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志摩 波切城 🏯九鬼嘉隆、飛翔の居城

志摩 波切城 (三重県志摩市大王町波切) 

嘉隆祭りに参加して鳥羽城田城城を訪問した後は、波切九鬼城に向かいました。
ある意味「嘉隆ゆかりの城まつり」、といった感じの行程を辿っているようです。
お腹もすいたので伊勢うどんで腹ごなしします。

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たまり醤油のタレが決め手ですね。

たまり醤油の色は濃く、見た目が塩辛そうですが旨味と甘みがあります。
味はまろやかで意外にシンプルな感じで美味しかったです。
麺は太くて、コシはあまりなく柔らかいのにモチモチしているのも特徴ですね。

nakirit (14)海に突き出した岬城の波切城を浜辺から遠望。

nakirit (3)
先ずは九鬼氏ゆかりの仙遊寺に立ち寄ってみました。

nakirit (5)
仙遊寺は波切九鬼氏・三代目の隆次によって建立されました。

nakirit (4)
境内には隆良・隆基・隆次・泰隆・定隆まで五代の五輪塔が安置されています。

ここからのんびり海岸まで歩いていきます。
近くには波切神社もあってここも城の出郭があったものといわれています。
海風がとても心地よく感じられました。

nakirit (1)
湾内は穏やかで澄み切った海が美しいです。

nakirit (2)大王崎灯台方面から俯瞰する波切城です。

大王崎灯台の西に公園として整備されています。
海側沿いに遊歩道がありますので、お土産屋さんの前を通っていきます。
お店やさんは、なんだか昭和の雰囲気が残った懐かしい景色でした。

nakirit (13)城址手前の広場に石碑がありました(^-^)/。

nakirit (8) nakirit (9)
周囲を海に囲まれた城内には八幡様とが祀られて、銅像(誰?)もあります。

nakirit (7)
ここからは大王崎灯台がよく見えます。

nakirit (10)岬の基部には土塁が備えてあります。

よく観察すると岩から切り出したような土塁です。だから「岩塁」でしょうか??
海に向かって弧を描いている様子が趣ありました。
背後は急斜面の切岸となっており、堀切があったようなイメージが湧きます。

nakirit (11)
全体像はこんな感じで、堀切は今となっては確認できません。

nakirit (12)航行する廻船をここから見張っていたのかと思うと気分に浸れます。

波切城は九鬼隆良によって築かれたと伝わります。
隆良より四代後の九鬼泰隆の時に田城城へ移るまで居城としました。
隆良の孫にあたる九鬼嘉隆はこの波切城で生まれたとされます。

波切城を本拠地とした九鬼氏は大王崎沖を航行する廻船から通行税を取り立てました。
折り合いが合わない時には海賊行為に及ぶこともあったようです。
以来、九鬼氏は海賊大名として怖れられたようです。

nakirit (6)
既に気分に浸りきっている弟クン、いい後姿なので一枚。

何気なく口ずさんでしまうのは鳥羽一郎さんの「兄弟船」。
♪波の谷間に~ 命の花が~ ふたつ並んで 咲いている~(^^♪
やけに気の合う兄弟鴎。今回の志摩の城めぐりはここで最後です。

はるか地平線を見据えながら往来する船がかすんで見えます。
この広い海を縄張りとした志摩の地頭たちも行き来していたのですね。
いつまでも眺めていたいなぁ・・、そんな気持ちになった波切城でした。


Ⓖは波切城の主郭部です。
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志摩 田城城 🏯小城ながら九鬼氏ゆかりの居城

志摩 田城城 (三重県鳥羽市岩倉町城山・九鬼岩倉神社) <市指定史跡>

九鬼嘉隆が築城した鳥羽城を見学し、思いもよらず「嘉隆祭り」にも参加できました。
城めぐりをしていると、いろいろなサプライズがあるもので、それも先が見えない楽しみです。
鳥羽城の次は、九鬼氏ゆかりの田城城(たしろじょう)へと向かいました。

tsiroj (1)田んぼの中に浮かぶ断崖の城、田城城です。

さながら航空母艦のように浮かんでいるようにも見えますね。
こんなところにも九鬼水軍の残像が残っているようにも感じました。
早速、甲板?に登ってみたいと思います。

tsiroj (2)
正面から見ると思いのほか細尾根上に築かれた丘城です。

かつての田城城の周りは湿地帯の要害だったようです。
田城左馬之助による築城とも伝えられますが、天文年間に九鬼泰隆による築城と伝わります。
九鬼泰隆は嘉隆の祖父にあたる人物です。

tsiroj (3)神社の参道登り口脇に標柱と説明版があります。

嘉隆の兄・浄隆が家督を継ぐと北畠氏を後援とした志摩七党に田城城が攻められます。
城主の九鬼浄隆は音に聞こえた弓の名手として知られていました。
城兵をよく指揮し、寄せ手は攻めあぐねてしまったようです。

