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美濃 天王山城 🏯霊山・天王山山上の絶景城郭

美濃 天王山城 (岐阜県美濃市大矢田・天王山)

年末から遠征が重なり、薄い内容ながらも律義に記事にしてしまいました。
どの城も印象深く、また一緒に同行していただいた城友さんとの楽しい思い出・・。
成人を迎えた長男の晴れ姿・・、流し目して先には進めなかったからです。

その間、地元周辺の山城にも足を運んでみました。
広大な城でなくとも、感じる心さえあればどんな小さな城でも感動があります。
今回は久しぶりに地元・美濃からの愛すべき山城レポートを発信したいと思っております。

その名も名称がカッコいい「天王山城」です。

tennou (1)大矢田神社背後の天王山頂上一帯が城址です。

秋になると大矢田神社の紅葉はその美しさでとても賑わいます。
自分も家族を連れて、もみじ鑑賞と名物の田楽を食べに来たこともありました。
また室町時代から伝わるという大矢田神社のひんここ祭りも有名です。

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大矢田神社の楼門を見学していきます。

tennou (3)
神社の中にも仏教式の素晴しい門が残っています。

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山を登る前に長~い階段にて本殿まで歩みます。

創建は養老2年(716)、天王山禅定寺として泰澄大師がこの地に開基しました。
祠はその一部となり、牛頭天王として習合されます。
天王山の名も、大矢田神社の祭神、牛頭天王に由来しています。

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大矢田だけに、弓矢です。・・か?(無知です)

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拝殿の前を抜け、本殿の東側脇から山頂に向かいます。

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楓の滝に到着。

「楓の滝」あり、「どんびき岩」なる奇岩あり、大モミジあり、と飽きることないトレッキング。
欲を言えば、本当は紅葉全盛の時に来れたら絵的に良かったのですが・・。
縄張り図作成をするには人の気が少ない真冬の時期の方が落ち着きますので・・。

tennou (12)
山頂手前の尾根に到着。

ここで天王山方面と誕生山方面へと分岐します。
先ずは天王山頂上に向かいます。
・・ここでネタばらししちゃいますが、実は主郭部は山頂にはありません。

tennou (20)
山頂部手前の土橋っぽい横には・・。

tennou (17)片堀切ですがざっくりとえぐれています。

tennou (18)天王山頂上です。

山頂部は平地は残るものの、岩盤があちこちで露出しています。
明瞭な切岸も認められず、堀切を除けばあまり手を加えられた様子がありません。
しかしながら、ここ頂上からの眺望は本当に見事でした。

tennou (9)どこまでも重なり合う美濃の山並みです。

冬の澄んだ空気に折り重なる山々は何ともいいものです。
この地が『美濃』の表記されるようになった理由がおのずととわかる気がします。
城址に来ているのに、散策そっちのけで景色を楽しんでしまいます(笑)。

tennou (16)美しい野です、美濃・・ですねぇ∠( ^ o ^ ┐)┐。

tennou (19)
遠くに木曽の御嶽山もよく見えました。

・・そろそろ主郭部の遺構へ行ってみましょうか。
先程の尾根分岐点から誕生山方面へと向かいます。
頂上からみて東側の尾根に展開しています。

tennou (14)
櫓台のような土壇があります。

tennou (15)主郭部の曲輪の様子。一部石垣も見られます。

石垣は或いは石積み、と表現したほうが適切かもしれません。
いわゆる土留め用程度のもので、個々の石の大きさも小さいチャート状のものです。
東西に細長い曲輪ですが東側端部には土塁も見られ、その先には大堀切へと連なります。

tennou (13)深さ5m程の大堀切が遮断します。見た目薬研堀ですね。

天王山城は頂上部を含み、3つの山頂部を利用して構築されています。
主郭部が、一番眺望が優れ要害性のあるはずの頂上(鞍部に堀があるのみ)ではなく、
東尾根先端部に主郭部が置かれたワケとはなんでしょう??・・。

いろいろな理由が考えられます。

①、頂上一帯が岩盤地面で作事普請しずらかった・・。
②、山頂部は神宿る霊山の聖域として最小限の普請に留めた・・。
③、大桑城から見た東の出城として東方面の連絡重視をした・・。
④、飛騨方面・或いは郡上郡方面からの攻撃に備えた・・。

・・などでしょうか?
今回は作製した図面を掲載したいと思います。

tennousai.jpg3つのピークからなる天王山城です。

天王山城の城主としては後藤正元・正長(正元の次男)の名があがっています。
正長は天文11年(1542)大桑城にて土岐頼芸斎藤道三が戦った際、土岐方に属したようです。
大桑城とは位置関係的にも本城・支城関係にあったのかもしれません。

山頂からの景色が素晴らしいので眺望写真ばかりになってしまいました。
登山途中にも何人かのハイキングの方ともすれ違いましたし、やはり人気スポットのようです。
頂上でお話しさせていただいた方の中には、なんと毎日!登られているという方も。・・尊敬。

