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尾張 田楽砦 🏯小牧山から築かれた「大縄手」の結塁

尾張 田楽砦 (愛知県春日井市田楽町・長福寺一帯)

個人的には・・尾張平野部の城めぐりは難易度レベルが高いと思います。
使われた城砦の跡はほとんど残らず、周辺も市街地化しているからです。
しかし、そのなかにあっても断片的に残るごく僅かな手がかりがあります。

そんな手がかりや名残りを見つけ、感じた時の喜びを大切にしたいものです。
それはたとえ想像であって構いませんし、史実にそぐわない見解でもいいと思います。
その時代の方に言わせればその考え、案外合っているかもしれませんよ・・。

今回訪れたのは小牧長久手合戦に徳川方の砦として使われた田楽砦(たらが)です。
秀吉の指令本城となった「楽田城」の字を逆さまにした冗談なしの「田楽砦」。
秀吉に対するあてつけがましい地名ともとれますが、偶然です。

taraga (5)
田楽砦は現在の長福寺から東側一体だと伝えられています。

元々はこの地域の織田氏に属する豪族長江平左衛門の屋敷とされます。
しかし小牧長久手の戦いの前に犬山城は秀吉方の池田恒興に1日で攻め落とされました。
犬山城主の中川定成が北伊勢に出陣し、峯城に入り不在だったかのも一因です。

taraga (1)
犬山城からの敗残兵が集まったとされる伊多波刀神社。(長福寺の東奥)

その犬山城の残党が田楽の伊多波刀神社に集まっていたそうです。
そのことを聞いた家康は、彼らを説得し、長江氏の屋敷に砦を築いて守らせます。
そして小牧山城から蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦、ここ田楽砦へと軍道も敷かれました。

「大縄手」、と呼ばれる長さ約4500メートルにも及ぶ空前の防御覆道です。

taraga (4)長福寺一帯は周囲よりも小高い丘になっていたことがわかります。

現在砦の遺構は住宅地となり消滅しています。
近年まで祠の上にあったとされる柱石も現在は確認できませんでした。
(以前来た時は駐車場の中にあったのですが、近年住宅化してました)

また長福寺の西から南にかけては小道が写真のように折れ曲がっています。
同時にこの部分が特に高低差が見られる箇所です。
これは砦の外郭ラインを引き継いだ面影かもしれませんね。

またはっきりとはわかりませんが、堀の址ではといわれる箇所も残っています。

taraga (2) taraga (3)
北側麓にある水辺と祠は堀の一部ではないかともいわれています。

taraga (6)長福寺境内からは小牧山が望めます。

小牧市とは行政地区が異なるため、石碑や案内版なども見当たりません。
小さく見える小牧山の麓からここまで大縄手軍事施設が敷かれたとすると壮大です。
短期間に人員総動員で造らせた家康の野戦魂を感じた田楽砦址でした。


田楽砦址とされる長福寺を示します。
今回駐車場が解らなかったので西隣の林昌院さんの参拝駐車場をお借りいたしました。

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小牧・犬山周辺の両軍による構築砦を散策

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その② 両軍の砦構築地帯めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

前回の記事では森長可が家康軍に惨敗した羽黒八幡林古戦場を訪ねました。
この合戦場面の光景を時系列で追っていく、という今回のミッション。
自ら課した宿題とはいえ、本当にこの夏の内に終わるのでしょうか?

・・とても不安です(-_-;)。しかし掲げた以上やりきるしかないですね。

羽柴秀吉の楽田到着

天正12年3月27日~29日
秀吉は3月21日におよそ3万の兵を率いて大坂城を出発します。
3月25日に岐阜に進み、3月27日日に犬山に着陣、4月には楽田城に入ります。
すでに池田・森軍の敗報は秀吉の耳に届いていました。

gakuden33.jpg
秀吉到着まで堀久太郎秀政が預かってた楽田城。

両軍による城砦の構築・修復

家康が小牧山城に入り、秀吉の楽田到着までの間、両軍による砦の修築が活発化します。
既に廃城になった城館や、小高い丘や古墳などが自然その対象に選ばれました。
双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態となりました。

