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阿波 松永城 🏯松永久秀公出自ゆかりの地

阿波 松永城 (徳島県阿波市市場町犬墓)
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑦】
【松永弾正久秀殿に逢いたくて・・その④】

何やらやたら副題がついております・・。
久方振りのこの「松永公」シリーズ、全5回ほどのゲリラ記事です。
大和信貴山城大和多聞山城摂津滝山城に続く今回が4回目です。

大河ドラマ『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さん演じる松永久秀公。
ダークなイメージの中にもポップさを織り交ぜる狡猾さに注目ですね。
これは従来の久秀像が大きく変化してきている表れでもあると思います。

さて今回はその松永久秀公の出生地(の一つ)とされる松永城を訪問しました。

matunagass (1)現在民家の道路向きに「史跡 松永城」の碑があるだけ。

松永城は松永久秀の誕生地とも伝えられる城です。
別名を犬墓城(いぬのはかじょう)とも呼ばれています。
民家の敷地になっているようですので外からチラ見する程度の訪問です。

大部分が民家と田畑となっている様子なので遺構は不明なよう。
個人宅様の住居などが映り込むため写真掲載は控えさせていただきます。
東に張り出した丘の上の館城のような地形になっています。

加賀国出身の松永氏が阿波に来て当地に城を構えたという由緒書に基づきます。
久秀没後にその子孫が当地に戻り徳島藩主・蜂須賀氏に仕えたといいます。
その点、この地域の松永姓は久秀一族の末裔である可能姓が高いと思われます。

matunagass (2)
城址石碑の裏側をのぞかせていただきますと・・。

「松永城 天正5年(1577)落城犬墓村」 
「主将 松永弾正忠久秀 番兵を置くと(城跡記)」 とあります。
天正5年というと久秀が信貴山城にて自害した年ですね。

他に久秀の出自については・・
山城国西岡の商人説摂津国五百住(よずみ)の百姓説などがあります。
近年の研究では久秀は摂津国五百住の土豪出身との説が強まっています。
(参考文献:『松永久秀と下剋上』 天野忠幸著 平凡社刊 2018より)

明智光秀公も美濃国に複数の出生地が伝わるのと同様、ミステリアスな史跡です。
今回は松永久秀公との何かしらの関係はあるものかと思い訪ねました。
いずれにせよ、久秀が名もない所から頭角を現し戦国の世を駆け上っていった・・。

そう感じることができただけでも訪問した甲斐があったというものでした。


㋹は松永城の城址石碑の位置を示します。
個人的には北にそびえる「城王山」という山が気になります・・。
そうです、日開谷城という城が伝わっています。・・もちろん未登頂です。
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阿波 上桜城 🏯三好義賢の片腕・篠原長房の居城を訪ねて

阿波 上桜城 (徳島県吉野川市川島町桑村植桜)<県指定史跡>
篠原長房・長重父子の旧蹟を訪ねて-
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑥】

再三申し上げておりますが、徳島県で開催されたマラソン大会参加+の城めぐり。
その中でも強く自分の心に残った城を至極簡潔に紹介していくシリーズです。
・・だんだん適当になってきてないか?と思われるのは多分気のせいかと・・(汗)。

ステイ・ホームの現状で思い返せば心躍る城めぐりの旅でした。
皆さまにおかれましてもまた城めぐりに行ける日がやってくる事を祈っております。
さて、今回は阿波の名将にして名相、篠原長房の居城・上桜城を訪ねてみました。

ksakrj (7)

長房は三好義賢重臣の筆頭格であり、信頼厚い武将であったようです。
天文22年(1553)義賢が阿波国守護・細川持隆を殺害するとこれに従い指揮下に入ります。
義賢に従い、或いは義賢に代わって各地を転戦、三好氏の勢力拡大に尽くしていきます。

ksakrj (4)
城跡へは背後の道路沿いから簡単に散策できます。(路駐できます)

