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摂津 有岡城(伊丹城) 🏯荒木村重の摂津経営拠点

摂津 有岡城(伊丹城) (兵庫県伊丹市伊丹2) 《国指定史跡》

摂津の城めぐり、切り上げ所がつかめず、ズルズルとここまできてしまいました。
どの城址もその面影や残し方に特徴があり、訪問先での発見が楽しいです。
今回は荒木村重黒田官兵衛にゆかりのある有岡城を散歩してきました。

今回の摂津の城、先に滝山城、花隈城、兵庫城、尼崎城等を紹介しております。
どの城址もほぼ駅から近い位置にあるので鉄道周りでも面白そうです。
有岡城も伊丹駅の真正面ですのでアクセスはとても便利です。

駅の構内の観光案内所には無料でパンフレットも配布されています。
ちょっと足を延ばして手に取ってみられることをおススメします。

arioka (9) arioka (8)
駅前から先ず目につくのはこんな城の石垣っぽい景観です。城の予感がする・・。

arioka (10)
駅前の陸橋をわたると石碑・その①が置かれていました。

arioka (11)

ここでは主郭部に登城するのに自動階段(エスカレーター)も使っても良しです。
(階段の横に併設されています)
都会の繁華街に何気なく溶け込んでいて明るい雰囲気があります。

arioka (13)城址公園の高台に上がってみると説明版がありました。

小高い台地一帯に有岡城の主郭部の一部が残されています。
有岡城は城下町を城内に取り込んだ惣構えの構造だったようです。
絵図で見ると、かなり広大な城で北・西・南にも砦が構えられていました。

こうなると城郭内の跡をくまなく見学することは・・。
時間の都合上、主郭部周辺しか見学できそうもありません。
今日の所は主郭部周辺だけになりそうです。

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傍らには伊丹之親の歌碑があります。

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土塁の塁線が延びています。

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堀と土塁の様子です。ここはちょっと想像力が要りますが・・その一方で・・。

arioka (1)
南に向かうほど傾斜が増し、堀底が深くなっていく様子もわかります。

空堀が主郭部を半周している様子が掴めます。
市街地化するなかでその様子が公園といて残っているのがいいです。
商店街へと続く通り沿いからも見学することができます。

arioka (2)模擬石垣ですが、迫力に満ちた虎口設計に感動しちゃってます。

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上から見るとこんな感じですね。・・あ、石碑があんな所にも!

arioka (3)階段を登り切ると、荒木村重の人物像が見えてきます。

天正2年(1574)織田信長は茨木城主・荒木村重に命じ伊丹城主・伊丹氏を攻め滅ぼしました。
村重は摂津国守護として伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行いました。
信長の被官として国持ち大名に大抜擢されたのです。

天正6年(1578)播磨国・三木城主の別所長治が信長に叛くと、村重も有岡城に籠城します。
村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではありません。
しかし、一度は明智光秀らの説得され翻意し、釈明のため安土城に向かおうとします。

その途中に寄った茨木城にて、家臣の中川清秀からの一言に気持ちが揺らいだそうです。
「信長に一度疑いをかけられた者はいつか必ず滅ぼされる」(かもしれない)的な。
思い当たることがあったのでしょうか、その進言を噛み締め村重は有岡城に戻っています。

後、黒田官兵衛孝高が村重を説得するために有岡城に赴きます。
しかし、官兵衛はそのまま捕えられて幽閉されてしまう破目に。大河ドラマでもご存知ですね。
信長は有岡城を包囲、長期戦に入った天正7年(1579)村重父子は夜陰に紛れて尼崎城へ逃れます。

arioka (4)
本丸内では礎石跡や井戸跡など発掘調査で見つかった遺構が分かるようになっています。

arioka (5)主郭北西部には土塁と復元された石垣があります。

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arioka (7)・・お、忘れることろでした、有岡城の石碑・その②です。凛としてます。

・・そういえばここにきて気付いたんですが・・。
今回の城めぐりの順番、村重父子の逃避行を逆に回っていることに気が付きました(今頃・・)
果てしない逃避行になるのを覚悟で彼は何に手を延ばそうとしていたのでしょう。

