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美濃 徳山城 🏯今もなお湖底の集落を見守るかのよう

美濃 徳山城 (岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山本郷)

人為的行為で孤児となってしまった城、というはあるものです。
別に破壊を受けたわけではなく、人里から隔離され自然忘れ去られていく城を指します。
ダム建設によって容易に近づけなくなった城もまた然り。

近年では限界集落を飛び越え消滅集落などという様々な問題があります。
その逆に再調査によって新たに発見される城というのもままあります。
今回はダム建設に伴って水没は間一髪免れた孤城、徳山城を取り上げます。

mtokuj (12)対岸の徳山会館から望む徳山城址。

本来なら集落から見上げる形の山容がオープニングを飾る久太郎のブログです。
しかしその集落は今はありません。ダム湖の底に沈んでいるからです。
ダムによってできた人造湖、徳山湖越しに位置確認するより他なし。

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本郷カンタク隧道トンネルを出たらすぐに左折します。

mtokuj (24)
その先に本郷望郷広場があります。車はここに駐車できます。

この場所は旧徳山村民が故郷を偲ぶ意味で造られた広場です。
ここからは周辺の山並みや湖の美しさが望めます。
そして徳山の歴史が詰まったような神聖な場所のようにも感じます。

mtokuj (22) mtokuj (21)
左が「集落略史年表」、右が「本郷集落略史」となる石碑板です。

mtokuj (23)徳山ダム建設に伴って466戸・522世帯(約1,500名)が移転を余儀なくされました。
(徳山城の位置は左上。加筆させていただきました。)

ダム建設はすなわち、村の消滅という事態につながりました。
「全村水没」は故郷の消滅。先住の方々のお気持ちいかばかりだったしょう。
人々は沈みゆく徳山村を偲んで最後の別れを告げたのです。

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ここから等高線に沿って城址まで遊歩道があります。

mtokuj (19)側面には水没を免れた徳山城主郭部が浮き上がります。
左端には堀切の窪みがはっきり見えます。

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先端部にはしらびや杉があり迎えてくます。

mtokuj (15)古来より住民に親しまれ大切にされてきたしらびや杉は徳山村民の願いそのもの。

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徳山村の姿を見守ってきた生き証人です。

mtokuj (7)
階段を登ればすぐ上段に本丸があります。

本丸は約50m×約15mの長方形曲輪。
曲輪の奥に高くなった櫓台と土塁を設けたシンプルな縄張りです。
しらびや杉のあった辺りには前衛曲輪があったようです。

mtokuj (14)徳山城の城址石碑土台部は苔に覆われ雰囲気あります。

mtokuj (8)
ふと後ろには湖水水位がそこまできているのがわかります。

こうして主郭部が水没を免れ「ほぼ完存している」ということに大きな救いを感じます。
渇水期になると現れる、という訳でもありません。
満水期でもその姿はギリギリ浸水しない奇跡的な事例です。

mtokuj (2)
本丸奥部の高台は櫓台かと思われます。

mtokuj (3)尾根を分断するひときわ深く大きな薬研堀切です。

この堀切は幅こそ9メートル程ですが北斜面側は深さ約10メートルあります。
豪快で見事なV字を描いたラインには魅了されるものがあります。
ここでは溜息をついてただ見とれ味わっている時間がありました。

けどそんな時間も次の瞬間に困惑・・。
その先に登れないのです・・。
傾斜が高すぎて・・(写真では右側の尾根筋へのルート)。

mtokuj (4)
写真中央、黒い部分が堀切のある部分です。

なんとか登って振り返ってみます。
ご覧の通り尾根がざっくり切り抜かれています。
道理で登れないわけです・・。そして尾根道は・・。

mtokuj (6)
幅1~2メートル弱の細い馬の背道。両脇は湖・・。

足を踏み外したら足下の湖面に向かって転げ落ちてしまう・・。
唯一の弱点背後の尾根筋は一人しか渡り歩けないように施されているのです。
ここではまるで綱渡りをしているような気分。慎重に歩きます。

mtokuj (5)
そして二条目の「念のため堀切」もきちんと用意されています。

tkymjz.jpg
湖の表現はムズカシイ・・、いい方法はないものか(・_・;)

