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小牧長久手の戦い 両軍、長久手方面への移動

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その③ 両軍の長久手方面へ進軍編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

前回の古戦場めぐりでは両軍の城砦構築地帯をめぐりました。
この合戦場面の光景を時系列で追っていく、という今回のミッション。
夏休みの宿題を追い込まれないとやれなかったあの頃を思い出します(汗)。

・・結構焦っています・・(-_-;)。頼む!、夏よ逃げないでくれ~♪。

両軍お互いに城砦塁を構築し、それ故に身動きがとれなくなった状態に陥ります。
この現状を打破しようとする動きが羽柴軍の中で発案されていました。
それが別動隊による三河侵攻作戦です。

羽柴軍の三河方面別動隊編成

天正12年4月4日
池田恒興は秀吉の本陣を訪れて三河方面への後方攪乱を献策します。
兵を三河方面に出せば織田徳川は小牧山城だけにしがみつくことができなくなるであろう・・と。
しかし秀吉は即答を避け、許可を渋ったという話もよく聞く話ですね。

天正12年4月5日
翌日、恒興は秀吉のもとを再度訪れ、舅・森長可とともに羽黒の雪辱を果たしたいと訴えます。
秀吉はついにこれを許可し、池田・森らを主とした三河西部へ向けた軍勢の編成を決断します。
この点では秀吉自身も同じ考えを抱き、池田・森らの打開的熱意を試したのでしょうか?

最終的には秀吉自身による発案を池田・森らの隊が実行するという形になります。

gakuden02 (1)
三河別動隊、敵から直視されない楽田城裏門から出発。
(この石碑の存在価値は大きいですね)

三河方面別動隊の長久手方面侵攻

天正12年4月6日・夜半(・・お、城の日か・・)
三河方面別動隊は三河中入り隊として3つの隊に分かれ、楽田城裏門より出発します。
僅かな日数での軍事決定に情報収集や準備調達は非常に拙速したものだったでしょう。
各隊の主な編組は以下の通りに構成されました。

第一隊:池田恒興(実質的総大将) - 兵6,000人
第二隊:森長可 - 兵3,000人
第三隊:堀秀政(軍監) - 兵3,000人
第四隊:三好信吉(秀次)(形式上総大将)- 兵8,000人

monokurui.jpg
楽田城から物狂坂(ものぐるいざか)を越して池之内・上末方面へ行軍。
(大県神社参道途中から小牧池之内へ抜ける峠道)

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先導役を請け負ったのが主に上末城の落合氏ら。

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別動隊の集結・編成が主に行われた柏井周辺の吉田城。

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庄内川手前にて駐留所を提供した上条城・吉田城らの諸氏。

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三河方面への渡河案内には大留城の村瀬氏らが相談に乗ります。

天正12年4月7日
羽柴勢先行隊は吉田城・上条城の周辺に到着します。
しかし池田・森隊はここで2日間もこの地に逗留します。
これは一体どういうことでしょうか?、・・例えば。

狭い夜道を2万5千人に近い兵が一通行軍するとどうなるでしょう?。
2列縦列だったとしても、その隊列だけで行軍距離は数十kmになるそうです。
ここで2泊もしている羽柴軍はおそらく後続隊の集結を待ってのことでしょうか。

マラソンスタートで最後尾のランナーがずっと遅れてスタート門を過ぎる感じです。
しかし、このような遅々とした行動は著しく秘匿性を欠いてしまったようです。
隠密行動であったはずの羽柴軍の動きは付近の住民によって家康方に通報されます。

・・当たり前ですよね。

羽柴軍の前進再会と織田徳川軍の行動開始

天正12年4月8日・午後~深夜
羽柴軍は3つのルートに分かれて渡河前進を再開しました。
3分割されたことでそれまでの移動速度は格段に速まりました。
池田・森隊は長久手方面へ、三好・堀隊は白山林方面へ展開します。

🏳羽柴軍の行軍と庄内川の渡河ルート🏳 (リンクできます)

三河方面先導役・落合氏:上末城⇒篠木・柏井方面へ案内

池田・森隊:大留城周辺⇒大日の渡し
堀隊:上条城周辺⇒野田の渡し
三好隊:吉田城周辺松河戸の渡し⇒龍泉寺城城下
※吉田城の記事、更新しました!

