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美濃 徳永城 🏯城の伝承が伝わるが果たしてジャッジは・・

美濃 徳永城 (岐阜県山県市徳永)

「♫ハァ~テレビも無ェ、ラジオも無ェ、クルマもそれほど走って無ェ♪」・・。
幼い頃、吉幾三さんの『俺ら東京さ行ぐだ』を腹抱えながら笑って聴いたものです。
幼な心に「そこまで田舎なんかこの日本にないでしょう」と思ったものです。

思えばあれが自虐ソングの走りだったように思えます。

さて、今回訪れたのは山県市徳永地区に「城?」だと伝わる徳永城です。
田舎は田舎なのですが、澄み切った武儀川がとても美しい風情ある田舎です。
バスも一時間に一本くらいはやってきます(笑)。

さて、その徳永城ですが一部の地誌類にその伝承が載せられているのですが・・。
果たしてどんなものなのでしょう。
山城シーズン到来の小手調べとして登城してみました。

tokunag (7)
なんともなだらかな山容にみえる徳永城の山。全く普通の山に見えます。

tokunag (2)
麓にある興禅寺の裏山山頂部が城だと教わりました。

興禅寺の東の民家を山に向かって抜けると砂防ダムがあります。
外部者はまず立ち入らない所なので住民の方にはこちらから挨拶します。
お城訪問に来た、と告げると「あぁ・・」というそっけない反応しかありません。

・・だ、大丈夫でしょうか?

ここから尾根沿いになだらかな道が延びています。
比高差も80メートル程度なので山頂まではそんなにかかりません。
途中にも特に城の遺構は見当たりません。

tokunag (6)
祠がある山頂平坦部に到着。

山頂部は楕円形で2段になっているようです。
しかし一段下の平坦部周囲は軟傾斜となっており、切岸も曖昧なものです。
ヤブ漕ぎ散策してみましたが周囲にもこれといった遺構が見当たりません。

「♪ハァ?~、虎口も無ェ、土塁も無ェ、切岸それほどかかって無ェ♫」
「♪堀切無ェ、もちろん無ェ、ここはホントに城なのか?♪」
大変失礼ながら吉幾三さんの替え歌唄いながら考え込んでしまいました。

tokunag (5)
軟傾斜になっている曲輪・・?

伝承がある以上、「城」だったかもしれませんが、「城」じゃない、かもしれません。
山頂部の平坦部のみでは判断のしようがありません。
しかも最低限の防御施設も見当たらないとなると厳しいものがあります。

北の尾根を降りていくと尾根中腹に広い平地が確認できます。
また、東斜面下には「秘め井戸」なる水源地も確認できます。
しかし、主郭部からは直接の連絡道はなく、距離が離れています。

こういった部分的な個所やちょっとした離れた平場を遺構としてしまうのは大変危険。
慎重であらねば、と思っています。・・かといって全く否定もできないと思います。
仮に城だったとしても全く防御的な機能がない連絡施設、まで留めたいもの。

ストイックに踏査すれば、山頂部の曖昧な削平地のみ、という事になりそうです。
図面も作図してみましたが連動性のないと思われる遺構は記載しませんでした。
手元の下書き図には参考遺構として記録するに留めています。

mtokunaga.jpg
徳永城山頂部の図面案内です。

徳永城のある位置は南足下に根尾谷から大桑城へと至る道を押さえています。
南には大桑城のある古城山があり、何らかの連絡施設があったかもしれません。
しかし、徳永城と大桑城、お互い直視できないので何だかそれも疑問です。

「伝承はあっても遺構は無い」、ここでは視覚的にそう判断することしかできません。


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小牧長久手の戦い 仏ヶ根の戦い古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その⑥ 仏ヶ根の戦い古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

・・さて・・、いよいよ長久手合戦もこの回に差し掛かりました。
夏の自由研究もすっかり秋になってしまいましたが・・。
でも今日はツクツクボウシの鳴き声を聞きました!(気のせいかも)

htokegane (15)
長久手古戦場公園に向かいます。

交差点にある立体的な合戦図屏風のようなオブジェ?は見応えあり!
ただし、ここで写真を撮っていると信号待ちの車から丸見え。
あらゆる視線を跳ね返し、大手を振って公園へと入っていくのです。

htokegane (9)
古戦場公園の入口です。

htokegane (1)まさに激戦が繰り広げられた戦場中心地に立つ石碑です。

htokegane (16)
車でのお越しは郷土資料室のある入口が便利です。(駐車料金・入場料無料)

古戦場めぐりはここを起点にすると便利だと思います。
岩作方面の史跡(色金山等)はやや距離があるので場所移動したほうがいいでしょう。
檜ヶ根や御旗山は・・ここから頑張って歩いてみましょう!

