き城だったことを想像してみると面白いです。
実は今回が3回目の高島城。今回は櫓にて日向さんとすっきりとした抹茶を服しました。

城内にての一服、なかなかおつでございましたなぁ。


諏訪 桑原城 (長野県諏訪市四賀桑原) <県指定史跡>

武田信玄に諏訪を攻められた諏訪頼重は上原城を焼き払ってここ桑原城へと退きます。
しかし降伏し甲斐へ連行され・・。嗚呼・・。

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二の郭は中央部に堀状の凹みが見られ、見ようによっては二重堀切に見えました。
ここからは諏訪湖が美しく見渡せたことでしょう。

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勝ち誇ったような後ろ姿が我ながらハズい・・。写真提供:日向さん

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・・一体・・この人たちは何をしているんでしょう。

各々、とても理解しがたい生態の持ち主なのだ、と改めて確信。
それができるのもこの素晴らしい遺構を貸し切り状態で見学できる贅沢さからでしょう。
諏訪氏城砦群、次なる上原城からは、次回の午後の部へと続きます。

たまにはこんな薄っぺらな記事でもいいもんです。(楽です・・)
その分、日向殿との城への思いは分厚いのですから!(なんのこっちゃ)

久しぶりの長男と金華山・岐阜城へ

お盆休みに自宅へ帰ってきてくれた我が家の長男。
「京都も暑いけど、こっちはもっと暑い」とほざきながらもゆっくりとできたようです。
寮生活にも慣れ元気に楽しくやれているようで安心しました。

自分もそうでしたが、大学生の夏休みは長~くてちょっぴり羨ましい・・。
自分の時を思い出すと・・、
自動車免許をとるべく昼は自動車学校、夜はバイトに明け暮れていました。

そしてこの頃からでしょうか?
有名城郭以外にも「城」というものが、実は至る所にある、ということを知ったのは。
「車を買ったら、いろいろな城址へ行ってみよう!」、・・当然そうなりますわな。

・・さて、一週間ほど滞在してくれた長男も再び京都へ帰ることになりました。
JR岐阜駅まで送ることになったのですが、かなり時間があります。
「岐阜城まで行ってみよっか」ということで付き合ってもらいました。

gifuwryuta (2)久しぶりの岐阜城見学に心ときめきます。

岐阜城は以前にも何回か来ておりますが、8年ぶりくらいでしょうか。
家族みんなでロープウェイで登ったのですが、長男はあまりよく覚えていないようです。
・・というか一緒に行った城が多すぎて、記憶がパンクしたようです(笑)。

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快適なロープウェイで頂上まで行きます。

前日までの大雨・雷雨が通り過ぎ、本日は絶好の天気に恵まれたよう。

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信長公居館跡の発掘調査も進んでいる様子が俯瞰できます。

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大手門から天守方面へ登っていきます。

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岩盤をくり抜いた堀切に驚嘆!

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天守閣へと向かっていきます。

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天守閣からは360℃のパノラマが素晴しい!

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長男がつぶやきます。「この城、落とせないよな~、フツー」。

そんなごく初歩的な感想さえ、我が子ながら微笑ましく感じます。
それにしても改めて見ると後姿が大きくなったものだなぁ・・と。
この夏背丈がとうとう超えられてしましました!

少し悔しいですが、子供に追い越されていくことは心地良き気分でもあります。

こうして家族と岐阜の町並みや山々を手に取るように見ることは滅多にありません。
二人してしばらく眺めを楽しんで下山しました。

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乗る時は気づきませんでしたが、乗り場手前に精巧な模型もありました。

長男を岐阜駅まで送ります。
普段はそれほど思わないのに、やはり離れ離れになる時はちょっぴり寂しくなるもの。
なかなか子離れができないダメ親父でございます。

gifuwryuta (23) gifuwryuta (24)
岐阜駅北口にある黄金の信長公像。

あまりしんみりすると信長公に怒鳴られそうです。
また元気で笑顔で会えることを願って「またな」です。
いつも付き合ってくれて「ありがとう」。

少しだけ頼もしくなった後ろ姿を見送りました。

武蔵 丸墓山三成陣所と石田堤 

武蔵 丸墓山石田三成陣所と石田堤 (埼玉県行田市埼玉一帯)

