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淡路 志知城 🏯意外な人物たちが関わっている淡路の平城

淡路 志知城 (兵庫県南あわじ市志知松本)

sitisiro (5)湿地帯に築かれ、水堀に囲まれた志知城。

志知城は鎌倉時代に菅和泉守道忠によって築かれたと伝わります。
菅氏は三原郡野口村を拠点としていたといわれ、あるいは野口氏を称しています。
三好長慶の五弟、冬長が野口氏の養子に入って家督を継承しました。

野口冬長は淡路を拠点に本州と四国の間を取り持ちする役割を与えられたといいいます。
しかし、天文22年(1553年)に兄・三好義賢(実休)が主君・細川持隆をクーデターで殺害、
持隆家臣達との間で生じた鑓場の合戦において、戦死したといわれます。

冬長に関する事績は非常に乏しく、三好家では「十河一存が末弟」としているのが常です。
可哀そうに冬長はその存在自体がなかったものとして扱われていることが多々あります。
優れた兄たちに隠れてしまいがちですが、その役割は重要だったのでしょう。

草葉の陰で亡くなった冬長に一筋の光が当たることを祈って記しました。

sitisiro (4)西方の内掘は鬱蒼としていますが、かなりの幅の水堀です。

志知城は複郭の平城であったようです。
現在内堀に囲まれた本丸はが二ノ丸とも呼ばれていたようです。
西側には外堀跡があり、北と南にも堀跡と見られる跡があります。

sitisiro (1)城址石碑は2つありますが、こちら新しい方です。

天正9年(1581)、信長軍の羽柴秀吉らに志知城主・菅長宗は降伏・開城しました。
秀吉は家臣の黒田官兵衛孝高を志知城に置いて守らせています。
長宗我部氏の阿波侵攻の動きに対し、官兵衛はここで戦略を巡らしたようです。

sitisiro (2)

sitisiro (3)
本丸は一部開けているものの周囲は密集した竹林になっています。

そして天正13年(1585)、加藤嘉明が一万五千石を領して志知城に入城します。
志知城は嘉明によって今日の姿に改修されと考えられています。
文禄4年(1595年)加藤嘉明は六万石に加増され、伊予国松前、松山へと飛躍していきます。

嘉明は志知城南側の蜷瀬(になせ)という場所で軍船を建造したそうです。
城は内陸部で海からは離れていますが近くの大日川を利用することで、
水軍の基地拠点となった「水城」であったのでは、と想像しました。

然るべき人物に任される城、というのは理由があるものです。
冬長、官兵衛、嘉明らに託された責任、役割、そんな思いを感じました。
後世大規模城郭の縮小版といった雰囲気をもった貴重な淡路の平城、志知城でした。



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 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来3年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

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