nodawatasi.jpg
羽柴軍軍監・堀久太郎秀政らが渡河したと伝わる庄内川・野田の渡し。
(現在の春日井市熊野町~名古屋市守山区吉根の吉根橋南あたり)

🏴織田徳川軍の小幡入城と羽柴軍追尾🏴 (リンクできます)

小牧山城⇒勝川の渡し⇒小幡城

徳川先行隊:丹羽氏次・水野忠重・榊原康政・大須賀康高ら-兵4,500人
織田徳川本隊:徳川家康・井伊直政らと信雄の主力-兵9,300人

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家康らが急行した小牧山~小幡城間の勝川の渡し。

「この渡しはなんという渡し名か?」

「かちがわにござります」
家康軍の道案内をした庄屋・長谷川甚助が家康の問いに答えます。
家康は「勝ち川」とは縁起がいい、と言って兜の緒を締め直したという逸話があります。

歩いて渡れる事から「徒歩(かち)川」と呼んでるだけなんですが・・、
とはさすがに長谷川さんも言えなかったでしょう・・。
それにしても家康公、合戦前にわざとらしい験担ぎをするものですね。
(関ケ原では「勝山」もありまっせ)

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駆けつけ会議が行われた小幡城。

夕方に小牧山を出発し、夜半小幡城に着陣。到着後、直ちに小幡城で軍議を行います。
軍議では兵力を二分して各個に敵を撃破することに決しました。
家康は自身の旗本と直属部隊だけを率いて戦場に急行しました。

天正12年4月9日・未明~早朝
徳川先行隊は敵将・三好信吉勢を背後から攻撃せんと小幡城を出発します。
次々ともたらされる羽柴軍の状況を分析しいよいよ徳川本隊も動きます。
羽柴方最先頭の池田隊はこのとき岩崎城外にさしかかろうとしていました。

いよいよ先端の火蓋は切られようとしています。

各城砦・庄内川渡し場は記事内のリンク先を参考にしてください。

次回は白山林の戦いへと続けたいと思います。
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尾張 小幡城 🏯遠見の角に巧手・家康あり

尾張 小幡城 (愛知県名古屋市守山区西城2丁目一帯・城趾山)

お盆も過ぎ、空高い入道雲の下、そよ風が心地いいい季節になりました。
この時期はセミのオールスター大合唱が聴ける短い時期でもあります。
盛夏からのクマゼミ、アブラゼミに、晩夏からのミンミンゼミ、ヒグラシ・・。

そこに初秋のツクツクボウシが参加していよいよ夏は過ぎようとしています。
どんなに異常気象といわれようとも季節は移り行くことを忘れません。
城めぐりを通して感じとることができる季節はより一層の楽しみとなりましょう。

さて、前回では龍泉寺城を訪問いたしました。
今回はその龍泉寺城南東に僅か3kmと離れていない小幡城を目指します。
この距離感で数刻とはいえ、睨み合った秀吉と家康の肝っ玉に感心します。

obataj (15)
麓の西城小学校グランドから見上げる、城趾山・小幡城です。

上の写真の頂上の家屋やマンションが建つ辺りが本丸だったようです。
標高は20メートルくらいでしょうか?それほど高くはありません。
それでも尾張中央部の平野の中では高台、といってもいいでしょう。

tyuoba.jpg
本丸一帯は月極駐車場となっており、広さは感じられます。

・・まぁ、この様な状況なので遺構もなにもあったものでは無いのですが。
それでも「城跡」だった、というアナウンス・認識があるとないとでは全く違います。
移ろいゆく時代の中にその名を留めている、ということに意味があると思うのです。

obataj (9)名古屋市の説明版が設置されています。(ありがとうございます(*・`ω´・)ゞ)

小幡城は大永2年(1522)岡田重篤によって築かれたそうです。
その後、信長の叔父・織田信光が守山城と共に城主となるも、死後は廃城となりました。
後、小幡城が再び脚光を浴びることになるのは小牧長久手合戦の舞台です。

obataj (7)微高地ながら平野部がとてもよく見渡せます。

obataj (6)
唯、東側には堀切の痕跡が道となって残っています。これはポイント高いです。

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さらに東側には城趾山・阿弥陀寺付近に少しの雰囲気が残っています。

obataj (14)

obataj (13)
一瞬、城址石碑かと思ってしまいました。まぼろし~♪。

天正12年(1558)小牧長久手合戦において徳川家康はこの城を修築し本多広孝に守備させます。
小牧山城と三河方との連絡路を保つための重要な拠点でした。
同時に守山城もおそらく若干の手が加えられたものと思われます。