単純で基本的な縄張りながらキチンと押さえるべき所は押えます。
その一つ一つの遺構が顕著に残っている所が見所だといえそうです。
尾根筋まで来たら戻るのも大変なんです(^_^;)💦。

徳山氏の祖は坂上田村麻呂の子孫の貞守で貞観年間に美濃権守に補せられました。
そして徳山郷を拝領し徳山氏を名乗ったのが始まりとされます。
南北朝期の徳山貞信は延元二年(1337)に徳山城を築き南朝方として呼応。
越前の新田義貞側につき西濃地方の南朝側勢力の一角を形成しました。

戦国時代には徳山則秀が領主で織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となります。
一向一揆など北陸地方の平定に尽力、加賀国松任城4万石の主となります。
佐々、前田、不破ら府中三人衆に次ぐ地位にいたと思われます。

則秀もまた勝家の人柄に引き付けられ頼みとされた武将だったのでしょう。

信長死後も勝家に従い天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では佐久間盛政隊の先鋒として奮戦。
戦後、羽柴秀吉に赦され、丹羽長秀に仕えます。
早くから徳川家康に通じの関ヶ原の戦いでは家康に仕えて5千石を領します。

徳山郷と現在の各務原市に更木陣屋を構え旗本として明治まで存続しました。

なおこの「徳山」は「とくのやま」と読むとの説もあり。

mtokuj (10)樹齢600年の一本杉・しろびや杉が語るものを感じたい。

ダムが完成すると水位がその根元近くまで達するので枯れてしまうのでは・・?
そう心配がされましたが、現在でもこうして力強く生きています。
この木を見上げていると何か心が浄化されていくような・・そんな気がしてきました。

mtokuj (13)総貯水量はダントツ日本一という徳山ダム。

多目的ダムとしては日本一の規模である一方で総工費3,500億円も日本最大です。
巨大ダム建設に対するその是非は今後も検討を要されています。
完成後もなおダム必要性について全国的な論争が起きているのも事実です。

mtokuj (18)
あ、こんなところに葡萄が落ちてる?、いえいえ、獣の美しい糞ですね。

この貴重な自然の中には野生動物たちがいることも忘れてはならない。
治水事業と環境保護、そして史跡保護。
ここ徳山城から見る湖面からは様々な問題も付きつけられる思いです。

徳山城としらびや杉は今もなお湖底の村を見守っているようでした。

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※徳山ダムより奥の国道417号線は冬季は封鎖されますのでご注意を!
(12月中旬~3月上旬まで冬季封鎖、根尾方面からは12月上旬より)
(福井方面よりの冠山峠道路、高倉峠塚峠も冬期は閉鎖されます)

実は自分、封鎖されるまさにその日に訪問してしまいました(知らずに・・)。
調査見学を終えいい気分で帰路、すると国道がゲート封鎖されているではありませんか!
事態が飲み込めません・・。朝は普通に通れたのに・・(汗)。
すぐ土木事業所に電話連絡とり、施錠解除していただき無事脱出できたという顛末でした。
大変ご迷惑をお掛けしました。ここで改めて謝意と御礼を申し上げます。
・・スミマセン(-_-;)、ホントに。きっとこれも徳山城のご加護だわ・・。


Ⓖは徳山城の位置を示します。
Ⓢは徳山城への遊歩道がある本郷望郷広場です。

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美濃 仲深山砦 🏯「砦」とは名ばかり双頭の名城

美濃 仲深山砦 (岐阜県恵那市明智町和合万ヶ洞)