有岡城の落城後、信長は池田恒興親子にこの地を与えます。
長子・池田之助が城主となりました。
有岡城はいつしか再び「伊丹城」という名で呼ばれるようになりました。


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摂津 尼崎城 🏯再び姿を現した昭和~平成~令和の築城天守

摂津 尼崎城 (兵庫県尼崎市北城内)

幾度となく襲ってくる自然災害と甚大な被害。
いかに抗えない我々といえ、怒りや無念をぶつけることさえできません。
直視するにはあまりにも重すぎて耐え切れない自分もいます。

電気、水道、情報・・、当たり前にあったものが突然途切れてしまう・・。
私たちはそんな事態にどう備え、どんな気持ちで向き合えばいいのでしょう。
想像もできない環境の中で光明を見出すことができるのか、自信がありません。

千葉県南部の方々におかれましては一刻も早い復旧を祈るばかりです・・。

さて、滝山城から始まった西摂津の城めぐり・・。
どのあたりで切り上げようか迷うのですが、やっぱりここは外せません!
平成最後、令和最初、の再建天守・尼崎城に寄ってきました。

amagasaki (1)青雲がお似合い、白亜が眩しい尼崎城天守です。

出来立てほやほや、といった感じの真新しい天守。
高層マンションとの並び姿もここでは逆に絵になっています。
千鳥破風と唐破風の重なり合いがとても美しいと思いませんか?

amagasaki (6)
再建された尼崎城は、天守台部分が1階となる4層5階。

両脇には2階建ての多聞櫓をしたがえています。
外観を意識した装飾的な美しい、安定感のある天守です。
江戸時代となった泰平の世の象徴的な天守建築といえます。

amagasaki (2)
見学しやすいように園内はスロープが備えてあります。

現在の天守が建っている位置や向きは異なります。
しかし、外観は当時の絵図面を元に忠実に再現されています。
天守だけでなく石垣や壁も注目です。

天守は旧ミドリ電化の創業者・安保詮(あぼあきら)氏が「創業地に恩返しを」と発起。
私財12億円を投じて再建し尼崎市に寄付。市民からも2億円近い寄付が集まりました。
尼崎市民と他たくさんの協力の想いで作られた城です。

amagasaki (3)
近くを流れる庄下川は尼崎城の外堀でした。

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ちょっと中に入ってみます。入場料は一般・500円ですね。

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先ずはエレベーターで最上階へ。平日にしては賑わっていました。

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町並みや眼下の曲輪の造りも楽しめます。

amagasaki (11)
これは集め始めると大変なことになりそうです・・。

4階はギャラリーゾーン。尼崎にまつわる展示が行われる予定です。
今回は尼崎出身の城郭画家・荻原一青氏の「名城手拭百城」を展示してあります。
カラフルでカッコいい手拭いがこんなにあるんですね。

自分も今からでも初めてみようかな・・。(←予算考えてない)

amagasaki (12)
3階では無料で試着できる、なりきり体験ゾーンもあります。

当日は自分一人だったのでしませんでしたが、かなりそそられました・・。
家族や友人と来てたら絶対に甲冑なんか着てみたかったですね。
撮影も自由なので次回は記念にチャレンジしたいものです。

amagasaki (13) amagasaki (14)
今回一押しのコーナーはここ!

ゲーム感覚で楽しめる「侍道場」コーナーです。
侍になった気分で無我で斬りまくり、鉄砲を夢中で撃ちまくる。
早打ちもあり、クイズもあります。操作は慣れるまでちょっと大変・・。

これ、できる人はギャラリーから歓声があがりますよ。
自分は「鉄砲体験」をプレイ、結果は「副大将」。
人がいなくなった頃合いをみて始めたのに、いつしか周りは人だかりが・・。

恥ずかしかったけどすごく盛り上がり面白かったですぅ。(なんせ一人旅ですので)

