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駿河 泉頭城 🏯柿田川湧水群に癒される城郭

駿河 泉頭城 (静岡県駿東郡清水町伏見泉頭・柿田川公園)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑧】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・8回目です。
今回は城めぐり、というよりは名水めぐり、といった表現のほうがお似合いです。
静岡県清水町にある自然公園、柿田川湧水公園を散策してみました。

公園内には透明度の高い神秘的な水が湧き溢れて、とても美しいです。
また、富士山周辺に降った雨雪が、溶岩の中を通り、地上に湧き出る地下水が柿田川の源です。
今回の城めぐり、シメの泉頭城はそんな癒しスポットの中にあります。

izumikasiraj (3)湧水第1展望台から見る柿田川の川底。

川底から湧き出る水に、砂が水中でさらさらと絶えず動いています。
まるで生き物のよう見える様子は見ていて飽きることはありません。(上記写真中央部)
城跡に来た、という実感は全くない異世界に足を踏み込んだ感じがしました。

izumikasiraj (4)
自然が織りなす、力みなぎるパワースポットです。

izumikasiraj2 (1)宮崎アニメを思い浮かべますね。

izumikasiraj (5)
湧水第2展望台からの蒼い湧き水。

izumikasiraj2 (2)

・・それはそうと、城は?どうなったのでしょう・・。
綺麗な水面を見ていると、心も綺麗になっていく・・、
あたかもそんな気持ちに包まれてしまい・・。

城跡散策はすっかり後回しになってしまいました。(てへぺろ)

izumikasiraj (2)柿田川湧水公園内での唯一の城しるべとなる案内板。

ここに城があったなんて、誰も見向きもしていないのでは・・、
・・と思いきや、説明版を熟読している同じ年頃のオッサンを発見。
二人でカメラアングルにこだわり、場所交替しながら連写している姿はいと怪し・・。

泉頭城は、北条氏康が武田勢に備えるために築城されたといわれています。
後、大坂の陣を経て、江戸での政権を磐石にした徳川家康は、この地を隠居所と決定しました。
この城の要害性と交通要衝としての利点を重視したのもあります。

しかし、なんといってもこの美しい水と自然に囲まれた生活環境をとても気に入ったようです。
家康は縄張り検分のためにこの地を訪問する予定でしたが翌年、急遽中止となります。
結局、隠居城は駿府城(静岡市)へと変更されました。

izumikasiraj (1)柿田川公園内にはにいくつか遺構が残されています。

柿田川名所湧水の道と駐車場は、泉頭城の本曲輪(本丸)に位置しています。
しかし、縄張り図と照らし合わして見学しても城郭としての部分はさほど感じられませんでした。
公園内ですので他の観光客の方々の手前、あまり変な所へは踏み込めませんでしたし・・。

やはり公園化によって城郭としての部分はかなり影を潜めてしまっているようでした。
今回は公園散策を愉しみ、明日のマラソン大会に向けて心の浄化をはかりましょう!
・・ということで城見学は控えめでスミマセン。

izumikasiraj2 (3)

それにしても家康公も人の子ですね。
残された余生をこの神聖な土地に求め、憧れたのでしょうね。
しかし、周囲は、天下は、それを許さなかったのかもしれません。


Ⓖは柿田川湧水公園の駐車場です。
国道からの入口は見落としがちですので手前の信号を過ぎたら徐行してサクッと左折、入場したいものです。
ここから歩いてゆっくり散策することになります。季節によっていろいろな自然との出会いがあることでしょう。
因みに若干の駐車場料金が発生します。

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駿河 戸倉城 🏯狩野川に囲まれた境目の城

駿河 戸倉城 (静岡県駿東郡清水町徳倉和田・本城山公園)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑦】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・7回目です。
いくら好きな事とはいえ、7つ目の城ともなるとさすがに疲れがでてきますね・・。
どこをどうドライブしてきたのか、意識朦朧ながら到着したのが今回の戸倉城です。

tokuraj (1)西方面から見た戸倉城・本城山

・・とはいうものの、現地に到着するとワクワク気分が湧き上がってきます!
これは城めぐりでしか味わえない独特の非日常テンションですね。
「疲れた」などと言ってられません。自分にベホイミの呪文をかけて、いざ散策。