弟とゆる~く行く、映画「のぼうの城」史跡めぐりシリーズ④

丸墓山石田三成陣所

忍城をあとにして向かったのは石田三成が忍城攻めの際、本陣とた丸墓山古墳です。
丸墓山古墳は、直径105m、高さ18.9mの円墳で、円墳としては日本最大です。
一面平野の地の中ではこちらの古墳群が周囲より小高い丘となり点在しています。

鉢形・忍 (53)
国内最大の円墳であったとは、知りませなんだ・・。

鉢形・忍 (121)夏草に覆われた丸墓山古墳こと、石田三成公の本陣です。

さきたま古墳公園には無料駐車場があり、公園として整備されています。
歩いて各古墳をのんびり巡り歩いても楽しいかと思われます。

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現在多くの古墳が立ち入り禁止になっている中、ここ丸墓山古墳は登ることができます。
(古墳群のうち、丸墓山古墳と前方後円墳の稲荷山古墳も登れます。)

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ここで三成は利根川と荒川を利用した水攻めを行うことを決定します。
忍城を取り囲む総延長約28キロメートルに及ぶ石田堤を約1週間で完成させました。
両河川の水を引き入れた忍城の周辺は一面が湖水となったようです。

securedownload.jpg三成はこの場で昼夜を通しての突貫工事の指揮をとりました。
どれどれ(○・_ゝ・○)ノ、三成の目にはどんな風に城は見えてたのかな?

鉢形・忍 (55)おおっ!(;゜0゜) 見えます!見えます!o(≧ω≦)o

望遠で撮った写真ですが、場所さえロックオンすれば肉眼でも充分確認できます。

三成としては初めての総大将としての城攻めだったようで。
本人の高揚した鼓動が伝わってくるようです。

・・しかし、三成らの判断だけで、膨大な費用のかかる水攻めを決行できるのでしょうか?
三成は水攻めの策をあらかじめ秀吉に打診して、秀吉の指示のもとに決行したようですね。



石田堤

さて、大規模な水攻め計画が決行されました。
秀吉からすれば、水攻めは己の富と力を関東はもちろん、日本中に見せつける絶好の機会です。
秀吉は何が何でも城攻めの演出をしたかったのでは?・・と思います。

次に向かったのは石田堤歴史公園とその周辺です。
石田堤がよく残っている場所があるとのことで見学していくことになりました。

鉢形・忍 (62) 石田堤石碑。
鉢形・忍 (69) 説明版もあり。

鉢形・忍 (72) 鉢形・忍 (71)
通り沿いに堤の址が残っているポイントを見学していきます。

鉢形・忍 (73) 堤に沿った細長~い形の公園に到着しました。

鉢形・忍 (75)ほぼ、現代の河川堤防と言っても過言ではない規模の堤です。

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堤の断面が把握できるようになっていました。

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堤の上部が延々と続いています。(目視の範囲で)

これだけの規模のものをよく造ったな・・というのが率直な感想でした。

この水攻めは結局、失敗に終わっていまいました。
当然、これほどの労と財を使いながら忍城を落とせなかった三成は将としての器が問われます。
三成は手際の悪い戦下手な武将であったのでしょうか?