城址見学だけでなく縦走ハイキングも楽しめそうな天王山城でした。


Ⓢは大矢田神社の登山者用駐車場をお借りしました。
Ⓖは山頂東尾根にある天王山城の主郭部。登山時間は登り50分ぐらいみます。
結構ハードですが、モミジや滝を鑑賞しながらゆっくり登れば亦楽しからずや。
頂上からの絶景が疲れを吹き飛ばします。

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丹波 周山城 🏯光秀公築城の周山城をトレラン

丹波 周山城 (京都府京都市右京区京北周山町・城山)

丹波八木城、園部城、丹波亀山城を見学した後、京都中心部に戻ります。
それぞれの城跡でそれぞれの感動に出遭い、妙に楽しい帰路ですが。
・・でももう一つぐらい山城を回る時間があることに気付いてしまいました。

そこでまず一番に頭をよぎったのが今回の周山城。
しかし京都市、といっても山深い京北の地です。・・遠いですし、迷いました。
・・でもそういえば今日は走ってないし、走れそうもないから、いっそここで・・。

そう、腹は決まりました。周山城、トレラン訪問に決定です!

賢臣の恐察:「・・殿、進む方角が違うようですが・・」
愚殿の声:「・・目的は丹波・周山城にあり!」
賢臣の諫言:「・・し、しかし、京にて若殿との約束刻限に間に合いませぬぞ!」
愚殿の声:「・・そ、そこは俊敏な足で時短見学ということで・・」
賢臣の悲痛:「は?・・、果たして能うのですか??」
愚殿の開き直り:「能う、能わす!」
賢臣の落胆:「・・でた、いつもの見境いなき突発性症候群よ・・」
(少なくとも「賛同いたしかねる」という反抗的キャラはいない・・)

「煩悩寺の変」勃発。

ということで、頭の中は大河先取り気分に・・。

syuuzann (1)弓削川左岸奥部に築かれた周山城遠景。

天正7年(1579)明智光秀は宇津氏の宇津城を攻略します。
宇津氏によって横領されていた禁裏御料所を復した功績は朝廷への覚えもよかったようです。
その後、周辺の土豪衆を押さえる為、また京と若狭を結ぶ街道の押さえとして周山城を築きます。

周山城主には、光秀の従父弟・明智光忠が八上城より来城したようです。
光忠は、信頼のおける貴重な一門衆だったことがうかがわれます。

光秀は、丹波支配のための居城として丹波・亀山城を築き着々と基盤を固めました。
福知山城に明智秀満を、黒井城に斎藤利三を、八上城に並河飛騨守明智掃部?)。
そしてこの周山城に明智光忠を配したのです。

syuuzann (2)国道162号線沿いのJA京北前のバス停に案内板があります。

syuuzann (21)
京都トレイルコースとしても整備されています。

今回の訪問は半分はトレラン練習ということで(ホントか・・)
車は少し距離がありましたが京北町役場隣のウッディ京北さまの駐車場をお借りしました。
辺りには目ぼしい駐車場も見当たらないのでここがベターかと思われます。

syuuzann (3)
登山道入口にも案内板があってわかりやすい。

syuuzann (20)
行く手を遮る倒木がたくさんあるのですが・・。

丸太や倒木がごろごろ横たわっていました。
走りながらとっさの判断でジャンプパスしたり、潜ってみたり、またいだり・・。
なんだかスーパーマリオになった気分で楽しめます。

syuuzann (4)
間伐もされているので、コースとしては進みやすいです。

syuuzann (17)
東尾根の曲輪に到着、NHKテレビ受信設備があります。

syuuzann (5)足元には小さいながら『周山城』の石碑があって嬉しい(^o^)。

麓からここまで走りづめで心臓バクバク!
少し脈拍が落ちつくまで小休憩・・、ハァ、ハァ、ハー・・。
ふと後ろを振り返ると、こんな景色に癒されました。

syuuzann (18)丹波らしい山々が重なる物音少ない静かな景色でした。

息は整い、みるみる汗が引いていき、疲れもとんでいく瞬間です。
ここにはまた帰り道でも立ち止まるポイントになりました。
さ、頂上まであと少し(多分・・)。

syuuzann (6)
頂上手前、最期の急峻な山肌も果敢に走破!。

再び心臓バクバク、汗はダラダラ・・。
しかしこの心臓の鼓動は未だ目にしていない遺構への高まる期待感からかもしれません。
徐々に目に入ってくる石垣片にかえって力がみなぎってくるのであります。