ただしこの道路を敷く際に上桜城の西の丸が一部破壊されてしまったようです。
今回西の丸は見学しておりませんが、曲輪の一部と堀切・土橋は残っています。
後から知ったので次回の機会があったら見てみたい遺構です。

ksakrj (6)説明版には是非破壊された遺構も含めた図示案内もして欲しいです。
(じゃないと、西の丸の存在も行き方もわかりません)

ksakrj (5)
入口に立つ城址石碑。山城なのに珍しく下に降りながらの散策です。

ksakrj (9)
本丸に向かって降りていく道には傍らに手水鉢があります。

上桜城へ進入する各道はこの手水鉢の地点で交差しています。
すなわち、大手道、本丸道、西の丸道、水の手道の交差点となっているようです。
その分岐点に置かれた手水鉢、なんだかとても風流な印象を受けました。

ksakrj (10)
ところでこれは?当時からのモノでしょうか?(そこ大事)

ksakrj (2)
祠と城址石碑がある本丸に到着します。

祠が設置された土塁は或いは櫓台でしょうか、幅も広く一段高くなっています。
本丸一帯は多少ブッシュですが整備されており、眺望が素晴らしかったです。
北に阿讃山脈、東西に吉野川の平野部を見渡せます。

ksakrj (1)三好氏の畿内進出の地盤となった揺籃の地・阿波を見通せます。

天気が雨上がりの曇りでしたがそれでもよく見通せます。
水運路である吉野川、陸運路である伊予街道を俯瞰できます。
晴天ならここから吉野川の河口付近まで確認することもできるとの事。

ksakrj (8)
『※新加制式』の制定など長房は文武両道の忠義の士・「紫雲」公として敬われています。

※新加制式・・三好氏の分国法。長房によって制定されたと伝わります。
 分国法というより家臣を対象としたいわゆる家中法という性格が強い式目。

永禄4年(1561)7月に始まる対畠山高政・根来寺戦では義賢に従って和泉国に出陣。
翌年3月の久米田の戦いにおいて先陣を任され勇戦します。
しかし手薄となった本陣を襲われ主君・義賢は落命してしまいます。

久米田の戦いの後、長房は剃髪し岫雲斎怒朴と号しました。
ルイス・フロイスは著書『日本史』において、長房をキリスト教に理解のある人物と評しています。
また彼の権力は非常に強力な影響力があったようです。

フロイスをして「阿波国の絶大の領主」、「偉大にして強力な武士」と称された長房。
長房の権威は三好三人衆さえ凌駕し彼らを動かすほどの立場にあったと伝わります。
その権力故に諸臣の中には反発もあったようです。

元亀4年(1573)5月、長房は三好長治・細川真之により居城の上桜城を攻撃されます。
約2か月に及ぶ籠城戦を展開し長房と嫡男・長重は7月16日早朝、十河存保の陣を急襲します。
しかし敗北し嫡男・長重は討ち取られ長房は自害したと伝わります。(上桜城の戦い)。

三好氏の衰退は一族の大将級の不運な死が重なったことも大きいです。
しかし長房らの忠臣を排除するに至った事態も大きな痛手となって跳ね返っていきます。
ここ上桜城の本丸にて長房公の尽力を想うと敬服の念が湧き上がりました。


Ⓢは説明版・石碑が設置された林道窪地で駐車可能です。西の丸の近くになります。
Ⓖは本丸です。3分程歩いての到着。

阿波 七条城 🏯怪力無双!阿波の剛力武将・七条兼仲の史跡を訪ねて

阿波 七条城 (徳島県板野郡上板町七条)
七条兼仲の旧蹟を訪ねて-
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑤】

前回の続きですが、徳島県で開催された海部川風流マラソン参加での話です。
その中でも強く自分の心に残った城をごくごく簡潔に紹介していくシリーズです。
今回は戦国ヘラクレス、剛力武将・七条兼仲の居城を訪ねてみました。

sitijyou (5)現在は川底と堤防、その周辺民家となった七条城址の区域。

怪力無双の勇将として知られ、数々の合戦で武勇を馳せたという兼仲。
天正10年(1582)中富川の戦いで十河存保方に属して長宗我部氏と戦い戦死しました。
七条城籠城中に戦死したとする説と、野戦で討死したとの2説があります。

sitijyou (4)
現在、城の主要部分は、宮川内谷川の川底となっているとみられます。

sitijyou (2)
上板橋の北詰め東、堤防の下に城址碑があります。

ちなみにこの城址碑、大変発見しずらいです!(汗)
上の河川敷堤防道路からはブッシュで隠れて見えません・・。
なんというか城址碑発見は勘に頼るところが大きいのです、多分・・。

sitijyou (1)それでも城址石碑に出会えると出会えないとでは大違い\(^o^)/。

徳島県大山寺には大鏡餅を抱えて、歩く距離を競う「力餅」という行事があります。
これは、兼仲が戦に備えて力を授かろうと大山寺に祈願。
力試しと寺にあった巨石を担いで一人運んだという伝承が起源といわれています。

