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美濃 鶴ヶ城 🏯ハノ字型に展開する鶴翼の城

美濃 鶴ヶ城(神箆城)(岐阜県瑞浪市土岐町鶴城中町・城山)<県指定史跡>

今年の東海地方は「梅雨」と呼ぶに相応しい天候に覆われています。
雨模様なので、普段全くしていない小庭の手入れに勤しんでいる週末。
やり始めるとキレイになっていくのが面白く、キリがありません。

・・ついでに土塁や城柵でも作ってやりたい気分です・・。(何のために?)

さて、今回は瑞浪市の鶴ヶ城へ定期訪問(?)してまいりました。
まだ若かった二十歳の頃、弟クンと特攻服で登った、「ほろ痛い」思い出の城です。
それ以来、折に触れて登ること数知れず、子息らと昆虫採集にも訪れたりしています。

turugakouno (2)丁度JR線を電車が通過中。国道19号、中央高速道も足下を通る街道筋。

今回はまず始めに縄張り図を見て頂きたいと思います。
何故「鶴ヶ城」と呼ばれるようになったのかがよくわかると思うからです。
元々は※「高野城」「神箆城」といった名称ですが、別名のほうが正式名称になった例です。

(※「高野城」「神箆城」は(こうのじょう)と読み、他「土岐城」「国府城」とも呼ばれます)

turugajzu.jpg
本丸から派生する2つの出丸が羽を広げた鶴に似ているために「鶴ヶ城」と呼ばれます。
(上図:A東出丸とB西出丸ですね)

なんとも優雅なその名の由来。
さすが花鳥風月を愛する岐阜県美濃びとの心優しさ(自分除く)。
しかし地元・鶴町の方々からは驚きの表現を拝聴いたしました。

実は遺構の無いもう一つ西の尾根を入れて3本の尾根構えだと仮定。(上図C:古道尾根
3本の尾根で真ん中の尾根が鶴の首頭、その両脇の尾根をそれぞれ翼に見立てます。
するとどうでしょう、対面からみると、見事な「鶴翼の城」に見えるではありませんか!

この説には久太郎も目からウロコ、「な~るほど」と驚嘆したものです。

turugakouno (22)
車でのお越しは城址の東の諏訪神社の駐車場をお借りします。

諏訪神社は城主歴の中の一人、延友三郎兵衛信光の心願により勧請されました。
毎年10月の第2日曜日には秋の諏訪神社例祭が奉納されます。
雨乞い踊りの伝承に従う「鶴城笹踊り」が継承され、披露されています。

turugakouno (4)城跡入口には立派な石碑があります。

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QRコード説明付きの案内板、ご時勢ですね。

turugakouno (18)
城址碑から谷筋を登って行きます。

実はこの谷筋大手道、2つの出丸の間を縫って上がる道。
左右の出丸から乱射、乱投されたら、ひとたまりもない恐ろしい一本道です。
そんなお仕置きをくらう、という妙なドキドキプリキュア感もたまりません。

しかも途中の小郭には一の木戸、二の木戸なども用意されていたようです。
敢えて敵勢を呼び込みながら応戦する体制も想定されていたのでしょうか。
天然地形の桝形虎口に足を踏み入れた、と解釈すると解りやすいでしょう。

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先ずは両翼の一つ、西出丸(実際は本丸から見て南なのだが)を辿ります。

この西出丸の入口にも虎口があります。
到達した途端に御殿曲輪と出丸、上下両面から挟みこまれる仕掛けです。
単純と思いきや、狭い尾根基部を最大に活用しているのが面白いです。

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西出丸からの眺望は土岐市方面から屏風山系の山々がよく見えます。

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御殿曲輪へ向かう途中には「手洗鉢」なる石があります。

雨上がりしばらくはここに雨水が溜まります。
なかなかきれいな円形にくり抜かれていますね。
礎石として利用した門柱の穴だったのかもしれませんね。

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「葵の井戸」と呼ばれる大井戸。

よくある落城にまつわる身投げ井戸伝説もあります。
小心者の自分はおっかなくてあまり近寄れませんでした。
井戸は保水性があり、今日でも水を湛えてます。

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続いていま一つの翼、東出丸を辿ります。

写真では、出丸の先が明るくなって何も写っていませんね。
これは中央高速道路建設に伴う工事でかなりの土砂が削られたからです。
これは西出丸も同様ですが、東出丸はかなりの曲輪部分を消失しています。