この回では両軍によって急きょ構築された砦をまとめて紹介してみます。
城砦の配置は細かく見れば北尾張一帯、非常に広範囲にわたるものです。
そのため先ずは犬山城~小牧山城周辺の城砦に絞って以下にあげてみます。

🏳主な羽柴軍城砦🏳(いずれもリンクできます)

楽田城
岩崎山砦  
久保山砦  
小松寺山砦 
田中砦   
二重堀砦  
小口砦

羽柴方の砦構築にあたって注目したいのはその守将の顔ぶれです。

稲葉一鉄父子、蜂屋頼隆、金森長近、堀秀政、長谷川秀一、日根野弘就兄弟ら。
みな名だたる美濃衆の有力者ばかり。ここに恒興と長可が加わるとどうなるか?
森長可によって制された東美濃衆も一堂に与同することになります。(せざる負えない)

一早く秀吉方に旗幟を示した美濃衆の背景には恒興・長可の強力な影響力がありました。
そしてかつての西美濃三人衆の筆頭・稲葉一鉄の参戦、これも多大な影響があります。
秀吉が大阪から美濃経由ですんなりと尾張に移動できた背景がここにあるといえます。
   
🏴主な織田・徳川軍城砦🏴(こちらもリンクできます)

小牧山城
蟹清水砦
北外山砦
宇田津砦
田楽砦

北伊勢の状況下動きがとれない織田信雄に代わって迅速に対応した家康軍。
各砦の守将には家康の旗本衆や信雄付の在地領主らとあたりました。
こちらも出来得る限りの最大限の突貫作業で対抗します。

両軍は小牧付近にて対陣状態になりました。
お互いが相手の出方をうかがう形となり、いずれも至近距離での睨み合いです。
史上稀に見る一触即発の緊張状態となりました。

今まさに両軍合わせて10万もの軍が横並びに居向かい合っています。

その打開策として秀吉軍はついに行動を起こします。
次回は長久手方面に向かう両軍の足取りを追っていきたいと思います。
・・この「夏の自由研究」、結構大変な作業になってきました・・(汗)。

でも、なんか楽しい!

羽黒の戦い八幡林古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その① 羽黒の戦い八幡林古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

やっと・・、やっと、暑い夏がやってきたようです。

この夏、久太郎は暑さついでに熱い戦いが行われた古戦場をめぐりたいと思います。
これはいままで断片式に紹介した城や砦がいかに使われたかを見直す場でもあります。
もちろん未訪城の城館も織り交ぜながら合戦の経過を通してめぐっていくものです。

歴史を動かした大きな流れの中にはその結果に至るまでの小さな渦が幾つもあるもの。
関連史跡址や城館跡をできるだけ歩いてみて、どんな発見があるのかも楽しみです。
先ずは小牧・長久手の戦いの局地戦を順次めぐっていきたいと思うのであります。

池田恒興の犬山城急襲

天正12年3月13日
織田氏譜代の家臣、大垣城主・池田恒興は当初、織田軍に与力すると見られていました。
しかし恒興は熟慮の上、羽柴秀吉方に旗幟を示し犬山城を急襲し、占拠します。
徳川家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけます。

iyuyama33.jpg
前・城主でもあった恒興は木曽川を渡って犬山城をあっけなく占拠。

komaki33 (4)
家康・信雄も小牧山にて対陣体制を整えます。

羽黒の戦い

天正12年3月16日
羽柴方に与力し、羽黒(犬山市)に着陣した兼山城主・森長可
岳父・恒興の前面に突出した形で陣を設営、臨戦態勢で臨みます。
しかし、この動きは徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠酒井忠次らが羽黒へ向け出陣。

