若狭 高浜城 🏯若狭湾に突き出した水軍仕様の平山城

若狭 高浜城 (福井県大飯郡高浜町事代・城山公園)

【若狭武田氏と被官国人衆の城址を訪ねて・その5】
-逸見氏居城・高浜城を訪ねて-

♪今は~ もう秋~ 誰も~ いないう~み~・・・(^^♪
・・と、のっけからトワ・エ・モワのヒット曲が見事にピッタリな海水浴場に到着。
この歌詞の光景通りなのに、歌を唄うのが似合わない私めでございます。

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その名も「城山海水浴場」です。

まず最初に言いたくて仕方がないのは、こちらは、そう!、
(夏なら)海水浴と城歩きがセットで楽しめる夢のような場所なんです。
「海パンで行ける城」、いかがでしょうか?

w-takahama (12)海に突き出した高浜城を海岸から眺めます。

さて、城に登る前にこちら、名勝で有名な高浜八穴(たかはまやな)をご紹介します。
海水の浸食によって形成された若狭湾独特の隠れスポットです。
特に下の写真の明鏡洞はなんとも言葉にしがたい風雅な奇岩です。

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w-takahama (11)将軍・足利義満も何度か立ち寄ったという明鏡洞。

自分は今回、高浜城に来たのですが、この美しさにとても感銘をうけました。
冒頭で眺めた高浜城の姿とこの写真の立ち位置は同じ場所から撮影しています。
高浜城は自然美豊かな風光明媚な場所に位置していることをお伝えしたくて・・。

w-takahama (1)城山公園の駐車所にある説明版です。

高浜城は永禄8年(1565年)、逸見昌経によって築かれました。
永禄4年(1561年)守護武田氏に反逆した昌経は砕導山城(さいちやまじょう)に籠もるも落城します。
後日、再起を図る昌経は高浜城を築き新たに本拠としました。

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高浜市南部の式内佐伎治神社背後の山にある砕導山城。
(今回未登です。機会があったら次回は登ります)

織田信長の勢力が若狭に伸びるとこれを迎え越前侵攻に従います。
高浜城には湾内に水軍も擁していました。
内藤氏同様、海上よりの越前攻めに協力したようです。

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空堀を利用したと思われる公園内の通路。

高浜城は現在、城山公園となっており、公園工事に伴い遺構は旧態をとどめていません。
切通された堀切道ですが、当時の規模がどの程度のものだったかは不明です。

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本丸の説明版とその背後の主郭櫓台址。

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主郭部からは湾内の様子も伺えました。

w-takahama (8)そして石碑で~す(^-^)/。

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主郭部からは下の碁石ヶ浜へ降りることができます。

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絶壁の岩場に打ち寄せる波、海からの風が気持ち良かったです。

w-takahama (10)もう一つの半島、出城、といわれる天王山にも登ってみます。

さきほどの明鏡洞はこの半島山の下にあります。
軍船を格納する湾として波も少なく、絶好の空間になります。
昌経の目の付け所はなかなかのものですね。

w-takahama (6)腰曲輪に囲まれた出城の主郭部を見上げます。

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のぞき込むとそこは絶壁!怖~い、でも、すご~い!w( ̄o ̄)w

海に突き出た2つの半島上を巧みに利用した縄張りです。
平山城でもあり水城でもあるユニークかつ実戦向きな城といえましょう。
城址からの海原の眺めはどこをとってもすばらしいものがあります。

どちらかというと城探索よりも観光気分での散策が楽しい城でした。
釣り人の竿先の動きに見入ったり、出入りする漁船をいつまでも眺めたり・・。
明鏡洞に見とれたり・・。

もう夏のビーチはここで決まりですね。

若狭武田氏、四老の一人、逸見昌経の居城、高浜城でした。

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若狭 天ヶ城 🏯小浜湾に睨みをきかす重臣・内藤氏の居城

若狭 天ヶ城 (福井県小浜市福谷・天ヶ城山)

【若狭武田氏と被官国人衆の城址を訪ねて・その4】
-内藤氏居城・天ヶ城を訪ねて-

今回訪れた城は若狭武田氏の重臣・内藤氏の居城と伝わる天ヶ城です。
内藤氏は武田氏から若狭守護代や小浜代官などに任じられた重臣です。
代々「筑前守」の官途を名乗った内藤筑前守系が天ヶ城を居城としたと伝わります。

tennga (14)湾内を出港する船を送り出している天ヶ城。

若狭湾の中でも周囲を陸地で囲まれた小浜湾はとても穏やかです。
そしてとても美しいです。海原をいく船の引き波がまたいい味を出してくれます。
そんな美しい小浜湾を抱えるような目線に位置する山が天ヶ城山。

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標高266mは比高が約260mでもあります。

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福谷口からの天ヶ城の登り口を選択します。

天ヶ城への登り口は尾根ごとにいろいろあるようです。
羽賀の羽賀寺から登るコースか、今回の福谷からのコースが手頃でしょう・・。
・・と地元のおじちゃんから教わりました。