その結論は見直す必要があると思うのです。

忍城は水害の際でも水を被らないことから、別名「浮き城」と呼ばれていました。
その名がついいたこの城は、元々水没させること自体、困難な城だったのでしょう。

それに三成の陣中には大谷吉継をはじめ、真田昌幸親子ら知恵者も多く参戦していたハズ・・。
三成が忍城を水攻めにする以前にも、実は上杉謙信がここ丸墓山より忍城を攻めた際も失敗しています。

三成にとってはすでに勝負の見えた戦い。
秀吉からの命令を条件下ギリギリのところで応えようとしたのではないでしょうか?
その上で初めての総大将を彼なりに進んで勤め上げたのだと感じます。

秀吉も三成も結局、「これがやりたかった。」のでしょう。

三成の目には「浮き城」、忍城はどのように映っていたのでしょう。
今回、関東屈指の名城として語り継がれていく忍城をめぐる双方の場に立ってみました。
傍らの弟クンもちょっとお疲れ、付き合ってくれてホントにありがとうです。

弟クンと丸墓山古墳から眺めた忍城がとても記憶に残った楽しい旅になりました。

武蔵 忍城 🏯豊臣方の水攻めに耐え抜いた堅城

武蔵 忍城 (埼玉県行田市本丸) <県指定史跡> 

弟とゆる~く行く、映画「のぼうの城」史跡めぐりシリーズ③

鉢形・忍 (117)いよいよ目的地である忍城にやってまいりました。

弟クンもそうですが埼玉県に足を踏み入れたことは今旅行が人生初めてです。(多分)

「山が見えない・・」、一面の平野部に少々戸惑いながらのドライブになりました。
まるで山国から都会へ出てきた芋兄弟のよう。(周りをキョロキョロ)
方向がわからず、どこをどう進んでいるのか全くのナビ任せの到着です。

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先ずは石碑を押さえるのが定石。(ただのクセ)

忍城には本丸址や二ノ丸址、櫓址や門址にそれぞれ石碑が立っています。
じっくり歩いて当時の面影を探してみるのもよいでしょうね。
今回は時間の都合上、全ては見学できそもうもありませんが・・。

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御三階櫓の横にあるあずま橋と東門を通っていきます。

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復元された土塁と土塀越に鐘楼をみます。

享保2年 (1717)桑名藩主・松平忠雅によって鋳造された鐘です。
文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されました。
現在の鐘楼に提げられた鐘は、平成4年(1992)に再造されたものです。

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鐘の大きさは高さ 151cm、外径 79.5cmと結構大きなサイズです。

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土塁に狭間をきった瓦葺きの土塀も雰囲気よく。

映画 『のぼうの城』 の舞台となり近年は特に脚光を浴びた城です。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で忍城は石田三成率いる2万3千余の大軍に水攻めされます。
城主・成田氏は城代・家老衆一丸となって農民町人併せたわずかの兵力で抗戦します。

城代家老・成田長親は普段は愚鈍な人物でしたが、領民からは非常に慕われ「のぼう様」と呼ばれていました。

もう、あまりにも有名な件なので皆さんもご存じのはず・・。

幾たびにもかけられた城への攻撃にも城方の防戦めざましく寄せ手をことごとく撃退しました。
小田原城で籠城していた城主・成田氏長からの指示により天正18年7月11日に開城。
21あったとされる小田原城の支城のうち、小田原落城後も持ちこたえた支城は忍城だけでした。

鉢形・忍 (106)忍城跡に復元された御三階櫓、堀に映える姿は美しかったです。

武蔵 成田氏館 🏯忍城主・成田氏のルーツとなる館城址

武蔵 成田氏館 (埼玉県熊谷市上之中宿) <市指定史跡>

弟とゆる~く行く、映画「のぼうの城」史跡めぐりシリーズ②

さて、鉢形城をあとにして次はいよいよ忍城へ!・・と行きたいのですが・・。
その前に忍城城主・成田氏のルーツとなった館跡に寄ってみました。
成田氏は古くは平安時代以来の惣領家として成田郷に館を構えた名家でもあるのです。

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住宅地の前、一方通行道路の脇沿いに立つ石碑。
narita.jpg 鉢形・忍 (32)
まぁ、これだけといえば、これだけですが。

遺構などは残っていないようです。・・それより・・。
この館址にたどり着くには他国者の我らにとっては非常に難儀なことでした。
国道から細い一方通行の道に入るのですが、逆方向から鋭角に左折するえげつない道です。

今回は城めぐりのアプリでの検索ルートにしたがって大正解でした。
大変、お世話になりました。
一応、「行ってみたい」、という変わり者の皆様ために地図添付をしておきます。

ほんとにゆる~い城めぐりでどうしようもありませんね。(お許しを)



武蔵 鉢形城 🏯巨大空堀と銅製縄張り図に超感動!

