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美濃 御嵩小原城 🏯山中に完在する最前線の城の姿

美濃 御嵩小原城 (岐阜県可児郡御嵩町小原・西山)

今記事では前回の公約どおり、御嵩町の小原城を取り上げていきます。
お隣の加茂郡にも小原城(白川町)が存在しましすので御嵩小原城、と表題しました。

「かくも素晴らしい遺構が残っていたのか・・。」
それがこの小原城に抱いた第一印象でした。

前回の御嵩城は可児川沿いの街道筋に備えられた場所に築城されました。
対して、ここ小原城は旧中山道に近い山中に構えられています。
静かな里山といったやや奥まった集落に位置しています。

minoobara1.jpgなだらかな山容は、城の存在雰囲気を感じ取れない山容です。

御嵩町の観光パンフなどには簡単な説明と位置案内はあるものの・・。
現地へ行ってみても案内標識などは一切ありません。
まずは目印となる白山神社からの登頂を試みます。

minoobara (34)
いきなりの石階段(汗)。白山神社参道を登っていきます( ̄^ ̄)ゞ。

minoobara (33) 
どこか懐かしい匂いと風景だったりします。(*´∀`人 ♪

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白山神社本殿に到着しました。

中南米の遺跡のような石組み様式にも感じられる見事な祭壇です。
神を崇めるそのルーツにはやはり共通点が感じられるものですね。
ちょっとおススメできませんが左脇からかすかな道を辿ってヤブ漕ぎ登っていきます。
(道はなくなる寸前状態・・)

minoobara (19)
尾根を進むと堀切がお出迎えです。

堀切は両端が竪堀となって尾根を分断しています。
城域に入ったな、と感じられるわかりやすい遺構です。
しかし、その奥にはさらに大きな堀切が待ち構えていました。

minoobara (18)どうやら二重堀切となって行く手を遮っているようです。(゚△゚;ノ)ノ

山頂方面側の切岸も鋭く、容易な登攀はできません。
後で歩き回って気付いたのですが、ほぼすべての尾根筋には堀切がありまして。
そして、それに連動するような曲輪、武者走りなどが確認できます。

minoobara (12)
途中で見られる腰曲輪、直下には竪堀もみられます。

さすがに手付かずのガサ山だけに撮った写真も訳わからず(笑)。
比較的わかりやすいかな、と思われる写真だけを掲載したいと思います。
まぁ、それが遺構を今現代まで残し伝えてきた理由ともいえますから。

むしろ感謝したいくらいです。
(正直、山中での竪堀群の写真は特にムズいです・・、自分の目で見るのが一番!)

minoobara (4)
主郭の本丸部と思われるピークに到達。

若干、手入れがされているようです。他所と比べると見通しがききます。
後世のと思われる石柱が2本立ち、ここが本丸部と思われます。

minoobara (27)
神武天皇遥拝所です。

1940年(昭和15年)は神武天皇が即位した皇紀2600年にあたる年でした。
日本国内で様々行事が行われ、11月10日には国をあげての大式典が執り行われました。
全国の神社はそれにあわせて神武天皇の陵墓である橿原神宮に向けて遥拝所を作りました。
これらが現在でも全国の多くの神社に残っていたりします。

・・豆知識でございます。( ^ω^ )

minoobara (24)
こちらの無銘の石碑は何を意味しているのでしょう?

・・城址を示す石標なんでしょうか(でた、危険な思い込み)
いずれにせよ、城山が戦前までは人々の出入りがあったことを示しています。

minoobara (7)
主郭南端部には櫓台と思われる一段高い空間があり・・、

minoobara (8)
さらに幅の広い土塁状の高まりで仕切られています。

この主郭部は見学しやすく、見下ろす形で全体の構造を把握できます。
派生した尾根や連絡する曲輪などをじっくりと調べていきます。
残念ながら眺望は木々で得られません、地形図で想像するしかないか・・。

minoobara (15)主郭部と腰曲輪を分かつ、高くはっきりした切岸の様子です。

minoobara (16)
主郭部と尾根筋の間に備えた大竪堀。

本来、断ち切るべき尾根を掘り切らず、側斜面に竪堀を備えます。
広場を設け、明かに城の尾根筋との連絡を容易にする意図がみられます。
それはこの城が背後からの攻撃を想定していない縄張りである、ともいえます。

図面の方がわかりやすいと思いまして掲載します。

m-obaranbz.jpg

攻撃が想定される南西筋と南東筋には周到なハノ字形竪堀と曲輪の連動配置がみられます。
図面に落とすと実に規格的な配置であるように思えます。
こういった近隣には見られない遺構は外部の勢力による築城を想像させます。

