小牧市にて10kmレースに出場しました。

第28回 小牧シティマラソン大会に出場

メイン会場:パークアリーナ小牧及び周辺道路
平成30年1月28日(日) 10kmコース AM9:30スタート

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やってきました、小牧市です。
今年最初のレースの10kmレース・・。
・・なんですが、とにかく寒い!・・のです・・。

寒い中をジャージを着てトレーニングするのはいつものこと、割と平気です。
それがレース用の薄着で走る、となるとてんでダメなんです。
「寒いのと暑いの、どっちが好き?」と言われると暑い方が全然ウェルカムな久太郎でございます。

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ご覧の通り。お恥ずかしい。(写真提供:Y吉さん)

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見上げれば小牧山城が。(やる気アップ)

今回はラン友・Y吉さんからお誘いを頂いてのエントリーです。
山国育ちにとって平野部でのフラットコースは走りやすそう、ということで参戦。
寒さを吹き飛ばすためにも入念なアップをしてレースに臨みました。

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今にも雪が降ってきそうな空模様です。(・・やっぱ寒い)

それでは、スタートです。(・・しかし寒い)

<序盤>スタート~3km

最初は細い道から団子状態でのスタートになります。
これはY吉さんからあらかじめ教えてもらっていたことですので織り込み済みです。
コースの端の見通しの良いコースでペースを作っていきます。

参加人数も多いのですが、皆さん走力がある方ばかり。
しばらく走っても混みこみの団子状態が続きました。
自分より少しペースが速いな、というランナーさんに付いていきます。

<中盤>3km~6km

この辺りまでくると見覚えある景色が・・。
以前小牧・長久手合戦の陣城めぐりをしたエリアです。
小松寺山砦、久保山砦、岩崎山砦・・、思わずよそ見しながらのラン。

そんな余裕があったのかもしれませんが、km/4分20秒以内で走れています。
とにかくペースを落とさないよう、同レベルの方々に付いていきます。
寒さのせいか、あまり汗がでません、給水はパスしました。

<終盤>6km~9km

さすがにフラットなコースです。アップダウンがないのでちょっと拍子抜けなくらいです。
逆に言えばどこでパワーを使い、どこで抑えるか・・。
そんなラン・モードの選択ができずに困惑。流されるように距離を踏んでいきます。

そのため終始クルージングペースになってしまいました。
後で後悔した点が一つあるとしたら、同じペースで9km地点まで来てしまったこと。
時計は見ていましたが、後半のペースアップができなかったことです。

<ラスト・スパート>ラスト1km

そうです、気が付いたらもうすでにゴールのパークアリーナが目の前!
完全にペースアップを緩めてしまっていました。
加速装置に点火できたのはゴールの200m前、遅すぎました。

それでも最後の1kmはkm/3分58秒、
ゴールしたものの余力が残っているせいでしょうか、息があがっていませんでした。
ラストスパート、ちょっとかけるの遅かったようです。

結果は42分09秒(ネットタイム)でした。

タイム的にはほぼ想定した通りの結果でゴールできました。
ただ課題は後半のペースアップですね。ちょっとサボってしまいました。
・・というか練習量も若干少なかったので仕方ありません。

あと、何を言っても言い訳になりますが、やはり寒かったデス(T_T)。

2週間後には淡路島にて洲本ハーフマラソンに挑戦します。
今回の小牧ではいい刺激と課題をいただきました。
Y吉さんと今年のマラソン展開を計画しながら帰路につきました。

Y吉さんの年間計画にも等しい内容には感服するやら呆れるやら。
走るのが好きなんですね~。
自分も頑張って愉しむぞ!、・・そんな気持ちにさせてくれました。

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紀伊 弥勒寺山城 🏯秋葉山合戦の舞台となった雑賀党の城

紀伊 弥勒寺山城 (和歌山県和歌山市秋葉町・弥勒寺山)