tokuraj (2)現地駐車場にある案内板より

天文年間(1532~54)以降、伊豆国と駿河国の境目の城として重要視されたようです。
狩野川をはさんで沼津・三枚橋城とは相対しており、両城間での抗争の地となりました。
永禄12年(1569)、今川氏滅亡後は北条氏尭が入城しました。

tokuraj (4)
主郭部には昭和の匂いがプンプンする展望台が。

現在城跡周辺は本城山公園となり麓から遊歩道が整備されています。
山城ですが、さほどの坂でもないので程なく頂上まで行けました。
登山道はいくつかあるようなのですが、今回は西口から登ってみました。

tokuraj (5)
内部は螺旋階段になっており、やはり懐かしい雰囲気です。

tokuraj (6)
展望台からはぐるっと周囲の景色が楽しめます。

tokuraj (7)お天気ならこの位置に富士山が拝めるようですが・・、今日は残念です!

tokuraj (8)
本丸周囲は絶壁になった所もある天然の要害です。

尾根伝いを散策して堀切等の遺構を確認したかったのですが・・。
周囲は雑草が茂って突入に躊躇してしまいました。危険回避モードです。
ま、マラソン前に無理はいかんですね。(無茶はしてますけどね)

tokuraj (3)説明版での遺構確認と城郭史をお勉強です。

豊臣秀吉の小田原征伐の際は、北条氏は戸倉城を放棄し韮山城へと退きました。
確かに大軍を前に機能できる城郭には感じられません。
そもそも元々は狩野川の河川交通を見張る機能を担っていたものと思われます。

境目の城の運命、緊張は突然訪れるもの、なのでしょう。


Ⓢは本城山公園の西口の駐車場です。東口、南口にも登山道があります。
Ⓖは戸倉城の本丸です。どこから登っても10分とかからずに到着できそうです。

駿河 三枚橋城(沼津城) 🏯石碑・石垣はあれど城の雰囲気が掴めず

駿河 三枚橋城(沼津城) (静岡県沼津市大手町)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑥】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・6回目です。
余りの矢継ぎ早な更新に自分自身もついていけない時もございます。
ですが、静岡の余韻、未だ脳裏に鮮明でして寸暇をみては記事にしていきたいと思います。

興国寺城をあとにして向かったのは沼津城
気が付けばお昼ご飯を忘れるほどお城巡りをしています。
ちょうどいいので沼津市で城跡散策しながらのお昼休憩とします。

numazuj (4)先ずは本丸があった沼津市中央公園の城址碑を見学。

沼津城には慶長以前の古城(三枚橋城)と、安永以後の新城(沼津城)があります。
三枚橋城は、天正7年(1579)、武田勝頼が小田原北条氏に対抗して築城したとされています。
(但し、築城当時は「沼津城」と呼ばれていた可能性もあるそう)
その後、安永6年(1777)に、後に老中となる水野忠友が同じ地に沼津城を築城します。

numazuj (3)150年以上のブランクを経て再び城郭として甦ります。

その後兵学校として使われ、廃校後、明治5年(1872)に城の建物を競売に付し解体されました。
明治22年(1889)には東海道線開通に伴い、城内を南北に縦貫道路が設けられます。
その後の2回の大火に遭遇、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはほぼできなくなった次第。

ちなみに城址碑の台座を囲む石は石垣に使われていたものだそうです。
他にも所々に僅かですが復元石垣の一部がみられる程度。
市街地でその断片を尋ね歩くという、ちょっと変わった城めぐりになりました。

numazuj (1)
狩野川堤防近くで発見した組み直しされた石垣。

numazuj (5)
アゴラ沼津前の石垣。・・う~む・・、微妙・・。

numazuj (6)
もう少しリアルに復元していただけないものかと・・。

numazuj (8)沼津リバーサイドホテル前の石垣。・・もはやエクステリア・・。

numazuj (9)
おおっ!外堀なのに立派な石碑が。

numazuj (10)
道路側に向かう石碑もありました。

このようにちょっと歩いただけであちこちに沼津城の関連石垣も見学できます。
しかし、これらの点同士をつないでもかつての城郭のイメージを想像することは困難。
あまり実感の湧かないまま、近くの食堂にてランチにありつきます。