では具体的にはどの勢力なのか?興味深々です。
地元の伝えや近年の研究からは甲斐武田氏系の前線城砦ではないか、とみられています。
岩村や苗木を手中にした武田軍が織田軍の備えに対して仕寄った城、という見方です。

城主には小倉織部の名が伝わっています。

小規模ながら張り巡らされた防御遺構が武田氏系と類似している点。
御嵩城方面には特に周到なのに対し、兵站確保口(木曽川方面)にはそれが見当たらない。
小倉織部なる人物が在地性不詳であること。

こういった理由も武田氏築城説を後押しするものです。

もしそれが事実だとしたなら・・。
武田氏先遣隊は織田氏の部将、森氏の兼山城のすぐ間近にまで迫っていたことになります。
・・となると東美濃は、岩村城方面からとの2方面からの侵攻を受けていた可能性も・・。

なんだか信長公の背中がゾクゾクしていた様子が伝わってきます。
この城が武田軍の東濃侵攻の足取り・作戦目標を明らかににする貴重な遺構なのか?
そう考えると皆さんもゾクゾクしてくるのではないでしょうか。

minoobara (35)小原城を御嵩方面の南西側から見ますと・・。

冒頭の写真、のどかな集落の里山姿とは違います。

最前線の城砦としての重々しい雰囲気をまとった山容に見えてきます。
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渡辺様へ

渡辺様、はじめまして。貴重なコメントをいただきありがとうございます。
小原城の近くにお住まいなのですね、さすがに地元の方のご意見とあってとても参考になる内容ですね。大変参考になり、今後の研究に是非おとも参考にさせていただきたく思います。

私はもっぱら残された城址の地表面から伝わる感触を大切にしたい、と考えている者です。従いまして史料的な面からアプローチすることが大変苦手でございます。
ですのでこうした内容のご教示を頂けることに大変感謝をいたしたいところであります。と同時にそこまで調べ、見解を述べられる熱意にやはり尊敬の念を感じます。
 さて、その御嵩小原城でが白山神社での小倉家の棟札、後年の小倉家の屋敷の存在などから小原城が小倉家と関係があるということは間違いないと思っております。
私は図書館にて町史等を基礎にした検証をしておりますが、江戸期に編纂された書物も参考にしてはおります。東濃戦国史は史料によっては地域ごとに多少の内容が違っていたり信憑性に欠けるものがあったりで、全面的に信用できるものが希少であるのが考察のムズカシイところですね。
渡辺様はこうした複雑な史料や書物などから整理と検証を重ねられて考えを述べられて見えます。私のほうからは特に述べるようなことはないほどです。

私が不思議だな、と思うのは小倉氏が築城したとするなら、現在に見られるような縄張りをどこで誰から指南されたか、ということです。在地の土豪が独力で普請できる縄張りでないことは明らかであり他勢力の後ろ盾の下に築城されたのではないか?と見るほうが自然だからです。
記事では武田氏系では?とは書きましたが小倉氏が元々からの在地勢力であるならばどこかのタイミングで武田氏による圧迫を受けたのではないかと思っています。

小原城には尾根を断ち切るような堀切が存在しません。御嵩方面の備えの厳重さに対して木曽川方面はほぼ無警戒な状態です。このプランはある意味この城の役割を表しているように思えてなりません。具体的には木曽川方面からの兵站確保を優先した形です。確かに武田氏は元亀3年以来の東濃侵攻において岩村・明知を拠点として確保し、屏風山山系一帯までを制していました。

しかし武田氏が苗木遠山氏を降した時点で木曾川水系からの侵攻も画策したとみてもなんら不思議ではありません。むしろ織田軍による小里城と神箆城で押さえられたルートに風穴をあけることができます。
もちろんこういった隠密行動は史料からでは確認することはできませんが、苗木→久須見→天王山と現在の中山道沿いに伝わる武田氏系城郭を伝えばほぼ最短距離で森氏の兼山城に圧力を加えることが可能で、織田は神箆~小里の防衛ラインを放棄せざるを得ない状況にも持ち込めます。武田は騎馬隊だけではなく山岳戦のプロ集団だということは三河侵攻プランで立証されています。特に高遠・伊那谷からの作戦方面司令官である秋山ならば軍を分散させてでも選択肢を広げる意味で実行する価値ある作戦だと思うでしょう、ま、これは私の愚見でございますが(笑)。

史料からの読み解きには限界がありますがそこに縄張り研究がミックスされることで新たな展開が広がれば歴史を解き明かす一つのヒントになりうるかもしれませんね。

私などの研究は皆さまのそれと比べるととても足元にも及びません、しかフィールドから得られるメッセージに耳を傾けることなしに史実を前に進めることだけは控えねば、と日々勉強の毎日です。

今日こうして渡辺様からコメントを頂けたことに感謝し、今後の励みとさせていただきたいと思います。改めて渡辺様からのご教示に深く御礼を申し上げます。
最後は私の愚見に付き合っていただき誠に申し訳ございませんでした。
また何らかの形で意見を述べあえる機会があることを願っています。
本当にご丁寧な説明をいただきましてありがとうございました!

