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摂津 芥川山城 🏯三好長慶の栄光と暗転、義興の悲劇

摂津 芥川山城 (大阪府高槻市腹・三好山(城山))
<通りすがりの河内・摂津の城めぐり・その④>
三好孫次郎義興の旧蹟・芥川山城を訪ねて-

長かった梅雨もやっと・・、やっと開けて夏本番!・・しかし、
猛暑+コロナです。コロナも注意ですが熱中症も要注意です。
走った後はスポーツドリンクと水道水を1:1で合わせて飲んでいる久太郎です。

さて、通りすがりの河内の城めぐりも今回で通り越し摂津国へ。
三好一族の群像に主眼をおいて歩いてきました。
今回は三好長慶の嫡男・孫次郎義興の横顔を思い訪ねてみました。

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三好山を登山の途中道から望みます。(正面写真撮り忘れまして・・)

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麓の塚脇バス停には各説明版があり、ここから登ってみます。

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三好長慶は芥川山城を拠点として各地に出向いていきました。

atgj (22)城は能勢氏・細川氏時代を経て長慶の下で防御施設を拡張していきました。
(現地のイラスト鳥瞰図を転載させていただきます。)

atgj (15)
三好山まで40分、とありますが、道はなだらかで30分程です。

芥川山城は大きく3つのブロックから構成されています。
東曲輪群​と中央曲輪群、そして主郭のある西曲輪群となります。
時間の許せる限り速足ですが見学してみました。

atgj (2)東曲輪法面には大規模な竪土塁が落とされています。

現場には現在獣除けのフェンスが竪土塁状に設置されてます。
しかし、これがなんとなく当時の柵を思い起こさせます。
これでは斜面の横移動進入、完全にシャットアウトされそう・・。

atgj (3)
中央曲輪に続く堀切と土橋もよく残っています。

atgj (4)
しばらく進むと分岐点に小さな字城址碑が。ここを一旦下に降りてみます。

atgj (13)
横目に石垣が見えてきました。

atgj (21)中央部は崩れていますが大規模な石垣遺構があったようです。

芥川山城の大手通は本来この中央曲輪群の下から通っていたようです。
登城途中にこの石垣を仰ぎ見る者は威圧感を覚えたと思います。
こういった石垣虎口跡の構えは飯盛城の遺構とよく似ているなとも思いました。

中央曲輪群はまとまった広い曲輪と腰曲輪で構成されていました。
写真も幾つか撮ったのですが木々の茂みが邪魔してダメです・・。
あと季節がら蚊の大群に囲まれてあえなく退散してしまいました・・。

ここから最高所の西曲輪群へと向かいます。

atgj (11)こちらはキレイに整備がされている西曲輪群。

陽当たりもよく踏みあとと緑が目に優しかったです。
切岸の遺構が確認できて主郭部の全体像が掴みやすくなっていました。
地元の方々による整備の賜物かと思われます、感謝です。

atgj (12)

atgj (7)
広い頂上の曲輪には主郭御殿が設けられたようです。

本丸跡では高槻市教育委員会によって発掘調査が行われました。
礎石跡が検出され御殿的な施設が建設されていたのが確認できました。
軍事施設と共に住居空間も山頂に建設されていたんですね、進んでますね。

atgj (5)
三好長慶を祀っている頂上の祠。手を合わせ訪問できたことに感謝。

atgj (6)石碑、やっぱイイっすね~( ^ω^ )

atgj (9)
少し北には部分的にL字型に土塁囲みを備えた曲輪も。

atgj (8)北西尾根へと続く尾根にも堀切です。
この辺りの遺構は主郭部と同じように整備されてとても見学しやすかったです。

atgj (10)主郭からは大阪平野方面が見渡せます。

三好義興は父・長慶に劣らず智勇に優れた後継者でした。
将軍地蔵山の戦いでは六角氏との闘いで永原重澄らを討ちとる大勝利を収めます。
また摂津での教興寺の戦いでは戦死した叔父・実休の仇である畠山軍にも大勝します。

松永久秀らとのタッグも冴え渡り、三好政権を支えた諸武将たちにも信頼されました。
また豊かな教養人でもあり、将軍義輝や公家達からの信望も厚かったといいいます。
筑前守に叙任、御供衆となり名実共に長慶の後継者として皆に期待された若者でした。