ところが、籠城戦の最中に浄隆が急死してしまったのです。
一度はこれを撃退した田城九鬼氏ですが、浄隆の子・澄隆が家督を継ぐと再び七党が来襲、
浄隆の弟・波切城主の九鬼嘉隆が澄隆を助けて戦ったが敗れて落城します。

その後、九鬼氏は田城城を奪還しますが、澄隆は嘉隆に暗殺されたとされます。
これは織田信長による嘉隆が家督を継ぐことを命じての指示だった、とも云われています。
甥・澄隆の後見役としてではなく、嘉隆自身が九鬼家を継ぐべき事情があったのでしょう。

tsiroj (4)
細い尾根状の参道が曲輪です。

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曲輪中央部分には堀切の名残とみられる竪堀が確認できます。

社殿造営の際に土取りや埋め立てなど改変を受けています。
どこまでが遺構かは把握しきれないのですが・・。
この感じ、想像でもいいかなって思います。

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奥には社殿が建っています。

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社殿の裏には櫓台とも感じられる一段の高みがありました。

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現在は九鬼澄隆の怨霊を鎮める為に建立された九鬼惣領権現が祀られています。

田城城はこれといった遺構は見られないようです。
しかし、九鬼一族の運命に関わった重要な史跡としての価値は変わりません。
嘉隆をはじめ九鬼氏のルーツを感じることができるでことしょう。


ⓈはJA農協さんの駐車場をお借りしました。(土日で休業日でしたので)
Ⓖは田城城の尾根・九鬼神社です。

志摩 鳥羽城 🏯美しい鳥羽湾と嘉隆まつり

志摩 鳥羽城 (三重県鳥羽市鳥羽3丁目・城山公園) <県指定史跡>

伊勢・田丸城を見学した後、向かったのが鳥羽城です。
水族館や遊園地、ドライブにと何度か訪れている観光名所溢れる志摩です。
何度も眼と鼻の先まで訪れながら指を加えて訪城できずにきたのも今回まで。

でも現地に着いたらなんだか騒々しいぞ・・。
なんでこんなに人がいるんだろう?、弟クンといぶしかしげな表情に・・。
「鳥羽城ってこんなに人が来る城だったっけ?(鳥羽城に失礼ですが・・)」

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その人だかりの訳は程なくして判明しました。
この日4月6日は「鳥羽春祭り」と「(九鬼)嘉隆さくら祭り」が開催されていたんです。
何も知らずに来たのでびっくり!、これも何かのご縁でしょうね。

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「左三つ巴紋」が目を引く三の丸広場はとても賑わっていました。

tobaj (9)今まさに最高の見頃を迎えた桜を見ながらの登城でした。

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本丸西側の石垣群ですけど、どうも積直しっぽい・・。

tobaj (1)
いかにも海城らしいです、松の木が生える本丸に到着。

tobaj (3)本丸周辺の石垣は当時からの遺構が現存しています。

算木積で組まれた野面積みで、九鬼嘉隆時代の遺構だとか。
カンラン岩や千枚岩など様々な石材が使われていて面白いです。
大方は現地周辺の海岸部で採取された地産の石で組まれました。

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旧鳥羽小学校のグランド一帯が本丸でした。

近年、天守の具体的な寸法が書かれた古文書の保管が発見されました。
その古文書によると、三重の天守の寸法が記載されていました。
天守台には納戸も設けられていたとか。

tobaj (2)
本丸からの海の眺めが素晴らしかったです。

以前よりだいぶ木々を伐採したように感じます。
麓から見てもんなに見通しが効く眺望があったようには思えませんでした。
すぐ真下によく来た鳥羽水族館が見えます。
(あの時は城が気になりつつも家族サービス最優先でしたね(*´~`*)・・)

tobaj (8)嘉隆が眠る答志島を見て想いを寄せてみます。

九鬼嘉隆は天文11年(1542)志摩国に生まれ、織田信長の長島一揆で頭角をあらわしました。
天正6年(1578)、鉄板で装甲した大船6艘を伊勢大湊で建造をした嘉隆は石山本願寺攻めに参戦。
信長の要望に応えて造られた燃えない鉄甲船の威力は凄まじかったようです。
(第二次木津川口の戦い)