新型コロナウィルスの猛威と情報錯綜が吹き荒れる世界です。
誰にも遭わず風が通る山城はいつも変わらず。
季節を感じる空気と陽の光、草木や春昆虫との出会いもまた然り。

nakanaka (9)
如何な世の中でも花は変わらず咲くものですね。

あまり大っぴらには言えないところですが変わらない城ライフがそこにあります。
とは言ってもやはり未経験の世界的危機に面しているのは間違いありません。
今はただ長いトンネルの出口の先まで粛々と待とうと思っております。

nakanakayama.jpg仲深山砦を南方面から眺望します。二つのコブ山で成り立っています。

今回は有名な明知城のすぐお隣さんにある仲深山砦を訪れました。
仲深山砦は「なかのみやまとりで」と「の」を入れて読むようです。
その一方で「なか・みやまとりで」と区切って読む地元民の方もみえるようです。

nakanaka (3)
砦には南西の麓から案内板が出ています。

和合集落の街道沿いから案内標示がでています。
そこから少し登って公民館の上に写真のような矢印案内標識があります。
でも、ここからは思い思いに感覚で登って行くことになります。

今回は尾根先端部の西郭から見学しに行こうと思います。

nakanaka (12)まずぶち当たる南尾根を完全シャットアウトする堀切。

深さ約5メートルの堀切ですが尾根を根こそぎ掻きだしています。
その傾斜角度は今でも登頂者を簡単には寄せ付けません。
特に注意を払った尾根であることを感じさせます。

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上部の曲輪から見下ろすと凄まじい傾斜度。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ」って見上げたりしました。
傾斜度もそうですが、なんかこう「堀切の美しさ」っていう感じからです。
しかもこの堀切の両サイドには竪堀と自然谷が・・万事休す、です。

nakanaka (4)東郭の頂部に到着、楕円形の広い郭になります。

なんかオリエンテーリングラリーに使用されたのでしょうか?
城址石碑などはありません、原風景のまま最低限の手入れがされています。
周囲は腰曲輪に囲われていて東郭へと連絡しています。

この西郭の頂部は腰曲輪から見上げるとかなり高く切岸も付けられています。
これといった連絡道や虎口ルートがないので急斜面の踏み跡を登ります。
未整備の山城の面白さはこういった所で感じますね。

nakanaka (10)西郭の西には北側にかけて横堀が廻っています。

横堀外周には土塁を配し等間隔で4本の竪堀が落とされています。
その内の一本は約50メートルにも及ぶ大竪堀となっており長大。
比較的防備の薄い東側斜面への侵入を防ぐものと思われます。

nakanaka (1)
北麓に向かって50メートルほぼ一直線の大竪堀。

確認のため行って戻ってくると100メートル(当たり前か)。
キツイ確認作業ですが不思議と竪堀往復は楽しい!
登れないような所には竪堀は造らない(不必要だから)ことがわかります。

nakanaka (7)
ここからは隣山の明智白鷹城の南側山容が眺めれます。

続いて東郭に行ってみます。

西郭と東郭の間は堀切で分けられています。
しかし両曲輪間との連絡を重視するため導線がはっきりしています。
堀底には土橋も確認できそこから腰曲輪を介して東郭主郭へと至ります。

nakanaka (5)東郭主郭部への登城ルートには石段でしょうか。

nakanaka (2)
東郭頂部の様子。

東郭の主郭部は東西に長く60メートル程の曲輪となります。
西郭に比べると削平度が荒い感を受けますので、後に追普請されたのかもしれません。
曲輪の東端部にL字型に土塁が配されています。

東側を大きな堀切を二重にして備えてあります。
いずれも両袖を竪堀として伸ばし遮断性を大きくしています。
深い堀切が連続で続くので向こう側が確認できないという効果もありそうです。

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二重大堀切の主郭側。

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二重大堀切の尾根続き側。両堀切供、瓜二つでほぼ同規模です。

西郭同様、周囲には横堀・土塁・竪堀群をセットで巡らしてあります。
東郭の麓には湧き水が出ており、水の手がここでは、と想像できます。
その湿地谷の水の手に向かって竪堀群が落とされている感じです。

この一連の遺構群は明知城のそれと酷似していることが理解できましょう。
このことからお互いが姉妹城として機能していた時期があったと思われます。
伝承では具体的な城主や来歴が伝わっていません。

nakanakz.jpg恒例の自作縄張り図になります。下手な彩色してあります。

見所が詰まった戦国の城砦です。
作図していて時の経つのを忘れるほど。
ここに連れてきてあげたい方々が沢山います、そんな名城かと思います。

明知白鷹城と違って登山道などは未整備な点が多いですが、そこがいい所。
堀切の間に身を置き、竪堀の底に自信を埋めてみる・・。
仲深山砦はそんな城郭探求心を満たしてくれることと思います。