雑賀城の北へ1kmほどの秋葉山山頂一体に弥勒寺山城がありました。
織田信長が石山本願寺を攻めた際に、雑賀孫一は応援を求めてきた顕如上人に応じます。
孫一らは顕如上人を弥勒寺山城に籠らせ、当地を本陣としました。

mirokuji (13)和歌山城から見据える秋葉山・弥勒寺山城址

mirokuji (2)
国道42号線から秋葉山中腹にある県営プール脇から登れます。

車でしたらここの駐車場をお借りできるのですが・・。
早朝ですと開園していませんので麓のどこかで探さないといけません。
結構な急坂になりますので、体力を試すには丁度いいようです。

mirokuji (1)登り口には弥勒寺山と顕如上人旧蹟の石碑があります。

mirokuji (12)
こんな滑り台もあったりします。景色が良かったので一枚。

mirokuji (9)頂上の弥勒寺山案内板とその背後は高台となっています。

mirokuji (6)
ピークにある顕如上人桌錫所(たくしゃくしょ)の碑。

mirokuji (3)

mirokuji (5)

mirokuji (4)

雑賀川の川底におけツボを沈め、川原には柵や逆茂木を並べて備えていた雑賀衆でした。
そこへ信長方による総攻撃があるも、川底に足を取られて前身できない状況に。
進退窮まり、標的となったところに雑賀スナイパーたちの鉄砲が一斉に火を噴きます。

大混乱に陥った信長軍は退却せざるを得ませんでした。

mirokuji (11)
頂上一帯はほぼ公園となっていて、めぼしい遺構は見当たりません。

現在は公園として遊具や展望台が設置され城址の面影はほぼ感じられません。
周囲の景色を一望できるような展望台があります。
眺望から当時を様相を想像して見る他ありませんね・・。

mirokuji (7)
展望台に登ってみました。

mirokuji (8)おっと・・、和歌山城が見えますね。

mirokuji (10)反対方向には妙見山・雑賀城もすぐそこです。

その他、ここからは峰続きの諸砦や周囲の多くの城砦も見渡せます。
雑賀衆の城は遺構こそあまり残っていませんが、点在する拠点がまとまって
一つの大城郭をなしていたのではないでしょうか?

雑賀城と弥勒寺山城を中心として各砦が連携して織田軍を翻弄する。
そんな神出鬼没な作戦を実行するための城砦群であったのでは・・。
当時に想いを寄せてみて、そう解釈して下山しました。



紀伊 雑賀城 🏯鈴木佐太夫・雑賀孫一(鈴木重秀)ゆかりの山塞

紀伊 雑賀城 (和歌山県和歌山市和歌浦中2丁目・城跡山公園)

熊野八咫烏の陣羽織、肩に立てかけた愛用銃「愛山護法」、
ゲリラ戦で信長を狙いすまし、窮地に追い込んだ、雑賀鉄砲集団の首領・・。
そんなイメージが自分の中の雑賀孫一こと鈴木重秀の姿です。

雑賀城はそんな孫一と父・佐太夫の拠った史跡の一つに挙げられた拠点です。
ところが、孫一が拠点とした城、というのは実は特定ができません。
ゲリラ戦法を得意としていた彼らに防御施設の城など無用だったのかもしれません。

saigajyo (10)「妙見山城」とも呼ばれ、雑賀城といわれる丘。

雑賀城(妙見山城)は養珠寺の背後にある丘に築かれています。
寺は徳川頼宣の母養珠院の位牌を安置するために建立されました。
城の丘はさほど高くなく、周囲の山々より低いくらいです。

saigajyo (9)南の麓、セブンイレブンさんから見ると城址らしい姿です。

saigajyo (6)麓の津屋公園内にある雑賀城に関する案内板。

丘の南端部にある妙見堂から北の千畳敷と呼ばれる城跡山公園一帯が城域です。
5分もあれば頂上に到着できます。
駐車場は養珠寺さんにお借りしました。

saigajyo (7)・・こ、これだけ?(´・_・`)