昭和20年前後の図面ではこの西出丸、もう20メートルほど南東に延びていたようで。
両出丸は本丸から見ると末広がりのハノ字型を鏡に映したように展開していたそうです。
その光景は残念ながら見る事ができませんので、今は想像するばかりです。

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主郭部から出丸へと延びる土塁状遺構。

両出丸と主郭部との連結部には長い土塁が掻き残されています。
曲輪の外側に向け普請されており、外側谷筋からの攻撃に備えてあります。
葵の井戸や御殿曲輪を囲い守っているようにも感じます。

いざとなったらお互いの最短移動通路として使用された節も感じられます。

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そして「千畳敷」と呼ばれる本丸部に到着しました。

東西45メートル、南北20メートル前後の主郭です。
東側には虎口があり、東西の端部からはそれぞれの出丸へと連絡します。
ここに至るまで細かく折れ部分を通過していくのも見所でしょう。

turugakouno (16)鶴ヶ城は語るに長い歴史を有しています。

鶴ヶ城は 建仁年間(1201~1204)に美濃国守護・土岐光衡による築城とも伝えられます。
しかし確証はないにせよ、土岐氏一族によって築かれた可能性は大きいでしょう。
史実で明らかなのは天正2年(1574)、岩村城を足場に武田勢が東美濃に侵入した時です。

武田軍は岩村城の南西に位置する明知城を包囲します。
織田信長と嫡男・信忠は岐阜から救援に駆けつけ、こちらに着陣します。
しかし前回の記事で述べたように明知城は空しく落城してしまいます。

この頃の鶴ヶ城は城主として延友氏(三郎兵衛信光とその弟・佐渡守)の名がみられます。
信長は明知・岩村両城の押さえ対策として小里城城番の守将に池田恒興を配置。
この鶴ヶ城には黒母衣衆・筆頭の河尻秀隆を配置して備えました。

また、天正10年(1582)、甲斐侵攻作戦の際にも織田信忠は鶴ヶ城に宿泊しました。
東美濃衆を中心とした信忠軍団は補佐役の河尻を中心に形成されたようです。
そういった意味では当城が重要な東美濃軍事拠点であったことを物語っているといえます。

後、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で、鶴ヶ城は岩村城主・田丸直昌の支城にありました。
この時は妻木城主・妻木頼忠らによって攻められ開城しました。
同じ東濃衆の妻木氏や小里氏、遠山氏らの攻撃に遭う、なんとも皮肉な終焉でした。

turugakouno (15)
本丸より岩村方面を見て、対武田への最前線を担った緊張感を感じます。

turugakouno (26)大規模な鶴ヶ城の大堀切は一見の価値あり!(;゜0゜)。

さて、ここ鶴ヶ城の隠れた見所は主郭続きの尾根を大きく断ち切った西の大堀切でしょう。
あまりにも急角度のためこの堀切に降りること叶いません(てか危険極まりない)。
みすみす見学しないであとにする方もたくさんいらっしゃるようです。

しかし、どうかこの大堀切を土産に見て下山していただきたいものです。
西出丸へと続く土塁が一旦途切れた箇所から降りる細道があります。
冒頭の図面でもポイントだけマークしてあります。

そしてここでお願いがあります。

是非とも見学をおススメしたい大堀切ですが本丸から直に降りることは絶対避けてください
滑落の危険極まりないですし、主郭端部と切岸の遺構を痛めてしまうからです。
軟質な土壌ですので大切に見学していただきたいと思います。

落ちたらスマホやカメラが壊れるではすみません、本当に怪我をしていまいます。

turugakouno (29)
堀底から見上げる本丸はこんな感じで絶壁状になっています。

しかもここから主郭を北方面に回り込むと西の堀切もおまけで見学できます。
もちろん西の堀切も主郭部から直で降りることはできません。
いかにこの主郭部が孤島状になっているかがわかると思います。

turuhori.jpg
逆(北)方面からみるとこんな感じで、本丸側は垂直状態です。デンジャラス!