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日本大正村観光案内書では御城朱印が発行されています。
(あと一つ千畳敷砦(落合山砦)のもありますが、また訪れたいと思っています)

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お城を味わった後は五平餅も味わう、これ最高のご褒美。


Ⓖは仲深山砦を指します。
 南西麓に登り口の表示案内があります。
 日本大正村の無料駐車場から歩いて5分程の所から登ります。
 登山時間は10分程ですが未整備なうえ険しい城ですので登山装備が必要かと。
Ⓢは明知白鷹城の位置を指します。

美濃 大富館 🏯こちらも美濃土岐源氏発祥の地

美濃 大富館 (岐阜県土岐市泉大島町4丁目1番・伍所公園) <市指定史跡>

現在、コロナウイルスの影響でご旅行や城めぐりを控えられている方も多いと思います。
不要不急の外出を控えねばならない地区にお住いの方々も多く見えることと思います。
そんな時は今後の旅行やお城巡りの計画をじっくり練ってみるのは如何でしょうか?

終息がみえるその日まで皆で協力してできる範囲で備えたいものです。
いち早くコロナウイルスが落ち着き、平常な日々が戻ってくることを願っています。
城は必ず待っていてくれますから・・。

ということで今回は地元周辺、明智光秀絡みの土岐氏に関する館めぐりをしております。
一日市場館、浅野館、大富館、多治見館・・等々の諸館です。あと・・。
地元近くで催されている特別展 『光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏』 展に行きました。

tootomi (1)
土岐市美濃陶磁歴史館で開催されています。

会場は土岐市美濃陶磁歴史館です。
土岐明智氏と妻木氏の菩提寺・崇禅寺に伝わる位牌、
発掘調査によって明らかになった土岐明智氏の居館推定出土品など、

光秀のルーツといえる土岐明智氏と妻木氏の歴史が集まっています。
開催期間は200年2月29日(土)~9月13日(日)まで延長となりました。
・・こんな時期です。ゆっくりと見学できると思います。
特別展 『光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏』 http://www.toki-bunka.or.jp/history

tootomi (4)個人的には土岐家文書の数々と妻木家頼所用具足が印象的でした。

家頼所用の紺糸威五枚胴具足は鉄砲の試し痕も残り生々しくもカッコイイのです!
またいわく付きの銘刀・「朝霧」のいわれに身の毛もよだちます・・。
お時間がある方は是非行ってご自分の目で見て頂きたいと思います。

tikb.jpg
カッコよすぎて買ってしまった缶バッジがお気に入りです。

さて、少し脱線しましが、特別展拝観後に大富館へと行ってきました。

tootomi (2)伍所公園には「美濃国土岐源氏発祥の地」の碑が立ちます。

手前の石版には大富館の解説分が書かれています。
(文字が小さいですし、腰を屈めないと読めないのですが)
「美濃国土岐源氏発祥の地」の左横にちょろっと「大富館跡」と彫られています。

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室町初代守護土岐頼貞が拠点としたと伝わります。

現在遺構は何ら残っていません。
地籍図には伍所という地名が残り館址とみられる一画が確認できます。
館の中心部は今はうららかな公園と住宅地になっています。

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土岐市美濃陶磁歴史館受付では「大富館跡」の史跡カードがいただけます。
(これ結構レア度高いです、多分・・)

tokibunnkazai.jpg全部コンプリートするとこうなります!!(台紙は各配布所で貰えます)
土岐氏の妻木城や高山城にいらしたら是非とも集めて楽しんでください!