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ちょっと周りを散策。櫻井神社に。

尼崎城最後の城主・櫻井忠興公をまつる神社です。
ご祭神は、初代櫻井信定公より十六代忠興公までの十六柱。
境内には築城当初の橋の石杭や礎石、本丸御殿の軒瓦などが残されています。

amagasaki (15)
こちらでは当時の尼崎城の鬼瓦等も見学できます。

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二の丸公園では木陰で恒例のコーヒータイムです。

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明城小学校一帯が尼崎城の本丸だったそうです。

amagasaki (19)なんと!こちらのグラウンド脇にはもう一つの尼崎城が・・。

学校の壁沿いを歩いていたら校庭にリアルな模型を発見。
なんとかして近くで見たいものだな・・、とウロウロしていました(挙動不審過ぎる)
すると、南正門で職員さんでしょうか?、シルバーのボランティアの方でしょうか?

「さ、中に入ってご覧になってください」と気さくに声をかけてくださいました。
平日の授業中にも関わらずとても親切に見学させていただき感謝いたします。
ご説明では、なんでも昭和初期に当時の職員と児童とで作った尼崎城だそうです。

amagasaki (4)
堀や櫓も再現した縄張りが再現されています。

細部にわたって忠実に再現され、クオリティ高!
地元のお城に対する誇りや憧れ、熱意がビンビン伝わってきました。
ガリバー気分で楽しめ、ついつい何周もして見入ってしまいましたね。

※校内なので訪れる際には、マナーを守って拝観しましょう。
(自分は幸運で見学許可をいただきましたがいつも見学できるかどうかはわかりません)


amagasaki (20)小学校の前の道沿いには力強い書体の石碑もあります。

石碑を立てるがためにわざわざ窪地を設けて立ててあるのです。
こういう扱い一つにもかつての城趾を慕う想いを感じます。
説明板の位置も小学生の目線に合わせて設置されています。

amagasaki (21)尼崎城の絵図が描かれた案内板。

現在の天守は元和3年(1617)戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し築いた姿。
本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式四重天守と3棟の三重櫓が上げられました。
城は一国一城令が推し進められる中でも、大阪城の西の守りとして重要視されました。

amagasaki (5)尼崎市民の想いがカタチとなった天守、大切にしていきたいですね。


レ点は再建天守のある尼崎城址公園です。公園内には有料駐車場があります。
Ⓢには尼崎城石碑と説明版があります。

摂津 兵庫城 🏯古代~平安朝からの港に恒興の構想を感じました

摂津 兵庫城 (兵庫県神戸市兵庫区中之島)

「暑さ寒さも彼岸まで」とはいいますが、やっぱりまだまだ暑いです。
「残暑でござんしょ」などと言おうものならヒャダルコのような視線が突き刺さり・・。
それでも胸を張って生きて行かねばならないマイ・ライフです。

さて、・・意外にも「何コレ❓」感で見ていただける今回の摂津の城紀行。
もう少し簡単にではございますがお続けしたいと思うのであります。
今回は花隈城の南近くにある兵庫城にも寄ってまいりました。

shyougo (4)新川運河プロムナード沿いに石碑と説明板があります。

天正8年(1580)池田恒興荒木村重の籠る花隈城を攻め落としました。
その功により信長より兵庫の地を得て花隈城に代わり築いたのが兵庫城です。
しかし2年後、恒興は美濃・大垣城へ転封となり、その後は羽柴秀吉の直轄地となります。

shyougo (3)
新川運河に当時の面影を想起します。

秀吉の直轄地となってからは片桐且元が代官として入城します。
明治時代には兵庫県庁が置かれ伊藤博文が初代知事となりました。
明治7年(1874)兵庫新川運河が作られたため兵庫城跡は跡形なく破壊されました。

shyougo (1)兵庫城に使われたと思われる石材で台が組まれています。

近年の発掘調査では天守台跡とみられる遺構も発見されました。
外堀と内堀が並ぶ「複郭構造」も確認され、堀の間に二の丸があった事も判明。
北側には山陽道が通り、海陸の集散地でもあり交通の要衝でもありました。

shyougo (2)
発掘調査の状況が詳しくまとめられた案内板。当時の規模が伝わります。

兵庫城が城として機能していたのは短い期間でした。
しかし恒興らは信長の天下布武、次の段階を見据えていたことは間違いないでしょう。
古くからの交易地に改めて着目した、と思われます。

shyougo (5)
清盛くんがお出迎え。・・ゆるいです。

兵庫港(現在は神戸港域の一画)は、古代から江戸時代まで良港として栄えました。
背後には平清盛が一時遷都した福原京もあります。
兵庫城は湊川の支流が縦横に走って天然の堀を形成し、前面に湊を持つ「海城」でした。

