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美濃 岩井戸砦 🏯上村合戦における総帥・遠山景行公の本営と遠山塚

美濃 岩井戸砦(向井戸砦)(岐阜県恵那市上矢作町本郷向井戸)
遠山塚と遠山一杯清水(岐阜県恵那市上矢作町漆原425番地)

「令和となって初めての」・・なんていうのも使い古された枕詞のようですが・・。
令和最初の桜はとびっきりいい天気に恵まれ鮮やかに咲き誇っています。
絶好のお花見日和なのですが、世の中は緊急非常事態宣言の中となりました。

惜しいかな・・、実に惜しいと思えてなりません。
・・が仕方がありません。
一人一人が協力して早く平常な生活を取り戻したいものです。

iwidtsaku (3)上矢作町石洞地区の桜に立ち寄ってみました。

上矢作町の桜は「新田の桜」が有名ですがワタクシのお気に入りはこちらの桜。
その「新田の桜」から株分けされたというこの桜は名前もありません。
が、里山に一本だけ艶やかに咲き誇る姿には強く引き付けられるものがあります。

iwdt (4)上村川越しに武田方目線で眺める岩井戸砦。

今回訪れたのは恵那上矢作町の岩井戸砦と上村合戦の周辺史跡です。
織田氏に属する東濃連合軍VS武田氏の配下・伊那郡代の秋山虎繁率いる諸氏との合戦場です。
岩井戸砦は東濃連合軍の総帥・明知城主遠山景行の本陣となった砦です。

iwdt1rd.jpg
砦の内部及び周辺一帯は陸田となっており、著しく様変わりしています。

面影は感じられますが遺構はほぼ全壊状態といっていいでしょう。
明治時代以降に新田開墾が進められ絶好の南向き地形は畑となりました。
基本的な骨格姿は想像できますが細部については不明としか言えません。

iwdt (3)
頂部周囲の法面には切岸の面影がみられます。

iwdt (5)
頂上の広い曲輪址も一面の畑です。

iwdt (2)
西に続く鞍部には農道がつけられました。

かつての鞍部には堀切址と思われる切通しが存在していました。
平成8年の見学ではこの遺構が残存していたことを記録しています。
残念ながら写真が・・どっかへ隠れてしまいまして・・(探しまくったのですが)

その時の作図図面がありますのでご紹介したいと思います。
(作業中の地主さんに許可をいただき立ち入らせていただきました)

iwidtz.jpg平成8年9月当時の岩井戸砦址状況図です。

尾根伝いの鞍部が堀切状になっているのがわかります。
現在は麓から農道が敷かれここも破壊されています。
北側には谷川が廻り急斜面となっているのは現在も同じようです。

iwdt (7)かつての本陣からは上村川沿いの谷筋が一望に見渡せます。

ここからは東に伊那根羽・平谷村方面筋が見渡せます。
南は三河稲武方面からの街道を、北は岩村に直結する街道を押えます。
狭隘な街道筋の監視場としては絶好の位置にあることがわかります。

上村合戦(かんむらかっせん)の経緯を簡単に申しますと・・

元亀元年(1570)12月(元亀3年説もあり)武田氏の軍勢が徳川氏の東三河を攻めようとして進軍。
武田方主将の秋山虎繁は武田軍3000余騎を率いて東美濃の遠山氏の領地に侵入します。
途中、東美濃の遠山氏の上村へ侵入したために遠山氏と徳川氏との連合軍と衝突しました。

当時の遠山氏は織田信長の叔母・おつやの方が岩村城主・遠山景任の夫人となり織田方でした。
遠山氏は明知城の遠山景行を総大将に武田軍を迎え備えます。
景行はそれぞれの進路にある上村の前田砦、漆原の漆原城等に兵を入れ備えました。

そして自身は岩井戸砦で指揮を執り明知・岩村・三河衆との交差点に陣を敷きました。

両軍の主だった参戦武将

武田軍主将・秋山虎繁
望月与三郎信繁
原藤吾昌定
芝山主水且春
松本右京亮長継ら伊那諸士

遠山三河連合軍総帥・遠山景行
遠山景玄(景行嫡子)
門野磯之助氏幸、門野高助繁氏、門野角八氏益ら門野三兄弟
串原遠山右馬助景男、遠山五郎教景
吉村源蔵、小里氏、平井氏ら東濃諸士
奥三河衆山家三方衆らの諸士