鎮守府将軍源頼光の子頼国が天喜5年(1057)大富の里に住してよりこの地が284年の長い間土岐氏の拠点となった。頼国の五世孫光衡は、文治5年(1189)源頼朝より当国の守護職に任ぜられ、土岐郡家の地(瑞浪)に移りて、土岐氏を号した。光衡の子光行、その子光定の二代は、大富館の対岸浅野に館を構えて移り住んだ。ついで光定の子頼貞は当国の守護職となり、高田勅旨田(明世泉)の地頭を兼ねて、再び大富館に住んだ。正中の変の時、後醍醐天皇の密旨をおびた日野資朝卿がこの館で頼貞と共に、夜を通して討幕の密計をたてた所でもある。しかし頼貞の子頼遠は長森城(岐阜市)に移り、土岐氏の本拠はこれより岐阜地方へ移っていった。
(以上現地説明碑より)


㋹は美濃国土岐源氏発祥の地・大富館の石碑がある伍所公園です。

美濃 浅野館 🏯今も昔も家族連れでにぎやか

美濃 浅野館 (岐阜県土岐市肥田浅野・笠神公園一帯) <市指定史跡>

前回の記事で土岐氏発祥の地として一日市場館址について触れてみました。
今回はその足でその後の土岐氏居館と思われる史跡にも足を運んでみます。
訪れたのは土岐氏の浅野館址。

この場所は自分にとっても思い出の場所でもあります・・。

以前はここに土岐市の市民プールがあったのです。
夏真っ盛りの頃は3人の倅と奥方を連れてよく泳ぎに来たものです。
小っちゃかったけどウォータースライダーとかもあってリーズナブルに愉しめました。

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現在の浅野館周辺部は憩いの公園となっています。

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以前は市民プールがあり近年、笠神公園となりました。

tasano (2)肥田三栗塚と発掘調査の説明版が立ちます。

浅野館の場所として地名と地籍図からこの場所であることを示しています。
発掘調査からは浅野館のはっきりとした痕跡はみられませんでした。
しかし屋敷を区画する溝や掘立柱建物址、土器や陶器が発見されました。

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一画には多度神社が祀られています。

tasano (1)多度神社の由緒書には浅野館の件にも触れられています。

鎌倉初期、土岐光衡は瑞浪の一日市場館を拠点とし「土岐氏」を称します。
その子光行と光時兄弟は承久の変の後、浅野館に移ったとされます。
そして浅野氏や肥田氏など多くの支流を生んでいきました。

今ここは家族連れや子供たちの笑い声が絶えない明るい公園になっています。
プールはなくなっちゃいましたが、みんなに親しまれる公園に生まれ変わりました。
かつてここに浅野館があったことを頭の片隅に入れておいていただけたらいいですね。

カメラだけもってふらふらしてると不審者と間違われますから気ぃつけなはれやぁ~。

Ⓢはは浅野館周辺部として笠神公園・多度神社を指します。
Ⓖは浅野館にまつわる三栗塚のある場所を指します。


美濃 一日市場館(神戸城) 🏯美濃源氏土岐氏発祥の地と伝わる

美濃 一日市場館(神戸城) (岐阜県瑞浪市土岐町・八幡神社)

やっぱり大河ドラマの影響というのは凄いですね。
美濃の土岐明智氏関連の史跡は盛り上がりを隠せません。
どの史跡へ行っても依然よりボリュームアップしています。

やたら綺麗になった駐車場にお店かと思うくらいの幟が立ち・・。
やたら丁寧な案内板にグッズ、お土産、記念カード、スタンプ、等々。
地元に住む自分でさえコンプリートするのに一苦労です。

それだけ期待が寄せられている今回の大河ドラマってことでしょうね。

さてその「明智光秀のルーツを辿る」という話になると・・。
必然、土岐氏との繋がりに結び付きます。
諸説ある中でも光秀が土岐氏の出であることはほぼ間違いないようです。

たまに隙間時間を見つけて土岐氏の居館について調べたりするのもいいかと思います。

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今回は一日市場館をぶらりと散策してみました。

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現在の八幡神社一帯の高台が館址とされています。

mootomiy (1)石碑と説明版の組み合わせ位置がドンピシャです。

一日市場館(ひといちばやかた)は土岐氏によって築かれたと伝わります。
美濃における土岐氏土着の第一歩の地とされています。
・・誰でしょう?「ついたちいちば」、とか言ってる人は?何を隠そう・・自分でした(-_-;)。

mootomiy (2)土岐三郎光衡公と明智光秀公の胸像がセットでおみえです。

源頼光の後裔が美濃に下向して土岐氏の祖となります。
光衡は建仁年間(1201~1204)にこの地に土着し土岐氏の祖として有力です。
一日市場館は土岐川と小里川の合流地点に北にあり高台地に築かれました。

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ある戦で桔梗の花を兜に挿したところ大勝利!

