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阿波 勝瑞城 🏯阿波三好氏の本拠点と三好長治の最期

阿波 勝瑞城 (徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地) <国指定史跡>
三好長治の旧蹟を訪ねて-
【海部川風流マラソンで訪れた阿波の城と史跡・その⑩】

徳島県で開催されたマラソン大会参加と城&史跡めぐりのお話しです。
阿波を代表する武将とそれにまつわる城を訪問した回顧録で綴っています。
振り返ればマラソンの傍ら随分といろいろな城址を回ったものです。

大会前後ということですので足に負担がかかる山城はまた次の機会。
そろそろ今回の記事でひとまず阿波ともお別れになります。
ラストは阿波を代表する城郭・勝瑞城館に立ち寄った訪問記です。

syouzui (2)周囲を水堀に囲まれた(一部消失)勝瑞城本丸。

勝瑞城は戦国時代、阿波国の政治、経済、文化の中心地たなった重要拠点です。
「天下の勝瑞」として名をなし中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄、
細川氏と三好氏の約240年の根拠地として歴史の舞台となりました。

とても雰囲気を味わえるので堀の周囲をゆっくりと歩いてみました。
水鳥たちがたくさんいて生き物の憩いの場となっているようです。
当時からの様子がよく残った風情ある景色が味わえました。

syouzui (13)

勝瑞城は旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置していました。
また東側には今切川、南側には湿地帯に接していたようです。
当時は湿地帯に囲まれ川幅も広く攻めにくい地形であったことでしょう。

内陸部にありながら水上交通にも便利で紀伊水道を隔てて畿内へ渡航できました。
城の構えは広大で守護の居館・政庁としての性格の強い城です。
暴れ川「四国三郎」の分支流を巧みに利用した城郭でした。

syouzui (5)勝瑞城の城址石碑と三好長治公一族菩提所の碑。

一部字が剥がれちゃってますがここでは一族代表が長治なんですね。
勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあります。
城跡は東西約80m、南北約60mの方形居館を成しています。

syouzui (8)
一部に土塁が現存しています。

ここは北東部の土塁ですが当時は全周にわたって土塁が廻っていました。
水堀を掘った際の土砂を盛り上げて付き固めた土塁だということです。
近年に行われた発掘調査によると、かなり大規模な土塁だったようです。

syouzui (7)
笹竹に覆われた土塁の上を歩いてみました。

発掘調査によると中富川の戦いの時に急造された普請だといわれます。
ここ本丸は詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されています。
三好長治・十河存保兄弟の頃の遺構ということになりますね。

つまり長宗我部氏の勝瑞城侵攻に対抗する砦だったと考えられています。

syouzui (15)見性寺境内には三好氏歴代当主の墓がおわします。

江戸時代中期に三好氏歴代の墓を一か所に移転してきたものです。
之長、元長、義賢、長治、三好氏代々の墓があります。(写真撮り忘れました)
ところで阿波三好家のその後を継いだ形の十河存保は否認されているのであろうか。
(阿波三好家の実質的な当主として活動したように見受けられるが・・)

syouzui (6)
勝瑞義家の碑。

・・これは最初正直よくわかりませんでした。で、調べました。
徳島藩の儒員で四国正学といわれた那波魯堂。
彼の撰になる勝瑞義家碑は町の参考資料に選定されています。

「よしいえ」ではなく、「ぎちょうひ」という文献の碑。・・ややこしいス。
三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を漢文で書き連ねたものだそうです。
(藍住町指定有形文化財)