小原城の築城主は小倉家

 小原城の近隣に住む者です。地元の歴史に興味を持ち学習を始めたばかりです。貴方の小原城の説明に共感しました。私が調べたり考えたりしたことをお知らせします。参考にしていただければ幸いです。
 小原城は、麓にある居館と白山神社とを一体として造られた城だと思われます。その白山神社には、大永4年(1524)の以来寛政5年(1793)まで5回小倉家の棟札が残っています。また麓の居館は江戸時代には小倉屋敷として小倉家が居住していました。以上の理由から、私は、小原城は小倉家が築城したと考えています。城主に小倉織部が考えられます。それは「濃州小里記」に、天文21年(1552)に御嵩城主小栗氏は土岐高山城を攻めるも、甲州から援護に駆けつけた平井頼母に阻まれ、武田の大軍が攻め寄せてくるという報に、武田信玄の幕下に入ったと記されているからです。その際小倉織部も小栗氏と共に信玄幕下に入ったと記されています。御嵩城主小栗氏と行動を共にすると考えられるのは小原城主以外には考えられないので、小倉織部が小原城主であったと考えられています。甲州から派遣された平井頼母はそのまま高山城主になりました。
 しかし、御嵩城の小栗氏は信玄幕下に入りながらも、美濃の斎藤道三あるいはその後の織田信長とも連絡を取っていたようです。それを感づいた平井頼母は御嵩城の動向を探る必要に迫られました。そこで、小原城に目をつけ、城主の小倉織部を追い出し、小原城を出城として使ったのではないかと思われます。それが、狼煙台(見晴台)、三日月堀という武田特有の城造りが小原城に残っている理由だと思われます。
  織田信長が東美濃に進出してくるのは、永禄8年(1565)に中美濃を制覇し美濃金山城に森可成を置いた頃からです。これ以後、信長の東美濃諸将への切り崩しが始まり、元亀年間までに、東美濃の諸将は信長の配下に入ったものと思われます。そして、元亀3年(1572)に、信玄が遠江の徳川家康と三方ヶ原の合戦に赴く時、途中で家臣の秋山虎繁が東美濃の岩村・明知へ侵入してきます。この時織田軍と武田軍が交戦します。これが上村合戦ですが、この時東美濃の遠山氏、小里氏とともに織田側として平井光行(頼母の父)が参戦し、討死しています。つまり、元亀年間までには東美濃は信長の支配下に入っており、土岐高山城の平井氏も信玄の家臣として高山城主になったのに、どこかの時点で信長の配下に入ったのです。
 従って、小原城は平井頼母の出城としての必要はなくなり、廃城にされました。
その後、小倉家が居館に戻りますが、この時小倉織部は武士を捨て農民として小原に住みつき、その子孫は寛政年間まで小原に居住します。
 小倉織部はこのころ村人とともにキリシタンに入信したと思われます。小原白山神社の拝殿に十字架が置かれていたり、小原観音堂に祀られていた十一面観音像を入れる厨子の内側に「天主之拝」と記された墨書が残っていることから、村ごとキリシタンであったと考えられています。
 小原城が平井頼母によって築城されたという説が散見されますが、私は上に述べた理由から、小原城は小倉家によって造られた城であり、最後の城主は小倉織部であったと考えています。
 ちなみに、武田信玄と織田信長の東美濃をめぐる鬩ぎ合いですが、弘治年間に武田信玄の家臣平井頼母が土岐高山城に入って来たころには、東美濃は武田の配下にあったと言えます。その後、上述したように信長の支配が徐々に東美濃に及び、元亀年間までには東美濃は完全に信長の配下にあったといえます。それ以後武田勢が東美濃へ侵入してくるのは、元亀3年の上村合戦の時と、武田勝頼が天正2年に侵入してきた時だけです。その時武田軍は岩村・明知まで侵入したのみで、それ以西には侵入していません。それは明知の西にある小里城、鶴ヶ城(高野城)、土岐高山城が武田軍に落ちた記録がないので、確かだといえます。
 武田軍に焼かれたという文書が残っている寺があるようですが、そこに記されている年代が疑わしいものが多く、弘治年間の武田軍侵入と混乱している文書や、寺の権威付けのために武田信玄の名を使っているとしか思えない文書もあるようです。これが地元の歴史愛好家を惑わせてきました。それを解き明かすの
が私達の責務であると考えています。
 以上小原城について、私の拙い考えを書きました。貴方のお考えをお聞かせ願えると嬉しいです。 
プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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