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美濃 串原大平城 🏯遠山七家、串原遠山氏の拠点

美濃 大平城 (岐阜県恵那市串原大平・城山)

いよいよ山城シーズンの到来がやってきました。
ややフライング気味感は否めませんが・・。
8月といえど平野部と違って山間部ははや秋模様。

夏の山城の大敵と言えば、ヘビ、ハチ、クモの巣、等ですが
今年の夏は最大の敵である、蚊が少ない、のが特徴です。
なんでも気温35℃の酷暑日が続くと繁殖力が鈍るみたいですね。

ならば頃合いよし!、ということで、いざ出発です。
久しぶりに美濃の山城に戻ってきました。
今回、スタートダッシュを飾るは旧串原村の大平城です。

kusiootaira (20)夏休み中の串原小学校の丘から望む串原大平城の城山。

今回は城山の東側から登るルートで登城です。(今回で3度目の登城に)
kusiootaira (1)

城は指定史跡もなく、これといった登山道もありません。
広い路肩に車を停めての登城です。
自分はご近所の方に一言お断りをいただき、置かせていただきました。

kusiootaira (18)

消えかかった峠道の目印がこの祠。
ま、ここから直登しても良いのですが・・。
写真のルートで東側の堀切(峠堀?)からの見学です。

kusiootaira (17)
東端を仕切る堀切は、或いは峠道による掘割かもしれません。

しかしながら堀切の内側(城内側)には土塁がみられるので
かつての堀切が峠道に利用された、と解釈するほうが自然です。
ここから西に向かって登っていきます。

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主郭部最高所の南には迫力の巨石が斜面を覆います。

kusiootaira (3)自然石が織りなす天然の石垣も壮観。

こういった巨石を城郭に利用する、という一面は遠山氏はお好きだったのでしょうか?
苗木城岩村城もそうですし、遠山氏萌芽期の広恵寺城なんかも同様ですね。
麓側から仰ぎ見れば難攻不落の城にも見えてしまいそうです。

kusiootaira (7)
主郭部の一段下には通称:「千畳敷」と呼ばれる曲輪が延びています。

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千畳敷から北に堀切を隔てて「雪隠屋敷(せっちんやしき)」を見下ろします。

kusiootaira (9)
千畳敷の南直下には堀切が用意されています。

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主郭部中央の南に落とされた竪堀。

kusiootaira (5)
最頂部に立てられている石碑。

この石碑は直接、城郭に関わるものではないらしいです。
地元の方との聞き取りでは大正時代の山の持ち主と宗教絡みのものだそうで。
「串原大平城跡」の石碑、なんてのがあればなぁ・・。

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傍らには月待供養塔もりました。

kusiootaira (4)
千畳敷から見上げる最頂部。

遠山氏は、本家の岩村遠山氏から各荘地に分散し、居城ごとに分かれて土着します。
「遠山三家(三頭とも)」が岩村、苗木、明知と呼ばれているのが知られています。
そして「遠山七家」というと、岩村、苗木、明知、飯羽間、串原、阿寺、阿木を指すようです。

諸書によってまちまちですが、凡そはこのように呼ばれるようになりました。
このうち、串原城に拠ったのが串原遠山氏です。
(※串原城とは大平城を指すのか、同地内の柿畑城を指すのかは不明)

戦国期の串原城主と思われる人物として遠山右馬助景男と与五郎経景が伝わります。
(※右馬助の諱の「景男」については諸説あり、今回は串原村誌を参照しました)

元亀3年(1572)12月には、遠山右馬助景男らは武田氏の侵攻に対抗し、上村で合戦。
明知遠山氏の景行らと共に上村口で武田家重臣の秋山虎繁らと戦って討ち死にしました。
(あの名将と渡り合ったのですね~)

遠山与五郎経景は明知城主・遠山利景の客分となり各地で戦功を重ねます。
関ケ原の戦いの折には明知城奪還に活躍、旗本・明知遠山氏の再興に貢献しました。

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主郭部北側の切岸はほぼ垂直!這い上がれません!

kusiootaira (10)城域の西を仕切る幅約9メートルの大堀切。

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雪隠屋敷とを隔てる急峻な大堀切。

このあたりの遺構はいかに自然地形に頼った城郭といえども
しっかりと作り込まれているように感じます。
大平城の見所、そして串原遠山氏の城郭理念?を感じます。

以上、ざっと串原大平城を見てみました。
大平城は遠山氏時代の生粋の城郭の姿を残しているようです。
遠山氏城郭の特長やルーツが伝わってきました。

下に図面を掲載いたします。

kusiharaoodainbz.jpg

あと、こんなところにも寄ってきました。

城山の滝 (大平城の下の谷)

大平城の尾根より西、直下の谷の名瀑です。ちょっと寄ってみましょう。
kusiootaira (12)

kusiootaira (13)落差こそないものの、周囲の景観も相成って素晴しい!