武蔵 鉢形城 (埼玉県大里郡寄居町鉢形) <国指定史跡> 《日本100名城》

弟とゆる~く行く、映画「のぼうの城」史跡めぐりシリーズ①

8月上旬の暑さ真っ盛りの中、弟クンと北関東までドライブへ行ってきました。
お互い1日しか予定が合わなかったこともあり、午前2時に岐阜を出発するという日帰り強行軍。
今回は映画 『のぼうの城』 の関連史跡を回りました。

『のぼうの城』は、和田竜さんによる歴史小説を原作とする作品で、2012年に上映されました。
皆さんも御覧になられたことかと思われます。
映画の舞台となったのは忍城でした。

「豊臣軍にケンカを売った、でくのぼうがいた。」「この男の奇策、とんでもないッ!」。
、というのがキャッチコピーでしたね。自分は奥方と倅3人とで映画館へ見に行ってきました。

映画のエンドロールを見ながら・・。
「いつか忍城に行ってみたいな~」と思っていましたが、やっと念願が叶いました。
付き合ってもらった弟クンとの行先に待つ史跡が楽しみです。



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まずは北条氏が誇る北武蔵の堅城、鉢形城へと行ってみました。

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荒川から見た鉢形城。断崖絶壁の上に築かれています。

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笹曲輪に立つ鉢形城石碑。

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こちらの銅製縄張り図が素晴らしくよい出来栄え!

鉢形・忍 (12) 見応え充分!・・いつまでも眺めていたい(笑)。

弟と色んな角度から眺めること30分。
余りに気に入った様子だったのでしょう、散歩中のお父さんに兄弟写真を撮っていただきました。
お父さんには城の見所や歴史を簡潔にわかりやすく教えて頂きました。(感謝!)

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二の曲輪と三の曲輪間の巨大な空堀に見とれるわけでして・・。

鉢形・忍 (97) 柵が往時の雰囲気をだしていますね。

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角馬出しと木橋が復元されていました。(これにはそそられました・・)

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秩父曲輪に復元された四脚門です。

発掘調査に基づき平成16年に復元整備されました。
戦国時代の建築構造をとてもよくイメージできていいですね~。

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四阿(あずまや)や庭園址も整備され、見学しやすいです。

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組み直された石積土塁もありました。

石積土塁は、内側に河原石を3~4段の階段状に積み上げていました。
裏込石がなく、高さも一段が1m程度に造られていました。
関東地方の石積技術を伝える貴重な遺構といえましょう。

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本丸まで行ってみました。

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本丸下部の石垣。

鉢形城跡は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれ、天然の要害をなしています。
この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面に対する重要な地点でした。
 
鉢形城は文明8年(1476)長尾景春によって築城されたと伝わります。
後に小田原の北条氏康の四男・北条氏邦(うじくに)が城を整備拡充をしました。
以後、北関東支配の拠点として、また甲斐・信濃からの備えとして重要な役割を担いました。

兄・氏照自慢の八王子城に勝るとも劣らない規模を誇っていました。

しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際には、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。

忍城開城に先立つこと約1ケ月前にあたります。
(忍城開城は7月16日です。)

氏邦は名胡桃城事件の当事者であり、激しやすい短慮な性格と見なされることもあります。
しかし、兄の氏照同様に武勇・統治に優れ、北関東の最前線、上野方面の軍事を任されたのです。