しかし永禄6年(1563)6月に病に倒れてしまいます。
曲直瀬道三らの介抱を受けますが病状は悪化しここ芥川山城において死亡しました。
享年22歳で、『足利季世記』では死因を黄疸と伝えています。

長慶の悲しさいかばかりであったでしょう。
悲嘆にくれ心身にも異常をきたすようになったそうです。
翌永禄7年(1564)7月息子の後を追うように長慶も飯盛城で没しました。

長宗我部元親の嫡男・信親、毛利元就の嫡男・隆元・・などなど。
将来を渇望された世継ぎの早逝は大名に限らず痛ましいですね。
時にその無力感は家の運命を大きく狂わす一因にもなっていきます。

器量人だったプリンス義興の死が三好政権の暗転を決定づけた、といえないでしょうか。



ちなみにですが・・。

同じ高槻市殿町周辺にも「芥川城」と呼称された城址があります。

atgj (20) atgj (19)
どこだ?どこなんだ??、うろつき回って探しまわって、やっと見つけました。

atgj (18)わからんかったがや(*`皿´*)ノ、でも嬉しい探索でした(#^.^#)。

芥川城は芥川氏によって築城されたともされています。
しかしいつごろ築城されたのかは明確に解っていません。
芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていた時もあったようです。

しかしながら遺構は殆ど残っておらず石碑と小さな祠が残るのみです。

今回の記事のお・ま・けです・・(*’U`*)。
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河内 飯盛城 🏯三好長慶公の銅像とその居城へ

河内 飯盛城 (大阪府四條畷市南野・大東市北条・飯盛山)
<通りすがりの河内の城めぐり・その③>
三好長慶の旧蹟・飯盛城を訪ねて-

ブログの定期的な更新ってなかなかできないものです(^_^;)。
ブランクが空けば空くほど頭脳と筆(指)が重たくなっていき億劫に・・。
・・といいますか、コロナと長雨で城に行けない日々が続いております。

はっきり言ってこれってかなり憂鬱な生活です。
自分を見失いそうです。(大袈裟ですが)
皆さんはどのようにお過ごしなんでしょうか??

・・さて、

先日NHKの番組「歴史悲話ヒストリア」で三好長慶公が取り上げられました。
なかなか興味深い人物と取り上げるな・・という思いで楽しみに拝見。
「信長より20年早かった男 最初の「天下人」三好長慶」というテーマでした。

ご覧になった方も沢山見えると思います。
ここでいう「天下」とはもちろん「日本全国」ではなく「畿内一円」という意味。
京都や幕府等が影響を及ぼす地帯に一時的にせよ政権を打ち立てました。

折しも丁度この初夏に長慶公の居城であった飯盛城に行ってきました。
「城址に立てば何かが感じ取れる」かな?
三好政権や当時の畿内情勢は不勉強で詳しくありませんけどお許しを・・。

kwtimyj (1)先ずは三好長慶公にご挨拶といきましょう( ̄^ ̄)ゞ。

長慶公の銅像は大東市の市役所の正面玄関脇にお見えです。
手にされているのは馬の鞭でしょうか。
刀や槍、軍配といった武将像が多い中、ちょっと個性的です。

kwtimyj (2)
車で大東市青少年野外研修センターまで行けます。駐車料金は200円でした。

kwtimyj (22)
続日本100名城に選ばれたとあって盛り上がっていました。

kwtimyj (21)
駐車場受付にて各パンフレットや縄張り図面、名城スタンプなどいただけます。

飯盛城はとても範囲が広い城です。
縄張り図面には見所や説明文が詳しく示されていて重宝しました。
特に見落としがちな石垣箇所も網羅されていてテンション上がりました。

kwtimj (31)
桜池からスタートして散策開始です。

高い山上にこれだけ綺麗なため池があることに驚きました。
この他にも大東市内には沢山のため池が存在します。
古くから農業用として恵みを育んでくれる貴重な生態保全資源ともいえましょう。

kwtimyj (19)
立ち去りがたいほど美しい池でした。でも城目当てだから行かないと・・。

kwtimj (30)
尾根沿いに歩くと南虎口が見えてきました。

kwtimj (29)
両脇は石垣で固められていたようで堅固そう。

kwtimj (26)
南郭・千畳敷曲輪へと登って行きます。

現在ピーク部にはFM送信塔が立ちますが、城中で最も広い曲輪だと思われます。
恐らくここに居館等の生活施設が設けられていたようです。
宣教師の書簡にある「城内にあったとされる教会」もここにあったのでしょうか。

kwtimj (35)主郭南側のS字状土橋です。

主郭曲輪部と千畳敷曲輪部の間には堀切と土橋で遮断しています。
この土橋はS字型に湾曲させて直通できないような仕組みになっていますね。
またここから主郭部へは急勾配となり防御性がとても高く感じられます。