鶴ヶ城は石垣や技巧的なパーツを持つ城ではありません。
しかし、鋭い切岸と多彩な折れ導線プラス木戸を多用した「土の城」そのものです。
城内へ深く足を踏み入れるほど、頭上の両出丸からの包囲殲滅攻撃を受けます。

外周は切り立った切岸で仕上げられ、滑りやすい土壌は登攀を困難にしています。
古くからここに城館が構えられたのには理由があるんですね。
戦国末期までこのプランで存続したことにも大きな意味を感じます。

それにしても在りし日の両出丸から延びる鶴の翼・・。
この目で是非とも見てみたかったものです。
・・いや、現地で瞳を閉じたら見えてくるかもしれません。


Ⓢは諏訪神社の駐車スペースを示してあります。
Ⓖは鶴ヶ城の登り口です。大きな石碑が目印です。
ここから眼下の高速道路がよく見えます。足早に往来する車やトラックをぼんやり眺めているのもなんか面白いものでした。
・・そんな変人、自分だけでですかね(笑)。

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美濃 明知城 🏯例のない横堀と竪堀群の絶妙タッグは見応え充分

美濃 明知城(白鷹城) (岐阜県恵那市明智町明知・城山) <県指定史跡>

ここのところ久し振りに地元・美濃の城をめぐる機会が増えました。
2月は駿河、3月は遠江、4月は志摩、5月は能登、越後、と外征が多かったからです。
マラソン絡みもあったのですが、とても充実し、勉強になった春でした。

しばらくマラソン大会はエントリーしてませんので練習に集中です。
子息たちの用事もここのところめっきり減り、うれしいような寂しいような感じです。
・・寂しいといえば外征続きでお父さんのフトコロは落城寸前!(泣!)

そんな諸事情のなかで本来の地元城めぐりも充実させたい、と思う今日この頃です。
行きたいときにそこでいつでも待っていてくれる・・、地元の城って有難いものですね。
「お金はなくとも、地元の城がそこにある」(泣くのはもうやめ♡)

・・さて、今回は東濃地方における中世山城の傑城、明知城を訪ねます。
明知城といえば城ファンの方なら知らない人はいない、という程、有名な戦国の城です。
明知城が超有名な理由として次の3つが挙げられると思います。

①、織田・武田両氏との間で壮絶な争奪戦が繰り広げられた。
②、明智光秀の出生地として(可児市の明智長山城と並び)最有力視されている。
③、※「遠山七家」の内の一つで、遠山氏の有力一族、明知遠山氏の本城である。

※「遠山七家」(岩村・阿寺・明知・飯羽間・串原・苗木・阿木)の一つです。
その中でも最も有力な岩村・苗木・明知を「遠山三頭」と呼ぶこともあります)

それでは見ていきたいと思います。

aketisirataka (22)明智駅を降り、南東に見える城山が明知城です。(比高80m程度)

別名「白鷹城」、カッコいい名称ですね。幟のアピール度ハンパありません。
こちらでみたらし団子や五平餅等を食べて腹ごしらえするとイイと思います。
明知城に関するパンフなんかも入手できますよ。

自分、そういえば元号が「令和」になって最初の作図調査になるのがここ明知城です。
(強敵なのでしっかりかからねば・・、と気合をいれます)

aketisirataka (34)
城下町は日本大正村としても有名。趣ある路地めぐりも発見がありますよ。

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町がそっくり、大正時代の空気に包まれ、なんだかタイムスリップしたような気分。

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大正のモダンなイメージをした洋風建築、大正ロマン館。

城めぐりもいいのですが、たまにはのんびりと歩き散策もいいものですね。
たたずまいを感じながら歩くと、眼に映るものがとても新鮮に感じます。
「こういう感覚、しばらく味わってなかったな~」って、ときめいたりしました。

aketisirataka (26)
明知城西麓の大手門近くには江戸時代には陣屋が築かれました。

元和元年(1615)遠山方景は旗本として江戸に屋敷が与えられる事になり、城は廃城となりました。
代わりに麗の大手門近くに代官屋敷が設けられ、代官を村上氏に任せて廃藩置県まで存続します。
現在陣屋跡地には村上氏の屋敷と土蔵が残っています。

