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美濃 戸狩城 🏯武田氏勢力の築城と伝わるが・・。

美濃 戸狩城 (岐阜県瑞浪市明世町戸狩・城山)

戸狩城は戸狩砦、とも呼ばれている瑞浪市の城郭です。
信頼に足る文献には記されていない城砦ですが、里伝ではその由来が伝わっています。
実際に遺構はほぼ完存していますので調べに行ってまいりました。

togarijyou (13)戸狩山、城山、とも呼ばれる山上一帯が城址と伝わります。

年号などははっきりしていませんが、武田氏の東濃侵攻の際に築かれた砦とされます。
武田方・秋山虎繁の武将、仁木藤九郎がこの地に攻め入り、民家の戸を刈り集め急造したようです。
そのため、戸狩村の戸狩城、と名付けられた訳です。

togarijyou (1)
一乗院山門から中腹まで車でも登っていけます。

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一声お掛けして駐車場をお借りしました。

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主郭から南面に向かって段々に曲輪が配置されています。

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東西に50メートルにも及ぶ長い郭もあります。

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曲輪間には仕切り土塁とも、スロープとも解釈できる遺構が多々見られます。

togarijyou (12)主郭の北側は土壇状となって高くなっています。

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土壇入口には虎口のような曖昧な遺構も確認できます。

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若干の石積の址が見られますが、土留め程度にもなっていないようですね。

togarijyou (11)主郭背後を大きく断ち切る堀切が設けられています。

堀幅も8メートルほどあり深さもある大堀切になります。
堀底から主郭部へはスロープによって連絡できるようです。
また堀切は両端部が竪堀となって東西へと落ちていきます。

togarijyou (10)
主郭西側の大竪堀。

背後に見られる大堀切と竪堀は城郭としての位置づけを確定しているものです。
普請量としてもそれなりの大きさを理解できます。
しかし縄張り自体は単純で切岸と元々の自然地形に頼ったものに感じました。

スキャン_20180225 (2)

曲輪間の仕切り土塁や竪土塁などの多用が意味不明なのですが、
部分的に後世、何かしらの転用や改変を受けているのかもしれません。
少なくとも、遺構から武田氏築城を裏付けする、となると・・ムズカシイ所ではあります。

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元々の大手道は高速道路建設によって分断されています。

togarijyou (4)戸狩城・大手からの眺めは瑞浪市内を一望できます。

南正面に小里城がはっきりと確認できます。
織田方による小里城~鶴ヶ城~御嵩・兼山城の防衛ラインの内側に何故、武田方の砦があるのか?
その伝承も確たるものではないので一時的であるにせよ、不思議に感じました。

かといって織田方によって固められたとする痕跡も文献も見当たりません。(う~ん、八方塞がり)
戸狩城は立地的にも距離的にも鶴ヶ城・小里城と連絡できる位置にあります。
今後はその関係性を論じていくのも面白いかもしれませんね。



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淡路 志知城 🏯意外な人物たちが関わっている淡路の平城

淡路 志知城 (兵庫県南あわじ市志知松本)

sitisiro (5)湿地帯に築かれ、水堀に囲まれた志知城。

志知城は鎌倉時代に菅和泉守道忠によって築かれたと伝わります。
菅氏は三原郡野口村を拠点としていたといわれ、あるいは野口氏を称しています。
三好長慶の五弟、冬長が野口氏の養子に入って家督を継承しました。

野口冬長は淡路を拠点に本州と四国の間を取り持ちする役割を与えられたといいいます。
しかし、天文22年(1553年)に兄・三好義賢(実休)が主君・細川持隆をクーデターで殺害、
持隆家臣達との間で生じた鑓場の合戦において、戦死したといわれます。

冬長に関する事績は非常に乏しく、三好家では「十河一存が末弟」としているのが常です。
可哀そうに冬長はその存在自体がなかったものとして扱われていることが多々あります。
優れた兄たちに隠れてしまいがちですが、その役割は重要だったのでしょう。