結果、嘉隆らは雑賀・毛利水軍約600隻を打ち破る完全勝利をあげます。
この海戦で本願寺の孤立化と織田軍の優位は決定的になりました。
抜群の戦功にて、信長より伊勢志摩両国の内3万5千石を加増されます。

江戸時代の軍記物などでは「海賊大名」の異称をとりますね。

嘉隆は、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、答志島で自刃しました。
その後、息子の守隆によって答志島にて首は首塚に、胴部は胴塚に葬られています。
首は「鳥羽城の見えるところに埋めてくれ」との遺言通り、 鳥羽城を一望できる築上山に埋葬されました。

守隆による父の助命嘆願が了承されたのですが、間に合いませんでした・・。

tobaj (6)
ふと、城下を見るとイベントで盛り上がっている祭りの声が聞こえてきます。

tobaj (10)七段の棚石垣は近年の模擬石垣ですが、とても壮観です。

この独特の石垣、当時の絵図にも記されておらず、近年の模擬石垣なんですって。
棚田のようにも見えますが、城跡公園らしく見せるために作ったビジュアル系石垣です。
落とし積みのようにも見えますが、これはこれで見応えあり、ですかね。

tobaj (4)
広角レンズで覗くと、グッととワイドにドーピングできます。

tobaj (13) tobaj (14)
ちょうど花見振舞い、ということでおもてなしにありつきました。

「水軍汁」というものですが、伊勢エビの殻でダシとりした味噌汁です。
大根と油揚げ、ラッキーだったら伊勢エビの身も少し入ってました。
弟クンと美味しく味わって、しばしの休憩でした。

tobaj (12)
後世の遺構が大半を占めますが、雰囲気は充分に残っている鳥羽城でした。


伊勢 田丸城 🏯桜と石垣と精霊木に囲まれて

伊勢 田丸城 (三重県度会郡玉城町田丸) <県指定史跡>

春うらら、桜満開の城の日(4月6日)に志摩方面へと城めぐりしてきました。
共にお付き合いしてくれるのは弟クン。兄弟同じ趣味っていいもんです。
志摩へ入る手前、今回の田丸城は、弟クン大のお気に入りの城でもあります。

なんでにでも「平成最後の○○」と言ってしまいがちな「元号末」。
今回が「平成最後の桜・城めぐり」となります。・・って言うと、なんか寂しい・・。
でも、弟クンと平成の思い出を語りながらの城ドライブはワクワク気分でいっぱいです。

tamaruj (20)満開の桜が迎えてくれた田丸城の大手門付近。

tamaruj (21)二之門手前に立つ城址石碑を先ずは押さえておきます。
(石碑は本丸や主郭部周辺をいくら探してもありませんので、ここで要チェック!)

tamaruj (10)
北の丸駐車場から回遊していきます。

いきなり現れる石垣群に心躍りまくりで、年甲斐もなく感嘆してしまう・・。
そもそも石垣ファンというのはこのあたりのツボがみな一緒のようです。
弟クンも、のっけからの迫力に足が止まります。
(弟クンと2回目の訪城なんですが何度来てもいいものです)

tamaruj (18)ご説明は現地の案内板が簡潔かつ詳しいので転載させていただきました。

伊勢北畠氏を継いだ織田(北畠)信雄によって田丸城は大改修されました。
ここのところ、ドラマや漫画、映画で出番の多い三介殿(さんすけどの)です。
信長の次男にして、よく暗愚だの凡庸だのと評価される信雄ですね。

tamaruj (8)この石垣の重なり具合、なんとも絶妙でして。

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ここの石垣と大樹には精霊が宿っているような気がしてなりません。

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本丸と北の丸との繋ぎ目の、くびれた凹部が面白い箇所です。

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こちらは本丸と二の丸との間の空堀。

tamaruj (6)
橋も石垣で固められています。

tamaruj (1)入口がハノ字に開口する天守台。

ユニークな入り口ですが、後世に改変を受けているようです。
しかし、入口手前に突き出た桝形の遺構、これはかつての形状を留めています。
小さいながらも三層の天守閣があったそうで、想像すると楽しいですね。

tuitamaruj (2) tuitamaruj (1)

tuitamaruj (3)

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穴蔵式の天守台からして犬山城天守とにていたのでしょうか。

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内部に備え付けられた小階段も、何にどう使われたのか興味深々です。