大鏡餠は三方(全面と左右の三方に穴を開けた木製台)を含み約169kgもあるそうです。
スゴイ行事ですね、自分なら体重の3倍くらいの重さを持ち歩くことになります・・。
持ち上げる前に腰が砕けることになろうかと・・(ノ_<)。

某SLGの野望シリーズでもお馴染みの武将になっております。
能力はやたら武勇の値が大きいのですが知略・政治はからっきしダメな兼仲サン。
強いのに合戦では敵の計略に一撃で行動不能になってしまう困った先陣です・・。

でもね、いつの世もこーいう人は何故か憎めない・・。


㋹は七条城城址石碑の位置を示します。
やっとの思いで見つけた城址碑。どうか大水に流されませんように・・

阿波 板西城 🏯中富川の戦における三好方の勇士・赤澤宗伝の史跡を訪ねて

阿波 板西城 (徳島県板野郡板野町古城・城ノ内)<町指定史跡>
赤澤信濃守宗伝の旧蹟を訪ねて-
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その④】

少し前の話になりますが徳島県で開催された海部川風流マラソンに参加しました。
マラソン+城めぐりといった(自分では)超欲張りで気楽な一人旅行でした。
振り返ってみればこの大会、コロナウィルスの影響をを受けることなく開催決行。

時は2月中旬、タイミング的にはギリギリだったような気がします。
翌週からの地方マラソン大会は悉く中止になっていきました。
今となっては本当に貴重で有意義な時間だったと噛み締めています・・。

さて、3日間の行程で阿波国の色々な城を見学できました。
時間の制約上、ゆっくりと隅々まで見学、とまではいきませんでしたが・・。
その中でも強く自分の心に残った城をごくごく簡潔に紹介していくシリーズです。

4回目の今回は板西(ばんざい)城を訪ねた手記になります。

banzaij (1)現地での遺構はありませんが城址碑がその域を示します。

戦国期には赤澤信濃守宗伝の居城となっていました。
宗伝は阿波守護代・三好長慶の弟・三好義賢(実休)に仕え、実休の姪を室に迎えていました。
永禄5年(1562年)久米田の戦いにおいて実休が戦死すると実休の子・三好長治を補佐します。
しかし元亀4年(1573)親交が厚かった篠原長房が主君・三好長治らに攻め滅ぼされます。

この時、宗伝の居城・板西城も攻められたようです。
「忠節な家臣を討つ三好の天下も終末が近い」と嘆いた宗伝。
板西城を退去して3年間高野山へ引き籠ったと伝わります。

banzaij (2)その後宗伝は中富川の戦いにて壮絶な討ち死にを遂げました。

天正10年(1582)の中富川の戦いには約2千の兵を率いて十河存保のもとへ参陣。
三好方の先鋒を務め、長宗我部陣営に挑みました。
板西城3人衆や赤澤家12人衆と称される一族と共に討ち死にしました。

banzaij (9)板西城城址碑と祠が建てられています。

板西城には本城・北城・新城の3つの城があったと伝わります。
現地での城に関する遺構は確認できません。
周辺部は僅かながら微高地になっているように思います。

四国八十八箇所霊場、第三番札所の金泉寺奥の院の愛染院。
ここには赤澤信濃守の廟が祀られているのでちょっと足を延ばしてみました。
予定外の行動でしたが冒険気分で散策してみました。

banzaij (8)
地元の方々に訪ねながらやっとの思いで到着しました(;^_^A)。
(親切に教えてくださった地元の方々に感謝です)

banzaij (7)山門の両脇には大きな草鞋が・・。その由来とは・・?