草葉の陰で亡くなった冬長に一筋の光が当たることを祈って記しました。

sitisiro (4)西方の内掘は鬱蒼としていますが、かなりの幅の水堀です。

志知城は複郭の平城であったようです。
現在内堀に囲まれた本丸はが二ノ丸とも呼ばれていたようです。
西側には外堀跡があり、北と南にも堀跡と見られる跡があります。

sitisiro (1)城址石碑は2つありますが、こちら新しい方です。

天正9年(1581)、信長軍の羽柴秀吉らに志知城主・菅長宗は降伏・開城しました。
秀吉は家臣の黒田官兵衛孝高を志知城に置いて守らせています。
長宗我部氏の阿波侵攻の動きに対し、官兵衛はここで戦略を巡らしたようです。

sitisiro (2)

sitisiro (3)
本丸は一部開けているものの周囲は密集した竹林になっています。

そして天正13年(1585)、加藤嘉明が一万五千石を領して志知城に入城します。
志知城は嘉明によって今日の姿に改修されと考えられています。
文禄4年(1595年)加藤嘉明は六万石に加増され、伊予国松前、松山へと飛躍していきます。

嘉明は志知城南側の蜷瀬(になせ)という場所で軍船を建造したそうです。
城は内陸部で海からは離れていますが近くの大日川を利用することで、
水軍の基地拠点となった「水城」であったのでは、と想像しました。

然るべき人物に任される城、というのは理由があるものです。
冬長、官兵衛、嘉明らに託された責任、役割、そんな思いを感じました。
後世大規模城郭の縮小版といった雰囲気をもった貴重な淡路の平城、志知城でした。



淡路 洲本城 🏯淡路水軍の山上要塞を歩きました

淡路 洲本城 (兵庫県洲本市小路谷・三熊山) 《国指定史跡》
【続日本100名城】

この日、午前中にすもとマラソン大会を走り終え、ルーラしてきたのがここ洲本城です。
淡路島に来た以上なにがなんでも見学したい淡路の代表的城郭です。
前日の雨と引き換えの強風でしたが、晴れなら申し分ありません、さっそく見学です。

sumoto (4)洲本城石碑と御殿跡の櫓台越しにみる三熊山山上の洲本城。

sumoto (16)

山頂部の「上の城(かみのしろ)に対する山麓の「下の城(しものしろ)」も整備されています。
阿波徳島藩の蜂須賀氏・重臣の稲田氏が城代となって由良城から移りました。
以後、幕末まで「御殿」と呼ばれる政庁として使用されました。

sumoto (1)東西に長い総石垣の大要塞です。

sumoto (5)
南の丸の石垣は長城のように長く美しいラインで構成されています。

sumoto (2)西の丸方面から見た本丸主郭部と大阪湾。

洲本城は室町時代後期に安宅氏によって築かれました。
戦国期の安宅氏、というと三好長慶の実弟、安宅冬康が有名です。
安宅氏に養子に入り、淡路とその水軍を統括しました。

当時、洲本城では三好四兄弟長慶・義賢・冬康・一存)が一堂に集まり、
「洲本会議」が開かれ、機内制圧の作戦が話し合わされたと言います。
四兄弟による合議政策は薩摩での島津氏と似ていますね。(体質内容は違いますが)

四兄弟、いずれも優れた政略力と統率力を持ち合わせていたようです。
(実は5兄弟?あと一人の彼については後ほどの志知城記事にて・・)

しかし、暗雲が立ちこめ、兄弟は相次いで死去、
冬康も兄・長慶との仲違いによって殺害されてしまいました。
三好氏は急激にその勢力を失い、家臣の松永氏が台頭していきます。

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本丸へと続く広い石段からは洲本城の威風を感じます。

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大石段から本丸への内桝形虎口も堅固。

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本丸南側の石垣は最も安定感があり、石垣の反りも美しいです。

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本丸の西面から天守台を見上げます。着きました(*^_^*)。

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本丸北口の搦手虎口、こちらも堅固な内桝形門です。

sumoto (11)1928年(昭和3年)に築かれた復興天守は国内最古!