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遠山家の菩提寺である龍護寺では、遠山家累代の墓所や明智光秀公の供養塔があります。

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少し前置きが長くなりましたが、明知城へと向かいます。

さて、明智駅、並びに日本大正村方面からのアプローチはこんな感じ。
他にも見所は沢山ありますので時間の許す限り、街歩きもいいと思います。
こちら、「城」と「街」、「戦国」と「大正」を同時に味わえるのが特徴です。

・・さて、そうは言っても・・。

「明知城だけが見たい」、というせっかちな城最優先さんもいらっしゃると思います。
かくいう自分もその部類の人間です。(最近、少しゆとりを持つよう努めていますが・・)
そんな方には車にて城山裏手から仕寄るといいでしょう。

aketisirataka (1)
城山の東側の道路には駐車場が完備されています。

こちらの駐車場から城内までは僅か5秒!。
早速左側にやや破壊された堀切を見ながら竪堀底を通って登城できます。
せっかちな少年少女さんにはうってつけのコースだと思います。

aketisirataka (18)
一見、城址に至る遊歩道のようですが、既に城内に足を踏み入れています。

傍らや頭上を見上げると、切岸と畝堀を確認できます。
どうやら通路を兼ねた横堀の堀底を通っていることに、ここで気が付きます。
心の準備ができていないと城内に入った感覚すらありません。

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細かい間隔の小さな畝堀もあれば・・。

sirataka (5)身の丈をはるかに超える、土塁+竪堀ともいえる巨大畝堀もあります。

これらの遺構は主郭曲輪群の外側をほぼ全周に渡って設けられています。
一般的に見られる斜面に落とされた竪堀とは一味違う明知城独特の見所です。
こんな狭い一方通路を攻め上がるなんて・・、考えただけで恐ろしい・・(;゚Д゚)。

しかも、このような多数かつ大規模な遺構を複雑に組み合わせています。
自分は作図しながら改めてその連動性に驚嘆せざるを得ませんでした。
おそらく武田氏摂取時の改修遺構なのでしょう、と推察します。

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城内には大きな貯水池があったようです。水の手曲輪ですね。

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南出丸に足を運ぶと門に使用された石垣址が一部残っています。(石垣というか列石・・)

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城内には陣屋として使用された名残も併存しています。

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本丸と南出丸を介する二の丸に向かいます。

曲輪の際を歩くとどこも切り立った絶壁になっていて足がすくみます。
畝堀を経た堀底からこの切岸をよじ登ることは不可能に感じます。
「曲輪は際を歩く」とその特徴がわかりますね。

aketisirataka (5)
プレートには「虎口」と示されるスロープ状の連絡口。

aketisirataka (10)本丸に到着しました。高い所から撮影、広さが伝わるといいのですが(´∀`)。

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説明版と高田徹氏の縄張り図があります。

aketisirataka (6)石碑はありませんが、標柱が立ってます。(細い・・)

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各曲輪間は大きな堀切で断ち切られています。

遊歩道からは主郭部と畝状竪堀・畝土塁などは見学し易いようになっています。
しかし、見上げるほどの堀切、圧巻の切岸などはブッシュによって全貌が掴めません。
踏み込んだ探索を希望する方は作業着での来城をおススメします。

sirataka (2)このようなブイブイいわせるVの字堀切も見所です。

元亀3年(1572)、明知城主・遠山景行と東濃諸氏は上村(恵那市上矢作町付近)に布陣。
武田氏の武将・秋山虎繁ら伊那衆らを迎撃しますが、敗北、景行は戦死します。
嫡男・景玄(※)も戦死したため、家督は孫の一行(かずゆき)が継承します。