末尾にちらっと記される雑賀城の説明。
これだけでは説明になっていませんが、雑賀城を「ここだ」と特定している自信が良い。
先ずは登ってみます。

saigajyo (5)
頂上手前の様子。鳥居が朝日を浴びています。

この鳥居の向いている方向を地図上から線を引くと・・、
なんと熊野本宮社に行きつくとか・・。(確かにそのようです)
雑賀衆の掲げる八咫烏の旗指物も、ここに関係しているんですね。

saigajyo (3)
頂上には妙見大菩薩のお堂があります。

saigajyo (2)

saigajyo (4)
それほど広いとは言えない頂上部です。

城の遺構らしきものは、正直あまり見当たりません。
妙見山の頂上周囲の斜面が切り削られているぐらいです。
あとは千畳敷の角に物見岩があったかどうか、ぐらいのものです。

saigajyo (1)千畳敷からみる今一つの拠点、秋葉山の弥勒寺山城。

雑賀城は明確な遺構が残っておらず、古城跡の面影はほとんど見られません。
ここでは雑賀孫一らが織田軍の足跡を感じ取り、その虚を突く奇襲作戦を練った場所、
・・そう考える方が自然で、なんだかそれだけで楽しくなってきます。

saigajyo (8)
雑賀城下を流れる和歌浦川も外郭防衛として利用されたようです。

・・さて、帰りに養珠寺の方から大変興味深いお話を伺うことができました。

雑賀鉄砲衆の狙撃型連射方式「雑賀撃ち」についてです。
考案したのは雑賀孫一らしいのですが、一体どんな射法なのでしょう?
織田信長による長篠・設楽原の合戦における「三段撃ち」は有名ですよね。

「雑賀撃ち」なるものはこうです・・。

一人の鉄砲の達人に後ろから発射用意できた銃を次々と渡して撃っていく手法です。
複数の一流スナイパーたちが狙った敵を確実に討ち抜いていく・・、脅威的です。
紀州において織田軍の有能な将士が次々と命を落とした一因はここにあるのかもしませんね。
原田(塙)直政は落命、信長自身も深手を負います)

saigajyo1.jpg 熊野本宮社の八咫烏石紋。

※「雑賀撃ち」とは私的に使用した表現であって一般的な呼び名ではありません。



 

紀伊 湯浅城 🏯本当の湯浅城はこっちです

紀伊 湯浅城 (和歌山県有田郡湯浅町青木・青木山)

「湯浅城はどこですか?」と尋ねると、
「どちらの湯浅城ですか?」と逆に尋ねられる、
そんなやりとりがここ和歌山県湯浅町でのあるある話になっています。

そもそも、本来の湯浅城の隣の丘陵に立派な天守風国民宿舎湯浅城があることが原因です。
実際、こちらを本当の湯浅城として認識していかれる観光客も多いと聞きます。
歴史背景を理解して訪れれば違和感ありまくりでわかるはずなんですが・・。

yuasa (1)国民宿舎「湯浅城」の外観。確かに城郭建築であります。

この写真を記事のトップに掲載する自分も自分ですが・・。(他意はありません)
改めてお断りしておきますと・・、
中世の湯浅氏累代の居城「湯浅城」と国民宿舎の「湯浅城」は全く別物。
(但し模擬天守の4Fが資料館となっていて、湯浅城の資料や模型が展示されています)

yuasa (2)  yuasa (3)
左へ行くと国民宿舎湯浅城ですので、右へ行くと中世湯浅城です。(正直どっちかわからん訳です)

yuasa (6)史跡としての湯浅城は天守風建物がある南の丘陵に築かれています。

yuasa (4)
こちらの登山道より見学できます。

湯浅城見学は管理人の方への連絡が必要です。
入口は鍵がかかっていますが、電話して開けてもらえます。(10分ほで来ていただきました)
入口に連絡先電話番号があります。(勝手に入山するのは慎みたいものです)

yuasa (7)

yuasa (5)
湯浅城の想像鳥瞰図が示されています。

山頂の主郭から各尾根に広がる曲輪があり、堀切や土橋、土塁などが残っています。
それほどな縄張りではありませんが、山全体が城砦化されている様子がわかります。
大きな窪地を池跡としています。

yuasa (9)
城内には模擬冠木門や逆茂木などがこしらえてあります。

管理人さんをはじめ地元の方々が時代考証しながら整備してみえるそうです。
なかなか立派な出来具合いで、雰囲気が出ていますね。
(個人財産的なところがございますので写真は最低限にしておきますね)

yuasa (10)腰曲輪に立つ石碑。

yuasa (11)
背後の高台が本丸になります。

yuasa (12)
本丸一帯は「パワースポット、青木山」だそうです。

湯浅城がどちらを指すのか?
それは目的をもって訪れた人が判断することになります。
自ずと城址整備をされてみえる方々の手による湯浅城に辿り着くハズです。



紀伊 天路山城 🏯湯川直春の実弟・弘春の居城

紀伊 天路山城 (和歌山県日高郡日高町比井・天路山)

