FC2ブログ

美濃 下村城 🏯畑となろうとも面影が残る城

美濃 下村城 (岐阜県恵那市上矢作町下増沢・城)

驚いた事がありまして、10月も終わりに近づき、11月になろうとしているこの陽気。
自分の耳を疑いました。確かにツクツクボウシが間近で鳴いているのです。
かつての美声はどこへやら、それでも命消えるその瞬間まで懸命に生きる姿です。

そんな「生きる運命(さだめ)」を感じながらの城めぐり(疲れてんのかな・・)。
今回は前回の小田子城から北上、旧上矢作町、下集落の下村城を訪ねました。
下村城は別名が沢山あります。山室城(やまむろじょう)、小御所城(おごそじょう)、等々です。

simomura (3)新澄ヶ瀬橋近くから眺める下村城。

simomura (2)
「澄ヶ瀬」の名の通り澄み切った美しい清流・上村川。ウグイが泳いでら。

恵那市上矢作町に昔から伝わるお祭り「熊野神社 春の大祭」が面白いです。
大祭では、夜になると熊野神社に地区ごとの神輿が集まり、「けんか神輿」が始まります。
小田子地区と下地区の神輿どうしが境内でぶつかり合う様子は勇壮で迫力あります。

simomura (4)
増沢集会所の空き地に駐車させていただきました。ここのすぐ上が城址です。

主郭部はおおむね畑となっています。
simomura (8)

畑では仕事を一休みされていたおばあちゃんにいろいろ教えて頂きました。
なんでも、お嫁さんにいらしたときから、ここはもう畑になっていたそうです。

城の西を通っている現在の県道はかつて堀になっていたそうで今より細かったんだとか。
そして東の腰曲輪には井戸があったそうです。(現在は確認できませんでした)
また周辺の地名の由来と場所を教えていただきました。

地名には市場、牧場、小御所(おごせ)、堀、射去(やだれ)等、城に関する地名が多く残ります。
また下村城の南は増沢川、東は上村川が流れ、周囲は河川と湿地帯で守られていたようです。
・・おばあちゃんとの談話はとても楽しいひとときでした(^▽^)♪。ありがと!

simomura (7)
曲輪の輪郭もどこまでが往時の姿か見当がつきません。

simomura (5)
かつては大堀切があったという「堀」という屋号も現在は県道となっています。

simomura (6)この傾斜角はおそらく当時の城の面影が残っている部分かと思われます。

simomura (9)下村城から見渡す下地区の城下。

城主の言い伝えも口伝、文献共に一致をみません。
こうした城名が複数伝わるのも、それだけ城主が変わったことも示しているようです。
基本的に恵那郡遠山氏勢力⇒武田方勢力⇒再び遠山氏の遍歴で差し支えないでしょう。

比較的信頼性のある『丹羽氏聞書』によれば戦国末期の城主に遠山市左衛門が伝わります。
また天正期には串原遠山氏の城代として大嶋(大島)兵衛五郎の名も伝わっています。
『美濃諸旧記』に見られる下村丹後守幸近は諱の組み合わせから武田方の関係者とも思われます。

下村城は三河・信濃から岩村へとつながる重要中継地点であったようです。
そして串原、明知方面にも最短距離で連絡できる分岐位置にありました。
豊富な地名や街道のつながりが今でもそれを伝えているようです。



Ⓖは下村城の主郭部。増沢集会場から見学できます。
 当然ですが、畑ですので無断での立ち入りは厳禁。
 城址碑・案内版などはありません。
スポンサーサイト

美濃 小田子城 🏯信濃国境に向けられた城

美濃 小田子城 (岐阜県恵那市上矢作町小田子乙原)

秋の深まりと共に城めぐりも趣あるシーズンを迎えております。
訪れる城址へ向かう途中でも、また現地の城址でも見事な色付きに癒されます。
紅葉も楽しみながらの城めぐりはなんだか気分もゆったりしています。

