三河 畔田城 🏯畔田氏の太平洋に面した断崖上の城
三河 畔田城 (愛知県豊橋市城下町)
お盆帰省、奥方の実家でのんびりしてりゃいいものを・・。
体が欲する城めぐり、抑えきれないこの衝動は制御不可能です。
今回は三河最南端部での遺構が残る城、畔田城(くろだじょう)を見学しました。
ところで自分、小学生時代の夏休みといえば・・。
早朝にラジオ体操、午前中はプール、お昼からは昆虫採集、
ちょいと昼寝をしたら、夕方からは自由研究、プラモ作成!・・でしたでしょうか(^_^;)。
皆さんの夏休みはいかがでしたでしょうか?
(小学生からの生活スタイルにあまり変化がない自分です・・)
かつては城址入り口にこのような標柱が建てられていましたが・・。
久しぶりに行ってみたら無くなってました・・。
あれだけ「防腐剤を塗っておいてね」、と思っていたのに・・。(思っていただけです)
国道42号線の城下交差点の信号を南に入るとスグの場所です。
(文末に地図をお付けします)
手作り感ある木橋?をニンマリしながら渡ってみます(* ´ = ` *)。
城跡として地元の方々による整備がなされていました。
木橋の強度はやや不安な面もありますが(笑)、なかなかの出来栄えだと思います。
逆にここが見所、となりましょうか。
また国道42号沿いの「城下老人憩の家」にも是非寄ってみるとよいです。
公民館風の玄関口では畔田城の写真や縄張り図、年表等が無料で見学できます。
出入り自由なので気楽に予習復習ができますよ。
(個人所有?かもしれないので写真のアップは控えさせていただきます)
本丸部分は円形状の平坦地となっています。
本丸からは木々に阻まれて見えませんが・・。
直下には広大な太平洋遠州灘が広がる、崖の上のポニョ、・・じゃない、シロなんです。
「ポニョ、城、好きー」
・・ごめんなさい。
一刻も早い防腐剤対策を・・。すでに根の部分が・・(笑)。
東観音寺(豊橋市小松原町)の古記録によれば・・。
この寺の寛正二年(1461)の棟札には畔田遠江守とその弟・畔田修理亮の名が記されています。
畔田氏という豪族が周辺一帯を保持していたようです。
他にも畔田氏に関連する城址が市内周辺に三ヵ所ほど伝えられています。
草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(豊橋市畑ヶ田町)、中瀬古館(豊橋市野依町)です。
畔田氏は後に、今川氏、或いは田原城の戸田氏の支配下に属したと思われます。
折角のカッコいい城址碑、ぼ、防腐剤を~!(;д;)
ところで・・とても信じ難い話なのですが・・。
昔は村の集落が城の南側、つまり太平洋側にあった、と伝わります。
しかし、津波による被害、その後の波による浸食などで、平地部は消滅の危機へ。
村人たちは次第に高台へ移り住み、今では城址本丸が最も海に近くなったのだそうです。
「城下」の地名はここからきているそうで、現在は一面の砂浜となり、面影はありません・・。
ホントに信じられないのですが・。
奥方のご両親らも口を揃えて言います。
「浜が年々だんだん狭くなり、海が近づいてきている」・・と。
異常気象による海面上昇に南海トラフ巨大地震の予感・・。
畔田城はその危機を伝え続けている貴重な城址なのかもしれません。
本丸からは周囲の雑木林に阻まれて太平洋が見えませんが、海岸に下りることができます。
ちょっと趣向をこらして夕日なんぞを見に行ってみました。
かつての城下町はこの砂浜の下、だなんて・・。
美しい夕陽です。夕陽ははいつまでも変わらないといいです・・。
何かを伝えているような夕陽に思えて仕方がない、夕映えの畔田城にて。
Ⓢ付近に駐車場と城址碑あり
Ⓖが畔田城主郭部
お盆帰省、奥方の実家でのんびりしてりゃいいものを・・。
体が欲する城めぐり、抑えきれないこの衝動は制御不可能です。
今回は三河最南端部での遺構が残る城、畔田城(くろだじょう)を見学しました。
ところで自分、小学生時代の夏休みといえば・・。
早朝にラジオ体操、午前中はプール、お昼からは昆虫採集、
ちょいと昼寝をしたら、夕方からは自由研究、プラモ作成!・・でしたでしょうか(^_^;)。
皆さんの夏休みはいかがでしたでしょうか?
(小学生からの生活スタイルにあまり変化がない自分です・・)
かつては城址入り口にこのような標柱が建てられていましたが・・。
久しぶりに行ってみたら無くなってました・・。
あれだけ「防腐剤を塗っておいてね」、と思っていたのに・・。(思っていただけです)
国道42号線の城下交差点の信号を南に入るとスグの場所です。
(文末に地図をお付けします)
手作り感ある木橋?をニンマリしながら渡ってみます(* ´ = ` *)。
城跡として地元の方々による整備がなされていました。
木橋の強度はやや不安な面もありますが(笑)、なかなかの出来栄えだと思います。
逆にここが見所、となりましょうか。
また国道42号沿いの「城下老人憩の家」にも是非寄ってみるとよいです。
公民館風の玄関口では畔田城の写真や縄張り図、年表等が無料で見学できます。
出入り自由なので気楽に予習復習ができますよ。
(個人所有?かもしれないので写真のアップは控えさせていただきます)
本丸部分は円形状の平坦地となっています。
本丸からは木々に阻まれて見えませんが・・。
直下には広大な太平洋遠州灘が広がる、崖の上のポニョ、・・じゃない、シロなんです。
「ポニョ、城、好きー」
・・ごめんなさい。
一刻も早い防腐剤対策を・・。すでに根の部分が・・(笑)。
東観音寺(豊橋市小松原町)の古記録によれば・・。
この寺の寛正二年(1461)の棟札には畔田遠江守とその弟・畔田修理亮の名が記されています。
畔田氏という豪族が周辺一帯を保持していたようです。
他にも畔田氏に関連する城址が市内周辺に三ヵ所ほど伝えられています。
草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(豊橋市畑ヶ田町)、中瀬古館(豊橋市野依町)です。
畔田氏は後に、今川氏、或いは田原城の戸田氏の支配下に属したと思われます。
折角のカッコいい城址碑、ぼ、防腐剤を~!(;д;)
ところで・・とても信じ難い話なのですが・・。
昔は村の集落が城の南側、つまり太平洋側にあった、と伝わります。
しかし、津波による被害、その後の波による浸食などで、平地部は消滅の危機へ。
村人たちは次第に高台へ移り住み、今では城址本丸が最も海に近くなったのだそうです。
「城下」の地名はここからきているそうで、現在は一面の砂浜となり、面影はありません・・。
ホントに信じられないのですが・。
奥方のご両親らも口を揃えて言います。
「浜が年々だんだん狭くなり、海が近づいてきている」・・と。
異常気象による海面上昇に南海トラフ巨大地震の予感・・。
畔田城はその危機を伝え続けている貴重な城址なのかもしれません。
本丸からは周囲の雑木林に阻まれて太平洋が見えませんが、海岸に下りることができます。
ちょっと趣向をこらして夕日なんぞを見に行ってみました。
かつての城下町はこの砂浜の下、だなんて・・。
美しい夕陽です。夕陽ははいつまでも変わらないといいです・・。
何かを伝えているような夕陽に思えて仕方がない、夕映えの畔田城にて。
Ⓢ付近に駐車場と城址碑あり
Ⓖが畔田城主郭部
スポンサーサイト