天路山城は亀山城から西へ7kmほど小坂峠を越えた海側の地にあります。
間の途中には入山城などの山城城郭もあり、そちらの見学などもできましょう。
天路山城は湯川直春が築城、その弟の湯川弘春が譲り受けた居城、というのが興味深いところです。

tennjiyama (1)山肌周辺が伐採されている山頂一帯の山が天路山城です。

tennjiyama (8)
比井集落の通りを赤い消火栓から細い路地を入っていきます。

天路山城の入口は非常にわかりずらいです。
何人かの地元の方に聞き、やっと見つけました。
よくある話ですが、城跡の存在さえ知られていないパターンですね。

tennjiyama (9)
そのまま山に向かって直進すると右手に上る階段脇に木柱案内があります。

tennjiyama (10)かなり疲れ気味の木柱に手書きの城址柱がいい仕事してますね~。

tennjiyama (3)
土居跡に残された五輪塔。

階段を上ると畑がありますが、この畑が土居跡になります。
畑の斜面の下には五輪塔があり、ここから山頂目指して登ります。
途中、かなりの藪とかなりの急斜面に心が折れそうになりますが頑張りました(笑)。

tennjiyama (4)
山肌が伐採されているのは道路工事のためでしょうか。

将来、天路山城への遊歩道でも?・・なんて。

tennjiyama (5)
三方向を土塁で囲まれた山頂部の本丸と切岸。

tennjiyama (6)
三の丸には狼煙台と思われる高い台があります。

tennjiyama (7)
腰曲輪の側面には小さい石で積まれた石垣があります。

本丸と二ノ丸の西側下をめぐる腰曲輪の側面の石垣は特に素晴らしいのですが・・。
残念ながら撮った写真がぶれてしまいました・・。(予備にと思って撮った2枚とも)
ですので涙ながらに掲載を断念!(再度チャレンジ?)

tennjiyama (11)
城の南には比井漁港が静かな湾を形成しています。

天路山城は海に面し、内陸部の兄・直春と連絡した湯川弘春が居城しました。
彼が兄・直春に追従して秀吉の南征軍に共に対抗した記録はありません。
しかし、支城主として湯川党の一門有力者として兄と行動を共にしたであろうことは想像できます。

弘春の主張如何によっては湯川党の軍議決定そのものに影響を与えたかもしれませんね。

tennjiyama (2)
これは目を引いた!クエのモニュメント

和歌山県日高町ではクエが郷土料理として有名です。
クエは近年、幻の味の高級魚として全国的に知られ、大変な美味で評判となっています。
ランチで煮付けがとても美味しかったので、皆さんも一度ご賞味してみたください。


天路山城登り口をマークしておきます。

紀伊 小松原館 🏯紀伊守護をも凌いだ湯川氏の居館

紀伊 小松原館 (和歌山県御坊市湯川町小松原・湯川神社)

亀山城の東南麓には湯川氏の居館跡である小松原館が存在しました。
亀山城からも近いのでセットで訪問してみました。
場所は御坊駅から歩いて300mほどの湯川子安神社を目指します。

komatubara (3)湯川子安神社です。

komatubara (1)湯川直光、直春親子が平時の館を構えた所です。

本城亀山城が寒風が吹く季節は住みにくい、という理由で平地に居を構えたそうです。
比較的暖かい地方で「寒い」などと、結構ひ弱な印象です。
まぁ、高台の浜風は寒いことは確かですね。