小幡城は庄内川と矢田川の合流地帯の高台に立地しているのが特徴です。
庄内川では勝川の渡しを経由すれば小牧山城砦群とも連絡が容易。
矢田川と現在の瀬戸街道筋を利用すれば三河・東濃方面にも迅速に移動できます。

katigawa.jpg
家康が小幡城急行の際に渡った勝川の渡し

家康にしてみればここ小幡城こそが最右翼の防衛線ともいっていいでしょう。
秀吉軍による小牧山への回り込みを防ぐにも格好の位置にあり、と理解できます。
秀吉の三河中入り隊、三好本隊らはこの小幡城攻略こそが主目的だったともいわれます。

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小幡城、堀切名残りの場所にカワイイ花。

事実、小幡城は小牧長久手合戦にて攻撃・防御の両面で力を発揮します。
龍泉寺城👈の記事でも触れましたので参考にしていただければ、と思います。
家康にしてみれば、小幡城、将棋でいうなら「角行」の如しです。

少し離れた場所から相手が筋を見落としやすい意表を突きます。
小牧山~長久手間にて利きが広がり、動きが封じ込まれにくく、戦局を優位に進められます。
家康は小幡城の立地特徴を見事に見極め、対局をすすめたといえましょう。

秀吉もまた小幡城の存在を大いに警戒し、三河中入り部隊本隊の攻略主目標としました。
三河(岡崎城)方面を突く、とみせかけ、その実は岩崎城と小幡城の同時攻略と分断。
そして「小牧山での家康孤立化作戦」というのが絵だったのではないでしょうか??

一早くその動きを掴んだ家康、秀吉軍の戦局主導の中でまさに小幡城を「竜馬」と成します。

まさに遠見の角に好手あり、ですね。
(「遠見」とは離して打つことで、角の打ち方や動かし方に好手が多いという格言)

次回は今回の記事を受けての「小牧長久手合戦古戦場めぐり」を再開。
「両軍の長久手方面へ進軍編」を取り上げていきます。


Ⓖは小幡城の説明版の位置を示します。短い時間であれば路駐車でもいいと思います。

尾張 龍泉寺城 🏯織田信勝と羽柴秀吉、それぞれ宿命との対峙の場

尾張 龍泉寺城 (愛知県名古屋市守山区龍泉寺1丁目・龍泉寺)

お城好きな皆様、残暑お見舞い申し上げます。
お盆休みを挟んで長らく放置されたブログに戻ってまいりました。
猛暑と台風の到来で予定していた諸計画は吹き飛んだ夏休みでしたが・・。

さて、前回では上条城(ジョウジョウジョウ)を気分ジョウジョウで紹介いたしました。
今回は上条城から続いて庄内川を渡った龍泉寺城を訪問しました。
車内では「mihimaru GT」さんらの『気分上場↑↑』を聴きながら一人アゲアゲ。

一人の時は夏でも車内エアコンを入れないのがどうでもいいポリシーです。
窓全開でのノリノリ運転は傍迷惑もいいとこかもしれません。
・・本音をいいます、エアコンジムニーJA22=走らない説は本当なんです・・(哀)。

ryusenji (1)
名古屋城を鎮護する尾張四観音のひとつが龍泉寺です。

徳川家康は名古屋城築城の際に、鬼門の方角にあたる古刹に注目。
名古屋城の鎮護として尾張四観音を定めました。
尾張四観音()はどこも尾張の代表的な開基千数百年以上を経た古刹です。

愛知県名古屋市中川区荒子町の荒子観音
愛知県あま市甚目寺の甚目寺観音
愛知県名古屋市守山区竜泉寺の龍泉寺観音
愛知県名古屋市南区笠寺町の笠寺観音

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仁王門は重要文化財に指定され、多宝塔も美しいですね。

ryusenji (9)そして境内裏側には模擬天守が隠れています(*^_^*)。

この模擬天守、なにせ歴史考証を欠くが故にあまり知名度がありません。
知る人ぞ知る、といった隠れ天守スポットかもしれません。
それでも「天守(建物)至上主義」の城郭ファンにとっては一度は訪れるに値します・・。