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城址地の付近には清盛史跡もあります。ここは住吉神社です。

shyougo (6)あまり知られていない?平清盛公の像もあります。

shyougo (8)
琵琶塚も移設され安置されています。

琵琶と言えば「平家物語」ですが、平経正は琵琶の名手でした。
経正の所持していた琵琶「青山」は三種の神器同様に扱われるほどの稀代の名器でした。
弟の平敦盛も笛の名手として有名ですね・・、経盛ファミリーは芸ファミリーで・・。

・・と、話だしたらキリがないのであとは平家物語を読みましょうね。
(個人的には吉川英治さんの『新平家物語』が愛読書です)

兵庫城は現在の地表面には何も残っていません。
しかし、現地説明版から読み解くに巨大な海城の姿が浮かび上がります。
そこには池田恒興の信長に従い叶えるはずだった今後の展望も読みとれる気がするのでした。


Ⓢ地点には兵庫城の石材で組まれた石積と発掘の様子が写真案内されています。
Ⓖ地点には兵庫城の石碑と案内版が運河に向いて立っています。
レ点地点には清盛塚、琵琶塚、清盛像などが住吉神社内にあります。

摂津 花隈城 🏯巨大模擬石垣の内部は立体駐車場

摂津 花隈城 (兵庫県神戸市中央区花隈町・花隈公園)

「はい、セェ~ツ!」
摂津の城を訪れると必ずお笑いコンビ・はんにゃのネタをシャウトしてしまう。
そんな人おそらく自分だけではないと確信しています。

はんにゃといえば、ボケ担当の金田哲さんは日本史、特に戦国時代にとても詳しいそうで。
三河出身の彼は徳川家康の大ファンで、小学校の自由研究は長篠の戦いだったとか・・。
以外と芸人さんって城とか武将、好きな方多いみたいですね・・。

さて早朝山城登りの摂津・滝山城の次は近くの花隈城を訪問してみました。
荒木村重に逢いたくて」シリーズができそうですが、正直それほど好きではなく💦。
ただ、どんな勝算を描いて信長に反旗したの?に関しては大変興味はゴザイマス。

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花隈城址地は現在、地下立体駐車場となっています。

付近には路駐できる場所もないので、迷いなくこの駐車場に入ることになりました。
地下は駐車場、地上は史跡公園となっています。
立体駐車場になった城址って自分の知る限りではここだけではないでしょうか?

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模擬石垣ですが、見上げるとなかなかの迫力。

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ずっと見ていると、それらしく見えてしまうのが小市民ですね。

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通路にはいくつかの折れも設けてあります。

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桝形虎口風になっていたり、城址を意識した公園となっています。

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天守台風の演出まであります。小振りですが存在感ありますね。

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演出天守台からは神戸高速鉄道東西線花隈駅と市街地がよく見えます。

海は高層ビルによって視界が遮られています。
かつては、神戸港と大阪湾が一望できる場所だったことでしょう。
周りを見渡しても高い建物に囲まれています。

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南面登り口の案内石板。

永禄10年(1567)織田信長荒木村重に命じて築かせたと言われています。
毛利勢から石山本願寺への補給路を絶つのが目的でした。
また翌永禄11年(1568)に和田惟政に摂津を任した時の築城とも伝わります。

天正6年(1578)村重が信長に反旗を翻したため、花隈城は一族の荒木元清が入城。
しかし有岡城から逃亡した荒木村重は尼崎城から更に花隈城へ逃げ込みます。
池田恒興らに城を攻められて天正8年(1580)に落城しました。