現在の神社の敷地には一部水堀が残っています。
湯川氏は当時、紀伊の守護をも凌ぐ勢力を誇ったそうです。
現在の御坊商工高・湯川中学校一帯の広大な土地が館の敷地でした。

komatubara (4)訪問した時は水が抜かれて堀底が現れていました。

「これは石垣の様子も見学できる」、ある意味ラッキーなのか?と思いました。
「よし、堀底に降りてみよう!」、・・そう思ったのが運の尽きでした・・。
・・そこは思っていたような堀底ではなかったのです・・。

それは上から勢いよく堀底に飛び降りた瞬間でした・・。
「!!」、沼と化した堀底に靴がどんどん吸い込まれていきます!
「こ、これは?、マジでヤバい(汗)」、・・最悪です。

komatubara (5)
足を吸い込まれながら撮った気合の一枚です。この後、なんとか脱出!

常時は水堀であったことを完全に忘れていました。
小松原館、なかなかに堅城です!
・・というか神社にて新年早々横着をした報いでしょう、バチがあたりました(猛省)。

komatubara (7)
高台にある湯川子安神社には往時の雰囲気が。

神社は湯川直春が娘の安産を願って浅間神社(現・静岡県)に祈願。
その分身を亀山城山麓に移して今日に至っています。
娘の無事出産を願った直春の愛情が伝わってきました。

komatubara (2)

ひょっとしてその娘婿というのは、争った手取城主・玉置直和なのでしょうか?
・・だとしたら、直春の気持ちを考えるほどに切なくなります。
娘の幸せを誰よりも願っていたはずです。

komatubara (6) 石碑の裏も大切です。

直春の愛情深い娘親としての一面を感じた小松原館でした。



紀伊 亀山城 🏯紀伊の穴熊・湯川直春の居城

紀伊 亀山城 (和歌山県御坊市湯川町丸山・亀山) <市指定史跡>

今回の城めぐり、西紀伊を選んだ理由はですね・・。
それは自分が紀伊で最も関心があった武将たちに魅せられたからです。
いずれも羽柴秀吉の紀伊平定戦に対し、運命を賭けた5人それぞれの動向です。

雑賀党の鈴木佐大夫・雑賀孫一(鈴木重秀?)の親子。
湯川党の湯川直春・湯川弘春の兄弟、
そしてその湯川氏の女婿・玉置直和、の5人です。
特に湯川直春・弘春兄弟の動向には不思議な魅力があります。
既に紀伊大半の城が秀吉の手によって落とされているにも関わらず、平定目前での宣戦布告です。

‥一体何の狙いがあったのでしょう。

yukawakameyama (2)東西に延びながらもほぼ独立峰になった亀山の山頂が城址です。

yukawakameyama (1)城址の腰曲輪には当時の復元想定図が掲げられていました。

本丸を頂点として、輪郭式に曲輪を配した様子が窺えます。
大きな堀切などはなく、郭を段々に重ねたのみに見えますが・・。
これは主郭以外が開墾によって面影しか残っていない所もあるようです。

yukawakameyama (3)
主郭部周辺の切岸は辛うじて城郭遺構として残っています。

yukawakameyama (5)
本丸の現況です。

yukawakameyama (9)周囲を土塁でぐるっと囲まれています。

yukawakameyama (4)
本丸の西側の土塁は最も厚みがあり、高さもあります。

yukawakameyama (7)台座がいい・・、亀山城石碑でございます。

yukawakameyama (10)「亀山城跡(址)」、に苦笑( ´,_ゝ`)プッ
(「跡」でも「址」でも・・どっちでも一緒ですよ(笑)。真面目だな~と。)

yukawakameyama (6)
本丸には湯川氏一党の供養塔も。

天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州平定に際し湯川直春は秀吉と対決することを決意。
娘婿の手取城主・玉置直和に対して同調を求めるも玉置氏はこれに従いませんでした。
これは前回の手取城の記事でも触れました。

何故に大勢の決まった秀吉の紀伊平定に逆らうことになったのか・・。
少なくともこの程度の居城ではとてもではありませんが籠城にも耐えうることは無理です。
この時のいきさつは漫画「センゴク権兵衛」(宮下秀喜さん著)でも活き活きと描かれています。