numazuj (2)
外堀として利用されたであろう春めく狩野川。

今や美しい市街地として整備がすすんだ三枚橋・沼津城。
まだまだ見落としている面影もあるかもしれません。
やはり石碑の存在は大きいな、と思った次第であります。

numazuj (7)石碑のアップでお別れです。


Ⓖは沼津城の石碑がある本丸周辺の中央公園です。

駿河 興国寺城 🏯早雲旗挙げの城

駿河 興国寺城 (静岡県沼津市根古屋赤池・篠山)<国指定史跡 >【続日本百名城】
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その⑤】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・5回目です。
今回は長年の憧れだった北条早雲旗挙げの城、興国寺城への念願の訪問です。
ブロ友のしんこうさんが先だって興国寺城を見学されていましたので想いは募るばかり。

『しんこうさんの趣味のブログ』も是非ご覧になって頂ければと思います。
しんこうさんの記事は感性が豊かで、とても旅情に溢れた内容です。
お城はもちろん、城をとりまく街の風景や風物、城下の雰囲気も伝わってきます。
自分がブログを立ち上げるにあたって、今でもモデル構成を参考にさせていただいてます。

koukokujij (1)南向きに展開する興国寺城本丸の様子。

koukokujij (3)

興国寺城の構造は本丸より南に二ノ丸、三の丸と続く連郭式城郭です。
さらに本丸北には北曲輪、その東側には清水曲輪が配置されています。
当時の絵図と見比べると本丸以外はほぼ削られ、或いは埋められ旧状は損なわれている様です。

koukokujij (2)
主な城主としての天野康景(左)北条早雲(右)の石碑。

北条早雲(当時は伊勢宗瑞)は、妹婿・今川義忠が文明8年(1476)に戦死した後、
今川氏親の家督相続争いをまとめた功にて興国寺城主となりました。
早雲は後に伊豆国に韮山城を築いて居城を移しました。

その後、今川義元によって、興国寺城は本格的な城郭へと改修されます。
今川義元織田信長に討たれると武田氏と北条氏が駿河国に侵攻し興国寺城を落とします。
元亀2年(1571)、武田氏と北条氏は和議を結び、武田氏の穴山梅雪の家臣が城主となります。

koukokujij (4)
今川・北条・武田・徳川の間でめまぐるしく城主が変わっていきます。

武田氏が織田氏に滅ぼされると徳川家康の所領となります。
牧野康成、松平清宗、そして豊臣家での中村一氏の臣・河毛重次と変わります。
関ヶ原合戦後、天野康景が藩主となりましたが・・。

康景は百姓を殺害した家臣の引渡しを拒み、その裁定に不満を募らせて出奔しました。
康景は家康の三河時代からの譜代の忠臣で、本多重次、高力清長と共に三河三奉行と称されます。
「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」と評価されてます。
(清長は寛大、重次は剛毅、康景は慎重)

「直きをまげて曲れるに随はん事、素懐にあらず」
(正しきを曲げて間違った事に従うのは、自分の常の心掛けと異なる)
この事件には色々ないきさつがありますが、康景の信念だけは偽りない真実なのでしょう。

koukokujij (7)本丸の三方(西・北・東)を取り囲む高土塁にあがります。

koukokujij (6) koukokujij (11)
伝・天守台から稜線が如く延びる高土塁。

「土塁」というより山尾根の稜線をそのまま削り残したようです。
登り上がるのにも一苦労、これを「土塁」と言い片づけていいものでしょうか?
自分には巨大な「山塁」として映りました。天然の侵食谷を利用したものでしょう。

koukokujij (9)土塁の中央に据えられた本丸の伝・天守台。

koukokujij (5)伝・天守台には南面に存在感ある石垣が組まれています。

koukokujij (8)
伝・天守内部には礎石群も確認できます。

koukokuhori.jpg
伝・天守台から見下ろす背後の大堀切。

北側直下の背後は大空堀で遮断されています。
この伝・天守台は大空堀に対して張り出した形になり、堀底に対して横矢掛けが効いています。
かなりの土木普請量が感じられる見所の一つでしょう。