天正12年3月17日
翌3月17日早朝、酒井勢は取り囲んだ森勢に奇襲による一斉攻撃を仕掛けます。
序盤は酒井勢の先鋒、奥平信昌勢に対抗し、押し返していた森勢。
しかし松平家忠の鉄砲隊による側面攻撃、さらに酒井勢に左背後に回られ敗走しました。

haguroks (2)
羽黒八幡宮の北に古戦場を示す案内板があります。

小牧長久手の前哨戦がこの羽黒八幡付近一帯で展開しました。
それ故、羽黒合戦は「八幡林の戦い」とも呼ばれます。
・・なんだか4回目の川中島の合戦、「八幡原の戦い」と呼び名が似ていますね。

haguroks (1)一枚板にいろいろな情報が盛り込まれています。

haguroks (3)
林の中で繰り広げられた戦闘。なんだか雰囲気がでています。

明け方の日の出間もない頃、不意を突かれた森勢は大混乱に陥りました。
戦闘態勢を整える時間はなく、逃げ場を失っていく森勢。
長可は重臣・野呂助左衛門宗長野呂助三郎親子の奮戦の間に辛うじて戦場を離脱できました。

主君・長可を守り奮戦した野呂親子を祀った野呂塚が近くにあります。

haguroks (4)野呂父子の墓と、大正17年にご子孫が建てた顕彰碑が残ります。

森長可の家来の野呂助左衛門は、主君を守り奮戦しましたが、壮絶な死を遂げました。
助左衛門の長子の助三郎は初陣でしたが、父を助けようとして大軍の中討死してしまいました。
父を慕って討死した助三郎の話を聞いて、兼山城の人々は皆涙したと言います。

haguroks (5)
退却途中であった助三郎は、父・宗長の形見の小刀を渡され、父が討たれたことを知らされます。
汗てぬぐいを取り出し母へ、自分の髻を切り妻へ、渡すようと頼むと敵勢の中へ馬首を返します。
助三郎そのときまだ19歳、獅子奮迅の働きの末に力尽きました。

haguroks (6) haguroks (7)
現在でも地元の方々によって手厚く管理されていました。
(折れた石柱もきちんと修復されています)

電光石火、犬山城を落として北尾張へのクサビを打ち込んだ勝入・恒興
功績に血の気が逸ったのでしょうか、勝勢に身を任せた鬼武蔵・長可
小牧長久手の戦いはこの羽柴方2将によって火蓋が切られました。

徳川軍の酒井忠次らによる攻撃は「ろくろまわしの戦法」と言われます。
ええっ!!何それ?(喜)初耳です。現地でどんな戦法か想像するのも楽しかったです。
自分の解釈はこうです・・、えっと・・、ろくろでしょ・・。

前線同士が抑え込みあっている所(土台)へ横と後ろから手(横槍)を加えていく・・。
陣形は徐々に崩れ、やがて完全崩壊、軍は単なる烏合の塊へと帰す・・。
どうでしょう、恥ずかしいですが、これが自分なりの解釈です。・・違うかな(笑)。

羽黒八幡宮一体の林はとても手入れされ見通しが効く林になっています。
木々の間からお侍さんたちが鬨の声をあげ、駆け巡っていくような想像もできます。
そして、手厚く葬られた、忠臣・野呂親子の塚に手を合わせてあとにしました。


Ⓢには合戦の経緯を示した案内板が立ちます。
案内板の南には羽黒八幡宮の鎮守の森が広がります。
Ⓖが野呂塚の位置です。踏切・線路を渡る時は気を付けましょう。

越前 鷹巣城 🏯畑時能、愛犬「犬獅子」との奮戦地

越前 鷹巣城 (福井県福井市高須町・高須山)

先の見えない梅雨明けに夏の予定も立てられないでいる久太郎です。
夜でもお構いなしに鳴く蝉も今年はすっかりタイミングずらされてます。
涼しい夜は替わりにコオロギの鳴く始末・・。

勘弁してください、早くあのギラギラ夏が来て欲しい!