水色桔梗紋」は以来土岐一族の家紋として定まります。
そして土岐一族は美濃において最大の武士団勢力となっていきます。
この光衡公の像、そんな土岐氏発祥の地に相応しいのではないかと。

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そしてこちらが光秀公。優し気な眼差しの中に苦悩の表情が見られます。

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mootomiy (4)八幡神社境内の北側には土塁とみられる土盛が東西に延びています。

mootomiy (9) mootomiy (10)
土塁にしては盛土が低くいため或いは神社創設の際の仕切りかもしれません。

美濃国守護となり土岐氏当主の館は段階的に西へ西へと移動していきます。
やがて美濃の中央部に進出していくことになるのです。
土岐氏始まりの地、そこから派生した幾つかの分家筋。

そこから産み落とされた明智十兵衛光秀という人物。
今回の大河ドラマ主人公・光秀は如何に生き何を信じて何処に向かおうとするのでしょう。
十兵衛光秀役長谷川博己さんがどんな一面をみせてくれるのかがとても楽しみです。


美濃 鷺山城 🏯道三隠居後ゆかりの城

美濃 鷺山城 (岐阜県岐阜市鷺山)

2020年今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」毎週楽しみに観ています。
(いまどき)録画機がない我が家ではリアルタイムにしか観ることができません(汗)。
・・よって日曜日の20時には家族全員がテレビの前に集まります(昭和か!)。

「絶対に見逃せない」、という気迫の生活がそこにあります。

「気迫」と言えば劇中の斎藤道三(利政)役の本木雅弘さんです。
存在感が大きすぎて登場するだけで背中ゾクゾクしませんか?
底知れぬ不気味さと狡猾さの一方で親としての姿もチラつかせる場面も。

でも・・「操り人形に毒は盛りませぬ・・」・・あのセリフは怖すぎます(゚△゚;)。

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さてそんな楽しみな大河ドラマのキーキャスト、斎藤道三土岐頼芸ら。
彼らに関する城や史跡にも足を伸ばしたいものです。
今回は彼らゆかりの城、鷺山城に登ってみました。

minosagi (5)平野部にあってポツンとある鷺山城。山とも丘とも表現できます。

登山口は主に3つあります。比高は50メートルの山です。
どのコースからでもお手軽ですので往路と復路を変えての散策がおススメです。
もちろん全コース制覇もいいと思います。

北東は、鷺山小学校向かいからの登り口。
南より、北野神社からの登り口。
西より、心洞寺からの登り口。

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こちらは鷺山小学校向かいのコース入口。北曲輪に直結します。

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こちらは心洞寺さんからの登山コース。堀切直結ならこちらから。

今回は南の北野神社参拝コースで行きます。

minosagi (18)境内の前には斎藤道三慰霊の碑が建立されました。

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採土造成の際に山の南中腹付近から出土したという礎石らしき大石もあります。

minosagi (17)
鷺山公園経由で登って行きます。(これは当然石垣ではございませんので)

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どのコースからも散策コースが整備され5分程度で登れます。

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主郭南側の曲輪には東屋があり、岐阜方面の眺望が楽しめます。

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遠くに金華山の岐阜城も小っちゃくはっきり見えるのが感動。

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濃尾平野も見渡せてなかなかの戦略要地と認識できます。写真手前は採土された区域。

この鷺山の南側は戦後の高度経済成長期に土砂が採取されました。
実に山の南約3分の1くらいは削り取られています。
また派生している尾根の先端部も道路造成などによる採土の跡がみられます。

当時、開発が急ピッチに進む世の中、市中にて土材が確保できるのです。
鷺山の採土ペースはそれに拍車をかけました。
あまりの乱削に住民たちによる史跡意識がそれをストップさせたのです。