宗伝は中富川の戦いで敵将の一人を組み伏せ、鎧通しでとどめを刺そうとしました。
ところがその時履いていた草鞋のひもが切れてしまいました。
その拍子に敵将が起き上がり逆に刺し討たれてしまったそうです。

banzaij (5)お寺の方に一声かけ見学させていただきました。

また宗伝の奥方も神経痛で足が弱って逃げることができなかったそうです。
お二人の無念いかばかりであったことでしょう。
愛染院の廟にはたくさんのわらじが掛けられていました。

banzaij (4)
この廟に参詣すると腰から下の病が治癒するとの信仰を集めるようになりました。

いつのころからか腰から下と足の病によく効くという話が広まりました。
宗伝と奥方の無念を想い治癒した方は草鞋を奉納する習わしがあるようです。
大小様々な草鞋がたくさんあってとても興味深かったです。

banzaij (6)
この赤澤信濃守廟にも格別に大きい草鞋が奉納されていました。

自分も翌日のマラソン大会を無事に完走できるようにお祈りしてみました。
するとどうでしょう・・、何故だかすごく体から勇気が溢れてくる気分になります。
早速宗伝公の御利益でしょうか?、何か体から熱いモノが込み上げてくるのでした。


Ⓢは板西城の城址石碑のある位置で古城の地名がついています。
Ⓖは赤澤信濃守宗傳公の廟所がある愛染院の位置を示します。

美濃 門野砦 🏯上村合戦に参戦した門野氏の砦

美濃 門野砦(岐阜県恵那市明智町杉野・城山)

あ~・・。なんだかなぁ・・。(いきなり溜息ですみません)

普段の何気ない生活がいかに特別で素晴らしいものだったのか・・。
自分が行おうとする全ての活動に是か非かの判断力を要する毎日。
果たして家での籠城が正しいのか、人気無い山城攻城もNGなのか・・。

「自分はOKだから」という勝手さでは済まされない感染拡大防止の世の中です。

『毎日がスペシャル』、竹内まりやさんの歌詞が心に沁みる今日この頃。

「目覚めた朝 息をしてるだけで幸せなこと」
「知っているの 人生とは心の持ち方でどうにでもなると」
・・なかなか究極な人生観です。・・けれど何か救われます。

・・さて、ちょっと気持ちが遠くへ行ってしまいました(^_^;)。すみません。
現状の世の中ではブログの更新も思うようにいかなくなるでしょう・・。
でも今回はこの春訪れた門野(かどの)砦をご紹介したいと思います。

kdnt (1)地元では「城山」と呼ばれている門野神社一帯の門野砦。

門野砦は明知遠山氏の郎党、門野氏の砦址だと伝わります。
門野氏の三兄弟、磯之助・角八・高助らは上村合戦に加わり戦いました。
上村合戦では前田砦に陣を構えて秋山勢に備えたと伝わります。

kdnt (2)
砦は門野神社の裏山にあたります。ここから登って行きます。

kdnt (3)
神社によくある急階段の参道をテンポよく登って行きます。
(「何段あるかな?」と段数を数えて登るのは自分だけじゃないハズ)

kdnt (4)
比高20メートル程の丘上奥に鎮座する本殿。

門野砦はこの本殿の東側の丘陵上ピークと伝わります。
本殿の裏から消えかかった道を北東に登って行きます。
すぐにピーク部に達し標柱が立てられていました。

kdnt (5)門野神社東側のピークに立つ標柱碑。根本が折れそうで心配(´・_・`)

僅かな傾斜ぎみの平地があるのみで周囲は自然地形です。
尾根続きの鞍部にも堀切の痕跡は見当たりません。
腰曲輪や切岸といった作事も見られず、実に普通の山といった感じです。

果たしてここが砦なんでしょうか・・。
そこでもう一度神社まで降りてみると神社の西側のピークが目に止まります。
こちらは切岸もつけられ掻きあげられた地形に仕上がっています。

どう見てもこちら西側ピークの方が砦として相応しく映るのであります。

kdnt (12)kdnt (11)
神社西側のピークの様子。2枚の写真をつなげてみました。

kdnt (8)
最も高い段には6つの祠が祀られています。

石垣が組まれ改変されてはいるものの一段の高みがあったようです。
こちらも堀切遺構は見られませんが、神社方面に深く落ち込みが見られます。
南側から神社に向かって延びるルートが確認できます。

kdnt (6)しっかりと削平された神社西側ピーク。

kdnt (7)
内部には高さ2メートル弱の塚址と思われる高みが残っています。

以前は宗教上の施設か祠などが祀られていたのかもしれません。
そうなるとこの削平地もその際に均されたスペースなのかもしれません。
しかし周囲は急斜面となり、杉野地区の集落も足下に直視できる眺望よき場所です。

kdnt (13)散策記録としての門野砦周辺図です。

神社が創設される際に本来の地形が崩されていることも考慮せねばなりません。
しかし自然地形に近い東側ピークよりも西側ピークの方が断然機能的です。
「在地支配」と「集落・街道との結びつき」を考えれば検討の余地はあると思います。