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ダート林道を行き止まりまで行ったら広場に駐車して登城です。

なんだかこのコースは四駆向きです、心なしか相棒も楽しそうです。

tennga (2) ロープを伝って急斜面を登ります。

足がずり落ちてしまいそうな急斜面でした。
整備された登城コースもいいですが、このようなワイルドコース、ワクワクします。
攻めてる感あっていいですね。

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途中で振り返ると、小浜湾が見えてきます。

tennga (4)尾根をざっくり遮断する大堀切。(゚△゚;ノ)ノ

二重堀切となっているのですが、当然、フレームに収まりません。
上の写真の堀切が連続で2条もある、と思っていただければ結構です。
曲輪側との高低差は15mくらいありそうな大きな堀切でした。

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本丸主郭部に到着しました。

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細長い尾根を削平した曲輪が続いています。

tennga (5)天ヶ城(てんがじょう)を「天下城」と表現ですね。

内藤家は佐渡守系、筑前守系、下総守系、と3家に分家していたようです。
通説では惣領家は恐らく佐渡守系であったといわれています。
天ヶ城は武田四老の一人、内藤重政(勝行とも) の居城と伝わります。

天正三年(1575)の越前一向一揆討伐戦には織田方として参戦。
海上より攻撃を加える若狭衆に名を連ねて活躍します。
当時の織田軍にあって日本海側の貴重な水軍勢力だったのではないでしょうか。

tennga (7)頂上からは小浜城と後瀬山城が確認できます。

見渡せば若狭水軍が出撃していく様が想像できそうです。
上りも下りも非常にキツイ山城でしたが、楽しく、見応えある山城でした。
そして、麓の小浜湾の景観は本当に美しかったです。

粟屋氏と内藤氏に触れ、残る武田氏四老衆の2城も見ていきましょう。

若狭 小浜城 🏯小浜湾の三角洲に築かれた近世海城

若狭 小浜城 (福井県小浜市城内・小浜神社) <県指定史跡>

【若狭武田氏と被官国人衆の城址を訪ねて・その3】
-若狭の近世城郭・小浜城を訪ねて-

若狭という国は日本海に面した東西に細長い形をしています。
面積も旧国名の中では和泉国に並ぶ最小クラスなのではないでしょうか?
(・・調べてませんがね)

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小浜の港でお弁当タイムです。

今回は若狭守護・武田氏とその被官国人衆の・・というテーマからちょっと外れます。
若狭といったら近世城郭はここ小浜城が有名です。
後瀬山城まで来たので寄って見学していきましょう。

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本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立されています。

意外にも神社の駐車場がなく、軽自動車で神社路肩に駐車してしまいました。
ですので見学時間、限定15分というタイムツアーになりました・・。
一眼を抱えてあちこちダッシュしている姿は、まるで怪しい戦場カメラマンです。

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まずはいきなり天守址へ向かいます。(時間がない!ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3)

小浜城は江戸時代初期、京極氏によって海と河川を取り込んで築かれた海城であります。
不便な山上の後瀬山城にかえて京極高次の代に着工されました。
2代にわたって普請工事が行われますが、完成を見ずして京極氏は出雲・松江に転封されました。

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替わって入封した酒井氏が大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営。
幕府大工頭・中井正純が三重三階の天守を設計しました。
8年後の1642年に小浜城は竣工し、以降、若狭酒井氏の居城として明治を迎えます。

w-obama (1)内側から見た天守台。なかなかです。

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小浜城天守台に上がってみました。

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民家がすぐ足下まで迫っていますので見学しずらい所はありますね。

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なるべく民家の敷地に入らないようにしたいのですが、お許しを・・。

w-obama (9)見事な算木積の天守台石垣はどっしりとした安定感があります。
(広角レンズってこういう時はホントに面白いレンズですね~。)



ここにも寄ってきました。

小浜の雲城水 【平成の名水百選】 (福井県小浜市一番町 )

小浜漁港横の雲城公園内に自噴する湧き水です。
環境省が選定する平成の名水百選にも選ばれています。

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湧き出る水は1年を通して13℃前後に保たれ、水を汲みに来る地元の人々で賑わっていました。

w-obama (12)雲城水、というようにお城と関係があるようです。

小浜城は北川と南川に挟まれた中州に築城されました。
「雲の浜」と呼ばれて、雲浜城の別名を持ち、この別名から雲城水と名付けれたそうです。
とってもなめらかで、のど越しのよい、おいしい水でしたよ。

若狭 後瀬山城 🏯若狭を掌握する巨大城郭

若狭 後瀬山城 (福井県小浜市伏原・後瀬山) 《国指定史跡》

【若狭武田氏と被官国人衆の城址を訪ねて・その2】
-若狭武田氏居城・後瀬山城を訪ねて-

同じ福井県でも越前国と若狭国はやはり風土が異なるように感じます。
自然面では越前が山と穀倉地域なのに対して、若狭は海と漁業港域、という感じです。
文化や方言も越前が北陸文化なのに対して、若狭は関西文化の京訛り、という感覚。