そんな7月中旬の悪天候の中、珍しく仕事絡みで福井県に出張しました。
現地での用件が終わってもまっすぐ帰宅できないところがワルでございます。
「帰りにちょっと一杯よばれてくるわ・・」みたいなノリで・・。

「帰りにちょっと・・城へ呼ばれて行くわ・・」

・・てな感じでここぞとばかりの訪城タイムが始まります。
雨の中、訪れたのは越前の鷹巣城です。四駆車出張は正解でした。
今回はちょっと趣向を変えて紙芝居みたなノリでお伝えしたいと思います。

城散策、といってもまたいつ降り出すかわからない雨。
今回は遺構見学はソコソコでして、ほぼ山登りで「feel so good 」です。
気楽に流し読みしていただければ幸いです!

e-takasu (1)鷹巣城に到着する一刻前に雨が小康状態に。なんてラッキー(*≧∪≦)。

e-takasu (38)

e-takasu (39)車での案内版がありますので写メを撮って行くといいでしょう。

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e-takasu (6)

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徒歩10分程で本丸・主郭部に到着します。

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e-takasu (15)
南北朝時代、新田義貞の側近として活躍した畑時能(通称・六郎左衛門)ゆかりの城。

説明版にあるよう、興味深いのは国内の合戦で(文献上?)初めて軍用犬が使われた事です。
太平記の「畑六郎左衛門が事」では「不思議な犬」と記された時能の愛犬「犬獅子(けんじし)」。
犬獅子の鷹巣城籠城戦での活躍が面白いです。

闇夜にまぎれ城を抜け出した犬獅子は敵陣に潜り込み、警備が厳しいと一吠えします。
そして敵兵が寝込んでいる時は尻尾を振り、時能に合図しにきたそうです。
時能はこの方法で毎夜、敵陣に夜襲を仕掛け敵を悩まし続けたそうです。

どこまでホントかは怪しいもんですが、なんか戦陣にあって微笑ましい話ですよね。
好きな食べものは「ちくわ」だったのでしょうか?
・・それは『忍者ハットリくん』の忍犬・獅子丸でしたね・・。すみません・・。

越前・若狭国に、南朝方の城はここだけ、という状況下の籠城戦でした。
畑時能が籠もる城は、敵陣に何重にも包囲され大軍を相手に必死に抵抗した様子が伝えられます。
寡兵にて1年以上の籠城の末、いよいよ最後の時が近づいたことを悟った時能。
伊知地山(勝山市)に移動し、大軍に一矢を報いたものの、自身も傷ついて悶死します。

鷹巣城も孤立したまま落城した模様です。

e-takasu (18)

e-takasu (24)

e-takasu (29)夏草に覆われた城址石碑がひっそりと立っていました。
(ちょっと除草の掃除させていただきました)

e-takasu (25)
雨雲の中、タイミングで麓の集落が望めました。

e-takasu (26)
期待していた日本海側は・・う~ん・・、残念!見通し悪いですネ。

e-takasu (28)
晴れてればこの上ない絶景が見られるのでしょうに・・。

南朝軍最後の戦いがこの高須山(鷹巣城)で展開されました。
また後世、戦国期は一向一揆勢力によって改修された址も見られます。
夏草の中に、横堀や土塁も確認できました。踏み込みたい衝動です。

雨でなければもっと踏み込んで見学したかったのですが・・。
時間も日が長いとはいえもう17時過ぎてます・・。
これは「もう一度来なさい」という暗示なのでしょう!

もう少し勉強して晴れた日に改めて登城することを約束して下山しました。


Ⓢはここまで林道にて車でのアプローチが可能です。
ここからは徒歩で10分の山歩きです。
尚、林道通行にあたってはゲートの都度施錠の上、通行可能です。
獣除けでもある施設なので必ずルールを守っていただきたいと思います。
Ⓖは広い山頂一帯が主郭部になります。
頂上からの360℃パノラマは絶景ですから登山にも超おススメなのであります。

美濃 天王山砦 🏯コンパクトながら機能満載の砦

美濃 天王山砦 (岐阜県恵那市武並町藤沢尻・城山)

山城めぐりが好きな人は「幸せ」だと思います。心豊かであろうから。
何故、何もない(実際はあるのだが・・)城址に登るのか??
そこに立つことで語りかけてくる無限の息づかいと想像に向き合えるからでしょうか。