もちろん両遺構で成り立っていたという見方も充分考えられます。

kdnt (10)
砦からは北西に杉野一夜城も見られます。
(杉野一夜城についてはまた後日記載予定です)

kdnt (9)
門野砦の麓の社にも美しい桜が。こんな引き合わせがスペシャルなんですね。


㋹は門野神社を指します。

美濃 岩井戸砦 🏯上村合戦における総帥・遠山景行公の本営と遠山塚

美濃 岩井戸砦(向井戸砦)(岐阜県恵那市上矢作町本郷向井戸)
遠山塚と遠山一杯清水(岐阜県恵那市上矢作町漆原425番地)

「令和となって初めての」・・なんていうのも使い古された枕詞のようですが・・。
令和最初の桜はとびっきりいい天気に恵まれ鮮やかに咲き誇っています。
絶好のお花見日和なのですが、世の中は緊急非常事態宣言の中となりました。

惜しいかな・・、実に惜しいと思えてなりません。
・・が仕方がありません。
一人一人が協力して早く平常な生活を取り戻したいものです。

iwidtsaku (3)上矢作町石洞地区の桜に立ち寄ってみました。

上矢作町の桜は「新田の桜」が有名ですがワタクシのお気に入りはこちらの桜。
その「新田の桜」から株分けされたというこの桜は名前もありません。
が、里山に一本だけ艶やかに咲き誇る姿には強く引き付けられるものがあります。

iwdt (4)上村川越しに武田方目線で眺める岩井戸砦。

今回訪れたのは恵那上矢作町の岩井戸砦と上村合戦の周辺史跡です。
織田氏に属する東濃連合軍VS武田氏の配下・伊那郡代の秋山虎繁率いる諸氏との合戦場です。
岩井戸砦は東濃連合軍の総帥・明知城主遠山景行の本陣となった砦です。

iwdt1rd.jpg
砦の内部及び周辺一帯は陸田となっており、著しく様変わりしています。

面影は感じられますが遺構はほぼ全壊状態といっていいでしょう。
明治時代以降に新田開墾が進められ絶好の南向き地形は畑となりました。
基本的な骨格姿は想像できますが細部については不明としか言えません。

iwdt (3)
頂部周囲の法面には切岸の面影がみられます。

iwdt (5)
頂上の広い曲輪址も一面の畑です。

iwdt (2)
西に続く鞍部には農道がつけられました。

かつての鞍部には堀切址と思われる切通しが存在していました。
平成8年の見学ではこの遺構が残存していたことを記録しています。
残念ながら写真が・・どっかへ隠れてしまいまして・・(探しまくったのですが)

その時の作図図面がありますのでご紹介したいと思います。
(作業中の地主さんに許可をいただき立ち入らせていただきました)

iwidtz.jpg平成8年9月当時の岩井戸砦址状況図です。

尾根伝いの鞍部が堀切状になっているのがわかります。
現在は麓から農道が敷かれここも破壊されています。
北側には谷川が廻り急斜面となっているのは現在も同じようです。

iwdt (7)かつての本陣からは上村川沿いの谷筋が一望に見渡せます。

ここからは東に伊那根羽・平谷村方面筋が見渡せます。
南は三河稲武方面からの街道を、北は岩村に直結する街道を押えます。
狭隘な街道筋の監視場としては絶好の位置にあることがわかります。

上村合戦(かんむらかっせん)の経緯を簡単に申しますと・・

元亀元年(1570)12月(元亀3年説もあり)武田氏の軍勢が徳川氏の東三河を攻めようとして進軍。
武田方主将の秋山虎繁は武田軍3000余騎を率いて東美濃の遠山氏の領地に侵入します。
途中、東美濃の遠山氏の上村へ侵入したために遠山氏と徳川氏との連合軍と衝突しました。

当時の遠山氏は織田信長の叔母・おつやの方が岩村城主・遠山景任の夫人となり織田方でした。
遠山氏は明知城の遠山景行を総大将に武田軍を迎え備えます。
景行はそれぞれの進路にある上村の前田砦、漆原の漆原城等に兵を入れ備えました。