ちょとした路肩スペースに駐車して、道路脇から手軽に行けます。(3分くらい・・)
ちょっと、隠れ家的な滝ですが、大平城を見学した後に行けばその魅力も倍増です!
それにしても、・・す、・・涼しい゚。*(*´∀`*)*。゚

マイナスイオンっていうんですか?夏は滝と城もいいですな~。



Ⓢは車両路肩駐車地点。
Ⓖは大平城主郭部。
☑には城山の滝の位置を示しておきます。
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入鹿池 入鹿六人衆の功績と入鹿切れの苦難を乗り越えて

入鹿池 (愛知県犬山市池野地区) 
形式:アースダム(土堰堤)

2018年奥方と巡る夏休みダムめぐり紀行 その② 

お盆が過ぎ、一時的に涼しくなったのを「残暑」と呼ぶにはあまりにも甘い考えでありまして。
ツイン並走台風、局地的大雨、ぶり返す猛暑・・。未だ酷暑の中の日本列島です。

そんな中でも確実に秋の気配を感じる信号を感じます。
気の早いツクツクボウシ、空高い夕暮れ、静寂に響く虫の音、・・・。
そしてダム湖に揺れるススキの穂先よ・・

ということで奥方と休みを合わせて自宅からほど近い入鹿池へと行ってきました。
今年からダムカードが配布されるようになったと聞き及んだからです。
土・日の配布がない、といことで平日にいかないといけないようです。

iruka (5)農業用の人工ため池としては国内有数の規模を誇る入鹿池。
(で、でも、今日は水、少ないな・・(´・_・`))

この場合、先にダムカードを貰いに行くのが賢きか。
iruka (1)
明治村の一部かと錯覚するほどの近代風建物です。

こちら入鹿用水土地改良区事務所でダムカードがいただけます。
配布時間は平日の午前9時~午後4時(土・日・祝、年末年始は配布していません)
配布時に受付にて簡単な記帳をします。これでOK!

航空写真図柄のカードですo(^▽^)o。
itukalado.jpg

iruka (2)入鹿池の集水区域は北尾張平野広くを潤しています。

寛永5年(1628年)、後に「入鹿六人衆」と称される6人の発起人たちによるアイデアでした。
諸流が流れ込む谷間で1つにまとまり、五条川となって南に流れる「銚子の口」と呼ばれる所に着目。
尾張藩に開発届を出し、認可されました。
(当時の犬山藩主・成瀬正虎は尾張藩の付家老でもありました)

iruka (6)
当地には元々入鹿村がありましたが住民を移住させ着工、寛永10年(1633年)に完成しました。

尾張藩は入鹿村の村民に対し、家長(間口)一間につき金一両を払い、転居を促します。
立ち退き先として、まだ開発されていない荒地や、池の畔が充てられました。

また、尾張藩は新田開発を促すため、「給人自分起新田」という制度を認めました。
給人(支給された土地を耕す人)は、土地を開発すれば、その土地の所有を認めるというもの。
但し、開発願を出した後2年以内に開発の端緒を開かなければ、その土地は没収されます。
そしてその後は二度と許可されない、という厳しい掟でもありました。

堤の上をいろいろ散策してみます。
iruka (7)

「棚築(たなずき)工法」と呼ばれる寛永期の技術が伝えられています。
当時の堤防造り名人、河内国から派遣された甚九郎が用いた工法です。
詳しくはダムカードの裏面を見てのお楽しみです。

百間堤(ひゃっけんづつみ)というそうです。甚九郎の功績を称え「河内屋堤」とも呼ばれます。
iruka (8)
真新しい、かんがい施設遺産記念碑。

完成より235年、それまで一度も大きな災害を起こさなかった入鹿池でしたが、
明治元年(慶応4年、1868年)の大雨で百間堤が決壊します。
入鹿池一杯に貯まった水は濁流となり下流の村々を襲い、多大な被害を出しました。

これが「入鹿切れ」と呼ばれる、悪夢の災害です。
被害については死者は1000人近くで、負傷者も1500人にのぼりました。
建物への被害 は甚大で流失家屋で1000戸、浸水家屋12000戸に及びました。

iruka (4)入鹿池の防災ダム事業計画は1991年(平成3年)工事が完了しました。
(この場所は入鹿用水土地改良区事務所のすぐ北です)

iruka (10)