・・長梅雨のせいで前頭葉の働きが低下しているのでしょう。
妙にドン引きな前文になってしまいました(;^_^A)、ゴメンナサイ。
好きなことは好き。ただそれでけですよね。そしてそれが『城』だった、というだけです。

・・結局、自分でも・・『何?ど~した?』・・。

さて今回は恵那市にある天王山砦を紹介したいと思います。
ところで美濃国には現・美濃市に天王山城(大矢田城)という山城もあります。
地域も別なので混同されることはありませんが、「城」と「砦」という呼称の違いだけ。

gozutenn (15)木曽川沿い、笠置ダム湖に面する天王山砦です。

写真は大雨の翌日だったため川面が濁っていますが、いつもはエメラルドグリーンです。
山の頂上を見てください、鍋蓋がちょん、と乗っかっている感じがわかると思います。
東西に延びる笠置峡を見下ろす絶好の位置にあります。

交通アクセスは地図と図面で後示しますが、ちょっとした秘境かもしれません。
付近には駐車できそうなスペースはありませんので城の南東部の林道路肩に停めました。
ほぼ交通量はないのですが、妨げにならないようにだけは気を遣います。

gozutenn (13)
今回は敢えて東側の尾根・大手道(仮想)から登頂します。

大手道を断ち塞ぐ大きな立岩群。
天然の垂直岩壁を前にルートを南に迂回せざるを得ないようになっています。
この時点で早くも仕組まれているような気がしてきます。

期せずして、守備側の思惑通りに進んでいくように・・。

ouzute (2)
主郭南西部の虎口に至ります。

gozutenn (11)
主郭部周囲は岩ごと切り掻いた切岸が鋭い。

gozutenn (10)
虎口の脇には竪堀も見られます。

主郭部の足元周囲には大小何本かの竪堀が見られます。
横堀と連動しており斜面の横移動に制限がかけられています。
下の写真がその横堀の様子ですが、非常によく残っていました。

gozutenn (5)城兵の横移動を兼ねており、土塁が併設してあります。

守備側の横移動を可能としながらの防塁、といったところでしょうか。
麓側から見上げると、土塁は守備側の動きを隠す役割もしています。
比較的緩傾斜となっている部分(弱い箇所)に向かって普請されていますね。

gozutenn (4)
土塁の下には20メートル近くの竪堀3本がセットで落とされます。

3本の竪堀は等間隔で整然と並び落とされています。
写真では木々が立ち並び、検証しずらいと思いますが、圧巻です。
ここ天王山砦の見所は何と言ってもこの虎口・横堀・土塁・竪堀のセットでしょう。

横堀と組み合わさった土塁と竪堀はかなりテクニカルなもの。
また等間隔に並んでいる竪堀も規格性を感じます。
これは東濃進出した際の武田氏遺構の可能性を強く感じるものです。

gozutenn (6)
横堀は南から西方面まで(一部途切れ)主郭を半周しています。

gozut (1)
横堀から竪堀へと連動してます。

gozut (2)
東方面を仕切る堀切はそれほど深くないのが意味ありそう。

gozutenn (8)
虎口近くには自然石を積んだ石積も見られます。

ouzute (1)
石積は虎口からのルートを補強したものでしょう。

gozutenn (7)
頂上の主郭部には名の由来となった牛頭天王が祀られています。

gozutenn (12)
主郭部からの眺望は木々で得られませんが、木曽川沿い奥を垣間見ることができます。

狭い峡谷同士での狼煙連絡も兼ねていたと思われます。
西方面は禰冝田砦(池城)へ、東方面は中尾城(中尾丸)へとつないだのでしょうか。
そういえば以前ですが、中尾城の記事で自分、こんな事を書いていました。

「中尾城の尾根筋には明瞭な筋道が(中略)ある城へとつながっていることがわかりました。」
・・という一文ですね。

思えばかなりもったいぶっていましたね・・(忘れてたのもアリ)。
そうです、その「ある城」というのはここ天王山砦だったのです。
両城との距離は約2000メートル、お互い背を向け合って木曽川を睨んでいます。