遠山景玄は「かげはる」と読むそうです。
 景玄については詳細不明で一部誤伝もあるようです。

天正2年(1574)には明知城に武田勝頼の軍勢が押し寄せ、城を包囲。
これを知った織田信長は明知城を後詰めすべく、嫡子・信忠と共に岐阜を出陣します。
信長父子は、神箆城(鶴ケ城)に着陣し、進軍を予定しましたが・・。

明知城内では飯狭間右衛門が謀反を起こし、織田方の城番・坂井越中守一族を殺害。
城を武田方へ明け渡し、明知城は落城します。後詰めは間に合いませんでした。
信長は、神箆城河尻秀隆小里城池田恒興を配し、岐阜に戻っています。

その後、僧となっていた景行の次男・利景が還俗して城を奪取、一行を猶子とします。
天正11年(1583)、利景は金山城主・森長可の圧迫で明知城を退去、徳川家康に仕えます。
しかし、遠山利景と一行は諦めません!、再興のその日をじっと待ちます。

天正12年(1584)、利景は小牧・長久手合戦で森長可の守る明知城を再度攻略します。
しかし、その後羽柴秀吉の命令により明知城は森忠政に返されてしまいます。
しかし、これでもまだまだ諦めないのが利景らのスゴイ所です。

慶長5年(1600)、関ケ原の戦いでは家康の後ろ盾で三度目の明知城奪取に成功します。
外敵の侵攻に立ち向かった景行・景玄ら、不屈の再興を誓った利景・一行ら。
受け継がれた彼ら遠山明知氏の領主としての生き様は東濃戦国史に語り継がれるのです。

aketisiratakan.jpg久太郎も2日間に及ぶ作図調査をしました。(参考にしていただければ嬉しいです)

現地には高田徹氏による縄張り図面が掲載された案内板があります。
折角なので自分の作図図面も公表したいと思います。(一心不乱に取り組みました)
100人書けば、100通りの図面ができるものですが、肝の部分はほぼ同じです。


Ⓢは車にて見学するのに大変便利な専用駐車場を示します。
車の施錠をしたら5秒で城内に入ります。5秒ですよ。
Ⓖは明知城の本丸の位置、城山頂部です。

城友さんとさすらう能登城郭漂流記その③ 穴水城編

能登 穴水城 (石川県鳳珠郡穴水町川島・城山)
<城友さんとゆる~く行く能登の城めぐり 穴水城編>

七尾城の主要部を見学し、城友・日向さんと満悦気分です。
いつまでもここから能登の風景を見ていたい気分ですが、お別れです。
ただ、一つだけ・・、一つだけここ七尾城にて心残りがありました。

それは、七尾城内の長屋敷を見学できなかったことです。
現在、七尾城内の長屋敷は立ち入りルートが整備されていません。
しかし、本丸と長屋敷(長続連の屋敷)の間の大規模な堀切は見学できます。

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元禄期の「七尾城絵図」には、長屋敷と本丸は「関東橋」でつながっていたようです。

ただ、ここで長続蓮一族がことごとく虐殺された、という忌まわしい史実もあります。
曰く付きの事故曲輪なので本来は忌み避けるべきスポットかもしれません。
城内の温井屋敷、遊佐屋敷は見学できるのに残念です・・。

だったら、いっそ長氏の居城、穴水城まで行ってしまおう、ということになりました。
おねだりしたのは自分ですが、城友・日向さんは意を組んでいただきました。
日向さん、いつも我がまま言ってばかりでゴメンナサイ!

notonana (54)
美しい能登の海岸沿いに穴水城を目指します。

本当に素晴しいドライブ日和なのです。
ロケーションも気持ちいいのですが、なにせ景色は単調。
時に気持ち良すぎて睡魔が襲ってきます、安全運転で。

anamizu1 (5)穴水城の城山。長谷部神社前から見上げた感じです。

写真は前回(2007年6月)訪れた際の城山の様子です。
久し振りに訪問すると、どこからどう通ったのか忘れてしまいますね。
城山の裏側(北側)から穴水城主郭部まで車両林道が延びています。