そして自身は岩井戸砦で指揮を執り明知・岩村・三河衆との交差点に陣を敷きました。

両軍の主だった参戦武将

武田軍主将・秋山虎繁
望月与三郎信繁
原藤吾昌定
芝山主水且春
松本右京亮長継ら伊那諸士

遠山三河連合軍総帥・遠山景行
遠山景玄(景行嫡子)
門野磯之助氏幸、門野高助繁氏、門野角八氏益ら門野三兄弟
串原遠山右馬助景男、遠山五郎教景
吉村源蔵、小里氏、平井氏ら東濃諸士
奥三河衆山家三方衆らの諸士

戦いは串原遠山氏が秋山軍の望月勢を攻撃し火蓋が切られました。
望月勢が引き下がる様子に乗じ串原勢は敵中深くまで追いたてます。
しかし望月勢は左右両翼に兵を広げ、原・芝山勢が串原勢の両翼を攻撃しこれを崩します。

これを契機に遠山方は攻め返され味方は悉く崩れ始めました。
岩井戸砦の景行本陣も前後から挟撃され景行は奮戦するものの及ばず撤退します。
景行らは北東の尾根沿いに血路を開いて落ちるも漆原の山中にて自刃しました。

その場所は遠山塚として今に伝わっています。↓

tymtuka (4)遠山景行がここまで落ちのびこの地にて自刃したと伝わる遠山塚です。

景行が本陣とした岩井戸砦よりかなり奥まっており標高も高い山奥です。
武田軍の追手はかなり広い範囲での山岳戦を展開したと思われます。
高齢でもあり逃げ切れないと悟った景行はこの地にて覚悟を決めたようです。

tymtuka (5)駐車場のある看板から少し下った所に石碑と祀られています。

景行らはこの尾根から明知城方面へ向かおうとしたようです。
武田の侵入を阻止しようと懸命に戦った景行の人柄が偲ばれる思いです。
しかし戦においては統率のとれた秋山繁虎の采配が上回りました。

tymtuka (6)遠山塚より下った所には遠山一杯清水の史跡もあります。

上村合戦で敗退した門野高助、磯之助、覚八、串原右馬助らが再び戦おうとしました。
しかし喉が渇き戦うことができない・・。何処にも水はない・・。
思い余って近くの石に槍を突き刺したら不思議なことに清水が湧き出たそうです。

やけくそだったとしても時として吉となることを教わります。
諦めたらそこで終わりますからね。末期の一杯の清水。
自分も喉がカラカラの時の水は最高に美味しかったですね(中学生部活の思い出)。

tymtuka (7)ここから湧き出た水を飲んで再び戦場へと向かった門野氏らでした。

現在は落ち葉が堆積して水源は確認できませんでした。
雨上がり後の数日は少し掘り起こせば湧き水が確認できるようです。
或いは同じように突き刺したら湧き出てきてくれるのかしら?。

岩井戸砦、遠山塚、遠山一杯清水、ここまで訪問したら喉が渇いてきました。
自分も自宅で用意した自作レモン水を飲み干します。
最後にもう一ヶ所寄りたい場所があります。

iwidtsaku (2)

安住寺(岐阜県恵那市明智町杉野1060)

安住寺には遠山景行夫妻の墓所があります。
山号を久昌山と呼び、光国舜玉和尚(曹洞宗)の初開道場として建立されました。
現在は臨済宗妙心寺派のお寺です。

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anjj (4) anjj (3)

大永5年(1525年)明知城の城主であった遠山景行によって創建されました。
寺の本堂の奥にある墓域には遠山景行とその妻の墓所があります。
ここまで伺うと何かこう気持ちが引き締まる思いです。

anjj (5)
仲睦まじく並んだ遠山夫妻の墓所です。

景行公 乾樹院殿前相州文岳宗叔大居士 元亀三年十二月二十八日没
 室   安住寺殿光林妙珠大姉       永禄四年二月一日没
遠山景行公は永正6年(1509)生で元亀元年(1570)没とされますので・・。

齢60才近くにて戦場に赴いたという事ですね。

anjj (2)
景行が上村合戦に敗れて自害したのち、密かに運ばれた遺体がここに埋葬されたそうです。
お参りすると頭部の疾患(首から上の病)に霊験があるとされますよ。
ところで景行公・・薄毛には効き目ありますか?