syuuzann (16)
虎口を経て、主郭部の東郭には長~い土塁が延びていました。

syuuzann (8)整えられた頂部・広い郭内に到着です。

syuuzann (14)
本丸に備えられた簡単な縄張り図面も参考になりました。

syuuzann (15)方形に崩れた様子からして天守台かと思われる。

どうやら穴蔵を有する天守台だったようです。
また天守台北側には井戸跡も残っていました。
それにしても本丸一帯はかなり徹底的に破却された感じを受けました。

syuuzann (7)
周囲・角部の土塁は残存状況がいいです。

syuuzann (9)
西曲輪方面の虎口。

syuuzann (10)「生き残った」ともいえるキセキの高石垣。

・・おそらくこの程度の石垣が本丸周辺から累々と延びていたのでしょう。
よくぞ崩されず、また今日まで崩れずにきたものです。
魅せてくれますね・・。

syuuzann (11)
西曲輪の北側は延々と続く石垣が見所。妙な横移動になっちゃいます。

syuuzann (12)
たまりません・・、アップで撮らせてください。

syuuzann (13)
確認できる石階段一段一段からでも想像できることが沢山です。

北山杉に囲まれる中、静寂に包まれた空間に荒石垣は続きます。
そして崩れされた石垣、風化で荒れた部分等にも思いを馳せることができましょう。
ここに光秀築城と伝わる周山城の醍醐味を感じました。

また、周山城は非常に規模が壮大で、一度の探索ではとても全容はつかめません。
今回、自分はトレラン、トレイルランニングということでの登走です。
「上り下りと見学時間で1時間」、という無謀な都合もあり、見学できないところが沢山・・。

事実、南の尾根曲輪には行けませんでした。
また西の離れ出丸には周山城の土の城もあるとの事。
「見たかった」という後悔も正直ありました。

syuuzann (19)
下りは疾風のように駆け下る。

そろそろ帰らないと京都での長男との約束時間に間に合いません。
また来れたらいいな、という募る念をのこしながら周山城をあとにしました。
次の日、地元で成人式を迎える長男、その迎えついでに山城三昧の呆れ父。

どちらもホクホク顔で地元・岐阜へと向かうのでありました。


㋹は駐車場をお借りした道の駅ウッディ京北さん。
Ⓢは周山城登山口。
Ⓖは天守台などの主郭部。徒歩なら50分前後でしょうか。
・・そんな方はいないと思いますが走れば15分で到着します(笑)。

丹波 亀山城 🏯明智光秀公の丹波攻略拠点を散策

丹波 亀山城 (京都府亀岡市荒塚町)

丹波・八木城と園部城を見学して京都方面に取舵一杯!
その足で丹波・亀山城に寄ってみました。
郷土の英雄・明智光秀公の夢の址に是非立ち寄りたくて・・。
(大河ドラマの予習も兼ねて・・)

さて・・、といっても現在の丹波亀山城は新興宗教団体「大本」の宗教施設内となっています。
城の一部は許可をいただいたうえで見学が可能、ということで行ってみました。
ちょっとドキドキしましたがそこは亥年の男、プチ勇気で突入してみます。

見学にはちょっとした段取りがあるのでご説明しながら・・。

(※宗教施設ということで関連施設の画像は極力控えさせていただきます。)

①駐車場
見学ということであるのなら大本本部の大駐車場に駐車可能(無料)です。
京都での観光に慣れていると有料かと思いきや意外に無料でした。(ありがたいことです)
行きかう方たちは皆さん礼儀正しく挨拶をされるので、かしこまってしまいます。

tannba03 (70)大本本部の案内図。

あくまで「大本本部」としての案内図。誰が見ても頂部一帯は城址だとわかるのですが・・。
そこには「本丸」とか「門址」とかいう図示は見当たりません。
宗教関連施設名での説明が既に別世界となっているようです。

②見学受付
正面のみろく会館内の左手受付にて見学の旨を伝えます。(拝観料も無料です)
記帳に氏名と住所を記入。目的欄には「城跡見学」の項があり、〇で囲みます。
すると事務員さんがご丁寧に亀山城の簡単な説明・案内をして頂きました。
館内2階では城に関する絵図や写真なんかも見学できます。

tannbakame (1)
内堀の一部であった万祥池。

③万祥殿にてお清めのお祓い
再度、万祥殿右手の受付で城跡見学の旨を伝えます。
すると巫女さんが(神社でいう)オオヌサでお祓いしてくれます。
低頭してけがれを払い落としていただく簡単な儀式です。

・・「お直りください。」(・・お、終わりましたか??)

さ、これで晴れて城跡にパスできます。
左側の小さな門から堂々と城跡へ向かうのであります。
ちょっとめんどくさいかもしれませんが「郷に入りては郷に従う」ことで。

IMG_8438.jpgいきなり現れる天守台に心の準備が伴わない・・(^_^;)。

よく画像で見かけるお決まりの写真ですが結構迫力あります。
積み直しされているようですが、見た目全くわかりませんでした。
この石垣の前に立つと、そういったことも些細なことに思えてしまいます。

IMG_8436.jpg
扇の勾配、反りからの上部・直積への勾配が美しい。

IMG_8434.jpg
明らかなる積み直しですが、角部が鋲状になっているのが面白い。

IMG_8430.jpg画角を変えるとまた違った迫力が増します。

IMG_8441.jpg
ここから先、上部へは「聖域」のため立ち入りはできません。

「聖域」・・と言えば・・。
車田正美さんの『聖闘士星矢』か池上遼一さんの『サンクチュアリ』以来だろうか・・。
(・・所詮、自分の頭の中はその程度なのか)

