美濃 今城 🏯コンパクトな里山の丘城
美濃 今城 (岐阜県可児市今・愛宕山(通称:おがたやま))
凄まじかった台風が通り過ぎ、我が家もそこかしこで損傷ありです。
その後の長雨に続いて、北海道の大地震、と自然の猛威になす術ない我々。
被害に遭われた方々、そのご家族の皆さま方の一日も早い復旧を願っております。
我が家でも、自然災害を踏まえて備蓄用品の確保や避難経路などの再確認をいたしました。
山城シーズン到来!、と意気込んでいましたが、どうやらそれどころではありません。
しかし、そうした安全な生活基盤あっての趣味でございます。
備えあれば患い無し、です。
(殷の宰相傳説の言葉)
・・ということで今回は近場の山城も再確認!という、まぁー強引なこじつけでして。
岐阜県可児市の今城を訪問しました。
(春にマラソンの練習で寄った時の一コマになります)
山麓の菜花越しに遠望する今城の愛宕山。
この城址は2017年に可児市で開催された「山城フェスタ」で一躍有名になりました。
雨の中、登城された方々も沢山みえるのではないでしょうか?
城郭遺構がしっかり残っている教科書みたいな山城ですね。
春には二の丸や東側に桜も美しく咲き誇ります。

新しい今城城址碑と整備途中の遺構が浮かび上がってます。くぅ~、登りたい!

三の丸から見学できるコースが整備されています。
写真の奥には三基の五輪塔が確認できます。
(お写真は控えさせていただきます)
昔から小池氏関連ものとされ大切にされている塔だと伺いました。

非常に状態がよい井戸址です、雨続きになると・・、
ちゃんと水が溜まるようになっています。↓(スバラし~)


少しわかりずらいですが、本来の大手口は桝形虎口となっています。

香川元太郎氏のイラストレーション付説明版がとってもわかり易いです。
自分にもこんなイラストが描けたなら楽しいだろうな~と思います。
『もしも城鳥瞰イラストピアノが描け弾けたなら』、・・なんて。
頑張って挑戦してみようかなぁ~。(弟子入りしたい久太郎です)
三の丸から見上げる本丸切岸。
(・・ちょっと伐採しすぎかな?・・ハハハ(^_^;))

三の丸から二ノ丸へ。(本丸から見下ろしています)
二ノ丸から見る眺め。快晴の日には御嶽山もはっきりと拝めますよ。
二ノ丸と本丸との格間には横堀で画されていて・・、


土橋を渡って本丸へと繋がります。
本丸には近年に立派な東屋が建てられました。
「今城址を整備する会」の皆様の地道な整備作業で生まれ変わった感じです。
以前に来訪した時は鬱蒼とした森でした。
東屋の柱には城主・小池家継さんからの歓迎メッセージが書かれていますよ!
この本丸に立つと遺構の導線がしっかりと理解できます。
上から見下ろすと斜面の鋭さに仰天します!
別位置から・・↓


本丸から南尾根へ通じる虎口は喰い違い虎口となっています。

両脇にはしっかりとした厚みのある土塁に挟まれており、防御性を高めています。

尾根伝いには土橋付の堀を経て連絡できます。
農園にいらっしゃった現地の古老の方にお話しを伺ったところ・・。
この堀、昔はもっと深さもあり、幅も広く、本丸東側にまで連なっていたそうです。
農業用の耕作道整備でかなり埋められてしまったらしいです。
東側の横堀はほんの僅かながらその姿をとどめているようです。
これより下部・尾根伝い周辺はは大部分が果樹園となっています。
それでもきっと、昔から「殿様の城」に手を加えることをなるべく控えてきたのでしょうね。
現地で古地図と見比べてみるのも面白いですよ。
全ての施設が本丸から目の行き届く範囲に収まることが最大の特長です。
小城の強み、本丸からの指示を直接差配・反映させることができるでしょう。
コンパクトにまとまり、なかなかどうして技巧的な縄張りです。
(この表現はなかなかどうして最近使いませんが・・)
今城は天文年間(1532~1555)に小池刑部家継によって築かれたといわれています。
小池氏についての詳らかな伝承はあまり伝わっていません。
兼山城主であった森長可の退去命令に従って城を退去し帰農したと伝えられます。
・・でました、横取りジャイアン鬼武蔵、森長可!
「オマエのモノは俺のモノ、俺のモノも俺のモノ」
電光石火の東濃平定の裏にはこんな脅迫作戦もあったのですね。(怖・・)
したがいまして、現在の遺構は小池氏時代の姿にプラス、
森氏摂取以降の手を加えられた姿かもしれませんね。
尾張口と美濃口を繋ぐ重要な位置にあるが故の手直し、だったのでしょう。
現在でも周辺には小池氏のご子孫の方々がたくさんお住まいです。
(今城の西に位置する八幡神社から撮影)
遺構が見やすかったので縄張り図も描かせていただきました↓。