天正12年(1548)4月9日 午前7時

岩崎城を占領した池田恒興・森長可に三好軍敗走・徳川勢出現の報が伝わります。
苦境を援護せんと両将は岩崎城から北に引き返します。
そのころ、家康は富士ヶ根より南下、前山に陣を構えていました。

前山は羽柴軍の退路にあたり、かつ高台の有利な地形です。
東の仏ヶ根には井伊直政勢と織田信雄勢らが展開。
周辺の有利な地形を織田徳川軍で先に押さえた布陣です。

古戦場公園内には主戦場が「縮景」という手法で表現してあります。

htokegane (11)
なんとなくイメージが伝わるフィールドの様子。

一方、引き返して家康勢に対陣した恒興・長可勢。
右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)勢と次男・池田輝政勢。
左翼に森勢、後方に恒興勢が布陣します。

すでに友軍である三好・堀隊は戦場を離脱。
有利な地形は徳川軍に先取りされていました。
それでも池田・森隊は家康との決戦を決意するのです。

天正12年(1548)4月9日 午前10時

戦端が開かれ両軍が激突。戦況は一進一退の攻防が続きます。
そんな中、森長可は家康本陣の前山に向かって正面攻撃を敢行します。
鬼武蔵、一時は徳川勢の前線を押し崩しながらの猛攻でした。

・・が。その猛突の最中。
一発の銃弾が長可の眉間に命中、
狙撃されて絶命しました。享年27歳でした。

武蔵塚 《国指定史跡》

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森長可の戦死地は武蔵塚と呼ばれます。

htokegane (13)戦に明け暮れた武人・長可の最期は彼らしい大音声の突撃最中でした。

htokegane (14)
長可らが駆け上がった前山戦場付近。

徳川方の井伊勢との攻防戦を繰り広げていた池田勢。
結束力に不安のある新参美濃衆をよく取りまとめ、応戦していました。
恒興の老練な采配は若き将・井伊直政を押し退かせるほどでした。

しかし長可が討たれ、池田勢に向かって敗走する森勢に雪崩れ込まれます。
事態は一変、これをもって池田勢も大混乱に陥りました。
恒興は自勢の立て直しを図ろうとしますが、敗走兵は続出、戦闘不能となります。

勝入塚 《国指定史跡》

htokegane (2)
池田恒興の戦死の地と伝わる勝入塚です。

htokegane (3)信長とは乳兄弟の恒興、信長と同じく享年49歳でした。

一説に恒興は姉川の戦いでの古傷が原因で乗馬が困難だったようです。
自軍が崩れる中、旗本50余騎と戦場に踏みとどまり最期を迎えます。
徳川方の永井直勝の槍を受けて見事に散りました。

庄九郎塚 《国指定史跡》

htokegane (6)
恒興の長男・庄九郎元助の戦死と伝わる庄九郎塚です。

htokegane (5)父を案じて駆けつけた庄九郎も討たれました。享年26歳と伝わります。

激戦の中、流れ弾による手傷を負っていた元助は後方に回って指揮していました。
父の本陣が崩れゆくのを確認すると、これを助けんと駆けつけようとします。
しかし、その途中、徳川方の安藤直次に討ち取られました。

恒興の次男・池田輝政も父・兄の安否を案じながら戦っていました。
家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱しました。
そして池田・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わりました。

htokegane (4)
仏ヶ根戦場付近。窪地と丘がおりなす起伏ある戦場跡が体感できます。

実はこの日秀吉は陽動として小牧山へ威力攻撃をしかけていました。
酒井忠次・石川数正ら三河衆の反撃を受け兵を引きました。
まさか家康と信雄が長久手まで押し出していたとは知る由もありませんでした。

午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は自ら救援に向かいます。
戦場近くの竜泉寺城に向けて急行しました。
しかし、すでに織田・徳川勢は小幡城に撤収していたあとでした。

秀吉は家康、小幡城にあり」との報を受け翌朝の決戦を決めます。
「龍泉寺城の一夜堀」とはこの時の突貫普請の跡だと伝わります。・・が、またしても・・。
家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山に帰還、秀吉も空しく楽田に撤退しました。


レ点は古戦場公園を示します。
まず資料室(館)で文化財マップを受け取り時間や体力にあわせて見学ルートを確認すると良いと思います。
周辺には古戦場の他にも様々な史跡もあります。