ダメだと言われると見たくなるものですが、・・やはりやめときましょう。
足元にはセンサーらしきものも・・、イノシシにも罠を嗅ぎ分ける能力くらいはある。
第一、拝見する側としてのマナーは守らなければいけません。これ常識。
(ここでは試されている感がある)

IMG_8446.jpg
石蓋された井戸らしきものもありました。

tannba03 (79)明智光秀公築城亀山城跡の石碑は公園の片隅にあります。

tannba03 (77)
公園にはブロンズ製の鯱瓦もモニュメントとして飾ってありました。

tannbakame (2)
南郷公園一帯には外堀が廻っています。

tannba03 (76)
現地では明智光秀公の城下町史跡めぐりも。

こちらも大河に向けて準備が整いつつあります。
美濃可児、近江坂本、丹波福知山、等、どこでも光秀公は人気です。
彼が平定した土地はどこも城下町や交通・産業が発展したとこばかり。

敵同士で戦い合った武将ともどことなくお互いフェアな面を感じます。
個人的な想像ですが、きっと泰平の世につながる治世を施した証なのではないでしょうか。
戦いに戦いを重ねていくのではなく、その先には彼が目指した理想の『聖域』があったものかと。

そしてここ丹波亀山城は大いなる決断に踏み切った、彼の運命を分けた地になりました。

tannba03 (72)『聖域』へとつながる階段と折り重なる石垣。

亀山城の見学できる地域は限られますが、ゆっくり一周することで雰囲気は充分堪能できます。
どのような形であれ、このように見学できるのですからとてもありがたいことだと思います。
大本の関係者の皆様のご厚意に深く感謝いたします。

光秀公の人柄がまた一層偲ばれた丹波亀山城でした。


Ⓢは大本本部の大駐車場をお借りいたしました。
Ⓖは丹波亀山城の石垣遺構。見学の手順・マナーを遵守しましょう。

丹波 園部城 🏯日本城郭史で最後の築城城郭

丹波 園部城(園部陣屋) (京都府南丹市園部町小桜町・現園部高校)

丹波・八木城を下山した後に立ち寄ったのが園部城です。
この園部城、実は日本の城郭史上最後に築城されたと言われるお城で有名?です。
・・恥ずかしながら自分は知りませんでしたので(^_^;)。

sonobe (9)園部城の現存巽櫓と櫓門。

園部藩は元和5年(1619)国替えによって但馬・出石より移封となった小出吉親が起こしました。
当初、小出吉親はこの地に築城することを江戸幕府に願い出たのですが・・。
諸事情あってか許可が下りなかったため、天守や櫓を持たない陣屋として築いたものです。
徳川幕府の制度上では陣屋という扱いになるが、規模としては城と呼べるものでした。

城が完成したのはなんと維新後の明治2年(1869)になっての事。

幕末の動乱期でもあり、園部は京から近く万が一の時には要街地ともなります。
そういった度々の進達にも関わらず、なかなか改修は認められませんでした。
しかし、慶応4年(1868)明治政府に願い出、「帝都御守衛」の為として遂に認められました。

sonobe (8)園部城では最大の櫓で象徴的な巽櫓。

sonobe (7)とても整った美しい外観である櫓門は現在は校門に。

小出氏の念願が実って良かった良かったとなったところでしたが・・。
悲しい事に、完成からわずか三年後に廃城になるという運命をたどります。
大半の建造物が取り壊されるなか、「櫓門」と隣接する「番所」と「巽櫓」がのこりました。

あと、いまひとつ「太鼓櫓」は南丹市八木町にある安楽寺に移築され残されています。
また、園部高校の裏手には小麦山と呼ばれる山があり、この山頂にも三層の櫓が建てられました。
今回は訪問できませんでしたので、また足を延ばして見てみたいな、と思います。

sonobe (4)園部城石碑。

sonobe (1)
堀の一部がプールになっています。こんな活用法があろうとは。

sonobe (6)
こちらは模擬天守風?で南丹市国際交流会館の建物。

園部城跡である園部公園内にはいると真っ先にこちらの天守閣が目につきます。
ガラス張りの壁に、石垣が「コンクリ垣」となっているので間違える事はないかと思いますが。
特に史料館といった施設でもありませんので見て楽しめればいいでしょう・・。

sonobe (2)
遺構と現代建築との境目がわからない・・。

sonobe (5) お向かいの石垣は当時のもの??。

sonobe (3)
こちら天守ではありませんが、遠目に見るとそれっぽく見えてしまう・・。

見所は限られますが、物足りなければ小麦山まで散策すれば結構満喫できるかと。
城址一帯は園部高校の敷地内となっていますので見学や撮影には気を遣いたいものです。
平日なら門を入った右手にある事務室に一声かけていくことをおススメいたします。