・・余りの開放感に少し遊んでみたくなりました。

koukokujij (10)
ちょっとやってみたかったので・・。

koukokujij (13)
駆け上がったり・・。

koukokujij (12)
飛び跳ねたり、と羞恥心無きセルフショットがエスカレートしていきます(;^ω^)

いい大人がバカげたなマネをしてゴメンナサイ。
夢にまでみた興国寺城での土塁上トレランやるのが念願でして・・。
但し、遺構を痛めることだけはしていませんので片眼をつむって頂ければ幸いです。

・・さて、それでは堀底に行ってみたいと思います。

koukokujij (14)伝・天守台を弧状に取り囲む様に掘り込まれた素晴らしい大堀切。

koukokujij (15)
堀底にある3つの穴は・・?、・・何でしょう、不思議です。

koukokujij (16)
ローム地層を切通した深い~い堀底でした。

koukokujij (17)最後は石碑でお別れです。

以上、超特急でしたが、城内をあちこちを走り回ってみました。
走り回った割には肝心なところをかなり見落としているかもしれません。
でも憧れていた城で、マラソン大会前日のいい調整ジョグもできました。

このはしゃぎざま、城好きの皆さんならおわかりいただけますよね??


Ⓢの三の丸跡には広い駐車場が用意されています。
Ⓖは本丸の伝・天守台付近です。
城内はむやみに走ったりせず、ゆっくり散策してみましょう。(お前な)

駿河 蒲原城 🏯蒲原城は海道一の嶮難の地に候

駿河 蒲原城 (静岡県静岡市清水区蒲原・城山) <市指定史跡 >
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その④】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・4回目です。
今回の静岡入りで是非とも見学したかった城が今回の蒲原城です。
「遺構を見学したい」、というよりは、「その場所に行ってみたい」、という気持ちです。

その理由は北条氏信という勇敢な武将がここでその命を散らしたからです。
北条新三郎氏信北条幻庵の第2子、早雲の孫にあたります。
駿河に進出した武田信玄が総力をあげた攻城戦に立ち向かった北条一門の武将です。

kannbaraj (15)国道から望む蒲原城。

蒲原城は東海道を真下に見下ろすことができ、駿河湾の監視できる要衝の地でした。
富士川を挟んで北条・今川勢力間での抗争の地となったため、「境目の城」の性格があります。
後に駿河に侵攻した武田信玄もここを総攻めしています。

kannbaraj (1)搦手から気軽に登れるルートで登城できます。

kannbaraj (3)
膳福寺曲輪下の腰巻石垣はかなりしっかり組まれています。

kannbaraj (4)
低い土塁を巡らした横堀が確認できます。

kannbaraj (5)
梯子が立てかけてある曲輪。

当時の城の曲輪間での連絡にはこのような梯子や縄が利用されたんでしょう。
・・と想像させるような復元?手段です。

kannbaraj (6)
曲輪間の竪堀底を登って行く見学ルートはなかなかスリルがあります。

kannbaraj (7)現われたのは本曲輪と膳福寺曲輪をぶった斬る巨大な堀。

「モーゼの十戒」での海が割れるシーンを思い浮かべてしまいました。
真っ二つです!。これだけの土木普請をよくぞやってのけたものです。
しかも岩盤地層と思われます。堀底は通路にも使えたのでしょう。

kannbaraj (10)
先ずは膳福寺曲輪の見学から。周囲を土塁で囲んだ広い副主郭的な施設です。

kannbaraj (9)
ちょっと珍しい物見櫓?風の復元施設。

登ったところで視界が広がるわけでもない微妙な高さに苦笑。
児童の秘密基地ごっこには丁度いいかな?
周囲に誰もいないことを確認して登ってみました。

kannbaraj (8)これもかなり珍しい!逆茂木の復元?