尾張 岩作城 🏯岩崎城攻防戦に散った、郷士今井氏の城

尾張 岩作城 (愛知県長久手市岩作城の内)

檜の露天風呂温泉にゆっくり浸かりたいな・・、などと思う秋になりました。
しかしながらお父さんのお小遣いでは入浴剤でも贅沢といったところです。
真っ暗にした浴室に炭酸入浴剤を投入、虫の音を聴きながら目を閉じれば・・。

もうそこは温泉です。(お疲れなんです)

・・とまぁ、人生とはちょっとした変態行動で結構満喫できるものですね。
城めぐりとマラソン大会の予算を捻出するためには日々の努力は惜しみません!
それどころか逆にそれを愉しめる術を知った昨今の久太郎でございます。

さて、長久手合戦尾の折、岩崎城にて奮戦の末、討ち死にを遂げた200余名の城兵たち。
その中には丹羽氏重ら丹羽一族の他に近隣の城主クラスたちもいました。
前回は長久手城城主の加藤太郎右衛門忠景でしたが、今回は岩作城主の今井氏です。

yazakoj (2)
岩作城は長久手市市役所付近一帯にありました。

長久手の戦いで城主・今井四郎兵衛(伝えに或いは今井五郎太夫)は徳川方に加わります。
長久手城主の加藤氏らと共に岩崎城の攻防戦に駆けつけ参軍。
羽柴方武将・池田恒興の攻城に立ち向かい丹羽氏重らと共に討ち死にを遂げました。

yazakoj (6)市役所の交差点付近にある石碑。

とてもどっしりとした存在感ある石碑です。
以前は交差点南西に城の南面にあたる土塁が20メートルほど残存していたようです。
が、それも消滅してしまいました。

昭和60年・平成10年の発掘調査では城館に伴う堀・土塁・虎口の存在が判明しました。
また、当時の武家に珍重された茶道具の天目茶碗なども多く出土しました。
城主の今井氏は深い文化人であったことも想像されますね。

ここ岩作城は当時の長久手中心部に位置し、家康の陣した色金山の麓にあたります。
長久手の戦い決戦地や白山林、檜ヶ根にも近く、戦火に巻き込まれた可能性はあります。
付近には戦死者を弔った「首塚」もあります。

首塚 (長久手市岩作元門) 《国指定史跡》

岩作村安昌寺の雲山和尚が合戦による戦死者を集めて築いた塚です。
両軍の戦死者の数はおびただしく、惨状は目を覆うものだったそうです。
戦いに勝った徳川勢にもかなりの戦死者があったものと見られます。

yazakotuka (1)毎年、合戦の日には香華が手向けられています。

yazakotuka (3)長久手合戦において敵味方隔てなく弔った塚に瞑目・合掌。

盛夏にも関わらず、新しい献花が捧げられていました。
地元の方たちによりとても大切に供養されています。
自分もこの合戦記事を取り上げる者として両手を合わせ深く合掌いたしました。


レ点は岩作城の城址石碑を示します。
Ⓖは首塚の位置を示します。
首塚は周辺の道幅が狭いので市役所に駐車して徒歩で移動したほうがいいと思います。

尾張 長久手城 🏯丹羽氏重と運命を共にした忠景

尾張 長久手城 (愛知県長久手市長湫城屋敷) <市指定史跡>

「風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなく」。
中島みゆきさんの『地上の星』が胸にしみる初秋になりました。
城跡や古戦場を訪れると、名もなき戦士たちの働きに想いをよせることがありますね。

長久手合戦尾の折、岩崎城にて奮戦の末、討ち死にを遂げた200余名の城兵たち。
その中には丹羽氏重ら丹羽一族の他に近隣の城主クラスたちもいました。
長久手城城主の加藤太郎右衛門忠景もその中の一人です。

nagakute (1)
徳川方の丹羽氏についた加藤太郎右衛門忠景の館城趾です。

nagakute (2)岩崎城主・丹羽氏次とは婚姻を結んでおり義兄弟の間柄でした。

nagakute (3)
観音堂脇に加藤氏ご子孫の尾張藩士が立てた石碑があります。

nagakute (4)土台の巨石も美しい立派な石碑板です。

表面があまりにもピカピカに磨かれています。
・・なので、撮影する自分の姿が映り込まないようにするのが大変でした(;^ω^)。
このような石碑は裏面にも説明書きが彫られているのが定番ですね。

nagakute (5)
加藤太郎右衛門忠景の宅址の石碑もあります。

nagakute (6)
周囲より一段高くなっている様子です。

幅3~6メートル、深さ最大で約7メートルの堀を挟み東と西に曲輪がありました。
2つの曲輪を中心とした連郭式の城郭であったことがわかっています。
周囲を歩くと台地上尾根のピークにあったことが理解できます。