このことは頭に入れながら散策するといいと思います。

minosagi (9)鷺山城の説明版は詳しいです。背後に引かれた山のラインが意味不明ですけど。

minosagi (15)
鷺山の頂部はよく整地され本丸と思われます。

minosagi (14)鷺山城址の石碑。近づかないと読めない所が石碑ファンの心をくすぐる。

minosagi (1)
主郭部本丸を下から見上げます。切岸というほどのあとはありませんが・・↙。

minosagi (2)ここにある鞍部を利用した堀切には唸るものがあります。

写真では右側が本丸、左側が太子殿のある北曲輪になります。
積極的に堀り切ったというよりも元からあった鞍部に手を加えたという感じです。
しかし両曲輪間は20メートルにも及ぶ大きな遮断施設ということになります。

ここから主郭側の西斜面に入って行きます。

minosagi (3)
西側には大きな竪堀が畝状となって並んでいるのがわかります。

minosagi (4)4~5条ほどの畝竪堀の様子です。

本丸直下の西側のみに集中しており不思議と東側には確認できません。
またこの竪堀群は北曲輪の西側にも確認できます。なぜ西側だけ??
西側に対する異様なまでの周到意識とは何なのでしょうか、と考えさせられます。

まるで金華山の稲葉山城からみれば西の出城のような雰囲気です。

sagizu.jpg自作縄張り図です。採土区域と崩落区も確認してみました。

山の採土がここまでで収まったことはある意味幸運だったと思いたいです。
「鷺山城には特に遺構がみられない」とされますが、そんなことはありません。
主郭直下の畝竪堀群は当時からの遺構だと思われます。

後年になって竪堀麓付近は手が加わっている箇所もあると思われます。
その部分を見極め、遺構の連動性の目から見てみたいものです。
あと・・竪堀の型は大桑城に見られる竪堀遺構と酷似していることも注目できます。

稲葉山城と大桑城、その間の鷺山城。
位置的な関係と歴史的な関係の中に共通点が見られて面白いものです。
守護土岐氏との居城の変革と合わせての考察も新しい発見があると思います。

minosagi (24)鷺山城の東麓には居館址の土塁一部が残っています。

大部分が宅地化された中で部分的にせよ残っていること自体キセキですね。
NTT鷺山社宅北棟(現在閉鎖されています)の山側に残っています。
地籍図によると一辺が約120メートル四方の方形館だったと推測されています。

・・ま、普通に探したら探せないし、土塁なんて言われても普通わかりません。
山側の高みから見るとL字型になった角部であると想定されます。
鷺山に向かって土塁の延長部が山中にも少し残っていました。

天文17年(1548)斎藤道三が家督を息子の斎藤義龍に譲ると鷺山城に隠居したことは有名です。
また道三と正室・小見の方明智光継の娘)との間に濃姫が生またのもこの鷺山です。
濃姫は天文18年(1549)ここから尾張国の織田信長に嫁いだので「鷺山殿」と呼ばれていました。

しかし義龍は弘治元年(1555)道三を鷺山城から追放し翌年道三を攻め滅ぼしました。
この時、道三は鷺山城から北の大桑城に逃げていた、という記録もあり有力な説です。
俗にいう「長良川の戦い」ですが、この時鷺山城はどんな運命を辿ったのでしょうか。

minosagi (13)
稲葉山に向かって咲く水仙に春の訪れと時の(土岐の)流れを感じました。


㋹は鷺山城の主郭部です。
登山道は記事中に示した通り3つのルートがあります。
付近に駐車場はありませんが北野神社さんには一台は停められそうです。

阿波 一宮城・後半 🏯胸を突き破られました

阿波 一宮城 <後半>
(徳島県徳島市一宮町西丁)  <県指定史跡 >  【続日本100名城】
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その③】