湯川直春は秀吉軍を山深い熊野山中へ引き釣り込み、ゲリラ戦を展開していきます。
熊野山中を庭のように知り尽くした強靭な国人衆に疲弊する秀吉軍。
秀吉本隊からの平定催促は派遣部隊の結束を乱していきます・・。

秀吉軍の軍制システムの弱さに付け込む、神出鬼没の作戦を展開していく湯川一党。
そして湯川党は秀吉軍との和睦条件に本領安堵を引き出すことに一時的に成功します。
まさに穴熊戦法と呼ぶにに相応しい湯川直春の作戦勝ちに見えました・・。

yukawakameyama (8)本丸から見る御坊市内と日高港。

しかし天正14年(1586年)、湯川直春羽柴秀長の居城である大和郡山城で没しました。
頃合いを見て隠密に謀殺された、とも伝えられる直春なのでした(一説です)。
このあたりの話は島津家久の一件とも話が被ったりしてますので案外史実なのかもしれません。

熊野の山中を利用し、と国人一揆を主導した湯川直春の生き方、
・・こういう粘り方もあるのだな、と感じ、魅力を感じるのです。

「びばぁ~っ、進めぇ~!」 by センゴク権兵衛の湯川直春でした。



紀伊 手取城 🏯義父と袂を分かつ決意をした玉置直和の居城

紀伊 手取城 (和歌山県日高郡日高川町和佐・城山) <町指定史跡>

和歌山県下の中でも、規模、原型保存、この城に勝る城址なし、と言われるのが手取城です。
今回は主要部のみの見学になりましたが、とても印象に残った名城だと感心しました。
その名に恥じない紀伊国屈指の巨大城郭といえます。

tedori (16)別所谷の中、手取城が築かれた、通称「城山」。

手取城は和佐玉置氏によって築城されました。
「みずからの手で領地を切り取った」という由来から手取城、と名付けられたそうです。
亀山城の湯川氏とともに日高地方を二分する勢力を築いて代々居城しました。

天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州侵攻に対し、亀山城主・湯川直春は娘婿である手取城主・玉置直和に共に秀吉と対決することを望みますが、直和は首を縦に振りませんでした。
湯川直春は娘婿であろうとも二百余名で手取城を攻め、城を焼き払いました。
(これを坂ノ瀬合戦と呼んでいるそうです)
tedori (1)
城山の南を走る道沿いに手取城入口の道標が出ています。

この林道は舗装され東の丸まで続いており、普通車ならなんとか通行可能ですが・・。
途中から気持ち狭まりますので右側に現われる土取場に駐車し、そこからは徒歩のほうがベター。
林道途中から遺構が始まっていきますのでおススメです。

tedori (2)
この「古城行道」の石碑背後の堀切あたりから見学していけます。

tedori34.jpg
徒歩5分ほどで長さ100メートル以上に及ぶ東丸に到着します。

tedori (3)

tedori (5)
基部に見られる新しめの石垣は寺院の址だそうです。

tedori (6)
本丸の南、二ノ丸ではちょっとしたピクニックができそうです。

tedori (11)どこかで見たような理想の石碑に共鳴~(*^-^*)