とはいっても周囲は土地改変が著しく、すっかり住宅地となっています。
全く消滅してしまった城址ですが、周囲には合戦にまつわる史跡が多いです。
それらも少し紹介してみたいと思います。

鎧掛けの松

長久手城の近くにはかつて池があったそうです。
この池で刀や槍先を洗った際に小休止をとりました。
その際、兵士らがここに鎧をかけたとされる松があったそうです。

nagakuteti (1)
ちゃんと石碑と説明版も立っていました。

nagakuteti (2)

血の池公園

家康方の武将、渡辺半蔵守綱らは合戦の折、この池で槍先や刀剣を洗ったそうです。
このことから池の名はいつしか「血の池」と呼ばれるようになりました。
ネーミングからして生々しいのですが、意外や明るい雰囲気のきれいな公園でした。

nagakuteti (5)
「ちょっと血の池公園で遊んでくるわ!」・・と近所の住民には親しまれているのでしょう。

nagakuteti (4)
毎年合戦のあった時期になると、池の色が赤く血の色に染まったそうです。

・・怖わ!(゚△゚;ノ)ノ

nagakuteti (3)
かつて池があったような窪地に公園があります。全然怖くない公園でした(;^ω^)。

nagakute (10) nagakute (7)
今回、徒歩による散策にあたって利用した「せせらぎの径」。

歩行者専用の遊歩道で、脇に水流が流れ、とても気持ちが良かったです。
所々に休憩できるスポットもあり、まったりしながら歩くのもオツなものです。
自分はここ「走りたいな~」なんて思ってしまいました。

nagakute (9)
散策にもってこいの「せせらぎの径」、おススメです!

長久手一帯の城主たちが巻き込まれた長久手合戦。
今回取り上げたのは長久手城主・加藤太郎右衛門忠景でした。
次回はいま一人の岩作城主・今井氏の城址を訪ねます。


レ点は長久手城城址石碑のある長久手観音堂です。
Ⓢは鎧掛け松の位置を、Ⓖは血の池公園の位置を示します。
自分は古戦場公園駐車場からせせらぎの径を通って徒歩散策しました。

尾張 御旗山 🏯頂上に輝く金扇の馬印

尾張 御旗山 (愛知県長久手市富士浦・富士ヶ根) 《国指定史跡》

10月に入ってからも30度越えをしていた我が町にもようやく秋が訪れました。
秋は実りの季節、私たちに豊かな恵みをもたらしてくれます。
そして、なんといっても山城見学到来の季節でもあります。

この時期(10月初旬)に山へ登るとまだまだ夏の名残りを感じます。
越冬の準備をしている虫もいれば、まさに今日限りで命を終えようとする虫も。
私たちもその命の営みの中にいます。愉しまねばなりません。

さて、前回は小牧長久手合戦の一幕、檜ヶ根の戦いに触れてみました。
白山林より南下した徳川先遣隊の追撃を見事に撃退した堀久太郎秀政でした。
しかし、その直後、秀政が見たもの・・。

それは色金山から富士ヶ根に押し出してきた徳川家康の「金扇の馬印」でした。
(色金山陣所へリンクできます)

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檜ヶ根より見る富士ヶ根こと、御旗山。

檜ヶ根で自軍先遣隊の大須賀・榊原隊が秀吉方の堀秀政に撃退される、
その報告を色金山陣所で知った家康は直ちに救援に向かいます。
岩崎方面の秀吉方池田・森隊を警戒しながらの行軍です。

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現在は富士浅間神社が祀られている富士ヶ根。

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頂上には石碑と説明版があります。

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mihata (1)山頂拝殿の前の御旗山石柱。

眼前に現れた敵の総大将、徳川家康
これを打ち破れば間違いなく武功第一です。
しかし、秀政は秀次を伴い戦場から離脱することを選びます。

檜が根にて乾坤一擲の戦いを経て兵が疲弊している事。
家康本隊以外の後詰め別部隊を警戒した事。
打ち破った大須賀・榊原隊が家康本隊に合流して手の内が読まれている事。
白山林よりの敗走で士気が大いに衰えている三好勢が当てにならない事。
敵が山上の有利な高所を占している事。
そしてなにより、相手がかの徳川家康本人である、という事・・。

mihata (4)
御旗山から望む長久手古戦場方面。

戦いにおいて「士気」が最も大切な事だと理解していた堀秀政は撤退を決断します。
しかし、堀・三好隊がここに踏みとどまらなかった結果、池田・森隊は敵中に孤立。
これを受け、徳川軍は高所群に陣を敷き、北上する池田・森隊を待ち構えました。