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代表する城主の長続連は畠山七人衆の一人で、能登畠山氏家中の最有力者でした。
織田信長の勢力が能登にまで伸びてくるといちはやく親密な関係を作ります。
畠山家中では、遊佐氏、温井氏などと対抗しつつ、親・織田派として家中随一の重臣となります。

天正4年(1576年)上杉謙信による侵攻に対し、続連は七尾城に籠もることで一度は追い返します。
しかし翌年、同じ畠山重臣で親上杉派の遊佐続光温井景隆らが謙信に内応し、七尾城は落城。
続連をはじめとする長一族はほとんどが城内において殺されてしまいました。

織田軍に援軍要請を派遣した子・連龍が援軍と共に到着する数日前の出来事でした。

anamizu1 (1)長氏34代・長昭連氏の揮毫による穴水城趾の石碑にも歴史を感じます。

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桜が植えられた史跡公園となっている本丸とその一帯。

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二の丸方面に向かって曲輪が連なります。

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本来からの切岸なのか、公園化された際の改変なのか、判別できず。

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のと七尾線穴水駅周辺から穴水港を見渡せます。

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湾内は穏やかでここなら水軍の基地としても向いてそうです。

天正6年(1578)、自ら穴水城を奪取した長連龍は、神保氏張らと共に能登・越中を転戦。
仇である遊佐・温井らを攻めて、徹底的に追撃し、討ち取ることに成功します。
本能寺の変後は、そのまま前田利家の家臣となって数々の戦いで活躍していきます。

他の前田家臣と違って知行の面では独立大名のような強い権限を保持していたそうです。
利家からは「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されているほどで。
加賀藩の中では「八家」と称される最上級の家臣とされ、能登の最大在地勢力となりました。

さて、七尾城の長屋敷へは行けませんでしたが、穴水城の再訪問は感慨ありました。
・・それにしても、長く、続く、連なる・・。同義語を集約したような対馬守殿の諱。
最初の主君である畠山義続から偏諱を賜ったようですが、印象的な名前ですね。

・・いや、「長く、連なる、龍」もスゴイって! (めっちゃ強そ)

日向さん、連れてきていただきありがとうございました。

灼熱のフル・マラソンになってしまいました・・。

第36回カーター記念黒部名水マラソン

メイン会場:黒部市総合公園発着
平成30年5月27日(日) フルマラソン(42.195km)コース AM9:00スタート

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昨年、初フルマラソンを気持ちよく達成できたこの大会。
今年もあの感動が忘れられなくてエントリーしました。
正直申しますと、岐阜県の美濃地方からはかなり遠いので迷いますけれど・・。

そんな迷いを吹き飛ばすかのような素晴らしい大会です。
仕事の段取りも調整に調整を重ねて、2日前から現地付近入りをしました。
・・ん?・・、何のために2日も前から?

まぁ、その、あれですよ、城めぐりも兼ねてっていうヤツで(汗)。
(文字は大きいが声は小さいのです)

マラソン大会も素晴らしいのですが、付近の城も実に素晴らしいからです。
今回は新潟方面からのアプローチを試みました。
箕冠城、鮫ヶ尾城、高田城、そして謙信公の春日山城、他にも・・。

城の話はいいとして、今回の黒部名水マラソン、まさかこんな展開になるとは・・。

数日前からニュースで「酷暑になる」というのを聞いていましたが、ここまで暑くなるなんて。
大会当日、現地では、「不調と感じたら勇気ある棄権を」と呼びかけるアナウンスも・・。
練習不足もあって、かなり尻込みしてしまいましたが、逆に気が楽になりました。

よし、やっぱり今回はゆっくり走ろう!、と。

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現地でラン友・Y吉さんと合流、黒部の名水で朝からの渇きを潤します。

kurobem (37)
続々とスタート地点に向かうランナーさんたち。こちらも緊張してきます。

こうしてスタートを待つ間にも気温はグングン上昇していきます。
とても5月とは思えないほどの陽気ですが、湿度がないのがまだ救い。
しかし、これは相当厳しいマラソンになりそうです、覚悟してかからねば・・。

kurobem (40)色とりどりのランナーさんたちと壮観なスタートです。
(もうすでに背中が無茶苦茶暑いんですけど・・)