武田信玄との三増峠の戦いをはじめ、本能寺の変後の神流川の戦いでは、滝川一益を壊走させる等、武功華々しく北条家領土拡大に大きく貢献しています。

小田原征伐の際には小田原城に籠城することに反対して大規模な野戦を主張しましたが評定では容れられませんでした。
居城・鉢形城に籠もって抗戦する、という毅然とした決断にも彼の武人としての一貫性を感じます。

北条魂そのもの、氏邦って一本気があるな。(かっこいい!)と思うのであります。
そんな思いに駆られながら弟クンと鉢形城をあとにするのでした。

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伝逸見曲輪に咲いていた桔梗の花が。花言葉は「正直」「誠実」です。

飛騨 中山城 🏯三男の県大会応援と中山城見学

飛騨 中山城 (岐阜県高山市下岡本町・城山)

7月末に倅、三男の中体連バスケ県大会出場の応援で高山市へ行ってまいりました。
市内大会、地区大会を優勝という栄誉で勝ち抜いてきたチーム。
素晴しいコーチとチームメイトに恵まれてここまで来ることができました。

h-nakayama (13)会場は高山市のビックアリーナと近くの中山中学校で行われました。

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勝ち進んできた県内代表ベスト16、男女32チームです。

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1日目は中山中学校さんが会場でした。

1日目の第一試合では序盤から相手にリードされる展開になりヒヤヒヤ。
しかし前半終了時にはほぼ同点まで追い上げ、3Qでついに逆転!
そのまま流れを掴んで、なんとか勝利をもぎとるのでした。

親バカながら・・。
スリーポイントシュートをかっこよく決め、果敢なディフェンスで対峙する息子のプレーに超感動!
チームメイトの親さんたちとも大いに盛り上がり、応援しまくりなのでありました。(狂)

今日の彼らはなんだかイケそうな気がする!と、確信。
・・安心したせいか、第2試合までの空き時間に近くの城址が気になりだすのです。(発病)
奥方や親さんたちも自分の行動パターンは解析されており、ご理解をいただいております。

・・ということで近くの中山城までちと散策に出向くのでありました。

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中山城へは麓の富士神社から墓地を経由して登って行きます。

どうやら中山城主郭部への案内標識や石碑などはなさそうです。
畑仕事をされていたお父さんから登り口を教えていただきました。
お父さん:「なんもねんけんど・・」 (はい・・。ご助言ありがとうございます・・。)

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富士神社の由来書き板には中山城に関してちょっと触れられています。

h-nakayama (11)先の由来書き版の古い方が読みやすいので掲載いたします。

中山城は三木良頼の娘婿の岡本豊前守が永禄年間に居城しました。
しかし、良頼の嫡男・三木自綱に殺害されてしまったようです。
富士浅間大権現を信仰し盛んに祭事を行った、といわれる豊前守。
その後も村人によって信仰が維持され、現代に至っています。

岡本氏は、元々飛騨の守護・京極氏の被官だと考えられています。
三木直頼は婚姻策にて良頼の娘を嫁がせて岡本氏を親族としたようです。
三木氏が驚異的な早さで飛騨に勢力を築いた要因がここでもうかがわれますね。

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最初のピーク1に現われる切岸。

この上の郭が主郭部とされ、比較的広い平地が確認されます。
西側には土塁のような仕切り的な遺構がみられます。
切岸はあるものの削平は甘めで郭の端部も不明瞭です。

そしてそのまましばらく尾根を西側に降りて行った先にも遺構が存在するようです。
以下に第2ピークへの遺構を確認していきます。

h-nakayama (6)
浅くてわかりずらいですが堀切状の遺構です。

第1ピークを先程の主郭部、とするならこの堀切は第2ピークとの鞍部に敷かれたものです。
堀切にはこれまた不明瞭ながら土橋っぽい遺構もみられます。
両方のピーク間をつなぐ遺構部だと思われます。

h-nakayama (5)
第2ピークの手前に設けられた切岸の様子。

h-nakayama (2)こちらがピーク2の頂部の土壇。

h-nakayama (3)
こちらのピーク部は削平・端部の整形はやや曖昧な感じです。

標高としてはこちらのピーク2の方が高く、詰めの段と思われます。
縄張り図を描きましたので下に↓図示してみます。
よくもまぁ、そんな描く時間があったものですが・・そのへんは・・(恐)。

nakayamajyounz.jpg
中山城縄張り調査図(作図:久太郎)