tedori (10)
本丸に到着すると・・。

tedori (8)
西に西の丸をはじめとする曲輪が連なるのが見え・・。

tedori (9)日高平野方面が一望できます。

tedori (7)本丸の北側には崩れた石垣が見られ、その先の下には4条の堀切も見られました。

tedori (14)本丸・二ノ丸と西の丸を画す幅広の大堀切。

tedori (13)
右手の土塁は西の丸にある蔀(しとみ)土塁と思われる大土塁です。

tedori (12)
西の丸の中心部にある「狼煙台」と思われる遺構。上から見ると五角形になっています。

tedori (15)
全体的に主郭部はとても見学しやすく、貸し切りしてるのが贅沢すぎる気分。

湯川氏と常に共同行動をとってきた玉置直和も秀吉の南征では政策転換せざるを得ませんでした。
これはある意味、時世の流れを把握した当然の選択だと思われます。

覚悟を決めたのは男たちばかりではありませんでした。
玉置直和に嫁いでいた湯川直春の娘は離縁を勧める父の勧めを一蹴。
夫・直和に添い遂げる決意をするのでした。

湯川直春は涙ながらに手取城の落城を見届けるのでした。

城址には沢山の桜が植えられていました。
きっと春には素晴しい花見もできるのでしょう。
紀伊の代表的山城に相応しい、見応え充分すぎる手取城でした。



紀伊 平須賀城 🏯原型が極めて良好状態で残る城郭

紀伊 平須賀城 (和歌山県日高郡みなべ町西本庄・平須山) <町指定史跡>

IMG_3549.jpg平須賀城の南麓、南部川に架かる四郎橋の袂から平須山を見ます。

平須賀城は「へいすがじょう」と読みます。
城は、南部川が大きく蛇行する地点にある平須山山頂に築かれています。 
周囲の斜面は険しく、三方を川に囲まれた、見るからに要害の地となっています。

heisuga (2)山頂には石碑や案内板はありませんので、この道標が唯一の案内です。

平須山の東麓側の小さな橋に小さな城跡への道標が出ています。
これを見逃ないようにして駐車させていただきます。
ここから道標に従って梅林の林道を登っていくと脇から登る道があり、これが入口です。

heisuganobori.jpg ここも見逃さないように。

heisuga (4)
梅林脇の急斜面を登って行くのですが・・。

これが結構な急斜面!尾根筋とはいえ、斜面直登に近い感じです。
木々は刈り払われているのですが、足をかける場がありません。
梅林に張られた獣除けの電気柵にも触れないようにしないといけません。

heisuga (11)主郭部手前は見事な堀切で仕切られています。

見通しのよい堀底で切られた木々もきれいに並べられています。
斜面の木は等間隔で意図して残されているようです。
これなら土の流出も防げますね。

heisuga (5)その大堀切から延びる竪堀は畝状となっています。

1条の大堀切から2条の畝堀切に分かれていく様がよく観察できます。
木々も切り払ってあってとても遺構がよくわかりました。
先程の大堀切とこの畝状竪堀は非常に素晴しく強く記憶に残りました。

heisuga (6)
よく草が刈られて形状が掴みやすい主郭部に到着。

heisuga (7)
大きく六段になっている腰郭が段々に連なります。

heisuga (8)
地元では「天守台」と考えれている本丸。

heisuga (1)本丸からは南部の町が遠くに一望できました。

平須賀城は室町時代に野辺忠房によって築かれたました。 野辺氏は源経基の子・満快の後裔です。
忠房は湯川氏に属し、子・光房は湯川直光の猶子となり「光」の字をもらいます。

しかし、光房は永禄5年(1562年)に河内国若江で三好氏と戦い討死します。
その子、春弘のとき幡山に要害城を築いて居城を移したそうです。
ちなみに要害城は未だ正確な場所が不明な「幻の城」とされています。

heisuga (9)曲輪越しに見る、熊野へと続く紀伊山中の景観も素晴らしい(* ´ ▽ ` *)。

heisuga (10)
大手口から続く長~い馬場郭は直線で50メートル以上にもなります。

たまたまこうなのでしょうか?訪れた時は城域全体の下草が刈り取られていました。
お陰様で遺構の様子が見やすい、見やすい(((o(*゚▽゚*)o)))
きっと、定期的に手入れされているのでしょう。

拍手したいのは刈り払った草や木を一ヶ所に固めてないことです。
そして風雨から守るよう、遺構の上に毛布のようにかぶせてあるんです。
尚、道の駅「みなべうめ振興館」1Fには平須賀城の模型があるそうです。

事前に情報を入手しておりながらこの模型の事をすっかりと忘れてしまいました。゚(゚´Д`゚)゚。
恐らく、地元の城址を守って行こう、とする意向が見られるのでしょう。
広大な城址だけに大変だと思いますが、頑張って欲しいと思います。