そんな若狭国の中心に位置する守護職に相応しい城、後瀬山城を訪ねてみました。
あまり時間が取れなかったので登山口から主郭部までの往復のみの見学です。
ですので軽いトレッキング気分で参りましょう。

notiseyama.jpg後瀬山城が聳える小浜港を中心とした町並み。

写真は小浜城本丸より望遠にて撮影しました。
山頂から尾根全体に多くの遺構が存在している若狭国最大規模の山城です。
小浜の湊町を見渡せる位置にあることがわかります。

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主郭には愛宕神社が祀られており、北東麓から整備された参道が続いています。

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説明案内板とパンフレットが用意されています。(右下の郵便受けの中に)

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非常に登りやすい道で、何人かの歩き人とすれ違いましたね。

notiseyama (4)主郭手前の石段と郭が見えてきました。

石垣も見えてきて、ちょっと興奮してきます。
主郭部は三段になっており、上の写真は三段目から見ています。
上段と中段に石垣が築かれているようです。

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主郭部の頂上本丸に到着です。愛宕神社が祀られています。

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郭内は広く、周囲に石垣を用いており、西側にはL字型に石塁が付いています

写真では2、3段に積み上げられた石垣ですが1個1個が巨大です!
どのくらい大きいか、というと、

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こんな感じです。・・すみません、変なヤツが映り込んでいますね。

notiseyama (6)そして、待っていました(自分だけですが)!石碑です。

武田氏城址と彫られているのがいいですね。(^∇^)


notiseyama (10)主郭部を取り巻く苔むした石垣がよく残っています。

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notiseyama (11)この石垣は丹羽長秀の時代に改修された時のものと推測されています。

後瀬山城は本丸を取り巻く石垣も素晴らしいのですが、見所は他にもあります。
主郭部北西に連なる幾段にもわたる帯曲輪。
そして山の西側尾根には20条近くの畝状竪堀群が残っています。

notiseyama (2)説明版に示された縄張り図です。

また反対の東側の山腹には長大な竪堀が数本あり、これも見所の一つでしょう。
時間の都合で見られず下山しましたが次回、機会があれば見てみたいものです。
(本当に見たかった・・。゚(゚´Д`゚)゚。)

後瀬山城は大永2年(1522年)武田元光によって築かれたといわれています。
若狭守護・武田氏5代の元光から信豊、義統、元明の4代の居城として戦国期に君臨しました。

若狭武田氏は次第に勢力が衰え、被官らのの反乱に加え越前の朝倉勢の侵攻を受けます。
しかし若狭に勢力を延ばした織田信長は越前の朝倉義景を滅ぼし、元明は信長の旗本となります。

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主郭部からのぞき見える若狭湾の様子。

notiseyama (15)小浜の町の眺めもなかなかいいですよ。


ここにも寄ってきました

武田元明の墓 (滋賀県高島市マキノ町海津)

本能寺の変が起こると、勢力の回復を目論んだ元明は、明智光秀に呼応して近江へ侵攻。
城主不在の丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させます。
しかし山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗死すると、状況は一転してしまいました・・。

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高島市マキノ町海津にある宝幢院を訪ねました。

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こちらには武田元明公のお墓があります。

羽柴方に恭順の意を示そうとした元明でしたが海津の法雲寺で謀殺されてしまうのです。
お寺の説明文や一説からは秀吉が謀殺したとも、また自害したともいわれています。

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境内の北の線路に近い場所におられます。

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武田元明公の墓前にて、・・合掌して参りました。

今回の若狭の城見学は武田氏に興味をもったことがきっかけでした。
滅亡した武田氏の末路を想うともの悲しい気分になります。
でも今はこのような自然豊かな地で弔われているのが救いなのでは・・と感じました。

「30kmの壁」を突き破る!

ぎふ清流レクリエーションフェスティバル・マラソン大会に出場

メイン会場:長良川公園・高橋尚子ロード
平成29年10月15日(日):3時間走 AM9:30スタート
参加人数:556人(全種目合計)、内3時間走者:316人

seiryuu3h (5)高橋尚子さんの金メダルシューズを型取ってあります。

seiryuu3h (4) 憧れの高橋尚子さん、Qちゃんコースを走ります。

天高く、晴れ渡る穏やかな秋空の下・・。
・・といきたかったのですがあいにくの小雨日和でした。
長良川公園にて3時間走にチャレンジしてきました。

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今回は来る島田大井川フルマラソン(静岡県)を見据えてのトレーニングの仕上げです。
いわば、練習の成果を試すテストマッチ、といったところでしょうか。
本番2週間前、という絶妙のタイミングでいい刺激になりそうです。

seiryuu3h (8)金華山の麓での試し合戦になります。

今回も戦友としてご一緒していただけるのは市民ランナーの鑑、Y吉さんです。
Y吉さんも11月に関西地方の都市型フルマラソンに初挑戦する予定になっています。
いわば、二人とも共通の目標を持った同志、ということになります。