・・さて、再び中山中学校の体育館に戻ります。

チームはその後の準々決勝戦でも接戦を切り抜け勝利。
ベスト4に進出して、大会2日目につなげました。

h-nakayama (14) 2日目は高山ビックアリーナが会場。

2日目は準決勝戦で敗退してしまいましたが、3位決定戦では勝利。
惜しくも東海大会への出場は逃しましたが、岐阜県3位、という立派すぎる結果に止まない拍手を。
たくさんの素晴らしいバスケットマンに感謝です!

h-nakayama (19) h-nakayama (20)

h-nakayama (16) h-nakayama (17)

h-nakayama (21)

高山ビックアリーナ内の公園には面白い子供たちの銅像とそれに合わせた詩が楽しめます。
今日まで、頑張ってきたチームの子供たちには、この言葉がピッタリかな?
受け売りですけど、贈る言葉としたいです。

h-nakayama (15)

「泣いても笑っても 今はみんなまだこども そのままゆっくり大器くなって」

h-nakayama (22)
「天真爛漫自分らしく育ってください 健康でいてください 母からのお願いです」

父からもお願いです!(笑)

バスケの記事か城の記事かよくわからない感じで終わります!


中山城主郭部と伝わるピーク1を示しておきます。

越前 朝倉山城 🏯朝倉一門・文武の将、景連の居城

越前 朝倉山城 (福井県福井市深坂町・朝倉山)

朝倉山城は、その名前の通り、かつての朝倉一門、朝倉景連 の居城でした。
景連は一乗谷奉行衆の1人として、また同名衆として朝倉宗家を支えた人物です。
通称「玄蕃助」と呼ばれています。

e-asakura (21)雨上がりの朝倉山の山容、お椀を伏せたような形です。

e-asakura (20)
日吉神社脇から登山道があります。駐車場も数台停められるようです。

e-asakura (19) e-asakura (18)
本来なら愛車で登って行きたいところですがチェーンがかかり・・、徒歩です・・。とほほ。

ハイキングコースには地元の小学生によるお手製案内標識が要所要所にあります。
余りにもかわいらしく、元気を貰えたので紹介しながら行きたいと思います。
朝倉山の標高は173mとさほど高くはありません。

どうも朝倉一門衆は高い山城を避ける傾向にあるようです。(文化人系ですから?)

e-asakura (16)
この看板があったおかげであるモノを踏まずに済みました。

e-asakura (17) 道は折れながら登っていきます。

e-asakura (22)
危うく踏みつけそうになったヒッキー君です。

久しぶりにご対面したので心の準備ができていない・・。けど・・。
なんだか雨を喜んでいるような、なんとも至福のポーズをしていました。
一見、グロテスクですが、よくよく観察すると、かわいい奴です。

e-asakura (23)
この言葉に結構、励まされました。

この早朝、マラソン大会を走ったせいか、こういった励ましが何より嬉しい!
アスリートの心をくすぐるポイントを押さえていますね。
そしてこちら!↓

e-asakura (24)
「ゴールは目の前」の言葉に思わずペースが上がってしまう・・。

e-asakura (25)
励まされ、どうやら主郭部に到着したようです。

訪問した時期でしょう、かなりの草が伸び放題の、しかも濡れ放題・・。
ここまで来た以上、この中にダイブしなくてはいけません。
とりあえず展望台らしきところまで泳いでいきます・・。とほほ。