続いて勝瑞城館を訪れてみました。

syouzui (14)発掘調査で判明してきた広大な勝瑞城館址の範囲。

勝瑞城の範囲・構造の詳しくは未だ明らかになっていません。
大まかな範囲が発掘調査で出土した生活用品などから推定されています。
特徴の一つに防御機能があまり発達していないことが挙げられます。

syouzui (10)
こちらは「勝瑞城館」の石碑。

syouzui (3)
発掘調査では縦横に大規模な濠が各所で発掘されました。

平成6年から始まった勝瑞城の発掘調査で南側にも大きな遺跡があることに。
当時は「長尾鉄工所」の敷地内でしたが、工事の協力を得て敷地は公有化されました。
敷地内の地下からは貴重な遺構・遺物が多く発見されたのです。

syouzui (12)
近年復元整備された礎石建物跡と枯山水庭園。

細川氏や三好氏による強大な軍事力・政治経済力の影響が甦ってきました。
大きな濠は軍事的なものというよりは治水のための機能も有していたようです。
城館の防御のための土塁が築かれることはなく敷地の盛土に使われたようです。

館では宴会や儀式など饗応ごとが盛んになされていたことを示します。
阿波では大きな戦乱が国内では天正期まで起こらなかったためでしょう。
勝瑞城館は比較的優雅な住居的城館だったのかもしれません。

syouzui (4)今もなお続く予定の勝瑞城館調査に期待したいです。


Ⓢは勝瑞城、Ⓖ一帯は勝瑞城館を示します。

三好長治終焉の地を訪ねて (徳島県板野郡松茂町豊岡長原)

さてここまでほんの一握りの阿波の城館と武将史跡を訪ねてきました。
が、それもそろそろおしまい、阿波の地ともしばしの別れとなりそうです。
でも最後にどうしても気になる人物が自分の頭に隅に・・。

その人物は三好長治です。

三好長治三好実休(義賢)の嫡男で父の戦死後に家督を継ぎました。
幼小で家督を継いだため篠原長房らの補佐を受けていました。
しかし讒言に惑わされたか元亀4年(1573)に長房を上桜城に攻め自刃に追いやってしまいます。

その後の長治は日夜酒宴にふけり政治と向き合わず家臣の信望も著しく衰えていきます。
天正5年(1577)に三好長治細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢に勝瑞城を追われます。
そして同年3月長宗我部元親の支援を受けた真之と荒田野で戦って敗北。

淡路を目前とした長原の地で自害して果てます。享年25歳でした。

mysnghr (1)
長原の地に伝わる三好長治終焉の地が今回のシメ。

長治の人物についてはいい話は一切伝わっていません。
いわゆる暴君、強権政治を敷いた狂君主としての逸話が多く残ります。
上記の上桜城攻めは最たる事例です。他にも・・。

讃岐の香川之景香西佳清ら連名にて実弟の十河存保に離反を警告する書状を送られます。
弟の存保からの諫言も無視し、長治は香川・香西両氏を攻めてしまいます。
この件で讃岐の国人衆からは完全に見限られてしまいます。

阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要したこともあります。
これも当然、国人や領民の支持を失い、その上他宗からの反感まで招きます。
これらの混乱は隣国・土佐国の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発しました。

やることなすこと自らを不利な状況に追いやるばかりでした・・。

mysnghr (4)「三好野の梢の雪と散る花を長き春(長治)とは人のいふらむ」(辞世句)

阿波三好家の家督を相続した千鶴丸こと後の長治はわずか10歳。
長治が当主となって以降、三好家としては分国法「新加制式」が制定されました。
永禄9年(1566)の室町幕府第14代将軍として足利義栄を擁立するなどの動きがありました。

しかしこれらの事績は基本的に篠原長房や三好三人衆ら重臣の主導で行なわれたものでしょう。
恐らく長治には発言権もなく蚊帳の外におかれていたのではないでしょうか。
傀儡化された当主であるとことに自身は気付いていたのでしょう。

mysnghr (2)
長治自刃の地、長原の海岸からは淡路と畿内が遠くに望めます。

偉大な三好家と偉大な父の後を託されるには若過ぎて重過ぎたかもしれません。
それでもなんとかして当主としての存在感を示さずにはいられなかった。
数々の暴挙はそんな長治と彼をとりまく環境との歪みから生まれたものなのでしょう。