練習大会、とはいえ二人とも真剣に取り組む意気込みです。

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コースはなんの変哲のない、どこにでも見られる河川敷です。
しかし、自分の住む街にはこのような長くて広いランロードはありません。
こんな広い道を岐阜城を見上げながら走れるなんて幸せだな・・と思うのです。

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seiryuu3h (6)コースは長良川公園の堤防の下。

長良川右岸沿いを往復5kmのコースをひたすら周回します。
仮に時間内に30km走るのが目標ならば6往復する、といった感じです。
さすがに岐阜城のお膝元でも飽きてしまいそうですが、どうなることやら・・。

<序盤>(スタート~10km)ゆっくりな出だし

ウォーミングアップを兼ねてゆっくりめで走りだします。
Y吉さんとおしゃべりしながらのお気楽気分ですがあくまでレースペースを意識。
ペースを設定し、維持することに専念します。km/5分20秒がいいペースかな?

<中盤>(11km~20km)ペース維持に専念

ほぼ同じペースを維持しながらコツコツと距離を踏んでいきます。
Y吉さんもほぼ同じペースで並走。「なんだか安心するなぁ。」
このペースはハーフマラソンペースよりゆっくりなのでまだ余力があります。

<終盤>(21km~30km)まだまだ余力が

25km以上を連続で走るのは未体験ゾーンになります。
同じペースで走っているようでも少しずつタイムが遅れていきます。
水分補給を止まって飲むのも影響してるかもしれません。

<ラスト20分>(31km~34km)

とりあえず、30kmを2時間40分で走れています。一安心です。
ここまで疲労も少なく、気になるトラブルもこれといってありません。
「30kmの壁」といいますが、余力を抑える気持ちが効を奏しています。

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結果:3時間走で約34km(フルマラソン完走距離まであと8km)
平均ペース:km/5分18秒

時間が許せば42.195kmを走ってしまいたい、と思いました。
Y吉さんはランウォッチの調子が悪く、途中でバッテリー切れしたようです。
しかし、凹むこともなく、充実した様子でゴールしてました。

なんとなくフルマラソンの疑似体験をできた貴重な練習大会でした。
もう少しペースを上げていたら或いは終盤オーバーペースになっていたかも・・。
ちょっと遅いかな?くらいがちょうどいいペースだとわかりました。

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スタッフの皆さん、雨の中、本当にありがとうございました!

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こういう輩には近づかないようにしたいものです。(写真提供:Y吉さん)

seiryuu3h (1)しまだ大井川マラソンinリバティの案内が届いてきました。

さぁ、これでちょっと自信がもてました。・・楽しみです。
人生初のフルマラソンに挑む準備は整いました。
あとは当日までに筋力を落とさず、疲れを抜きながら万全な調整で挑みたい、と思います。

若狭 国吉城 🏯攻め寄せる越前朝倉氏を撃退し続けた堅城

若狭 国吉城 (福井県三方郡美浜町佐柿・城山) <町指定史跡>

【若狭武田氏と被官国人衆の城址を訪ねて・その1】
-粟屋氏居城・国吉城を訪ねて-

朝夕がちょっと肌寒くなってまいりました。
長袖か半袖か・・、衣装を選ぶのに、朝の貴重な時間が過ぎていくこの頃です。
そんな選ぶほどの服もないのに・・。

ドライブがてら一泊で福井県まで行ってまいりました。(またか・・)
一昨年以来の若狭地方をのんびりとです。・・ということで、
今回からは福井県、若狭での城紀行を全7回に分けて綴っていきたいと思います。
(のんびりの割に7つもの山城は回れませんが・・)

簡単に行きたい(´∀`)σ・・、と思います。はい。

kuniyosi (16)敦賀市方面からの国道から見上げる国吉城です。

城山の真下をその名も国吉城トンネルが通っています。
国吉城は弘治2年(1556年)粟屋越中守勝久がかつての古城址に築きました。

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まだ午前6時。どうやら一番乗りのようです(´∀`*)。

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国吉城は佐柿集落の東方に聳える標高197.3mの城山山頂に築かれています。
山頂の主郭から北西に伸びた尾根に段々と曲輪を配してあるようです。
西尾根に伝二の丸とされる出丸、麓には城主の居館という構成です。

kuniyosi (2)磨かれた鏡のような石碑。自分が映り込まないように撮影・・。

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居館部は散策気分でのんびりと見学できます。

kuniyosi (13)よく整備された実にさわやかな雰囲気です。

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山頂へは折れ道を登って行きます。

kuniyosi (11)主郭部に入ると虎口と堀切が見学できます。

堀切の部分は現在発掘調査中なのでしょう。
石積が確認でき転用石と思われる石仏も何体が置いてあるようです。

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主郭虎口部の石垣(石積)を観察してみます。

石積は主郭の周囲にも所々残っており、やはり整備途中なんでしょう。
土嚢袋のほうが多いのが気になりました。
切岸の補強のため土留め用に置かれた感じがありますね。

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主郭部・本丸に到着です。朝陽が眩しい!