街中に溶け込んだ中にも堂々さを感じさせる園部城でした。



Ⓢは巽櫓・櫓門の位置。
Ⓖは小麦山頂上・櫓郭跡地

丹波 八木城 🏯丹波最大級の山城へ登りました

丹波 八木城 (京都府南丹市八木町八木・城山)

ここ数年、京都・丹波に行く機会が増えました。
長男が京都で学生生活を送っているからです。
帰省の折、迎えに行ったり、荷物を届けに行ったり、そして・・。

それにかこつけて京都・丹波の山城をめぐるというのもルーティンの一環となっています。
お小遣いの少ない自分にとって、我が家の公費で行ける、こんな嬉しい事はありません。
長男にも会うことができ、おまけに城まで行けるなんて・・。

かわいい子には旅をさせよ、といいますが、いや~、納得です。(なんか違うか・・)

長男:「俺、5時間目まで講義あるから夕方まで暇つぶしてていいよ」
自分:「了解!」(`・ω・´)ゞ
・・こんな気持ちいいハキハキとした返事をしたのも実に久しぶりです。

・・っということで今回は以前から憧れていた丹波・八木城に行くことができました。
丹波・八木城は丹波国三大城郭のひとつで、黒井城八上城とともに数えられています。
また、キリシタン武将・内藤如安ゆかりの城としても知られていますね。

yagienkei.jpg城山一帯に展開する複合梯格式の山城、八木城。

天文22年(1553)内藤国貞三好長慶と結んで八上城主波多野氏と対立。
八木城は波多野方に攻められ落城、国貞は討死します。
その後、松永久秀の弟・松永長頼が八木城を奪還します。

長頼は国貞の娘を娶って内藤宗勝と名を改め、八木城主となります。

しかし内藤宗勝は永禄8年(1565)黒井城攻めで討死。
宗勝の子がキリシタンとして著名な内藤如安(ジョアン)です。
内藤如安については、後、小西行長の重臣となり、関ヶ原合戦後は前田利家の庇護を受けます。

江戸時代にキリシタン追放令が出されるとマニラに追放されました。

tannbayagi (17)麓の春日神社西口に立つ内藤ジョアンと八木城の石碑。

キリシタン武将に相応しいお洒落~な石碑です!
十字架と装飾されたデザインが清廉な印象を受けます。
この石碑を見るだけでもここに来た甲斐があるというもの。

tannbayagi (18)
模擬城郭風?の高速道路下のトンネル手前に路駐できます。(説明版あり)

tannbayagi (20)
登山道は山城にしては登りやすいと思いました。(個々の感想)

tannbayagi (19) tannbayagi (21)
10合目から1合目までカワイらしいイラストが案内してくれました。

tannbayagi (22)
25分ほどの登山で頂上に到着です。わ、なんか景色良さそう・・。

tannbayagi (26)
本丸にはいい所にベンチがおいてあります。

tannbayagi (24)やはり山城からの眺望というものはいいものですね∠( ^ o ^ ┐)。

本丸からの眺望は本当に素晴らしかったです。
冬のピーンとした張り詰めた空気が余計に相まっていました。
散策前のしばし、ブラックコーヒーとカロリーメイトでおやつタイム・・と。

さて、今回は主郭部だけののんびり散策です。

●本丸●

本丸にある縄張り図を参考にして見学する範囲を決めます。
丹波・八木城は別郭の集合体で構成されています。
個々の郭自体が一城郭規模に匹敵するといっても過言ではありません。

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tannbayagi (1)
一段下からみる本丸は天守台にも見えるような迫力もありました。

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両脇を土塁で囲った曲輪の様子もよく観察できます。

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本丸虎口の土塁。

tannbayagi (5)本丸周辺には石垣も残っていました。

tannbayagi (6)

tannbayagi (14)
崩された石垣の中にあってもよく残っていると思います。

場所によってはもっと高石垣が残っている箇所もあるようです。
また次回訪問した時はしらみつぶしに探してみたいものです。
(いつもながらいい加減な予習しかいないので、後で後悔すること度々・・)

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金の間より見上げた本丸と虎口。

●二ノ丸(内藤和泉守将郭)●

tannbayagi (10)
本丸と二ノ丸を連絡する馬場の址。

真冬の山城はとても見通しがよく、直線が映える郭の一つです。
尾根全体が城郭となっているため空間的にも広く感じるのが特徴です。
曲輪ごとに守将の名が付いているのも歴史的緊張感がありますね。

tannbayagi (13)
どちらかというと本丸よりも切岸がはっきりして、高いのがわかります。

tannbayagi (8)
こちらも本丸規模に匹敵するほどの土塁です。

tannbayagi (9)本丸・二の丸の堀切。

●北の丸(内藤五郎郭方面)●

tannbayagi (15)内藤五郎郭直下の堀切。

北に面した曲輪ですが、本丸とは距離があるため南面のような明るさがありました。
所々に小さな謎の横穴がありますが、何かを採掘したようです。(マンガン等?)
どこまで行っても遺構の規模が小さくなる気配がないほど大きな城郭に驚くばかり・・。