荒木村重は、最終的にここも脱出して毛利氏を頼って落ち延びていきます。
妻子を見捨てて出奔していく村重は一体どんな未来をみていたのでしょう?
村重の謀反理由には明智光秀同様、様々な憶測が推理されています。

shanakuma (11)広場には立派な石碑が立っています。

高さ約3メートルほどの大きな円柱状の石碑です。
円柱状の石碑というのは実は珍しいものです。愛知県では「知立城」が円柱状石碑ですね。
この石碑、平成7年の阪神淡路大震災で崩壊した石碑を復旧したものです。

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すぐ西の福徳寺には「花隈城天守閣址碑」があり、この周辺が本丸跡。

まるで天守と城門といったような寺院なのですぐわかります。
周辺を歩くとわかるのですが、付近は小高い山になっています。
城跡の雰囲気は充分楽しめると思います。

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こちら駐車場の出口虎口?(笑)、まるで専用駐車場でした。


レ点は花隈駐車場の入口を示します。
Ⓢは城址の花隈公園を示します。
Ⓖの福徳寺には「花隈城天守閣址」の碑があります。

摂津 滝山城 🏯大都会・神戸に松永久秀監修の本格的山城

摂津 滝山城 (兵庫県神戸市中央区・城山)
【松永弾正久秀殿に逢いたくて・・その③】

まだまだ残暑が厳しいですね・・。
ちょっとまだ山城登りにはフライング気味でしょうか?
・・でもね、早朝ワンチャンなら如何なモンでしょう?

ということで小牧・長久手合戦シリーズはひととき休憩。
夏の終わりの思い出旅として阪神地区に行ってきました。
久し振りに逢いたくなった、松永弾正久秀殿、今回は摂津の滝山城を訪れました。

ちなみにこの「松永公」シリーズ、全5回ほどをゲリラ予定。
信貴山城多聞山城に続く今回が3回目です。
あとはどことどこよ?・・。気まぐれなんで自分でもよくわかりません!

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新神戸駅のすぐ裏手が登城口になります。

正面駅前通りは高層建物が連なる大都会・神戸の街並みが。
こんなところに本当に山城があるものなのか?
半信半疑で駅下の通路を潜っていきます。

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駅下を潜って道沿いに登るとすぐに登城案内がありました。

・・本当にすぐです。50m歩いたかな?ぐらいでした。(疑ってスミマセン)
「滝山城」の石碑がありハイキングコースの案内がでてます。
石碑があると俄然テンションがあがってしまう自分は釣られるように導かれます。

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いきなり現れる小曲輪と切岸。

まさか、ウソでしょ・・。
大都会神戸の街並みから景色は一変。
別世界に足を踏み入れる瞬間です、この展開はまるで『ナルニア国物語』。

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小さな曲輪が定期間隔に連なります。

このルートがおそらく大手なのでしょう。
要所要所に小曲輪が設けられています。
山肌は砂地のため弱い部分が浸食されています。
(ハイキングコース整備によるものもあるとは思いますが)

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登城ルートもこの通り。

長い間に大水などによる浸食のため土砂流出してますね。
しかしなんとなく坑道を通りながら登っているようで「攻めてる」感あります。
結構勾配がキツイのでゆっくりと登って行きます。

stakimoto (10)
途中にはスリリングなルート箇所もあり。

ルートの途中には上のような細い道もあります。
道幅は40cmぐらいの所もあり、やはりシューズ選びは大切です。
砂地の滑りやすい道は要注意!、脚を踏み外せば、谷に滑り落ちてしまいます。

stakimotot.jpg
そこにきてこの竪堀。奈落の底まで続いているよう・・。恐ろしい。

stakimoto (2)東曲輪群と主郭群の間の大堀切に到達。

向かって左手が東曲輪群、右手が主郭曲輪群。
どちらがどちらにせよ、この間の堀底を通るのはゴメンこうむりたいもの。
どこからどんな仕掛けでいたぶられるのか?危険な香りがプンプンしています。