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kuniyosi (6)麓の磨石もいいですが、昔からのこちらの石碑が好きですね。(#^.^#)

kuniyosi (8)朝陽の木洩れ日を浴びる本丸。

主郭には、北と東に虎口、南端に櫓台らしき高まりが残ります。
そらぞれから麓の様子が窺えますので、ちょっとのぞいてみましょう。

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東虎口方面には美しい若狭湾が。

kuniyosi (10)北虎口の西端部からは、美浜町の中心部が見渡せます。

朝陽を浴びている遠くの山々と海が本当に美しかったです。
うっとりしていて耳を澄ませば、麓からの生活音が聞こえてきました。
ここに城が築かれた理由がおのずと理解できます。

粟屋勝久若狭国守護職武田元明の重臣としてこの地を治めていました。
永禄6年(1563年)から12年(1569年)まで、度々越前朝倉氏の侵攻を受けますが、これを尽く撃退。
永禄11年(1568年)には武田元明朝倉氏に越前へ連れ去られるも、降伏勧告を退けて単独で籠城。

元亀元年(1570年)には越前の朝倉氏を攻める織田信長が国吉城に入城。
若狭衆を先陣として勝久らを越前に先発させます。
この戦いで粟屋勝久は一乗谷一番乗りの武勲を挙げ、幽閉中の旧主・武田元明を見事に救出します。

その後、若狭に所領を与えられ丹羽長秀の与力となりました。
若狭武田家にこの人あり、といった感じの勝久です。
武田氏による若狭国領有は叶いませんでしたたが、主君に誠実な忠臣だったようですね。

若狭の行く末を信長に賭けた粟屋勝久の居城、国吉城でした。

早朝での訪問だったため史料館に寄りたかったのですが叶わずでした。
次回は麓の史料館にも寄ってみたいと思います。
次は若狭守護・武田氏の居城、後瀬山城を目指します。

美濃 広恵寺城 🏯飛騨・木曽間の古道を押さえる苗木城前身の姿

美濃 広恵寺城 (岐阜県中津川市福岡町植苗木・城ヶ根山)

ススキに赤トンボ・・。お月様・・。秋ですね。
でも耳を澄ませばほんのかすかにツクツクボウシ(^^♪・・。
また来年まで憶えていますからね。

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以前には見られなかった案内標識です。地元の方々の愛を感じます。

今回は中津川市の北、旧福岡町の広恵寺城の見学をしてまいりました。
麓には調整池の広恵寺堤が満々と水を湛えてとても美しいのです。・・普段は・・。
しかし、今回は堤の工事のため水がすっからかんに抜かれていました・・( ;∀;)

koeji (1)広恵寺城の手前の堤池は水が抜かれていました・・。

まぁ・・、これはこれで滅多に見れない原風景なのだと思います。
工事現場の皆さん、ご苦労様ッス!
ということで登城口に向かいます。

koeji (4)立派な石碑に超感動するのであります。(゚□゚*)

これも以前訪れた時にはなかった石碑です。
祀られている、というイメージの存在にやはり地元の方々の愛着を感じるでしょう。
ご丁寧に、東へ600m、との案内も彫り込まれていますね。

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城ヶ根山は全体が露出した岩に覆われています。

まるで天然の石垣のようです。付近の笠置山山系によくみられる地形です。
もちろん自然地形なのですが存在感のある岩ばかりです。
他の城だったら、物見岩、とか、〇畳岩とか名前がつきそうな露岩があちこちに。

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大手道を見守る祠。出会えたら幸運かも。

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頂上が近くになるにつれ、斜度がきつくなっていきます。

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中央の窪地がなんとなく大手口に感じながら通過していきます。

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連続で現れる虎口状の遺構です。

これはあくまでも目を凝らしての観察ですが・・。
尾根筋と平行に開口している姿、この2つ重ねがおそらく大手虎口なんでしょう。
脇には腰郭も配されています。

koeji (29)二ツ森山山系の素晴らしい眺めが堪能できます。\(^o^)/絶景!