・・かな??(;^_^A)

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模擬天守内部は宝物館となり、重要文化財の木造地蔵菩薩像や円空仏などを見学できます。
気を付けたいのは日曜・祝祭日のみの開館で、開館時間は午前9時から午後3時です。
拝観料が200円です。平日は見学できません。

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「扇の勾配」なのですが、控えめな現代建築の美しさを楽しめます。

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模擬天守に隣接する日本庭園もなかなか手入れされていていいですね~。

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おお、展望台もありますよ!行ってみましょ。

ryusenji (3)ここからは春日井小牧方面から名古屋を見事に一望できます。

ほぼ真西方面に清州城、南西に名古屋城、北西に小牧山城がしっかり見えます。
眼下には庄内川が流れ、松河戸の渡しも監視できる要所です。
小牧長久手合戦の際、秀吉軍の三河中入り部隊三好本隊はこの地点を渡河しました。

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展望台も下から見ると櫓風でしっかりとした構造に見えます。

・・ところで。

自分は学生時代に龍泉寺の夜祭りで警備員のアルバイトをしたことがあります。
その時、お寺の方のご厚意でここから名古屋の街の夜景を見せていただきました。
お寺の方曰く「百万ドルの夜景」だとおっしゃっていましたが、本当に綺麗でしたよ。

さて、龍泉寺城には城郭としての遺構も残っているので見ていきたいと思います。

龍泉寺城は弘治3年(1557)織田信長の実弟:織田信勝によって築かれました。
「織田信行」という表記は最近は改められ、徐々にこちらの名が浸透してきていますね。
信勝は岩倉城主・織田信安と組み、兄・信長と争った際に築城したと伝えられます。

信長の家臣として、協力的一門衆の座に落ち着くことができなかった信勝。
本人の気性か、取り巻く家臣や実母の影響か、兄弟で争いは避けられませんでした。
本拠・末森城から支城を築くこと自体、信長にとって脅威な存在だったことでしょう。

ryusenji (5)北側に残る空堀は「豊公一夜堀」と呼ばれる堀があります。

後年、天正12年(1584)小牧長久手の合戦において羽柴秀吉がこの城に来陣します。
家康は長久手にて羽柴別働隊を壊滅させた後、小幡城に入ります。
救援に駆けつけた秀吉は小幡城の目と鼻の先であるここ龍泉寺に着陣。

長久手での敗報を聞きつけ短期間で堀を掘ったのがこの一夜堀だそうです。
毎回ですが、秀吉の手にかかると、なんでもかんでも「一夜」なんですね・・。
しかし突貫で掘りまくったにも関わらず、眼前の家康は既に小幡城から撤収していました。

常に秀吉の一枚上手をいく家康采配は冴えまくっていますね。

ryusenji (4)
堀の外側には幅2メートル程の土塁がめぐっています。

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土塁がめぐる堀底の様子です。

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主郭側の法面は急な勾配となっています。

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堀底に降りる途中には「豊公旧跡」と彫られた石碑もあります。

ryusenji (15)庄内川南岸の崖上に位置する龍泉寺城。

手前の庄内川には松河戸の渡しがありました。
小牧長久手の戦の折には、三河中入り隊がここから渡河します。
総大将・三好信吉(秀次)らも白山林に向かって渡河移動します。
 
この地点は庄内川が大きく南行から西行にカーブしています。
河川敷は以前は砂石取場になっていた程の浅瀬。
現在でもゴム草履か長靴で横断できてしまうほど浅いです。

龍泉寺城からの眺望は信勝の兄・信長に対する剥き出しの牙を感じました。
また秀吉得意の人海戦術による「一夜堀」も家康との強い決着意欲を伝えます。
両者とも因縁ある相手との駆け引きに城を利用したんだ・・と思い感慨深かったですね。

次回は家康にとって「角」の城、小幡城の記事を予定しております。


駐車場は龍泉寺の広い参拝駐車場をお借りしました。

尾張 上条城 🏯三河中入り隊、渡河前の駐留地点

尾張 上条城 (愛知県春日井市上条町二丁目付近一帯)