まだま見所はたくさんあるのですが、今回の散策はここまでです。
この城は非常に規模が大きく、じっくり味わえば色んな発見があることと思います。
ヤブ漕ぎになる箇所もあるかと思いますが、探索する価値の高い山城だと思います。

山城歩きでなくとも、ハイキングとしても気持ちいいコースだと思います。
さてさて、今回は長男の用事にかこつけてのどさくさ城めぐり。
また来れるチャンスは何度もありそうですから・・。

こちらにはまたじっくり再来したいな、と強く思いました。(我が家の公費で・・)



Ⓢは内藤ジョアンの石碑が立つ登城口。車は説明版脇に路駐か、春日神社に。
Ⓖの城山山頂部まで遊歩道があります。(山頂まで徒歩約25分)

大和 多聞城 🏯松永弾正久秀殿に逢いたくて・・その②

大和 多聞城 (奈良県奈良市多門町・多聞山・現若草中学校) 
【年末恒例・城友さんと行く年納め城めぐり紀行その⑥】

yamatojijyo (145)
平山城でも低い部類に入る多聞(山)城。

永禄3年(1560)に松永久秀によって築かれた多聞城
松永久秀の大和支配の拠点の一つとして有名な城です。
有名な理由として、多聞櫓の由来となった城、いうのも挙げられます。

・・ご存知だと思いますが・・。
「多聞櫓」とは、城内の宿舎長屋を櫓としても使えるよう石垣端に建てた施設。
後の城郭建築に多大な影響を与えた画期的な建築技法となっていきます。

yamatojijyo (141)近年に設置された案内版が詳しいです。

ルイス・フロイスによりヨーロッパにも、城の天守風建築物の様子が伝えられたといわれます。
日本の近世城郭における天守閣の始まりは、この多聞城こそが先駆建築である、とも。
信長の安土城にも影響を与えた、という話も本当らしい気がします。

yamatojijyo (142)
城跡は若草中学校の敷地となっています。

無断での校内散策はご法度のため今回は周囲からのみの見学です。
城の西側は仁正皇太后陵と聖武天皇陵となっているのでここも立ち入りはできません。
部分的にはには遺構が残されているそうですが・・、残念です。

tamonn.jpgこの石碑があるとやっぱり雰囲気が格段に上がります。

元亀三年(1572)、久秀は反・信長包囲網に加わり反旗、多聞城には子の松永久通が籠城します。
しかし、天正元年(1573)甲斐の武田信玄が没して包囲網も破綻。
多聞山城を明け渡すことで信長に降り、信貴山城へと退きました。

信貴山城を見学した後だけに、当時の壮麗な「松永流城郭」を想像したひと時でした。



Ⓖは階段横に城址碑が立っている位置で、手前には案内板もあります。
駐車場は特にありません。

大和 龍王山城 🏯十市氏の築いた南北二城構成の巨大城郭

大和 龍王山城 (奈良県天理市田町・龍王山)
【年末恒例・城友さんと行く年納め城めぐり紀行その⑤】

雨は小降りになってきたものの、雨の山城はやはりキツイもの。
雨があがるのを期待して足を延ばして来たのが竜王山城です。
・・でも願いも虚しく今回は見学断念するしかなさそう・・。

ryuuouyama (19)北城と南城の中間には大きな石碑があります。

龍王山城は標高585.7mの龍王山山頂に築かれ、北城と南城から成る山城です。
、といってもそれぞれが独立した別城といってもいいもいい規模の城郭群。
大和の中でも最大級の中世山城で、大和の有力国人だった十市氏が築城しました。

ryuuouyama (12)

ryuuouyama (14)大和国内でも大規模な巨大城郭。

北城は本丸を中心に周囲に曲輪を配置する縄張りです。
南城は尾根筋に沿って曲輪が一列に並ぶ連郭式の縄張り。
どうやら南城の後に北城が築かれたようです。

ryuuouyama (11)

ryuuouyama (3)ゆっくり見学すれば見所がたくさんある山城です。

以前訪城したこともある城ですので、今回は雨という事で登城は諦めました。
南城からの素晴らしい眺望を城友さんに見せてあげたかったのですが・・。
霧も発生して視界も悪そうなので無理かな・・。

ryuuouyama (7)南城からの眺望は絶景です。(前回時の撮影写真)

主郭からの眺望は奈良盆地が一望でき、その向こうの山脈まで見えました。
空気が澄んでいると明石海峡大橋まで見えるそうです。
こちらの南城にはハイカーの皆さんがよく登られてみえました。

ryuuouyama (5)
南城では主に眺望が楽しめるのがいいです。

さて、一方北城はテクニカルな城郭遺構が展開しています。
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辰巳の櫓跡の下には石積らしきものも見られます。

ryuuouyama (2)堀切など、全体的に遺構が見学しやすいです。

本丸跡の奥には何故か遊具やアスレチック展望台がありました。
また一見土塁に見えたものが実は植木だったりと楽しませてもらえます。
山城探索するのに相応しい一大城郭といえましょう。