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待ち構えている石垣を備えた虎口。

堀底道から土塁を備えた曲輪の付け根に虎口が待ち受けます。
折れを付け加えた向かい側には石垣遺構も見られます。
先程の狭い登り道に竪堀、からの堀底道と虎口へのテクニカル構造です。

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そして山上の広い曲輪群が連なります。

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東屋のある広い本丸に着きました。

ここで恒例の本丸コーヒータイムの時間です。
割れんばかりに鳴いてるミンミンゼミ、あちらこちらを飛び回るスズメバチ、
あくせくと働くアリの群れ、カサカサ進むカナヘビトカゲ、・・面白い時々です。

stakimoto (15)
それでは最高所の櫓台にお邪魔しま~す!新神戸駅から1.2kmと書いてあります。

stakimoto (16)櫓台に立つ「瀧山城石碑」、立派です。

・・おわかりでしょうか?・・
麓の入口石碑は「滝山城」、ここ本丸の石碑は「瀧山城」。
やはり本丸の石碑の重みは格別なのか、刻銘にも表れていますね。

滝山城は正慶2年(1333)赤松円心が布引の城に籠もったとする記述が初見とされます。
戦国時代には三好長慶の家臣・松永久秀が滝山城主となりました。
城はこの久秀の摂津経営時に現在の状態に改修されたとみられています。

stakimoto (1)
背後の堀切に降りてみます。

堀切は大きな鞍部を利用しています。
堀底を二重堀切にする、といった珍しいタイプのようす。
わかりやすくいえば堀底を土塁で仕切って二重に加工してある感じです。

stakimoto (17)上から見ると、土塁と土橋が交差して、十文字に見えるのが芸術的。

滝山城の見所はやはり大手から虎口にかかるテクニカルな防御施設。
そして主郭部背後の広い鞍部を堀底二重堀切にした、などのアイデアでしょう。
おそらく松永久秀公のお考えでは?と勝手に想像が膨らんでしまうシロモノです。

stakimoto (11)現地の案内図より縄張り図を転載させていただきました。

久秀は主君・三好長慶を堺から滝山城に招いたこともありました。
音曲披露や千句連歌、能舞台などでもてなした、と伝わります。
長慶はこの久秀を頼もしく思い、西摂津の拠点としての滝山城も賛美したことでしょう。

stakimoto (18)
帰りの道は布引の滝を見学できるコースを利用しました。

場所によっては大手コースよりこちらの方が急勾配に思えました。
しかし、本丸からは眺望できなかった神戸の街並みが一望できます。
他にもお楽しみがたくさんあるコースなので帰り道はおススメしたいです。

stakimoto (19)滝山城の中腹から眺める美しい街・神戸

城下の神戸の街並は本丸からは木々が茂ってよく見えません。
大手ルートからでも途中にちらっと見れる箇所が2,3カ所あります。
一番よく見えるのがここ布引の滝コースの中腹からだと思います。

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神戸の街を眺めることができる細尾根スポットです。

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すぐ間近にみえる高層マンションやホテル。

このギャップがとても不思議で新鮮です。
あの建築物らの最上階よりも高い所に城はあります。
しかし昔の人々が今の神戸を見たらさぞかし仰天するでしょうね。

stakimoto (4)
「猿のかずら橋」を渡ります。

橋は六甲楽学会の皆さんにより「祖谷のかずら橋」に見せて装飾されました。
ワイヤーにかずらが巻いてある小さな橋ですが趣があります。
真下には渓流が流れとっても涼しかったです。

stakimoto (22)
日本三大神滝の布引の滝・雄滝です。

ここでは山城がら下山してひと心地癒されることができました。
雄滝にはすぐ間近、しぶきを浴びる所まで近づけます。
ここで少しまったりしてから駅方面へ帰るといいと思いました。

山城とハイキング、あふれる六甲からの自然と景色。
あらゆる面で手軽に楽しめる神戸の山城、滝山城でした。
紅葉の時期にまた来たいですね~。
(布引ダムも時間があったら見たかったな・・)


車でのお越しは駅前のコインパークが充実しています。

小牧長久手の戦い 白山林の戦い古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その④ 白山林の戦い古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