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自由越流式の洪水吐。水がなければ洪水吐の中を歩いて見学もできます。

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明治時代風のデザインを取り入れたという取水塔がなかなかいいです。

散策後は見晴茶屋さんで五平餅とソフトクリームをご馳走になりました。
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店長のおじいちゃんから、いろいろ入鹿池の昔話を教えていただきました。
若い頃の苦労話から人生論まで(笑)・・。ためになって楽しかったです。
客が奥方と2人しかいなかったので格好の話し相手といったところかな・・。ハハ・・。

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池畔には博物館明治村がありますし、池ではボートでワカサギ釣りも楽しめる観光地です。
ブラックバスは大物が釣れることでも有名で、やってみたくなりましたね~。
少しの秋を感じながら、のんびりとダム池散策。・・いいものです。



Ⓖにダムカード配布場の入鹿用水土地改良区事務所を示しておきます。

大和 信貴山城 🏯松永弾正久秀殿に逢いたくて・・

大和 信貴山城 (奈良県生駒郡平群町信貴山・雄嶽・雌嶽) <町指定史跡>

前回の記事では大門ダム見学とダムカード収集について綴ってみました。
大門ダムの背後は朝護孫子寺を経て信貴山城へと続いています。

今回は山城はお預け、・・そう心に決めていたのですが。
(時間的にも山城へ登るには押していましたし・・)
しかしご理解ある奥方の一言で意を決して登ることになりました!

奥方はこんなこともあろうかと、おもむろにアレを取り出します。
「シューズもちゃんと持ってきたわよ~」
・・ムム!?、準備万端ってことですか?・・マジで、素晴らしい!(感激!and 号泣!)

・・後が怖いのですが、とりあえず登城することになりました。

先ずは開運橋を渡って大門池を渡ります。
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バンジージャンプ台なんかがありまして、皆さん度胸ありますね~。

daimonnsigi (32)橋上から改めて信貴山城を見上げます。(南方面から)

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待っててくだされ、松永弾正殿!

こちらの信貴山観光Ii(アイ)センターにて大門ダムカードが貰えます。
松永久秀公のジジカワイイ、キャラが目印です。
私たちが貰いに行ったときは閉店間際だったのでギリセーフでした。

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仁王門を見学していざ、登城です。

信貴山城巡りがメインイベントということなら、寺巡りはオープニング・アクト(前座)。
なんて言うには、大変失礼ですので、可能な限りゆっくりと散策します。
こうしてここに来れるのも奥方のお蔭なのですから、楽しもうと思いました。

こんなかわいらしい虎ちゃんがいれば・・、
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世界一という、・・虎べこ?も吠えています。(手前に対比要員の奥方です)

信貴山は虎との縁繋がりが深いためにあちこちで虎めぐり?もできます。

なんでも・・、聖徳太子物部守屋を討伐する際にこの山に戦勝祈願されました。
すると、太子の頭上に現われた毘沙門天が必勝の秘法を授けたそうです。
奇しくも、その日は寅年、寅日、寅刻だったそうです。

ん?・・、トラ、トラ、トラ?!、・・そうです!
真珠湾攻撃の電文の発祥はここにあったのです!
日本の勝利を願って電文を「トラトラトラ」としたという、あれです!

・・誰でしょう?、あ~あのMAXのノリノリの歌ね~、なんて言ってる方は。
(「TORA TORA TORA」(トラ・トラ・トラ)は、MAXの3枚目のシングル。聴いてます。)

daimonnsigi (11)横笛を吹きながら戦陣に臨む聖徳太子像。

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この多宝塔の裏からいよいよ城山への登山です。

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登ること15分で本丸に到着。(すみません、端折りすぎで・・)

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天文5年(1536)の頃に、最初に城郭として着手したのは木沢長政と伝わります。
天文11年(1542)、河内太平寺合戦で長政は討死し、信貴山城も落城した模様。
その後、永禄2年(1559)、松永久秀が大和へ入国すると、信貴山城を改修して居城としました。

daimonnsigi (15)
信貴山城は雄嶽と呼ばれる信貴山山頂と、南の雌嶽が主郭部とみられます。
そこから北へ派生した各尾根に曲輪を配し、巨大城郭を形成してます。
主郭部一帯は神社の参道やお堂等の改変をうけ、遺構がわかりづらいです。

daimonnsigi (17)空鉢堂からの眺望。今回は霞がかかってあまり視界がききませんでした。

西端部のここに空鉢護法堂(空鉢堂)の部分には四重の天守があったようです。
文献的にも初期の天守存在が指摘されていますので、当時としては最新鋭の城郭だったよう。
改変を受けた主郭部よりも遺構としての見所は松永屋敷と呼ばれる曲輪群にあります。