いままでいろんな城址を見学してきましたが、逆茂木の復元は初めて見ました!
しかし、ここは城壁や城柵を設ける場所であって、逆茂木は切岸や斜面にあるものでは??
・・と、まぁ、ここでは細かいツッコミはしないでその再現意欲を評価したいところです。

kannbaraj (13)
主郭に到着です。

kannbaraj (11)蒲原城石碑。 駿河湾からの潮風をたっぷり受けた姿がカッコいい。

永禄11年(1568)、武田信玄徳川家康と結んで今川氏の駿河に侵攻します。
今川氏真は遠江国・掛川城へと落ちのびました。
ここで信玄は蒲原城を攻め落とさずに駿府へ侵攻したのが失敗でした。

今川氏の援軍として駆けつけた北条氏信の軍勢が蒲原城に入城。
武田信玄の「駿河封じ込め」が行われました。
信玄は翌年、命からがら甲斐に帰国するはめになりました。

kannbaraj (14)
本曲輪より膳福寺曲輪を見下ろします。手前には先程の大堀切があるはず。

翌永禄12年(1569)武田氏は再び駿河へ侵攻し、北条氏信らが籠もる蒲原城へ攻め寄せます。
氏信以下、北条長順(氏信の弟)、清水新七郎(清水康英嫡子)、狩野介といった武将が討死します。
嫡子・氏信と長順を失った北条幻庵の悲しみはいかばかりであったかと・・。

kannbaraj (12)本曲輪からの壮大な眺めは脳裏に焼き付く美しさでした。

若くして信玄の総力戦に対抗、山県昌景武田勝頼らの猛攻に命を散らした氏信兄弟ら。
この地に立つとその使命と覚悟を強く感じてしまいます。
駿河湾の美しさは雄大、その向こうの薩埵峠(さったとうげ)は難所ぶりを見せていました。

kannbaraj (2)信玄をして「海道一の嶮難の地」「海道第一の地」と絶賛された蒲原城。
(現地案内板より転写)

ちょっとユニークな復元アイテムも印象に残りましたし、景色がとても良かったです。
早春の潮風がとても心地よく訪問できてなんかスッキリしました。
明日のマラソン大会は「かんばらじょう」だけに「がんばるじょう!」

・・さ、さ、次に参りましょう。


Ⓢは車道脇にある見学者用の駐車場。
Ⓖは搦手筋から登ること5分ほどで本曲輪です。

駿河 駿府城 🏯静岡マラソン本会場と天守台発掘調査

駿河 駿府城 (静岡県静岡市葵区城内町・駿府城公園)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その③】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・3回目です。
時間の許す限りできるだけたくさんの城を見学したかったので内容は座興ささやか。
マラソンも城も 「適当に・懸命に・楽しく」 を主義としています。

今回の駿府城訪問は実は初めての訪城です。
まさかマラソン大会の主会場、という縁で来城できるとは思っていませんでした。
大会前日の下見と参加賞の引き換えも兼ねて、ちょいと散策してみました。

sunpuj (4)
駿府城の正面入り口・大手御門が見えてきてドキドキしてきます。

sunpuj (3)東御門の巽櫓。

二の丸南東の隅櫓で有名ですね。
二重三階の矩折(かなおり)構造、いわゆるL字型平面形。
(マラソン大会当日はちょうどこの巽櫓の前のブロックに並びました)

sunpuj (5)美しく格式高い、均整のとれた二の丸東御門から入城しました。

マラソン大会前日とあって今日はまだまだゆっくりと見学できそうです。
「美しいな・・」ここではしばらく足を止めて見入ってしまいました。
内部も見学可能、駿府城の絵図や復元資料、駿府城天守の復元模型もありました。
(内部写真掲載は控えさせていただきますが、とても良かったです)

sunpuj (6)
東御門は駿府城の主要な出入口で、大きな桝形門となっています。

東御門は寛永12年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失しました。
復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、平成8年3月に復元されました。
この門は、東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される桝形門です。
  
sunpuj (7)
「駿府公園」から「駿府城公園」に名称変更になりました。

本丸内部ではマラソン大会の準備に向けて業者さんたちが懸命に準備してました。
またスタッフさんたちもテントや案内所の設営に余念なしです。
前日からの、こういったたくさんのスタッフさんたちの姿を見ると本当に感謝したいです。

sunpuj (8)
本丸内堀です。駿府城の三重堀の最も内部の堀で、部分的に残っています。

sunpuj (9)
本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ水路は水位調節の役割も果たしていました。