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程よい高さの石垣が桜とともに整然と続く・・、美しい・・。

tamaruj (2)
里の眺めものんびり。

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数ヶ所の崩落もみられます。石垣の断面が見られのですが・・せつない。

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小さめの石で積み上げた石垣と土部との絡み合いが趣あります。

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庭石にでも使えそうな結構いい石使ってます!

tamaruj (19)北の丸の下には富士見門が移築されています。

払い下げられた田丸城の城門や蔵などは、あちこちで見られるようです。
また機会があったらそれらの移築建造物も是非見てみたいと思いました。
より一層田丸城の雰囲気が味わえると思います。

tamaruj (9)
穏やかな水面の外堀にも当時の雰囲気が残ります。

この城は以前、父と母、自分の家族と弟クンファミリー11人で訪れた思い出の場所です。
ふと振り返ると、そこかしこで大はしゃぎしていた子供たちが思い出されます。
いや、子供達以上にはしゃいでいたのは我々のほうであったかも(笑)。

最後に弟クンと感動した箇所を紹介したいと思います。

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石垣の隅部で城を守っているようなヘラクレスオオカブトムシ。

素朴な算木積みの見事さもさることながら、桜に負けじと色ずく葉。
ここでもやはり精霊が宿っているような生命力溢れた気配を感じました。
感じ入る二人、しばらく立ち尽くして仰ぎ見る時がありました。


駿河 江尻城(小芝城) 🏯当時は一大拠点の城郭だったようで

駿河 江尻城(小芝城) (静岡県静岡市清水区江尻町・江尻小学校一帯)
【静岡マラソン2019と迎えてくれた駿河の城・覚書 番外編】

静岡マラソンにて見学してきた駿河の諸城の覚書・今回は番外編です。
前回の泉頭城でこのシリーズもようやく終えることができる、と思いましたが・・。
・・何か忘れた気がしてなりませんでした。そして思い出しました!

駿府城をスタートした今回のマラソン大会、ゴールは清水駅というコースでした。
そのフルマラソンを走り終えた後、フラフラになりながら、どこをどう歩いたのか・・。
足を引きずりながら、気力と執念で辿り着いた地、それが今回の江尻城だったのです。

ejirij (1)清水江尻小学校に立つ江尻城の説明版。

江尻城は永禄13年(1570)、甲斐国の武田氏により築城されました。
縄張りには馬場信春が関与と言われ、城代にも山県昌景を起用するなどの力の入れようです。
後に一族の重鎮・穴山梅雪を城代に充てる等、この城の重要度が窺えます。
(まさにタケダ・オールスターズ動員)

城は巴川を背後に控えた微高地上に本丸を中心とし、三方を巴川引きの水堀で囲う平城でした。
図によれば、甲州流築城術でもある丸馬出しが3箇所に設けられているようです。
武田水軍や水運とも密接に関係し、近世城郭にも匹敵する大規模な構えでした。
(馬場信春らしい諏訪原城の平城版 、といった感じを受けました)

ejirij (3)
清水江尻小学校の東校門は「本丸門」となっています、・・ええやないですか。

山県昌景の死後、江尻城には穴山信君が入城します。
信君は江尻城の改修を行いますが、織田・徳川氏の侵攻の際には内通し城を開城、降伏します。
徳川氏の勢力下になった後は嫡男・穴山勝千代信治が城代となるも、勝千代は若くして病没します。

ejirij (2)駐車場の片隅、小公園の中には「小芝城」の名で石碑が立っています。

この石碑、日曜日だったのが幸いして、運動クラブの父兄さんに教えていただきました。
石碑フェチな自分としてはマラソンの疲れもぶっ飛ぶほど嬉しかった・・、
・・という程ではありませんでしたが、発見できて良かったです\(^o^)/。

ejirij (5)
魚町稲荷神社には少しばかり、城の名残りが感じられました。

梅雪曰く、「一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、(どうして)一城に鎮護の神のなかろうか」
そうして造営された社殿が稲荷神社の由来だそうです。
城代として新たに赴任した穴山梅雪信君の構想意欲が感じられます。

梅雪の構想とは裏腹に徐々に傾きかけていく武田氏の領国経営。
勢いを増す織田・徳川の勢力、やがて敵対勢力として相対する小田原北条氏・・。
武田一族である彼が選んだ道は考え抜いた上での苦渋の選択であったことでしょう。


Ⓢは江尻小学校の「本丸門」。
Ⓖには「小芝城」城址碑があり、駐車場入り口脇には江尻城説明版があります。
小学校への無断立ち入りは厳禁、撮影希望等、許可をいただきましょう。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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