秀政の頭の中では様々な思考が分析されていたと想像します。

この状況下で池田・森隊の合流要請を受けたらどうなるか?
かといって戦場の隅で牽制する消極的行動に意味はあるのか?
木下一族が命を賭して守った総大将・秀次を無事に楽田まで返すのも役目・・。

総大将が機能していない状況下での判断は各将に任せられることになります。
軍監としての立場の堀秀政、先駆けとしての立場の池田恒興・森長可
それぞれに為すべき役割があり、それぞれに果たすべき行動があったまでのこと。

この後、予測もつかない展開になろうとは両軍に当てはまっていたはずです。


レ点は御旗山がある富士浅間神社です。付近に駐車場がないです。
基本的に長久手古戦場公園を起点に徒歩かサイクル散策が最もおススメです。
いろいろゆっくり見学できて見所満載です。

小牧長久手の戦い 檜ヶ根の戦い古戦場めぐり

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その⑤ 檜ヶ根の戦い古戦場めぐり編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

日中はまだまだ暑いですが、朝夕はずいぶん涼しくなってきましたね。
夕方の5時半くらいから40分程度のジョギングをしています。(相変わらずマイペースに)
出発時は夕暮れですがに帰宅する頃はもうすっかり夕闇です。

そしてかすかに香るキンモクセイ(クンクン)に・・秋の到来を感じます。

「夏の自由研究!」と豪語していた小牧長久手古戦場めぐりもすっかりおざなりに。
なかなか予定通りに行かないのが人生です(言い訳まみれの我が人生)。
そしてこの長久手付近でも予定通りに運ばない事態が発生していました。

今回は白山林の戦に次ぐ檜ヶ根の戦の古戦場めぐりをしてきました。

hinoki (2)
現在は長久手市中央図書館と公園になっている桧ヶ根公園。

白山林一帯よりどうにか後退できた三好秀次
軍監・堀秀政は、秀次勢の苦境を知り直ちに北に引き返します。
徳川軍は北に敗走する羽柴軍を無視して、南下を開始しました。

hinikigane.jpg
公園内には堀久太郎本陣跡地があります。

秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根まで押し寄せます。
堀勢は、秀次勢の敗残兵を組み込み、檜ヶ根の丘陵上に陣を構えました。
ここで静かに迫り来る徳川軍を待ち構えます。

hinoki (5)秀政の布陣場所は徳川軍による追撃・逆包囲を妨げる絶好の地でした。

徳川軍が尾根と尾根の間に差し掛かったまさにその時でした。
地の利を得た堀秀政は高ヶ根と檜ヶ根から徳川軍に十字砲火を浴びせます。
ここで大須賀隊らは撃退され、続く榊原隊も敗走せざるを得ませんでした。

hinoki (6)名人・久太郎の冴え渡る采配が下されました。

至近距離からの鉄砲つるべ打ちと弓矢による中距離同時攻撃。
間隙、一同に怯んだ徳川勢に槍隊・抜刀隊による総攻撃を命じます。
この攻撃で徳川軍は多数の死者を出し、大打撃を受けました。

軍監(戦目付)として「為すべきことを為す」。
一矢を報いる、というよりも徳川軍に動揺を与えて作戦阻止に追い込む事、
そして追撃を加えつつ自軍の退路を確保するのが狙いだったのでしょう。

hinoki (7)
檜が根から見渡す戦場跡。右方向に御旗山を確認できます。

しかし、秀政はその後ろに現われた家康本隊を富士ヶ根・御旗山に確認するのです。

勝ちに乗じて家康に勝負を挑むのか・・。
池田・森隊と合流して決戦に備えるのか ・・。
自軍の損害状況を解析すれば、それとも・・。

この刹那、名人は迷人、あらゆる選択から即座に決断せねばならね状況にありました。

現在公園は広々として家族連れやスポーツの運動場として賑わっていました。
かつての古戦場の雰囲気は微塵も感じられない憩いの場となっています。
こちらでは秀政のつとめて冷静でかつ果断な采配振りを偲ぶことができそうです。


桧ヶ根公園一帯が戦場跡で、園内には堀秀政本陣跡石碑・説明版が立ちます。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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