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小牧長久手の戦い 両軍、長久手方面への移動

小牧長久手合戦古戦場めぐり 
《その③ 両軍の長久手方面へ進軍編》
🎐久太郎 夏の自由研究🍉

前回の古戦場めぐりでは両軍の城砦構築地帯をめぐりました。
この合戦場面の光景を時系列で追っていく、という今回のミッション。
夏休みの宿題を追い込まれないとやれなかったあの頃を思い出します(汗)。

・・結構焦っています・・(-_-;)。頼む!、夏よ逃げないでくれ~♪。

両軍お互いに城砦塁を構築し、それ故に身動きがとれなくなった状態に陥ります。
この現状を打破しようとする動きが羽柴軍の中で発案されていました。
それが別動隊による三河侵攻作戦です。

羽柴軍の三河方面別動隊編成

天正12年4月4日
池田恒興は秀吉の本陣を訪れて三河方面への後方攪乱を献策します。
兵を三河方面に出せば織田徳川は小牧山城だけにしがみつくことができなくなるであろう・・と。
しかし秀吉は即答を避け、許可を渋ったという話もよく聞く話ですね。

天正12年4月5日
翌日、恒興は秀吉のもとを再度訪れ、舅・森長可とともに羽黒の雪辱を果たしたいと訴えます。
秀吉はついにこれを許可し、池田・森らを主とした三河西部へ向けた軍勢の編成を決断します。
この点では秀吉自身も同じ考えを抱き、池田・森らの打開的熱意を試したのでしょうか?

最終的には秀吉自身による発案を池田・森らの隊が実行するという形になります。

gakuden02 (1)
三河別動隊、敵から直視されない楽田城裏門から出発。
(この石碑の存在価値は大きいですね)

三河方面別動隊の長久手方面侵攻

天正12年4月6日・夜半(・・お、城の日か・・)
三河方面別動隊は三河中入り隊として3つの隊に分かれ、楽田城裏門より出発します。
僅かな日数での軍事決定に情報収集や準備調達は非常に拙速したものだったでしょう。
各隊の主な編組は以下の通りに構成されました。

第一隊:池田恒興(実質的総大将) - 兵6,000人
第二隊:森長可 - 兵3,000人
第三隊:堀秀政(軍監) - 兵3,000人
第四隊:三好信吉(秀次)(形式上総大将)- 兵8,000人

monokurui.jpg
楽田城から物狂坂(ものぐるいざか)を越して池之内・上末方面へ行軍。
(大県神社参道途中から小牧池之内へ抜ける峠道)

toka1 (1)
先導役を請け負ったのが主に上末城の落合氏ら。

toka1 (2)
別動隊の集結・編成が主に行われた柏井周辺の吉田城。

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庄内川手前にて駐留所を提供した上条城・吉田城らの諸氏。

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三河方面への渡河案内には大留城の村瀬氏らが相談に乗ります。

天正12年4月7日
羽柴勢先行隊は吉田城・上条城の周辺に到着します。
しかし池田・森隊はここで2日間もこの地に逗留します。
これは一体どういうことでしょうか?、・・例えば。

狭い夜道を2万5千人に近い兵が一通行軍するとどうなるでしょう?。
2列縦列だったとしても、その隊列だけで行軍距離は数十kmになるそうです。
ここで2泊もしている羽柴軍はおそらく後続隊の集結を待ってのことでしょうか。

マラソンスタートで最後尾のランナーがずっと遅れてスタート門を過ぎる感じです。
しかし、このような遅々とした行動は著しく秘匿性を欠いてしまったようです。
隠密行動であったはずの羽柴軍の動きは付近の住民によって家康方に通報されます。

・・当たり前ですよね。

羽柴軍の前進再会と織田徳川軍の行動開始

天正12年4月8日・午後~深夜
羽柴軍は3つのルートに分かれて渡河前進を再開しました。
3分割されたことでそれまでの移動速度は格段に速まりました。
池田・森隊は長久手方面へ、三好・堀隊は白山林方面へ展開します。

🏳羽柴軍の行軍と庄内川の渡河ルート🏳 (リンクできます)

三河方面先導役・落合氏:上末城⇒篠木・柏井方面へ案内

池田・森隊:大留城周辺⇒大日の渡し
堀隊:上条城周辺⇒野田の渡し
三好隊:吉田城周辺松河戸の渡し⇒龍泉寺城城下
※吉田城の記事、更新しました!

nodawatasi.jpg
羽柴軍軍監・堀久太郎秀政らが渡河したと伝わる庄内川・野田の渡し。
(現在の春日井市熊野町~名古屋市守山区吉根の吉根橋南あたり)

🏴織田徳川軍の小幡入城と羽柴軍追尾🏴 (リンクできます)

小牧山城⇒勝川の渡し⇒小幡城

徳川先行隊:丹羽氏次・水野忠重・榊原康政・大須賀康高ら-兵4,500人
織田徳川本隊:徳川家康・井伊直政らと信雄の主力-兵9,300人

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家康らが急行した小牧山~小幡城間の勝川の渡し。

「この渡しはなんという渡し名か?」

「かちがわにござります」
家康軍の道案内をした庄屋・長谷川甚助が家康の問いに答えます。
家康は「勝ち川」とは縁起がいい、と言って兜の緒を締め直したという逸話があります。

歩いて渡れる事から「徒歩(かち)川」と呼んでるだけなんですが・・、
とはさすがに長谷川さんも言えなかったでしょう・・。
それにしても家康公、合戦前にわざとらしい験担ぎをするものですね。
(関ケ原では「勝山」もありまっせ)

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駆けつけ会議が行われた小幡城。

夕方に小牧山を出発し、夜半小幡城に着陣。到着後、直ちに小幡城で軍議を行います。
軍議では兵力を二分して各個に敵を撃破することに決しました。
家康は自身の旗本と直属部隊だけを率いて戦場に急行しました。

天正12年4月9日・未明~早朝
徳川先行隊は敵将・三好信吉勢を背後から攻撃せんと小幡城を出発します。
次々ともたらされる羽柴軍の状況を分析しいよいよ徳川本隊も動きます。
羽柴方最先頭の池田隊はこのとき岩崎城外にさしかかろうとしていました。

いよいよ先端の火蓋は切られようとしています。

各城砦・庄内川渡し場は記事内のリンク先を参考にしてください。

次回は白山林の戦いへと続けたいと思います。
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 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
久太郎と申します。
「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
おかげさまで開設以来4年目を迎えることができました。

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースで好きなように走ってます。

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