<序盤>

ゆっくりといつもの軽いjジョッグ程度のスタートです。
この陽気です、自分の実力では完走できればよし、といったところです。
「ファンラン」したいところですが、後半はそれどころじゃなくなることも予感しながら・・。

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のっけから名水を飲みまくり、頭から名水を被りまくり、シャワーを浴びまくりです。
「体力温存」、とかいいながら、時間をかければかけるほど体力は削ぎ取られます。
一度落ちかけると、建て直しできないのが、夏マラソンの怖い所。

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電鉄黒部駅地点のシンボルの大木も今回は仰ぎ見るのに精一杯。
全然余裕がありません・・、まだ10km地点ですよ・・。
気温もドンドン上昇しています。言いようのない不安が芽生えた序盤でした。

<中盤>

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なんとか辿り着いた中間点・・。「え?これでまだ中間なの?」、という絶望感。
気が遠くなり、ここでトイレに急行することになってしまいました。
かいている汗と補給している水分のバランスがあっていないのでしょうか?。

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用意されたエイドステーションは全て利用させていただきました。
有難い事、この上ありません、まるで砂漠の中のオアシスに感じるのです。
できればここにずっといて、給食を食べていたい・・。気弱になります。

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水やスポーツドリンクは勿論、飴玉、オレンジ、ミニトマト、バナナ、梅干しにお寿司!
パンやお菓子、大福餠、どれもこれも全部美味しかったです!
この充実したエイドとスタッフさんたちの声援のお蔭です、

また走る気力が湧いてくるではありませんか!
(次のエイドまで頑張ろう!って・・)

<終盤>

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終盤といいながらまだまだ30km地点です。
雄大な黒部川沿いを走るシーンになります。
もうすでに歩いているランナーさんたちもちらほら目にするようになりました。

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つ・・、ついに35℃かよ!

日陰もなく、背中をジリジリ照りつけるお日様。
こまめに襲いかかる堤防特有の小刻みなアップダウン・・。
もうダメだ。。、何度も諦めかけました。

そんなポキリと折れそうな心を支えてくれたのはボランティアの方のおもてなしでした。
そして「頑張れ!」、「頑張って!」という応援・声援でした。
どの励ましも響きました。沢山の応援をいただきました。

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ソフトアイスを座って味わいます。傍らには冷やし米粉ラーメンも(笑)。

<ラストスパート>、・・って今回はしません。
(・・っていうかできません!、カラータイマー点滅しっぱなしなんス)

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ラスト2km地点の生地台場址に辿り着きました!

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ここで一旦、まさかの城めぐりモードです。写真を撮り、説明版を熟読している・・。
この余裕、いや諦めの潔さ、もう完全に愉しんでいる自分がいました。(3分のロスタイム・・)
特に、生地海岸沿いの地下水は「黒部川扇状地湧水群」として名水百選に選ばれています。

こちらでいただいた「生地の清水」はゴールに近いだけあって格別に美味しかった!

kurobem (80)
そしていよいよゴールが近づきます。

長かった・・。辛かった・・。そして暑かった・・!!

なんとかゴールに辿り着きました。
人間の体ってスゴイです、応援の力ってスゴイです。
タイムは昨年より1時間近くも遅れてしまいましたが、いいんです!

この灼熱の暑さの中を走り抜いた、それだけで充分!
エイドと名水に助けられ、スタッフの方々・応援の方々からも沢山助けて頂きました。
もう、感無量でした。

IMG_0477.jpg IMG_0474.jpg

ゴールした後に完走メダルとフィニッシュタオルをいただきました。
ます寿司やカニ汁、名水だんごも頂きました。
Y吉さんと共に食べるご褒美はとても美味しかったです!
(Y吉さんはこの暑さの中でもキッチリ成果を出した走りで凄かった)

帰りのシャトルバスもとてもスムーズでとても気配りを感じました。
大変暑い中、大会関係者、ボランティアの皆様、市民の皆様大変お世話になりました!
来年はちゃんと練習をして、暑さ対策もしつつ、チャレンジしたいと思います。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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