中尾城から実際に歩いてみて、途中遠ヶ根山(ここも砦の伝説あり)を経由します。
遠ヶ根山を西に降りて、ここ天王山砦に辿り着いた時はとてもびっくりしました。
高低差こそあれ、山歩きのペース・30分で連絡できるのです。

ある同一時期に両城が連設されていたことを示しているのかもしれません。
中尾城・天王山砦、共に城主などの経歴は不明です。
在地勢力ではなしえない、戦略性に富んだ性格も伺われます。

城館の類例と付近の歴史的状況から武田氏系の関与があげられます。
もしそうだとすると・・、どうでしょう。
武田氏は木曽川沿いと中山道、下街道からと多方面から岐阜方面へ迫ります。

適所にまず小規模拠点を確保し、じわりじわりと詰めていくのです。
そして異国の地において驚くほどのスピードで兵站道を確保していきます。
森氏の兼山城はこの時点で攻撃目標内に入っていたことでしょう・・。

ああ、ダメです・・、武田軍の足音を想像しただけでも怖い怖い(´Д`lll)!

gozutenn (14)武田氏系の特長や癖を感じとれる遺構です。
(土塁の向こう側には竪堀が並んでいます)

tennnoutzu1.jpg砦は小規模ながら実に技巧的な縄張りとなっています。

天王山砦の関連個所としてここにも寄ってみました

gozutenn (3) gozutenn (2)
天王山砦の西に鎮座する弥五郎神社と弥五郎滝です。

その昔、敵と間違えられて鉄砲で誤射された堀田弥五郎を祀った神社です。
祀った事により、はやり病が消えたとされる神社です。
砦と直接関係があるものかはわかりません。

神社からは弥五郎滝に近づくことができます(足元注意!)。
汗だくになった体を手拭いで洗いながら見上げる滝(といっても落差はそれほど)。
「・・き、気持ちいい~!」

「弥五郎さは、砦のことなんか知ってるのかな??」


Ⓢは天王山砦をチェックしてます。

尾張 傍示本城 🏯岩崎城での勲将・丹羽氏重の居城

尾張 傍示本城 (愛知県愛知郡東郷町春木市場屋敷)

日進市の岩崎城まで来たので、勢いで丹羽氏重の居城・傍示本城にも寄ってみます。
どんどんエスカレートしていく親父の趣味に付き合わされる哀れな家族・・。
今や、「お父さん持ちでご馳走するランチ」だけが、唯一の接点です(冷汗)。

最初は「ラーメン」とか「ファミレス」とか言っていたのに・・
訪城を重ねるたびに「お寿司」とか「ステーキ」とか言いだしましたよ・・
こちらも要求がどんどんエスカレートしていくではありませんか・・。

城めぐりもここら辺にしておかないと、とんでもないことになりそうです。
ということで、最終目的地、東郷町の傍示本城にやってきました。
・・読めませんね、傍示本城「ほうじもとじょう」と呼びます。

houjimoto (1)素晴しい、立派な石碑です。

現在は傍示本公民館の玄関脇に石碑が建てられていました。
傍爾本城、という「爾」の字が旧書体で余計読みづらいです。
隣でたなびく「防犯パトロール実施中」の幟がナイスアピールかと。

houjimoto (2)

城の遺構などは何も残っていませんでした。
公民館の東側とは落差があり、ここが台地上になっていたことがわかります。
その先には尾張と三河の国境であった境川がありますので、境目の城だったのでしょう。

遺構は無くとも石碑もあり、地形も把握できるので、多少当時を偲ばれました。
さ、次はここまで付き合ってくれた家族の顔を満悦にしないといけません。
この後は、言われるがままにご馳走ランチへと向かいましたとさ・・。


尾張 岩崎城 🏯小牧長久手合戦における命運の舞台

尾張 岩崎城 (愛知県日進市岩崎町市場)