e-asakura (1)丸太で組まれた手作り風展望台です。

冒険心をくすぐられる構築物に童心の頃のときめきが蘇ります。
登りたい衝動に駆られるも、まずは図面付きの案内説明版を読みます。
子供に帰るのはその後でゆっくりと・・。

e-asakura (2)朝倉山の山頂に主郭を置き、周囲に郭を配した山城です。

朝倉氏が滅びた後にも一向一揆軍も立て籠もったようです。

朝倉義景は永禄4年(1561)に、この城の近くの三里浜において盛大な犬追物を開催したようです。
その盛大さは鎌倉時代の源頼朝による由良が浜の犬追物も及ばないものと賞賛されたようです。

その際、奉行職に任じられた朝倉景連は500余人の家来と共に、主君の義景を上回る豪勢な出で立ちで現れ、周囲を驚かせました。
景連は伝統行事に傾倒する主君・義景の気持ちを組める文化人でもあったようです。

また景連は弘治元年(1555年)朝倉宗滴を総大将とした加賀一向一揆攻めに従軍、加賀・津葉城を落とします。外交面でも貢献したと伝わり、執務奉行としても有能であった面がみられます。

・・さて、ではワクワクの展望台に登ってみることにします。

e-asakura (3)
雨に濡れた丸太は滑りやすいので注意が必要。

e-asakura (4)
どことなくツリーハウスのような遊び心がいいですね。

e-asakura (5)展望台からの眺望です。あ~悪天候で海面がよくみえません・・。とほほ。

雨上がりのため視界が悪いのですが、それでも抜群の眺めでした。
晴天には美しい日本海と三国方面から福井市方面まで眺め渡せたのでしょう。
これは晴れた日にもう一度来たい城ですね。

e-asakura (13)
戦時中、山頂付近には防空監視哨も設けられました。

防空壕跡らしき穴もあるとの事でしたが、生い茂った濡れ草で確認できませんでした。・・とほほ。

e-asakura (8) e-asakura (7)
本丸部には2ヶ所に虎口が確認できますが、防空監視哨の痕跡かも・・。

e-asakura (10)
本丸と二郭との間には一部に横堀が巡っているようです。

e-asakura (9)
二の郭にはテレビの送信施設が設けられているので一部壊変されているようです。

e-asakura (15)
本丸と腰郭の間には若干ですが石積?石垣?がみられました。(草を掻き分け発見!)

e-asakura (14)当時のものどうかはともかく、土留め用の石積と思われます。

e-asakura (12) 

こういったアスレチック的な物見展望台は設置場所さえ考慮していただければウェルカムです。
ただ、メンテナンスが大変なんですよね・・。耐久性があるのはせいぜい10数年でしょうから。
しかし鉄筋コンクリート製よりは味があっていいと思うのです。

とほほ三昧の山城紀行でしたが、それを上回る魅力がある山城、朝倉山城でした。
今度は(下草が刈られ)晴れた日にいつか再来したいと思いました。




越前 安居城 🏯姉川の合戦、朝倉方総大将・景健の居城

越前 安居城 (福井県福井市金屋町)

元亀元年(1570)、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が激突した「姉川の戦い」
浅井長政が浅井軍の総大将であることは周知の通りですが、朝倉軍の総大将となると・・。
意外と知られていませんが、朝倉景健が、その人です。

姉川を挟んで対峙した両軍間において、開戦の火蓋をきったのは、朝倉景健軍。
そして総崩れの敗走を開始したのも景健率いる朝倉軍であったと伝わります。
まさに姉川の戦いの行方を担った最重要人物、といっても過言ではありません。