一説に明智光秀の叔父である明智光安は景行と同一人物とされます。
その説に従うと景行は明智光継の三男として生まれ、明知遠山氏を継いだ事となります。
景行は入道して宗叔と号しますが明智光安宗宿(または宗寂)と号していて類似しています。

真実のほどはわかりませんが興味のある謎ですね。


㋹は岩井戸砦の高台を指します。
Ⓢは遠山塚を示します。アドニスゴルフ場の入口手前を左折(案内板あり)
  ゴルフ場のコース脇林道を1.8km程走ると遠山塚の駐車場に到着します。
Ⓖは遠山一杯清水の位置を示します。遠山塚から歩いてもすぐです。
  車を移動して石祠のある路肩にも駐車できます。



㋹は安住寺を示します。

三河 田原城(巴江城) 🏯派手さはなくとも落ち着いた佇まい

三河 田原城(巴江城)(愛知県田原町巴江)

早いもので本ブログ開設以来5周年を迎えます。
正直申しますと最初は暇つぶし程度に始めたブログでした(汗)。
それがだんだんとのめり込んでいくようになりました。
立ち寄って目を通してくださる方も増えました。
このブログを通してお友達になれた方もみえます。
実際にお会いして共に城めぐりができるなんて夢のようです。
ありがたいコメントを寄せて頂く方もみえます。
・・自分でもとても驚いております。
おかげさまで飽きっぽい自分のモチベーションが保たれております(笑)。
皆様には「感謝」の言葉以外ないように思います。

本当に「ありがとうございます【感謝】」
そして「今後供よろしくお願いいたします」

しかしながらこの記事を書いている現在の世界はかつてない危機に直面しています。
誰もが想定していなかった悪夢といってもいい新型コロナウイルスの蔓延。
私たちはどうやっても乗り越え、生き抜かなければなりません。

外出自粛の中、今日も城の記事を書き続けます、5年前の気持ちのままで。
もしかしたら「城」があった過去から学ぶとこもあろうかとも思います。
今回はそんな中訪れた三河渥美半島の田原城です。

atmtahara (30)
とても城下の雰囲気のある下見板張塀の通りです。

田原駅からのんびり歩いての散策。
城はやっぱり大手から登城しなくっちゃね。
・・とか言いつついつもショートカットしてる奴はどいつだい?

「・・アタイだよ!」

atmtahara (29)
田原市の報民倉のある「大手公園」から城域に入って行きます。

「報民倉」とは、田原藩が救民のため建設した備蓄倉庫のことです。
天保6年(1835)田原藩は渡辺崋山の指導の下、飢饉に備え備蓄庫の建設をl企画しました。
翌年からの天保の大飢饉では田原藩は一人の餓死者・流亡者をだすことはありませんでした。

atmtahara (28)
かつてこの場所には田原城の惣門がありました。

当時の石垣が一部残存しています。
市街地化していますが外郭ラインの貴重な遺構となります。
ちなみに現代の「報民倉」は巨大地震などの災害に備えるための資機材が保管されています。

・・さすがです!田原市!

atmtahara (33)
現代にも残る食違いがかかった大手道です。

atmtahara (24)
atmtahara (27)
武家屋敷が立ち並んでいたであろう城への直線道「大手通り」。

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藩校・成章館跡のあった前を通り過ぎます。

かつての藩校は現在は田原中部小学校となっています。
「成章館」の名は現在の県立成章高等学校へと受け継がれています。
報民倉といい当時の施設と役割が時を越えてリンクしているのがいいですね。

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いよいよ桜門へといたりますが・・この橋も雰囲気あります。・・現在通れませんが・・。

atmtahara (8)田原城の追手門にあたる桜門(復元)です。

平成6年に左右の土塀と共に復元されました。
古写真を参考にして下板張、左右の土塀は海鼠壁となっています。
なかなか重層感があって惹きつけられるものがあります。

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桜門の東側には「袖池」と呼ばれる水堀となっています。

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桜門の西側には「柝池(ひょうしぎいけ)、これ読めない!」