今回は一宮城の本丸に到着した所からの続きになります。

この本丸石垣を前にした時、感動のあまり肌がゾクゾクっとしました。
揺さぶられるような感じが首根っこのあたりから全身を駆け巡っていきました。
感動に打ち震えるってこういう事なんでしょうね・・。

awaiti (40)一宮城にて唯一にして最大級の石垣造りの曲輪です。

本丸の石垣は結晶片石の割石を用いています。
野面積というよりは乱積みを基本としています。
これは阿波九城構築段階での手法だといわれています。

awaiti (39)見た目の印象は天守台のようですが、虎口なんです。

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本丸東側に開いた虎口の石段を登ります。

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本丸内部は広々、よく整備されていてきっもち良かったデス。

awaiti (41)本丸よりの徳島方面、いい眺めです。

ここでいつものコーヒータイム。
ちょうどいい木のベンチもいくつかあります。
毎度のことですが誰にも会いません。(あぁそうか・・今日は平日だった)

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結構段差ががある石段です。

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本丸側面もぐるっと一周回れます。

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本丸西部には段に積まれた石垣もあって本丸石垣を補強しています。

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苔の張り付き具合も趣ありますね。(この辺りは昭和の積み替え箇所です)

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本丸から小倉丸に向かう曲輪間の堀切です。

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本丸から南に進んだ小倉丸。

「小倉丸」も「才蔵丸」同様、家臣の名が付けられた曲輪。
本丸を背にした単体としても大きな曲輪です。
本丸南方を防備する重要拠点でした。

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曲輪の外側には高さ2メートルほどの土塁が廻っています。

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南西部には横堀も巡らせ、竪堀とも連動しています。

awaiti (10)絵に描いたようなくっきりとした状態で残る竪堀は感動モノ。

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切岸、横堀、土塁、竪堀・・、防御施設の織り交ぜポイントです。

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本丸と水の手丸間にある谷間には湧き水が貯水池に溜められていました。

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貯水池の下に陰滝があり、水量は少ないが現在でも水が流れ落ちています。

awaiti (14)鎖をたどって慎重に降り登りすると滝の下まで行けます。

この様な山頂近くに滝があること自体驚きデス。
水量は僅かですが岩からしみ出た水は貴重な水の手だったことでしょう。
こちらの水源を守ったとされる水の手曲輪に登って行きます。

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貯水池や陰滝のある谷筋を防備した水の手曲輪。(「奥のほうも見て」!)

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というこで奥の方は土塁を廻しています。

水の手曲輪から南へ行くと椎の丸へ。
北に道路をまたいで登ると西の丸台へと至ります。
特に西の丸台は未整備ながら連続堀切や畝竪堀など満載でした。

戦国期の城主として一宮成助が有名です。
成助は三好長慶の妹を妻にとし三好義賢の重臣でした。
三好義賢が没し三好長治が家督を継ぐと、成助は細川真之に応じ挙兵、長治を攻め自刃させます。
その後、成助は長宗我部元親に通じ勝瑞城を巡って十河存保と争います。

天正10年(1582年)中富川の戦いで長宗我部氏が十河氏を敗って阿波を平定。
成助は元親に協力していましたが三好康長に通じていたとの嫌疑をかけられ謀殺されました。
その後、元親は谷忠澄、江村親俊を城番として一宮城に起きます。

しかし天正13年(1585)秀吉による四国征伐では豊臣秀長率いる軍勢に攻められ開城しました。
阿波に入部した蜂須賀家政は当初一宮城を居城とた後、徳島城を築いて居城とします。
一宮城には益田宮内を城番として置き阿波九城と呼ばれる重要な支城の一つとしました。

awaiti (43)一宮城の城門と伝えられる清水寺(せいすいじ)の山門。

一宮城からの帰路、一宮城からの移築門と伝わる清水寺にも行ってきました。
城のどのあたりにあった城門かまではわかりませんでしたが、なかなかの威風です。
(清水寺:徳島県徳島市南佐古三番町2)

今回の阿波の城めぐりで一番印象に残ったのは一宮城でした。
堂々たる本丸石垣も見事ながらそれを取り巻く各曲輪も非常に見応えあるものでした。
ほぼ全ての遺構を見学したいがため3時間弱ほどの時間でゆっくり見学しました。

城跡は現在とても見学しやすく遺構が見やすいので大変感激。
整備は一宮城址保勝会様方のご努力の賜物かとご推察いたします。
一宮城、またいつか訪れたいと思える素晴らしい山城でした。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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