「晴耕雨読」という四字熟語があります。
晴れた日は外で活動し、雨ならば内にて活動するという人間本来の姿を表しています。
・・しかし昨今の夏の暑さ、日中での野外活動は熱中症の危険と隣り合わせですね。

夏の城めぐり、いつもより多めの水分を用意して、自販機等の有効活用もしましょう。

さて、今回訪れたのは春日井市の上条城です。
「じょう・じょう・じょう」と読みます。珍しい城名は一度聞いたら忘れられないジョウ・・。
上条城は現在、個人管理敷地内ということですのでが外観からの見学は可能です。

以前は上条城本丸跡地には個人邸宅と林がありましたが、近年取り壊されています。
現在は一部の堀や土塁等の遺構を残しつつ本丸を月極駐車場として活用されています。
立ち入り禁止区域となっていますので、この点に留意しての見学とさせていただきました。

jyojyo (1)市街地の中に残っている上条城の土塁。

土塁が北西隅の櫓台を含めて東西約70m、南北50mのL字型に残っています。
高さは最高点で6mほど、平均3mほどの高さです。
土塁の下には石積による補強が施されていますが、これは後世の土留め処理かもしれません。

jyojyo (4)
本丸南西隅部の土塁と堀の跡です。

かつては本丸を取り巻くように土塁と堀を巡らし二重の堀をもった一大城郭でした。
本丸と二の丸とを含めた三ノ丸の規模は東西約370m、南北約340mにも及んでいたそうです。
地内には林氏屋敷の母屋が現存し堀跡は側溝などに利用され、その大部分は宅地化されています。

jyojyozu.jpg『東春日井郡誌』より転載、上条城の縄張りです。

jyojyo (8)本丸北側の堀の様子です。すみません、ちょっとオーバーネットしてます💦

jyojyo (3)
「人呼びの丘」といわれる天守に相当する櫓台の跡です。

この櫓台は平時は見張り台として機能していたそうです。
戦いの時には村人を招集したり、水害時には頂上に登って村人に知らせたとされます。
丘の片隅には大国主命を祀った神殿と、磯城津彦命と祖先・今井兼平を合祀した祠もありました。

jyojyo (7)上条城跡の脇にある林家屋敷跡の石碑

上条城は建保6年(1218) 小坂光善が上条城を築城したのが始まりとされます。
時は鎌倉時代なので、歴史的にはかなり古くからの城館ということになります。
子孫の林重之の代に、名字を「小坂」から「林」と改姓しました。

戦国期になると、弘治2年(1556) 織田信長小坂孫九郎尉宗吉を上条城城主に任命します。
宗吉は信長の命令で家臣の佐久間氏らとともに上条城の拡張のため大改修を行ないました。
後に織田信雄の傅役を務め、信雄より「雄」の1字を拝命し、小坂孫九郎尉雄吉と改名します。

天正12年(1584) 小牧長久手の戦いの際、上条城は池田恒興からの要請をうけ羽柴側として協力。
城跡を修理して再び城砦化し、庄内川の渡河案内などをしました。
池田・森隊率いる軍が一時的にこの城に入城し二泊しています。

現地での散策と『春日井郡誌』図面から規模を推察するとかなり大きな規模だと解ります。
そしてこの規模なら羽柴軍の中継基地に相応しい城館だったとも推測できましょう。
この地に集結した三河中入り隊の面々は3つのルートに分かれて進軍していきます。

njyoujyou.jpgかつて邸内にあった上条城跡の石碑。(1987年4月1日 撮影)

当時撮影許可を承諾していただき撮らせていただいた一枚の貴重写真です。
邸地内は鬱蒼とした林となっており、少しだけ遺構の見学もさせていただきました。
番犬が放し飼いされており(案外おとなしかったですが)ちょっと怖かった記憶です。

今はこの石碑も行方不明だそうで、現地でも遠目に確認できませんでした。
篆書体(てんしょたい)と呼ばれる最も古い漢字書体で彫られていたこの石碑。
めったに目に触れることができない書体にして、最も歴史ある書体です。

とっても渋くてカッコいい、私の中で一番のお気に入り城跡石碑になりました。
帰りの電車内でも興奮冷めやらず、益々城めぐりが好きになっていきました。
そして邸内を見せていただいた家主・林さんには多大な感謝に溢れていました。