さて・・少し前に旧串原村の福原城を記事で紹介させていただきました。
福原城の北には福原山が控えており、福原城の後備えの役割があったそうです。
(福原山はまだ未踏なので、今度また調査に登ってみようかと思っております)

その福原山からの支峰尾根上にはもう一つの城が存在します。
福原城が主に三河国境に向けられているとしたらこちらは信濃国境に向けられている城でしょうか。
それが今回のご紹介の小田子城(こだこじょう)です。見ていきたいと思います。

kodako (10)対岸の三河押山集落(豊田市稲武町)から見た小田子城。

小田子城は上村川と矢作川の合流地点右岸に構えられた城。
ここから矢作川沿いに東へ10kmほどで信濃の根羽村へと繋がります。
福原城同様、三河と信濃の国境に位置しますが、主に信濃方面を意識しているようです。

kodako (4)
小田子橋の脇には根羽方面を示す古い道標があります。

小田子橋は渡河地点として古い時代からこの位置に架かっていたようです。
小田子の郷土史にお詳しい方からいろいろ教えていただきました。
城址への登り口(大手道)もこの橋上にあったようです。

現在の登城口は消滅してしまいましたので乙原集落の東口から登ります。
※個人宅の敷地をまたぐので注意が必要です。
先ずは中部電力さんの送電鉄塔を目指して登ります。

tettousinnro.jpg
こちらは近年置き換えられた新しい送電鉄塔です。

鉄塔に出たら尾根沿いを西方面に伝います。
しばらくすると急斜面になって山腹に土橋が現れます。
ブッシュでこの土橋を見落とすかもしれませんんが・・。

kodako2 (1)
かわいい土橋で見落としそう・・。両脇はしっかり堀切になっています。

kodako (5)
南に回り込むと大手腰曲輪を分断する大きな竪堀があります。

大手の腰曲輪は南尾根からの備えを担っています。
kodako (2)

ブッシュで写真では示せませんが虎口は主郭部の東側。
受け曲輪を設けて喰違い虎口の様相をしています。
わかりづらいので今回は下に縄張り図を図示してあります。

kodako (1)
主郭部にはかつての送電塔の基礎が4支点残っています。

以前、自分がこの城を2回訪問した時はここに送電塔が立っていました。
・・なにかえらく時間が経過したような気になって、
「オレ山城歴何年なんだ??」と誰もいない山の中でニヤニヤしてしまいました。

kodako (6)
主郭部本丸部の様子。奥には低い土塁があります。

土塁の上をよく見てみると・・
kodako (7)
投石用でしょうか?礫石が沢山固めて置いてあります。

kodako (9)
主郭部周囲の切岸は高く腰曲輪からはうんと見上げるかたちになります。

kodako (8)尾根続きを堀切で遮断し、堀底に土橋を設けています。

kodakosuke.jpg小田子城のスケッチ縄張り図。

小田子城は元々は福原城同様、恵那郡の遠山氏によって築かれたのでしょう。
しかし岩村城が落とされて後、この地域一帯の城は武田方勢力による改修を受けたのでしょう。
小田子城も城の東側にその改修痕跡が見られます。

元々は曲輪として繋がっていたであろう大手腰曲輪や喰い違い虎口はその可能性があります。
特に堀切と竪堀との連動手法には、武田氏方の特徴がみられます。
・・しかし主郭部西側にはかつての遠山氏時代の面影が残っているようです。

kodako (3)両河川の合流点を見下ろす位置にある小田子城。

小田子城が聳える山のその先の向こう、信濃へはもう間近。
遠山氏時代にあっては国境監視城として、武田氏時代にあっては重要中継城として。
その歴史が詰まった遺構、山容、美しい自然をいつまでも大切に残していきたいですね。



Ⓢの小田子橋の安全帯に駐車しました。
Ⓖが小田子城の主郭部、中電鉄塔を目指して登りました。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

最新登城記事
カレンダー
10 | 2018/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新コメント
検索フォーム
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
リンク
来城者数