急ぎ足ですが、そちらに向かうこととします。

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松永屋敷の足下に到着です。

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テンポよく散策できるように周回スロープが用意されていました。
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キャンプサイトのように手入れされた曲輪内部はとても見学しやすいです。

松永屋敷は西の谷間に面した側に土塁を設けて広い平地を連ねています。
北端は土橋状のスロープを上り、広い曲輪に至ります。その手前には虎口もみられます。

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daimonnsigi (19)屋敷で待っていたのは松永弾正久秀公!?ですよね?(これには奥方も大爆笑)

しかし、よくできたアイデア木造作品です。
愛嬌があり、決めポーズもカッコいいです。
思わず一緒に記念撮影をしてしまいましたo(^▽^)o。

逢いたかったです、弾正殿!

daimonnsigi (20)この長い説明文は久秀のことをよく研究した文面となっています。

松永久秀は戦国の梟雄、と呼ばれ、天下の大悪人とも呼ばれてますが・・。

主君・三好氏一族を水面下での謀略で次々と陥れた、というのも根拠はありません。
三好三人衆と共に将軍・足利義輝の暗殺に直接関与した、といのも巷説の一つ。
東大寺大仏殿を戦火に巻き込んだ、というのも確信犯と決め付けられません。
仮にそうであったとしても平安朝期の平重衡同様、故意の所業ではなかったでしょう。

久秀は後、将軍・足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻しますが、
天正元年(1573)、甲斐の武田信玄が没すると多聞山城を明け渡すことで信長に降伏します。

天正5年(1577)、久秀は本願寺攻めの加勢中、再び毛利氏・本願寺等の勢力と反信長勢力に荷担。
信長は子息・信忠や筒井順慶などを主力とする大軍で信貴山城を包囲します。
信長は久秀が所有している名器・平蜘蛛を差し出せば助命すると勧告するも久秀はこれを拒否。

久秀は平蜘蛛を粉々に叩き砕いたのち、天守に籠もって自爆して果てました。
天命に従い、思うがままに戦国を生き切った武人の一人、だったのでしょう。
さて、久秀の信貴山城、在りし日はどんな姿だったのかと想像してしまいます。

無骨な中にも近世へとつながる要素が詰まった名城であったことでしょう。

今回、お付き合いしてくれた奥方には猛烈感謝です!
少しは寂しくなった気持ち和らいだかなぁ・・。
・・夕飯はごちそうしましょうかね。



Ⓢは今回利用した有料駐車場
Ⓖは信貴山城主郭部で駐車用から朝護孫子寺を経た信貴山城へのルートの一つです。


大門ダム 歴史的遺産を受け継ぐダム 

大門ダム (奈良県生駒郡三郷町) <大和川水系実盛川支川大門川>
形式:重力式コンクリートダム

2018年奥方と巡る夏休みダムめぐり紀行 その① 

今年の夏休みは次男が大学受験を控えた夏休み、ということと・・。
長男が語学留学で夏休み中期間は海外へ飛び立って行きました。
子息たちも、皆、それぞれ夢や目標なんかを見据えて頼もしく感じる今日この頃です。

・・それに引き換え我々夫婦は相変わらずの、粛々としたいつも通りの生活です。
よく「可愛い子には旅をさせよ」と言います。・・が。
・・なんとなく取り残されたようで、今年の夏はちょっぴり寂しい気もします。

お兄ちゃん、いってらっしゃ~い!👋(無事に帰ってきてね(涙))@関西空港にて
daimonnsigi (2)

長男も、初めての海外生活です。
期待よりも不安の方が大きいと思うのですが、おくびにもだしません。
現地では言葉、文化、習慣、コミニケション、全てが別世界。
大変なことばかりかと思いますが、楽しんで欲しい、と願います。

笑顔で GOOD BYE!(^-^)/です!

さて・・。関空から長男を送り届けた後、自宅までそのまま帰るのもなんですし。
少しは奥方の気晴らしになるようなスポットにでも寄っていこうか、と思っていました。
助手席の奥方、心にぽっかり穴が開いているかと思いきや・・。

「・・で?、今日はどこの城跡に連れてかれるの??」
「‥参りました・・(´∀`*;)」
さすがに真夏・昼過ぎの山城にはとてもじゃないけど連れてはいけません。

・・ということでこんな暑い日は「ダムに限る」、という結論になりました。(クソ強引に)
daimonnsigi (28)完成してまだ5年程の新しいダム、大門ダムに到着です。

daimonnsigi (5)
上から歩いて天端も歩けます。

平安時代に水をせき止めて造られた大門池の下流に位置しています。
その意味では国内でも歴史ある堤を受け継いだダムといえましょう。
震度5弱以上の地震が発生すると崩壊する危険が高いと想定され、建造計画が立てられました。

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大門池の奥に聳えるは信貴山城!、・・でも、今日はお預けか?