城の南側は一部、採石の削り址が間近まで迫っており、断崖絶壁になっています。
そのため、遮るもののない風景が楽しめます。
現在は消失していますが、かつて「腹切り岩」なる岩がこの先にあったようです。

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ちょっとこれ以上へは足がすくんでしまひまふ・・。(´Д`lll)

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そして、主郭部に到着です。ごついですが結構広~いのです。

主郭部内は地質のせいか傾斜も伴い、削平も落ち着かない様子です。
郭内に明確な段差は見られないので基本的に単郭タイプの城ですね。
唯、東側には少し高台になった一画が見られます。

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主郭部を西から北方面に取り巻く腰郭の切岸。

北尾根筋からの侵入にも備えていたのでしょう。
法面にはしっかりと切岸が全体にかけられています。
それには大切な水の手を守る意図も感じられます。 

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井戸曲輪にある「姫井戸」。

写真の中央の窪みが今でも枯れることがない、という「姫井戸」と呼ばれる井戸址です。
おわかりでしょうか・・。
傍らの樹木が今でも蜘蛛の足のような根で井戸を守っているのです。(ちょっと感動)

koeji (13)そして、城中最大の圧倒遺構、大堀切です。

やや時代が古いせいもあってシャープさに欠けますが幅が広い堀切です。
堀底には土橋が設けられていたであろう址があります。
端部は竪堀となって尾根を遮断しているようです。

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露岩を上手く活用しての堀切は見応えがあります。

こういった地形が防御に活かされた、とは思います。
しかし逆に地形に規制され明確な郭を構成できなかったことも事実でしょう。
戦国期以前の貴重な遠山氏系城郭の姿、なのかもしれません。

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斜面(法面)の露岩は逆茂木の役割も果たせそうです。

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東の尾根には続けて2条の堀切も確認されます。

上の写真は城の東を画す、主郭からの3本目の堀切です。
ちんの峠、木曽方面に対する防備、とも解釈できましょう。
下図に縄張り図を示します。(また余計な彩色ですが・・)

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広恵寺城は元弘(1331~1333)から建武(1334~1335)年間頃の築城、とされます。
築城者は遠山景長で、或いは彼の父、一雲入道景利とも伝わります。

大永年間(1521~1527)から天文年間(1532~1554)に現在の苗木城に本拠が移されます。
当時の苗木城は「高森城」と呼ばれていました。
遠山直廉は、木曽路の重要性に着目、岩村城との連絡もしやすい苗木城を本拠としたようです。

約200年もの間、遠山氏の居城として存在していたのでしょうか、驚きです・・。
遠山氏の恵那郡一円への勢力拡大、この地が起点であったと思うと感慨深いです。
「広恵寺」の名は城の南東麓の寺院の名にちなんだものです。

広恵寺城が築かれた地は、北の飛騨口と木曽への西古道を押さえる要地でした。
実際、何度か飛騨勢との合戦も伝わっており、また信濃の勢力の侵攻も受けたようです。
城には落城の悲話も伝わっており、平穏無事でなかったことを物語っています。

城友・日向さんからの情報によれば・・、
落城の際に川に身投げをした、と伝わる乙姫淵の伝説も残っているそうです。
(悲しい現場には一人では行けません・・)

かつて存在した「腹切り岩」では、実際にそのような伝説もあるのでしょう・・。

城からの眺めは美しくもありながら悲壮な落日の場面も思い起こさせます。
城内に見られる露岩も苗木城の様相と通じる所が見受けられます。
巨石とのつながりは、遠山氏の精神として受け継がれていったのでしょうか。

苗木城へと受け継がれていった精神と姿が見学できる城、
古風な遺構が手付かずで残されている、貴重な広恵寺城でございました。



ここにも寄ってみました

koeji (35)片岡寺址の土塁遺構。

帰り道に片岡寺址(へんこうじあと)に寄ってまりました。
かつては方形の館状となり、土塁と堀に囲まれていたそうです。
広恵寺城とは居館と詰め城、という関係も導きだせる遺構です。
(やや離れている感はありますが)

koeji (38)
高さ4mにも及ぶ大きな土塁です。

土塁の対面にある地は「殿畑」と呼ばれているそうです。
近世遠山氏に関わる寺院でしたが、明治時代の廃仏毀釈によって、廃寺となりました。

koeji (39)広恵寺城と直接、関係があったのかどうか、注目したい遺構ですね。

美濃 松山城 🏯美濃地方最南端に位置する境目の山城

美濃 松山城 (岐阜県海津市南濃町松山・城山)

豊かに実った稲刈りを待つ候、南濃町へとやってきました。
南濃町は付近で栽培されるミカンが南濃みかんとしても有名な地域です。
西と南は三重県境、東も数kmで長良川と木曽川を挟み、愛知県境と接します。

m-matuyama (8)背後には養老山脈の南端山系が控えています。

美濃最南端の山城・松山城は三国国境という稀な位置にあると言えます。
(三国とは、美濃・伊勢・尾張の三国です)
ところで、・・「松山城」というと皆さんはどの松山城を頭に浮かべますか?

恐らくは国宝になった伊予(愛媛県)の松山城ではないでしょうか。(城ファンですね~。)
次は、恐らく備中(岡山県)の松山城でしょうね。(城フリークですね~。)
いやいや、武蔵(埼玉県)の松山城も代表的な土の城郭ですぞ!(城マニアです!)