もうお目にかかれることはないのかと思うと残念でなりません。
背後に土塁が写っているこの写真は私の大切な一枚になりました。
自分が城めぐりを始めたばかりの、16歳・高校1年生の春のことです。

懐かしく思い出深い、春日井市の貴重な城館遺構、上条城でした。


上条城の本丸位置と石碑のある位置をマークしてみました。
月極駐車場内からの目視見学は可能ですが、バリケード設置されている敷地内は立ち入り禁止です。
北側の道からは深い堀の様子も見学できます。
マナーを守って見学しましょう。


尾張 大留城 🏯庄内川渡し地点を押さえた城

尾張 大留城 (愛知県春日井市大留町6丁目・子安神明社)

やっと梅雨明けしたかと思えば、この猛暑、耐熱能力なしでございます。
しかしこれです!この喉の渇き、やはり夏ならではのものですね。
同じ麦が原料でもビールが飲めない自分は、もっぱら健康麦茶ゴクゴク派です。

そんな夏の城めぐりは平城や古戦場めぐりがうってつけです。(にしても暑いですが)
今季は小牧長久手合戦に関連する城館を紹介していきたいと思います。
汗を払いのけ、スポーツドリンク片手にやってきたのは春日井市の大留城です。

oodome (3)
子安神明社の鳥居奥の高まりには祠と城址石碑があります。

oodome (8)「大留城趾」の石碑。「趾」の字が使われていますね。

細かいことですが、石碑によって「あと」の字にどの字が使われているか??
これを見てみるのもマイブームですが面白いものです。
『跡』の字か、『址』の字か、『趾』の字か、『阯』(レア)の字か、『蹟』(超レア)の字か。

・・例えば桶狭間の合戦で有名な城砦群をみてみましょう。
丸根砦・鷲津砦の石碑には『阯』の字が、大高城、善照寺砦には『跡』の字。
中島砦は『址』、鳴海城は『趾』と同じ地区内でもこんなまちまちなんです。

それぞれどんな基準で使い分けされているかはわかりません。
けれど、なにかしらの主張を感じてしまうんですよね。面白いな~って。
こんな所をいちいち注目して嘆ずるのは自分くらいのもんでしょうが・・。

oodome (4)
神社には多少の面影はありますが遺構はほぼ消滅してしまいました。

かつての本丸は東西43メートル、南北54メートルの規模がありました。
庄内川の洪水の影響もあり、東南部がえぐられた形で残っていたそうです。
西郭は東西50メートル、南北130メートルほどありました。

いずれの郭も周囲に土塁と堀がめぐっており、堀は北の井高川から水が引かれました。
すぐ南は庄内川に面しているので、小さいながら堅固な城であったことが想像されます。
本丸と西郭をもつ南北に長い縄張りだったようです。

自分が以前来たときも東側に幅10メートル程の空堀が一部残っていました。
しかし、それも最近の宅地化で見る影もなくなりました。

oodome (5)
城の井戸の名残でしょうか?

oodome (6)
城址石碑のあるこの高まりはおそらく土塁の最終残存地のものでしょう。

城主の村瀬作左衛門は織田氏に仕える土豪でした。
しかし小牧長久手の戦いでは調略により羽柴方に協力することになりました。
羽柴方にしてみれば庄内川渡渡点の確保は必須だったに違いありません。

長年の織田家臣従方針を転換し、羽柴方に協力する大義名分は必要です。
そこで部下や領民を説得するにあたって作左衛門は一計を案じます。
領内の田の中に埋もれていた「玉壺地蔵」を掘り起こし、立派な祠に安置します。

その行為に感謝した地蔵が「羽柴軍につくべし」というお告げをした、と広めたのです。
こうして城は羽柴勢の三河中入り軍の中継地・渡河点として提供されました。
・・が、作左衛門自身もこの作戦に参加、長久手の戦いで戦死してしまうのです。

oodome (2)大留城から「大日の渡し」付近を眺めます。

三河中入り部隊の池田・森隊は上条城から一旦北上してここ大留に駐留。
軍容を整え、庄内川を大日の渡しを経て中志段味へ移動後、南下していきます。
時代のうねりに巻き込まれていった村瀬氏のような立場に想いを渡されました。


Ⓖは大留城の石碑がある子安神明社です。

プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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