龍王山城を本格的な城郭に修築した十市遠忠とはどれほどの人物だったのでしょう。

1540年(天文9年)筒井氏と和睦してからの十市遠忠の勢力は急成長した。
ライバルの木沢長政が討ち取られると、遠忠の勢力は更に拡大、筒井氏の勢力をも凌ぎます。
興福寺から使が訪れるほどの権力者となり、「山ノ城」とも呼ばれました。

十市遠忠は和歌、連歌、書を行い文化人としても名を馳せたようです。
お公家様とのお付き合いが上手だったのもプラスに働きました。
武辺だけでは強固な地盤を築けていけなかった大和特有の巧みさを感じます。

また次回訪城できる機会があった時はじっくりと訪問したいものです。



Ⓢまで舗装林道経由にて車で行けます。(駐車場あり)
Ⓖは北城の主郭部。
✔は南城の主郭部。

2度目のフルマラソンに向けて<1月練習編>

静岡マラソン2019に向けての練習

2019年新年最初のマラソンレースは静岡マラソンにエントリーしております。
昨年の黒部名水マラソン以来のフルマラソンとあって今からとても楽しみです。
お正月もきちんとサボらず練習をしておりました。

さて、年賀状を頂いた学生時代の友人Nさんからこんな質問がありました。
「私も走り始めました。どんな練習をしているの?」という内容でした。
(ブログで紹介してよね、ということでした)

目標や程度は違えど、走る仲間が増えるのは嬉しいものです。

私はいわゆる「アスリート」とかではない「普通の市民ランナー」レベルです。
毎日のランニングを楽しむ「ジョガー」、といってもいいかもしれません。
走るのは好きですが、自分を追い込むことは苦手でして、無理せず楽しんでます。

基本的に10kmレース、ハーフマラソン、フルマラソン(今回トレラン初挑戦!)主体です。
レース内容ごとに練習方法を変える、という器用な事はあまりしてません。
ホントはしたほうがいいのかもしれませんが・・。

例えば今月1月のメニューはこんな感じです。

月曜日  ジョギング40分:7km  6分00秒/km のゆったりジョグ
火曜日  ジョギング50分:9km 5分30秒/km の軽負荷ジョギング
水曜日  ビルドアップ走:10km  5分30秒⇒4分30秒へ上げていきます
木曜日  ジョギング40分:7km  6分00秒/km のゆったりジョギング
金曜日  ジョギング50分:9km  5分30秒/km の軽負荷ジョギング
土曜日  ジョギング60分:10km 6分00秒/km⇒4分30秒への中負荷ジョギング
日曜日  ビルドアップ走:15km  5分15秒⇒4分15秒へ約2kmごとに上げてきます。

週末はこれに山城登山・山城歩きが組み込まれ足腰をじっくりと鍛えます。
週2回程度のビルドアップ走とあとはジョギング主体のメリハリ練習です。
ビルドアップ走の翌日は必ずゆっくり走ってコンディションを整えます。

仕事と家事、趣味の城の時間(笑)で走りにさける時間は週末でも1時間ちょいくらい。
休養日はありません。休むくらいならゆっくりでも少しでも走った方が体が調子いいのです。
すっかり健康的な(不健康かも・・)日々ですが、毎日がとても楽しいです。

雨でも大雪でも台風でも面白そうなら走ります。(家族には叱られますが・・)

よく他のランナーさんたちが取り組むフルマラソン大会前の長距離30km走とかはしません。
フルを4時間以内で完走できたのですから、私には必要ありませんし、時間がありません。
今の練習を続けることの方が楽しいし、少しずつですが結果も付いてきています。

一番大切なことは長~くゆっくりと続けていくことだと信じています。
自己ベストなどの結果も大切ですが、それよりも楽しむことを第一としています。
地方でのレースではその前後に訪れる城めぐりも最高の思い出として残ります。

やめられない理由はそこにもあるのかもしれません((;^_^A)。

大和 十市城 🏯大和四家に数えられる有力国人・十市氏の居城

大和 十市城 (奈良県橿原市十市町)
【年末恒例・城友さんと行く年納め城めぐり紀行その④】

前回の箸尾城とセットで訪問したのがここ十市城です。
十市城は十市氏が鎌倉時代後半から居城した城です。

説明が前回の箸尾城と同じになってしまいますが・・、
十市氏は、筒井・越智・箸尾氏と共に大和四家に数えられる有力国人であります。
これに古市氏を加えた大和武士(やまとさむらい)五強、とも呼ばれたりします。

tooiti.jpg十市城の石碑は箸尾城同様、とても立派です。

筒井城(大和郡山市)と同様に大和における典型的な平城だったようです。
城は、微高地を中心部分(主郭)として広がっていたものと思われます。
・・といっても現在は周囲が水田・畑となっていて、城の遺構は残っていないようです。

toiti (2)
周囲から一段高くなった畑に「十市城址」の碑があるだけ。(でも十分です)