戦いは串原遠山氏が秋山軍の望月勢を攻撃し火蓋が切られました。
望月勢が引き下がる様子に乗じ串原勢は敵中深くまで追いたてます。
しかし望月勢は左右両翼に兵を広げ、原・芝山勢が串原勢の両翼を攻撃しこれを崩します。

これを契機に遠山方は攻め返され味方は悉く崩れ始めました。
岩井戸砦の景行本陣も前後から挟撃され景行は奮戦するものの及ばず撤退します。
景行らは北東の尾根沿いに血路を開いて落ちるも漆原の山中にて自刃しました。

その場所は遠山塚として今に伝わっています。↓

tymtuka (4)遠山景行がここまで落ちのびこの地にて自刃したと伝わる遠山塚です。

景行が本陣とした岩井戸砦よりかなり奥まっており標高も高い山奥です。
武田軍の追手はかなり広い範囲での山岳戦を展開したと思われます。
高齢でもあり逃げ切れないと悟った景行はこの地にて覚悟を決めたようです。

tymtuka (5)駐車場のある看板から少し下った所に石碑と祀られています。

景行らはこの尾根から明知城方面へ向かおうとしたようです。
武田の侵入を阻止しようと懸命に戦った景行の人柄が偲ばれる思いです。
しかし戦においては統率のとれた秋山繁虎の采配が上回りました。

tymtuka (6)遠山塚より下った所には遠山一杯清水の史跡もあります。

上村合戦で敗退した門野高助、磯之助、覚八、串原右馬助らが再び戦おうとしました。
しかし喉が渇き戦うことができない・・。何処にも水はない・・。
思い余って近くの石に槍を突き刺したら不思議なことに清水が湧き出たそうです。

やけくそだったとしても時として吉となることを教わります。
諦めたらそこで終わりますからね。末期の一杯の清水。
自分も喉がカラカラの時の水は最高に美味しかったですね(中学生部活の思い出)。

tymtuka (7)ここから湧き出た水を飲んで再び戦場へと向かった門野氏らでした。

現在は落ち葉が堆積して水源は確認できませんでした。
雨上がり後の数日は少し掘り起こせば湧き水が確認できるようです。
或いは同じように突き刺したら湧き出てきてくれるのかしら?。

岩井戸砦、遠山塚、遠山一杯清水、ここまで訪問したら喉が渇いてきました。
自分も自宅で用意した自作レモン水を飲み干します。
最後にもう一ヶ所寄りたい場所があります。

iwidtsaku (2)

安住寺(岐阜県恵那市明智町杉野1060)

安住寺には遠山景行夫妻の墓所があります。
山号を久昌山と呼び、光国舜玉和尚(曹洞宗)の初開道場として建立されました。
現在は臨済宗妙心寺派のお寺です。

anjj (1)

anjj (4) anjj (3)

大永5年(1525年)明知城の城主であった遠山景行によって創建されました。
寺の本堂の奥にある墓域には遠山景行とその妻の墓所があります。
ここまで伺うと何かこう気持ちが引き締まる思いです。

anjj (5)
仲睦まじく並んだ遠山夫妻の墓所です。

景行公 乾樹院殿前相州文岳宗叔大居士 元亀三年十二月二十八日没
 室   安住寺殿光林妙珠大姉       永禄四年二月一日没
遠山景行公は永正6年(1509)生で元亀元年(1570)没とされますので・・。

齢60才近くにて戦場に赴いたという事ですね。

anjj (2)
景行が上村合戦に敗れて自害したのち、密かに運ばれた遺体がここに埋葬されたそうです。
お参りすると頭部の疾患(首から上の病)に霊験があるとされますよ。
ところで景行公・・薄毛には効き目ありますか?

一説に明智光秀の叔父である明智光安は景行と同一人物とされます。
その説に従うと景行は明智光継の三男として生まれ、明知遠山氏を継いだ事となります。
景行は入道して宗叔と号しますが明智光安宗宿(または宗寂)と号していて類似しています。

真実のほどはわかりませんが興味のある謎ですね。


㋹は岩井戸砦の高台を指します。
Ⓢは遠山塚を示します。アドニスゴルフ場の入口手前を左折(案内板あり)
  ゴルフ場のコース脇林道を1.8km程走ると遠山塚の駐車場に到着します。
Ⓖは遠山一杯清水の位置を示します。遠山塚から歩いてもすぐです。
  車を移動して石祠のある路肩にも駐車できます。



㋹は安住寺を示します。
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プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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