次男の学校の用事で久々の名古屋入りをしました。
帰路はちょっと遠回りをして日進市の岩崎城を散策してきました。
・・家族の条件は、おいしいランチをお父さん持ちでご馳走することです。

家族サービスと城址散策、お互いウィンウィン(win-win)で行きましょう!。

iwasakij (5)模擬天守ですが、やはり迫力ある日進市のシンボルです。

昭和62年(1987)、展望塔として天守閣(模擬天守)が建造されました。
「岩崎城址公園」として整備され、岩崎城歴史記念館が併設されています。
記念館では、岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されていいます。

一時は、遺構の一部を破壊し、史実を無視した天守建築への非難もありました。
賛否はありますが、小牧・長久手の戦いを末永く後世に伝えることも必要です。
沢山の人がこの施設を通じて興味をもっていただければ、大きな意味があるでしょう。
(模擬天守は史跡地を配慮した場所に建てられています)

iwasakij001(3).jpg
結構デカい「岩崎城」の石碑と模擬天守。

iwasakij (7)

岩崎城は織田信秀によって築かれ、後に天文7年(1538)丹羽氏清が入城します。
天正12年(1543)小牧長久手合戦では城主・丹羽氏次は家康の本陣である小牧山へ出陣します。
兄・氏次の代わりに岩崎城は弟の傍示本城主・丹羽氏重が守備しました。

小牧・長久手の戦いでは両軍によってたくさんの城砦が築かれました。
広範囲にわたって周辺在地の城も巻き込まれていきます。
睨み合いになり膠着状態になった両軍に大きな動きが訪れます。

秀吉軍の先発・池田恒興が三河・岡崎城を目指す途中の岩崎城を攻めたのです。
これが当初からの作戦だったのか、偶発的な流れだったのか?
丹羽氏重も城兵三百余人で猛守、これを迎え撃ち玉砕するのです。

羽柴別働隊が城の前を通過すると、
「見過ごすは末代までの恥、ご恩を奉ずるのは今日の一戦にあり」
と城兵239人に討死覚悟で一戦を命じます。

氏重らは池田軍の攻城隊を三度に渡り撃退するなど奮戦の後討ち死しました。
お互いに死力を尽くした激しい戦いは3時間程で決着しました。
氏重は享年まだ16歳だったそうです。

城を落とした池田勢の勝利か?羽柴別動隊を足止めをさせた氏重の勝利か?
先発隊の池田勢がここ岩崎城を攻城し、後続対と合流するという意図は定石です。
そして、この後起こる命運を分けた大合戦が長久手で展開されます。

iwasakij (1)岩崎城の現況と旧状がわかると思い、現地での案内板をお借りします。

公園として模擬天守が建てられる前には遺構が良く残っていたようです。
現在は模擬天守と歴史記念館が建てられ公園となっていますが、遺構も確認できます。
どんな遺構が残っているのかな?・・見ていきたいと思います。

iwasakij (6)
二の丸庭園には水琴窟があります。

「勘助の井」と名がつけられています。「勘助」は、氏次の通称です。
手水鉢(ちょうずばち)近くにつりがね状の甕かめを伏せて地中に埋めたものです。
上部の小さな穴から水を落とす水滴の音が甕かめの内部で反響し、妙音を出す仕掛け。

こちらの水琴窟は2つの常滑焼甕を伏せてあり、2種類の音色を楽しむことができます。

iwasakij (8)
土橋からみた空堀。本丸をぐるっと囲む幅の広い箱堀です。

iwasakij (12)
この堀底には降りることもでき散策もできます。

iwasakij (10)

iwasakij (2)

iwasakij (11)
「古城之碑」と彫られてた岩崎城の石碑。

この石碑付近の様子を「御座の間」(殿様のいた所)とする記述が見られます。
岩崎城で討ち死にした氏重ら戦死達の供養も込めて文字が刻まれました。
落城の日である4月9日には毎年慰霊祭が行わています。

iwasakij (9)
岩崎城ゆるキャラの「にわさきくん」に迎えてもらいました。

歴史記念館内では小牧・長久手の戦いが解りやすく解説されています。
館内には丹羽氏重の騎馬銅像もあります。(写真は掲載しません)
岩崎城は家族で散策するのにも手頃な史跡公園だと思いました。