うまく申せませんが、長治を「暴君主」と言い放つことはできません。

三好長治終焉の地でもって今回の久太郎の阿波の城+マラソンも閉じることになります。
駆け足で観て回った所ばかりなので内容の薄さは否めません。
でも阿波の戦国時代に触れて自分なりに感じた想いが沢山ありました。

素晴しい石垣と水堀を湛えた徳島城、沈みゆく夕日が綺麗だった日和佐城、
「四国の蓋」要衝・白地城、珍しい二重横堀の重清城、争奪の舞台となった脇城・・、
なかなかの存在感・四国の模擬天守、川島城、撫養城・・。

等々、まだまだ見学した城はありましたが、とりあえずここまでとします。
徳島県でお世話になった方々と数々の史跡には心から感謝いたします。
また機会がありましたら行きたいな・・、思いをよせてさようならです。

・・そして、コロナウィルスの脅威が早く終息することを願ってやみません。


㋹は三好長治終焉の地を示します。
豊岡神社の南、招魂社の松の根本に説明版があります。
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らんまるさんへ

らんまるさんへ

いつもありがとうございます。
他国者が阿波の城を語っちゃってますね~。
ステイ・ホームの期間は阿波の事を思い返して浸ってしまいました。

らんまるさん一押しの三好清海政康をはじめとする「三好三人衆」。
と簡単に言っても3人の名前をフルネームで言える人って案外少ないと思いますし、阿波の武将??誰がいたっけ??っていう方、これも結構あるあるなんじゃないかと思います。

しかもこの阿波三好家は紀伊水道を挟んで長慶惣領家とは半分独立した存在になりつつあったのでちょっと複雑です。陸続きの我々の地方では考えられない程の機動力と広い範囲での構想力をもった組織だったこことに驚きます。

今回は主に元から阿波にいた在地武将にスポットを当ててみました。
三好長治に関しては庇いだてするわけではありませんが、豊臣秀次や小早川秀秋のように本来デキる人物であったにも関わらずなんか見に見えないモノを恐れずっと苦悩していたように感じ得てなりませんでした。

らんまるさんのおっしゃる通り、戦国時代は敗者あっての歴史ですね。
それなのに敗者の言い分は何一つ残りません。寧ろ都合の悪いことばかりが残りがち。
誰も語らない武将を語ってみたいし、誰も語らない城を語っていきたいものですが語る相手がいないので(笑)、コメントを頂いたりすると無茶苦茶うれしいですよ。

しかしながらこの様子だとステイ・ホームの生活様式は今しばらく続きそうですね。私ももう以前のようにジョギングもできません、試しにマスクして走ってみたら1km地点で内側ベタベタになり走れたものではありません。以前のように全然楽しくないのです。
・・ということで私もプレステ4(信長の野望・大志)とAmazonprimeビデオにお世話になっている今日この頃です。・・だんだんダメ人間になっていく予感しかありません・・。

小笠原系の山城ツアーはいつになることやら・・、いっそ福島関所を強行突破してやろうかと思いつつも動かざる事山の如しで今は耐えなければなりません。

ブログ更新のネタも残り僅か・・。禁断のジョーカーを出すときは来るのか?
・・そんな切り札も持ち合わせてはございません・・。・・しょぼん・・。

いつか四国に上陸するぞ

おお、しっかり学習されておりますなあ~。あたしゃ地元で精一杯(笑)

三好三人衆と聞くと、どうしても真田十勇士の三好清海入道を連装(武装じゃない)連想してしまい、知識の無さに打ちひしがれております。
もっとも、三好入道のモデルは三好三人衆の三好政康と言われておりますが、なんで真田と結びつけられたのかは知りません・・(汗)

四国と畿内はかなり密接だったんだと貴殿の記事を読んで改めて思いました。三好三人衆と松永剛太郎秀久の担いだ義栄さんが一度も京都御所に入れなかった将軍で僅か半年のお勤めで雇い止めになるなんて悲しすぎる・・・その後の死亡原因も悲惨過ぎる。

