摂津 有岡城(伊丹城) 🏯荒木村重の摂津経営拠点
摂津 有岡城(伊丹城) (兵庫県伊丹市伊丹2) 《国指定史跡》
摂津の城めぐり、切り上げ所がつかめず、ズルズルとここまできてしまいました。
どの城址もその面影や残し方に特徴があり、訪問先での発見が楽しいです。
今回は荒木村重や黒田官兵衛にゆかりのある有岡城を散歩してきました。
今回の摂津の城、先に滝山城、花隈城、兵庫城、尼崎城等を紹介しております。
どの城址もほぼ駅から近い位置にあるので鉄道周りでも面白そうです。
有岡城も伊丹駅の真正面ですのでアクセスはとても便利です。
駅の構内の観光案内所には無料でパンフレットも配布されています。
ちょっと足を延ばして手に取ってみられることをおススメします。
駅前から先ず目につくのはこんな城の石垣っぽい景観です。城の予感がする・・。
駅前の陸橋をわたると石碑・その①が置かれていました。
ここでは主郭部に登城するのに自動階段(エスカレーター)も使っても良しです。
(階段の横に併設されています)
都会の繁華街に何気なく溶け込んでいて明るい雰囲気があります。
城址公園の高台に上がってみると説明版がありました。
小高い台地一帯に有岡城の主郭部の一部が残されています。
有岡城は城下町を城内に取り込んだ惣構えの構造だったようです。
絵図で見ると、かなり広大な城で北・西・南にも砦が構えられていました。
こうなると城郭内の跡をくまなく見学することは・・。
時間の都合上、主郭部周辺しか見学できそうもありません。
今日の所は主郭部周辺だけになりそうです。
傍らには伊丹之親の歌碑があります。
土塁の塁線が延びています。
堀と土塁の様子です。ここはちょっと想像力が要りますが・・その一方で・・。
南に向かうほど傾斜が増し、堀底が深くなっていく様子もわかります。
空堀が主郭部を半周している様子が掴めます。
市街地化するなかでその様子が公園といて残っているのがいいです。
商店街へと続く通り沿いからも見学することができます。
模擬石垣ですが、迫力に満ちた虎口設計に感動しちゃってます。
上から見るとこんな感じですね。・・あ、石碑があんな所にも!
階段を登り切ると、荒木村重の人物像が見えてきます。
天正2年(1574)織田信長は茨木城主・荒木村重に命じ伊丹城主・伊丹氏を攻め滅ぼしました。
村重は摂津国守護として伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行いました。
信長の被官として国持ち大名に大抜擢されたのです。
天正6年(1578)播磨国・三木城主の別所長治が信長に叛くと、村重も有岡城に籠城します。
村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。
しかし、一度は明智光秀らの説得され翻意し、釈明のため安土城に向かおうとします。
その途中に寄った茨木城にて、家臣の中川清秀からの一言に気持ちが揺らいだそうです。
「信長に一度疑いをかけられた者はいつか必ず滅ぼされる」(かもしれない)的な。
思い当たることがあったのでしょうか、その進言を噛み締め村重は有岡城に戻っています。
後、黒田官兵衛孝高が村重を説得するために有岡城に赴きます。
しかし、官兵衛はそのまま捕えられて幽閉されてしまう破目に。大河ドラマでもご存知ですね。
信長は有岡城を包囲、長期戦に入った天正7年(1579)村重父子は夜陰に紛れて尼崎城へ逃れます。
本丸内では礎石跡や井戸跡など発掘調査で見つかった遺構が分かるようになっています。
主郭北西部には土塁と復元された石垣があります。
・・お、忘れることろでした、有岡城の石碑・その②です。凛としてます。
・・そういえばここにきて気付いたんですが・・。
今回の城めぐりの順番、村重父子の逃避行を逆に回っていることに気が付きました(今頃・・)
果てしない逃避行になるのを覚悟で彼は何に手を延ばそうとしていたのでしょう。
有岡城の落城後、信長は池田恒興親子にこの地を与えます。
長子・池田之助が城主となりました。
有岡城はいつしか再び「伊丹城」という名で呼ばれるようになりました。