大門ダムは洪水調節・河川維持用水を目的として建設され、2012年に竣工。
堤高35.4m、堤頂長122mの重力式コンクリートダムで、天端は開放されています。
なお、大門池の堤は、学術調査を済ませ、現在は水中に保存されているそうです。

daimonnsigi (7)ダム顔を正面から見られる所まで公園の遊歩道があります。

daimonnsigi (29)
・・ちょっと雑草が多いけれど、この角度はいいです。

daimonndn.jpg
近くの信貴山観光Ii(アイ)センターにてダムカードが貰えます。

もし、時間があったら、すぐ隣の「とっくりダム」にも歩いて行けます。
ダムカードの左下の隅部に映っているのが「とっくりダム」、ホントにすぐ隣です。
自分は、写真を撮り忘れてしまいました、不覚!

さて、暑いので今回は「山城はなし!」、と男らしく公言しました。
しかも時計の針は、はや午後4時・・。もう帰らないと・・。
そうは言うものの、目と鼻の先には魅力満載の信貴山城址・・。

そんな後ろ髪を引かれる思いの中、奥方からの思いがけない一言。
「まだ時間いいよ~、上で松永弾正、待ってるんじゃない??」
「・・え?、いいの、ホントに?!(((o(*゚▽゚*)o)))」

・・奥方、どうやら自分の心の内を透視する能力があるのか?。
(否、単に自分のわかり易過ぎる性格故のみにて候)
ということで、次回、「奥方と行くゆる~い信貴山城めぐり」に変更です!
(ダムめぐり紀行はどうなるんでしょう??)



Ⓢは最寄りの有料駐車場500円/日。(2018年8月1日現在)
  ここからは朝護孫子寺・信貴山城へも近いと思います。
Ⓖは大門ダム天端、ここから南へとっくりダムへも行けます。


三河 畔田城 🏯畔田氏の太平洋に面した断崖上の城

三河 畔田城 (愛知県豊橋市城下町)

お盆帰省、奥方の実家でのんびりしてりゃいいものを・・。
体が欲する城めぐり、抑えきれないこの衝動は制御不可能です。
今回は三河最南端部での遺構が残る城、畔田城(くろだじょう)を見学しました。

ところで自分、小学生時代の夏休みといえば・・。
早朝にラジオ体操、午前中はプール、お昼からは昆虫採集、
ちょいと昼寝をしたら、夕方からは自由研究、プラモ作成!・・でしたでしょうか(^_^;)。

皆さんの夏休みはいかがでしたでしょうか?
(小学生からの生活スタイルにあまり変化がない自分です・・)

mikakuroda (8)
かつては城址入り口にこのような標柱が建てられていましたが・・。

久しぶりに行ってみたら無くなってました・・。
あれだけ「防腐剤を塗っておいてね」、と思っていたのに・・。(思っていただけです)
国道42号線の城下交差点の信号を南に入るとスグの場所です。
(文末に地図をお付けします)

mikakuroda (6)手作り感ある木橋?をニンマリしながら渡ってみます(* ´ = ` *)。

城跡として地元の方々による整備がなされていました。
木橋の強度はやや不安な面もありますが(笑)、なかなかの出来栄えだと思います。
逆にここが見所、となりましょうか。

また国道42号沿いの「城下老人憩の家」にも是非寄ってみるとよいです。
公民館風の玄関口では畔田城の写真や縄張り図、年表等が無料で見学できます。
出入り自由なので気楽に予習復習ができますよ。
(個人所有?かもしれないので写真のアップは控えさせていただきます)

mikakuroda (3)
本丸部分は円形状の平坦地となっています。

本丸からは木々に阻まれて見えませんが・・。
直下には広大な太平洋遠州灘が広がる、崖の上のポニョ、・・じゃない、シロなんです。
「ポニョ、城、好きー」

・・ごめんなさい。

mikakuroda (5)
一刻も早い防腐剤対策を・・。すでに根の部分が・・(笑)。

東観音寺(豊橋市小松原町)の古記録によれば・・。
この寺の寛正二年(1461)の棟札には畔田遠江守とその弟・畔田修理亮の名が記されています。
畔田氏という豪族が周辺一帯を保持していたようです。