三人寄れば文殊の知恵と申しても、利益相反事項が発生するとお互いの都合の良い解釈に走るのは世の常ですね。
長治さんも自我が芽生えたころには傀儡当主の呪縛と戦い自暴自棄になっていったのでしょうか。自己の存在を示す業績や戦績に焦ったのでしょうね。

戦国時代はまさしく敗者の歴史。願い叶わず儚く散ったマイナーな数多くの戦国武将に思いを馳せるのは、初夏のStay Homeならでは。

いつもながらの要点をまとめた記事には感心感心。
それにしても、コロナ騒ぎによる外出規制の反動により、野山を徘徊出来ない為かカロリー消費が進まず、地球の重力に逆らえない体重は増加傾向・・ヤバイでしょ(笑)

そうそう、小笠原系の山城ツアー、関所が撤廃されましたらお出掛けください。提燈持ちぐらいは出来ますよ。

しんこうさんへ

しんこうさん、いつもありがとうございます。
阿波シリーズお粗末様でした。(笑)
お恥ずかしい内容なのにありがとうございます。
三好長治のところまでも読んでいただいたことに感謝いたします。

3日間の阿波国滞在でしたがフルマラソン走ってよくぞまぁ、ここまで見学できたものだと我ながら城バカぶりに呆れるくらいです。

なんせ私は通りすがりの城址訪問者。
なので上っ面だけの訪問記になっていますが、それでも自分なりに戦国阿波を代表する城に足を運べたことに充実感を感じています。

ステイホームの期間がなかったら多分記事にはしていなかったことでしょう。

さて三好長治ですね、彼のようなタイプは片腕的存在のブレーンがいたならきっとその果断力がうまく噛み合い剛腕を発揮したかもしれません、きっといろんな足枷せがあったせいで、誰にも頼れず一人でもがき苦しんだんじゃないかな・・なんて思うのです。世渡り上手な武将よりもむしろ人間らしいなって思うのです。

阿波の城めぐりでは城の遺構云々よりは城を通してそこに携わった武将や人物に会いに行った、というニュアンスのほうがしっくりきますね。同じ目線に立ってみることで何かしら共感できるものもあるものです。皆一生懸命生きた先人ばかり。そこに賢人も愚人もありません。そしていろんなことを教わります、考えます、学びます。

肥前ではどんな城址と人物が待っていてくれるのでしょう。今から楽しみです。
マラソン大会は中止になるかもしれませんがそれでも状況が許せば給付金片手に行きますからね!(笑)

No title

久太郎さん

こんにちは、毎度おじゃましております。
阿波シリーズ、お疲れ様でした。また、ありがとうございました。
見応えありましたね。
阿波の国のお城は残念ながら訪城したことがなくて、まったく未開の地でしたので、興味深く拝見させて頂きました。

長治の短くも激動の人生は僕も興味を持ちました。三好家の跡取りでなければ、もっと違う人生はあったんだろうなぁと、この時代の武家の人々は思った以上に大変だったのだろうと思います。まぁ僕はムリムリ(汗)

有能な篠原長房も、もっと知りたいと思いましたし、上桜城の戦いの地、上桜城へもぜひとも登城したいと思いました。

では、また楽しみにしております♪




プロフィール

 久太郎 (Q-tarou)

Author: 久太郎 (Q-tarou)
ようこそいらっしゃいました。
   久太郎と申します。
   「城跡が好き」
ただそれでけでブログを立ち上げている城好き若輩者です。
皆様のおかげで開設以来5年目を迎えることができました。
(2016年4月6日開設)

地元の岐阜県内美濃地方の城址を中心に自分なりの想いを込めてじっくりと巡ってまいります。たまに遠征なんかにも出かけます。

時に「ゆるく」時に「鋭く」五体と五感をフル回転。城址での様々な出会いと独自の感覚を大切にしてつづっていきたいと思います。

また城址付近のダムや棚田、名水といった気持ちを揺さぶられる箇所にも寄り道していきます・・。
趣味のマラソンも自分のペースを大切にして走ってます。

どうかご笑覧くださいませ。

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