2013年(平成25年)には天守、天守台の補強工事も行われました。
鬼瓦が独特な天守は小さいながらも迫力抜群、洲本市のシンボルです。
町のどこからでも仰ぎ見ることができ、洲本市民さん、羨ましい限りです。

sumoto (10)天守より見る眺望は反則級の素晴らしさ!です。

城下町が一望できるのは当然ですが、それと遠くまで見渡せる大阪湾です。
洲本城が水軍の城として海を意識していたことがここに立つことで自ずと理解できます。
大阪湾を西から直接制すことができるのはここ洲本城だけです。

そして洲本城に来たからにはこの遺構を拝まないといけません。(半強制)

sumoto (7)
山の要害性を利用した「登り石垣」と呼ばれる遺構です。

二条の石垣が北斜面に向けて階段状に構えられています。
文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮の地に築いた「倭城」に見られる遺構です。
恐らく朝鮮の役での教訓技術を活かした脇坂安治によるアイデアかと思われます。

sumosumo.jpg
登り石垣に仕寄るワタクシ、久太郎です。そのスケールお伝え能いますかね?
(写真提供:日向さん)

「登り石垣」は国内では伊予松山城近江彦根城の3例が挙げられます。
その中で洲本城のように階段状のものはありませんので、貴重な遺構です。
間近での見学は斜面の為、登攀がキツイのですが、下からでも充分見学できますよ。

ここで洲本城に関わった戦国の城主たちについて少々・・。
安宅冬康については冒頭下で触れました)

安宅冬康の死後は嫡男・信康が淡路国の水軍の総指揮官となります。
安宅信康は元亀3年(1572年)に足利義昭及び織田信長に降伏してその臣下となります。
天正5年(1577年)には木津川口の戦いにおいて毛利水軍と戦いました。

天正9年(1581年)信康の弟・安宅清康羽柴秀吉に破れ降伏します。
信長に所領を安堵されたようですが、程なくして所領を没収されて紀伊国に追放されたようです。
そして同年中に病死したため淡路安宅氏はここに滅亡した、と伝わります。
(紀伊国に追放される武将は高野山組をはじめ皆不遇の最期ですね・・。)

天正10年(1582年)には仙石秀久が城主となります。
秀久にとってはそれまでの戦功が格別に認められた処遇であったようです。
しかし秀久は城郭の改修に手を加える余裕もないまま讃岐高松へ移りました。

天正13年(1585年)、脇坂安治が城主となり洲本城を大改修していきます。
安治は24年もの間在城して、洲本城を石垣を用いた近世城郭へと改修しました。
現存している洲本城の遺構は戦闘経験の深い脇坂氏時代の色彩が濃く現れているでしょう。

sumoto (17)
ここから大型安宅船が巡航している姿がみえたのでしょうか。美しい大浜でした。

洲本城見学では水軍拠点としての性格を鮮明に感じ取ることができました。
また歴戦の城主たちが常に戦闘を意識した戦国城郭として関わったことも感じました。
城友・日向さんと強風に耐えながら俯瞰した町並みが強く印象に残りました。

大坂湾と紀淡海峡を押さえる巨大水軍要塞、洲本城でした。
(サイコーでした♪───O(≧∇≦)O────♪)



テンションをあげて、すもとハーフマラソンに参加

第7回すもとマラソンに出場

メイン会場:兵庫県洲本市五色町周辺
平成30年2月11日(日) ハーフマラソンコース AM10:00スタート
参加人数:1721人(全種目合計)、内ハーフ走者791人
ゲストランナー:高橋千恵美さん(チームミズノアスレチィック所属)

日本列島全体が何年ぶりかの大寒波に覆われる中、淡路島まで行ってまいりました。
雪こそ降らなかったものの、前日は冷た~い雨。
車を出していただいた日向さんとテンションの下がりようは隠せませんでした。

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前日よりの淡路入りで明石大橋を渡ります。

しかし、次の日のマラソン大会は朝から晴れてくれました。
有り難い事です。この寒さに雨では棄権も考えましたので本当に良かったです。
朝、大会前に洲本市中心街を軽くアップジョッグして戦闘態勢を整えました。

赤レンガの建物が立ち並ぶ洲本市の近代産業遺産の中をジョギングしてましたら・・。

IMG_4722.jpg冬咲きチューリップが咲く中、発見しました!