他にも畔田氏に関連する城址が市内周辺に三ヵ所ほど伝えられています。
草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(豊橋市畑ヶ田町)、中瀬古館(豊橋市野依町)です。
畔田氏は後に、今川氏、或いは田原城の戸田氏の支配下に属したと思われます。

mikakuroda (10)折角のカッコいい城址碑、ぼ、防腐剤を~!(;д;)

ところで・・とても信じ難い話なのですが・・。
昔は村の集落が城の南側、つまり太平洋側にあった、と伝わります。
しかし、津波による被害、その後の波による浸食などで、平地部は消滅の危機へ。

村人たちは次第に高台へ移り住み、今では城址本丸が最も海に近くなったのだそうです。
「城下」の地名はここからきているそうで、現在は一面の砂浜となり、面影はありません・・。
ホントに信じられないのですが・。

奥方のご両親らも口を揃えて言います。
「浜が年々だんだん狭くなり、海が近づいてきている」・・と。
異常気象による海面上昇に南海トラフ巨大地震の予感・・。

畔田城はその危機を伝え続けている貴重な城址なのかもしれません。

本丸からは周囲の雑木林に阻まれて太平洋が見えませんが、海岸に下りることができます。
ちょっと趣向をこらして夕日なんぞを見に行ってみました。
かつての城下町はこの砂浜の下、だなんて・・。

mikakuroda (2)
美しい夕陽です。夕陽ははいつまでも変わらないといいです・・。

何かを伝えているような夕陽に思えて仕方がない、夕映えの畔田城にて。



Ⓢ付近に駐車場と城址碑あり
Ⓖが畔田城主郭部


遠江 中ノ郷城(松田城) 🏯

遠江 中ノ郷城(松田城) (静岡県湖西市新居町中之郷・城ノ前)

今年のお盆も奥方実家にてのんびりと過ごしてまいりました。
先祖参りに毎年家族でお墓参りに行くのですが、何のご縁か、そこはかつての城址。
お参りしながらどこかソワソワしてしまう自分がいます。

お寺の墓地でカメラを片手に右往左往する所業はもはや迷惑防止条例違反。
しかもお盆の迎え火を焚きながら・・。
一体、自分の心はどこにあるのでしょう??

mituya (4)かつては城址であったと云われる中ノ郷城跡の丘。

現在は浜名湖自動車学校の教習場と清源院の一部となっていて遺構はありません。
かつてはもう少し標高が高い丘になっており、周囲三方を浜名湖に囲まれた湖城であったようです。
中之郷城は「松田城」とも呼ばれ、永正年間(1504-1521)に織田方の松田修理が城主として居城していたそうです。

mituya (3)
城主・松田氏の館があったと伝わる清源院一帯。

mituya (2)
山門脇には、松田修理ゆかりの「駒止めの桜の碑」が建てられています。

mituya (5)城ノ前遺跡の案内版=城跡説明版、と解釈してもよろしいかと。

案内板では、「言い伝えによると」・・と前置きをしつつも、
最後の行に「中世の城があったといわれている」という頼もしい一言。
発掘調査によって検出された「城の堀」とは畝状竪堀であった、との見解もあります。

松田城は永正三年(1506)、今川方の部将中山民部入道生心によって攻め落とされたといわれます。
永正十三年(1516)の「本興寺文書」には中山民部の名が見られることから、この頃には彼が城主であったのでしょう。
永正年間といえば、この時期は駿河・今川氏親の勢いが遠江や西三河地域に延びた頃です。

駿河・今川氏の三河進攻時期に何らかの影響をうけた城であるといえましょう。

mituya (1)
イチジクの木陰ではクワカミキリくんがじ~っと休んでました。



Ⓢは清源院の参拝者駐車場
Ⓖには城ノ前遺跡説明板

三河 石橋城 🏯屋敷の様子がよく残る館城址

三河 石橋城 (愛知県新城市作手清岳寺屋敷・慈昌院)

石橋城は道の駅「つくで手作り村」のすぐ対面にあります。
亀山城からも歩いても、すぐ近くの所ですので一緒に回れるスポットです。
道の駅を拠点に周辺の城めぐりもいいですね。

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石橋城址の慈昌院山門。

isibasi (6)

isibasi (3)境内の奥には案内板が設置されています。

isibasi (4)
北側から西側にかけて土塁がめぐっていて見学できます。

isibasi (2)

isibasi (5)
西方土塁の腰部には石祠が供養されていました。

石橋城は「石橋館」,「弾正屋敷」、とも呼ばれ、中世方形館城の様子をよく残しています。
じっくり見学しても、ササっと見学してもそんなに時間はかかりません。
古宮城や亀山城、川尻城などとコースに入れて見学すると良いと思います。