土橋は幅も狭く曲がっている上に両脇の堀底も深い・・、からの急勾配。
なんともアスレチックな綱渡りのような面白さがありました。
ご一緒になったご年配夫婦が息切らしながら登ってみえたのも印象的でした。

kwtimyj (3)
主郭の高櫓郭へ。ここには楠木正行公の銅像が立ちます。

四條畷の戦いで戦死した楠木正行。まだ22歳だったそうで。
その勇敢な顔立ちを近くで見たくとも台座が高すぎて見上げることしかできません。
ならば遠くから望遠でと思ったら木が茂ってて隠れてしまう・・。諦めも肝心。

kwtimyj (16)飯盛城の石碑はここにありました(^-^)/。

kwtimyj (23)展望台には三好長慶公と飯盛城、「天下人の城」との威容を誇ります。

kwtimj (14)こ、こんなに見えるもの(;゜0゜)?河内平野から京都まで丸見えです。

写真の景色は北の御体塚曲輪からの眺望ですが素晴しいです。
快晴の日には四国や淡路島まで見えるそうでまさに三好王国にふさわしい眺望。
そのパノラマは実に270度、遮るもののない世界が広がっていきます。

長慶が芥川山城からここ飯盛山城に居城を移した理由の一つがわかります。

・・さて、飯盛城の見所の一つは何と言っても部分的に多用された石垣でしょう。
城中の至る場所にしっかりと残っているので発見するのがとても楽しいです。
自分の印象に残った石垣をあげてみたいと思います。

積み方の手法も様々で興味深いものがあります。

kwtimyj (6)本格東側の石垣です。割石をキレイに並べていて新しめの印象です。

kwtimyj (7)
御体塚曲輪の入口付近の石垣です。

kwtimj (8)角を落とした丸石を多用して積み上げられています。
心もとない中もに絶妙なバランスを感じます。

kwtimj (18)こちらも御体塚曲輪の入口付近の石垣。たぶん・・、興奮しすぎて覚えが曖昧です。

kwtimj (20)
横から見るとほぼ垂直に横長に積み上げられています。

石垣自体は簡単な積み上げ方ですので高石垣は望めません。
4段~6、7段が限界なのでしょう。適度に野暮ったい感じがグッときます。
このあたりに近世石垣城郭への最終過程がみられて面白いです。

他にも随所に見られる石垣ですが、結構険しい場所にあったりもします。
東尾根側面の石垣も凄かったのですが現在立ち入り危険区域となっています。
よってお写真は掲載遠慮してきますね・・。

石垣は大坂平野のある西側ではない反対の東側に多くみられるのも注目です。

kwtimj (23)
御体塚曲輪へと続く尾根曲輪を歩いていきます。

一直線に続く踏みあとがなんとなく城跡に似つかわしくなくていい感じ(笑)。
この日は多くのハイカーの方もお会いしました。
いつも手軽に歩ける山、でもある飯盛山なのでしょう。

kwtimj (11)北側の要的な大堀切。岩盤ごと尾根を断ち切っている様子が圧巻です。

kwtimyj (13)
北方尾根先端部からの眺望も素晴らしい。

こちらには木製のテーブルや丸太椅子などもあります。
麓の景色を楽しみながらお弁当を食べるのにうってつけ。
自分もここでコンビニおにぎりとお茶休憩をとりましたが気分最高でした。

kwtimyj (11)
こちらにも「飯盛山史蹟」の石碑があります。大正時代からのものです。

kwtimyj (18)
今ではなかなか見られなくなった昆虫との出逢いも。

ミドリカミキリ、美しいメタリックグリーンは宝石のよう。
後ろ足がなが~いのも特徴の一つ。
自分が近づいてもとってもリラックスしてました。

kwtimyj (24)
地元ファンは尊敬と親しみを込めて長慶を「ちょうけい」と有職読みで呼ぶとか。

永禄年間初期における長慶の勢力圏は広大でした。
摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨に及んでいました。
そこに河内と大和も領国化して10カ国に増大し更に周辺国にも影響を与えました。

その支配力に相応しい三好長慶公の城郭を噛み締めて歩いてきました。



プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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