sunpuj (2)
北御門は石垣による桝形の空間を通り、二ノ丸内部へと至ります。

sunpuj (12)駿府城本丸の石碑と「御隠居」・徳川家康公の銅像。

sunpuj (11)
「駿府のご隠居」は、すっげぇ遠くを見据えていてちょっと近寄りがたいものがあります。

sunpuj (10)
当日は駿府城・天守台発掘調査の現場説明会も開催されていたので行ってきました。

駿府城では平成28年度から31年度の4年をかけて天守台全体の発掘調査を行っています。
今回は家康公の天守台東側と新たに発見された豊臣時代の天守台の見学です。
豊臣時代というと、秀吉が中村一氏に命じて築かせたものだと考えられています。

sunpuj (14)
中村一氏時代と思われる天守台。

豊臣天守台は家康天守台の内側から発見されました。
南北約37m×東西33mの天守台は同時代では最大級の大きさです。
発見された石垣の近くからは金箔瓦も見つかったそうです。

sunpuj (15)
こちらは家康天守台の北東側で見学ができました。

この駿府城の地は元々、今川氏の府中館があった所でもあります。
駿府城は、時代ごとにほぼ同じ位置に3回築かれている、ということになります。 
今川氏の駿府城はその有無を確認するため今後の発掘予定に組み込まれています。

sunpuj (16)大御所・徳川家康の居城にふさわしい巨大な天守台。
(皆さん、スゴイ熱心な方々ばかりでした)

この天守台上には五重(または六重)七階の天守が築かれていました。
城下の南から仰ぎみるその様は名峰・富士山と並び立って見えた、と伝わっています。
きっととてつもなく壮麗な姿だったのでしょうね。

sunpuj (1)シメは復元された坤櫓(ひつじざるやぐら)を見ながら

この美しい城郭を起点に明日の静岡マラソンは開催されます。
・・と思っただけで、なんかやる気満々になって燃えてきました。
百名城スタンプを押して、次の蒲原城へと向かうのでした。


Ⓖは駿府城公園の中心部・徳川家康公の銅像あたりを示します。
駐車場は最寄りの有料パーキングを利用します。

駿河 持舟城 🏯武田軍、念願の水軍拠点

駿河 持舟城(用宗城) (静岡県静岡市駿河区用宗城山町・城山)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その②】

静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書・2回目です。
時間の許す限りできるだけたくさんの城を見学したかったので内容はご愛嬌。
マラソンも城も 「適当に・懸命に・楽しく」 をモットーとしています。

motifunej (12)持舟城は小坂川が駿河湾にそぞく河口手前の城山に築かれています。

motifunej (1)
城山中腹まで車で行くことができます。(まるで曲輪のような駐車場でした)

motifunej (2)
城山の真下を東海道新幹線が突き切っています。

眼下には東名高速道路・国道150号線・東海新幹線・JR東海道本線が通っています。
静かな本丸とは対照的に下界は車と電車の往来が盛んでした。
上の写真の右側に見える突き出た尾根は出曲輪の浅間山砦です。

motifunej (9)
本丸からは駿河湾から静岡市街が一望できました。

かつては古びた廃寺があったようですが、きれいに解体、撤去されていました。
テーブルとチェア。すっかり憩いの場です。

motifunej (4)いつしか用宗城(もちむねじょう)から持舟城(もちふねじょう)と呼ばれるように。

motifunej (3)向井水軍は充分な活躍の場に恵まれませんでした。

徳川軍と武田軍との間での争奪戦が激しかったことが窺えました。
農道の登り口にの公民館前には、城山列士供養塔と持舟城由来略誌があります。
持舟城を徳川家康が攻撃した際に戦死した城将、向井正重らを供養するものです。

motifunej (10)
今日は残念ながら富士山が見えません(´・_・`)

motifunej (11)
武田氏が喉から手が出るほど欲しがった広い海洋と港。

motifunej (5)その港に向かって立つ石碑、イイっすね!

motifunej (6)
聴いていたウォークマンの曲がまさに、GLAYの『出逢ってしまった2人』。思わず一時停止を押す。

motifunej (7)
本丸の西、大堀切はなかなかの鋭さが感じられました。

他の曲輪は現在、みかん畑になっているようです。
立ち入りは控えねばなりませんが、これだけ見学できればもう充分でしたので下山します。
手軽に登れて、水軍拠点に想いを馳せることができた持舟城でした。