「柝」という漢字は初めて知りました。そしてすぐ忘れるでしょう(笑)。
丘の上にも関わらずこのような大きな水堀があるのは意外です。
いずれにせよ、充分な威圧感のある門と堀のセットだと思います。

atmtahara (9)復興された三ノ丸土塀と石垣を袖池堀越しに眺めます。

このアングルは桜がとても綺麗でお気に入りです。
手前の堀は袖池で城内では最も石垣が多用されている部分です。
石垣の角部が柔らかく曲線にしているのが印象的で優雅です。

atmtahara (7)そして田原城の城址石碑です。実にいい場所に立ってますね~。

atmtahara (11)桜門を通過すると復興二ノ丸櫓にお目見え。

この櫓は昭和33年(1958)に復興された模擬櫓です。
明治時代の古写真では壁が下見張となっています。
ややずんぐりむっくりなフォルムですが田原城のシンボル的存在ですね。

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二の丸櫓の内部は考古資料を主とした展示室となっています。入場無料です。

atmtahara (5)展示されている模型がとても解りやすく当時の様子が掴めます。

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三の丸は護国神社の境内地となっています。

渡辺崋山の碑や田原市ゆかりの偉人たちの記念碑が建立されています。
上の写真は渡辺崋山の顕彰碑。神々しい日差しが指していました。
三ノ丸からは城の内側から水堀を見下ろすことのできる隠れポイントでもあります。

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三ノ丸から見上げる木々の間の二ノ丸櫓もよろしいかと。

atmtahara (19)本丸には巴江神社が建立されています。

巴江神社は田原藩主三宅氏の遠祖・児島高徳徳川家康に仕えた三宅康貞を祀ります。
本丸の周囲は土塁で囲まれていて特に南東と西側の土塁は高くなっています。
これはおそらく海風からの強風を防ぐ役割もあったと思われます。

atmtahara (17)かつては湾内となり海水が入り込んでいたという城下を見下ろします。

新田開発(江戸前期以前)によって干拓される以前は海水が湾入していました。
その様が「巴文」状であったために別名:巴江城と呼ばれる由縁です。
巴文様とはC字形をした勾玉に形が似ているイメージですね。

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触ると幸福を招くと伝えられる「招福の石」で思いを念じてみましょう(^^♪

ここ本丸に至る土橋の両脇には深い空堀も見られます。
中世以降の田原城の骨格ベースがこの本丸周囲に見られます。
近世になってもその姿は引き続かれ現在に至っていることが実感できます。

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本丸の高まりを東側から確認してみます。桜も綺麗ですよね(*’U`*)。

atmtahara (39)本丸と二ノ丸間の深い空堀は遊歩道となっています。

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田原城古井戸が本丸と二の丸の空堀間にあります。

atmtahara (20) 本丸・二ノ丸間の石垣は一部組み直されたものですが壮観。

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二の丸から続く出丸には現在崋山神社が祀られています。

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崋山会館前の「憂国の先覚者」渡辺崋山のレリーフ。

田原藩の家老・渡辺崋山は一流の画家でもありました。
藩政改革に取り組み殖産興業策を推進して財政再建を図っています。
蛮社の獄では幕府の対外政策を非難し連座、失脚して自刃します。

自分は崋山に事績に関してはほとんど無知でした。
でも崋山の領民救済の優先を徹底させる行いは立派だと思いました。
・・もっと勉強しなくちゃいけません。

田原城の創築は文明十二年(1480)頃で戸田宗光が初代城主と伝わります。
宗光は守護代の一色七郎政照を隠居に追い込み渥美半島を統一したといわれます。
以降天文年間までは戸田氏による支配が続きます。

戸田氏に関しては天文16年の松平竹千代強奪事件、三河での勢力拡大と没落・・。
今川・徳川・織田勢力圏間でいろいろと話題の多い強大な勢力を築いた一族です。
それらをここでは取り上げることはできませんが三河海洋勢力の影響は多大でした。

田原城にはいわゆる天守に相当する建築物は築かれませんでした。
しかし、復興桜門と水堀、二ノ丸櫓と石垣、空堀と本丸土塁、等々・・。
戦国期の基本構造と近世の曲輪配置、周囲の歴史景観が楽しめました。

春の風に吹かれての佇まいある田原城址。いつもより静かに桜が咲き誇っていました。



Ⓢは田原城惣門址、Ⓖは巴江神社が鎮座する田原城本丸部。
車の駐車場は本丸西側の田原市博物館に無料で広い駐車場があります。


atmtahara (1)
広い駐車場がある田原市博物館はかつての蓮池堀の跡地でもあります。
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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