「ドラゴンクエストミュージアム」が開催され展示会場となった建物・旧アルファビアミュージアムです。

こちら洲本市はドラゴンクエストの生みの親・堀井雄二さんの故郷。
庭園内に「ロトの剣」と「ロトの盾」にスライムが寄り添った銅像があります。(メタルスライム?)
こちらは大人気RPG「ドラゴンクエスト」の誕生30周年記念碑でもあります。

なんだかスーパーハイテンションまで高まかった気になりました。
(ゲーム中では「ためる」コマンドで4段階まであげる必要があります)

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さて、会場に到着しました。
配車していただいた日向さん、自分が走っている時間は自由時間です。
この後、徳島県に渡り、徳島城に行かれたようです。(いいな・・。)

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勢揃いした洲本のゆるキャラ軍団。壮観でした。

お天気には恵まれましたが、やはり風が寒い!
受付を済ませて身体を冷やさないように注意しました。
開会式ではしっかり体操して準備運動を行いました。

corse_height_harf_201802132112029b9.gif
マラソンコースは結構なアップダウンになっています。
それほどな標高差ではありませんが前半の大きな峠と後半の波状攻撃。
そして、今回一番の敵は風速10kmの西風!(かつて経験したことナシ!)

さぁ、どうしましょう・・、はやスタートです。

<序盤・前半>(スタート~6km)

下りスタートとなっているので飛ばさずとも自然といいラップタイムになってしまいます。
下りで2km走ったら、今度は登りで2km走って、またスタート地点に戻ってくる、
・・こういったコースははじめてですね。(珍しい)

当然ながらこのスタート地点を再通過する時の声援が一番多かったです。
たくさんの応援をいただいて力みなぎるものがありました。
しかし、ここからはひたすらの上り坂!

先の見えない頂上目指して我慢、我慢・・。

<中盤>(7km~14km)

鮎原地区まで下ってくるとそこからは川沿いの走りやすいコースに・・。
・・なるはずでした。
ここから吹きつられた谷間の強風が強烈!。(体がもってかれる感じ)

ふと周囲を見渡すと同じペースで走るランナーさんと抜きつ抜かれつです。
強風の中敢えて、後続となり風よけになっていただきました。
わかりますよ、後につかれるのっていやですよね。(当然、真後ろは避け距離をおきます)

スミマセン、これも定石の戦略なので・・。

<終盤>(15km~20km)

船瀬漁港がちらほらと見える最高のビューポイントを走ります。
沿道から応援してくださった方々の差し入れなんかもいただきながら走ります。
輝く海面が本当にきれいなコースでした。いいところです。

ゴールに向けてペースを上げていきたいところですが・・。
そう思うほどに斜度がキツくなっていく登り坂。
逆に現行ペースを維持するので精一杯!

ここでもやはり我慢、我慢、なのでした。

<ラスト・スパート>(ラスト1.1km)

IMG_6562.jpg
最後の最後に長い坂道です。

この坂道で加速装置に点火するのはリミッターがかかって、とても無理(笑)。
減速せずに走り切れるかどうか、が今の実力です。
じっくりと確実に走ってきた喜びが込み上げてきた瞬間、ゴールしました。

記録は1時間35分25秒自己ベスト更新できました!。

アップダウンがあったため自己ベストは狙っていませんでした。
風も強くて気温も低すぎでしたから。
そんなに気負って走り込み練習もしていませんでしたし・・。

それでもいいタイムが出せたのは沿道からの少なくとも暖かい声援。
洲本ののどかで美しい景色。(遠くに見えた白巣城?)
それと「ためる」コマンドでテンションがあがったことでしょうか?

➧今回の大会でレベルがあがった!(テレレレッテッテ~♪)
➧今回の大会で新たなスキルを獲得した!
➧今回の大会で小さなメダルを手に入れた!・・気がします。


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走った後に振舞われた「五色おでん」と「嘉兵衛ラーメン」も最高に美味しかったです。

それでは後ほどここから洲本城にルーラしたいと思います。

すもとマラソンに向けての準備

すもとハーフマラソンへの準備

2018年、今年最初のハーフマラソンを走ります。
場所は兵庫県の淡路島、洲本市の五色周辺です。
淡路島を自分の足で走るのは初めての事なのでとても楽しみです。

main_img.jpg
すもとマラソンマスコットキャラクター、すもポン(母狸)とらんな(娘)です、かわいいな。

親たぬきのすもポンはお腹を打ち鳴らしてランナーを鼓舞!
子たぬきのらんなちゃんは”他抜き”だけに他より一歩抜きんでることが目標!
・・だそうです(笑)。

なるほど~、よう考えましたねぇ。

access_map_l.gif洲本市の北部を周回します。

もちろん恒例の城めぐりもしっかり予定に入っております。
仕事を終えると、家での担当家事を済ませ、ジョギングに出ます。
食事を済ますと淡路の城の研究とレース展開予想をするのが昨今の楽しみに。
(そういや、このブログの更新もか・・)