・・そんなところでしょうか・・。
しかし岐阜県人なら、美濃国人なら、10万人に一人はこう答えるでしょう、
美濃の松山城である!(*`皿´*)ノ・・と

そしてその一人はこう呼ばれるでしょう、城オタクである、・・と。

m-matuyama (7)

・・そんな変態自慢はこのへんにしときまして美濃松山城に向かいます。
まずは山麓最寄りの松山諏訪神社を訪ね、駐車場をお借りします。
本殿の裏には大きなクスノキが覆い被さるように自生しています。

m-matuyama (9)

地形図で確認すると、ここから尾根を直登すれば城山に登れる・・ハズでした・・。
しかし、ここで予想だにしない驚愕すべき事実を目のあたりにします・・。それは・・。
高さ2mの獣除けスチール製ネットに山麓一帯全てが囲まれて入山できないのです。
(写真の掲載は個人所有の物件というとで控えます)

折角の訪問ですが、諦めざるを得ませんか・・。
それでも諦めきれず途方に暮れていると果樹園の関係者の方が見えました。
ここで思い切って無理は承知、ダメで元々で入山許可を嘆願してみます。

入山の目的と事情を伝え、粘り強く交渉してみました。
「そいや、以前にもそんなご仁が見に来たっけな~」 (出ました、10万人の内の一御方)
猿や猪がおるから危ないき、気いつけてな、と有り難い許可をいただきました。感謝です!

その方の作業時間内に下山する、という条件で松山城まで登れることになりました。
本日は一転、なんとラッキーなのでしょう。
噛み締めるように登城していくのでありました。

m-matuyama (10)
全体的に崩落が激しい山です。

山自体が手入れがされていないのもありますが、地盤の地層が弱いのでしょう。
あちこちで、地滑りや崩落の箇所がみられ、城の遺構なのか、判断が難しい箇所もあります。
足元ものように瓦礫のような岩の破片まるけで登山もままなりません。

m-matuyama (4)
石垣等の崩れでなく、軟弱な地盤崩落片と思われます。(ブーツは自分のです)

m-matuyama (1)スロープを伴った郭への進入口。

上の写真は城郭遺構と断定できる最初の遺構だと思われます。
尾根に対して周囲に切岸も付けられ上部の遺構へと連動していきます。

m-matuyama (3)
そして進路を塞ぐ土塁が待ち受け・・

m-matuyama (5)
竪堀へと続く堀切が確認できます。

惜しむらくはかなりの崩落をうけているようで本来の姿が失われているであろう点です。
もちろん、築城の際にはこういった地盤の特徴を踏まえて構築されたものなのでしょう。

m-matuyama (2)
こちらは主郭部へ至るルートに設けられた土橋と空堀の様子です。

大小の岩が荒い土に食い込み掘削の困難さが伝わってくる遺構です。

m-matuyama (11)
そして城山頂部の主郭部に到達したようです。

主郭の奥には高さ1m~2mにもなる大土塁が尾根続き側にあります。
ここの軟かい土質を考慮すれば往時はその倍、4mくらいの高さがあったと推察。
築城者は困難を伴うこの土質を承知の上で手掛けたのでしょうね・・。

m-matuyama (6)
大土塁からは背後の養老山脈を間近に感じられます。

さて、時間内に縄張り図の作成を開始します。
途中、お猿さん達の集団に遭遇、身の危険を感じながら書き上げていきます。
帰宅後、清書し、冴えない彩色をした図がです。(いつも失敗する・・)

m-matuyama3 (3)

m-matuyama (12)
山腹からみる濃尾平野がとても見晴らしよかったです(*^_^*)。

こうして俯瞰すると、西美濃・尾張に対して遮るものなく見渡せる位置にあり
三国境目の山城として絶好の選地であるとしかいいようがありません。
あるいは伊勢方面への出撃も即座に対応可能な前線基地でもあるのです。

m-matuyama1.jpg正面から見ると、高い山脈に周囲を守られているような感です。

実はこの松山城に関する城主や来歴は不明な点が多いのです。
一説には、慶長年間に原長頼が秀吉から知行を受け、在城したのが太田山城といわれ、
後年、彼が関ケ原の戦いに西軍として修復したのが、ここ松山城なのでは?とも伝わります。

原長頼は別名が多く、或いは原政茂の名乗りが有名かもしれません。
太田山城の位置が不明な点からしてこの説とは密接な関係にあるようです。
今後の研究成果も待たれますね。

柴田勝家の与力として、府中三人衆にも劣らない活躍をした原長頼
織田軍にあっては遊撃軍として、金森長近らと各地で転戦した活躍の士です。
彼の業績に対して関連史跡が少ないので、なんとかしてあげたいのですが・・。
(北陸在任中は越前・勝山城に赴任していました)