三河 川尻城 🏯三河奥平氏始まりの城

三河 川尻城 (愛知県新城市作手高里・城山)

前回は奥平氏が居城とし、一族盛衰の決断を下した亀山城について触れました。
武田氏築城の古宮城とセットでの亀山城訪城もおススメいたしました。
・・もし今少し時間に猶予があるのなら、今回の川尻城まで欲張ってはいかがでしょうか。

kawajirimk (1)比高40m程の小山に築かれている川尻城。

作手中学校の西側から見た姿です。
それほど高い山ではないので登城も手軽です。
古宮城、亀山城、と続けて登っても体力的にはまだ余裕のよっちゃんですね。
(・・多分(^_^;))

kawajirimk (2)
軽自動車なら一気に頂上本丸まで行けちゃいます。

公園の南側に駐車場があるのですが、車で一気に林道を駆け上がればそこはもう本丸主郭部。
あっという間ですが、やはり見学には軽自動車がおススメ。
ここは普通自動車ではちょっと厳しいかな・・。

kawajirimk (3)

川尻城は応永年間(1394~1428)に奥平貞俊によって築かれたと伝わります。
上野国甘楽郡奥平郷が発祥という奥平氏が三河国作手に移り築いたのがこの川尻城です。
貞俊はその後、亀山城を新たに築いて、川尻城はその支城となりました。

kawajirimk (5)模擬冠木門が良いです。

現在、川尻城は「創造の森城山公園」として整備されております。

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柵も部分的にこしらえてあり、中世山城の雰囲気も。

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本丸の石段は後世のものでしょうか。

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本丸の高台部には忠魂碑が立ちます。

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主郭部の東に残っている土塁線。

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東へ続く尾根には堀切もあります。

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城郭建築風の厠もきれいで整備されていました。

川尻城では奥平氏初期の城郭なりがよく見学できます。
亀山城と比べると遺構は全く単純なのですが、その素朴さに
まだ軍事的緊張が薄かったころの平和な奥三河を感じました。

kawajirimk (11)作手村オリジナルの統一城址碑シリーズです。ヽ(´∀`)ノ

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亀山城同様、川尻城からもはっきりと古宮城の姿が・・。
(往時の奥平氏はこの古宮の城山にも目を付けていたハズです)

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自然を愛する方なら城山裏手からのダート林道も超おススメです。
(川尻城の尾根続きからの登り口に到着しますよ)

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里山の中を気持ちよく走る(歩きもいいです!)のも楽しみですよ。


三河 亀山城 🏯奥平一族、運命の選択の地

三河 亀山城 (愛知県新城市作手清岳・城山) <市指定史跡>

前回の記事で古宮城を取り上げてみましたが・・。
古宮城までおいでになったのなら、こちらの亀山城に辿り着くのも必然となるでしょう。
逆に申せばこの両城、セットで見学することで効果アップ、印象アップ!です。

どちらを先に訪問するか・・それはあなた次第です!

亀山城は国道301号線沿いにある道の駅「つくで手作り村」の東側の丘上にあります。
道の駅から更に南東側に橋を渡り、ゆうゆう広場の駐車場まで行くことができればほぼ城内。
ここでは美味しい五平餅が食べられる隠れスポットもあります。

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この「亀」、「山」、「城」、「趾」、が目印。

mkameyama (1)
訪問した時は晴天から一転の豪雨明け。・・果たしてラッキーなのか?
(その考え方は自分次第・・。)

ちなみに自分は五平餅が大好物でありやんして・・。
ですから山間部の山城訪問では必ず食する、というのがマイ掟になっております。
飛騨、木曽、三河、信州、他どこへ行くときも超楽しみな日課となっております。

・・さて、そんなことはどうでもいいです。
亀山城の低丘陵は比高も30メートル程ですので手軽に登れちゃいます。
現在は公園としてよく整備されているので散策にはもってこい。

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東南方面、ゆうゆう広場方面からの登城口が便利です。

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ささっと描かれている割には見事な鳥瞰図です。これでいいのです!