氏重らの奮戦によって池田・森らの進軍はここで足止めされました。
この報を兄・氏次はどんな思いで伝え聞いたのでしょうか。
氏次は長久手合戦にて活躍、氏重は徳川軍の勝利に貢献した影の功労者でしょう。


Ⓢは岩崎城跡公園の駐車場です。

尾張 島田城 🏯開発市街地の中に残る土塁に感涙

尾張 島田城 (愛知県名古屋市天白区島田5丁目)

我が家にはこの春から名古屋市内の大学へ通学している次男クンがおります。
この日は学校主催の父母向けガイダンスに参加してきました。
・・といっても、もう大体の事は本人に任せで、歩んでいくのでしょう。

保護者などはアドバイザー&スポンサー・・じゃない、カウンセラーみたいなものです。

しかしまぁ、折角名古屋まで来たのですから、昔来た城址の現況も気になるもの。
家族に言わせれば城址付近を通る度に自分はキョロキョロして落ち着きがなくなるようです。
奥方:「脇見運転で事故られちゃたまりませんから、(城まで)行ってきたら?」

「そう?、・・いやぁ~、じゃ、そうしちゃおっかな!。(よっしゃ!)」

次男:「どうせ神社かお寺になっててこんもりしてるだけでしょ・・。」
奥方:「石碑とか、カメラで撮ったらすぐ帰ってきてね・・。」
次男と奥方:「うちら、車ん中で待ってるから(唱和)。」

・・どうして気持ちよく送り出してくれないのでしょう??
(それでもぜんぜん構わないですけどね)

Nsimada (6)
・・ということで、天白区の島田城に寄ってみました。

島田城は名古屋市内の中では土塁が一部残っている貴重な城址なんです。
都市部では大方の城館が見る影もなく消滅してしまった中で珍しいことですね。
しかし、到着するなり、いい意味で裏切られました。

以前来城したときは、土塁といっても鬱蒼と木々が自生していた記憶があります。
それがウソのようにキレイに間伐され、見学しやすくなっているではありませんか!
しかも内部見学ウェルカムな見学ルートまで整備してあります。

Nsimada (1)入口には島田城の案内板が立ちます。

島田城は鎌倉街道を押さえる要所として斯波高経が築城を命じたといわれています。
高経は室町幕府において、尾張・遠江・越前の三国の守護であり、また菅領家でもありました。
戦国期になると地元では『城主は牧虎蔵である』と伝わっています。

この牧虎蔵は、川村北城(名古屋市守山区)の牧長義の一族です。
長義は織田信秀の妹を娶り小林城(名古屋市中区)に居城していました。
その出城として島田城を修築、母方の一族である牧虎蔵に守らせたそうです。

小躍りしたい気分で、ちょっと、お邪魔したいと思います。
以前は足も踏み入れられなかったから興奮してしまいます。
どうやら周囲をぐるっと散策できるようになっているよう。

Nsimada (2)土塁の一断片に過ぎませんがとても迫力あります。

Nsimada (5)
土塁の上にも上がれるます。

どうもかなり最近に整備されたばかりなのでしょうか?
石段もピカピカ、土塁上には雑草さえ生えていません。
これは相当ラッキーな時にお呼ばれしたようです。

Nsimada (4)
土塁の上には城主にまつわる牧神社が祀られています。

Nsimada (3)
島田城は東西約75m、南北約180mくらいの規模だったそうです。

それにしてもここから周囲を見渡すと、高層マンションや住宅地に囲まれています。
よくもまぁ、部分的にでも残していただけたものです。
城主・牧氏の末裔である方々の私有管理のお蔭様なんでしょうね。

しかもこのように見学開放・整備していただけるなんて本当に感謝です。


Ⓖは島田城の土塁が残っている場所です。
 付近にはこれといった駐車場はありません。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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