今は静かに野生動物と共にある美濃の松山城でございました。

※松山城訪問並びに山城の入山に関して。

 今回、自分はたまたま果樹園の関係者様にお会いでき、ご好意で入山の許可をいただきました。
 したがいまして、松山城に関しては現在入山禁止の山となっております。ご注意してください。
 また特に秋の個人所有の入山は山菜やキノコ類等の無断採取者と判断されかねません。
 事情を説明してもトラブルに巻き込まれることも多いようです。
 中には万単位の違反金を現場で要求されることもあるようです。(知人の実話です)
 そうならないためにも充分に注意していただきたいものです。
 基本的には登城前に付近のお住まいの方にお声をかけるのも方法かと思われます。
 熱意と誠実さが伝われば皆さん、聞き届けてくださると思います。
 城に関する思わぬ情報を拝聴できる可能性もありますのでお勧めします。
 とにかく無断と無理は禁物、時期をずらすのも方法と考えましょう。

 以上です。

美濃 和知城 🏯木曽川に突き出した半島型水運城郭

美濃 和知城 (岐阜県加茂郡八百津町野上作道)

空が澄み切った秋のはじまり、今峰城に続いて和知城を訪問しました。
(一部、春の頃の写真も入ります。)
八百津町で「城」といったらこの和知城が代表格となるでしょう。
地元では「稲葉城」とも呼ばれ、城主・稲葉氏との結びつきが強い城でもあります。

wati (2)

wati (1)稲葉城公園として整備された和知城の石碑。

wati (14)木曽川の対岸から見た和知城の川岸面。

木曽川に面した水運との関りが強い城郭です。
石川が木曽川に流れ込んでいるあたり船付場と呼ばれる施設があったそうです。
ちなみに上の写真、撮影する為にに木曽川を大迂回、やっと探したポイントからの一枚です。

wati (4)
城郭建築風の集会場があります。

イメージはかけ離れていますが、こういった憩いの場はいいですね。
「町内会でちょっと城までいってくる。」・・そんなノリでしょうか?

wati (3)

天正18年(1590)に西濃・西保城(安八郡神戸町)から稲葉方通が転封され築城されました。
方通は稲葉一鉄の4男として生まれ、信長、秀吉、家康へと転仕します。
今日の八百津町の発展の礎を築いた「稲葉の殿様」の事績は大切に受け継がれています。

wati1.jpg
集会所の北側に残った土塁の一部です。

wati (12)幅12~15メートル、深さ7メートルもある巨大な空堀です。

wati (13)
木橋が架けられていた、という想定でしょうか。

wati (18)
堀底にはこのような河原小石がたくさんみられます。

wati (11)広い本丸へと入っていきます。

単郭としては中濃・東濃部城郭の中でも指折りの広さではないでしょうか?
さすがにサッカーはできませんが、フットサルコートなら余裕で確保できそうです。
・・しかし、こんな天気いいのに誰もいないなんて・・勿体なし。

wati (5)
当時からの井戸の場所が復元されています。

wati (6)こちら天守風の望楼式展望台はいかがでしょうか?

もはや遊具ですが、稲葉氏の家紋「隅切り三」の紋が渋すぎる!
大人がはしゃいで登るのは結構勇気が要ります。
周りに誰もいないことを確認して、ニヤニヤしながら登ってみました。

wati (8)おお~!なかなかの景色の木曽川ですね~。

wati (7)
これも渋い!前立て入りの兜様式のジム滑り台です。

さすがにこれで一人遊ぶことはできませんでした。(以前は子供たちと遊びましたねぇ)
この地域ではいかに「稲葉様」が大切に慕われているか思い知らされます。
その思いが具現化したカタチがこういったオリジナルの展望台、遊具となったのでしょう。

wati (10) wati (19)
それが証拠に城内の碑は、「和知城」ではなく、「稲葉城」と表記されていますね。

wati (9)
かつての土塁址の上には和知稲葉氏5代の碑が城を見守るように立っています。

wati (17)
城に西側を流れる石川は天然の堀となり、深い渓谷になっています。

wati2.jpg
城の西を石川が渓流となって木曽川に流れ込んでいます。

wati (16)
木曽川の合流地点辺りは船付場となっていたようです。

案内板にある縄張り図と比べると、

和知城城の北側の遺構はかなり消滅したようです。

東の木曽川沿いに面した断崖沿いにはかつての空堀の址と思われる深みがあります。
あくまで痕跡なのでこれがこのまま遺構の名残り、とは言い切れません。
しかし、痕跡を頼りにかつての姿を想像してみるのも楽しいものです。

wati (15)
おお~! クダマキモドキ発見!(*’U`*)

全身が綺麗な緑色したキリギリス科の虫です。
全体的にエッジの効いたシャープな姿が特徴で、幼いころからのお馴染みです。
最近、見かけなくなったので、会えてうれしいですね。(((o(*゚▽゚*)o)))

虫の音に耳を傾けながらの城めぐり、癒されますね~。(*´~`*)

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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