主郭の山頂は東西に長い楕円形で周囲に土塁が巡っています。
虎口は東西に土塁に挟まれた平入り虎口がお待ちかね。
大まかな遺構の配置を把握したらいざ、登城していきます。

mkameyama (6)ペイントロードに導かれると、西虎口へとたどり着く。

こちら西の虎口は土橋で小郭の間を連絡します。
もっとも、このあたりの遺構は一部土塁を含めて消失しているようです。
見所はやはり防御意識の高い抱え込み土塁でしょう。

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本丸は周囲を土塁で囲まれて臨戦的な印象を受けます。

mkameyama (5)亀山城址の「図」(小笑)

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本丸からは武田氏築城の古宮城がちらっと見えますね。・・意識しちゃいますね。

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本丸の東虎口。

東の虎口を出ると二の郭につながり、北側に桝形状の虎口が開いています。
二ノ郭も比較的広いスペースがあり、本丸南の横堀部とも連絡しやすいようです。
こちら方面からの登城口も歩いてみるとほぼ全遺構を見学できます。

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主郭の南側には深い横堀が巡っており、その普請ぶりが見所でしょう。

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本丸側との高低差には唸るものがあります。

奥三河山間部にありながらその立ち位置は常に難しい地域です。
16世紀になると、今川氏、織田氏、松平氏、武田氏と配与先を転々とします。
特に武田氏の南下に対しては一族内でその臣従先を分かつなどの悲劇もありました。

忍耐と苦労の連続の末、奥平貞昌(信昌)は長篠城主に抜擢。
その忍耐力は長篠の戦いにおける籠城戦で見事に開花。
史上名高い歴史キーマンとして活躍します。

mkameyama (14)石垣台座には立派な石碑があり、拍手👏パチパチ・・。

奥平氏の運命を賭けた一つ一つの選択は結果的には報われたといってよいでしょう。
亀山の「亀」の如く守勢を保ちつつ、好機には遅々としてでも歩み出す。
そんな奥平氏と「亀」との縁は不思議に他にもあります・・。

信昌の四男、松平忠明が慶長15年(1610)に移封されたのは伊勢国の同じ読み亀山城
正室である徳川家康の長女「亀姫」とは仲睦まじく、大切にしました。
(信昌は生涯一人も側室を置かず・・、いや、置けず??)
亀姫との縁談がまとまったのは元亀4年のこと。‥等々。

なんとなく縁起がいい、奥平氏の礎となった亀山城でした。



三河 古宮城 🏯三河における甲州流城郭の代表塞

三河 古宮城 (愛知県新城市作手清岳・宮山)<市指定史跡>【続・日本100名城】

古宮城は長閑な田園地、比高50m程の独立丘陵に築かれています。
この城は武田氏の家臣・馬場美濃守信春によって築かれたと伝わり有名です。
甲州流築城術の粋を極めた大要塞の姿が素晴らしいのでおススメしたい城です。

furumiya (10)手軽に登れる古宮城のある宮山全景。

そんな古宮城、「続日本100名城」にも登録され、前途洋々なハズなのですが・・。
・・なにせ三河の山間部、交通アクセスが不便なためもあり、
綺羅星の如く名城揃いの愛知県内では後回しにされる一方です・・。

という事で・・美味しい五平餅を食べにも行ってみませんか?(;^ω^)

furumiya (1)白鳥神社前に案内看板がございます。

脇の小さな案内板には名城スタンプの設置場所も記してあります。
スタンプは城址内にはありませんので、お目当ての方はチェックを。
(作手歴史民俗資料館、もしくは近くのコンビニ、Yショップつくで店さんまで)

furumiya (2)
巨大なヒノキに囲まれて、頭クラクラ💫。

furumiya (3)高い土塁に囲まれた主郭南側の桝形虎口。

武田氏城郭によく見られる両袖内桝形虎口と呼ばれる遺構です。
虎口内でクランクが見られ、両脇から横矢を掛ける仕組みですね。
一視点で見られるこれ程の鮮やかな遺構、そうそう見られません!

furumiya (4)
曲輪のラインに沿って土塁がぐるっ、と巡るります。

furumiya (5)
森林自体が非常に手入れされているので真夏の見学でも問題ありません。

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各曲輪には幾重にも横堀と土塁が重ねられています。

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東と西の曲輪間を大規模な堀と竪堀で分かちます。

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土橋から見た大堀切。

furumiya (8)絵に描いたような山城テクニックの目白押しに驚嘆!(*゚Q゚*)。

武田氏の領国境、いわゆる境目の城に多く使われた技法が見られます。
遠江の諏訪原城など、武田氏の家臣・馬場美濃守信春によって築かれたとされる古宮城。
三河に侵攻し、作手の亀山城主・奥平氏を降し、この地における拠点として築かれたのでしょう。

城跡周囲には山全体を総堀と思われるような堀も巡っています。
中世山城の完成型といっていいもので、近世城郭への過程も感じ得ます。
また見学のしやすさもあり、教科書的なわかりやすい山城でもあります。

城郭初心者の方でも充分に遺構を読み解きできる素晴らしい城です。
是非ともその姿に驚嘆して欲しいものです。

・・あ・・美味しい五平餠、写真撮るの忘れちまったです、申し訳なしデス・・(ノ_<)。



プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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