8月末以来の大雨により全国各地で被害が出ております。
特に九州・西日本を中心に各地で多くの豪雨災害報道には心が傷みます。
被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。

また今後の降雨や土砂災害による被害の拡大も懸念されます。
皆様におかれましても今後十分にご注意いただきたいと思います。
山城めぐりの方々も現地はもとより移動経路にもご油断なき計画を立てましょう。

さて今回は小牧長久手における羽柴軍と織田徳川軍との遭遇戦、白山林の戦いです。

天正12年4月9日・未明~早朝
岩崎城で攻城戦が行われているころ、羽柴秀次勢は白山林で休息していました。
(在の名古屋市守山区から尾張旭市南・長久手町北あたり一帯になります)
先発隊の池田隊はほぼ同時刻に岩崎城に攻め寄せていました。

秀次隊の目標は日の出と同時に東方面からの小幡城総攻撃だったと思われます。
ここでは未明の内に戦い前の朝兵糧をとらせていました。
三好隊の意識はほぼ小幡城方面に向けられ、進軍の合図を待つばかりでした。

この砌、背後に徳川軍が迫っている、とは誰も予想だにせず・・。

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白山林南側に位置する本地ヶ原神社は白山林の戦いを伝えています。

社地には「兜神社」が拝殿脇に祀られています。
白山林の戦いで討ち死にした武将や侍、戦いにまきこまれた村人の慰霊を祀ってあります。
当時の白山林はこの地域一帯の広大な山林だったようです。

hakusannh.jpg
鳥居の前の道路沿いに案内板が設置してあります。

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白山林の北、秀次隊から見て林の反対側から移動してきた徳川軍。
秀次隊の北東に回り込み真後ろから奇襲しました。
思ってもいない方面からの奇襲で秀次軍はたちまち大混乱に陥ります。

後方から家康軍の水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢が、
側面からは榊原康政勢による挟撃を受けるのです。
なんとか態勢を立て直そうする秀次でしたがすでに軍は崩壊状態に。

秀次は踏みとどまるどころか、敗走する将兵とも切り離されて右往左往する状況。
自身の馬を失い、供回りの馬で堀秀政の陣に逃げ込みます。
それでも抵抗を試みながらの退却戦を演じ、限界まで踏ん張ったのでしょう。

hasusannhayasi (1)

hasusannhayasi (3)
長久手町の木下勘解由塚はその時の状況を伝える史跡です。

徒歩にてこの地まで逃げてきた秀次はここで木下勘解由利匡に会います。
利匡は自分の馬を秀次に与えて落とし、自らは留まり敵勢と奮戦して討ち死にします。
兄の木下助左衛門祐久も利匡と共にここで戦死します。

ここでは多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にしました。

hasusannhayasi (2)現在でもたくさんの献花・お供えが手向けられています、合掌。

・・またこんな逸話もございます。

秀次が木下勘解由利匡に助けられる前、家臣の可児才蔵に馬を貸すように頼みました。
才蔵は「戦場での馬は武士にとっては雨降りの傘。お貸しすることはできない」と断ります。
後、才蔵は秀吉から叱責され浪人の身となりましたが・・。

秀次は決して油断していたわけではありません。
実戦経験の不足が彼の指揮判断能力を鈍らせたのだ、と解釈したいです。
一方の徳川軍は皆々歴戦の旗本精鋭部隊、敵うはずがないのです。

軍監の堀秀政は池田・森隊と三好隊との中間点にて遊撃態勢にありました。
事に気付いて檜ヶ根に北上し、秀次と一部の敗残兵を収容します。
秀政はここで陣を立て直し、冷静に状況を判断、次の事態に備えます。

次回は名人・久太郎の采配と決断、檜ヶ根の戦いと関連史跡へと続きます。


白山林の戦いの案内板がある本地ヶ原神社を示します。


木下勘解由塚を示します。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来8年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)
(2023年4月6日現在)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
最近は折りたたみ自転車での平野部城跡めぐりにもハマり、寄り道での出会いも大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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