摂津の城めぐり、切り上げ所がつかめず、ズルズルとここまできてしまいました。
どの城址もその面影や残し方に特徴があり、訪問先での発見が楽しいです。
今回は荒木村重や黒田官兵衛にゆかりのある有岡城を散歩してきました。
今回の摂津の城、先に滝山城、花隈城、兵庫城、尼崎城等を紹介しております。
どの城址もほぼ駅から近い位置にあるので鉄道周りでも面白そうです。
有岡城も伊丹駅の真正面ですのでアクセスはとても便利です。
駅の構内の観光案内所には無料でパンフレットも配布されています。
ちょっと足を延ばして手に取ってみられることをおススメします。
駅前から先ず目につくのはこんな城の石垣っぽい景観です。城の予感がする・・。
駅前の陸橋をわたると石碑・その①が置かれていました。
ここでは主郭部に登城するのに自動階段(エスカレーター)も使っても良しです。
(階段の横に併設されています)
都会の繁華街に何気なく溶け込んでいて明るい雰囲気があります。
城址公園の高台に上がってみると説明版がありました。
小高い台地一帯に有岡城の主郭部の一部が残されています。
有岡城は城下町を城内に取り込んだ惣構えの構造だったようです。
絵図で見ると、かなり広大な城で北・西・南にも砦が構えられていました。
こうなると城郭内の跡をくまなく見学することは・・。
時間の都合上、主郭部周辺しか見学できそうもありません。
今日の所は主郭部周辺だけになりそうです。
傍らには伊丹之親の歌碑があります。
土塁の塁線が延びています。
堀と土塁の様子です。ここはちょっと想像力が要りますが・・その一方で・・。
南に向かうほど傾斜が増し、堀底が深くなっていく様子もわかります。
空堀が主郭部を半周している様子が掴めます。
市街地化するなかでその様子が公園といて残っているのがいいです。
商店街へと続く通り沿いからも見学することができます。
模擬石垣ですが、迫力に満ちた虎口設計に感動しちゃってます。
上から見るとこんな感じですね。・・あ、石碑があんな所にも!
階段を登り切ると、荒木村重の人物像が見えてきます。
天正2年(1574)織田信長は茨木城主・荒木村重に命じ伊丹城主・伊丹氏を攻め滅ぼしました。
村重は摂津国守護として伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行いました。
信長の被官として国持ち大名に大抜擢されたのです。
天正6年(1578)播磨国・三木城主の別所長治が信長に叛くと、村重も有岡城に籠城します。
村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。
しかし、一度は明智光秀らの説得され翻意し、釈明のため安土城に向かおうとします。
その途中に寄った茨木城にて、家臣の中川清秀からの一言に気持ちが揺らいだそうです。
「信長に一度疑いをかけられた者はいつか必ず滅ぼされる」(かもしれない)的な。
思い当たることがあったのでしょうか、その進言を噛み締め村重は有岡城に戻っています。
後、黒田官兵衛孝高が村重を説得するために有岡城に赴きます。
しかし、官兵衛はそのまま捕えられて幽閉されてしまう破目に。大河ドラマでもご存知ですね。
信長は有岡城を包囲、長期戦に入った天正7年(1579)村重父子は夜陰に紛れて尼崎城へ逃れます。
本丸内では礎石跡や井戸跡など発掘調査で見つかった遺構が分かるようになっています。
主郭北西部には土塁と復元された石垣があります。
・・お、忘れることろでした、有岡城の石碑・その②です。凛としてます。
・・そういえばここにきて気付いたんですが・・。
今回の城めぐりの順番、村重父子の逃避行を逆に回っていることに気が付きました(今頃・・)
果てしない逃避行になるのを覚悟で彼は何に手を延ばそうとしていたのでしょう。
有岡城の落城後、信長は池田恒興親子にこの地を与えます。
長子・池田之助が城主となりました。
有岡城はいつしか再び「伊丹城」という名で呼ばれるようになりました。
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