大会前だからといって、相変わらず特別な練習はしませんし、長い距離も走りません。
経験からですが、特別な練習をしない方が結果がいいからです。
自分の身体と相談しながら自然に走りたくなる、日々そんな環境を意識してます。

それと、自分は身長176cm、普段の体重は63kg前後なんですが・・。
これが本命レース前となると60kgまで体重が落ちます。
しかし、ご飯は育ちざかりの子息らよりもたくさん、美味しくいただきます。

走った後の楽しみは、ご飯が美味しくいただけることでしょうか。

今回は城めぐりの同行、という形で城友の日向さんもご一緒いただくことになりました。
日向さんは走りませんが、その代わり、淡路の山城でヒィヒィいわせます(笑)。
よくもまぁ、こんな自分に付いてきてくださるものです、・・感謝いたします。

相変わらず、「城とマラソン、どっちがメインなの?」と聞かれても
「どっちも」としか、お答えようがございません。

「やってろ」、って感じですかね・・。

紀伊 中野城 🏯対信長最前線が逆に信長軍本陣に

紀伊 中野城 (和歌山県和歌山市中野)

nakanokii (1)

天正5年(1577年)織田信長の雑賀攻めにて中野城は雑賀党の最前線となりました。
しかし、信長軍の大軍の前には長く持ちこたえることができませんでした。
落城し、逆に雑賀党に対する織田方の陣として中野城は利用されました。

どうやら、中野城は嫡男の織田信忠に任されたようです。

貴志南小学校の南側一帯に築かれていた中野城ですが・・。
現在では民家の前に標柱と案内板が設置されているのみです。
この民家の土台となっている石垣は城の遺構と伝えられ、その前の部分がかつての堀でした。

nakanokii (2)中野城の石垣と伝わる遺構と空堀の僅かな現況です。

やや想像力を要しますが住宅街の平城の避けられない姿でしょう。

さて、長かったようで短かった今回の西紀伊の城めぐり。
記事もひとまずこの中野城にて幕引きです。
まだまだ訪問したい城址もありましたがまたの機会とします。

和歌山県の代表的な城郭は東紀州の城と合わせ、ほぼほぼ訪問できましたかね?
いやいや、22城ではまだまだですね~。

そして紀州を舞台として活躍した武将たち。
彼らそれぞれの生き様と少しですが繋がった感ができました。



紀伊 太田城 🏯秀吉による太田城水攻めの舞台となった城

紀伊 太田城 (和歌山県和歌山市太田・来迎寺)
移築・太田城大門 (和歌山県和歌山市橋向丁・大立寺) <市指定史跡>

「日本三大水攻め」のひとつに数えられている太田城を訪ねました。
この城は羽柴秀吉による太田城水攻めの舞台として知られています。
備中高松城、武蔵忍城と比べると知名度が低いのも致し方ありませんが・・。

個人的には「四大水攻め」としてもらって「竹鼻城の水攻め」を加えていただきたいものです。
(ひたすら美濃出身者のわがまま)

IMG_6510.jpg
本丸跡にある来迎寺境内に城址碑、説明版があります。

IMG_6513.jpg来迎寺の太田城石碑。

延徳年間に国造俊連が築き、戦国時代に太田源太夫により修築されました。
織田信長が雑賀を攻めると太田衆はその先導を勤めます。
雑賀衆は太田城を攻めますが、守りの堅い太田城を攻略できずに和議となりました。

羽柴秀吉の紀州攻めでは根来寺などを落とした秀吉軍が太田城に来襲します。
太田党は紀ノ川を渡岸しようとした所を弓・鉄砲で迎撃するなど頑強に抵抗しました。
秀吉は容易に落ちない堅城とみて、水攻めによる攻略を実行し、約一ヶ月の籠城戦で落とします。