城跡への見学は今公民館の駐車場から徒歩で目指すと雰囲気があると思います。

今城に足を運んでいただけるとわかると思いますが、
今も昔も地元の方々に大切にされているのがとても伝わってきます。
現在、「今もふるさとの城である、今城」、でした。
Ⓢの今公民館に駐車させていただきました。城跡までの案内図があります。
Ⓖに辿り着きます。今城城址碑と案内図をみて見学できます。
凄まじかった台風が通り過ぎ、我が家もそこかしこで損傷ありです。
その後の長雨に続いて、北海道の大地震、と自然の猛威になす術ない我々。
被害に遭われた方々、そのご家族の皆さま方の一日も早い復旧を願っております。
我が家でも、自然災害を踏まえて備蓄用品の確保や避難経路などの再確認をいたしました。
山城シーズン到来!、と意気込んでいましたが、どうやらそれどころではありません。
しかし、そうした安全な生活基盤あっての趣味でございます。
備えあれば患い無し、です。
(殷の宰相傳説の言葉)
・・ということで今回は近場の山城も再確認!という、まぁー強引なこじつけでして。
岐阜県可児市の今城を訪問しました。
(春にマラソンの練習で寄った時の一コマになります)

この城址は2017年に可児市で開催された「山城フェスタ」で一躍有名になりました。
雨の中、登城された方々も沢山みえるのではないでしょうか?
城郭遺構がしっかり残っている教科書みたいな山城ですね。
春には二の丸や東側に桜も美しく咲き誇ります。



三の丸から見学できるコースが整備されています。
写真の奥には三基の五輪塔が確認できます。
(お写真は控えさせていただきます)
昔から小池氏関連ものとされ大切にされている塔だと伺いました。

非常に状態がよい井戸址です、雨続きになると・・、
ちゃんと水が溜まるようになっています。↓(スバラし~)


少しわかりずらいですが、本来の大手口は桝形虎口となっています。

香川元太郎氏のイラストレーション付説明版がとってもわかり易いです。
自分にもこんなイラストが描けたなら楽しいだろうな~と思います。
『もしも
頑張って挑戦してみようかなぁ~。(弟子入りしたい久太郎です)

(・・ちょっと伐採しすぎかな?・・ハハハ(^_^;))

三の丸から二ノ丸へ。(本丸から見下ろしています)

二ノ丸と本丸との格間には横堀で画されていて・・、


土橋を渡って本丸へと繋がります。

「今城址を整備する会」の皆様の地道な整備作業で生まれ変わった感じです。
以前に来訪した時は鬱蒼とした森でした。
東屋の柱には城主・小池家継さんからの歓迎メッセージが書かれていますよ!
この本丸に立つと遺構の導線がしっかりと理解できます。

別位置から・・↓


本丸から南尾根へ通じる虎口は喰い違い虎口となっています。

両脇にはしっかりとした厚みのある土塁に挟まれており、防御性を高めています。

尾根伝いには土橋付の堀を経て連絡できます。
農園にいらっしゃった現地の古老の方にお話しを伺ったところ・・。
この堀、昔はもっと深さもあり、幅も広く、本丸東側にまで連なっていたそうです。
農業用の耕作道整備でかなり埋められてしまったらしいです。
東側の横堀はほんの僅かながらその姿をとどめているようです。
これより下部・尾根伝い周辺はは大部分が果樹園となっています。
それでもきっと、昔から「殿様の城」に手を加えることをなるべく控えてきたのでしょうね。

全ての施設が本丸から目の行き届く範囲に収まることが最大の特長です。
小城の強み、本丸からの指示を直接差配・反映させることができるでしょう。
コンパクトにまとまり、なかなかどうして技巧的な縄張りです。
(この表現はなかなかどうして最近使いませんが・・)
今城は天文年間(1532~1555)に小池刑部家継によって築かれたといわれています。
小池氏についての詳らかな伝承はあまり伝わっていません。
兼山城主であった森長可の退去命令に従って城を退去し帰農したと伝えられます。
・・でました、横取りジャイアン鬼武蔵、森長可!
「オマエのモノは俺のモノ、俺のモノも俺のモノ」
電光石火の東濃平定の裏にはこんな脅迫作戦もあったのですね。(怖・・)
したがいまして、現在の遺構は小池氏時代の姿にプラス、
森氏摂取以降の手を加えられた姿かもしれませんね。
尾張口と美濃口を繋ぐ重要な位置にあるが故の手直し、だったのでしょう。

(今城の西に位置する八幡神社から撮影)
遺構が見やすかったので縄張り図も描かせていただきました↓。

城跡への見学は今公民館の駐車場から徒歩で目指すと雰囲気があると思います。

今城に足を運んでいただけるとわかると思いますが、
今も昔も地元の方々に大切にされているのがとても伝わってきます。
現在、「今もふるさとの城である、今城」、でした。
Ⓢの今公民館に駐車させていただきました。城跡までの案内図があります。
Ⓖに辿り着きます。今城城址碑と案内図をみて見学できます。
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