今回はその朝倉一族での重要人物、景健が居城、安居城を訪ねました。

e-agojyou (1)雨が滴る中、安居城に到着、県道からの姿を確認します。

e-agojyou (2) 与須奈神社の北から迂回して駐車場へ。

こちらの与須奈神社も安居城の出丸跡と推定され、見張り台としても良好な位置にあります。
神社と主郭部の間にも堀切の址が見られたそうですが、整地に伴い消滅したとのことです。

e-agojyou (3)
以前あった廃業ホテルが整地され駐車場になっていました。(堀も整地された、ということ・・)

e-agojyou (4) 池に沿って登城コースが整備されています。

e-agojyou (5) e-agojyou (6)
池ではカモさんたちによるシンクロの練習風景が見られました(かわいかったので)

e-agojyou (7) 雨の日の電気柵は特に注意!。

e-agojyou (8) 山の手に向かって登って行きます。

e-agojyou (17)
山の斜面が結構な急斜面になっているのがわかります。

e-agojyou (9)歩いて5分足らずで主郭部に到着。わりと楽勝です。

雨も一旦降り止みました、なんてラッキーなんでしょう!
ちなみに自分、晴男でも雨男でない、曇男と呼ばれる珍しい中間タイプの人間です。
そんなことはどうでもいいのです。

e-agojyou (10)

安居城は福井平野を一望できる日野川と一乗谷流れる足羽川の合流地点に位置しています。
城址からの見晴らしは抜群、古くから要害の地として、また交通の要衝として重要視されました。
南北朝期に越前守護・斯波高経の家臣・細川氏が城を築いたのが創築とされます。

安居城は建武の中興における戦いより機能していた、ということになります。

e-agojyou (11)「想像図」とはいえ、その出来栄えの素晴らしさは必見の価値あり。

張り出した尾根一帯を削平したいわゆる関所・陣屋タイプの城であったようです。
背後の高い山には遺構が見られない、とのことで「山腹部居館」という表現も当てはまります。
南北朝期からあまり改修をうけずに戦国期まで引き継がれたような縄張りですね。

e-agojyou (12) 主郭部はよく削平され城全体がテラスのよう。

e-agojyou (16)雨もしたたるよき石碑・・とでもいいましょうか。

自治会様方の努力によって案内看板、想像図などが立てられており、訪問しがいがあります。
石碑も夏草に埋もれることなく管理されているようで手入れがされています。
麓の金屋町や下市町の横手から簡単に登ることができるのもうれしいですね。

e-agojyou (13)
虎口を内側からみます。

e-agojyou (15)
北東部には土塁がよく残っていました。

e-agojyou (14)
敢えて尾根を掘り切らず、山側斜面際いっぱいまでスペースを確保しています。

姉川合戦図屏風(福井県立歴史博物館:所蔵)に描かれた総大将・朝倉景健の姿は・・。
自軍の劣勢を感じ、自ら戦おうと馬にまたがるところを従者に引き留められる様子が描かれます。
果たして彼は主君・義景の代理指揮官として役不足だったのでしょうか?
(義景自身の采配能力も疑問ですが・・)

・・そうとも言えないようです。

同年9月20日の下坂本の合戦では織田家臣の森可成森長可の父)と信長の弟・織田信治ら750余人を討ち取るという戦果を挙げています。

そして天正元年(1573年)8月13日の刀根坂の戦いでは奮戦して、切腹を覚悟する主君・朝倉義景を励まし越前へ逃がすことに成功しています。

朝倉家が滅ぶと信長に降伏し、姓を安居と改め、所領を安堵されます。
しかし翌年、越前で一向一揆が起きると一揆方に降伏。
天正3年(1575年)、織田軍の越前再侵攻の際は、織田軍へと再び叛意。
一揆の指揮官・下間頼照・下間頼俊らの首を持参して信長に許しを乞うも認められず、自害させられました。

哀れな最期ですが、一族の中で信頼して朝倉軍を託せるのは彼をおいて誰もいなかったのでしょう。
腰の重い主君・義景や腹に一物を持った景鏡らに代わって奮戦している姿が見られます。
自分の目には景健が朝倉宗家のため懸命に応え、努力している忠義の士と映りました。

再び降り出した真夏の雨がちょっぴりもの悲しさをかもしだすのでした。


安居城の主郭部を指しておきます。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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