Ⓢは浅間神社から上がる農道沿いの城見学用駐車場です。
Ⓖは持舟城本丸。

駿河 丸子城 🏯山城の粋が結集した駿河の名城

駿河 丸子城 (静岡県静岡市駿河区丸子大鈩)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書その①】

今回からは静岡マラソンにて見学することができた駿河の諸城の覚書です。
時間の許す限りできるだけたくさんの城を見学したかったので内容は期待しないでください(笑)。
いつもながらのことですが、マラソンも城も 「適当に・懸命に・楽しく」 がモットーですんで・・。

さて、マラソン前日の山城に登り過ぎは、脚にとっての思いやりに著しく欠けるものです。
何回かの過ちを犯し、ようやく学習した自分、走る前日の山城は2つまでにしようと決意。
それも午前中の早いうちに限る、というのが、『-久太郎城郭憲法-』 に基ずくものです。
(・・なにそれ・・)

そんな意味不明な制約の中、先ず登ったのが全国にその名が轟く丸子城です。

marikoj (12)周囲を土塁に囲まれた丸子城主郭部。

marikoj (1)
土塁を周回させた「千畳敷」と呼ばれるひろ~い主郭です。

丸子城は南西の最高所を主郭とし、北東方面に曲輪が連なります。
主郭部周辺北西側に設けられた巨大なの横堀が深く明瞭に残っっています。
横矢を掛ける折れや出丸、馬出しなど見所満載の中世城郭の百貨店です。
(どこかで聞いたような表現ですね)

marikoj (3)
土塁は現在でも2m弱くらいの高さがあります。

北東には枡形虎口、西には食い違い虎口、東には平入の虎口、と三所三様。
それぞれがどうしてこのような虎口になったのかは遺構の連動状況を確認して納得。
まさに虎口ノウハウのオンパレードです。

marikoj (4)
曲輪間は大きな堀切で仕切られています。

marikoj (5)主郭部西側外周をとりまく横堀と土塁は『圧巻』、としか言いようなし。

まさに今回、この遺構を見たいがために来たようなものです。
延々とつながるこの横堀と土塁は圧倒的な土木普請量でした。
自分は興奮して何度も堀底に降りては土塁に上がるループを繰り返してしまいました。

marikoj (8)
これは登り堀を堀底から見た所です。

marikoj (10)
同じような写真ばかりですみません。・・凄くて・・。

marikoj (11)クランク状に折れた土塁の外側には竪堀も隠されています。

marikoj (6)
南西部の竪堀は麓近くまで一直線に落とされた長大な大竪堀。100m以上あります!

南西側に設けられたこの大竪堀は丸馬出しとセットになっています。
敵の侵入を防ぎつつ、横槍出撃が可能となる攻撃性の強い遺構です。
武田氏系の機能的な虎口機能が感じられます。

marikoj (7)城の東を仕切る三日月堀と土橋は城中で最も深い堀でした。

marikozu.jpg
東側登城口にある水野茂氏作図の縄張り図が解りやすいです。

現在見られる遺構の丸子城は永禄年間(1558~1570)に武田信玄の駿河侵攻時以降の姿です。
山県昌景を丸子城に布陣させ西側からの防御にあたらせました。
駿河国を手中に収めた後は諸賀兵部大輔や関甚五兵衛、後には屋代勝永を城番として置きました。

丸子城はとにかく目にする遺構全てが巨大で度肝抜かれっぱなしでした。
遺構のパーツの一つ一つが絶妙に機能連動しており、素晴らしい構造が見られました。
朝っぱらからちょっと刺激が強すぎて予定以上に脚に負担をかけてしまいました。(結局そうなる)

駿河・丸子城、噂に違わぬ中世山城の百貨店でした。(また言ってる)


Ⓖは丸子城本丸です。
登り口は2カ所あります。東側からなら駿府匠宿より、西側からなら誓願寺より
それぞれ登山道があります。どちらからでもほぼ同じ時間です。
自分は行きと帰りでそれぞれの道を利用しました。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来8年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)
(2023年4月6日現在)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
最近は折りたたみ自転車での平野部城跡めぐりにもハマり、寄り道での出会いも大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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