雨の日に訪れたお蔭でなんとなく水堀に浮かぶ郭、のように見えました。
(たくましき想像力!)
以前訪問した筒井氏の筒井城となんとなく似ているな、と感じました。
地割などからある程度の城郭範囲がわかっているかもしれませんね。

十市氏は永享の乱(1438)以来筒井氏らと共に勢力を拡大します。
天文年間(1532~1555)には十市遠忠の代に最盛期を迎えます。
後に東の山中に壮大な山城である龍王山城(天理市)も築きました。
(龍王山城については後日アップ予定です)

幾多の戦乱を経て、天正3年(1575)に織田信長の配下となりました。
宣教師のルイス・デ・アルメイダが十市城主を「サンチョ=イシバシ殿」と報告しています。
十市遠忠は武勇に優れ、歌道(三条西実隆に師事)や書道にも通じる文武両道の武将でした。
その勢力はは遠く伊賀国まで広げたようです。

発掘調査では、東西に幅2m以上・深さ1.5m・長さ80m以上の溝が確認されました。
また、南側の調査においても東西に幅約7m・長さ45m以上の大溝も確認されました。
かなり大規模の環濠城館だったことが窺えますね。

また遺物には、中国製の白磁碗、青磁碗・盤や高麗(こうらい)製の青磁壷などが出土。
当時貴重な輸入磁器を保持できた十市氏の勢力が大きなものであったことが明らかになりました。

戦国期大和には遠忠のような才覚豊かな武将がいたことも知りました。



Ⓖには十市城の石碑が立っています。

大和 箸尾城 🏯大和四家に数えられる有力国人・箸尾氏の居城

大和 箸尾城 (奈良県北葛城郡広陵町的場の周辺一帯)
【年末恒例・城友さんと行く年納め城めぐり紀行その③】

山城を続けて散策した後は箸尾氏の居城・箸尾城址を訪ねました。
箸尾氏は、筒井・越智・十市氏と共に大和四家に数えられる有力国人であります。
これに古市氏を加えた大和武士(やまとさむらい)五強、とも呼ばれたりします。

筒井(つつい)氏が現在の大和郡山市周辺、
越智(おち)氏が現在の高取町周辺、
十市(とおいち)氏が現在の橿原市周辺、
古市氏(ふるいち)氏が現在の奈良市周辺、
そして箸尾(はしお)氏は現在の奈良盆地中央部南寄り周辺にと、

それぞれのテリトリーはおおまかに上のようになります。
戦国期になるとそこに松永久秀様がかき回しに入ってきて泥沼の勢力争いに・・。
大和の戦国史が複雑になる大きな原因となっていきます。

さて、奈良の街中は車で行くには狭くて慣れないと大変なことになります。
・・それは後ほど・・。
城址に行ってみたいと思います。

hasio (3)箸尾城を示す説明版と大きな石碑です。

現在の大福寺から南側にある地域が城の中心部だったようです。
天理協会に対面した道路脇の一角に城石碑と案内板がありました。
箸尾城は、広陵町萱野(かやの)周辺に約220m四方の環濠(かんごう)を巡らせた平城でした。
(かなり広く大きな城だったようです)

hasio (2)

「大和永享の乱」では箸尾氏は越智氏と組んで筒井氏・十市氏らと争います。
永享3年(1431)には筒井順覚によって箸尾城は攻められ落城。
その後、勢力を回復した箸尾氏でしたが、箸尾為政筒井順昭に誘殺されてしまいます。

永禄2年(1559)に越智氏の支援により失地回復した箸尾為綱(高春とも)。
大和へ進攻した松永久秀に与して筒井順慶と戦います。
為綱は、松永久秀筒井順慶に惨敗すると順慶に帰順しますが、
天正8年(1580)の織田信長による大和一国破城令により箸尾城は廃城となりました。

hasio (4)
道沿いの中には堀の址と思われる名残の水路が残っています。

hasio (5)
この木橋はなんとなく雰囲気がでていて良かったので。

箸尾氏は越智氏や筒井氏と共に戦いを繰り返しました。
三好長慶の家臣・松永久秀に味方したり、反旗をひるがえしたり・・。
戦国期の大和は久秀様や信長公にとって付け入る隙がある国だったのかもしれませんね。

箸尾城は遺構はありませんでしたが、大和有力国人の居城です。
その地に来れたことで、箸尾氏一族のの苦難も一緒に感じ取れた気がします。
・・箸尾城の恐ろしさはこの後でした。

この後、狭~い路地を車で突っ込み、まさかの立往生・・。
城友・日向さんに車から降りて頂き、誘導していただきながら、100mのスーパーバック!
なんとか細い路地から無事に脱出できました!日向さん、ありがとうごぜーやす!

・・平然を装いつつも、広い道まで出られた時は体中が冷や汗と脂汗まみれでした。

箸尾城、車での訪問はくれぐれもお気をつけくださいませ。


Ⓖに箸尾城の石碑・説明版が立ちます。短時間なら窪地に駐停車できます。
その先の細い路地には進入しないほうが無難かと・・。(軽自動車ならOK)
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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