IMG_3620.jpg来迎寺の山門脇には説明案内板もあります。

IMG_3619.jpg

IMG_3618.jpg
水責めの戦いで亡くなった方々を弔い、埋葬したといわれる小山塚です。

現在来迎寺の北部に移転された塚です。
花が供えらえてひっそりとしていました。
籠城1ヶ月余り、疲れ果てた太田一族は自刃し、城を開城しました。

IMG_3615.jpg
建物の遺構として大立寺には太田城の大門が移築されて現存しています。

見る影もなくなった太田城址ですがエピソードがいろいろ伝わる奥深い城址です。
紀伊国内の行く末はここ太田衆、雑賀衆、根来衆、といった勢力らの動向如何でありました。
・・あ、あと湯川党さんたちでしたね。(失礼いたしました)



紀伊 和歌山城 🏯紀州徳川氏により「南海の鎮(しずめ)」へ発展

紀伊 和歌山城 (和歌山県和歌山市一番丁・和歌山城公園) 
《国指定史跡》 【日本100名城】

wakayama (3)登城前夜、ライトアップされた天守閣を見上げて。(美しかった・・)

「和歌山県の城ってどこ知ってる?」

自分の身の周りの人々に聞いてみたことがあります。
某SLGの野望シリーズで遊んでいる長男、町内会の旅行好きなおっちゃん、
中にはある程度の城の知識のある方もみえましたが・・。・・さて、いかがでしょうか。

和歌山城でしょ・・、それから・・、・・う~ん・・、うん?」(既に手詰まり・・)

意地悪質問でもないですし、返答に期待したわけでもありません。
和歌山県在住の皆様には本当に申し訳なきことですが、他県ではこれが実情です。
後にも先にも和歌山城こそが無二の代表城、といってしまっていいのでしょう。
(新宮城とかが出てこれば大したもの)

今回はそんな(どんな?)和歌山城を手短ではございますが歩いてきました。

wakayama (2)まず押さえておきたいのは石碑です。(意外と地味な場所にあり)

wakayama (14)
横目地(石の横方向への継ぎ目)がきれいに通った石垣もあれば・・。

waka22 (3)
緑泥片岩を使用した割石による野面積もあり・・。

wakayama (13)
いろいろミックスされた石垣群などの折り重なりが面白いです。

waka22 (1)
本丸の下段の石垣は巨大な根石が算木積されて堂々とした迫力があります。

wakayama (8)見上げた二の門櫓。野面積の脚線美に足が止まりました。

wakayama (7)
天守曲輪に到着。100名城スタンプは右下の受付場でいただきです。

wakayama (6)
天守二の門から入城で~す。

wakayama (9)
北西角部の乾櫓。直下には西の丸と砂の丸が見おろせます。

wakayama (10)
小天守と乾櫓を多聞櫓で結びます。

wakayama (11)
小天守からの頭上攻撃も想定されますが、ちょっとお洒落なデザインです。

wakayama (12)妻壁には銅板張が※青海波模様となってやっぱりお洒落ッス。

※青海波(せいがいは)模様とは・・
青海波は、広い海がもたらす恩恵を感じさせる柄です。
無限に広がる波の文様に未来永劫の人々の平安な暮らしへの願いが込められた縁起の良い柄です。

wakayama (5)本丸から見た和歌山城天守。

天守は三重三層。
一重目屋根に比翼入母屋破風、二重目屋根に唐破風、
最上階に廻縁と高欄を設けて、とてもバランスのよい雅な外観ですね。

ちなみに現在の天守は復興天守です。
昭和10年(1935)国宝に指定されましたが、後、空襲により灰塵に。
それ以前にも落雷による焼失もありました。

wakayama (1)西の丸から見上げた天守はまさに闇に浮かび上がった城、といった感じでした。
(夜の写真はムズカシイ・・)
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

対馬にプチ出国してきました。
7月7・8日と対馬国境マラソンに出場しました。
かつてないほどの災害になろうことを予測しなかったわけではありません。
災害に遭われた方々や関係者様方の気持ちを想えば不愉快な内容になってしまうことばかりかもしれません。
未だ復旧の道筋が見えない中でも、どうか希望を捨てず一日を積み重ねて行っていただきたい、と思い久太郎も復旧ボランティアに参加する意を決心いたしました。
何ができるかわかりませんが、少しでもお力になりたい、と思います。
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