いつかまたその模型を見学しにでも再来したいと思いました。




紀伊 田辺城 🏯一部の石垣と水門が残るのみ

紀伊 田辺城 (和歌山県田辺市上屋敷町・錦水公園) <市指定史跡>

お正月の紀州城めぐり、最初の訪問地は紀伊田辺城でした。
今回の旅のテーマは「信長・秀吉に対抗した紀州の武将たち」です。
・・なんともご立派なテーマに聞こえますが、たいした内容ではございません。(あらかじめ)

現地の城址を巡りながら当時の武将たちの気持ちが汲み取れたらいいな・・。
そんな軽いノリで行きたい、と思います。
先ずはジャブ攻撃として、日の出一番から紀伊田辺城を訪問いたしました。

kiitanabe (8)
会津川に沿った錦水公園(錦水神社)一帯がかつての田辺城でした。

現在は「本当にここが城址ですか?」というほど変貌しています。
1871年(明治4年)の廃藩置県に城は払下げられ、城郭は破却されたからです。
城跡には多くの民家が建ち、面影を追うこともなかなかの困難です。

kiitanabe (2)
田辺湾の河口にあたるため、沢山の鳥さんたちが夜明けを待っていました。

この会津川に映る白壁の美しさが水の流れによって錦の如くみえたのでしょう。
いつしか田辺城は「錦水城」の名で親しまれるようになっていきます。

kiitanabe (3)
見所は水門の址です。

kiitanabe (1)

kiitanabe (4)現在は一部の石垣と水門が残るだけです。

当時は河口・田辺湾と城内への直接の出入りが出来たのでしょうか。
この点では同じ東紀伊の新宮城とも共通していますね。
できればもう少し周辺を城址として保存できたら良かったですね~。

kiitanabe (6)降りてみるとこんな感じです。

亀甲積のような隙間がない石垣です。
一部をコンクリートで補修されている点が目障りですが。

田辺城は1606年(慶長11年)に浅野家の家老・浅野知近によって築かれました。
1615年(元和元年)の一国一城令の後は改築して陣屋とされ、整備されていたと考えられます。
そして紀州に徳川家が転封され、付家老の安藤直次が田辺に入城します。

1791年(寛政3年)大島樫野浦にアメリカ船が来航してから沿岸警備はより厳重になります。
田辺城でも大規模な改修が行われ、近代に異国船に対しての防塁となったようです。
近くには扇ヶ浜台場の址が当時の面影を残していました。

kiitanabe (7)
唯一、城郭風建築、と思われる綺麗なお手洗い場です。

朝一番から近所のおばさま方の手で清掃されていたことが印象的でした。
挨拶をして「岐阜から来ました」とお伝えしたところ、頭を下げられてしまい、恐縮・・(笑)
堀の面影が残る水路を案内していただきました。

kiitanabe (5)

本丸にも天守に相当するようなものはなく軍事的な色も薄かったようです。
商業性や政治的要素が強い城だったのでしょう。
先程の水門も昭和になって小学校建設工事で発見され、保存されたようです。

kiitanabe (9)付近の田辺大橋から見る早朝の田辺湾。

城址と城下町は共に姿を消そうとも、ここから見る田辺湾の景色は変わることはないでしょう。

南紀白浜アドベンチャーワールドへ行かれるご機嫌ファミリーさんたち・・。
白浜温泉に浸かってゆっくりしたい中高年の皆様方・・。
・・ここでサヨナラです。(寒さが一段と身にしみる)



プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで、間もなく開設以来、2年を迎えようとしております。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

紀伊への城歩き
お正月のお休みをいただきましたので2日間和歌山県のほうへ城めぐりに行ってまいりました。
ある程度の予習をしての紀伊国入りでして、いろいろな城址を見学してまいりました。
今回で3回目の紀州訪問ですが、西紀州は初めての事です。
紀伊の山城って残念ながらあまり知名度ないんですよね・・。
理由は(想像ですが)恐らく他の国のように強力な有力大名が現れなかったのが一因しているでしょう。
しかし、訪れた城跡の中には「これほどの山城がなぜ名も知れず隠れているのか」という感動もありました。
・・ごくごく簡単ではございますが、記憶が新しいうちに随時更新していきたい、と思っております。
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